
†
ラブホテルから逃げ出した直後のことだ。
屋上から屋上へ飛び移っていくのは、映画のアクションシーンの中に入り込んでしまったようだ。大それたことをしているという高揚感が気恥ずかしくもあり、しかしそれ以上に、疾駆の
そう──追っ手たちに周りを囲まれていても。懸命に足を動かして逃げている最中でも。
唯一の逆転の一手、失敗すれば全てが終わる特攻を仕掛けると決めた状況であっても。
その時間は、
きらきら輝く髪を散らし、ビルとビルの隙間を楽しそうに跳び越えながら、シーナは言う。
「なあなあ
「それを決めれるってことなんじゃないのか? 知らんけど」
「だよなー? そっかそっかー」
「つまり、シーナはどういう世界がいいんだ、って俺から聞こう」
「そりゃまあ……まずは気持ちいい森がいるよな。風がふぁーって吹いてきて、匂いがいいんだ。言うまでもなく一番高い木はあたしのもんだぞ。
「こないだキャンプした川にはちっこい
「任せとけって。普通に寝転がって気持ちいい草原とかもいるし……それから、そう、コメの生える畑も欲しいな。あれはいいモンだ」
「畑じゃなくて田んぼだけどまあ言いたいことはわかる」
「デザートに甘い果物が
ちらりと肩越しに見てきたので、
「タピオカミルクティー屋があるから」
「せいかーい」
へへー、とシーナは笑う。どこまでも前に広がる光の中。自分たちを進ませる風の中。
「売ってるのはダークエルフかな」
「かな? だろうな。そのために戦ってるんだから」
軽く耳を揺らして、
「……そーだな、あっちの世界じゃ見たこともなくて、想像すらしなかった、ダークエルフの町があるんだろうな。いや、国かもしんねー」
次のビルへ、ぴょーん。その足を止めさせるものは、ここにはない。
「ダークエルフだけしかいないのかどうかは知らねーけどさ。ずっと
「それはいいな」
「待てよ。となると?」
とん、と着地したシーナが足を止め、腰を
「わかってる。他にダークエルフが何人いてもさ」
彼女の隣に立って、
「俺の中では、シーナが一番最高のダークエルフだ。
照れたようにシーナがぷいと目を
「お前は……あたしのモンだ。
「マジ光栄だ」
立ち止まったから、隣に立ったから、手を握る。そうするのが自然だと思った。
一息。
渡り歩いてきたビルの群れも今いるところが最後で、眼前は大きく開けている。
空があった。
高く、広く、明るく、果てなき世界。
それを見つめながら、短く言葉を交わす。
「楽しみだな」
「ああ」
「勝つぜ、
「当然だろ」
先に見るのが、夢物語のようなものでも。
ただ暇潰しに語り合う将来の夢のような、現実味のない希望品でも。
確かなものは何もなくても。
暗闇の向こうから忍び寄るような予感の息遣いが、意識の奥底に隠れていても。
それでも──
欲しいもののために手を伸ばすのが、ダークエルフだ。
だから、行こう。
そうして
二人でいれば、負けるわけがないと。
そう思っていた。
──心の底から。
†
ふらつきながら立ちはだかったカリンが、再び
スライムを食べたという、つまりは委員長を食べたという、
信じられない。信じたくない。だがそれで説明はつくと理解してしまう。
セイレーンの食べ残しにしては強力すぎる活力。それをどこで補給したかの答え。
最終局面であると聞かされ、距離を取った彼女。最後に話した言葉は何だったろうか。何かを言うべきだったのか。自分は何を言いたかったのか。わからない。ただ、もう二度と彼女に言葉をかけられないと考えるのは、ひどく──体内の奥底から、力が抜けることだった。取り返しのつかない何かが自分の中から抜け出てしまったような、そんな気分だった。
「くそっ、たれがっ……」
シーナは地面の上で身じろぎし、ぎらぎらした視線を
「下品ですね、ダークエルフ。いえ、元からわかっていました。
「言うじゃねえか、クソエルフ。なら、お前らがどんだけ正しいっていうんだ……?」
「比較するまでもありません。それは
「そうだ。僕はエルフという種族の正しさを信じている。その正しさに願いをかけている。僕の願いは純粋だ。世界に正しく在ってほしい。そのためには──正しい種族にその運営を任せるべきなのだ」
ぴくっと視界の端でカリンの
「だから僕はこの戦争に勝利し、エルフという種族が支配する世界に全てを作り替えてもらう。人間などではない、エルフに、新世界を支配してもらう。それが目的だ」
「あんたはエリートだろ。さんざん
「エリート? たまたま他人よりテストの点が上で、たまたま
「……」
「自らの自尊心のために友を
この
彼が
ああ。自分だってそうだったのかもしれない。人間によって形作られる社会。正しいことしか認められなくて、それが正しいとはどうしても思えなくて、間違ったものが一つもないという間違った形にしか思えなくて──それを見限った、
理解できる部分もある。けれど、そんなものは大事ではない。
相手はマイナスを消し去りたいからこうしているだけだ。自分たちは欲しいものがあるからこうしているだけだ。そこには絶対的な違いがある。
「エルフが支配する世界とか、マジでクソつまんなそーじゃん。絶対ムリだぜ……!」
だが次の瞬間、土の
シーナが
──ここで──終わりなのか?
時が引き延ばされたように流れる。
致命の一撃は。終わりは。いつ。何が。シーナ。嫌だ。シーナ。シーナ……
ォ
ォォ
ォォォオ
「────」
緩い時の中。
意識の隅に、何かがある。
ただ一点の、遠い遠い変化。
音だ。
──────ォォォォォオオオオオオオッ!
「なにっ……!?」
身を
空気全体が震える衝撃、爆発じみた
それは攻撃ではなく、ただの落下か。
それは夜空から降ってきた白の星。
真新しい、
ややあって、横倒しになった騎体前面の搭乗口が開く。
そこから
眼鏡をかけた、白衣の女。
†
事情や状況については、よく知らなかった。
考えようともしなかった、が正しい。考える資格があるのかどうかもわからなかったから。
だからただ言われるがまま、《仕事》をしていた。
騎士団の技術者として。騎士団長直属の特殊な立場として。
そこで出会った素敵な、知的好奇心が旺盛な、それでも子供っぽいところのある、そこが
それがきっといけなかったのだろう。
傷つけたのかもしれない。
面と向かって拒絶されて、
確かに自分はひどい姉だ。いや──ちゃんとした姉に、なれなかった。
テロ事件の直後、目覚めて
それからはアルマと一緒に片付けに奔走した。忙しくてあまり何かを考える暇はなかったが、恋人がふと何かを考え込むような顔をすることに気付いていた。面白い理論や研究対象を思いついたのではないことだけは確かだった。
嵐が過ぎ去ったから、台風の目のように、
将来的にはどちらかしか残らないのだということを。
聞かされていたその《設定》が《現実》なのだと実感して、初めて、
結局、最後の一人になろうとしているのだろうか?
その道のりの途中にある、
彼は上司で恩人ではあったが、奥底の人間性を理解しているとは言い
だから確かめてみようと思ったのだ。
アルマの姿は最近
彼女がいろいろなことで
公安警察の捜査誘導。
駄目。それは駄目だよ。アルマ。
これは、正義を守るためなんかじゃなくて。
ただ……
でも、だからと言って、自分はどうするのだろう。
何かをする資格があるとでもいうのだろうか。
少し前に、あの死にかけた自販機ゾーンの残骸から、ぼろぼろになった自分のノートを回収していた。それを膝の上に広げて、そっと
そこには一枚の紙が挟まっていた。
テロ事件の直前。彼らがキャンプをしていたとき、自分が伝言と鍵を届けにいったときのものだ。自分の電話番号を書いたこの紙を渡そうとして、けれど受け取ってもらえず、突き返されて──
「……
紙を裏返した。そこには表とは違う、けれど同じような11桁の番号が書かれている。
──どうして、これを書いてくれたのだろう?
純粋に、そう思った。電話番号を交換したくないならそれでよかったと思う。紙だけを突っ返されても仕方がなかった。でも、どうして、この番号を書いてくれたのだろう。
(自分から電話することはないけど。こちらから電話するのはいいってぐらいには、仲良く、なってくれてたのかな? あそこまではまだよくて、あれから本当に嫌われるような何かをしちゃったのかな?)
だけど……妄想、してもいいのなら。
(のぞみんはちょっと悲観主義だなー。ワタシみたいにもっと楽観的になっていいのだゾ? 自分都合で、こうだったらいいなー、ってことから考える! んでそっから調べてく! 研究と一緒、それでOK! 違ってたら違ってるってわかるからOK! 勝手に思い込むのが一番ダメダメさー!)
昔に言われたアルマの言葉も、信じて。
彼だって、自分と同じに、本当は話をしたかったとは考えられないだろうか。
11桁の番号なんて見れば覚えられるから。それよりも、自分の番号を教えて、いつか電話がかかってきて、通じ合える可能性だけは残しておこうと思って──
わからない。わからない。ただの妄想。
でも。
「……もう、嫌われても、底はないよね」
自分の携帯を取り出して、ノートに挟んだ紙を見もせず、番号を打ち込んだ。自分だってこんなもの、一目見ただけで覚えられるのだ。大事な弟の番号くらい。
どれだけ鳴らしても、出なかった。電源が入っていないか、電波の届かない──
また妄想した。
彼は電源も入れられないような、それか電話を壊してしまうような。
そんな状況なのではないか。困っているのではないか。
困らせているのは、誰?
「────」
彼のことを知りたいならば、彼を困らせている人間から
もう一段階、リアルタイムに自分の上司たちの動向に情報の手を伸ばした。携帯からの位置情報。二人はほど近い位置にいる。トレーラーも動いている。おそらく騎体を乗せている。
他の何かを殺すために。
それがわかってしまったら、立ち上がって動くしかなかった。
この
誰かが直接乗っていくしかないのだろうから。
†
「なん、で……?」
そんな姿ではあったが、そこにいたのは確かに、見覚えのある女だった。
問いかけではなくただ漏れただけの
気後れしたような、あの控えめな笑み。
「
「そんなこと言ってるんじゃない!」
思わず語気が荒くなった。
彼女は視線を
意志ある目。決して曲がらない何かを、
「
はっきりとした言葉だった。
その明瞭さに、逆に
「なんだよ、それ……俺は、もう、死んでるってのに。馬鹿か。見ればわかるだろ。人間の姿すら、してない」
「でも、私の中では、死んでないから」
軽く背筋を伸ばすようにして、ふ、と息を吐いて。
もう一段階、全てを諦めたかのように、笑った。
「嫌われても、会いたくないって言われても──おせっかいをするのが、お姉ちゃんってものでしょう。それを思い出したから、勝手に来ちゃった。それだけだよ」
「────」
なんだそれは。そんなものは求めていなかった。想像もしていなかった。
だって、自分は。
あのとき完全に、この
少し離れた場所で、
「君にこのような行動力があったとはな、
「家族の前では違う、ということもありますよ」
「そうか。僕にはわからない部分だ」
吹き飛ばされはしたものの、
「乗って、
彼女がこうした理由については謎だらけだったが、今は必要なかった。選択肢は存在しない。
「シーナ! もう少しだけ踏ん張ってくれ!」
「はん、
「相変わらず狭ぇなー。
「善処はする!」
みしみしみし、と全身に
シーナが小さく息を吐いたのがわかった。
「ふぃー。お前ん中、あったけえや。あれだな、これ、あれだ」
「?」
「昨日、お前がさんざん言ってた感想と一緒」
「……!」
にしし、と意地悪げに笑うシーナ。
「シートに柔らかい
「お。ケツいいじゃん、ちっと前よりマシっぽいぞ」
「なら──」
「ああ。いけるぜ。ケツだけが唯一の問題だったからな」
関節を
こちらの様子を見やって、安心したように遠ざかろうとしている
きっとこれが最後の機会だろうとわかった。口が動いたのは、そのためだ。
「……
「ううん? それが?」
「──いや、なんでもない」
違う。こんなことではない。自分に言う資格があるのかないのか、彼女に知らせるべきかどうかもわからない物事についてではない。
「…………」
セイレーンを倒す武器を、あの
別れるために。
一番ではない大切なものとして、心残りなく、捨てていくために。
必要な言葉があったというだけ。その方向性は真逆でも。
「絵は描かなかったけど、これは使わせてもらう。ありがとう──助かった」
これで届くだろうか。
過去と現在に向けた、最初で最後の、無意味な感謝。
その後、ゆるゆると、目元を
「……うん」
姉弟の会話は、それで終わり。
さあ。あとは──あいつを倒すだけだ。
カリンは土の中。
残るは自分たちだけ。
他にはもう、誰もいない。決着の時だ。
「ふむ。お互い、おかしな姿になったものだな」
「俺たちはもう人間じゃないんだ。不思議はない。どうせお前も、その中でまともな人間の姿はしてないんだろ」
「そうだな。だが姿になど意味はない。意味があるのは、正しい
「へっ。ご立派だねぇ」
それに答えたのはセリアメアだ。
「実際、立派でしょう。私は
小さな息を吐いて、続ける。
「自らの命を絶つしかないと思うほどに」
「……!」
まさか。
自分と同じ──?
「真の意味で、心の底から絶望できるほど、
「うはははは! マジ笑える!」
シーナは
「なんでみんな自分みたいにまともになれねぇんだろうって? そいつはスゲー悩みだ。勝手に失望してるだけじゃねーか。どんだけエライんだよ。そりゃエルフとは気が合いそうだ」
「まともなみんなに合わせるのが
「シーナ……」
「
「理解する気もないしな」
すり足のように、徐々に間合いが近付いていく。純粋な
それは向こうも同じだろう。
ここから先の優劣は素の操縦技術だけではない。だからこそ
魔力が巨大な騎士の全身に行き渡っているのを感じる。
緊張感が高まる中、
「改めて思えば、不思議だ」
「何がだ?」
「この世界は、今の我々とも相性が良すぎる。EF。それによって動く
「世界の仕組みが知りたいなら、神様に聞けばわかるだろ。全部が終わったあとでな」
「──違いない」
そして二騎は示し合わせたように、その手を開いて。
「《
「《
決闘は。
白の騎士たちが、互いの願いを込めた剣を撃ち合わせることで始まった。