第五章 はぐれ魔法使い


 クラウディオのことなどもう知らない。

 彼を取り巻く環境も、王位継承権も、他国の人間であるフィオナたちには本来関係ない。そう割り切り、フィオナたちはナバラル王国で過ごす日々を精いっぱい楽しむことにした。

「よくよく考えてみると、この国に足止めされたおかげで、合法的に休暇が延長されるのか」

 もともと三週間だったはずの休暇も、帰国できないのなら仕方がない。問答無用で延長だと、セドリックは開き直ることにしたらしい。

「私に帰国してもらいたくば、正式に国に動いてもらうしかないな」

 オズワルドとアランに色々押しつけられた腹いせとばかりに、今度は彼らに丸投げする気だ。堂々と休暇の構えを取り、彼はこの日、別荘の居間でフィオナ手製の菓子を食べながら、お茶を楽しんでいた。

 わざわざ街に出かけて無理に観光に張り切るわけでもなく、のんびりとした休暇を楽しむ方向に切り替えたようだ。

 対するフィオナも、少しだけ日常に戻ってきた気分だ。場所は違えど、普段と同じようにゆっくりと刺繍を楽しんでいる。

 ナバラル王国に来てから、初めて見る鳥や植物が多くて、創作意欲を大いに刺激されたのだ。手芸屋に置いてある糸も、リンディスタ王国では見られない染め方のものがあり、試したい色彩の組み合わせが山ほどある。街の色んなところを見るのも楽しかったが、色々な刺激を受けたこと、そしてこれらの刺繍糸を調達できたのが一番の収穫かもしれない。

(――って、違うわよね。一番の収穫は、これ)

 フィオナの胸に輝くカメオのブローチ。甘い赤茶色のシェルカメオには、乙女の横顔が彫り込んである。定番の絵柄ではあるが、やや幼い顔つきの乙女がいたずらっぽく微笑んでいるのがかわいくて、ひと目れしてしまったのだ。

 彼女の髪には貝やさんといった海を感じさせる装飾がたくさん入っていて、ナバラル王国らしさもあるところがとてもいい。大変なことが起こりすぎているけれど、この国に来たこと自体には非常に満足していて、旅の思い出にもちょうどいい一品になった。

 この国に来て早々に買ってもらったカメオのひとつである。今思うと、この乙女の表情が気に入ったのかもしれない。どこか自由な気風の姿に、自然と憧れていたのかもと思える。

(宝物が増えていく)

 色んなことがあったけれど、ナバラル王国でセドリックと過ごす時間は素晴らしいものだ。

 刺繍する手を動かしていく。どんどん調子が出てきて、鼻歌でも歌ってしまいそうな時だった。

「なんだよう。ふたりして寛いじゃってさあ!」

 突然居間に間延びした声が響いて、顔を上げる。

 聞き覚えのある声だ。でもおかしい。ここにいるはずがないのだから。

 声の主を探したところで、ふと、銀色の長い髪をひとつに括った男性と目が合った。

 糸目で瞳の色はよくわからないが、脳内でのその人の姿と色彩が一致しなくて困惑する。彼はナバラル王国でよく見る一般的な詰め襟のコートを身に纏っており、普段の姿と雰囲気が違いすぎる。

 なんとも不思議な気分でぱちぱちと瞬いたところで、その男性はふにゃりと笑った。

「やっほー、フィオナちゃん元気? 君の師匠だよ」

 その間延びした声のテンポ、顔立ち、どう考えてもリンディスタ王国魔法省『七芒』のひとり、アラン・ノルブライトその人だ。ただ、髪の色だけがどうしても一致しない。

ほう、どこから入ってくるんだ」

 セドリックに突っ込まれて、アランはひらひらと手を振った。

「ごめんごめん。さっきまで隠密行動していたからさあ。流れでつい」

 アランはなぜか窓の方から歩いてくる。

 窓は施錠してあるはずで、開けられた形跡がない。となると、窓を突き抜けて部屋に入ってきたことになる。

(やっぱり、七芒ってすごいんだ……)

 いつもへらへらとしていてマイペースだからわかりにくいが、アランは若いながらも、リンディスタ王国内で十指に入る魔法使いだ。壁のすり抜けくらい朝飯前なのかもしれない。

 彼は左目に手をかざしてから、スッと手を前へ払う。その動作に反応して部屋中のカーテンが自動で閉まり、光源代わりの光球が部屋の中に浮かんだ。

 幻想的な光景にぽかんと口を開けているうちに、アランの髪の色彩がすぅーっと抜けてゆく。銀髪から見慣れた朱色へ、あっという間に変化してしまった。

「やっぱりこの色が落ち着くねえ。――あ、フィオナちゃん、お茶よろしく。お茶請けもあると嬉しいけど、今日のフィオナちゃんお手製のお菓子はなにかな?」

 なんて、なんの遠慮もなく大きなソファーを占拠し、すっかり自分の家のように寛ぎはじめる。

「まったくお前は! フィオナは召使いじゃないぞ。少しは遠慮しろ」

 スパァンとセドリックの小気味よいツッコミが入って、アランはカラカラと笑った。

「それくらい知ってるよ。でも、フィオナちゃんのお菓子美味しいじゃん。セドさんばっかり独り占めするのずるくない? 魔法使いはね、燃費が悪いんだ」

「それはお前が普段から無駄な魔力ばかり消費しているからだろう!」

「そのおかげでこんなに早くこっちに来て、仕事を終えてあげたんだから、ご褒美くれてもいいじゃんねえ?」

 アランは唇を尖らせて、フィオナの方へと話を振ってくる。きゅるんとしたおねだりポーズで見つめられると、どう反応していいのかわからなくなる。

 相変わらずアランとセドリックの会話のテンポは速くて、フィオナはなかなかついていけない。ただ、アランがなにかを奮闘してきたのは確からしい。

 フィオナは素直に頷き、彼への茶菓子を用意することにした。ただ、お湯を沸かし直さないといけないので、一度部屋から退室しようとする。

「あ、いい、いい。大丈夫」

 そこにアランが声をかけ、フィオナからポットを受け取り、魔力を注ぐ。ひょいっとすぐに返却されたそれには、たっぷりとお湯が満ちていた。

「すごいですね……!」

「でしょ? ほんとはフィオナちゃんにも教えてあげたいんだけどね。こういうのは、魔法省に所属しないとだめだから」

 アランの立場的に、本当は魔法省にフィオナのことを隠すことは許されないはず。それなのに見逃してくれて、最低限の魔法の手ほどきまでしてくれるなんて、アランには感謝してもしきれない。

「いつもありがとうございます。お仕事もお疲れさまです」

 お礼とばかりに、今度はフィオナの魔力をたっぷり注ぎながらお茶を淹れていく。

 今日のお菓子はジンジャービスケットで、ミルクティーがよく合う。ティーセットを差し出すと、アランは満面の笑みを浮かべてビスケットを頬張りはじめた。

「――まったく、お前は。相変わらず全然落ち着きがないな」

「今さらでしょ? 二日前に君から緊急の魔法鳥が飛んできて、急いで向こうを発ったんだよ。助けに来たんだから、セドさんももっと感謝してよ」

「まあ、それは助かるが」

 なんと、セドリックはすでに本国に助けを求めていたらしい。二日前ということは、まさにクラウディオと言い争いになった日ではないだろうか。

(任務なんかもう知らない!って結論を出したのに、しっかり連絡なさっていたのね)

 さすがのひと言である。

 即座にリンディスタ王国と連絡する手段があることも驚きだが、それから二日――というか、一日半ほどでここまでやってくるアランの能力にも感心する。

「お疲れですよね。今日はゆっくりできるのですか?」

「んー? いやあ、もうちょっとナバラルを堪能していきたいけど、悲しいかなとんぼ返りなんだよねえ。かわいそうな師匠を労ってよ、フィオナちゃん」

「えっと。師匠、お疲れさまです?」

「うん。フィオナちゃんは旦那さんと違って優しいねえ」

 普段は師匠なんて呼び方をしないけれど、この時ばかりはちょっとだけアランのノリに付き合ってみる。師匠というよりも、手ほどきをしてくれた先生という印象なのだが、アランはこの自称師匠ポジションをなかなか気に入っているらしい。

「フィオナに変な絡み方をしないでくれるか。――で?」

 ぴりっと、空気が鋭くなった。

 セドリックの真剣な表情に感化されたのか、アランもニマリと微笑む。

「はいはい。ビンゴだよ。噂のクラウディオ殿下とちょこーっと接触してきたけどさ、かなり濃い魔法の気配」

「やはりか」

 なんと、アランはクラウディオの体調不良の原因について探ってきたらしい。

「あれは珍しい魔法だよ。セドさんやフィオナちゃんと同じ、訓練されていない素の魔力の性質がそのまま出ちゃってるパターンだね」

 もともと、魔力というのはそれぞれ色があり、持ち主が本来持ち合わせている性質がそのまま出る。フィオナの場合はそれが癒やしの力であり、セドリックの場合は破壊の力だ。

 師匠を得て訓練することでようやく、きちんと目的に添った力を発揮する『術式』を使用できるようになるらしい。

 でもこれは、魔法省などの特殊な機関に所属して初めて身に付けられるものだ。フィオナのような『はぐれ魔法使い』が覚えることなどできない。

「つまり、どなたかはぐれ魔法使いが?」

「そう考えるのが自然かなあ。訓練されていたら、あんな魔力の乱れ方はしないし。――あいにくこのナバラル王国は、魔法使いを統制する国の機関がないからねえ。はぐれも多いのかも」

 アランは顎に人差し指を当てて、んー、と考えている。

「厄介なのは、そのはぐれ魔法使いの魔力の性質が、これまたすっごく珍しいことなんだよねえ」

「――いったい、どういうものなんだ?」

 その質問を聞くなり、アランの表情がスッと冷めていく。いつもふにゃりと笑っている笑みはどこへやら、細い目を開き、黄金色の瞳が覗く。

「精神支配」

「え?」

 穏やかでない言葉が聞こえてきた。

「正確には、相手の精神に強く影響力を与えるもの、ってところかな。洗脳とはちょっと違うんだけどさ。魔力を強引にかき混ぜて、相手の体調や精神に刺激を与えるんだよ。どんな人間でも微量の魔力を持ってるんだけど、その魔力は人間の心と体に直結してるからね。相手の気分を明るくさせたり、楽しくさせたり、怒らせたりとかさ。色々影響を与えちゃうわけ」

 精神に影響を及ぼす。さらっと聞いただけでも、それはとてつもない効果ではないだろうか。

「使いようによっては、いい魔法なんだけどね。まあ、そのはぐれ魔法使いとやらも、自分の魔法の真価には気が付いてなさそう。だから無意識に、負の感情ばかりを増幅させちゃってるんじゃないかなあ」

 体を揺らしながら、アランはブツブツと続けている。アランにとっても興味深い魔法らしく、ああでもないこうでもないと考察を続けている。

「魔力を整えるフィオナちゃんの魔法とちょうど真逆だねえ。だから、フィオナちゃんと一緒にいる限りは大丈夫。――あとは、相手の魔力に支配されなきゃいいから、こう、体内の魔力を固定化させて、相手の魔力が廻るのを抑えたり?」

「結局、魔法使いしか対処のしようがないというわけか」

「そうそう。セドさんも練習すれば、防ぐことくらいはできるんじゃないの?」

「随分と簡単に言ってくれるな」

 セドリックは頬を引きつらせている。

 つい文句を言いたくなるのもよくわかる。体内の魔力を操るのは、フィオナも全然できないのだ。ある程度意識して放出することくらいはできるようになったが、固定化なんてとてもではないが無理だ。

「どのみち、クラウディオ殿下がひとりで対処するのは無理か」

 セドリックの言葉に、フィオナはきゅっと唇を噛む。

 もう知らないとは言ったものの、気にならないはずがなかった。フィオナの魔法抜きで治せるものならどうにかしたい。けれど、原因となった魔法使いをなんとかしない限りは難しいようだ。

「だね。っていうか、あれは危ないよ。幾重にも魔力を重ねて、重ねて、重ね続けて――重ねすぎないと、ああも気鬱にはならない」

「そんなにも……?」

「一日や二日でかけられた魔法なんかじゃないよ、あれは。下手をすると、そのまま取り殺されるくらい」

「そんな……!」

 フィオナは絶句した。つまりそれは、遅効性の毒と同じ。いや、精神に影響を及ぼすのだとすれば、もっとたちが悪い。

 ふと、無気力だったクラウディオの姿を思い出す。目に髪がかかることすら厭わず、ただただぼんやりとしているだけ。まるで呼吸をすること以外が億劫とでもいうようなあの姿が、本来のクラウディオとかけ離れていることはわかっている。

 あのまま命がはかなくなってしまうのでは。そんな予感を確かに抱かせるなにかがあった。

「クラウディオ殿下の周りの人間には気を付けた方がいいよ。よっぽど近くにいる人間でないと、あそこまで重ねがけなんてできない。――件の魔法使い本人も、あれが死に至らしめる魔法だってこと、わかってないんじゃないかなあ。というより、きちんと制御できていない? 感情に任せて漠然と使用しているだけの不安定な力って感じ」

 それを聞きながら、セドリックは無言で考え込んでいる。

 魔力の暴走がいかに恐ろしいものなのか、彼は身をもって知っている。難しい顔でようやく口を開いた。

「それに気が付かない男ではないと思うがな」

 セドリックの意見はもっともだった。聡いクラウディオのことだ。近くにはぐれ魔法使いがいたとして、自分に影響を与え続けているのであれば、いくら魔法との縁が希薄なこの国でも、その可能性を考えそうなものである。

 しかし、二年もこの状況が放置されたままなのだ。

「というわけで、僕らの目的はクラウディオ殿下の周辺にいる魔法使いをあぶり出すことになったってわけ。――まあ、もうおおよそ、犯人は絞れてるけどね」

 パチン、とウインクしてから、アランは残りのジンジャービスケットを口に放り込んだ。

「あー、やっぱりフィオナちゃんの魔法はみるなあ。魔力、枯渇しかけてたけど、だいぶ回復した。魔力効率まで上がるんだよね、フィオナちゃんの魔法は。これで今日のうちにリンディスタに帰れるよ」

 アランに師事する時も何度か聞いたことはあるが、フィオナの魔法は癒やしの他にも効果があるらしい。どうも、フィオナの魔法が効いている間は、魔法を使用する際の魔力の消費量が節約できるとのことだ。

 元を辿たどれば魔力の流れを整える力だ。流れを整え、無駄な消費を減らすのだとか。とはいえ、相手が魔法使いでなければ意味をなさない効果だから、アランくらいしかその力を実感する者はいないのだが。

 ひょいぱく、ひょいぱくと次から次へと口に入れ、たちまち皿にいっぱいあったはずのビスケットが空になってしまう。

「お前……」

「あっ、ごめんセドさん! でも、これは特急便のお代ってことで頼むよひとつ!」

 アランは大袈裟に両手を上げながら立ち上がり、すぐに部屋から出ていこうとする。さすがのフットワークの軽さに驚きつつも、フィオナは背を向けたアランに声をかけた。

「アランさま、少し待ってください。よければ、まだあるのでお土産を包みます」

「え!? 本当に!? いいの!? 欲しい欲しい!」

 フィオナのお菓子にそれほど効果があるのだとすれば、こんなに嬉しいことはない。ちゅうぼうにいくらか残していたはずなので、取ってくると言ってから部屋を後にした。

 ちなみに、急いで準備をして居間に戻ってきた時、セドリックとアランの空気がなんとも言えないものになっていた。

 アランはとても楽しそうだが、セドリックが耳まで真っ赤にしながら、ぶすっとした顔をしている。

 いったいなにを話したのだろうか。――いや、どことなく聞いてはだめな雰囲気がある。

 沈黙するふたりの顔を交互に見ながら、フィオナはアランに近付いていく。

「……えっと、その。道中、召し上がってください」

 フィオナはその微妙な空気から目を逸らし、お土産を渡したのだった。



 ナバラル王国中心街の夜は、今や世界中の光を集めていると言われるほど眩い。

 まさに眠らぬ街。別荘街の静けさとは対照的に、夜な夜な人々がパーティーやショー、カジノを楽しむ。国境を越え、多くの貴族たちの交流の場ともなっており、ここで重要な議案が生まれることも少なくはない。

 中でもここ『月海の帳』は、誰もが一度は訪れてみたいと言われている特別な社交場だった。

(――中は酒と煙草と香水の匂い。他の社交場となにも変わらないが)

 煌びやかなメインフロアで酒を酌み交わす男女を横目に、男――日頃よりクラウディオの下僕を名乗るサウロは奥のシークレットフロアに足を踏み入れる。

 しっかりと訓練しているつもりだが、所作には気を付けた。多様な人種が行き交うこの中心街だが、いまだに西望の民への不信感は強い。特に月海の帳にやってきているような貴族は西望の民を毛嫌いする者も多く、なまりや動作には気を付けすぎるくらいでいい。

(だが、これでも街はかなり歩きやすくなった)

 昔と今とでは、この国での生きやすさが違う。それは実感している。街を歩いているだけで、後ろ指をさされるようなこともなくなった。

 それも全部、この街ができたおかげだ。中心街は、いわば彼の主が形作った新しい街だ。特にここ七、八年で大きく様変わりしている。

 その前までは、どこにでもある海辺の観光業が売りの辺境国家にすぎなかった。そして、故郷を持てない移民であった自分にとって、ここが初めての故郷と呼べる場所となろうとしていた。

(すべて、あの方のおかげだ)

 怠惰で、何事にもやる気がなくて、肩の力が抜けっぱなしで、そばにいたらついつい小言を言いたくなる。でも、一度動きはじめたらあっという間に界隈全体を動かす。根回しという根回しをそつなくこなして、彼自身はゆったりと酒をたしなんでいる間に、すべてが終わっている。

 十年前、サウロはクラウディオに拾われた。それから、サウロの人生は大きく変わった。

 いや、サウロだけではない。サウロとともに身を寄せ合うようにして生きてきた西望の民の多くが、クラウディオによって救われている。

 ナバラル王国での西望の民に対する偏見は根深い。まともな保障などあるはずもなければ、そもそも働く場所もない。そんな自分を彼は拾って、食事と仕事を与えてくれた。

 人種など関係がない。実力があればのし上がっていける。

 最初はクラウディオの起こした事業の末端での下働きからはじまった。やがて商品管理を任され、その手腕を認められるようになる。わずか四年で新事業に引き抜かれることになり、彼の近くで働くことが許された。

 そのうち、店の枠を飛び出て、彼のそばで補佐として走り回るようになる。それからずっと、この国を変えるために奮闘してきた。

 すべては彼が望んだ、革新的で刺激的な街作りのために。

(ただ――街は大きく変われど、国の在り方はそのままだ)

 人々の思想の根っこの部分というのは、そう簡単に覆るものではない。いくら出世し、いくらこの街に様々な人種の者が増えたとしても、サウロは西望の民。その事実は変わらない。

 もともとが保守的なこの国家において、西望の民というラベルは、皆が考えている以上にどうすることもできないものだった。

 新事業に関わる間はサウロも役に立てるが、クラウディオが政治の場へ顔を出す際は同行を許されなかった。クラウディオが馬鹿らしいと反発しても、国は絶対に是と言わない。実にままならないものである。

 ふと、大事な主がなんの気力も持てず横たわる姿を思い出す。

(私は、なんと罪深い人間なのか)

 それはわかっている。傲慢で、わがままで、どうしようもなく自分本位だ。それでも、サウロは自分の心の内に宿る渇望を抑えきれなかった。

 主の数年を犠牲にしても手に入れたいものがある。

(ですが、これもあと一年です、主よ)

 ギュッと拳に力を入れる。

 やがてサウロがたどり着いたのは、シークレットフロアの最奥であった。金縁の装飾がたっぷりと入った扉の前には、四名もの護衛が立っている。

 ここシークレットフロアでの武装は、基本的には認められていない。しかし、それを許されるほどの人物がこの奥にいる。

「――ああ、来たのか、サウロ」

 青みがかった銀色の長い髪をゆったりと三つ編みにした男が、奥のソファーに寝そべっていた。彼に酒を注ぐ女が左右に侍っていたが、男が手を振るなり、女たちは退室していく。

 若い男だった。自分の主よりも、四つ年下の二十三歳だったか。

 年齢の割にどこかあどけなさの残る顔をしている。しかし、その笑みは完全に作られたもので、サウロの主と同じ橙色に深い蒼の、夕日が沈む海の瞳はちっとも笑っていない。

 やや小柄で細身の体は華奢な印象だが、その中性的な風貌から女性には人気がある。

 カリスト・イサーク・エメ・ナバラル――サウロの主であるクラウディオ・シェロ・エメ・ナバラルと王位継承権争いをしているいわば政敵、そして腹違いの弟であった。

「兄上もかわいそうだねえ。大事に育てた腹心が、陰で自分を裏切り続けているなんてさあ」

 開口一番飛び出してきた皮肉になど、いちいち動揺しない。これで動揺するのなら、最初から主を裏切るはずがないのだ。

「あなたはあなたの目的のため、私は私の目的のため、単純に利害が一致したというだけです」

「まあ、君のそういう利己的なところ、嫌いじゃないよ」

 くるくるくるとグラスを回しては中身を飲みほし、カリストは口の端を上げる。

「――で? どうなの? 兄上の様子は」

 単刀直入に訊ねられ、サウロはここ最近のクラウディオ周辺の様子を順番に報告していく。大きく変わったことと言えば、やはりウォルフォード夫妻の動きであった。

(クラウディオ殿下はウォルフォード夫人のことを確実に気になさっている。彼女を娶るのがあの方にとっての幸せかと思ったが――)

 珍しく、クラウディオが女性に興味を示していた。もともとは遊び人で来る者拒まずの主ではあったが、女性との関係性を繋ぎ止めたいと主張したのは初めてだった。

 ウォルフォード夫妻と話す時のクラウディオは楽しそうで、特にフィオナに向ける目が気になっていたのだ。

 他の女性に向けるものとは異なる、あの柔らかな眼差し。王族として育ち、どうせ政略結婚なのだと恋に興味を持たないようにしていたことも知っている。

 だからこそ、ウォルフォード夫妻の穏やかな仲睦まじさへの羨望も、少なからず交じっているのだろう。どこか眩しそうな目を向けるクラウディオに、フィオナという存在を差し出してあげたくなった。

 もちろん、主が興味を示していたのは、セドリックの妻としてのフィオナだ。彼らを離縁させ、クラウディオに妻合わせたとして、彼が本当に欲しいものが手に入るわけでもない。それでも、フィオナをクラウディオのものにしてあげたくなった。

 しかし、サウロは利己的な男だった。

 フィオナの利用価値を正しく理解した瞬間、主の幸せよりも、サウロ自身の目的のために利用することを選んだのである。

(フィオナ・ウォルフォード。あの方がまさか、女魔法使いだったなんてな)

 衝撃的だった。毒見のために口にした彼女が淹れたお茶――そこから、他人の魔力を強く感じただなんて。

 おそらく彼女は、サウロと同類だ。己の魔力を垂れ流し、相手になんらかの影響を与えることができる。決定的に違うのは、サウロのものは負の感情を増幅させる悪い魔法で、フィオナのものはおそらく真逆の効果を与えるらしいということだ。

 サウロは魔法に関する正しい知識を持ちあわせていないが、おおよそ、そのように把握している。

(彼女の魔法は、私のこの呪いじみた力とは違う清らかなものだ。許されるならば、我が主のそばに在ってほしい方ではあるのだが――)

 女魔法使いという存在は切り札になる。

 なんのと言えば、つまり、この国の王位継承権争いの、だ。

 サウロはどうしても、主であるクラウディオではなく、目の前のカリストを王太子にしなければいけない。

(ああ、私はなんと不忠義な臣下なのか)

 この身に宿る魔法の力に気が付いたのはここ二年のことだ。もともと才能はあったらしいのだが、王位継承権争いが激化する中で、ようやく自覚することができた。

 クラウディオの手腕は本物だ。本来ならばカリストなど相手になるはずもなく、王太子の座を手に入れてしまう。それだけは絶対に阻止せねばならなかった。

(そうでなければ、私は、一生あの方のおそばにいられない)

 浅ましい考えなのはわかっている。

 しかし、西望の民である自分が、やがて王になるあの人のそばに居続けるのは不可能だ。この国の中央は、西望の民を受け入れてくれるほど寛容ではない。

 一緒に屋敷で働く仲間たちにとっても同じだろう。クラウディオは唯一の希望で――だからこそ、すがってしまうのだ。

 そしてその想いがクラウディオを縛りつけた。

 最初はなにかの病気かと考えた。あれほど精力的に活動していたクラウディオの気持ちが塞ぐ日が増え、外に出ることがめっきり減っていく。人と会うことも億劫になり、どんどん活動の幅を狭めていった。

 ありとあらゆる医者に診せ、それでも原因が特定しきれず、気鬱だと判断された。王位継承権争いが激化する中で、それがプレッシャーになったのだろうというのがほとんどの医者の見解だ。

 しかし、クラウディオや周囲の人間と接する中で気が付いてしまったのだ。自分にはおそらく、人の精神に影響を与える力があるのではないかということに。

 一度その考えに囚われると、どんどんと深みにはまっていく。

 自分にはなにか特別な力があるのではと自問自答し、体内に流れる不思議な力を自覚するようになり――試しに自らの意志で、その力を動かしてみたのだ。

 翌日、クラウディオは動けなくなった。

 自分自身に宿る力にきょうがくし、すぐにクラウディオから離れるべきだと考えた。けれども、同時に気が付いたのだ。このままクラウディオが屋敷に引き籠もるようになれば、自ずとカリストが王太子に選ばれるのではないかと。

 そんな自分の揺らぎが伝わってしまったのか。

 ちょうど一年前だった。カリストからの接触があったのは。

『兄上に毒を盛っているのはお前か? なかなか見どころがあるようだな。どうだ? 僕と手を組まないか?』

 ――サウロはカリストの手を取った。

 それがクラウディオに対する裏切りだとはわかっていながらも、王太子が決まった先の未来で、クラウディオのそばに在るために。

 カリストと話をする中で、彼は本当にサウロが毒を盛っていたのだと勘違いをしていたこと、さらに追及するうちに、自分の力がいわゆる魔法と呼ばれるものであることを知った。もちろん、知ったところで、真の主であるクラウディオに真実を話せるはずもなかったが。

 魔法をかけることができるなら、当然、解くこともできるはず。しかし、サウロはそれをしなかった。

(本来なら魔法を解き、クラウディオ殿下を祝福して、王太子として送り出すのが正しい姿なのだろうがな)

 胸を刺すような痛みも、もう完全にしてしまっていた。

 この国の根底にある西望の民に対する差別、それがこの先も覆ることはない。

 昔から、王宮の外をフラフラ歩いているあの方だったからこそ、サウロたち西望の民がそばに仕えていることを一時的に黙認されているだけだ。

 王族のそばにつく人間は、本来ナバラル古来の民族でなければならない。だから、目こぼしされているのも今だけ。彼が王太子になった瞬間、サウロは彼の側近を外される。

 ――それだけは、絶対にあってはいけないのだ。

(カリストが王太子になったら魔法を解く。そうすればきっと、あの方もすぐに回復なさるだろう。王太子になれずとも、あの方の実力があれば、自分の理想の国作りをしていけるはず。そうに違いない。だから――)

 だから今だけは。カリストが王太子に決まるまでは、この不義をどうか許してほしい。そうこいねがい、サウロはクラウディオを屋敷に縛りつけ続けた。

 しかしさすがクラウディオと言うべきなのだろうか。いまやカリストが圧倒的優位と言われながらも、国の中枢では、いまだにクラウディオ人気は健在だ。肝心のカリストが立太子するためには、あとひとつなにかが必要だった。

 そのピースがフィオナだった。

 たまたまこの国にやってきたフィオナ・ウォルフォード。女魔法使いである彼女の存在が、カリストを王太子に押し上げてくれるはず。

「フィオナ・ウォルフォードはおとなしくて健気な娘か。――ふむ、実に御しやすそうでいいな」

 彼女が女魔法使いだと判明して早々に、カリストに報告を上げていた。案の定、この王子はすぐに食いついた。実にいい動きをしてくれて、見事ウォルフォード夫妻をこの国に足止めさせることに成功している。

「この国には魔法使いの血が欲しい。確実に魔法使いを産むことができる女魔法使いだなんて、最高じゃないか! 僕に相応しい」

「既婚者ですが、まだ結婚して一年も経っていないようですからね」

「ああ。噂のオズワルドの腰巾着からかすめ取るのは楽しそうだ。――それに」

 カリストはクスクスと笑みを漏らす。中性的で綺麗な顔と称されるが、サウロには彼の笑みがとてもゆがんだものに見えた。

「兄上も、その娘を気に入っているのだろう?」

 そう問いかけてくるカリストの瞳は爛々と輝いていた。クラウディオとよく似た色彩を持っているが、その性質はまるで違う。

 母が異なり、第二夫人の息子であったせいか、カリストは生まれた時からずっとクラウディオと比較されて生きてきた。

 なにひとつとしてクラウディオに劣ってはいけない。そして、絶対に王太子にならなければいけない。そんな母親からの呪縛が、カリストを歪ませたのだろう。カリストは、いまやクラウディオを越えることだけに執念を持ち続けている。それが彼の生き方だった。

「ウォルフォード夫人が私の魔法を治療する力を持っていることを見抜き、彼女に感謝をしているのかと。――少なからず、気に入っておられるご様子」

「ははっ! それを横取りするのって、すっごく楽しそうじゃないか」

 クラウディオがフィオナに興味を持っている事実を伝えただけで、簡単にその気になってくれた。

 そもそも、女好きなカリストにかかれば、既婚も未婚もお構いなしだ。

 いくらフィオナが既婚者でも、相手を離縁させれば済む話だ。

 この国には魔法使いを縛る制度が確立されていない。それは、魔法使いを束ねられるような、魔力とカリスマ性を兼ね備えた人物がいなかったからだ。

 しかし、王家に魔法使いの血を入れたら、それも変わる。確実に魔法使いを産むことができる女魔法使いという存在は、ナバラル王国が喉から手が出るほど欲している人材であった。

「そのフィオナって子、僕がもらうよ。――わかっているね、サウロ。兄上にはかわいそうなことだけど、君は君の目的のため、協力してくれるだろう?」



 アランがやってきた翌日、さすがに毎日別荘に引き籠もっているのももったいないと、今日はセドリックとふたりで中心街に出てきていた。せっかくだからと、セドリックが王立歌劇団のショーチケットを取ってくれたのだ。

 さすが観光で一大事業を築き上げた街である。もともとは音楽が有名な国ではなかったが、王立歌劇団を創設するにあたって、音楽と芸術の国ヴェマジェスタから有名な劇作家や歌唱者を雇い入れたのだという。

 幻想的な渡り鳥と暁の空が描かれたどんちょうが下りていく。フィオナは若草色の瞳をキラキラと輝かせながら、たおやかな手を何度も打った。

「素晴らしいです、セドリックさま……!」

 ここが二階のボックス席で本当によかった。周囲に他の観客の目がなく、百面相をしていても許される。

 いや、セドリックにはバッチリ見られていたような気がするが、それはもう今さらだ。この旅の中で、幾度も同じ過ちを繰り返している。今回も、まるで年若い女の子みたいにきゃっきゃとはしゃいでしまい、大変気恥ずかしくもある。でもそれは、それだけ歌劇の内容が素晴らしかったということだ。

 ナバラル王国では定番の、海に生きる孤独な女神と彼女に恋をした人間の王子のお話だった。

(音楽も! 演出も幻想的で! それがすっごく素敵だった!!

 珊瑚や色とりどりの魚が煌めく海の世界、あれを刺繍にしたらさぞ素敵だろう。そう考えると、早く別荘に帰って図案を練りたくて仕方がない。

 手を叩きながらふわふわと妄想を廻らせていると、隣からくっくと、こらえきれない笑い声のようなものが聞こえてきた。

「君に気に入ってもらえてよかったよ」

「すっごく! すっごく素敵でした!」

 セドリックもすっかり上機嫌らしく、目を細めている。

 この日のフィオナは、観劇のためにこの国であつらえたエメラルドの大人っぽいドレスを身に纏っていた。

 他国からの貴族の観光者が多いこの国では、プレタポルテと呼ばれる既製品がはやっている。旅先で一からドレスを誂えるのは大変だから、最初から富裕層向けの既製品を生産しているらしい。

 せっかくだからと、フィオナも普段着ないようなシルエットのドレスを身につけてみた。タイトなラインのこのドレスは、体の形がくっきりとわかってしまいかなり気恥ずかしいが、新しい自分になりたい今のフィオナにはちょうどいい冒険のように思えたのだ。

 セドリックが心の底から「ボックス席でよかった……」と呟いていたのは、どういう意味かはわからない。でも、しっかりとショールを羽織っているから肌も綺麗に隠れるし、大人っぽくもありつつ、ちゃんと上品なデザインのものを選んでいる。ロビンが絶賛してくれたからそんなにおかしなことにはなっていないはずだ。

「セドリックさまも、楽しめましたか」

「もちろん。こんなにも綺麗な君と過ごすひと時を堪能できた。満足しないはずがないだろう?」

「えっと、そうじゃなくて、歌劇を」

 なんだかセドリックの瞳が熱っぽい。

 自分がいつもよりも大人っぽい装いをしているせいだろうか。少しは魅力的に映っていると嬉しいが、気恥ずかしくもある。

 彼の視線が、いつもとは違う色彩を帯びているような気がした。一度気になりはじめると、どんどん彼のことを意識してしまって、フィオナは両頬に手をあてる。

「こっ、この後は、どうしますか。ええと、もうすぐ夜ですし」

「ああ、それなら食事の予約をしていて――」

 と、セドリックが答えている時、ボックス席の背後から声がかけられた。

「もし、ウォルフォード夫妻でいらっしゃいますか?」

 突然の声かけにハッとする。それはセドリックも同じだったようで、さっとフィオナを抱き寄せ、彼女を守るような形で声の主に目を向けた。

 声をかけてきたのは劇場のスタッフだ。濃いグレーの詰め襟コートを纏った彼は、スマートな動作で胸の前で手を合わせながら一礼し、一通の手紙を差し出してくる。

「失礼。――あちらの席の方から、このお手紙をお預かりしております」

 スタッフが指し示したのは、ちょうど一般観覧席を挟んで反対側、下座側のボックス席の一角にたたずむ男性のようだった。かっぷくのよい中年男性で、こちらが見ていることに気が付いたのか、被っていたハットを胸の前に掲げている。もちろん、フィオナにとっては見知らぬ相手でしかない。

 セドリックも怪しく思ったのだろう。いぶかしげな顔をして、ぺらりと封筒の裏を見る。そこに記された名前を見て、驚きで目を見張った。

「デメトリオ・レグロ・テジェリア」

「ご存じなのですか?」

「ああ、名前には見覚えがある。わざわざ私たちの足止めをしてくれたこの国の大臣が、このような名前だったな」

「え?」

 フィオナも目を丸くした。

 帰国の許可が取り消され、足止めをされた時のことだ。ナバラル王国中枢の人間がセドリックとの面会を望んでいるとは聞き及んでいた。もしかして、その人物だったりするのだろうか。

 セドリックは眉間に皺を寄せたまま封を切る。それから中の手紙にさっと目を通し、ソファーに体を預けたかと思うと、大きく息を吐いた。

「フィオナ、大変心苦しいが、今日のレストランはまた別の日に行くことにしてもいいだろうか」

「もしかして」

「向こうが面会を希望している。帰国できない以上、行かないわけにはいかないだろう? 場所はこの劇場のすぐ近く――あまたの貴族が集うと有名な、会員制の社交場『月海の帳』だ」


 月海の帳に一歩足を踏み入れた瞬間、その深く悩ましげな芳香にフィオナの背筋が伸びた。

 入ってすぐの受付フロアからすでに薄暗く、赤いじゅうたんが延びている。けれど重たい扉に閉ざされて、その奥がどうなっているのかちっともわからない。ただ、今まで一切関わることのなかった大人の社交場であることは確かだ。

 ちょうど大人っぽいドレスを身に纏っているから、浮くことはないと信じたい。ウォルフォード家の妻として恥をかかないようにせねばと、表情を引きしめる。

「ウォルフォードさまですね。――はい、お話はうかがっております」

 受付の男性は恭しく一礼してから、ベルを鳴らす。

「シークレットフロアの最奥の間へお連れしろ」

 なにやらとても怪しげな単語が聞こえてきたが、シークレットフロアとはいったいなんなのだろうか。セドリックを見上げると、彼は冷えたフィオナの手を握りしめ、大丈夫だと笑顔を見せてくれた。

 さすがセドリックと言うべきか、場馴れしている。彼は堂々としたもので、フィオナをエスコートする形でフロアの奥へと入っていった。

 途中、メインフロアの横を通り過ぎた。フィオナたちよりも年齢がやや上の男女が集い、皆楽しげに談笑している。特に女性は皆、例外なく大人っぽくて色気がある。なんだか自分との違いをひしひしと感じて居たたまれない気持ちになるが、背中は丸めない。日頃レッスンで学んでいる通り、少しでも美しく歩けるように心がけた。

 そうしてたどり着いた先、シークレットフロアの最奥で待っていたのは、フィオナたちが想定していた人とは別の人物だった。

「やあ、よく来たね」

 よく通る若い声だ。

 重たい扉の向こう、フィオナたちを出迎えたのは二十歳過ぎの青年だった。青みがかった銀髪をゆったりと三つ編みにして、中性的な雰囲気を纏った華奢で美しい男性。

 印象的なのはその瞳だ。まるで夕日が沈む海を思わせるグラデーション。この色彩の瞳を持った人物を、フィオナは他に知っている。

「初めまして、ウォルフォード夫妻。ようこそ、月海の帳へ。僕はカリスト・イサーク・エメ・ナバラル。この国の第二王子さ」

 底の見えない笑顔を貼りつけている彼こそが、クラウディオと王位継承権争いをしている王子ということか。まさかの出会いにフィオナは絶句する。

 一方の、セドリックの方はあまり驚いてはいないようだった。もしかしたら、この展開を予測していたのかもしれない。

「リンディスタ王国ウォルフォード公爵家のセドリック・ウォルフォードです。カリスト王子殿下に拝謁いたします」

「その妻、フィオナ・ウォルフォードです。ごきげんよう」

「ああ、堅苦しい挨拶は不要だよ」

 カリストがヒラヒラと手を振ると、彼の従者らしき男がテーブルにワイングラスを並べはじめる。

「どうぞ、ここは僕の自室のようなものだから、好きに寛いでくれ」

「いえ、お構いなく」

 セドリックはワインを固辞しながら、カリストに厳しい目を向けた。

「どうやら来る場所を間違えたようですので。私どもを招待してくださった方が見あたらないので、これで失礼しようかと」

「それは冷たいな。――すまないね、テジェリアの名前を借りただけなんだ。少し、君たち夫妻と話がしたいと思ってさ」

「国政に関わることでしたら、リンディスタ王国を通してお願いいたします」

「うん。それはもちろんそうなんだけど、オズワルド殿下の右腕である君とは、一度話しておきたいと思ってね」

 そう言いながらカリストはソファーからテーブル席へと移動する。

 夜の時間だからか、ワインと一緒にチーズやハムなどの軽い食事が用意されていく。セドリックはそれをいちべつし、ひとまず話を聞こうかとカリストの向かいの席に座った。もちろんフィオナはその隣だ。

「単刀直入にお願いするよ。――セドリック・ウォルフォード。君、僕につかないか?」

「つく、とはどういう意味でしょう?」

「はは、わかっているくせに。兄上でなくて、僕の後見についてくれないかということさ」

「他国の人間になにを仰るか」

 セドリックはわざとらしく肩を竦めてみせた。聡明な菫色の瞳が、相手を見定めるように光る。

「言いたいことはちゃんと伝えておかないといけないからね。僕の主張も聞いてよ。君の国は、このナバラル王国と今と同じ取引を続けたい。そのためには保守派である僕が邪魔――そう勘違いしているんじゃないかなと思ってね」

「勘違い?」

「そう、勘違いだよ。兄上が発展させたこの中心街を、今、維持管理しているのは誰だと思っている?」

 ここは月海の帳。この街で最も力を持つ者だけが利用できる、憧れの社交場だ。

 その一番奥のフロアを占拠している主こそ、この街の主である。昔と今とではこの街の主が代わったと、そう主張したいのだろう。

「僕が王太子になったら、ナバラル王国は昔の形に戻ってしまう。――なんて、それを心配しているのならゆうだ。僕もこの国を愛しているからね。他国と共存していく道は大事にしたいし、これからも君の国と仲よくやっていきたい。そう考えているんだ」

「左様ですか」

「兄が即位しても、僕が即位しても、君の国にはデメリットがない。であるならば、僕は君たちが後見に立ちたいと思うような追加の取引を申し出たい」

 塩や海産物、宝石、そして織物――様々な項目を挙げ連ねながら、カリストはその取引でリンディスタ王国を優遇する用意があると主張しはじめた。もちろんセドリックは眉間に皺を寄せたままだ。カリストの甘い誘いを厳しく分析しているのだろう。

「――なるほど、どれもこれも魅力的なお誘いですね」

「だろう?」

「ですが、いち個人としてこの国に訪問しているだけの今の私に判断できるはずもありません。あなたさまの提案は、一度国に持ち帰らせていただきましょう」

 これから先の国の方針を決める大事な取引になるだろう。そんなものを、いち官僚が勝手に約束できるはずがない。

「これ以上の交渉は無意味です。交渉を続けたいと仰るのなら、せめて一度、私たちを国に帰らせてください。話はそれからだ」

「待ってくれ」

 そうセドリックが立ち上がったところで、カリストの声が低くなった。

「そうだね。大事な国同士の約束を、君ひとりの判断で了承するなど不可能だ。――であるならば、君ひとりの判断で約束できるような条件と交換するのはどうだ?」

「どういう意味でしょう?」

 セドリックは片眉を上げた。両手をテーブルについたまま、カリストに顔を向ける。

 カリストも同じように立ち上がって、ぐるりとテーブルを回り込んだ。そうして、ちょうどフィオナとは反対側に近付き、セドリックになにかを耳打ちする。

「ふざけるな!!

 瞬間、セドリックが叫んだ。

「どいつもこいつも! 非常に不愉快だ!」

 いったいなにを言われたのかはわからない。けれども、彼がげきこうする内容ということは、もしかしてとも思う。

「フィオナ、帰るぞ!」

 ぐいっと腕を引かれ、フィオナも立ち上がる。

 頭がはてなでいっぱいになっているが、考えるのは後だ。セドリックに引っ張られるような形で、ひとまず部屋を出ていこうとする。

「――ああ、そうだ、ひとつ忠告しておくよ」

 しかし、そこでカリストに声をかけられ、セドリックは立ち止まった。

「君が了承するまで、この国から出ていくのは無理だと考えてくれて構わない。――ああ、別荘街ではいつまででもゆっくり過ごすといいよ。でも、君たちがいるのはナバラル王国。そして、僕はこの国の王子であることを忘れないでもらいたい」

「ご忠告、痛み入ります」

「近々君をパーティーに招待しよう。ああ、心細く思わなくていい。君のところの王太子殿下にもしっかり招待状を送っているからね。うん。僕は別に君たちをこの国に監禁しようとか、そういうつもりは全然ないんだ。――僕の誠意、伝わったかな」

「白々しい」

 セドリックは吐き捨てるように呟き、最奥の部屋を後にする。

 大股でずんずんと歩き、月海の帳を出て馬車に乗る。座席に座るなり、彼はギュッとフィオナを抱きしめた。

「――――どう考えても――――だな」

 ぼそりと、力なく呟く。

 暗い声だ。自分の無力さを嘆くような苦しそうな声。

 彼がなにを言いたいのかは、フィオナも予測できた。

 おそらく、フィオナが女魔法使いであることがバレている。そして、カリストはその秘密を知っているぞと、セドリックを脅したのだろう。

 もちろん、正確になにを言われたのかまではわからない。ただ、今はまだセドリックに説明する気はないようだ。

 話を聞くのは、彼がもう少し落ち着いてからにしよう。そう決めて、フィオナもずっと彼に寄り添っていた。

 歌劇で楽しかった気分なんて、全部どこかへ行ってしまった。

 今は、彼が心を痛めていることがなによりも悲しい。だからフィオナは、彼の背中を優しく撫で続けた。


「――すまない、少し出てくる。今夜は先に眠っていてくれ。けっして別荘の外に出てはいけない」

「え?」

 別荘に着き、玄関先まで案内されたものの、セドリックはすぐにフィオナに背を向けてしまう。

「セドリックさま、教えてください。いったいどこへ」

 それくらいは聞いてもいいような気がした。フィオナにだって、彼の心配をさせてほしかった。

「あいつの――クラウディオの屋敷に行く」

 セドリックの瞳は怒りで燃えたぎっていた。ギュッと拳を握りしめ、遠くの空を見る。

「あんな男が国王になるくらいなら、クラウディオの方が百倍マシだ。背中を蹴ってきつけてくる」

「セドリックさま」

 それを聞いて、正直幾分か安堵した。

 セドリックはただただやられているわけではない。この状況に立ち向かうつもりでいる。

「フィオナに結婚を申し込むなら、この国の頂点に立ってくれるくらいでないと困る。――まあ、立ったところで、フィオナを譲るつもりはないがな」

 そう吐き捨てるように言う彼が頼もしい。フィオナは眦を下げ、大きく頷いた。

「そういうことでしたら、セドリックさま。わたしの刺繍を持っていってください」

「フィオナ」

 クラウディオの近くには、彼に魔法をかけたというはぐれ魔法使いがいるはずだ。そしてそれが誰なのか、おおよその見当はついている。

 口論になったあの日からクラウディオのところに顔を出していなかったから、病状が悪化している恐れがある。クラウディオと話がしたいのに、できない可能性もあるのだ。

 それに、セドリック本人にだって万が一のことがあってはならない。

「魔除け代わりにはなるでしょう? クラウディオ殿下にその気になってもらいたいのでしたら、気持ちも前向きになっていただかないと」

「――そうだな。頼めるか」

「はい。少し待っていてくださいね」

 フィオナはにっこりと微笑み、一度部屋に戻った。すぐにいくつか刺していた刺繍をかき集める。この国にやってきてから創作意欲が溢れたおかげで、新しいものがかなり増えているのだ。

 フィオナは魔力による癒やしの効果を実感するようになって、針を通しながらたっぷりと祈りを込めることが増えた。魔法の精度も上がっている気がして、最新のものはきっと効果も強いはず。

 セドリックのお守り用とクラウディオの治療用。それらにさらに魔力を込めながら廊下を歩く。次に向かったのは厨房で、作り置きしていた茶菓子を袋に詰め、玄関口へと戻っていった。

 そうしてセドリックにすべてを託し、フィオナは彼の手をくいっと引いた。

 屈んでください。――それは彼が仕事に出かける時、いつもフィオナがしていた合図だ。

 彼も微笑み、わずかに背を丸めてくれる。そうして、フィオナは自分から彼の唇にキスをした。

「セドリックさま、どうかご無事で。お帰りをお待ちしていますね」

「もちろんだ、フィオナ」



 待ってください、と声がかかる。けれども、いちいち案内してもらうことすら煩わしくて、セドリックは慣れた屋敷の中をずんずんと進んでいく。

「クラウディオ!」

 夜が更けたこんな時間でも、クラウディオは寝室に戻ることもなく、居間に居座っている。

 以前、なにげない会話の中で彼は言っていた。この部屋の窓が一番大きくて、海がよく見えるから好きなのだ、と。

 昼も夜もなく眠り続けている彼は、わざわざ寝室に戻ることもない。あのカウチソファーの上に寝そべり、ぼんやりと海を見つめているそうな。

「――とうとう、敬称すらつけてもらえなくなったか」

 セドリックの怒声に、クラウディオは背中を向けたまま返事をした。たった二日空いただけだが、魔法による精神侵蝕が進んでしまっているようだ。カウチソファーからだらりと垂れ下がった腕には力がなく、青白い手首がやたら細く見える。

 ただ、もう片方の手には見たことがあるハンカチーフが握られていることに気が付いた。以前、呆けていた彼を心配してフィオナが握らせていたものだ。

 そういえば、回収することなく持たせていたままだった。そのハンカチーフのおかげで、どうにか話をできる程度には精神を保てていたらしい。

「ウォルフォードさま! いくらなんでも強引すぎます!」

「主は今、お休みになっていて――」

「待て。――かまわん」

 使用人たちがセドリックを引っ張っていこうとしているところを、クラウディオが制止する。いつものように手を振ることで、皆、口を閉ざしてその場から去っていった。

 セドリックはクラウディオを見つめていた。

 長身で、それなりにしっかりとしたたいの男だが、こうして見ると随分と細く小さく見える。

「無様なことだな」

「好きなだけ笑え」

「笑うか」

 ツカツカツカと、クラウディオのそばまで歩いていき、ふぁさりと布を落とした。

 ようやく頭を上に向けたクラウディオの顎を強引に掴む。そうして、持参したフィオナの菓子を彼の口いっぱいに詰めた。

「これはフィオナの情けだ、受け取れ」

「んぐっ!?

「私はフィオナではないからな。ついでにうまい茶が出てくるなどと期待するな」

 最近はビスケットを作るのがフィオナの密かなブームらしい。今日はナッツとドライフルーツのたっぷり入ったビスケットだった。

 飲み物がないので口の中がパサパサになるだろうけれど、知ったことではない。せっかくのフィオナの菓子がただ治療のためだけに消費されるのは惜しいが、彼には精神を回復してもらわないと話にならないのだ。

「いつまでこの家に引き籠もって拗ねているんだ、お前は」

「…………っ」

 口の中にビスケットを詰めたまま、クラウディオは目を見開いた。

「体が思うように動かない? お前だって馬鹿ではないのなら、原因くらい特定できていたのだろう」

 反論するためにはそのビスケットを食べきらないといけない。不格好に噛み砕き、飲み込み、ごほごほと咳き込んでいる。

 ざまをみろと思う。いつも人を小馬鹿にしたような笑みばかり浮かべる小綺麗な顔が間抜け面になって、多少はりゅういんが下がった。

「ぐっ、んぐっ。――けほっ、別に、私は王太子になることにこだわりはない」

「だからといって、臣下の愚行を正さず、見ないふりをするのか? お前が毛嫌いしていそうな中途半端で生温い対処法じゃないか。随分とお優しいことだな」

 クラウディオが初めて、動揺で瞳を揺らした。

 セドリックには、おおよそはぐれ魔法使いの目途はついている。ただ、証拠がないだけだ。

 そしてきっと、クラウディオ本人もわかっているはず。聡い男だ。身の回りの人間の変化を見逃すはずがない。

 クラウディオは目を見開き、唾を飲み込んでいた。しばらくの沈黙の後、重たい口を開く。

「――アレを極刑にしたくない」

 やはり、特定できていたらしい。セドリックは体温がスゥーッと下がっていくのを感じながら、クラウディオを見下ろした。

 クラウディオへかけられた魔法は、毒と同等か、それ以上の効果を成している。王族へ危害を加えたとあらば、当然極刑だろう。それをわかっていて、この男はそのはぐれ魔法使いとやらの茶番に付き合っているのだ。

「そのためなら、お前自身が殺されても構わないと」

「死なぬよ。そういう魔法ではない」

 魔法という単語が出てきて、いよいよ語るに落ちたかと思った。

 しかし、クラウディオはわかっていない。その魔法は彼が考えている以上に厄介なものであることに。

「いや、死ぬ。本人も制御しきれていないのなら、そういう魔法にもなる」

「――なに?」

 クラウディオは目を見張った。

 やはり、魔法に対する知見は、リンディスタ王国の人間の方がはるかに勝る。

 少なくとも、今回使用されたものに関しては、クラウディオが考えているような生温いものではない。

「お前は、その大事にしている臣下とやらに、お前を殺させていいのか?」

「…………っ」

 クラウディオが信じられないという顔をした。

 しかし、魔法に関しては彼本人も、知見が浅いという自覚があるのだろう。セドリックの言葉を呑み込むしかない。

「お前の臣下が、なにを考えてお前にこのような愚かな魔法をかけているのかはわからん。私に理解できるようなものではないのだろう。だが、その茶番に付き合った末に、その者の望む結末とやらは得られるのだろうな?」

「おそらく、あと一年だ」

「それまでにお前の命が先に尽きる。私もフィオナも、馬鹿の延命に付き合ってはいられんぞ」

 セドリックは冷たく言い放ち、クラウディオの向かいにあるソファーにどかっと腰かける。そうして長い脚を組み、背もたれに身を預けた。

「お前が動かないなら、私が勝手に動く。お前がかくまっている臣下とやらをあぶり出して捕らえてやろう。そうしたら、お前の体調は必然的に快方に向かうだろうな」

「やめろ」

「いくら精神に影響を受けていたとはいえ、お前ならば、こうも落ちる前にどうにかできたはずだ。その臣下の愚行を止め、同時に助けてやることもな」

「うるさい、簡単に言うな」

 まあ、クラウディオの反論もわからないでもない。その精神への影響がどれほどのものだったのか、当の本人にしかわからないのだから。

 しかし、彼はこの国の第一王子だ。王族としての責任がある。

 のらりくらりと政務から逃げる厄介な男だとは聞いていたが、優秀だからこそ見えたものもあっただろう。ずぶずぶに魔法に侵される前に、できることはいくらでもあったはずだ。

「第二王子とやらに会ってきた」

「っ――!」

 クラウディオの顔色が変わった。

 やはり、この家に引き籠もっていたせいか、その信頼する臣下とやらが情報を制限しているせいか、知らなかったらしい。

「正確には、強引に面会させられた。アレはだめだ。あんなのがやがて王になるだなんて、私の国は認めないだろう」

「国の代表にでもなったつもりか」

「判断を持ち帰るまでもない結論だ。アレが王太子になってみろ、どうあったとしても、私が全力で引きずり下ろす。そうしたら、余ったお前が強制的に王太子だ」

「好き勝手なことを」

「いい加減、腹をくくれ」

 クラウディオがなぜ王太子という身分につきたがらないのかはわからない。

 まあ、自由な男だ。行動に制限がかかることで、できないことも増えるだろう。

 商業に興味があり、自ら庶民ともやり取りをしているはず。王太子ともなれば、それも許されない。著しく制限がかかることを面倒に感じる性格なのは推察できる。

(自らの数年を捨てることで、カリストに王太子の座を譲り、その後復帰する算段か?)

 クラウディオはどう見ても優秀な男だ。いくらクラウディオ本人にその気がないとはいえ、王位継承権を放棄することは許されなかったと見ていい。許されているのであれば、こんな回りくどいことをする必要などないからだ。

(わからん。だが、コイツの事情などどうでもいい)

 今日、カリストは、フィオナが欲しいとはっきりと言った。セドリックの耳元で、実に楽しそうに提案してきたのだ。

『君の奥方を、僕に譲ればいい。君だけがその条件を呑めば、ナバラル王国はリンディスタ王国とよりよい関係を築けるよ』

 離縁することで、彼女をナバラル王国に捧げよと。わざわざ問題を国に持ち帰らずとも、それならば即答できるだろう――と。

 交渉しているように聞こえたが、あれは脅しだ。フィオナを差し出さなければ、リンディスタ王国には帰れないと思え。そういうことだろう。

 後日、パーティーにオズワルドを招待したとも言っていた。それも、なにか算段があってのことだ。

 セドリックの腸は煮えくり返っていた。

 あんな男にフィオナを渡すなどあり得ない。

(一千万歩譲って、まだクラウディオの方が理解できる)

 クラウディオは、セドリックと同じだ。

 おそらく周囲の人間のために、自分が苦しむ道を選んだ。

 魔法による体調不良を甘んじて受け入れていたとはいえ、それを緩和してくれるフィオナの存在を女神のように感じただろう。

 どれだけ本人が強がったとしても、長く自分の体を追い詰めると精神が弱る。そこに差し出された温かい手に、どれほど救いを得るか。セドリック自身も痛いくらいに実感している。

 フィオナの温もりを思い出す。

 かつて、まともに眠れず、味覚も感じず、心を動かすことすら億劫だった自分に差し伸べられた手。彼女の与えてくれた光に、どれほど救われただろう。

(ああそうだ! 彼女に恋をした者同士、この男には共感できる! 不愉快極まりないがな!!

 それに、この男は強引にフィオナをかどわかそうとはしない。これも実に腹立たしいことだが、真っ正面から彼女を口説き落とそうとしている。

 日頃の言動のせいで、フィオナには完全に軽口だと思われているあたり自業自得だが、正攻法で挑もうとする気概は認めてやってもいい。

(もちろん、譲るつもりなどないがな)

 ただ、ふたりのうちのどちらが王になると都合がいいか。それがクラウディオに傾いただけ。それだけだ。

「いい加減私は、腹が立っているんだ」

 セドリックは眉を吊り上げ、クラウディオを睨みつける。

「望むものがあるなら、お前が頂点に立って自らの手で手に入れればいいだろう? それくらい気概のある男ではないのか」

「簡単に言うな! なにも知らないくせに!!

 バン!とソファーを叩き、クラウディオが立ち上がる。刺繍入りのハンカチーフを握りしめながら、彼は声を荒らげた。

 夕日が沈む海の色をした瞳が、今までにないほどの激情に染まっている。

「私が変えられるのは表面だけだ! この国の根底は、なにも変わらなかった!」

 クラウディオの心からの叫びに、セドリックは口を閉ざす。

「――ああそうだ。私が変えられたのは、この国の表面だけだったよ。一見華々しい中心街の光に紛れて見えないかもしれないが、この国は停滞している。陰湿で、保守的で、どうしようもない者たちが中心に居座ったままだからな」

「クラウディオ」

「私を王太子にしようとする者たちは、その方が対外的に見映えがいいと思っているからにすぎない。王太子に立たせて、私から今の周囲の人間を引き剥がし、孤立させてかいらいにしようとしているんだ。あまりに馬鹿らしくないか? そんな中央に付き合うだなんて」

 クラウディオは渇いた笑いを漏らした。

「そんな奴らのために、どうして王座になどつかなくてはいけない? 面倒だろう? こうして外で、好き勝手している方がよっぽど楽だ」

「それは違う」

「違わない。どうせあと一年だ。王座に固執しているカリストが王太子になればいい。そうしたら私は自由に動ける。華々しい場所に居場所を作って、たとえ王でも私のものを奪えないような地位を築けばいいだけだ。そうすれば私は、望む未来を手に入れたも同然だろう?」

「そのためならさらに一年、お前自身を犠牲にしても構わないと?」

「構わないさ」

「お前を縛りつける誰かの心に、傷をつけ続けてもか?」

「――――っ!」

 クラウディオの顔色が変わった。

 その瞬間、セドリックは理解した。クラウディオはただ目を逸らしているだけなのだと。

 このぬるま湯に浸っているだけでは、その誰かのためにはならない。物事の本質は見えているはずなのに、きっと見て見ぬふりをしてきた。

 そんな生温い男に、これ以上助け船を出してやる義理もない。

「今渡したのは、フィオナの最後の情けだと思え。これ以上救いの手は差し出さない。――王太子が決まるその日まで、お前の命が保つといいな」

「この……!」

 クラウディオは怒りにたぎる目でこちらを睨みつけてくる。

 剥き出しの感情だった。しかし、それ以上反論することはない。

「…………っ」

 クラウディオは言葉を呑み込んだ。

 やがてうなれるようにして、どかりとソファーに腰かける。そうして、深く――本当に深く息を吐き出してから、恨みがましそうに呟いた。

「――逃げることを許さないなんて、随分横暴な男だな」

「だろうな」

 クラウディオはかつてのセドリックと同じ。大切な存在を前に、動けなくなってしまっている臆病者だ。

 酷なことを言っていることはわかっている。見たくないものから目を逸らし続けたい気持ちは、誰よりもよく理解しているつもりだ。

(私にはフィオナがいたからな。結果的に、逃げずに済んだ)

 自分は恵まれていた。それも自覚している。

 同じことを要求するのは酷だろう。それでも、彼には逃げないでいる選択肢が選び取れるはずだと思っている。

 ふぅ――、と。クラウディオは長く息を吐いた。

「――――わかったよ」

 そうして、絞り出すようにして吐き出す。

「面倒がらずに正してやる。全部をだ」

 おそらく、クラウディオはなにかきっかけが欲しかったのだろう。

 聡く、実行力もある男だ。時間をかけて立ち向かいさえすれば、実現できない政策はない。それでも、長く魔法に囚われた心では、その一歩が踏み出せなかった。

(この男は、フィオナの力を即座に理解し、彼女を求めた)

 それは、心のどこかで変化を求めていたに他ならない。そう感じたからこそ。

 わざわざ恋敵に手を貸すのはしゃくだが、このままだと寝覚めが悪い。

「少しはマシな面構えになったな」

「偉そうに」

 軽口を叩いているが、実際クラウディオの目つきが変わった。なにを考えているかわからなかった胡散臭い笑顔も、少しは感情の見られるものになっている。

「だいたいセドリック、お前も無防備すぎるんだ。――もう少し彼女の正体を隠せ。私のような人間に掠め取られるぞ」

 痛いところをつかれてセドリックは眉間に皺を寄せる。

 それはその通りだ。フィオナが女魔法使いであることは、すでにクラウディオに筒抜けなのだろう。実際、カリストにも確実にバレている。

 苛立たしくて鼻を鳴らす。そんなセドリックに向かって、クラウディオは実に楽しげに口の端を上げた。

「私にやがて王になれというのであれば、セドリック、お前も彼女の夫であり続けるための地位と実力くらいは身につけてくれるよな?」

「…………当然だ」

 互いに、大変な無理難題を押しつけ合っている気がするが、クラウディオの言っていることはもっともだ。

 フィオナが女魔法使いであることは遅かれ早かれ明るみに出るだろう。そうなった時、セドリックとの婚姻程度で彼女の身柄を守りきれるだろうか。

 セドリックよりも身分が上で、彼女の存在を欲する輩はこれからも大勢現れるだろう。そうなった時、自分は彼女を護らないといけないのだ。

(フィオナは、自分の治療の力を世に役立てたいと――本心では、そう願っているはずだ)

 でも、その力を隠させているのは単純にセドリック側の事情だ。そうしないと、彼女を護りきれないと思ったから。

(優しい彼女のことだ、目の前で苦しむ人を放っておけるはずがない)

 だからこそ、今回も、正体がバレる危険を冒してまでクラウディオを助けた。これから先も似たようなことは確実に起こるはずだ

「わかっていないようだからはっきり言うが、セドリック、お前が感じている以上に彼女は隙だらけだ」

 マイペースな彼女が隙だらけなのは今にはじまったことではない。わざわざ忠告される意図がわからず、片眉を上げる。

「お前、まだ彼女を抱いていないだろう?」

「な……っ!?

 まさかのツッコミに、これまでの張り詰めた空気もどこへやら、カッと体温が上がる。

「それは関係ないだろう!!

 気が付けば、頬を真っ赤にして主張していた。

「関係あるさ。だから他の男がちょっかいをかけたくなるんだ」

「それは――!」

 セドリックと違って、クラウディオは男女の関係性というものに敏感なのだろう。確かに、見る目を持った者からしたらわかるのかもしれない。

 自分がもたもたしている自覚もある。だからこそ、こうして指摘されると反論の余地もない。

「そもそも、お前、本当に彼女を愛しているのか?」

「当たり前だ!!

「中途半端だから、周囲にとってはお前の愛とやらが疑わしく思えるんだ。しっかり愛して、彼女にも隙を作らせるな」

 的を射た意見に、セドリックは唇を噛む。

 言われっぱなしは性に合わない。だから、先ほどまでの仕返しのようなものなのだろう。クラウディオはからかうような目を向け、ニマリと口の端を上げた。

「ひとまず、王太子となる私に絡め取られぬようにな」

「――っ、当然だ!」

 厄介な男を焚きつけてしまったかもしれない。

 けれども、この選択を後悔することはない。セドリックは覚悟を決め、彼の部屋を後にした。

 ずんずんと廊下を歩いていく。

 もう、クラウディオの屋敷のことは熟知している。玄関へ向かう廊下を歩きながら、セドリックは考える。

 最後の最後でとんでもない無理難題を押しつけられた。フィオナが女魔法使いであると世間にバレたとして、これから彼女をどう護っていけばよいのだろうか。

 ――いや、そのような可能性があることにはとっくに気が付いていた。そうでありながらも、セドリック自身もその課題から逃げていただけだ。

(クラウディオのことをどうこう言えないな)

 本当に自分は至らない。色々器用なつもりではいたが、フィオナと出会ってからはなにもかもが足りていないと思い知らされてばかりだ。

 これから先、女魔法使いであるフィオナと幸せを掴むため、彼女を欲する男たちから彼女を護り続けないといけない。

(――彼女を護りきれるだけの力か)

 次期公爵だなんて曖昧な地位では足りないのだろう。女魔法使いである彼女の配偶者に相応しい、誰もが納得するような地位、功績、名誉――。

(課題は山積みだな)

 それら全部を手に入れるための方法など、いまだに答えは出ない。闇雲に霧の中を歩いているような感覚すらある。

(彼女を愛して、隙を作らせるな――か)

 クラウディオの言う通りだ。彼女はセドリックのものだと、彼女の身に刻みつけて、誰の目にも明らかなくらいにたっぷりと愛したい。

 ただ、最後の最後で一歩踏み出せないのは、彼女が――――。

「本日は、奥方さまはご一緒ではないのですね」

 フィオナのことで頭がいっぱいで、反応が遅れた。

 ちょうど屋敷を出ようとしたその時、後ろから声をかけられ、振り返ろうとする。しかし、ふわりと強い他人の魔力を感じた瞬間、セドリックの思考がかき混ぜられたかのような感覚がした。

(まず、い……!)

 魔法だ。すぐにセドリックは先入観に囚われていたことに気が付く。他人の精神へ影響を及ぼす魔法は、どこかフィオナの扱うものと似ていると。だから、食べ物などを媒介にするか、直接触れられない限りは大丈夫だと。

 でも、違った。多少離れていても、ある程度は相手に影響を及ぼすことが可能らしい。

「ちょうどよかった。おひとりの時にどの程度効果があるのか、試してみたかったのです」

 直接触れられ、さらに強い魔力が流し込まれた。

 ぐるん、と体内の魔力が一回転する。瞬間、吐き気をもよおしてその場にしゃがみ込んだ。

(これは……すぐに、対処、を……)

 確か、アランがなにかを教えてくれていたはずだ。別荘でへらへら笑いながら、ああでもないこうでもないと考察をしていた。しかし、このぼんやりした頭では、すぐにその言葉を思い出せない。

 振り返った時にはもう、誰の姿もなかった。セドリックは額に手を当てたまま、よろよろと立ち上がる。

(なにが……起こった……)

 思考がまとまらなかった。

 声がした。その声が誰のものか、はっきりと突き止めなければいけなかったはずだ。

 聞き覚えがあるはずなのに、それが誰のものなのかなぜか掴み取れない。

(でもなぜ? なんのために?)

 そんなこと、考えなくてもよいのではないだろうか。

 緩慢な意識をたぐり寄せる気にもならず、セドリックは待たせていた馬車に乗り込む。

 御者が一瞬怪訝そうな顔を見せるも、この後向かう場所は決まっている。なにを言うこともなく馬車が走りはじめ、セドリックは暗い車内で床に膝から崩れ落ちた。

(――まずい)

 なにがまずいのかはよくわからない。そこまで思考が行き着かない。

 本能的にセドリックは懐をいじり、彼女に渡されたお守り代わりのハンカチーフを握りしめる。

 鈍い意識の中で思い浮かぶのは、フィオナのことばかりだった。

 このままでは彼女は取られてしまう。自分などでは、彼女を捕まえたままではいられない。

 先ほど散々クラウディオにあおられたからだろうか。いつか彼女が離れていく未来が頭をよぎる。

 ――だから彼女を奪わなければ。

 セドリックは、そう思った。

 誰にも渡さないように。強く。強く。彼女を繋ぎ止めなければ。



 別荘の外に馬車が止まる音が聞こえて、フィオナは安堵した。

 きっとセドリックに違いない。クラウディオと話をつけて、帰ってきたのだろう。

 彼が望む結果に話がまとまったのかどうか、そわそわしながら玄関先へ向かう。

 きっと疲れ切っているだろう。軽食でも出すべきだろうか。それとも先に湯浴みを望むだろうか。いずれにせよ、精いっぱい彼を労いたくて玄関の扉を開けた。

 セドリックはちょうど、馬車から降りたところだった。

 外はすでに真っ暗で、馬車の向こうに深く暗い色をした海が広がっている。今日は月明かりもわずかで、彼の顔がよく見えない。ただ、背を丸めたままゆらりと動く彼の姿は異様だった。

 右手には、家を出る前に渡したはずのハンカチが握りしめられている。なんだか随分と手に力が籠もっているようだ。

「……セドリックさま?」

 お帰りなさい。そんな、普段当たり前に出てくるはずの挨拶が、この時ばかりは出てこなかった。

 心臓がとくとくと、早鐘を打ちはじめる。

 すぐにわかった。これは恐怖だ。

 嫌な予感がした。いつもなら、呼びかけたらすぐに彼は笑って、フィオナを迎えるために両手を広げてくれる。フィオナはその腕の中に飛び込んで、彼からのキスを受けるのだ。

 毎日繰り返している幸せな挨拶、それが今は想像できない。

「セドリックさま、お帰りなさい」

 恐る恐る、彼のもとへと歩いていく。

 そばに立っている御者が困惑するようにこちらを見つめている。その心配そうな眼差しに、なにがあったのかと訊ねたい。

 でも、今はセドリックだ。

 どうしてこちらを向いてくれないのだろう。どうして、笑いかけてくれないのだろう。どうして――。

「セドリックさま」

 差しのべた手を、パシリと掴まれた。

 彼が握っていたハンカチーフが地面に落ちる。それをまったく気に留めることもなく、彼はフィオナの顔を覗き込む。

 菫色の瞳が暗くよどんでいる。見たこともない彼の表情に、フィオナは呼吸することもできなくなった。

「ああ、フィオナか」

 その低い声にぞくりとした。

 なんと、今の今まで気が付いていなかったらしい。彼の鋭かった眼光がわずかに緩むも、次の瞬間には彼に抱き上げられている。

「っ、セドリックさま!?

 あまりに突然のことで、フィオナは驚きの声をあげた。

 けれども彼は反応しない。大股で別荘の中に入っていき、迷うことなく階段を上っていく。

 そうしてたどり着いたのは二階奥にある主寝室だった。

「誰も入るな」

 慌てる使用人たちに言い放ち、バン!とドアを閉める。そうして内鍵を閉めてから、彼は部屋の奥へと歩いていく。

 この別荘に来てからというもの、ここはいつも彼とぴったりとくっついて眠ることが許される特別な場所だ。

 彼の体温を感じながら眠るのは、気恥ずかしくもあったけれど嬉しかった。

 朝、目が覚めると、彼がフィオナをギュウギュウに抱き込んでいる。セドリックは朝が弱いらしく、寝ぼけたままフィオナの頬に擦り寄るようにして、甘えてくれるのだ。

 そんな温かくて幸せな空間が、別の色に染められる。薄暗い部屋の中、フィオナはベッドに乱暴に下ろされ、組み敷かれた。

 呼びかける間もなく、次の瞬間には唇を塞がれている。

 いつもの優しいキスとは違った。乱暴で、荒々しくて、欲望だけで求められている激しいキスだ。

 酸素が足りなくて苦しくて、ドンドンと彼の胸を叩いた。でも、セドリックはちっともやめてくれなくて、貪るようなそのキスは深くなっていく。

「ん……はっ、ぁ」

 出したこともないような甘い声が出た。自分が自分じゃなくなっていくような感覚に、フィオナは泣きたくなる。

 同時に、胸をかきむしりたいくらいに苦しかった。目の前の彼は、まるでセドリックではないみたいだ。

(いったいなにがあったの? こんなの、以前のクラウディオ殿下みたい――)

 そこまで考えたところで、ハッとする。

 クラウディオのそばに、彼の精神を蝕んだというはぐれ魔法使いがいる。先ほどまでクラウディオに会っていた彼が、そのはぐれ魔法使いと接触した可能性が高い。

(もしかして、魔法――)

 真実にほど近い場所まで思考がたどり着くも、すぐに考える余裕はなくなる。セドリックが強引にフィオナのスカートの裾をまくり上げたからだ。

 ふとももを滑る大きな手。いつもフィオナを優しく抱きしめてくれるはずの彼の手が、今はあまりに乱暴だった。

 白い肌を滑り、太腿を強く撫でる。もう一方の手でフィオナの胸元のリボンを解き、ドレスのボタンを引きちぎった。

「待って、セドリックさま!」

 フィオナの制止は届かない。

「フィオナ――」

 まるで壊れたゼンマイ人形のようにフィオナの名前を繰り返すだけだ。

 本能がフィオナを求めているのか、その手が止まることはない。彼がなにをしようとしているかくらい、フィオナにだってわかる。

 いつか、彼と体を重ねる日が来るだろうと夢見ていた。

 想いを交わし合った日から、セドリックはフィオナのことを大切にして、時を待っていてくれたこともわかっている。だから彼の中で色んな整理がつくその日まで、ジッと待ち続けていたのだ。

 きっと、いつか来るその夜は忘れられない夜になるだろう。幸せで、でもちょっと気恥ずかしさもあって、やっぱり泣きたいくらい幸福で胸がいっぱいになる夢を抱いて、フィオナは本当にずっと待っていたのだ。

 それがこんな形で壊されようとしている。

(そんなのだめ。絶対に、だめ……!)

 彼がなにを想い、ずっとフィオナと体を重ねずにいたのかまではわからない。でも、彼の中に秘められていたとても大切な想いが、こんな魔法なんかに塗りつぶされる。

 このままなし崩しに体を繋げたら、幸福な夢は粉々に砕け、きっと胸の奥に傷を残し続けるだろう。フィオナだけでなく、セドリックの心にも。

「セドリックさま! こんな魔法のせいで、あなた自身を傷つけないでください!」

 卑怯な魔法で、彼に一生治らない傷を負わせることなんて許せない。

 だからフィオナは祈った。

 彼をギュッと強く抱きしめ、体中の魔力の糸をたぐり寄せる。

 それは初めての感覚だった。今まで感じたことのないような圧倒的な負の魔力。それがセドリックの体内に渦巻いていることを理解する。

(他人の魔力の形なんて、今までちっともわからなかったけど)

 セドリックを蝕むものを、フィオナが見逃すはずがない。だから、その魔力を自分のもので包み込むようにイメージを広げていく。

 塗りつぶす。どんどん塗りつぶす。黒を、白へ。負の魔力を全部だ。

(こんな魔力に負けないでください、セドリックさま……!)

 ――そして、フィオナの願いはちゃんと彼に届いたらしい。

「っ――――」

 息を呑むような声が聞こえた。

 かと思うと、フィオナを暴く彼の手がぴたりと動きを止める。

「…………っ、フィオ、ナ」

 掠れた声が響きわたる。

 顔を上げると、菫色の瞳と目が合った。

 焦点の定まっていなかったその瞳が、ゆるゆるとフィオナの存在を認識していく。そうして、今、なにが起こっているのかを正確に理解したらしい彼が、目を見開いた。

 フィオナを暴いていた彼の手が小刻みに震え出す。わなわなわなと、唇を開けたり、閉めたり。

 そうして彼は、絞り出すようにして呟いた。

「私は、なにを――――」

 それ以上言葉は続かなかった。

 彼は息を呑み、咄嗟にフィオナから離れる。呼吸することすらできない様子で、愕然とした表情をしていた。

 後になって、己がなにをしたのか理解が追いついてきたのだろう。顔面そうはくのまま、ずっと震えている。

 だからフィオナは手を伸ばした。彼を抱きしめるために、そっと。

「セドリックさま……!」

 自分は平気だ。なにも怖いことなんてなかった。あなたが戻ってきてくれて嬉しい。心配することなんてなにもない。

 色んな想いがない交ぜになって、上手に言葉にできなかった。だって、フィオナの体も震えっぱなしだ。怖くなかったと言えば、それは多分嘘なのだ。

「大丈夫。わたしは、大丈夫ですから」

 それでも、抱きしめる腕にギュウギュウと力を込めて、彼を包み込む。

「愛しています」

 変わらぬ想いが口をついて出る。言葉は動きとなって、フィオナは自らキスをした。

 彼の唇は随分と冷えていた。だから体温を分け合うように、強く押しつける。彼が驚いたように目を見開くも、やめてあげない。彼の震えが止まるまで、何度も、何度も、深く唇を重ね続ける。

 セドリックもやがて目を細め、フィオナを求めるようにキスをくれた。

 それは優しいキスだった。さきほどまでのものとは全然違う。フィオナの心をうかがうような労りのキス。それが嬉しくて、心が優しさで包み込まれていくようで、フィオナは笑った。

「――ふふ。もう、大丈夫ですか?」

 ようやく彼の体温が戻った気がして、眦を下げる。笑顔を作って、額をくっつけると、彼はますます顔をくしゃくしゃにして、フィオナを強く抱きしめた。

 とても力強くて、苦しいくらいだ。でも、フィオナはそっと目を閉じて、彼の想いを受け止めた。

「っ、すまない。君に――怖い思いをさせた」

「はい」

「こんな乱暴な想いを、私は抱いて――」

「ええ」

「欲望のままに、ただただ君を貪ろうとした」

 彼の声は掠れていた。

 つっかえつっかえ、想いを吐露する彼の言葉に耳を傾ける。溢れ出る想いをそのままに吐き出す彼のざんを、フィオナは彼の背中を撫でながら聞いていた。

 互いの体温が温かい。それを感じているうちに、彼の呼吸が多少落ち着いてくる。

 大丈夫。ここにいるよと何度も背中を撫でていると、彼がごくりと唾を飲み込むのがわかった。

「私は――多分、例の魔法に心を蝕まれたのだと、思う」

 それはわかっている。セドリックを包む澱んだ魔力の形を、フィオナも確かに認識することができたから。

「あれは――恐ろしいものだった。己の精神を深く落とし、不安をかき立てるような」

 セドリックの声が暗い。唇を噛みしめ、自分自身への怒りを隠そうともしない。

 確かアランは、負の感情を増幅させると言っていた。その効果を目の当たりにし、フィオナは唇を引き結んだ。

「君を強引に抱こうとしたのは、私に不安があったからだ」

「不安?」

 フィオナは顔を上げた。彼が抱えるものを知りたくて、ぱちぱちと瞬きながら続きを待つ。

「君は、綺麗で。優しくて。その上、こんな素晴らしい力を持つ魔法使いで。――誰も君という存在を無視できない」

 セドリックの中のフィオナという存在は、とても美しいものとして映っているらしい。面映ゆくもあるけれども、それが彼の本心だと理解して、フィオナは息を呑む。

「クラウディオ、カリスト――誰もが、君という存在を欲しがる」

 菫色の瞳は真剣だった。切実そうに声を詰まらせながら、彼は想いを吐露し続けた。

「そして、彼らが本気で君を手に入れようとしたら、私の身分と力では阻止しきれない」

「そんな――」

 胸がズキリと痛んだ。

(まさかセドリックさまがそのようなことを考えていたなんて)

 セドリックがどれほど重たいものを背負っていたのか、ようやく理解した。

 フィオナはこの世界でたったひとりの女魔法使い。そしてその真価は、子を産むことでようやく発揮される。

 フィオナの身には必ず魔法の才能を持った子供が宿る。有力者にとって、それは喉から手が出るほど欲しい存在であるだろう。フィオナもそれを理解していたがゆえ、自分が魔法使いであることを隠さなければいけないと思っていた。

 でも、理解も危機感も全然足りていなかった。

 セドリックが阻止しきれないと言い切るのはよっぽどだ。

「クラウディオも、カリストも、この国の王子だ。彼らに君を捧げることで、国が得られる利益があまりに大きすぎる」

 その特異性ゆえ、フィオナの利用価値が高すぎるのだ。

 オズワルドが望んでいないから、リンディスタ王国内では見逃されているだけだ。セドリックが王族と血縁関係にあることも大きいだろう。だからこそ今は、自由に泳がされている。

 けれども、他国の王族がフィオナを望んだとすればどうだろう。その身と引き換えに、有用な取引がいくらでもできる。

 しゅんじゅんした。国と国の取引に、フィオナは利用される可能性が高い。そして国が本気でそれを望んだのなら、公僕であるセドリックが拒むことは難しい。

 頭では理解していたのだ。でも、フィオナはどこか安心してしまっていた。だって、フィオナにとってセドリックは、自分の未来を切り開いてくれた憧れの人で、素晴らしい才覚に満ち溢れた万能な人だから。

 もちろん、弱いところもある。夫婦なのだから知っている。それでも、彼の隣にぴったりとくっついて歩いていけば、きっと大丈夫だと思い込んでいた。

 セドリックはそんなフィオナに心配させまいと、大きすぎる不安を、ずっとひとりで抱え続けていてくれたのだ。そしてフィオナは、そんな彼の不安に気が付いてあげられなかった。

「もしかして、ずっとわたしを抱いてくださらなかったのは、子供が生まれた後のことを考えて?」

 震える声で訊ねた。

 世継ぎを作ることはフィオナの大事な役目だと認識している。

 ひとり、ふたり。いったい何人の子を授かるのかはわからない。けれど、その子らが全員魔法使いだったら――フィオナが女魔法使いではないかと勘ぐる人は出てくるだろう。

 セドリックの菫色の瞳が揺れる。そうして、どこか寂しそうに、悔しそうに笑うのだ。

「そうだ。だが、君が思うよりもずっと至らない。――私に覚悟が足りなかった」

「え?」

「多分、私は運命に怯えていたのだと思う」

 セドリックが目を伏せる。

 フィオナの頬をそっと撫でながら、苦しそうに目を伏せた。

「君が女魔法使いである事実を、受け止めきれていなかった。君を抱くということは、女魔法使いを抱くということだ。その責任を背負いきれるかと、いつも――」

 ――あと一歩が踏み出せなかった。そう吐露したセドリックは、よろよろとフィオナの肩口に顔を埋める。

「情けないだろう? こんなに君を愛しているのに。――笑ってくれていい」

 どうして笑うことができるだろうか。

 真面目なセドリックが、その運命に真剣に向き合い続けたからだったのに。

「結果、魔法に侵されてこのザマだ。本音の欲望だけが爆発して、君を乱暴に抱こうとした。他の男に取られるんじゃないかと焦って、君を怖がらせて」

 その言葉を聞いた時、フィオナは瞬いた。

「あの、セドリックさま」

 だって、今の言葉にこそ、彼の本音が隠れていたから。

 そしてその言葉は、フィオナがずっと聞きたいと思っていたものだった。

「わたしのこと――その、抱きたいと、思ってくださっているのですか?」

「当たり前だろう!」

「ひゃっ!?

 ガバッと顔を上げて主張する彼の圧に、フィオナは息を呑む。

「君を抱きたくないと思った日など! ただの一度もない!」

 彼は真剣だった。まくし立てるように大声で主張する。

「この別荘に来て君とベッドをともにするようになってから、どれだけつらかったか――あっ」

 瞬間、彼の頬がぱっと染まった。

 ここまで言うつもりはなかったのだろう。恥ずかしそうに視線を逸らし、口を閉ざしてしまう。

 羞恥のせいか菫色の瞳が潤んでいる。耳まで真っ赤にしたまま、彼は押し黙っていた。

 寝室にふたり、静寂が包み込む。ぽかんとしたまま彼の言葉の意味を考えるうちに、なんだかとてもおかしく感じてきて、自然と笑みが溢れた。

「――――ふふっ」

 一度溢れはじめると、もう止まらない。あはははは、と声をあげて笑ってしまう。

「笑わないでくれないか。私は、これでも真剣で」

「わかっていますよ。でも――うふふ」

 彼がフィオナのためにどれほどに心を砕いてくれたのかよくわかった。多分、フィオナたちは同じところでつまずいている。

「セドリックさまが望んでくださっているのなら、きっと、それでよいのです」

「フィオナ?」

 波打ち際で転がりながら、笑い合った日のことを思い出す。彼はとても真面目で、きっとフィオナも同じだからこそ、立ち止まってしまう。それだけなのだ。

「わたしたち、もっとハメを外していいのですよ」

 フィオナの言葉に、セドリックが息を呑む。

 かつて、彼が言っていた言葉だ。今も、同じ言葉がしっくりくる。

「周りのことばかり考えて、やりたいことを我慢なんてしなくていい」

 それに、と、フィオナは言葉を続けた。

「わたしは、わたしがセドリックさまの妻だって、声を大にして叫びたいです!」

 それがフィオナの願いだった。

 周りの男性がどうとか全然関係ない。フィオナの大切な人は目の前の彼ただひとりで、フィオナだって彼の手を離すつもりはないのだ。

「セドリックさま、わたしを見くびっていませんか?」

「見くびって……?」

「そうですよ。勝手にわたしが周囲に振り回されて、誰かのものになるって決めつけて」

「決めつけてなどいない! そんなの、あり得ない! 許さない」

「わたしだって認めません」

 ぴしゃりと言い放つ。どうしても、これだけはセドリックにも理解してほしいのだ。

「わたしは――わたしが、セドリックさまのそばを離れませんから」

 この手を絶対に離さない。

 彼がフィオナを護る護らないという問題ではないのだ。フィオナの方が掴んで離すつもりなどない。それは揺るぎない事実で、セドリックにだってフィオナの意志を甘く見てほしくない。

「フィオナ……」

「だから、わたしだって、その――」

 そっと彼の胸もとに顔を寄せる。

 自分から宣言するのはあまりに恥ずかしい。けれども、ちゃんと伝えなければフィオナの本心は伝わらない。

「セドリックさまのものに、なりたいです」

 ごくりと、彼が唾を飲み込むのがわかった。

 心臓がずっとバクバク暴れている。顔に熱が集まって、どうにかなってしまいそうだ。若草色の瞳は潤み、握り込む手が汗ばんでどうしようもない。

 この誘いは、セドリックの我慢を無駄にしてしまうものかもしれない。でも、フィオナはこの先も、彼のそばで生きていきたい。そしてそのための自信を、彼に与えてほしかった。

「フィオナ――」

 キスが落ちてきた。

 唇を喰み、どんどんと深くなっていく。

 その求めるようなキスに、フィオナは幸福で目を細める。

「そうだな。私たちはもっとハメを外していい。――私が言った言葉だったな」

「そうですよ。ご自分の言葉に責任を持ってください」

「ハメを外すのに責任を? ふふ――そうだな」

 ああ、ようやく彼の表情に笑みが溢れた。それが嬉しい。

 セドリックはどこか眩しそうにフィオナを見つめている。そしてもう一度、今度はもっとゆっくりと唇を重ねた。それがとても心地よくて、フィオナは手を伸ばす。

 ギュッと彼の背中に腕を巻きつけ、いっぱい、いっぱい力を入れた。

(もう、絶対にあなたを離しません)

 この決意が、彼に伝わりますようにと祈りを込めて。


 ――瞼の裏にまで世界の明るさを感じ取り、意識が浮上する。

「ん……」

 掠れた声を漏らしながら、フィオナはわずかに瞼を持ち上げる。差し込む光のあまりの眩しさに、今は朝かあるいは――と考えてハッとした。セドリックにどろどろに愛されて、気を失うようにして眠っていたらしい。

 色んな声を出してしまったからか、喉が少し痛い。

 体のあちこちに違和感があり、今もなお彼にたっぷりと触れられ、愛されているような感覚が――と、はっきり目を開けた時、すぐそこにセドリックの美しい顔があった。

 呼吸が止まるような心地がした。

 夜の色をした髪は乱れたまま肌に貼りつき、同じ色彩の長いまつげが閉ざされた彼の瞼を縁取っている。薄い唇は形よく、この唇によって至るところにキスをされたのだと思うと、めくるめく夜の記憶が鮮明に思い出され、叫びそうになった。

(っ、だって! だって、セドリックさまったら、ずっと……!)

 初めてなのに、とんでもない経験をしてしまったような気がする。

 羞恥で顔を覆いたくなるも、今のフィオナはがっちりセドリックに抱き込まれたままだった。身じろぎしようものなら、彼を起こしてしまう。

 でも、どう考えてももうそれなりに日が高い。本来は起きるべき時間だろうが、昨夜はかなり遅くまで――それこそ、空が白みはじめる頃まで愛し合ったこともあり、もっと眠らせてあげた方が、とも思う。

(で、でもっ。セドリックさまがお目覚めになるまでこの状態ってこと……!?

 互いになにひとつ身に纏っていない。今も、素肌のまま彼に抱きしめられているのだ。

 昨夜は勢いでなんとかなった。しかし、冷静な今の状態でこれは、羞恥と緊張でどうにかなりそうだ。

(セ、セドリックさま! 早く目覚めてください……っ)

 とはいえ、彼が目覚めたら目覚めたで、どう反応していいのかわからない。意識は完全に覚醒し、朝から大混乱だ。

(ううん、やっぱりまだ! 心の準備がっ!!

 脳内大騒ぎのまま、つい身じろぎをしてしまう。その振動が伝わったのだろう。

「ん――」

 彼がゆっくりと瞼を持ち上げる。それに気付いた瞬間、フィオナはぴたりと固まった。

 長い睫の向こうに、菫色の瞳が覗く。まるで宝石のように美しく煌めくそれがフィオナの姿をとらえ、一度、二度と瞬いた。

 まだ、セドリック自身も状況を把握できていないのだろう。寝ぼけ眼のままじっくりと考えて数秒、彼の表情が幸せそうに緩んだ。

「フィオナ、おはよう」

 彼は触れるだけのキスをくれた。とろけるような微笑みに、フィオナの頭は真っ白になる。

「あ、あ、あ、あのっ、その……お、オハヨウゴザイマス」

 尻すぼみになりながらもどうにか応えると、セドリックは満足そうに大きく頷いた。

「――いいな。こうして目覚めた時、愛しい君が目の前にいるのは」