第六章 好きな人は、あなただけ
どうしてこのようなものに袖を通さなければならないのだろうか。
いや、わかっている。ドレスに罪はない。けれど、どうしても複雑な気持ちになってしまう。
フィオナは鏡に映る自分の姿を見つめてため息をついた。普段だったらもっと自然と笑えるはずなのに、今は気分が塞いでしまう。
(別に、似合っていないわけではないと思うの。でも――)
この日のフィオナの装いは、普段彼女が身につけるドレスとは少し趣が異なっていた。
青みがかったシルバーのドレスは、フィオナの体のラインにぴったりと添ったマーメイドラインだ。スカートの裾に向かってたっぷりとフリルが入っており、大人っぽさと華やかさを両立している。キャラメルブロンドの豊かな髪は、編み込みながら胸もとへと垂らしていた。ところどころ宝石を散りばめることで、髪全体が艶めいて見える。さらに、後ろが大きく開いており、背中がよく見えるセクシーなデザインのドレスが映えている。
このドレスが、フィオナの新たな魅力を引き出してくれていると言ってもいいだろう。まったくもって嬉しくないけれども。
(よりにもよって、カリスト殿下からの贈り物に袖を通さなければいけないなんて)
憂鬱な気持ちになってしまうのは仕方がないことだと思う。
フィオナは今、ナバラル王国の王宮の離れにある客間で、建国を祝う大夜会への参加へ向けて準備を進めていた。
別荘から強制連行されて四日、この王宮の客間に監禁されていたわけだ。
『ウォルフォード夫妻を狙っている者がいる。だから、ナバラル王国は他国の要人を責任持って警護するために、その身柄を保護することにした』
それがナバラル王家の言い分だった。
あまりに急なことで、まさに身ひとつだった。ドレスもなにも持ち込む余裕などなく、ロビンたちとも引き離されると、身の回りのことはナバラル王国側に頼らないといけない。結果として、不本意ながらもこのドレスを受け入れているわけである。
(でも――)
フィオナは
「セドリックさま、準備できました」
思い切って衝立からひょこりと姿を現してみる。そこでは、愛する夫のセドリックが待ってくれていた。
「ああ、フィオナ。支度は調ったみたいだな」
今宵執り行われる大夜会、そこに、フィオナはセドリックとともに招待されていた。だから、もちろんセドリックもパーティー仕様だ。
ダークグレーのタキシードに少し明るいグレーのベストを合わせ、ミッドナイトブルーのアスコットタイを合わせている。シックな色合いながらも繊維の光沢による華やかさもあり、目が離せなくなる。
ソファーにドッカリと腰かけた彼は、さながらこの王宮の主である。なんとも威風堂々とした佇まいだ。
気の弱いフィオナと違って、やはりセドリックは百戦錬磨なのだろう。異国の地で、使用人たちとも引き離されてふたりきり。心細くなりそうなものだが、むしろ開き直っている。
ナバラルの者たちはことあるごとに、フィオナとセドリックを引き離そうと画策してくるが、すべて綺麗に突っぱねる。絶対にフィオナと離れないぞという断固たる決意で、四日間、すっかり居座っていたのである。
絶対に離れないというのは、言葉通り、片時も離れることがないということだ。互いにこの客間から外には一歩も出ない。どちらか片方が一歩でも出てしまったら、そのまま引き離されそうだったからだ。
だからセドリックの身支度もこの客間内で行われていた。衝立の向こうとこちら、それぞれ準備していたわけだが――。
(セドリックさまったら、言いたい放題仰って)
思い出すだけで少しだけ笑えてくるから不思議だ。自分たちは事件に巻き込まれた被害者のはずなのに、向こうの侍女たちに同情したい気持ちになってしまったのはこれいかに。
『このコートにはこの色のタイは合わない、変えてくれ』
『君たちは私に恥をかかせるために、こんな行動制限をかけているのか? まともに服も選べないようなら、今日の出席は辞退させてもらうしかないな』
などと、なかば言いがかりに近いようなもの言いであったが、それはもう言いたい放題だった。直接見ていないが、セドリック付きの侍女は涙目になっていたのではないだろうか。
理不尽な監禁で、相手のペースに呑まれないようにと、セドリックは終始この様子であった。
「どうした、フィオナ。随分と楽しそうだな?」
「え? いいえ? うふふ」
つい思い出し笑いをしていると、セドリックが立ち上がり、こちらに歩いてくる。
「綺麗だ――なんて、素直に言えたらよかったが」
そう耳元で囁いてから、化粧が崩れないようにとそこにキスをくれる。
タイトなドレスだから、抱きしめてくれる彼の手の感触がよくわかる。この部屋に閉じ込められてから、結局彼と肌を重ねることはなかったからこそ、この距離感にいまだにドキドキしてしまうのだ。
「あの男の贈ったドレスだと思うと、今すぐ全部脱がしてしまいたくなるがな」
「もう、セドリックさまったら!」
「わかっている。――まあ、それはすべて終わってからの楽しみにするさ」
などと色気たっぷりに囁き、ウインクをする。
(セドリックさま、本当に変わった)
知らない人の前で堂々とフィオナを抱き寄せたりキスしたりするのは、気恥ずかしくはある。けれども、いくら状況がよくなかろうと、この人についていけば大丈夫だと思わせてくれる。
そうしてセドリックは部屋の入り口の方へと目を向けた。
そこには先ほどまでフィオナの準備を手伝ってくれていた侍女たちがずらりと立っている。彼女たちが纏う空気は独特で、全員が全員、なぜかセドリックに冷ややかな目を向けていた。
単純にセドリックが彼女たちを困らせたことが原因ではない。どうも、ここにやってくるナバラル王国の人間は、揃いも揃ってセドリックを敵視しているのである。だからこそ、セドリックも居直ってわがまま放題しているわけだが。
今もまるで針の
「まあ、こんな状況でいるのも今日までと思えばな」
せいせいする、とでも言うかのような表情だ。
「せっかくだ。パーティーを楽しもうじゃないか。なあ、フィオナ」
ナバラル王国の建国祭は、昼間は伝統的な祭事を、そして夜は各国の招待客を含めた大夜会を執り行う。――と聞き及んでいたはずだが、王宮の大広間で談笑している者のほとんどが、ナバラル王国の貴族のようだった。
この国に滞在し、別荘街と中心街の往復をしていたフィオナにとって、とても意外に思えた。なぜならフィオナが見てきたこの国の景色には、必ず様々な人種の人たちが入り交じっていたからだ。
今思うとそれは、観光大国ならではの景色だったのだろう。様々な国出身の人たちが行き交う街並みは、なんとも不思議で心躍る光景だった。
しかしこの大夜会の会場はどうだ。国外の招待客が大勢いると謳っておいて、蓋を開けてみればそのほとんどがナバラル人で構成されている。もちろん、全員が全員というわけではないものの、多様な人種が入り交じる光景を見慣れすぎていて、奇妙な違和感を覚えてしまった。
そういえばこの国は、もともとかなり保守的な考え方を持つ国だったらしい。だからこそ、セドリックやオズワルドが、先進的な考え方を持つクラウディオを王太子に推したがっていたのだ。
ナバラル王国の抱える問題を目の当たりにした気がして、フィオナは心の奥のざわめきを感じつつ、会場を見渡した。
会場自体はとても華やかだった。
白い柱や白い壁には隅々まで、神話を模した彫刻が彫り込まれている。シャンデリアの形も、リンディスタ王国で見るものとは異なっており、動物や花など自然を思い起こされる飾りが揺れていた。歌劇を観たり、この国の歴史ある建築物を見てきたりしたからわかる。どのモチーフも、この国の神話に関わるものだ。
煌々と明かりが灯る会場には、男性は詰め襟のコート、女性はタイトなマーメイドラインのドレスを身に纏っている者が多かった。
ダンスの起源は同じだからか、耳慣れた曲が流れてくる。男女が体を寄せ合って踏んでいるステップも、フィオナが知っているものと大差ない。これならば恥をかくこともないだろう。
(踊る余裕があるかどうかはわからないけど)
フィオナは慎重に周囲に視線を向けた。
監視は続いているはずだ。しかし、ナバラル貴族の全員にカリストの息がかかっているとは考えにくいし、ここには観衆の目がある。夜会の参加者としておかしくない行動をする分には特に問題がないだろう。
ただ、それらの観衆も、けっしてフィオナたちの味方とはなりえないようだ。
実は、会場に入ってからというもの、どうも好意的ではない目を向けられている気がするのだ。
(わたしが女魔法使いだとバレてる――わけではないみたいなのよね)
そもそも、彼らはフィオナを見ているわけではない。むしろセドリックの方に視線が集まっているのである。
(えっと? セドリックさまが素敵すぎるから――でもないようね?)
どちらかというと、非難の目だ。離れの客室で侍女たちが見せていた、まるで敵を見るかのような眼差し。
つい不安になり、セドリックの腕にしがみつく。ただ、当のセドリックは動じていない。ずっと涼しい顔をして、堂々と振る舞っている。
「大丈夫だ、フィオナ。私を誰だと思っている」
「え? 誰って、ええと、セドリックさま」
「はは、そのまますぎるな。――そうじゃなくて。これでも、王城では冷酷な次期公爵と呼ばれていたらしいぞ?」
だから、これくらいの視線はなんともないと笑っている。さすがの肝の据わりように、フィオナも感心してこくこくと首を縦に振った。
「やあ、随分久しぶりだな」
ふと、聞き覚えのある声が聞こえて瞬いた。ぱっと振り返ると、そこにはなんともこの会場では目立つ風貌の男たちが立っている。むしろ、こんなに近くに寄られるまで気付かなかったとは驚きである。
「殿下! それに、アラン」
セドリックもようやく彼らの存在に気付いたようで、少し驚いたような顔をしている。
アランがパチンとウインクしているあたり、なにか魔法を使って目立たないようにやってきたのかもしれない。
「なんだかんだ元気そうだね、ふたりとも」
アランはライトグレーのコートでスマートな印象にまとめており、普段のだぼっとした印象とは随分と異なる。
「これで元気そうに見えるのなら、お前の目は節穴だな」
「あっはっは! それだけ嫌みが言えるなら元気そのものじゃない。よかったよかった」
しゃべるとアランその人だけれども、黙って立っているとまさに高位貴族の子息に見えるから不思議だ。
「なにが不満なんだ、ウォルフォード。休暇を延長して奥方と水入らずの時間を楽しめているのだろう?」
「長い休暇をどうも。ええ、存分に楽しませていただいておりますとも!」
次に話しかけてきたのは、オズワルドだ。招待されるとは聞き及んでいたけれど、本当にナバラル王国で会えると思っていなかった。
白いコートを身に纏った彼はさすがの優美さだった。立っているだけなのに存在感がある。ダークな色彩が似合うセドリックと並ぶと、まさに太陽と月という印象で、皆の注目を浴びている。
「おもしろいことになっているとは聞いたぞ」
「夫婦水入らずと言えば聞こえはいいですけれどもね。――はぁ、早くリンディスタに帰りたい」
馴染みのふたりを前にして、ようやく溢れ出たセドリックの本音に、ふたりしてどっと笑っている。
「今のウォルフォードを見られただけでも、急いでリンディスタからやってきたかいがあるものだな!」
「ね! セドさん感謝してよ。もうね、大変だったんだから、ここまで来るの」
そういえばアランとはほんの数日前に会ったばかりだ。一度リンディスタに帰国して、本当にすぐに発ったのだろう。
そして、この日程でオズワルドまで一緒とはどういうことだろう。確かにカリストはオズワルドをパーティーに招待したとは言っていたが、かなり急だったのではないだろうか。
招待するナバラル王国もナバラル王国だが、やってきてしまうオズワルドもオズワルドだ。
(セドリックさま、いつもおふたりに振り回されてるって……)
彼らの行動力に、その
「ええと? 私たちはどうも誰かに狙われていたらしくてですね、王宮で丁重に保護をしていただいておりました。ええ! ――そろそろ、故郷の空気が懐かしく思えていたのです」
周囲に聞かれても問題ないよう、当たり障りのない言葉で、セドリックが現状の報告をはじめる。
もちろんこれは、ナバラル王国がでっち上げた拉致監禁のためのシナリオでしかない。丁重に、という言葉を強調していたあたり、彼の本音が見え隠れするけれど、ある程度の状況は伝わったのだろう。
「なるほどな。それは大変だったな」
わざとらしく頷くオズワルドを前に、セドリックは己の懐に手を入れた。
自然と話題を変えるように、さりげなく一枚のハンカチーフを彼に差し出している。
「まあ、おかげさまでこの国の文化を堪能できましたけれどもね。――どうですか、こちら。なかなかいいでしょう?」
別荘から王宮に連れていかれる際、十分な用意をする時間など与えられなかった。本当に身ひとつだったため、フィオナの刺繍が入ったものは、ほとんど持ち込めなかったのである。
魔法鳥に関しても同じだ。だから状況を報告すらできていなかった。
そうしてリンディスタ王国と連絡を取れなくすることも、カリストの作戦だったのだろう。
今も、周囲の者たちに聞かれても大丈夫な程度しか会話ができない。その中で、オズワルドは精いっぱいこちらの意図を汲み取ろうとしてくれているらしい。
「なるほど、これは見事だな」
そう言いながら、オズワルドはハンカチーフを自然に受け取る。もちろん、その刺繍を刺したのはフィオナ本人だ。ナバラル王国ならではの伝統意匠に感銘を受けて縫い上げた一品である。王宮に連行される際、たまたまセドリックが身につけていたのだ。
(はぐれ魔法使いがどこから仕掛けてくるかわからないものね)
カリストと件のはぐれ魔法使いは、きっと裏で繋がっている。現に、離れで生活する間、セドリックは何度も魔法をかけられそうになったのだ。主に食事に相手の魔力が混ぜ込まれていた。
フィオナがずっと一緒だったため、最悪の事態は回避し続けてきたが、本当に危険なのは今夜だ。人が多いこの会場で、直接接触してくる可能性はかなり高い。そしてこの状況下で、狙われる可能性が高いのがセドリックとオズワルドだ。
特に、王太子であるオズワルドが巻き込まれるようなことがあったら目も当てられない。そもそも今回は、それを狙っての急な招待としか考えられないのだ。
フィオナたち夫婦ももちろんだが、ここにリンディスタ王国の王太子であるオズワルドがいる以上、彼の安全が第一だ。
フィオナの刺繍だって万能ではない。癒やすのには時間がかかるし、あくまで相手の魔法の威力を軽減させるくらいだ。でも、あるのとないのとでは全然違う。だから、いわゆるお守り代わりにオズワルドに持っていてもらうことにした。
(今日こそはぐれ魔法使いをあぶり出して、あとは――)
その時、会場の一部から華やいだ声が聞こえてきた。目的の人物のうちのひとりが姿を現したようである。
カリスト・イサーク・エメ・ナバラル。
銀色の髪を三つ編みにまとめた彼は、この国特有の詰め襟のロングコートを身に纏っている。大変仕立てがよく、その表面には生地と同色の糸による刺繍がびっちりと入っているようだ。この国の正装は形自体はスッキリとシンプルながらも、その仕立てから滲み出る表情がとても上品で艶めいて見えた。
そんなカリストだが、前に月海の帳で出会った時の二面性を感じる笑みはなりを潜め、今は柔和な笑みを浮かべている。あっという間に挨拶待ちの人々に囲まれ、フィオナたちからは見えなくなってしまった。
ただ、肝心のもうひとりの方はいまだに姿を見せていない。
つまり、クラウディオである。
(昨年は欠席されたとうかがっているし、そもそも来てくださる保証なんてどこにもない)
先日、セドリックを通じて刺繍入りのハンカチーフは渡してある。ただ、それに込めたフィオナの魔法が、どれだけ彼を護り続けてくれるかは不明だ。この大夜会に顔を出してもらえるかどうかは、ある種の賭けになる。けれど――。
(セドリックさまが、必ず来ると仰っていた。だから、わたしも信じて行動するだけよ)
そう心に決めたその時だった。
「フィオナ」
ふと、隣に立っているセドリックに声をかけられる。
「随分表情が強張っている」
「え!? あ、申し訳ありません」
「いや、かなり緊張しているようだな」
それはそうかもしれない。緊張を解そうと深呼吸するも、なかなか表情は柔らかくならない。
「殿下、失礼いたします。少し妻の緊張を和らげてくるとします」
唐突にセドリックが切り出した。オズワルドはと言うと、優雅に微笑みながら軽く手を振る。
「ああ、せっかくナバラルの大夜会に招待されたのだ。楽しんでくるといい」
いったいなにを、と瞬いたところで、セドリックが手を引いた。
「ではフィオナ。私と一曲、踊ってくれるな?」
「セドリックさま?」
「せっかくだし、楽しまないと損だろう?」
まるで開き直ったかのように、セドリックが口の端を上げている。
その笑顔につられて、フィオナも笑った。
「――そうですね。喜んで!」
大きく頷き、重ねた手に力を入れる。
ちょうど音楽が切り替わったようだ。エキゾチックなリズムのものから、優雅な三拍子に。
(セドリックさまとダンスをするのは久しぶりね)
セドリックはもともと夜会に頻繁に出るような人ではないし、フィオナも社交関係はなかなかに慎ましい。だから、セドリックと踊る機会は多くないのだ。
さすがに音楽は一流で、その華やかなリズムに自然と体が動き出す。セドリックのリードは見事のひと言で、フィオナも流れるように彼のリードに身を任せた。
今だけは、色んなしがらみも厄介事も全部忘れて、ただただダンスを楽しんだ。自然と表情も綻んでいたのだろう。セドリックも満足そうに頬を緩める。
セドリックに対してあからさまな敵意を向けていた人たちも、仲睦まじく踊るフィオナたちの様子に困惑しているようだ。
「噂とは違う」という声がちらほら聞こえた気がするが、今はセドリックだ。彼と一緒にステップを踏めているのがとても楽しい。
今だけはふたりだけの世界にいるような心地で、フィオナは笑顔の花を咲かせた。セドリックも同じ気持ちなのか、目を細めて蕩けるような笑みを浮かべていた。
その甘い微笑みに、周囲の令嬢たちがうっかり見とれていることすら気が付かず、ふたりは音楽に身を任せた。そうして、一曲どころか、二曲目までしっかり楽しんでしまい、微笑み合う。
「――少し喉が渇いたな」
そう言いながらセドリックはダンスフロアからフィオナを誘い出した。
ざわつく人々の波をかき分け、ワインを取りに行く。給仕に声をかけ、グラスを受け取った。
「フィオナはこちらの方が好みだろう?」
そう言いながら、自然とアルコールの軽いものを選んでくれる。
束の間の休息だ。ほんのりとピンクに染まった優しい色のシャンパンは、口につけるとふんわりと甘い香りが広がった。ワインとはまた違った口当たりで、まるでジュースみたいにするすると飲めてしまいそうだ。
(でも、今日はあまり酔わないようにしないと)
ほんのりと頬を染めながら、軽く口の中を潤すにとどめる。セドリックも同じ考えらしく、ひと口ふた口と赤ワインに口をつけてから、すぐにダンスホールの方へと目を向けた。
華やかなパーティーは続いている。オズワルドはこの国の貴族たちに囲まれているようだし、気が付けばアランの姿はなぜか見えなくなっている。いったいどこに行ったのだろうか。
あとは――と思ったところで、ざわめきがこちらに近付いてきた。
「楽しい時間もここまでか」
セドリックの声が一気に重たくなった。フィオナもごくりと息を呑み、ざわめきの方向へ顔を向ける。
青みがかった銀色の髪が揺れるのが見えた。感情の見えない笑顔を貼りつけ、大勢の供を引き連れてやってきたのは、ナバラル王国第二王子カリストだった。
彼はわざわざフィオナの前まで歩いてきて、優美に微笑んでみせる。白い肌に不思議な色彩の瞳。その中性的な顔立ちから、彼がとても人気があることがよくわかる。
「よかった、来てくれたんだね、フィオナ」
フィオナを目の前にして、カリストの笑顔は一気に蕩けた。まるで特別な人を前にするかのごとき表情に、周囲の令嬢たちが黄色い声をあげている。
一気に注目が集まり、フィオナは息を呑んだ。
なんとカリストはフィオナにしか目を向けるつもりはないらしい。わざとセドリックを無視するようなあからさまな態度だ。
「ああ、そのドレス、とてもよく似合っている。贈ったかいがあったよ」
瞬間、周囲がざわめいた。わざわざ女性にドレスを贈るなど、意味はひとつしかない。
フィオナが纏っているドレスが、カリストの髪色と同じ青みがかったシルバーであることも要因だろう。これしか着るものがなかっただけなのだが、まるでフィオナがカリストの想い人であるかのようだ。
「カリスト殿下、このたびは夜会への招待、そして、我ら夫婦の状況を鑑みての保護をありがとうございました。夫婦共々、大変感謝しております」
間髪を容れずセドリックが礼を言う。わざわざ夫婦という言葉を繰り返すあたり、セドリックも負けるつもりはないのだろう。
どうも、フィオナたちにとってよろしくない噂が流れていることは把握した。
セドリックに向けられる敵意の眼差しもその影響だろう。保護という名目で王宮に拉致監禁された数日の間に、なにやらとんでもない噂を流されている気がする。
フィオナたちが与り知らぬところで流れている最新のゴシップに、会場内が興味津々といった様子なのだ。
いよいよ皆の注目が十分に集まったと判断したのだろう。カリストは満を持して、フィオナに手を差し出した。
「せっかくの機会だ。フィオナ、どうか僕と一曲踊ってくれるかい?」
たちまち周囲に黄色い声があがった。それらは主に、若い女性からの声が多いようだ。
「どうするのかしら、受けるのかしら!?」
「きっと受けるでしょう! だって、あの方の旦那さまって――」
「どんなにお美しい殿方でも、ねえ?」
興奮しているせいか、ひそひそ声が大きくなる。
「カリスト殿下ならきっと、あの女性をお助けになるわ」
そこまで聞いてようやく、思った以上にセドリックに関する噂が悪質であることを理解した。
まさかフィオナが虐げられているとか、そういう噂だったりするのだろうか。
(助けるって、わたしを? え、どういうこと――って!?)
チラッとセドリックに視線を送った瞬間、フィオナは凍りついた。フィオナに向けていた自然な笑顔はどこへやら。キラキラと眩しいくらいの笑みを貼りつけているのである。一見優雅なようだが、目がちっとも笑っていない。完璧すぎて、逆に怖い。
もともとの作戦では、今宵、カリストの誘いがあれば受ける予定であった。セドリックもそれは理解しているはずなのに、このあり様だ。
バチバチと、ふたりの間に火花が飛び散っている。フィオナは逃げたくなる衝動を抑え込み、どうにか笑顔を作った。
遠くからこちらの様子を見ているオズワルドが肩を竦めている。そんな彼とアイコンタクトを交わし、フィオナは気合いを入れ直す。
(セドリックさまが暴走しないように、わたしがしっかりしないと……!)
そう意気込み、彼の腕を引っ張る。
(セドリックさま、セドリックさま! わたし、行ってきますからね!)
声には出せないが、気持ちは伝わったようだ。ようやくセドリックも我に返ったらしく、こほんと咳払いをしている。
(よし……!)
きゅっと手にしたグラスを持つ手に力が入ってしまうも、フィオナは意識して深く呼吸を繰り返す。そうして優雅に一礼した。
「――喜んでお受けいたします」
給仕にグラスを渡して、代わりにその手をカリストへと差し出した。カリストはにっこりと微笑み、フィオナの手を取る。そうして手の甲に恭しくキスを落とし、フィオナをダンスホールへと誘った。
セドリックと距離が離れていく。ふと彼の方を振り返ると、相変わらずの氷の笑顔である。グラスを持つ手にギリギリと力が入っているのが遠くから見てもわかるほどだ。
(あと少し! 少しだけ我慢してください、セドリックさま!)
心の奥で叫びながらも、まずはカリストが用意したシナリオに乗るしかない。
カリストが踊るということで、音楽はいっそう華やいだ。
ダンスホールはまるでカリストとフィオナのためだけに存在するかのように、誰もいない。他の招待客たちは見物に回るつもりのようだ。
広いダンスホールを独占し、ふたりでくるくるとステップを踏む。さすが第二王子と言うべきか、カリストのステップも完璧で、悔しいが非常に踊りやすい。
ただ、どうしても気分は乗らなかった。そこをなんとか取り繕い、笑顔を作る。そうしてフィオナは隣国の王子に対する礼儀を尽くした。
一曲終わった頃には、誰もがフィオナたちに注目していて、会場は拍手で溢れていた。
「――フィオナ」