ふと、悟ってしまったのだ。
一生をかけても、自分の理想が世界に届くことはないだろう、と。
そうしたらどっと疲れてしまった。言葉でも行為でも届かないのだとしたら、愚かな人間に何を言えばいい?
休んでもいいのではないか、という気分になってしまって。
せめて人間の間違いが満ちていない、誰もいない森で眠りたくなって。
見上げるのは空と、木の葉と、小鳥。正しいものたち。
それらに緩やかに意識が押し潰されていく、最後の刹那──見えたのだ。
樹上からこちらを見下ろしてくる、耳の尖った妖精のような少女が。
最後の眠りに求めたのは、ヒトがいない世界であるがゆえの落ち着き。だからその時点で願いは狂わされているはずだった。なのに不思議と彼女の存在だけは、視界の中、調和していて。
それが正しい存在であることが、証明されていた。
どれだけ時間が経ったのか。声が聞こえてきた。
「貴方は、何ですか。何をしようとしているのですか」
もう使うことはないだろうと思っていた喉で、苦労して、答える。
「──さて。何をしているのだろう。正直に言えば、自分でも、はっきりとはわからない。最終的には……土に還る、だけだろうがね」
「……還りたいのですか?」
「間違っているものを正せないのに、疲れた。それも間違っている。間違ったものは消えても誰も文句は言わない」
答えてから、ふ、と自らの過ちに気付いた。
正しくないものが消えたとしても、状況が良くなるとは限らない。
そうだ。眼前に見えている今だからこそわかった。
間違っているものを、正しくはできず。別の正しいものが目の前に現れたのなら。
席を譲るべきなのだ。
そうしなくては、空いた席にまた間違ったものが座るだけだ。世界は愚かに堂々巡りする。痛みも罰もなく。
少女に向けて、届かぬ手を伸ばす。
二度と目覚めぬ眠りに落ちる前に、伝えたくて。
「世界は……君たちのようなものに、託されるべきなんだ」
だから、捧げる。
全てを。
自分の全てを。
今の、間違っている世界の──全てを。
それをどんな言葉で伝えたのかは覚えていない。あるいは言葉では伝えられなかったのかもしれない。けれど伝わったのは確かだ。
最期の記憶。
「貴方ならば、いいかもしれません」
少女は、どこか安堵したように笑っていた。
「この地にエルフの森を育むための、最初の礎になってくれますか?」
そうして。
彼はエルフの土となる。
久瀬千紗人は正しい彼女と合一し、今、正しき剣を振るっている。
珍しく高揚があった。
それは初めて彼女と出会ったときと同じような。答えに近付いているのだという、高揚だ。
石と土の巨人と化した身体は新鮮ではあるものの、不思議と不慣れな感覚はない。理屈も何もなく、ただ意志のみで動いている。それは都合が良かった。ただ想いを曲げさえしなければ、この新しい肉体も自分を裏切りはしない。
両手で握った輝石の剣を振るう。肉体が学んでいた剣道とRVのEFメイス技法をフレキシブルに応用し、新たに理解し、反映させる。あるいはセリアメア・ピナイステリというエルフが会得している細剣術のフィードバックもあるのかもしれない。今や自分というものの奥底で、二人は分かちがたく繫がっているのだ。
不吉で歪な血の剣と打ち合う衝撃が、手に重く響く。身体を掠めた切っ先の鋭さが、意識を鮮烈に引き攣らせる。
即ち、痛み。
それはまるで罪を罰する打擲のよう。
もっと。もっとだ。
罪深き人間という種族には、痛みがなくてはならない──
身に与えられる痛みは、全て、人間という愚かな種族への罰。
故に久瀬千紗人は怯まない。
これは、人間から、エルフという正しい種族に向けての。
席を替わってもらうために払わねばならない、正当なる対価なのだから。
RVの駆操技術に関してだけ言えば、久瀬千紗人と朝倉練介の間には雲泥の差がある。
だが今二人が操っているのはRVではなかった。それを元にした何かだった。そこにこそ練介が太刀打ちできる要因がある。
(慣れてるのは……俺のほうだろ!)
鋼樹の騎士の肉体の隅々まで神経を行き渡らせ、コンマ一秒でも早く、僅か1ミリでも正確に、自らの想定通りの動きをさせる。それこそが久瀬を凌駕する唯一の方法だ。
今やシーナと練介は血という概念の支配者だ。これまでの歴史上、最も血がなぞった物理的形状──すなわち剣という形を、血たち自身に思い出させた刃。それを振るっていく。
迎え撃つは久瀬が魔術で生み出した鉱石の剣。刀身自体が無数の鉱石の組み合わせで形成されていて、歪ではあるが、全体として見れば不思議にそれが一本の刃として成立している。
振るう。受けられる。振るわれる。受ける。振るう──動きの一つ一つを意識してなどいない。ある意味では忘我の境地で、自らの身体とシーナの意思に未来を託し、練介は騎士の役目を果たし続ける。
何合、何十合打ち合っただろうか。
それ自体が何かを証明している。
(く、そっ……!)
朝倉練介は、この新たな生き物になってもなお、久瀬という天才RV駆操者の地力を追い抜けないのだと。圧倒的な実力差は、慣熟度によって一時的に互角になっていただけ。そしてこの時間が長く続くにつれて──相手のほうも、慣れてくる。新しい自分というモノの操縦法を、より理解してくる。
久瀬の動きのギアが一段階上がったように思えた。回転率。速度。正確性。練介も食らいつく。防戦一方では押し切られるだけ。手を出せ。苦しくても、僅かな隙を狙って、攻めを途絶えさせるな──!
「うおおおおお!」
「練介! 剣が──」
耐えに耐えて見出した一縷の隙に、練介が渾身の一撃を繰り出すのと。
シーナが目を細めて呟くのは、同時。
「砕けるぞ……!」
先に限界を迎えたのは、練介ではなく得物のほうだった。液体である血液を概念的に研いで作った刃と、鉱物として硬く結びついた刃との差か。
赤の刃が刀身の中途で折れ、上方に弾け飛ぶ。振り切られていた鉱石の剣が手首の捻りで返され、瞬時に逆方向から奔る。守るものを失った練介に襲い来る。身を退いて避けながら、咄嗟に左腕を掲げた。切断される。だがその僅かな障害物のおかげで、致命的な一撃を胴体に食らうことだけは避けられた。
ならば、予定通りに、砕けた刃を使っての反撃だ。
「《血の精霊に命ずる/朱傘より降る雨垂で冒せ》!」
耐久性はともかく、強度や大きさはほぼ互角であった剣。だが相手の剣と明確に違う部分があった。そもそもが剣ではないということだ。
それは、血だ。あくまでも血なのだ。
折れ飛んだ剣の半分が上に飛んでいる。そのようにしたので飛んでいる。狙い通りに久瀬のRVの直上に至ったところで魔術の効果が発動。
刃の形を失い、血の筋として散る。海月の触手のように無数に垂れ、久瀬のRVに触れるや否や装甲の隙間に潜り込んでいく。それは元の血液の自由度を持ちながら、いつでも針のような鋭さに変じることのできる、生きた粘菌のようなものだ。スライムのような。
(────)
彼女の顔を思い浮かべた。そして無理矢理に忘れた。今は。
数多のルートを辿り、装甲の隙間から、血液の暗殺者たちはその手を胴体席の内部に伸ばしていく。シーナがにやりと唇を曲げたのがわかった。
「届いたぜ」
物理的な埋伏の毒だ。単純な武器の強さや戦闘力では負けても、勝敗はそれだけでは決まらない。器用さや小細工で決めても、ダークエルフは一向に構わないのだ。
しかし、僅かに呻いて動きを止めていた久瀬は。
どこか嘆息するように、肩を揺らした。
「これが奥の手か? 朝倉練介」
「児戯じみた魔術です」
「はん、気付いてねえのかバーカ。もうすぐテメェ本体に届くぜ、クソエルフ!」
「いいえ。決して届きません。我がエルフの森の土は、汚らわしい血すら飲み込む」
「なに……?」
練介は不可解な手応えに気付いた。RVの機械機構の隙間に潜り込んだ血液たちの動きが、どんどん鈍くなってくる。
「この剣を見て気付かないのか。石は土だ。鉱物は土だ。すなわち──このRVというものを形成する素材は、全てが土だとも言える」
息を吞む。久瀬のRVの装甲、その一部分が蠢いているように見えた。いや、実際に蠢いていた。金属装甲が、熱と加工によって変性させられた白銀色を失い、茶色の土へ。おそらくは血液の潜り込んだ内部の機械部分もそうなっているのだろう。胴体席を包むように、周囲の金属が全てあの《土》に変じているのだとすれば──暗殺の血たちが全て絡め取られたということも、ありうる。
久瀬のRVで主に見える土の部分は、今までは切断された左腕が主だった。それ以外の部分にも勿論見えてはいたが、このように……RVとしての意味を失わぬまま、素材の全てを置き換えられるほどの構成力を持っているとは。
予想外の現象に意識を揺らしてしまったその一瞬の隙に、久瀬は自らの装甲の一部を剝ぎ、それを投げつけてきた。それもまた予想外だ。咄嗟に残っていた右腕で払う──だがその瞬間、その装甲は装甲ではなく、《土》に変じた。硬さのない粒子の集合体を弾くことは不可能。右腕が触れた箇所にまとわりつき、しかしその後に固化する。体積以上の重みがずしりと練介の腕に圧しかかった。これは土の重りであり、手枷だ。
「く、そっ……!」
血の粘菌を放つために片腕を犠牲にし、今また片腕に重みが加えられた。バランスの崩れた練介に、久瀬が素早く踏み込んでくる。大きく回避しようとするが、突き出された鉱石の剣は練介の太股部分を掠めた。剣の一部が転じて移ったか、そこにも土の枷が発生──本来あるべきではない質量に、下半身が上手く回らない。転倒してしまう。
「終わりだ。同じような騎体状況であっても、自由度においては我々が上だったようだな」
「は? ふざけんな、マジふざけんな」
シーナが不機嫌に呻く。
久瀬が剣を振り上げる。
避けることは、おそらく、できない。
「自由さでダークエルフがエルフに負けてたまるかよ。だから負けねえ。負けてやんねえ──」
不機嫌に呻くだけでは終わらないのがシーナだ。彼女は犬歯を見せて獰猛に笑う。
その思いは練介にも届いている。
地面に転倒し、素早い動きはできない。剣はない。土の手枷は重く、再び剣を生み出したとしてもまともに振るえない。久瀬たちを斬り倒すことは難しい。ならば、ならば。
──RVというものに慣れた自分たちには意識の外。異世界からの転生者であるシーナでなくては思いつけない、振るわなくてもいい武器が、すぐ近くにあった。
斬り倒すのではない。吹っ飛ばすのだ。
血の暗霊よ。操る血はここにある。機械の血がここにある。
それを使う道具も、ここにある。使い道を少しばかり変えるだけだ。
練介は重い腕を懸命に動かし、背中に回した。本来の関節の可動域からは外れていたが、知らない。機械構造を無視し、樹肉で関節を再構築しながら、手を届かせる。
自らの背中にある──EF補充機構。
この騎士の名が示す通りの、回転式拳銃に等しい構造を持った部品。
捥ぎ取った。腕と同じように、樹肉で新たに細々とした部分を作り替える。回転機構はそのままに、握る銃把を。命じる引金を。導く銃身を。弾丸は既にある。エネルギー流体のカートリッジ。それはRVにとっての血だ。自分たちが支配下における、凄まじいパワーを秘めた、血だ──!
腕で剣を振る必要などない。ただ指先だけで、事足りる。
「《血の精霊に命ずる/命の輝きたるを知り散れ》!」
引金を絞る。撃鉄が落ちる。
血の精霊と同化し、見たこともない赤い輝きを放つようになっていたEFのカートリッジが、赤の弾丸と化して凄まじい勢いで発射される。
久瀬が鉱石の剣でそれを受け止めた。だが純粋なるエネルギーはその硬度を凌駕。剣をへし折り、そのまま土鋼の巨人の中心に吸い込まれていき──
その内側で、力の全てを、弾けさせた。