夢を見ていた。

 覚えていない、意識して思い出すこともできない『生まれた場所』というものも見えた気がするから、夢というのは不思議なものだ。洞窟だったかもしれないし集落だったかもしれない。見てはいたがそれを認識する自我がそこにはなかった。

 一番古い記憶はおりだ。気付けば狭い一人用のおりに入っていた。だからそれが世界で、家。そのどちらの概念もあとで知ったものだったけれど。いや、全てがそうだった。自分はおりの中で成長した。その意味では自分は動物だったのかもしれない。知性のない獣と一緒だったのかもしれない。

 エサは飢え死にしない程度の分量と頻度。それでも別のおりに入っていた生き物が自然に動かなくなっていることはよくあった。瘦せすぎると価値が落ちると飼い主たちがぼやいていたこともよくあった。それでも何も変わりはしなかったから、結局その程度の価値しか求められていなかったということなのだろう。

 教育があった。ほとんどおりの中だったが、ごくまれに外にも出された。でも外は怖かった。痛くて気持ち悪い物事しかなかった。商品価値がどうこう。くできなければせつかんがあったから必死で頑張った。いろいろなことを覚えた。めるときに歯を当ててはいけない。

 でも実際はくできてもできなくてもせつかんはあった。教育の時間とあまり変わらない、せつかんの時間。痛みの比率がほんの少し多いというだけ。自分はどうやら他の子たちより頑丈なようだったので、いろいろなことをされた。おう。汚物。痛み。挿入。目玉をぽろりとこぼして動かなくなった隣のおりの子を見て、いいなあ眠れて、と思ったことがあった。

 それが世界。

 おりを中心とした自分の世界。

 自分にとってはそこが全てで、そこしかなかった。

 けれど不思議なことに。他の何も知らないというのに。

 嫌だなあ、という思いだけはずっとあったのだった。おりの中にいることは普通ではなくて、嫌なことで、それが当たり前のことではないのだと──か、知っていた。似たような境遇の子の中にはずっと笑っていておりと教育とせつかんの暮らしを楽園のように受け入れて暮らしていた子もいたが、どうしてか、そのようにはなれなかったのだ。その子は笑い声がみみざわりだという理由でせつかん中にふんたわむれに喉に詰め込まれて笑顔のまま幸せそうに死んだ。

 その子のようではなく──そうなってもおかしくはなかったのに──

 自分は、従順に、それでも嫌だ嫌だ嫌だと思いながら、『別』『他』『外』……言葉としては知らないそのような概念を求めていたのだ。

 自分の世界ではない何かを。かを。──誰かを。


 夢は飛ぶ。

 衝撃。世界であるおりが置かれていた馬車が。おり自体がぐるんぐるんと回って、もちろん自分の目も回って、色んなところにたたきつけられて、周囲が騒がしくなって、気付けばおりの中の同類たちは皆動かなくなっていた。

 そのときはまだ、おりの中で跳ね回って身体からだをぶつけたのは痛かったから、また表情を変えずに思うだけだった──嫌だなあ、と。かせゆがんで外れて、気付けばおりの外にる形になっていたが、おりの外に出るのはせつかんや教育と同義だったから、同じだった。嫌だなあ、と。つまりそこはまだ、自分にとっては『外』ではなかった。

 けれど、次だ。この瞬間は何度夢に見てもいい。

 ほろが開いて、控えめな光が差し込んできたとき。

 そこにいたのは──見たこともないような活力を身体からだそなえた、目に力をたたえた、褐色の肌をした誰かで──

 それは自分を飼っていた者たちとも、今まで見たことのある誰とも違っていて。

 だから、『別』で、『他』だった。

 だから、思わず手を伸ばして、マントの裾をつかんでしまった。

 それが振り払われたのかどうかはよく覚えていない。

 ただ、痛くはなかったことだけを覚えている。

 そこから先に痛みがなかったことだけは覚えている。

 つまりそれは。

 新しい、『別』だった。『他』で『外』だった。今までの世界では考えられなかった──『違うもの』。はじめての、嫌ではないこと。

 こちらがいい、と思ったのだった。

 だからただそれを追いかけて、すがりついて、求め続けた。何度拒絶されても。怒鳴られても。今までのせつかんと比べればそれは全然嫌ではなかったから。


 結局のところ──そうして切り替わったのだ。

 そこから、自分にとっての世界は『彼女』になった。



 薄目を開ける。

 少しだけ夜闇が薄まっているような気がしたが、夜はまだ明けていない。真ん丸なあおい月が浮かんでいるのが木々の隙間に見えた。脳の奥をその光が淡くかくはんする。

 いくつかの寝息。かすかにくすぶたきの音。

 カリンはむくりと身を起こした。そう、自分はカリン。彼女がつけてくれた名前。

 探すのはもちろん、世界だ。自分にとっての全て。こんなところで出会えるとは思っていなかった、幸運の結晶。

 たきの近くで、自分の片腕を枕にして、目を閉じて寝ていた。

 ああ。

 きらきらとした髪。目立つけれど不思議に闇にいるときは溶け込んで、彼女にとっての敵を排除する邪魔にはならない。触るとさらさらで、鼻を近付けると日向ひなたの匂いがするのを知っている。長いまつ、つんと整った鼻、とがった耳はそのときの気分でぴくぴくと動く。

 大きな胸は触ると柔らかくて、懐炉代わりに仕方なさそうに抱きしめられて寝るときがとても好きだった。彼女が起きるまで脱出することなんかできなかったけれど、それは冷たいおりとは全然違う、温かく心地ここちい不自由。ふとももやおなかや腕も一緒だ。

 もちろん、普段何もないときに自分から近付いても、うざいと退けられることが多かった。自分が勝手についていっていただけで、能動的に彼女が自分を飼ってくれていたわけではなかった……気がする。

 でも、今はどうだろうか。こんな特別な状況であれば、少しぐらい積極的にいってもいいかもしれない。うざいと退けられても今まで通りでなつかしくてうれしい。損はない。

 かつてそうしたように、寝ている彼女にこちらから触れるべく、こっそりと近付いていく。

 そこで、彼女が枕にしていないほうの腕が、同じように寝ているけんぞくの男の頭を乗せているのを見た。かつて自分がそうされていたように。

 けんぞくの男が言っていたことを思い出した。好き。好き? 考えたこともなかった。自分なんてそれ以上。世界なのに。

 だから示してやろう、と思った。いい機会だ。どう示すべきか?

 空を見上げて少し考えたら、丸い月が答えを教えてくれる。やっぱりそうすべきなのだろう。自分の望み、欲求、願い、夢。それは彼女だ。彼女だから、こうしたいのだ。

 そうして──尊いものを見るような微笑ほほえみで、心からいとしいものをいつくしむような目で。

 カリンはかつて自らが折り取った角をくうから生み出し、握ったそれを媒介にして、長大なる角斧に変化させた。

 わくわくと振りかぶったところで、視線が合う。

 地面に寝転んだ姿勢のまま、シーナは犬歯をしにして笑っていた。

 そのどうもうな笑い方も、好きだった。

「お前はアホか。目を閉じてるからって寝てるとは限らないぜ?」



 背中に広がる地面の硬さを利用するように、カリンの腹部を蹴り飛ばす。凶悪なおのを出したのと同じタイミングで、その姿はセーラー服ではなく元の布の服に戻っていた。

「起きろれんすけ、ユイカ! ついに本性出しやがったぞ!」

 自分はカリンを誘うために寝たふりをしてみただけだが、二人も元々浅い眠りだったのだろう、すぐに目覚めて体勢を整えた。

 蹴りはまともに入ってそれなりに間合いを広げられたが、あの巨大なおののリーチは長い。加えて言えば、リボルヴとエルフから逃げたときに見たカリンの体さばきはしろうとのものではなかった。油断できる距離感とは言えない。

 限度が読めない、未知の運動能力。自分が知っているのは鈍くさく後ろをついてくる姿だけだ。言葉少なく、他に何もないのだというようなまなしで、懸命に足を動かしていた姿だけだ。

 改めて胸中に刻み込む。あれは自分がたわむれに助け、子犬のように後ろをついてくるに任せていたハーフオーガの子供ではない。

 オーガというの代表で、自分を殺した者だ。

「シーナ様は……ぶっきらぼうで、つっけんどん、でしたけど。痛いことはしませんでした。だから今のも痛くないんです。うん。そう……痛くないのは、幸せ、です」

 カリンは微笑でそんなことをつぶやいている。だが瞳の焦点は曖昧で、正気かどうかもさだかではなかった。

「シーナ……どうなってる?」

「さあな。とにかくやっぱあいつは敵だ。あのまま寝たふりしてたら間違いなくぶった切られてたぜ。また、な」

「最初からそれほど信じてたわけじゃなかったけど。弱点とか戦い方の情報は?」

 ゆいの言葉に鼻を鳴らす。

「あいつ個人の話なら知るわけねぇ。あたしが死んだあと──殺したあと、一人前になって、種族の代表になれるくらいの使い手になったってことだろうからな。わかんのは一般的なオーガの戦い方だけだ。基本は肉弾戦で、とにかく力で押してくる。知らねー魔術使ってくるあいつも……タイプ自体は変わんねぇ気がする、な!」

 命を狙う者に手加減はしない。基本装備の弓をくうから生み出し、カリンに向けて撃ち放った。ぼんやりしていた彼女が小さく顎を上向かせ、

「魔術……魔術? そう、私の、手に入れた、力……《疾き瑠璃色のゲルダウインドブロウパワー》」

 おのの形状が変化した。全体的にはより流麗に、刃の中程にはなぜか中抜きされた空白。そのおのが手元で軽く一回転されると、矢は全てそのおのの前に防がれた。触れていないものまではじばされていたから、周囲の風を巻き込んで動かすような力を持っているのかもしれない。

「ふん。ま、そうは言っても、ちったあバリエーションもあるか」

 カリンが自分の額、折れ残った角をでるようにしながら頰を緩めた。

「えっ、褒められました……? そうなんです、私、頑張ってるんです。シーナ様、見てください。見て……」

「褒めてねえ」

 本来のオーガは二本角で、折れても再生するという話だったから、あの治っていない一本だけの折れ角は、半分しか血を持たないカリンだけの特徴だろう。オーガの社会では蔑視に値するような特徴ではあっただろうが。

 そのやりとりに改めて何かを感じたか、カリンはこちらを見ているような見ていないような判別のつかないその目のまま、ぶるりと背筋を震わせる様子を見せた。

「うわあ、シーナ様だ、シーナ様と話せてる。うれしい。わがまま言っていいですか。やっていいですか。久しぶりに会えたらやりたいことがいっぱいあったんです。うん、たとえば……一緒に遊んでほしいです、とか」

 刹那に踏み込んできた。矢でけんせいしながら後退しようとする──

「セイレーンとやりすぎて遊び疲れてんだよ!」

「ずるい!」

 が、カリンの動きは想像よりもはるかに速かった。速すぎた。風に乗っているかのような速度。矢は足止めにもならず、打ち払われ、みるみるうちに間合いの中に──

「シーナ!」

 れんすけに突き飛ばされ、間一髪避ける。代わりにそれをしたれんすけの手首から先が飛んでいた。

「邪魔」

 カリンの興味なさげな目がれんすけを捉え、おのがさらに軽やかにれんすけの首を刈ろうとした瞬間、その後ろから何かがカリンの身体からだに巻き付いた。ゆいがその身を変じさせて投じたロープ……いや、金属製のワイヤーだ。つかんで引き寄せられる危険性は冒さず、切り離して手近な木の幹に他方の端を巻きつけていた。一本だけではなく二本、三本。

「でかした、そこのパンくらいなら駄賃でくれてやるぞ!」

「あなたの歯形がついてる食べかけなんだけど。遠慮するわ」

 シーナはれんすけと共に地面にしゃがみ込んだ。今のうちだ。


 ──根付き、息吹け、我が森よルート・ブリーズ・マイデイア

 ──闇者へ、忌者へ、福音たれウエイスト・アンフオーギヴン・エンダーク

 ──葉繁り、肥立ち、季は巡るグロウス・ブロウズ・リンカーネイト

 ──果てに、種木は、より靱くエンド・ナーサリー・エンリヴン

 ──芽吹き、息吹け、新しき森バツド・ブリーズ・マイデイア──


 慣れたために速度が上がっている。セイレーンたちの根源魔力を得て原動力に余裕が生まれていることも大きいのかもしれない。

 大地と接続されたれんすけせいれいじゆへと変じ、そのつたや枝がシーナの身体からだい包み、お互いの温度を感じあい──発芽。新しいれんすけの形となったせいれいじようを引き抜き、シーナはダークエルフ本来の姿と力を取り戻す。

 それは言い換えれば、あちらの世界での『普段の姿』に等しい。

 カリンは曖昧な視線のまま、半開きの口で吐息のようなものを漏らした。

「あ……シーナ様、だぁ……すごい、すごい。そう、そんな感じで、ほろを開けて、立ってて、私を、見ていて……助けてくれて……」

 たわごとを聞くつもりはなかった。

 相変わらずカリンの意図やその状態はわからない。正気かどうかも、それが一時的なものかも永続的なものかもわからない。それでも迷っている余裕がないのは確かだった。

 戦力として利用できないうえに、こちらの命をおびやかす可能性があるのであれば。

 たとえ過去にどんな接点があった存在であろうとも、自分は──

 悪辣で無慈悲なダークエルフは、それを排除できる。

 ずっとそうして、生きてきたのだから。出し抜いて欺いて盗んで、その結果の正当なる恨みを買いながら、悪意と敵意の中を泳いできたのだから。

 一人で。

「シーナ、何を使う?」

「そこのたきの灰で行こう。残り火で燃えたら池に投げてやるから安心しろ」

「そいつは朝の目覚めに丁度いい。気持ちよさそうだ」

 そんな軽口をたたきながら、精霊杖の石突をくすぶる灰の中へ。ああは言ったが燃え移らない確証はあった。れんすけをそんな危険にさらしてたまるか。

 そこにいたのは灰の暗霊──燃え尽きた命なき灰たちの声を、すくげる。

「《灰の精霊に命ずる/身を寄せ合いて記憶を念えアツシユスピリツト・クラウドアナムネシス》!」

 現れたのは人間大ほどの体積を占める灰の集まり。それらは灰がその発生において必ず経由した母、炎の記憶を覚えている。すなわちその灰たちは、シーナの意一つで燃焼爆発へと至る起爆雲だ。風に乗りかなりの速度で、そして自由な方向から、さらには武器で打ち払うこともできない広がりを持って、致死を導く灰の雲がカリンに向かって流れていく。

「ああ──シーナ様は、そうやって殺してくれたんですね。痛くて苦しくて気持ち悪いことしかしなかった私たちの飼い主たちを。ここで実感できるなんて不思議。新鮮。うれしい、うれしい、うれしいッ!《雄々しき巨軀のグシオンアンチエインドパワー》!」

 避けられるタイミングではないと思えたが、カリンは強引に自らの魔術を発動した。筋肉の鮮烈な隆起。おのの重厚な変化。彼女の身体からだ自体が一回り大きくなったように思える。

 忘れていたわけではない。ただその意味をシーナは実感を持って理解してはいなかった。あれはリボルヴと真正面から撃ち合っていた形態。すなわち今のカリンは、リボルヴに匹敵する瞬間筋力を保持しているに等しい──!

「うう……あああああ!」

 単純な力任せも、過ぎれば異様。ワイヤーで拘束されていた身体からだの内側から筋肉が躍動する。うなり声と共に彼女が身をよじらせると、スライムによって再現されていた金属製の拘束具はみみざわりな異音で千切られ、それどころかゆい重石おもしとして接続していた木々の幹すら張力に対応できずに砕けた。あるいはその根が大地から引きずり出された。

 だが身の自由を得たとしても灰の起爆雲の対処は難しいはずだ。おので力任せにはらっても、風や空気を防げるものがいないのと同じ、移動自由度の高い雲は必ずカリンの元に辿たどく──その予想すらも筋力の前に打ち砕かれた。

 カリンは肉厚に変じたそのおのの刃を眼前の地面にぶち込み、大量の土砂を中空に巻き上げたのだ。砂でもなく土でもなく、それはほとんど地面そのものが一塊になってえぐれたような形。だからそれは灰の起爆雲を物理的に飲み込み無効化した。シーナは舌打ちする。

 持ち上がったその土砂が重力に引かれ落ちると、瞬間的に土煙が発生。計算したかどうかはさだかではないが、一瞬、カリンの姿が見えなくなる。警戒して間合いを開けようとする──いや、威圧感の方向が違う。狙いは別だ。

「邪魔されるとうざいんですよ。あなたはシーナ様じゃないから。痛かった、苦しかった、縛るなんて! 何が楽しいのかわからない!」

「……!」

 土煙の向こうに見えたのは、ゆいに対して間合いを詰めるカリンの姿。ゆいは暴れ回っていたワイヤーや木々を避けたためか、体勢を崩していた。そこに繰り出される角斧の一撃。

「委員長!」

 手中でれんすけが息をむのがわかった。まあそうだろう。おのはらわれ、顔見知りの腹から上と下が分離する様はそうそう見るものではない。驚くのも普通のことだろうから許す。ゆいの下半身はその場で崩れ落ちるように倒れ、小さな上半身は回転しながら吹き飛んで別の木の幹にぶち当たった。やつの肉体はスライムだ、単純な斬撃には強い。根源魔力に干渉されていなければ死んではいないはずだが、戦闘参加はもはや不可能だろう。

「シーナ様! 邪魔者はいなくなりましたぁ!」

 自由を得たカリンが改めて近付いてくる。

 やはり焦点の合わない瞳で、けれどもこちらをしっかりと見て──笑顔で。

 ああ。かつて寝ている自分を襲ったときも、あいつはあんな顔をしていたのだろうか?

「《灰の精霊に命ずる/熱き光虫舞い踊らせよアツシユスピリツト・フローテイングルミナス》」

 忘れろ。今は自分が死なないことだ。

 馬鹿でかい凶器のおのを手に、うれしそうに駆け寄ってくる敵を排除するだけだ!

 灰で作られた、爪の先ほどの小さな虫を無数に生み出し、周囲に展開。その数百匹の灰虫たちはそれぞれが部分的に赤い光をたたえている──それは『放たれる前の熱線』のようなものだ。収束された熱の点。触れれば肉や鉄を穿うがつ熱量をそなえた灰が、まさに羽虫じみた不規則な軌跡を見せながら空間を制圧する。

 一つ一つの威力は比較的低いが、目や脳などの急所を貫けば効果はあるだろう。今は結界のようにこれを広範囲に配備することが重要。無策で近付いてくれば急所狙いで殺到させるだけだし、武器で打ち払えるものではないだろうし、さっきのようにおので大地をめくげても一部分しか防げない。その隙をついて別の灰虫たちに横手から攻撃させればいい。

 どう出る、カリン? 黙って自分の後ろをついてくるだけだった愚鈍なハーフオーガが、どれほど賢い手を思いつく?

 行く手を塞ぐ灰虫たちの群れの前で、カリンは一旦足を止めた。

 小首をかしげるようにしてから、

「《怯懦の遠きテスローハーリングパワー》」

 変化はカリンの右腕のみに対する筋肉集中。ひどくいびつな形。それはおのもだ。柄が中途からねじ曲がり、その曲がった柄に沿って、刃の部分が前後に長く伸びていく。

 そうしてカリンは、三角形に近い形状になった、その細いおのを。

 ただその動きをするためだけに特化した形であろう、膨らんだ右腕で──

 投擲してきた

「シーナ!」

っ──!?

 回転しながら飛来してくる死の三角形。灰虫たちでは押し止められない。その隙間をくぐけてくる。とつに身をかわそうとしたが、それを想定していたかのように、空気をつかんだとうてきおのはぐいんとカーブを描いて。

 かすめたシーナの左腕を圧倒的質量で斬り飛ばした。

「くっ……そ、があっ……!

 回避動作がなければ首が飛んでいたかもしれないし、左腕を犠牲にしていなければ精霊杖練介が真っ二つになっていたかもしれない。

 三角のとうてきおのは大きな弧を描き、カリンの元に戻っていった。効果がなかったとはいえ、接近を防ぐ灰虫の布陣を解くわけにはいかない。第二投にも警戒が必要だ。左腕がうずく。

「シーナ、大丈夫か」

「拾えばくっつく。たいした問題じゃねえ。クソが」

「……甘くみないほうがいい。シーナが昔に知ってる相手とは、多分……」

「わかってンよ」

 魔術戦なら分があると踏んだが、最初の一撃は無効化され、スライムはやられ、向こうは無傷で、こちらは血を流している。

 認めるしかない。あれは自分の知る子犬のようなハーフオーガであるのかもしれなかったが、それと同時に、この戦争で戦うための力を持っている確かなでもあるのだ。

 しかも──強い。

 細やかさなどは感じないが、それを補ってあまりある、単純ながら圧倒的な力を持っている。小細工や精神系が得意そうだったセイレーンとは相性が悪いだろうが、それ以外の相手であれば、その力のみで容易たやすたたき潰せるほどの。

 足音。圧力。

 カリンの微笑の表情は変わらない。何をしても。そこだけは、昔とは違っていた。自分の後ろでおびえたり慌てたりあんしたり、言葉ではなく表情で胸中を表していたころとは。

「──気味悪いな。あたしを殺したいなら殺したいで全然いい。そういうやつらはマジで多い。あたしがお前を助けたって思うんならそれも勝手だ。何度も言った通り、あたしにゃ金目のモン奪ったところにいた犬コロが勝手についてきたって感じだけどよ。だけど──両方同時にやんのはヘンだろ。矛盾してっぞ。顔か態度か、どっちかに合わせろよ」

 手を考えろ。息と体勢を整えろ。眼前にいるのは、脅威だ。

 時間稼ぎのようにシーナが言うと、カリンは再び小首をかしげた。

「矛盾、してますか? そんなはずありません。私を助けてくれたシーナ様は私の全て。私の全てはシーナ様から始まりました。私は私だから、ごく普通にこうしてるだけですよ。今だって、あのときだって……あのときだって──?」

 自分が口にした言葉が何かの引き金になったかのように、不意にカリンは足を止めた。ここに至り、初めて微笑ほほえみが消える。今までよりも少しだけ開かれた目。くうを見つめて、何かを次第に思い出していくかのように、その瞳に別の色が加わっていく。

 訪れたのは、世界が停止したかのような一瞬だった。

 こちらは動けない。左腕の痛み。これから行使すべき魔術のあらゆる可能性。精霊杖と化して共に在るれんすけゆいの状況は知れない。

 カリンは動かない。こちらを抹殺可能な純粋なる力を持つ。自らの中にあった何かに気付き、あるいは思い出し、今まさにかの地点に辿たどこうとしている。

 だがその全てが停止した時間は、大いなる世界自身の手によって、唐突に終わりを告げる。

 否定しようのない、世界の動き。

 ちょうどそのとき、明るんでいた空の彼方かなたより、明確な陽光がし込んできたのだった。

 朝。夜明け。太陽の訪れ。

 それは曖昧な事象でありながら、明確に幾つもの意味を持っていた。

 一つの『区切り』であることだけは確かだった。

 だから不思議ではなかったのだ。


 全てを見渡していた何かが、それを『区切り』にして、行動を起こしたのも。



 ──根源魔力を持つ者、根源魔力に接続されている者たちよ。


「な……?」

 頭の中に、不意に声が響く。れんすけは困惑した。

 それは確かに意味を持った言葉で、声。けれどそれがどんな声かがどうしてもわからなかった。男なのか女なのか。低い声なのか高い声なのか。それすらも。

 ただそれが絶対的な『情報』として、自分の中に直接届けられているということだけはわかった。未体験の感覚に認識が暴れ回る。異常な情報伝達に細胞が困惑する。自分という概念が戸惑いきしみ、激しい頭痛のような不快感を伴って暴れた。

 精霊杖自分を握る片腕のシーナも、はっと目を見開いていた。彼女にもこの声は届いているのか。

「こいつは……この声……? わかんねーが、この感覚、だ。覚えがあるぞ」

「シーナ?」

「こっちの世界に来たとき。目覚める直前。あたしらに状況を伝えてきたのは、こんな感じの声だったような気がする。ああ、そうだ、つまりこいつは──」

 シーナは犬歯をしにして、くうにらみつけるようにしながら言った。

「神の声だ」


 ──最終局面に至ったと判断し、情報開示を行う。

 ──現時刻、現世界において、存在しているは以下の通り。

 ──エルフ、ダークエルフ、スライム、オーガ。

 ──提示するのは種別だけであって、量は提示しない。

 ──これらの情報は部分的に上位獲得者に開示されたものである。

 ──以下は勝者の報酬に関する新規情報である。

 ──勝者には種の繁栄を可能とする《世界》が与えられる。

 ──この開示により、我は迅速なる終着を望む。

 ──故に。戦え。戦え。戦い、勝ち取れ。

 ──なんじらの種の強さを示せ。

 ──世界をになう者たちの姿を、見せよ──


 どこかに吹き飛んでいた現実感が、やはり吹き飛ばされたように戻ってくる。つえ身体からだでも感じる吐き気。かん。五感全てが捻転を起こして現実に酔っている。今の直接的な声らしきものはそれほどまでに異様な体験だった。

 シーナは眼光をらんらんとさせながらうずくまっている。それはカリンも同じだった。いや、彼女はさらに頭を抱えて、首を横に振っていた。

「なにこれ……痛い、痛い、気持ち悪い。世界? 私の世界は、シーナ、シーナ、なのに……嫌、痛いのは──いやぁっ!」

 彼女はそんな悲痛な叫びを上げると、よろよろと立ち上がってあらぬ方向に走り去っていった。先程から様子がおかしかったが、それに輪をかけて自分というものを見失っているように見えた。あの神の声のせいか。あれは確かに自分の内面に直接的に襲いかかるような不快な体験だった。自我が、五感が強引にかくはんされ、圧倒的な立場からの力で無遠慮に犯される感覚。それが彼女の精神に混乱を与えたのかもしれない。

 しばらく身構えていたが、戻ってくる気配はなかった。

 ひとまずは窮地を脱せた──か?

「やれやれ、神の野郎め。どういう告知タイミングだ? まぐれか最初から決めてたのか知んねーが、おかげでラッキーなことになっちまったぞ」

「こういうのは、今までになかったことだよな?」

「当然だろ。どうやら……マジで決着は近いみてえだぜ」

 襲ってくる前にが伝えてきたことは正しかったようだ。エルフたちがそう動き出した理由。生き残っているは残り少ない。ああ、もう全てが、見えている──

 ざっ、と軽く砂が擦れる音。

 見ると、朝日の中にゆいが立っていた。腹部で横に両断されたせいか、今はヘソ出しのようなあられもない格好になっているが、身体からだ自体は元のサイズだ。動けているならほっとした。うつむき加減で前髪が顔にかかっており、表情はよく見えない。

 数呼吸の間があって、彼女は口を開いた。

「言っておくことがあるわ」

「委員長……?」

 その声のトーンが今までに聞いたことがないものだったから、れんすけげんに思った。

 だが彼女は構わず続ける。

 視線を合わせないまま──静かに。

 けれども、一音一音、はっきりと。


「私はもうあなたたちを手伝えないし、一緒にはいられない。お別れよ」



 よこぎの衝撃。自らの意思とは関わりなく訪れる、唐突で理不尽で一方的な〝何か〟。

 身体からだを上下に分けられて、べちゃりとみじめったらしく地面にたたきつけられて、たにゆいは思い出す。

 ああ。これは、あのときと同じだ。

 ある日の路地裏。日が沈んだばかりの学校帰り。いつものように自分と他人との違いがたまらなくなって、そのたまらなくなったことがたまらなくなって、食べて、食べたくなくなって、誰もいないところに行って自分の指を喉に突っ込んで吐いていた。

「ブハハハ。もつたいない。愉快なる、ゆがんだ食欲の味だ。我が、食べ方を教えてやろう、か?」

 声のほうを見たら、尋常ではないフォルムの人影が立っていて。近付いてきて。逃げようとしたけど間に合わなくて。転ばされて。手が伸ばされて。そうして首がごきりと異音を立てるまでの間──自分は、何を感じていたのだったか。

 寂しさ、だ。

 必死にしがみついていた場所せかいから、自らの意思でなく強制的に振り落とされる感覚。

 自分が終わる予感というものは、ゆいにとっては、そういうものだった。

 だからおぞがするほど寂しくて、涙を流して、もがいた。

 嫌だ。嫌だ。嫌だ。〝ひとりぼっち〟になりたくない。なってしまうのは、嫌だ。

 そうだ、そうならないために、みんなと一緒になるために、食べて、食べなくて、目立たないように、頑張っていたのに。どうして──?

 その疑問に対する空虚。

 冷たく訪れる、無慈悲な孤独の接近警報。

 自分というものを、世界というものを一方的に完全に包み込む流れ。

 死という、特別な〝ひとりぼっち〟の予感を、ゆいは思い起こさざるをえなかった。

 あのときは実際に死んで、今はかろうじて核は無事という違いはあるが。

 身震いが漏れるのは同じだ。〝ひとりぼっち〟への恐怖が暴れ回るのは同じだ。

 みんなと一緒、彼と一緒に頑張れるクラス委員長であるという仮面が崩れ、情けなく泣き叫んでしまいたくなる。でもころせ。今はまだ大丈夫なのだから。孤独に死んではいないのだから。立て直せ、化け物。いずって探して、下半身の肉と合わせればすぐに元通りだ。

 そうして、いつも通りに戻ろう。普通に戻ろう。

 ベッドの中で夢を見たときと同じだ。孤独に最悪に近付いてしまったあのときを思い出して跳ね起きて、がたがたと震えて朝を待っているときと同じだ。

 これからのことを考えろ。まだ、自分は、〝ひとりぼっち〟じゃない。化け物の主人一匹だけでも〝ひとりぼっち〟よりはマシと自分に言い聞かせて動いていたあのときとも違う。

 自分は特別でなく、すなわち孤独でなく、みんなと一緒に在れる。

 同じ立場の彼が、特別な自分を見ないでいてくれる。

 そういう黙殺の契約がある。

 だから、大丈夫だ。それにすがれ。これからも〝ひとりぼっち〟にならないように。

 これからも──


 頭の中に不可思議な《声》が届いてきたのはそのときだった。今までに体験したことのない、異様な感覚。情報の一方的陵辱。自意識の内部がのぞされているような不快感の中、さらにそこで伝えられた内容がゆいの存在しない背筋を震わせた。

 それは、聞いていない。

 多分、彼が言わなかったのは悪意ではない。

 裏付けが取れない、あちら側の振りかざす一方的な理由であるから、彼は保留していただけだろう。一から十まで全て説明できる余裕のある状況でもなかったことだし。

 けれど駄目だ。

 この状況を支配する監督者から告げられてしまえば、疑うことはできない。

 これからも彼との契約が続く限り自分は自分のままでいられる。

 特別でない、〝ひとりぼっち〟でない、みんなと一緒のたにゆいでいられる。

 でも──戦争の終わりが近いということが、明確に告げられてしまったなら。

 タイムリミットの存在が、残酷に提示されてしまったなら。

 考えざるをえない。

 契約が続くのは、いつまで?

 私が孤独な終わりを迎えずにいられるのは──いつまで?


 論理的に考れば、当然だ。こうするしかない。

 だから言うべきことを言った。

 つえの姿の彼が返してくるのはげんな気配。まだ理解が至らないのか、あるいはそのふりをしているのか。

 今までずっと先送りにしていた問題の行き止まりが、ここなのだ。

 向き合わねばならない。


 ダークエルフが、全てを見透かすような薄笑いでこちらを見ていた。



 シーナが一歩を踏み出すと、それに反応してゆいも一歩下がった。

 そうしてれんすけは理解する。彼女は警戒しているのだ──シーナを。

「まあ、そうだな。理解はするぜ。やべえって思うタイミングだ」

「……」

「今までなあなあでやってきたが、終わりが見えちまうとそうもいかねえよな。あたしも体験してるぜ。同じ城にたまたま同じタイミングで忍び込んだやつと、なんとなく互いに利用して進んだこともあったが……それも宝物庫を開けるところまでだ」

「委員長。さっき言ったことは──」

「本当よ。状況が変わったわ。エルフが動いた理由が、もっと先にわかっていたら──私はこの山にまで来なかったかもね」

 終わりが見えたということ。

 単純なその一要素こそが、自分たちにとって致命の毒だった。

 どこまで契約を続けるのかという大事な部分をないがしろにしていた、穴だらけの協力関係の、代償だった。

 彼女の『普通でい続けたい』という願望は。

『終わり』という概念とは、あまりに相性が悪すぎた。

 後ずさりをするように、静かに彼女は後退していく。シーナは彼女から視線を外さないまま、近くの地面をまさぐって、カリンに斬り飛ばされていた腕を拾い上げてくっつけていた。治るまではあとどれだけか。ゆいとの間合いを詰めようとする様子はない。

 木々の向こうにその姿を隠す寸前、ふと、ゆいが小さく顔を上げるような動き。

「……多分、理由は私の携帯だろうから、そのけじめだけはつけておくわ。名義がどうあれ、森の中から出てる電波は見逃さないというわけでしょう」

「なに?」

「最後の忠告。私たち、囲まれてると思うわ」



 なが南駆動騎士団・第一特務用格納庫ハンガー


 壁に大穴の開いた、倉庫のように開けた空間。棚から物がこぼちたり割れた電灯が散らばっていたりするさんたんたる有り様だが、これでも機能しているだけマシだ。騎士団の他の建物はまともにどうしているほうが少ない。

「おや? 何かあったのかな?」

 固定されたリボルヴの整備を行っていた白衣に金髪の女が、にゅっと機材の影から首を出すようにして言う。この場にいたもう二人がそろって動きを止めたように感じたからだ。

「……いや。特には」

「ええ」

 たるエルフとそのけんぞく、すなわちセリアメア・ピナイステリとひとは、同時に頭の中に聞こえてきた《声》を受け、その顔を見合わせていた。

 終わりが近いということ自体は先行者の特権として、事前に同じような《声》で聞いていたことではある。

 ただ、追加された情報があった。それは単純な言葉だけで、解釈の余地があるのは確かだったが、少なくとも虚偽は含まれてはいまい──なにしろ神の言うことなのだから。

「聞いたか? 勝者には世界が与えられる、らしいぞ。どう思うね?」

 たわむれに問うと、セリアメアはたいした興味もなさそうに首を縮めた。

「元よりそのつもりです」

「エルフという種族がになう、新しい世界……それが具体的にどういう形になるかは、いくつかのパターンが考えられるが」

「意味が変わるとは思えません。手間が減るか増えるか、というだけでしょう」

「そうだな」

 今回の情報開示は、たちにとって特に意味があるものではなかった。

 抱いていた目的が、神の用意していたそれと合致していた──ただそれだけのこと。

 自分たちの求めているものは、元より《エルフの世界》を手に入れることなのだから。

 それを視線で確認し合えば、今の神の声に対する感想はもう必要ない。

「しかし、てんらんばし博士。本当にいいのかね」

「何が?」

 リボルヴに対する手を止めないまま、声だけが返ってくる。

「正直なところ、どこまで手伝ってもらえるものかと思っていた」

「HA。ワタシの知的好奇心は留まるところを知らないゾ? こんな面白そうな話があるのに途中で止めて何になる。それに……」

 何かをうかがうような一息。なんとなくだが、ここにいないもう一人、疲れ切って仮眠室で眠りに落ちている研究員の息遣いを気にしているような気配があった。

「あいつはのぞみんにひどいことを言って傷つけた。少なくともワタシにとっては、気を遣う必要のある相手じゃなくなった」

「そうか」

 そのあたりの事情についてはよくわからなかったが、彼女の決意は固いようだ。ならばこれからもその能力を頼りにさせてもらおう。

 セリアメアがふと思い出したように聞いてきた。

「しかし、いいのですか? 彼らだけで捕まえられるとは思えませんが」

「承知の上だ。今日は突破されるかもしれないが、それは次なる網を狭めることにしかならない。逃亡すればするほど事態は悪くなる。最終的には、逃げきれはしない」

 そのときポケットの電話が鳴り、よそ行きの声で通話に出た。いくつかのやりとりを経て、うなずく。

「そうですか。情報提供したがありました。なが南駆動騎士団の長として、公安部の作戦の成功を祈ります。犠牲となった部下たちの無念を晴らすには──一刻も早い原因究明が必要ですから」



あさくられんすけくん! いるのはわかっています。話をしましょう!』

 周囲の森から聞こえてきたのは、拡声器から発せられたような女の声だった。

『聞きたいことがあるだけです。悪いようにはしません。いいですね?』

 確認を取っておきながら、有無を言わさぬ感じがあった。そしてもう姿が見えないゆいがさっき言った通り、全方位から人の気配がする。今やもう茂みをけて近付いてくる音がはっきりと聞こえている。

「なんだあ?」

「民間のニュースになってるってことは、他の……公的な機関はもう具体的に動いててもおかしくないってことだろ」

「へえ。騎士団か?」

「どっちの世界での意味で言っているのかによるな。治安維持の組織って意味ではその通り。さすがにこっちの世界の騎士団は、まだ俺一人を追いかけられるような状況じゃないはずだ」

れんすけつえだし、あたしがここにいるのは大丈夫か?」

「無理だろ。どこが動いてるにしろ、これは絶対にの差し金だ。シーナも仲間として情報が伝わってると思う」

「ふーん。じゃあ逃げないとな。面倒臭ぇのは嫌いだ」

 素早く周囲の様子をうかがったシーナが、人の気配が薄い方向に走り出す。同時、第一陣が先程までいた場所の茂みから顔を出した。やはり見知らぬ男たち。野外行動用の動きやすい服装ではあるが、予想通りに公的機関の人間がまとっているようなきっちりした雰囲気を漂わせている。

「女が逃げた! 追え!」

「待て! 逃げきれんぞ、諦めろ!」

 その声、冗談事ではない大人の本気が直接的に届いてきたことで、れんすけは存在しない背筋がぞくりと震えるのを感じた。圧倒的な実感が、唐突に湧き上がってきたのだ。

 自分たちは本当に……社会の敵に、なってしまったのだと。

 シーナは振り向かずに走っていく。

 その意味に気付いたのは、茂みを飛び出してそれを見た瞬間だった。少なくともれんすけは想像していなかった。論理的に考えれば当然だったのに、頭がく回っていなかった。

 囲まれているとゆいが忠告したのに。人気のない方向をシーナが察知し、走り出せているのはなぜか──?

 その方向にいた人間がいなくなっていたからだった。

 今まで人間だった新鮮な肉たちが、五体を適当に飛び散らせ、木の枝に部品をぶら下げ、茂みを前衛芸術じみて派手な色に染めていた。おそらくは二、三人ぶん。女の長い髪を持った上半身もある。男の太い腕もある。

 シーナは通りすがりに軽くしゃがみ込み、鼻を鳴らしてその腕を持ち上げた。切断面はどちらかと言えば鋭いものではなく、大雑把で巨大な何かで断たれたような様子だ。

「あーあー。こいつは多分、カリンのおのだな。逃げてく途中でたまたま出会っちまったってカンジか」

「シーナ。今は、逃げるのを優先にしよう……」

「そうだな」

 犠牲者たちに思うところがないでもないが、祈るのもいたむのも不適だろう。シーナを促したそのとき、追っ手が後方から姿を現した。先程とはまた違う、細身のストライプスーツを着た若い女だった。清潔感のあるポニーテールの髪型をした、女刑事のような印象を受ける人間。「待ちなさい! 逃げても何にも……ひっ!」

 喉の奥、れた音。その目が死体を捉える。死体を損壊し腕を持って弄んでいるように見えるダークエルフを捉える。顔面をゆがめた彼女は無理矢理に怒気を込めた視線をこちらに向け、気丈にも何か言葉を続けようとして、だがその拍子に耐えきれなくなったらしくおうした。

「くそっ、こいつはぁっ……やりやがったな! しっかりしろ山下ぁ!」

「ぅえっ……すみ、ません……!」

 遅れて現れた中年男が一喝したとき、既にシーナは再び走り始めている。警察か、それとも別の組織かは知らないが、死体はきっと彼女らの顔見知りだったのだろう。それが一瞬で命なき肉塊に変じていたのだから、あの反応だって当たり前だ。どんな職についていようとも、普通の人間なら。

 ああ、でも、これはさらなる理由を与える。誤解でも、きっと、彼らは今の死にも自分たちが関係していると見るだろう。諦めることなく、おびえることなく、本気で追ってくるだろう。

 これから──ずっと。

 れんすけはどうしてこうなったと考える。

 セイレーンを倒したところまではよかったのに。

 エルフに襲われ、ゆいは立ち去り、カリンは頭のおかしい脅威で、人間たちには追われるようになって──仲間は、誰もいない。

 どうしてだって? 本気で言ってるのか? と、頭の中の一部分がやけっぱちに冷笑した。

 最初からわかっていたはずだ。ご丁寧に最初からは言っていただろう。あの大人は社会という力を使う。最初からそれをちらつかせて、見せびらかして、自分たちを思い通りにしようとしてきたのではないのか。

 理解していながらも、それを現実の脅威と考えず、今すぐ襲い来るものだと考えず、対応を後回しにしていた自分の落ち度だ。自分が、甘かったというだけだ。

「シーナ……ごめん」

 思わず口をついて出ていた。

「あん? なんでお前が謝るんだよ」

「状況が悪すぎる。もっとなんとかできたはずだ。こんな──」

「いやいや。なんでそんな暗くなってんだよ」

 足を止めないまま、シーナはどこかあっけらかんとした調子で言った。

「よくわかんねー理由で、誰かも知らねーやつらに追われまくる。そんなの日常茶飯事だろ。忘れてんのか? 誰もが眉をひそめて唾を吐く、嫌われ者のダークエルフだぞ、あたしは」

 れんすけれんすけだったから、それが彼女の本心で、いかなるうそまんもないことがわかった。

 さらに彼女は言う。

 草葉を髪にかすめ、木々の枝から枝へ飛び移りながら、

「ある意味、なつかしいじゃん。むしろ楽しくなってきたぜ?」

 森を一人駆けるダークエルフは、軽やかに笑むのだ。

 ひようひようと、不敵に、それでいて太陽のように朗らかに──本当に、楽しそうに。

 彼女一人。その笑顔を見ているのも、自分一人。

 だったら、それでいいじゃないか。

 存在しない心臓に熱いものが刺さった。

 それはあさくられんすけというモノが動くための、全ての原動力。

「いーやマジで、なーんも考えずに森をかっ飛ばすのもアリだな。久しぶりだからクソ気持ちいいっつーの! てなわけで全力で走るかんな! どこに着くかとか知らねー!」

 そんなシーナの力強くも無軌道な言葉が、れんすけの意識を前に向けさせる。

 そうだ。ただ、前へ、前へ。

 益体もない悔悟は無意味だ。開き直りでもいい。進め。

 状況が悪かろうが、すべきことは何も変わらない。

 自分はただ、彼女と一緒にいるために、すべきことをし続けるだけだ──