
†
夢を見ていた。
覚えていない、意識して思い出すこともできない『生まれた場所』というものも見えた気がするから、夢というのは不思議なものだ。洞窟だったかもしれないし集落だったかもしれない。見てはいたがそれを認識する自我がそこにはなかった。
一番古い記憶は
エサは飢え死にしない程度の分量と頻度。それでも別の
教育があった。ほとんど
でも実際は
それが世界。
自分にとってはそこが全てで、そこしかなかった。
けれど不思議なことに。他の何も知らないというのに。
嫌だなあ、という思いだけはずっとあったのだった。
その子のようではなく──そうなってもおかしくはなかったのに──
自分は、従順に、それでも嫌だ嫌だ嫌だと思いながら、『別』『他』『外』……言葉としては知らないそのような概念を求めていたのだ。
自分の
夢は飛ぶ。
衝撃。世界である
そのときはまだ、
けれど、次だ。この瞬間は何度夢に見てもいい。
そこにいたのは──見たこともないような活力を
それは自分を飼っていた者たちとも、今まで見たことのある誰とも違っていて。
だから、『別』で、『他』だった。
だから、思わず手を伸ばして、マントの裾を
それが振り払われたのかどうかはよく覚えていない。
ただ、痛くはなかったことだけを覚えている。
そこから先に痛みがなかったことだけは覚えている。
つまりそれは。
新しい、『別』だった。『他』で『外』だった。今までの世界では考えられなかった──『違うもの』。はじめての、嫌ではないこと。
こちらがいい、と思ったのだった。
だからただそれを追いかけて、すがりついて、求め続けた。何度拒絶されても。怒鳴られても。今までの
結局のところ──そうして切り替わったのだ。
そこから、自分にとっての世界は『彼女』になった。
†
薄目を開ける。
少しだけ夜闇が薄まっているような気がしたが、夜はまだ明けていない。真ん丸な
いくつかの寝息。
カリンはむくりと身を起こした。そう、自分はカリン。彼女がつけてくれた名前。
探すのはもちろん、世界だ。自分にとっての全て。こんなところで出会えるとは思っていなかった、幸運の結晶。
ああ。
きらきらとした髪。目立つけれど不思議に闇にいるときは溶け込んで、彼女にとっての敵を排除する邪魔にはならない。触るとさらさらで、鼻を近付けると
大きな胸は触ると柔らかくて、懐炉代わりに仕方なさそうに抱きしめられて寝るときがとても好きだった。彼女が起きるまで脱出することなんかできなかったけれど、それは冷たい
でも、今はどうだろうか。こんな特別な状況であれば、少しぐらい積極的にいってもいいかもしれない。うざいと
かつてそうしたように、寝ている彼女にこちらから触れるべく、こっそりと近付いていく。
そこで、彼女が枕にしていないほうの腕が、同じように寝ている
だから示してやろう、と思った。いい機会だ。どう示すべきか?
空を見上げて少し考えたら、丸い月が答えを教えてくれる。やっぱりそうすべきなのだろう。自分の望み、欲求、願い、夢。それは彼女だ。彼女だから、こうしたいのだ。
そうして──尊いものを見るような
カリンはかつて自らが折り取った角を
わくわくと振りかぶったところで、視線が合う。
地面に寝転んだ姿勢のまま、シーナは犬歯を
その
「お前はアホか。目を閉じてるからって寝てるとは限らないぜ?」
†
背中に広がる地面の硬さを利用するように、カリンの腹部を蹴り飛ばす。凶悪な
「起きろ
自分はカリンを誘うために寝たふりをしてみただけだが、二人も元々浅い眠りだったのだろう、すぐに目覚めて体勢を整えた。
蹴りはまともに入ってそれなりに間合いを広げられたが、あの巨大な
限度が読めない、未知の運動能力。自分が知っているのは鈍くさく後ろをついてくる姿だけだ。言葉少なく、他に何もないのだというような
改めて胸中に刻み込む。あれは自分が
オーガという
「シーナ様は……ぶっきらぼうで、つっけんどん、でしたけど。痛いことはしませんでした。だから今のも痛くないんです。うん。そう……痛くないのは、幸せ、です」
カリンは微笑でそんなことを
「シーナ……どうなってる?」
「さあな。とにかくやっぱあいつは敵だ。あのまま寝たふりしてたら間違いなくぶった切られてたぜ。また、な」
「最初からそれほど信じてたわけじゃなかったけど。弱点とか戦い方の情報は?」
「あいつ個人の話なら知るわけねぇ。あたしが死んだあと──殺したあと、一人前になって、種族の代表になれるくらいの使い手になったってことだろうからな。わかんのは一般的なオーガの戦い方だけだ。基本は肉弾戦で、とにかく力で押してくる。知らねー魔術使ってくるあいつも……タイプ自体は変わんねぇ気がする、な!」
命を狙う者に手加減はしない。基本装備の弓を
「魔術……魔術? そう、私の、手に入れた、力……《
「ふん。ま、そうは言っても、ちったあバリエーションもあるか」
カリンが自分の額、折れ残った角を
「えっ、褒められました……? そうなんです、私、頑張ってるんです。シーナ様、見てください。見て……」
「褒めてねえ」
本来のオーガは二本角で、折れても再生するという話だったから、あの治っていない一本だけの折れ角は、半分しか血を持たないカリンだけの特徴だろう。オーガの社会では蔑視に値するような特徴ではあっただろうが。
そのやりとりに改めて何かを感じたか、カリンはこちらを見ているような見ていないような判別のつかないその目のまま、ぶるりと背筋を震わせる様子を見せた。
「うわあ、シーナ様だ、シーナ様と話せてる。
刹那に踏み込んできた。矢で
「セイレーンとやりすぎて遊び疲れてんだよ!」
「ずるい!」
が、カリンの動きは想像よりも
「シーナ!」
「邪魔」
カリンの興味なさげな目が
「でかした、そこのパンくらいなら駄賃でくれてやるぞ!」
「あなたの歯形がついてる食べかけなんだけど。遠慮するわ」
シーナは
──
──
──
──
──
慣れたために速度が上がっている。セイレーンたちの根源魔力を得て原動力に余裕が生まれていることも大きいのかもしれない。
大地と接続された
それは言い換えれば、あちらの世界での『普段の姿』に等しい。
カリンは曖昧な視線のまま、半開きの口で吐息のようなものを漏らした。
「あ……シーナ様、だぁ……すごい、すごい。そう、そんな感じで、
相変わらずカリンの意図やその状態はわからない。正気かどうかも、それが一時的なものかも永続的なものかもわからない。それでも迷っている余裕がないのは確かだった。
戦力として利用できないうえに、こちらの命を
たとえ過去にどんな接点があった存在であろうとも、自分は──
悪辣で無慈悲なダークエルフは、それを排除できる。
ずっとそうして、生きてきたのだから。出し抜いて欺いて盗んで、その結果の正当なる恨みを買いながら、悪意と敵意の中を泳いできたのだから。
一人で。
「シーナ、何を使う?」
「そこの
「そいつは朝の目覚めに丁度いい。気持ちよさそうだ」
そんな軽口を
そこにいたのは灰の暗霊──燃え尽きた命なき灰たちの声を、
「《
現れたのは人間大ほどの体積を占める灰の集まり。それらは灰がその発生において必ず経由した母、炎の記憶を覚えている。すなわちその灰たちは、シーナの意一つで燃焼爆発へと至る起爆雲だ。風に乗りかなりの速度で、そして自由な方向から、さらには武器で打ち払うこともできない広がりを持って、致死を導く灰の雲がカリンに向かって流れていく。
「ああ──シーナ様は、そうやって殺してくれたんですね。痛くて苦しくて気持ち悪いことしかしなかった私たちの飼い主たちを。ここで実感できるなんて不思議。新鮮。
避けられるタイミングではないと思えたが、カリンは強引に自らの魔術を発動した。筋肉の鮮烈な隆起。
忘れていたわけではない。ただその意味をシーナは実感を持って理解してはいなかった。あれは
「うう……あああああ!」
単純な力任せも、過ぎれば異様。ワイヤーで拘束されていた
だが身の自由を得たとしても灰の起爆雲の対処は難しいはずだ。
カリンは肉厚に変じたその
持ち上がったその土砂が重力に引かれ落ちると、瞬間的に土煙が発生。計算したかどうかは
「邪魔されるとうざいんですよ。あなたはシーナ様じゃないから。痛かった、苦しかった、縛るなんて! 何が楽しいのかわからない!」
「……!」
土煙の向こうに見えたのは、
「委員長!」
手中で
「シーナ様! 邪魔者はいなくなりましたぁ!」
自由を得たカリンが改めて近付いてくる。
やはり焦点の合わない瞳で、けれどもこちらをしっかりと見て──笑顔で。
ああ。かつて寝ている自分を襲ったときも、あいつはあんな顔をしていたのだろうか?
「《
忘れろ。今は自分が死なないことだ。
馬鹿でかい凶器の
灰で作られた、爪の先ほどの小さな虫を無数に生み出し、周囲に展開。その数百匹の灰虫たちはそれぞれが部分的に赤い光を
一つ一つの威力は比較的低いが、目や脳などの急所を貫けば効果はあるだろう。今は結界のようにこれを広範囲に配備することが重要。無策で近付いてくれば急所狙いで殺到させるだけだし、武器で打ち払えるものではないだろうし、さっきのように
どう出る、カリン? 黙って自分の後ろをついてくるだけだった愚鈍なハーフオーガが、どれほど賢い手を思いつく?
行く手を塞ぐ灰虫たちの群れの前で、カリンは一旦足を止めた。
小首を
「《
変化はカリンの右腕のみに対する筋肉集中。ひどく
そうしてカリンは、三角形に近い形状になった、その細い
ただその動きをするためだけに特化した形であろう、膨らんだ右腕で──
投擲してきた。
「シーナ!」
「っ──!?」
回転しながら飛来してくる死の三角形。灰虫たちでは押し止められない。その隙間を
「くっ……そ、があっ……!」
回避動作がなければ首が飛んでいたかもしれないし、左腕を犠牲にしていなければ
三角の
「シーナ、大丈夫か」
「拾えばくっつく。たいした問題じゃねえ。クソが」
「……甘くみないほうがいい。シーナが昔に知ってる相手とは、多分……」
「わかってンよ」
魔術戦なら分があると踏んだが、最初の一撃は無効化され、スライムはやられ、向こうは無傷で、こちらは血を流している。
認めるしかない。あれは自分の知る子犬のようなハーフオーガであるのかもしれなかったが、それと同時に、この戦争で戦うための力を持っている確かな
しかも──強い。
細やかさなどは感じないが、それを補ってあまりある、単純ながら圧倒的な力を持っている。小細工や精神系が得意そうだったセイレーンとは相性が悪いだろうが、それ以外の相手であれば、その力のみで
足音。圧力。
カリンの微笑の表情は変わらない。何をしても。そこだけは、昔とは違っていた。自分の後ろで
「──気味悪いな。あたしを殺したいなら殺したいで全然いい。そういう
手を考えろ。息と体勢を整えろ。眼前にいるのは、脅威だ。
時間稼ぎのようにシーナが言うと、カリンは再び小首を
「矛盾、してますか? そんなはずありません。私を助けてくれたシーナ様は私の全て。私の全てはシーナ様から始まりました。私は私だから、ごく普通にこうしてるだけですよ。今だって、あのときだって……あのとき、だって──?」
自分が口にした言葉が何かの引き金になったかのように、不意にカリンは足を止めた。ここに至り、初めて
訪れたのは、世界が停止したかのような一瞬だった。
こちらは動けない。左腕の痛み。これから行使すべき魔術のあらゆる可能性。精霊杖と化して共に在る
カリンは動かない。こちらを抹殺可能な純粋なる力を持つ
だがその全てが停止した時間は、大いなる世界自身の手によって、唐突に終わりを告げる。
否定しようのない、世界の動き。
ちょうどそのとき、明るんでいた空の
朝。夜明け。太陽の訪れ。
それは曖昧な事象でありながら、明確に幾つもの意味を持っていた。
一つの『区切り』であることだけは確かだった。
だから不思議ではなかったのだ。
全てを見渡していた何かが、それを『区切り』にして、行動を起こしたのも。
†
──根源魔力を持つ者、根源魔力に接続されている者たちよ。
「な……?」
頭の中に、不意に声が響く。
それは確かに意味を持った言葉で、声。けれどそれがどんな声かがどうしてもわからなかった。男なのか女なのか。低い声なのか高い声なのか。それすらも。
ただそれが絶対的な『情報』として、自分の中に直接届けられているということだけはわかった。未体験の感覚に認識が暴れ回る。異常な情報伝達に細胞が困惑する。自分という概念が戸惑い
「こいつは……この声……? わかんねーが、この感覚、だ。覚えがあるぞ」
「シーナ?」
「こっちの世界に来たとき。目覚める直前。あたしらに状況を伝えてきたのは、こんな感じの声だったような気がする。ああ、そうだ、つまりこいつは──」
シーナは犬歯を
「神の声だ」
──最終局面に至ったと判断し、情報開示を行う。
──現時刻、現世界において、存在している
──エルフ、ダークエルフ、スライム、オーガ。
──提示するのは種別だけであって、量は提示しない。
──これらの情報は部分的に上位獲得者に開示されたものである。
──以下は勝者の報酬に関する新規情報である。
──勝者には種の繁栄を可能とする《世界》が与えられる。
──この開示により、我は迅速なる終着を望む。
──故に。戦え。戦え。戦い、勝ち取れ。
──
──世界を
どこかに吹き飛んでいた現実感が、やはり吹き飛ばされたように戻ってくる。
シーナは眼光を
「なにこれ……痛い、痛い、気持ち悪い。世界? 私の世界は、シーナ、シーナ、なのに……嫌、痛いのは──いやぁっ!」
彼女はそんな悲痛な叫びを上げると、よろよろと立ち上がってあらぬ方向に走り去っていった。先程から様子がおかしかったが、それに輪をかけて自分というものを見失っているように見えた。あの神の声のせいか。あれは確かに自分の内面に直接的に襲いかかるような不快な体験だった。自我が、五感が強引に
しばらく身構えていたが、戻ってくる気配はなかった。
ひとまずは窮地を脱せた──か?
「やれやれ、神の野郎め。どういう告知タイミングだ?
「こういうのは、今までになかったことだよな?」
「当然だろ。どうやら……マジで決着は近いみてえだぜ」
襲ってくる前に
ざっ、と軽く砂が擦れる音。
見ると、朝日の中に
数呼吸の間があって、彼女は口を開いた。
「言っておくことがあるわ」
「委員長……?」
その声のトーンが今までに聞いたことがないものだったから、
だが彼女は構わず続ける。
視線を合わせないまま──静かに。
けれども、一音一音、はっきりと。
「私はもうあなたたちを手伝えないし、一緒にはいられない。お別れよ」
†
ああ。これは、あのときと同じだ。
ある日の路地裏。日が沈んだばかりの学校帰り。いつものように自分と他人との違いがたまらなくなって、そのたまらなくなったことがたまらなくなって、食べて、食べたくなくなって、誰もいないところに行って自分の指を喉に突っ込んで吐いていた。
「ブハハハ。
声のほうを見たら、尋常ではないフォルムの人影が立っていて。近付いてきて。逃げようとしたけど間に合わなくて。転ばされて。手が伸ばされて。そうして首がごきりと異音を立てるまでの間──自分は、何を感じていたのだったか。
寂しさ、だ。
必死にしがみついていた
自分が終わる予感というものは、
だから
嫌だ。嫌だ。嫌だ。〝ひとりぼっち〟になりたくない。なってしまうのは、嫌だ。
そうだ、そうならないために、みんなと一緒になるために、食べて、食べなくて、目立たないように、頑張っていたのに。どうして──?
その疑問に対する空虚。
冷たく訪れる、無慈悲な孤独の接近警報。
自分というものを、世界というものを一方的に完全に包み込む流れ。
死という、特別な〝ひとりぼっち〟の予感を、
あのときは実際に死んで、今は
身震いが漏れるのは同じだ。〝ひとりぼっち〟への恐怖が暴れ回るのは同じだ。
みんなと一緒、彼と一緒に頑張れるクラス委員長であるという仮面が崩れ、情けなく泣き叫んでしまいたくなる。でも
そうして、いつも通りに戻ろう。普通に戻ろう。
ベッドの中で夢を見たときと同じだ。孤独に最悪に近付いてしまったあのときを思い出して跳ね起きて、がたがたと震えて朝を待っているときと同じだ。
これからのことを考えろ。まだ、自分は、〝ひとりぼっち〟じゃない。化け物の主人一匹だけでも〝ひとりぼっち〟よりはマシと自分に言い聞かせて動いていたあのときとも違う。
自分は特別でなく、すなわち孤独でなく、みんなと一緒に在れる。
同じ立場の彼が、特別な自分を見ないでいてくれる。
そういう黙殺の契約がある。
だから、大丈夫だ。それに
これからも──
頭の中に不可思議な《声》が届いてきたのはそのときだった。今までに体験したことのない、異様な感覚。情報の一方的陵辱。自意識の内部が
それは、聞いていない。
多分、彼が言わなかったのは悪意ではない。
裏付けが取れない、あちら側の振りかざす一方的な理由であるから、彼は保留していただけだろう。一から十まで全て説明できる余裕のある状況でもなかったことだし。
けれど駄目だ。
この状況を支配する監督者から告げられてしまえば、疑うことはできない。
これからも彼との契約が続く限り自分は自分のままでいられる。
特別でない、〝ひとりぼっち〟でない、みんなと一緒の
でも──戦争の終わりが近いということが、明確に告げられてしまったなら。
タイムリミットの存在が、残酷に提示されてしまったなら。
考えざるをえない。
契約が続くのは、いつまで?
私が孤独な終わりを迎えずにいられるのは──いつまで?
論理的に考れば、当然だ。こうするしかない。
だから言うべきことを言った。
今までずっと先送りにしていた問題の行き止まりが、ここなのだ。
向き合わねばならない。
ダークエルフが、全てを見透かすような薄笑いでこちらを見ていた。
†
シーナが一歩を踏み出すと、それに反応して
そうして
「まあ、そうだな。理解はするぜ。やべえって思うタイミングだ」
「……」
「今までなあなあでやってきたが、終わりが見えちまうとそうもいかねえよな。あたしも体験してるぜ。同じ城にたまたま同じタイミングで忍び込んだ
「委員長。さっき言ったことは──」
「本当よ。状況が変わったわ。エルフが動いた理由が、もっと先にわかっていたら──私はこの山にまで来なかったかもね」
終わりが見えたということ。
単純なその一要素こそが、自分たちにとって致命の毒だった。
どこまで契約を続けるのかという大事な部分をないがしろにしていた、穴だらけの協力関係の、代償だった。
彼女の『普通でい続けたい』という願望は。
『終わり』という概念とは、あまりに相性が悪すぎた。
後ずさりをするように、静かに彼女は後退していく。シーナは彼女から視線を外さないまま、近くの地面をまさぐって、カリンに斬り飛ばされていた腕を拾い上げてくっつけていた。治るまではあとどれだけか。
木々の向こうにその姿を隠す寸前、ふと、
「……多分、理由は私の携帯だろうから、そのけじめだけはつけておくわ。名義がどうあれ、森の中から出てる電波は見逃さないというわけでしょう」
「なに?」
「最後の忠告。私たち、囲まれてると思うわ」
†
壁に大穴の開いた、倉庫のように開けた空間。棚から物が
「おや? 何かあったのかな?」
固定された
「……いや。特には」
「ええ」
終わりが近いということ自体は先行者の特権として、事前に同じような《声》で聞いていたことではある。
ただ、追加された情報があった。それは単純な言葉だけで、解釈の余地があるのは確かだったが、少なくとも虚偽は含まれてはいまい──なにしろ神の言うことなのだから。
「聞いたか? 勝者には世界が与えられる、らしいぞ。どう思うね?」
「元よりそのつもりです」
「エルフという種族が
「意味が変わるとは思えません。手間が減るか増えるか、というだけでしょう」
「そうだな」
今回の情報開示は、
抱いていた目的が、神の用意していたそれと合致していた──ただそれだけのこと。
自分たちの求めているものは、元より《エルフの世界》を手に入れることなのだから。
それを視線で確認し合えば、今の神の声に対する感想はもう必要ない。
「しかし、
「何が?」
「正直なところ、どこまで手伝ってもらえるものかと思っていた」
「HA。ワタシの知的好奇心は留まるところを知らないゾ? こんな面白そうな話があるのに途中で止めて何になる。それに……」
何かを
「あいつはのぞみんにひどいことを言って傷つけた。少なくともワタシにとっては、気を遣う必要のある相手じゃなくなった」
「そうか」
そのあたりの事情についてはよくわからなかったが、彼女の決意は固いようだ。ならばこれからもその能力を頼りにさせてもらおう。
セリアメアがふと思い出したように聞いてきた。
「しかし、いいのですか? 彼らだけで捕まえられるとは思えませんが」
「承知の上だ。今日は突破されるかもしれないが、それは次なる網を狭めることにしかならない。逃亡すればするほど事態は悪くなる。最終的には、逃げきれはしない」
そのときポケットの電話が鳴り、よそ行きの声で通話に出た。いくつかのやりとりを経て、
「そうですか。情報提供した
†
『
周囲の森から聞こえてきたのは、拡声器から発せられたような女の声だった。
『聞きたいことがあるだけです。悪いようにはしません。いいですね?』
確認を取っておきながら、有無を言わさぬ感じがあった。そしてもう姿が見えない
「なんだあ?」
「民間のニュースになってるってことは、他の……公的な機関はもう具体的に動いててもおかしくないってことだろ」
「へえ。騎士団か?」
「どっちの世界での意味で言っているのかによるな。治安維持の組織って意味ではその通り。さすがにこっちの世界の騎士団は、まだ俺一人を追いかけられるような状況じゃないはずだ」
「
「無理だろ。どこが動いてるにしろ、これは絶対に
「ふーん。じゃあ逃げないとな。面倒臭ぇのは嫌いだ」
素早く周囲の様子を
「女が逃げた! 追え!」
「待て! 逃げきれんぞ、諦めろ!」
その声、冗談事ではない大人の本気が直接的に届いてきたことで、
自分たちは本当に……社会の敵に、なってしまったのだと。
シーナは振り向かずに走っていく。
その意味に気付いたのは、茂みを飛び出してそれを見た瞬間だった。少なくとも
囲まれていると
その方向にいた人間がいなくなっていたからだった。
今まで人間だった新鮮な肉たちが、五体を適当に飛び散らせ、木の枝に部品をぶら下げ、茂みを前衛芸術じみて派手な色に染めていた。おそらくは二、三人ぶん。女の長い髪を持った上半身もある。男の太い腕もある。
シーナは通りすがりに軽くしゃがみ込み、鼻を鳴らしてその腕を持ち上げた。切断面はどちらかと言えば鋭いものではなく、大雑把で巨大な何かで断たれたような様子だ。
「あーあー。こいつは多分、カリンの
「シーナ。今は、逃げるのを優先にしよう……」
「そうだな」
犠牲者たちに思うところがないでもないが、祈るのも
喉の奥、
「くそっ、こいつはぁっ……やりやがったな! しっかりしろ山下ぁ!」
「ぅえっ……すみ、ません……!」
遅れて現れた中年男が一喝したとき、既にシーナは再び走り始めている。警察か、それとも別の組織かは知らないが、死体はきっと彼女らの顔見知りだったのだろう。それが一瞬で命なき肉塊に変じていたのだから、あの反応だって当たり前だ。どんな職についていようとも、普通の人間なら。
ああ、でも、これはさらなる理由を与える。誤解でも、きっと、彼らは今の死にも自分たちが関係していると見るだろう。諦めることなく、
これから──ずっと。
セイレーンを倒したところまではよかったのに。
エルフに襲われ、
どうしてだって? 本気で言ってるのか? と、頭の中の一部分がやけっぱちに冷笑した。
最初からわかっていたはずだ。ご丁寧に最初から
理解していながらも、それを現実の脅威と考えず、今すぐ襲い来るものだと考えず、対応を後回しにしていた自分の落ち度だ。自分が、甘かったというだけだ。
「シーナ……ごめん」
思わず口をついて出ていた。
「あん? なんでお前が謝るんだよ」
「状況が悪すぎる。もっとなんとかできたはずだ。こんな──」
「いやいや。なんでそんな暗くなってんだよ」
足を止めないまま、シーナはどこかあっけらかんとした調子で言った。
「よくわかんねー理由で、誰かも知らねー
さらに彼女は言う。
草葉を髪に
「ある意味、
森を一人駆けるダークエルフは、軽やかに笑むのだ。
彼女一人。その笑顔を見ているのも、自分一人。
だったら、それでいいじゃないか。
存在しない心臓に熱いものが刺さった。
それは
「いーやマジで、なーんも考えずに森をかっ飛ばすのもアリだな。久しぶりだからクソ気持ちいいっつーの! てなわけで全力で走るかんな! どこに着くかとか知らねー!」
そんなシーナの力強くも無軌道な言葉が、
そうだ。ただ、前へ、前へ。
益体もない悔悟は無意味だ。開き直りでもいい。進め。
状況が悪かろうが、すべきことは何も変わらない。
自分はただ、彼女と一緒にいるために、すべきことをし続けるだけだ──