甘い苦み


 ナバラル王国のお家騒動に巻き込んでしまったウォルフォード夫妻が帰国する前日。彼らが最後の挨拶に来た日のことである。

 屋敷に現れた夫妻の姿を見て、クラウディオは目を丸くした。

(もう牽制する必要もないだろうに。独占欲丸出しじゃないか)

 苦笑いを浮かべてしまうのは仕方のないことだ。

 フィオナはセドリックの瞳と同じ菫色のドレスを身に纏っていた。菫色のドレス自体は幾度か見たことがあるわけだが、今までのものよりも明らかに気合いが入っている。

 リンディスタ王国らしいふんわりとしたシルエットのスカートは、幾重にもフリルを重ねてある。あくまで訪問着ではあるものの、上品さと豪奢さを兼ね備えたドレスは、セドリックの執念のようなものを感じられた。

 なるほど、フィオナを他の男の目に入らないよう目立たないようにするのではなく、だれがどう見てもセドリックのものだと主張する方向に舵を切ったらしい。

(あの男、開き直ったか? いや、単に鬱憤が溜まっていただけか)

 そういえばあの舞踏会の日、事件が解決してからも、ずっとフィオナのドレスのことで文句を言っていた。

 やれ「何が悲しくて他の男が選んだドレスをフィオナに着せねばならないのだ」だの「露出が多すぎる、見るな」だの、恨みがましい様子を隠そうともしなかった。フィオナのことになると、セドリックはことさら心が狭くなるのだ。

(だからこそ、からかいがいがあるのだがな)

 いつもの居間で、フィオナが淹れてくれた茶を受け取りながら、クラウディオは笑みを溢す。

「ああ、いい香りだ」

 すっきりとした香りの茶葉は、初めて彼女が淹れてくれたものと同じだろう。

 彼女の手ずからの茶ならば、もう毒見も必要ない。彼女への最大限の信頼を示すため、あえて毒見役を下がらせる。そうして、意識してフィオナに甘い笑みを浮かべてみた。

「あの、クラウディオ殿下……?」

 普段ならばこれで落ちない令嬢はいないはずだが、フィオナはただただ困惑するだけだ。

 クラウディオの甘い笑みなど、これっぽっちも気にしていない。それよりも、クラウディオが毒見を必要としていないことに驚いているようだ。

(全く。ブレないな、彼女も)

 冗談半分で口説き続けて、いい加減辟易しているだろうに、それでもなおクラウディオのことを心配してくれる。

「やはり、フィオナが淹れてくれた茶が一番美味いな。どうだ? このままナバラルに――」

「おい、クラウディオ」

「そう睨むな。どうせ次はいつありつけるのかわからん。見逃せ」

 牽制してくるセドリックを一蹴し、フィオナに向かってパチンとウインクしてみせる。

「……そうやってセドリックさまを困らせないでくださいといつも」

 とはいえ、クラウディオのウインクなど無意味だ。

 困惑をおずおずと主張するあたりも、本来、クラウディオの好みからは大きく外れる娘だ。なのに、ちっとも悪い気がしない。それどころか――。

(こんな胸の苦みもあるのだな)

 この歳になって初めて覚えた感覚。なんとなく、後悔と似ているような気もするが。

(…………失恋か。これが)

 クラウディオは経験したことがなかったその苦みを正確に定義した。

 もし、セドリックよりも先に彼女と出会っていたら、運命は変わっていただろうか。

(いや、それならば私の方が、彼女に見向きもしなかっただろう)

 誰に対しても心優しい従順な娘、それをつまらないと評価していた可能性が高い。表面だけを見て全てを知った気になるのは愚か者のすることだが、自分がその愚か者に成り下がっていただろう。

(いろいろ見えているつもりでいたが、反省せねばなるまいな)

 フィオナは大人しそうに見えて、芯が強い。そんな彼女の魅力は、そばにセドリックがいるからこそ際立った。それでようやく、クラウディオにも理解することができた。あの温もりが手に入れられていたら、などと今さら思ってもとっくに手遅れだ。

(完敗だな、セドリックに)

 どうあってもフィオナを手に入れられるビジョンが浮かばない。

(真に欲しいものこそ手に入らない。私はそういう宿命に生まれたのかもしれない)

 なんて、運命を呪いたくなっている自分がいる。

(運命論だ? この私が? 馬鹿らしい)

 自分で自分を笑いたくなるから不思議だ。

「何をニヤニヤしているんだ?」

「いや?」

 セドリックに怪訝な顔をされてしまった。思考が顔に出てしまうことすらも、非常に珍しい。

(彼らといると、知らない自分を引き出されてばかりだな)

 わかっている。結局、彼らがリンディスタ王国に帰ってしまうのが寂しいのだ。

 ほうと息を吐き、もうひとくち茶に口をつける。清涼感のある茶は、口当たりがよく後味もいい。

 きっとフィオナが魔力を混ぜ込んでくれているのだろう。失恋の苦みさえも、どこか悪くないものに感じてしまうから不思議だ。

(この茶の味は、一生忘れないだろうな)

 甘い苦みを噛みしめながら、クラウディオは彼女の淹れてくれた茶を味わった。