†
ただの人間の集団の包囲であれば、逃げることも隠れ通すことも難しくない。
おそらくもう無駄だ。直接的なテロの関係者とみなされていなくても、
だからしばらく森の中で息を潜めていた。岩を
最大の
森から人気がまったくなくなっても、さらに慎重に時間が過ぎるのを待つ。
待ってどうするかなど──考えてはいなかったが。
その考えをまとめるためにも、一人でいたかった。
これからどうすべきか。どう動くべきなのか。
どう動きたいのか……
「──っ!」
唐突に、感覚の目を見開く。肌で感じた。
根源魔力だ。
距離的には……おそらく感じ取れる範囲ぎりぎり。どうする? こちらは気付かれているか? 息を殺して様子を
だが、根源魔力の気配に動きはない。その手応えの薄さに、なんとなく悟る──これはおそらくエルフではない。ダークエルフでもない。
「…………」
さらにしばらく、岩のふりを続けた。けれど唐突に馬鹿らしくなって、
ゆっくりと歩き出す。逃げるほうではない、近付くほうに。
茂みを
彼女は不意に、自分の膝に埋めていた顔を勢いよく上げた。だが
「なんだ……シーナ様じゃないじゃん……」
「……ダークエルフじゃなくて悪かったわね」
どうして会話なんかしているのだろう、と
でも。
自分はもう、死んでいるものだから、それを気にするのもおかしいのか。
「ここで何をしてるの」
「わかりません。私、何も、わかんなくなっちゃいました。わけわかんなくなっちゃいました。昨日何があったのかも覚えてません。……ううん、ぼんやりとは、覚えてるんですけど。私、シーナ様に……何か、とんでもないことをしちゃいました……? だから、いないの……?」
「何もしてないとは言えないと思うし、彼女がここにいない理由の一つではあるでしょうね」
「嫌われた、かな……」
「さあね」
嘆息する。本当に、どうしてこんな話をしているのだろう。
「今のあなたの目的は、なに?」
「目的……?」
小さく首が揺れたように見えたが、顔は上がらなかった。抱えた膝に向けて、
「私は、シーナ様に会いたい、だけです。私にとって、あの人だけが全てだから。また会えた幸せを、今度こそ、手放したくないから」
「オーガという種族を復活させたいのが一番ではないの?」
ややあって、
「……さあ。わかりません。前は、そんなことも、考えてたかもしれないけど。シーナ様がいるんなら、別に、どうでもいいです。シーナ様のほうが、大事……」
そういうこともあるのだろうか。彼から話を聞いた限りでは、どうやらセイレーンも純粋に自種族の復活を望んで戦っていたわけでもなかったという。
カリンはぽつりと続けた。
「私、幸せになりたいだけなのになあ。
「本当に、そうね」
同意の言葉が口から漏れてしまったことに、自分でも驚いた。
現在。未来。すべきこと。やらねばならないこと。
そんなの全部どうでもよくて、全部ひっくるめて。
結局は、自分の望みだって、そうなのだ。
幸せになりたい。その形が……どんなものかは、わかっていないかもしれないけれど。
ふと気付くと、まじまじとカリンが自分を見上げていた。
「なに?」
「あなたは……今は、痛くしません? してくるんだったら殺そうって準備してましたけど」
そうは見えなかったが、やはりあの
これからどうしたいのかも、自分の幸せの形も、まだ何もわかっていないのに。
今から眼前の相手と死力を尽くして戦うつもりには、どうしてもなれなかった。
嫌だとかそれ以前に、どうしようもなく
どうでもよかったのだ。
「あなたが襲ってこないのなら、何もしないわ。さっきので懲りたもの」
「痛く、しないんだ。そうなんだ……」
カリンは自分に言い聞かせるように、
「珍しいですね。二人目、かも?」
そうして、どこかほっとしたように、頰を緩めた。
それで心が
けれど、少なくとも、現状のどうでもよさを維持する理由には足りた。
「あなたは、シーナ様の仲間……なの?」
「さあね。だけど少なくとも、今は一緒にはいないわ。また会うかもしれないし、もう会わないかもしれない。……あなたと同じ状況かもね」
負け損ねた同類としても。
言外に込めた
「会いに、来てくれるかな」
「……そうね。可能性は高いでしょう」
そこでカリンはいいことを思いついたというように、
「あ。だったら、あなたと私、一緒にいたらその可能性は倍になるってことですよね? 計算は得意じゃないけど、きっとそう。だから……一緒に待ちます?」
それにどう返すかは決まっていた。
「そうね」
何がどうなるか、何をどうするかわからないから。
選択肢の保留を維持することが、決まっていたのだ。
離れて一人になっても、することもしたいこともわからないのだから、とりあえずこの子と一緒にいても同じだろうという消去法。そして、どこにいても危険があるのなら、一つの危険を甘受することでその他の危険をカバーできれば問題の総数は減るだろうという打算。
すなわち、今のところ一つだけ存在している、彼女の明確な使い道は。
エルフに。
あるいはダークエルフに襲われたとき──盾として戦わせる役だ。
そのとき、そうまでして自分がそこに居続けたいと思っているかどうかはともかく。
†
コレクションの中にあるロードムービーを思い出していた。つまらない理由で人を殺す殺人鬼カップルたちの逃避行だ。最後の結末は、さて、どうなるのだったか。どうあれ彼らの道中は楽しそうだった。
だからきっと、自分たちがそうなのも、当然のことなのだろう。
バスの終点。ふふんとドヤ顔で降車ボタンを押したシーナとバスを降りた。
「さっきのボタンの押しっぷりは見事だった。バスにも慣れたし、自動車にも乗った。シーナはもはや乗り物マスターと言っても過言ではない最高のダークエルフとお見受けするが……」
「そうだろそうだろ」
「この世界には電車というものがある。バスより自動車より速い乗り物だ」
「マジかよ。なら乗ろうぜ」
駅の自動改札を体験し、構内の売店でタピオカミルクティーを補充し、ホームを物珍しそうに見渡す。いざ乗り込んで座席に座ったら、案の定というかシートに膝を乗せて窓に顔をくっつける定番のおのぼりさんムーブをしてくれた。
気が済むまで電車の旅を楽しんで、適当に大きな街で降りた。まだ検問されていたり顔写真が出回っていたりするほどではないにしろ、人の数が多いほうがやはり危険は少ないだろうと考えたのだ。それに──この街には、他にもシーナが興味を持ちそうなものがあった。
正確には、
「おい
さて。
ダークエルフは、遊園地の観覧車というものが気に入るだろうか。
†
深い眠りから目覚めた。いつもの仮眠室のはずなのに、いつもとはどこか違う気もする。窓に薄く
そして記事の中に、自分のよく知る家族の関与を臭わせる一文を
「どういうことですか? これは
「──これか。僕も把握している」
それから彼はわざわざ作業の手を止め、
あるいは、そう見えるように、向き直った。
「彼がこの現場にいたのは確かだからな。目撃者もいたはずだ。だからどこかで情報の行き違いがあったのだろう……なに、誤解はすぐに解ける。心配せずに待っていたまえ」
その言葉を聞いても、
「
「そうだ」
「私はそれに賛同したから、信じられない話を聞いても、
「この件で動いているのは環境省や騎士団関係者だけではない。公安警察だ。だから僕が今すぐ言ってどうこうなるというものでもない」
「──つまり、
否定も肯定も返ってこない。
何かを確かめるように、聞いてきた。
「彼と僕がそもそもの立場上、手を差し伸べられない状況に陥るかもしれないということは知っていたはずだが」
その通りだった。
「今までは……正直に言って、実感が、なかったんです。異世界とか、魔術とか、信じられないことばかりで。私は、わかったふりをして、物わかりがいいふりをして……ただ、久しぶりに弟に会えることに喜んでいただけでした。本当は、わかってなんかいなかったのに」
「そう……何もわかっていませんでした。彼が何を考えているかも。何を望んでいるかも。どんな状況にいるのかも。本当に、死んでいる、なんてことも……!」
次第に語気も強まっていく。それは眼前の
「私に何ができるんでしょうか。私は、今まで何もしてこなかった私は、
「のぞみん」
「忘れちゃいけない。ワタシたちは、チサヒトやセリちゃんたちの事情に関しては部外者なのだ。当事者じゃないのだ。だから……本質的には、何もできない。必要以上に干渉しようとするべきじゃない」
「そんな……アルマ……」
「踏み込みすぎないほうがいいと、ワタシは思う。きっとあいつだってそんなの望んでない。あんなにひどいことを言って、のぞみんを切り捨てたんだから……そうでなくちゃ
ぽんぽんと、赤子をあやすように、優しく恋人の頭を
「好きな人が泣いてるのを見るのは、つらいよ」
「…………」
声もなく、ただ
それが弟の未来を
その理由を知る者は、彼女本人も含めて、この場にはいなかった。
アルマが肩をさすり続けることしばらく──ひとまず落ち着いた
彼女は愚かではない。いつまでも泣いていてはいられないのだと知っている。
こんな状況でも、その建前を忘れずにはいられないほど、彼女は理性的で──優しい。
アルマは彼女のいない空間で、ぽつりと
「
「かもしれない」
「少なくとも、何かに誠実であろうとしている結果の
「HA。どうあれ
アルマは
「……まったく。ワタシ自身、こんなことになるなんて思っていなかった。下手に手なんか出さず、観測だけしておくべきなんだ、本当は」
彼女は数秒、そのままぼんやりと動きを止めていたが。ふと思い出したように視線を戻し、
「──研究者というのはそういうものだろう?」
†
「ただ遊ぶためだけの場か。すげえな。こっちの人間、どんだけ余裕あんだよ」
「言われてみると、社会全体に金と土地と心の余裕がないと発生しない娯楽かもな。命の危険のなさっていうか」
「悲鳴上げて振り回されてるアレにゃ命の危険があるように見えるんだけど。拷問?」
「はは。あとで乗ってみよう」
ダークエルフと遊園地を巡る。そんな日が来るとは考えもしなかった。
物珍しそうに園内を見回して歩くシーナ。変装用の活動的なスタジャンと野球帽姿が、
色々なアトラクションを体験する。金に糸目などつけなくていい。ジェットコースター、コーヒーカップ、バイキング船……シーナは魔術で飛ぶこともできるのでスリル的にはどうかと思ったが、自分の意思とは関係なく揺さぶられたり振り回されたりすることを客が喜んでいるということ自体が新鮮だったらしく、
「やっぱ拷問じゃねーか。あたしが嵐の暗霊とかでこいつら
などと笑っていた。
メリーゴーランドでは馬の乗り方のレクチャーを
端から端までほとんど全てのアトラクションを制覇する勢いで楽しんで、最後に本命の観覧車に乗った。ゴンドラが
「へー、魔術も使わないのに結構高くまで上るんだな。こりゃ楽だ……窓は開かねえの?」
「さすがに危ないから開けられないと思うぞ」
「わかってねえなー。高えところは風が
出会ったときも木の上で風を感じていたらしいダークエルフが言うのだから、きっとそうなのだろう。けれどさして不満そうでもなく、シーナは透明なガラスの向こうに広がる街並みを眺めていた。それは憧憬でも
日が沈みかけの、見知らぬ街。背の高いビル、低いビル、行き交う自動車たち、人の群れ、興味もない広告の数々。真新しさや無機質さは
森ならぬ、コンクリートの木々が立ち並ぶ灰色の街。温度のない街。
前までだったらきっと吐き気を催していただろう。けれど今、どこか
かつては自分というものが飲み込まれていた領域だった。一生逃げられないと諦めていた
──では、属しているのは誰だ? 街にいるのは。社会からの刺客は。そこから訪れようとしているものは。
無意識のうちに、怪しいものがいないか目を凝らしてしまっていた。白い
苦笑する。今まで精一杯考えないようにしていたのに、やはりシーナとは器の大きさが違う。この穏やかな
「なに笑ってんだよ?」
「いや……」
少し迷ったが、自分の小市民らしさを取り繕うことにも意味はないなと思って、
「これは逃避してんのかなあ、みたいなちっさい物事が今更気になっちゃってさ」
「ばーか。楽しいからいいんだよ。最初から言ってんだろ? あたしは楽しいのが好きだ。お前と一緒にどっか行くのは楽しくて、だからここに来たのも楽しかった。以上だ」
「でも、俺はどうしても考えちゃうな。これからどうしよう、みたいなことを」
「先のことを考えるな、なんて言ってねーぞ。あたしだって考えてる。これから何をすれば楽しいかなってのが基本だけどさ」
「んじゃ、次はどんな楽しいことをする?」
「そうだなあ。やっぱ……」
答えようとして、そこでシーナは猫のような
「ま、今日は朝からずっと動いてたからさすがに疲れてんじゃん? 楽しくメシ食って、楽しく
それが彼女の希望なら、もちろん断る理由はなかった。
身分証などうるさく言われず気軽に入れ、誰かと対面する機会もなく、部屋で食事も取れ、ベッドが大きくてゆっくり眠れる……となれば、やはりラブホテルだった。知らない街だったので探すのに多少は手間取ったが、見つけてしまえば入るのは慣れたもの。部屋に入り、水分と栄養を補給して──
「よーし。んじゃ楽しく
そんなことを言いながら、
「なる……ほど?」
そんなことを
ちゃぽんぬるりとシーナが背中側に入ってくる。褐色の
「楽しく
「言ってた……な」
「何回かこんな状況になったけどよ。さすがに、そろそろ特別な楽しさが欲しいって話だ」
「──なんで、今?」
ふ、と
「んー。そうだな。昨日とか今日とかで──わかっちゃったんだ。あたしらは一緒にいる。多分、最後まで一緒だ。それが自然なんだ」
最後まで。
その言葉を通してじんわりと胸に
疑いようもなく。確固たる事実として。独りよがりな妄想ではなく。
彼女も、自分と共に在ろうと、してくれている。
「最後まで一緒にいるのに、一緒じゃない部分があるのって……知らない部分があるのって、なんかヘンじゃね? って思ったんだよ、さっきな。いやもうお前のことは中身までだいぶ知ってるけど、
てなわけで、と彼女は続けた。
「あたしに全部見せろよ。あたしに、お前の全部を人間の
言葉通りに、楽しそうなことを少しずつ彼女は始めた。吐息だけでなく、舌で
「う……あ……」
背筋が震える。温かい湯の中に自分というものが溶け込んでいく。それからも彼女は自分の様々な場所に触れてきた。とても優しい、優しい、ダークエルフの悪事。
しばらく続けた彼女はくすりと喉を鳴らして、
「もー我慢すんなって。代わりに、お前にもあたしを好きにさせてやるから。あたしの大事なところも、全部……好きにさせてやるから。な? だからさ、
ざぶり、と湯が持ち上がった。背中側に座っていた彼女が湯船を立ち上がり、
「諦めて、
言いたいことはいくつもあった。真正面、滑らかに、彼女の
「いつも、戦うときは、
「そーそー。その通り。だから別に怖いことなんてないぞ。それが気持ちいいことだってのは──もう、知ってるだろ?」
ああ、違う。今、一番言いたいのは、シーナ。
見なくてもわかる、恐ろしいほど幸福な下半身の違和感。
「これってさ。もう、入ってる、よな?」