ぴく、と自分の先端が揺れると、ぴく、と彼女の奥底が返す。
手を握って握り返されるように。
まったく当然の事象として、対等の触れ合いとして発生している、そんな反応。
一つだ。同じものだ。疑う余地なく、自分たちは世界に生まれ出でる前の領域で。
他の存在として、別の生き物として、違う世界の者として生まれたもの同士でも。
そうなれるという──紛れもない奇跡が、神秘が、ここにあった。
たとえ違っていても、自分たちは、自分たちの中身を同じように交わらせてよいのだと。
その奇跡の許可の永遠性が、果てしなく、
シーナは耳を愉快そうに揺らして、まったく悪びれる様子なく、むしろ自慢げに笑った。
「へへー。ガマンできなくなったから、入れちった」
その笑顔だけで、本当にたまらなくなって。
†
「ふえー。こっちの世界にも洞窟とかあるんですねえ」
「……あるところにはね」
それを一夜の仮住まいとして発見できたのは幸運としか言えないだろう。森の中に現れた岩壁の斜面、その下部に開いていた洞窟だ。それほど大きなものではなく、身を
「シーナ様まだかなー」と言い続けるだけで基本的には大人しいカリンとその洞窟に入り、適当に腰を落ち着ける。
考えなくてはならなかった。色々なことを。
今はまだ斜陽の
「わ。明かり!
セーラー服のスカートの裾をぺたんと地面に広げ、カリンはそのランタンの前に座り込んだ。
「明るいのは、素敵ですね。痛くないし、暗くないし」
どこか遠いものを見るような目になって、彼女は小さく
「
「……」
どう反応すればいいのかわからなかった。彼女のことは断片的にしか知らない。
興味があるか? と
他に考えるべきことのほうが多いからだ。とはいえ、知ることに意味がないかと言われれば、それも違う気がする。
何が選択肢を決める理由になるのかすら、今の自分にはわからないのだから。それに現状の安全性を高めるという意味でも、好感度はそれなりに重要だろう。たとえ見せかけでも。
だから
「おにぎり、食べる?」
「何ですかそれ?」
「この国の人間の主食よ」
二つ生み出し、一つを自分で食べてみせながら、片方をカリンに差し出す。しばらく
「……! あまくてしょっぱくて、
「主食だもの。そうじゃないとみんな食べないわ」
これは取り込んでいた《おにぎりという形の情報》を再現しただけで、魔力も何も込めていない、ただの
しかしどうあれ、
「さすが、シーナ様の、仲間……優しいです。むぐむぐ……」
自分で生み出したものを自分で食べるのは本当に虚無だった。プラスにもマイナスにもならない。自慰行為のような
食べるふり。何かを演じるための。何かから目を背けるための。
今もそれを道具として、
「ねえ」
「はい?」
「よかったら、話を聞かせてよ。あっちの世界での、ダークエルフ……シーナの話や、あなたの話。どうせ暇でしょう」
シーナ様の話なら夜が明けるまで語れますよと、カリンは
もし話がシーナを殺したときのことに及び、あるいは他の何かの拍子にカリンが正気を失ったとき、脱出できるかどうか。
微妙な距離で、確証など得られなかったが。
それならそれで仕方がない。
†
目が覚めた。ベッドサイドの時計を見ると、時刻は夜明け近く。
入ったときは無味乾燥だったベッドの上には、今は自分と彼女の根源的な匂いが立ちこめている。そこはもう二人の空間だった。
隣のシーナはいつもの家より衣服一枚ぶん軽くなった姿で、つまり裸で寝息を立てている。もう
「……っ」
ほんの少しだけの
身を離して、笑い合った。
「いつか言わなかったか? あたしの寝込みを襲うのは難しいぞ」
「みたいだな」
穏やかで安定した空気が流れていた。もう誰にも崩せない、崩れない。自分たちは二人で一つ。依存だの錯覚だの言いたいものがいれば言えばいい。理由なんて知ったことか。自分は彼女に出会って、好きになって、その幸福から目を
どちらからともなく身を起こして、服を着た。
幸福な、必然の時間。
幸福とは関係のない、必然の時間。
それが交差することは、必然ではないかもしれないが、奇跡的な偶然でもない。予想はできていたことだった。
「何人ぐらいかな?」
「さあな。周りにゃたくさん……とりあえずドアの前には五人くらいだ」
シーナが言った途端、ロックされていたドアの鍵が自動的に開く音がした。おそらくフロントからの操作だろう。直後にそれが押し開かれ、
「動くな!」
まずは男と女の二人組が入ってきた。両方ともスーツ姿だが、会社員風ではなく、動きやすい実務的なもの。
その二人は最初から拳銃を握っていた。カリンによる森での
つまり、それは飾りのつもりで持っているのではないだろうと判断できた。
故に迷わない。シーナが
忘れてはならない。彼女はダークエルフ。今まで様々な悪を
だから彼女は男の動きを止めると、間髪を容れずに自分のすぐ横手の棚、コーヒーメーカーの近くにあったスプーンを
「うがあっ……!」
「あ、ちっせーし折れちまった。死にゃしねーだろうが、血止めしなけりゃ死ぬかもな?」
折れたスプーンの先端を放り捨てながら、シーナが冷たい目で言った。
「止まりなさい! 止まらないと──」
銃が持ち上げられるのは素早かったが、その銃口は真正面を向いてはいなかった。見てわかるほどこちらの
ならば結果は決まっている。
「ひぎっ……」
悪いな。まだ捕まるわけにはいかないんだ。
そのときには既に廊下にいた残りの人員もこの部屋に踏み込んできている。先遣の二人がやられたことに警戒してか、間合いを開けて銃を持ち上げている。
「
さすがにこの部屋の造りや位置関係程度は最初に調べていた。木製のカバーがかけられている窓に向け、シーナは
視線で促してから、窓枠に足をかけてシーナが外に飛び出す。
元のラブホテルの部屋の窓を振り向く。さすがに映画のように窓からこちらに向けて銃を撃ってきたりはしない。建物の周囲にはまた別の人員が配置されているようだ。このビルにもすぐに追っ手が来るだろう。
逃げなくてはならない。だが、どこに。どこを目指して?
顔を前に戻す。
誰もいない殺風景な屋上、シーナの
その空は今まさに夜が明けようとしているところ。清廉で
そのとき突如、頭の中に異様な感覚が膨れ上がる。
シーナの耳がぴくりと動いたのが見える。
ああ、そうだ。この時間帯は。昨日と同じ。だから──
──根源魔力を持つ者、根源魔力に接続されている者たちよ。
──第二の情報開示を行う。
──勝者に与えられる《世界》は《そこより始まる》ものである。
──勝者の種が満ちる新しき世界として、望む形で再試行される。
──故に、現在の世界において
──現状からの追補。
──いかなる理由においても、闘争の放棄と逃亡は認めない。
──初期覚醒地点より離れすぎた場合、全ての資格を剝奪する可能性がある。
──該当種は留意せよ。
──この開示により、我は迅速なる終着を望む。
──故に。戦え。戦え。戦い、勝ち取れ。
──
──世界を
不愉快なノイズが頭の中から消え去っても、シーナは空を見ていた。
どこまでも広がっていると思えた空が、どうしてか、今は。
「新しい世界、望む形で再試行、か……詳しくはわかんねーけど、多分、それって」
それでも。
あるいは、だからこそ。
シーナは振り向いて、どこか
「あたしらのための新しい世界を作ってくれるってことじゃね?」
「……かもな」
具体的に考えるとわけがわからなくなる。そんなのは神の
けれど今はその正体や力について考察している場合ではなかった。
──それよりも。そう、それよりも、だ。
今の声には、より直接的な、自分たちの未来の方針に関わる情報が含まれていた。
「けっ、
神は舞台をあの街に規定している。
この戦争の勝者になれば、現世界での問題が全て消え去る。
今の声で知らされたその二つが真実であるなら、
「んじゃ、次に向かう方向は決まったな。確かに、いい加減追い回されるのにも飽きてきたとこだしよ」
当然、シーナが選ぶのは、そこから導き出される最も楽しそうな選択肢だった。
「やっぱ、一発逆転を狙うのが一番面白そうだよなあ?」
†
洞窟の中の、小さな光源。
起きてはいたが、うつらうつらと、光を見つめて夢うつつ。
──さあ。どうする?
──自分は、これから、どうする?
今までは答えを求めるふりをしながら考えないようにしていただけなのかもしれない。けれど淡い光の揺らがなさは、ここに来てようやく、
──結局のところ、ありきたりな二元論でしかないのか。
終わらせるか。終わらされるか。
勝つか。負けるか。
想像が光の中に現れる。まずは
誰が
耳の
あるいはオーガ。焦点の合わない笑みで巨大な
そして……ダークエルフ。にやにやと
「……」
根源魔力のある核は体内で自由に動かせるけれど、それだけだ。手当たり次第に削られたり当てずっぽうに攻撃されたりすれば、致命傷を負う可能性は充分にある。
嫌だ。スライムに
では次に、
倒れたエルフに対して、自分が手を伸ばしている光景。
倒れたハーフオーガに対して、自分が手を伸ばしている光景。
倒れたダークエルフに対して、自分が手を伸ばしている光景。
リアリティは、あるか。自分がそうしている光景が、本当に現実にあると思うか──
そこがよくわからない。
そうまでして自分が先に進む意味とは、何だ?
ふっと気付いた。
そんなものはないのかもしれないと。
自分はただ
その瞬間だった。
頭の中に、直接の声。
耳鳴りのような不快な声が消え去る。
同じものが届いていたらしいカリンがむくりと身を起こして、
「……わけわかんないです」
そう
神の情報提示の意味を、考えていた。
そこより始まる。望む形で再試行される。
新しい、世界?
仮にあの声の主が本当に、自分たちの想像するような《神》で、全知全能、天地創造も可能な力を持っており、この戦争の勝者の種族が主となるような新たな世界が形作られるのだとしよう。
もし自分が勝てば。どうなる?
スライム種族。望んでではないが、そう得てしまった自分の性質。
スライムたちの世界を想像しよう。たとえば人間の代わりにスライムが支配者として繁栄している地球の様子を。
自らの形を持たない……つまるところは、誰もが同じ誰かである世界。容姿や能力で差別されない世界。そこに他人との比較はない。瘦せているも太っているもない。小さいも大きいもない。
みんなが同じ世界だ。みんなが《普通》の世界だ。
突出しない。だから──誰も、違っているからという理由で、排斥されない。
陰口を
それは素敵な世界ではないだろうか?
もし自分が勝ったとしたら、そんな世界が作れるのだろうか。
「……」
また、想像してみることにした。エルフの世界。オーガの世界。彼女たちが求める世界はわからない。それでは、ダークエルフがもし勝ったとしたら──?
それは、どんな世界なのだろう?
鋭い犬歯を
その笑みを浮かべていた場面を思い出した。
どうあれ彼女が求めるのは、彼女がそのような笑みを浮かべられる世界であるのだろう、と思った。
それはつまり、彼女が幸せを感じられる世界で。
きっと、
新しい世界でも、きっとあのように彼女は笑っているのに。
欲しいものをしっかりと手にして、幸せだと、笑っているのに。
彼と──一緒に?
ぞわり、と。
理屈も何もなく、本能的に反射的に、一つの感覚が湧き上がってきた。
ずるい、と思ってしまった。
彼らは今、何をしているのだろう。
彼らの動きを、現状を想像する。
確実にわかることは、ただ一つ。
彼らは二人でいる。ずっと、幸せに、二人でいるだろう。
自分とは違って。
「────」
見る限りでは、人畜無害な少女だが。
彼らは二人で幸せにしているのに、自分はこんな化け物と一緒にいる。
絶対に避けたいことがあった。
みんなと違う、孤立した、普通でない、寂しい、ひとりぼっちの、終わりを迎えること。
だからこの子を、自分はひとりぼっちでない、という理由にした?
違う。本当は最初からわかっていた。
先程想像した寒々しさの通り。
どうあれ誰かに
一人で終わらないためには、
たとえ、それがどれだけ無謀に思えても。
故にこそ用意していた──これは、ただの。
弁当だ。
慎重に、何十分もかけて。
やがて静かに立ち上がり、足音を殺して近付く。
こうするしかないというのは、最初からわかりきっていたのだけれど。
ただ、決心ができていなかった。
この先に何が待っているかがわからなかったから。もがく意味が本当にあるのかわからなかったから。ただ苦しみを先延ばしにするだけになるのではないかと思っていたから。
けれど今、神の声で、本当に新しい世界が待っていると知らされて──
それを信じるのなら。全てを賭けてみるのも、ありなのかもしれない。
(本当に、勝てば全ての問題が解決するっていうんだったら)
無防備な寝顔に向けて、息を殺しながら、手を伸ばす。
先程、夢うつつの光の中に想像した通りに。
(この私のぐちゃぐちゃの中身も、解決してみせてよ)
──勝った先に、幸せがあるように、してみせてよ。
そう、
神というものを信じてみることにしたのだ。