ぴく、と自分の先端が揺れると、ぴく、と彼女の奥底が返す。

 手を握って握り返されるように。

 まったく当然の事象として、対等の触れ合いとして発生している、そんな反応。

 一つだ。同じものだ。疑う余地なく、自分たちは世界に生まれ出でる前の領域で。

 つながっている。

 他の存在として、別の生き物として、違う世界の者として生まれたもの同士でも。

 そうなれるという──紛れもない奇跡が、神秘が、ここにあった。

 たとえ違っていても、自分たちは、自分たちの中身を同じように交わらせてよいのだと。

 その奇跡の許可の永遠性が、果てしなく、までも、頭をとろめかせる。

 シーナは耳を愉快そうに揺らして、まったく悪びれる様子なく、むしろ自慢げに笑った。

「へへー。ガマンできなくなったから、入れちった」

 その笑顔だけで、本当にたまらなくなって。

 れんすけは彼女の温度の奥底に、自分の温度をどこまでも放出した。



「ふえー。こっちの世界にも洞窟とかあるんですねえ」

「……あるところにはね」

 それを一夜の仮住まいとして発見できたのは幸運としか言えないだろう。森の中に現れた岩壁の斜面、その下部に開いていた洞窟だ。それほど大きなものではなく、身をかがめないと入れない程度の高さだったが、十メートル程度の奥行きは身を隠すには充分だった。岩壁にはつたが垂れるようにっており、そのせいでちょうど入り口も見えにくい形になっている。

「シーナ様まだかなー」と言い続けるだけで基本的には大人しいカリンとその洞窟に入り、適当に腰を落ち着ける。

 考えなくてはならなかった。色々なことを。

 今はまだ斜陽のざんが入り口から差し込んでいるが、いずれ日は完全に落ちる。暗闇というのは意外と考え事には向かないものだ。

 ゆいは事前に食べていたランタンを自分の肉から生み出し、光量を絞って置いた。この洞窟の作りであればそれほど外に漏れたりはしないだろう。

「わ。明かり! すごいですね!」

 セーラー服のスカートの裾をぺたんと地面に広げ、カリンはそのランタンの前に座り込んだ。きようしんしんといったぜいでそれをのぞき込んでいる。

「明るいのは、素敵ですね。痛くないし、暗くないし」

 どこか遠いものを見るような目になって、彼女は小さくつぶやいた。

おりの中は、ずっと、暗かった……シーナ様が、助けてくれるまで……」

「……」

 どう反応すればいいのかわからなかった。彼女のことは断片的にしか知らない。

 興味があるか? とゆいは自問する。結論はすぐに出た。それほどない。

 他に考えるべきことのほうが多いからだ。とはいえ、知ることに意味がないかと言われれば、それも違う気がする。

 何が選択肢を決める理由になるのかすら、今の自分にはわからないのだから。それに現状の安全性を高めるという意味でも、好感度はそれなりに重要だろう。たとえ見せかけでも。

 だからゆいは彼女に見えない角度でこっそりと再び肉を切り離し、別の形に変えた。

「おにぎり、食べる?」

「何ですかそれ?」

「この国の人間の主食よ」

 二つ生み出し、一つを自分で食べてみせながら、片方をカリンに差し出す。しばらくしゆんじゆんしていたが、恐る恐るといった様子で彼女は受け取り、小さく口に運んだ。

「……! あまくてしょっぱくて、しい……!」

「主食だもの。そうじゃないとみんな食べないわ」

 これは取り込んでいた《おにぎりという形の情報》を再現しただけで、魔力も何も込めていない、ただのにせぶつたいだ。味はあるだろうが、栄養があるのかどうかはさだかではない。胃の中で消化されるのか消えるのかもさだかではない。

 しかしどうあれ、しいと彼女の顔が綻ぶのならば、意味はあった。

「さすが、シーナ様の、仲間……優しいです。むぐむぐ……」

 自分で生み出したものを自分で食べるのは本当に虚無だった。プラスにもマイナスにもならない。自慰行為のようなむなしさがある。けれどスライムのけんぞくとなるより前の、食べては吐いていたころの食事も、考えてみれば同じだったのかもしれない。

 食べるふり。何かを演じるための。何かから目を背けるための。

 今もそれを道具として、ゆいは共感の窓口を開く。

「ねえ」

「はい?」

「よかったら、話を聞かせてよ。あっちの世界での、ダークエルフ……シーナの話や、あなたの話。どうせ暇でしょう」

 シーナ様の話なら夜が明けるまで語れますよと、カリンはうれしそうに笑った。

 ゆいは軽く洞窟の入り口に目をる。距離を測ったのだ。

 もし話がシーナを殺したときのことに及び、あるいは他の何かの拍子にカリンが正気を失ったとき、脱出できるかどうか。

 微妙な距離で、確証など得られなかったが。

 それならそれで仕方がない。



 目が覚めた。ベッドサイドの時計を見ると、時刻は夜明け近く。

 入ったときは無味乾燥だったベッドの上には、今は自分と彼女の根源的な匂いが立ちこめている。そこはもう二人の空間だった。

 隣のシーナはいつもの家より衣服一枚ぶん軽くなった姿で、つまり裸で寝息を立てている。もうれんすけはそのどこからも目をらさなかった。うれしく、幸福に、どこか誇らしく、宝物のように目を細めて優しく見た。そのうちに我慢できなくなったので、寝ている彼女の上にそっと上半身を傾け、軽く唇を合わせた。昨日まで自分からは一度もしたことがなく、しかし昨夜からは数え切れないくらいしたことなのに、改めて頭が冷静になった起き抜けにやると少し気恥ずかしい。それでもじんわりと胸が温かくなるのは変わらない。

「……っ」

 ほんの少しだけのいたずらだったはずなのに、気付けば彼女の舌がこちらのこうこうを迎え撃ってきていた。驚いたが、苦笑気味にしばらく応戦する。

 身を離して、笑い合った。

「いつか言わなかったか? あたしの寝込みを襲うのは難しいぞ」

「みたいだな」

 穏やかで安定した空気が流れていた。もう誰にも崩せない、崩れない。自分たちは二人で一つ。依存だの錯覚だの言いたいものがいれば言えばいい。理由なんて知ったことか。自分は彼女に出会って、好きになって、その幸福から目をらさないようにしようと誓った。その果てにこんな時間が手に入ることは、きっと──必然だった。

 どちらからともなく身を起こして、服を着た。

 幸福な、必然の時間。

 幸福とは関係のない、必然の時間。

 それが交差することは、必然ではないかもしれないが、奇跡的な偶然でもない。予想はできていたことだった。

「何人ぐらいかな?」

「さあな。周りにゃたくさん……とりあえずドアの前には五人くらいだ」

 シーナが言った途端、ロックされていたドアの鍵が自動的に開く音がした。おそらくフロントからの操作だろう。直後にそれが押し開かれ、

「動くな!」

 まずは男と女の二人組が入ってきた。両方ともスーツ姿だが、会社員風ではなく、動きやすい実務的なもの。しようひげを生やした男とポニーテールの女。どこかで見たことがあるかもしれない。おそらくは昨日の森の中だろうが。

 その二人は最初から拳銃を握っていた。カリンによる森でのざんさつが自分たちのせいだと思っているのなら、何か危険物を持っていると警戒しているのか。がどこまで彼らの動きに関与しているかにもよる。人外と知っていて銃を持っている可能性もゼロではない。

 つまり、それは飾りのつもりで持っているのではないだろうと判断できた。

 故に迷わない。シーナがくろひようのように動き、男の腹に拳を埋め込む。違和感ある鈍い音。暴徒鎮圧用のプロテクターでも装備しているのか。それに気付いたシーナは身体からだを大きく回転させながら足を跳ね上げ、首を強引に刈るようにして男を床に蹴り倒した。

 忘れてはならない。彼女はダークエルフ。今まで様々な悪をし、このような追っ手がかかった状況にも慣れた黒妖精だ。手加減が自分の首を絞めることを何よりも知っている。

 だから彼女は男の動きを止めると、間髪を容れずに自分のすぐ横手の棚、コーヒーメーカーの近くにあったスプーンをつかんで──その柄のほうを男の首筋にブッ刺した。

「うがあっ……!

「あ、ちっせーし折れちまった。死にゃしねーだろうが、血止めしなけりゃ死ぬかもな?」

 折れたスプーンの先端を放り捨てながら、シーナが冷たい目で言った。

 れんすけもそれを黙って見ていたわけではない。シーナの突進とほぼ同時に、もう一人のポニーテールの女に突っ込んでいる。

「止まりなさい! 止まらないと──」

 銃が持ち上げられるのは素早かったが、その銃口は真正面を向いてはいなかった。見てわかるほどこちらの身体からだの中心からはズレていて、急所は狙っていなかった。それが意識的か無意識かはともかく、彼女は立派で人間的な感覚を持つ、正しい大人なのだろう。正義の任務に就きながらも子供の命のことを考えてしまうような女性なのだろう。

 ならば結果は決まっている。

 れんすけ樹人ツリーマンの身体能力で迷いなく踏み込み、拳銃を手ではじげ、つかんだ肩をひねって倒そうとする。こちらは学生のカリキュラムが基礎の格闘術、あちらはおそらくプロとしてけんさんされた職業的格闘スキル。彼女は自ら空中で前転するように動いて腕が極められるのを回避しようとするが、残念ながら人外の腕力がその技術のけんさんを無意味にした。ただ力任せに腕を引っ張ることで、回転しようとしていた彼女の身体からだを強引に床に引き落とす。相手の肩が妙な具合にねじれて嫌な音を立てた。折れたか外れたか。

「ひぎっ……」

 悪いな。まだ捕まるわけにはいかないんだ。

 そのときには既に廊下にいた残りの人員もこの部屋に踏み込んできている。先遣の二人がやられたことに警戒してか、間合いを開けて銃を持ち上げている。

れんすけ、窓だ!」

 さすがにこの部屋の造りや位置関係程度は最初に調べていた。木製のカバーがかけられている窓に向け、シーナはくうから生み出した矢を数発連射。その矢がカバーごと窓を破壊し、閉塞感のあったラブホテルの部屋に一気に空気が流れ込んできた。

 視線で促してから、窓枠に足をかけてシーナが外に飛び出す。れんすけもほぼ同時にその後を追った。ただの人間では難しいだろうが、自分たちなら人外の身体能力で飛び移れる──そんな微妙な距離感の位置に別のビルの屋上があった。着地点はそこだ。

 元のラブホテルの部屋の窓を振り向く。さすがに映画のように窓からこちらに向けて銃を撃ってきたりはしない。建物の周囲にはまた別の人員が配置されているようだ。このビルにもすぐに追っ手が来るだろう。

 逃げなくてはならない。だが、どこに。どこを目指して?

 顔を前に戻す。

 誰もいない殺風景な屋上、シーナのれいな髪が風に流れている。変装用の野球帽をかぶる暇はなかったのだ。さてどうすっかなとばかりに腰に手を当てて前方の空を見ている。

 その空は今まさに夜が明けようとしているところ。清廉でみずみずしい薄青とだいだいの混色が空の彼方かなたより湧き上がってきて、行く手を見据えているシーナの輝く髪と合わさり、ひどく神秘的な輝きをつむいでいた。

 そのとき突如、頭の中に異様な感覚が膨れ上がる。

 シーナの耳がぴくりと動いたのが見える。

 ああ、そうだ。この時間帯は。昨日と同じ。だから──


 ──根源魔力を持つ者、根源魔力に接続されている者たちよ。

 ──第二の情報開示を行う。

 ──勝者に与えられる《世界》は《そこより始まる》ものである。

 ──勝者の種が満ちる新しき世界として、望む形で再試行される。

 ──故に、現在の世界においてなんじらが抱く全ての問題はそこでは解決するだろう。

 ──現状からの追補。

 ──いかなる理由においても、闘争の放棄と逃亡は認めない。

 ──初期覚醒地点より離れすぎた場合、全ての資格を剝奪する可能性がある。

 ──該当種は留意せよ。

 ──この開示により、我は迅速なる終着を望む。

 ──故に。戦え。戦え。戦い、勝ち取れ。

 ──なんじらの種の強さを示せ。

 ──世界をになう者たちの姿を、見せよ──


 不愉快なノイズが頭の中から消え去っても、シーナは空を見ていた。

 どこまでも広がっていると思えた空が、どうしてか、今は。

「新しい世界、望む形で再試行、か……詳しくはわかんねーけど、多分、それって」

 それでも。

 あるいは、だからこそ。

 シーナは振り向いて、どこかすがすがしいような表情で、笑うのだ。

「あたしらのための新しい世界を作ってくれるってことじゃね?」

「……かもな」

 具体的に考えるとわけがわからなくなる。そんなのは神のわざだ。創造主だ。声の主は本当にそのような存在なのか? だったら何でもありではないか。

 けれど今はその正体や力について考察している場合ではなかった。

 れんすけの頭の中には、何かが生まれつつある。闇の彼方かなたから何かが忍び寄ってくるような、その息遣いを想像してしまっているような、予感。その理由は言語化できない──したくない。目を向けなければ幸せだ。考えなければ錯覚だ。

 ──それよりも。そう、それよりも、だ。

 れんすけは無自覚にその予感を手放す。別のことを考える。そちらのほうが大事だ。きっと。

 今の声には、より直接的な、自分たちの未来の方針に関わる情報が含まれていた。

「けっ、くぎ刺しやがって。これ以上あの街から離れんなってか」

 神は舞台をあの街に規定している。

 この戦争の勝者になれば、現世界での問題が全て消え去る。

 今の声で知らされたその二つが真実であるなら、

「んじゃ、次に向かう方向は決まったな。確かに、いい加減追い回されるのにも飽きてきたとこだしよ」

 当然、シーナが選ぶのは、そこから導き出される最も楽しそうな選択肢だった。


「やっぱ、一発逆転を狙うのが一番面白そうだよなあ?」



 洞窟の中の、小さな光源。にせもののランタンの光。

 まぶたの隙間に淡く挟み込まれたそれは、必要最低限の覚醒を維持する意識の焦点となってくれた。あるいは必要最低限の部分だけの眠りを演出してくれた。

 起きてはいたが、うつらうつらと、光を見つめて夢うつつ。

 たにゆいは、自らに問いかけていく。

 ──さあ。どうする?

 ──自分は、これから、どうする?

 今までは答えを求めるふりをしながら考えないようにしていただけなのかもしれない。けれど淡い光の揺らがなさは、ここに来てようやく、ゆいの頭の中に一歩を踏み出させた。

 ──結局のところ、ありきたりな二元論でしかないのか。

 終わらせるか。終わらされるか。

 勝つか。負けるか。

 うか。われるか。

 想像が光の中に現れる。まずはわれる想像だ。かつてあの路地裏で体験したその結末は、今もなお現実感を持って自分の背筋を震わせる。あの冷たさ。あの孤独感。

 誰がうのか? 三つのパターンがある。

 耳のとがったエルフ。背景にはリボルヴ。近付いてきて、侮蔑の視線で、こちらに手を伸ばす。

 あるいはオーガ。焦点の合わない笑みで巨大なおのを振るい、自分の身体からだをばらばらにして、こちらに手を伸ばす。両断された記憶は真新しくリアルだ。

 そして……ダークエルフ。にやにやといらつあの笑みで、近くに彼を従えて、だらしない制服姿で、こちらに手を伸ばす。その隣にいる彼は、どんな表情を浮かべているのか──? それだけは、どうしても、想像できない。

「……」

 根源魔力のある核は体内で自由に動かせるけれど、それだけだ。手当たり次第に削られたり当てずっぽうに攻撃されたりすれば、致命傷を負う可能性は充分にある。

 嫌だ。スライムにわれたときに体験した、あの一人で終わる冷たさは、寂しさは、嫌だ。二度と味わいたくない。そんな結末はどうしても嫌だ。

 では次に、う想像をしてみよう。

 倒れたエルフに対して、自分が手を伸ばしている光景。

 倒れたハーフオーガに対して、自分が手を伸ばしている光景。

 倒れたダークエルフに対して、自分が手を伸ばしている光景。

 リアリティは、あるか。自分がそうしている光景が、本当に現実にあると思うか──

 そこがよくわからない。

 そうまでして自分が先に進む意味とは、何だ?

 ふっと気付いた。

 そんなものはないのかもしれないと。

 自分はただわれたくないだけで、あの孤独な終わりを迎えたくないというだけで、前に進む理由を持っているとは──


 その瞬間だった。

 頭の中に、直接の声。


 耳鳴りのような不快な声が消え去る。

 同じものが届いていたらしいカリンがむくりと身を起こして、

「……わけわかんないです」

 そうつぶやいたあと、シーナがいないかどうか周りを見回し、いないとわかると再び洞窟の床に身を倒して寝息を立て始めた。

 ゆいはその寝顔を見ていた。ランタンの光は既に役目を失いつつある。洞窟の入り口からうかがえる外の様子、そして神の声のタイミングから推測するに、今はちょうど夜明けの頃合いだ。

 神の情報提示の意味を、考えていた。

 そこより始まる。望む形で再試行される。

 新しい、世界?

 仮にあの声の主が本当に、自分たちの想像するような《神》で、全知全能、天地創造も可能な力を持っており、この戦争の勝者の種族が主となるような新たな世界が形作られるのだとしよう。

 もし自分が勝てば。どうなる?

 スライム種族。望んでではないが、そう得てしまった自分の性質。

 スライムたちの世界を想像しよう。たとえば人間の代わりにスライムが支配者として繁栄している地球の様子を。

 自らの形を持たない……つまるところは、誰もが同じ誰かである世界。容姿や能力で差別されない世界。そこに他人との比較はない。瘦せているも太っているもない。小さいも大きいもない。れいも醜いもない。

 みんなが同じ世界だ。みんなが《普通》の世界だ。

 突出しない。だから──誰も、違っているからという理由で、排斥されない。

 陰口をたたかれたり物を隠されたり盗まれたり小突かれたり孤立させられたりということはない。みんなと一緒になりたくて、普通になりたくて、他人との違いが気になって仕方なくなって、食べたり食べなかったり吐き戻したりする必要はない。

 それは素敵な世界ではないだろうか?

 もし自分が勝ったとしたら、そんな世界が作れるのだろうか。

「……」

 また、想像してみることにした。エルフの世界。オーガの世界。彼女たちが求める世界はわからない。それでは、ダークエルフがもし勝ったとしたら──?

 それは、どんな世界なのだろう?

 鋭い犬歯をのぞかせる彼女の笑みを思い出した。どこか意地の悪そうな、自信に満ちた顔。他者に依存しない、自己評価に対する迷いのなさを感じる表情。大地に深く根付いた大樹のような、揺らぐことのない《自分》を持っている存在。

 その笑みを浮かべていた場面を思い出した。しいものを食べたとき。好きなものを飲んだとき。木に登って風に吹かれていたとき。彼に──後ろから、自分のものだというように、抱きついていたとき。

 どうあれ彼女が求めるのは、彼女がそのような笑みを浮かべられる世界であるのだろう、と思った。

 それはつまり、彼女が幸せを感じられる世界で。

 きっと、たにゆいには幸せを感じられない世界。

 新しい世界でも、きっとあのように彼女は笑っているのに。

 欲しいものをしっかりと手にして、幸せだと、笑っているのに。

 彼と──一緒に?

 ぞわり、と。

 理屈も何もなく、本能的に反射的に、一つの感覚が湧き上がってきた。

 ずるい、と思ってしまった。

 彼らは今、何をしているのだろう。

 彼らの動きを、現状を想像する。

 確実にわかることは、ただ一つ。

 彼らは二人でいる。ずっと、幸せに、二人でいるだろう。

 自分とは違って。

────

 ゆいは視線を動かした。再びの眠りに落ち、すうすうと寝息を漏らしている、子供のような寝顔のハーフオーガ。

 見る限りでは、人畜無害な少女だが。

 で、化け物だ。

 彼らは二人で幸せにしているのに、自分はこんな化け物と一緒にいる。だ?

 絶対に避けたいことがあった。

 みんなと違う、孤立した、普通でない、寂しい、ひとりぼっちの、終わりを迎えること。

 だからこの子を、自分はひとりぼっちでない、という理由にした?

 違う。本当は最初からわかっていた。

 先程想像した寒々しさの通り。

 どうあれ誰かにわれたならば、自分はひとりぼっちで終わる。

 一人で終わらないためには、う側に回るしかないとわかっていたのだ。

 たとえ、それがどれだけ無謀に思えても。

 故にこそ用意していた──これは、ただの。

 弁当だ。


 ゆいは耳だけでカリンの寝息のリズムをうかがった。二度寝の深さを探る。

 慎重に、何十分もかけて。

 やがて静かに立ち上がり、足音を殺して近付く。

 こうするしかないというのは、最初からわかりきっていたのだけれど。

 ただ、決心ができていなかった。

 この先に何が待っているかがわからなかったから。もがく意味が本当にあるのかわからなかったから。ただ苦しみを先延ばしにするだけになるのではないかと思っていたから。

 けれど今、神の声で、本当に新しい世界が待っていると知らされて──

 それを信じるのなら。全てを賭けてみるのも、ありなのかもしれない。

(本当に、勝てば全ての問題が解決するっていうんだったら)

 無防備な寝顔に向けて、息を殺しながら、手を伸ばす。

 先程、夢うつつの光の中に想像した通りに。

(この私のぐちゃぐちゃの中身も、解決してみせてよ)


 ──勝った先に、幸せがあるように、してみせてよ。


 そう、たにゆいは、生まれて初めて。

 神というものを信じてみることにしたのだ。