「いえ、その」

「小さい頃からひと通りの護身術は叩き込んであってな。私には魔力もあるし、心配はいらない」

 彼の体の動きに一切の無駄がなかった。もはや護身術の域をはるかに超えていたと思うが、フィオナはこくこくと頷くしかない。

「荒事に巻き込んですまなかった。君が狙われていたと思うとつい、な」

 そう苦笑いを浮かべるセドリックを見つめているうちに、遠くから大勢の声が聞こえてきた。どうやら騒ぎを聞きつけた通行人が通報してくれていたらしい。

 やってきた警備兵がセドリックに事情を聞き、その場に倒れていた男たちに厳しい目を向ける。なにかに納得した様子で、すぐに男たちを連れていこうとした。

「お、おおおれたちじゃない! アイツ! アイツが一方的に」

「西望の民の言うことなど信じられるか! おとなしくついてこい!」

 かろうじて意識があった男が声をあげるも、警備兵たちは聞く耳を持たないようだった。必死で言い訳を連ねる男が、ずるずると引きずられていく。それとともに、集まっていた野次馬たちもひとり、ふたりと減っていき、路地にはもとの静寂が戻ってきた。

「――西望の民?」

 ふたり取り残されたところでフィオナはぽつりと呟いた。警備兵たちが吐き捨てるように言った言葉がどうしても気になったからだ。

「ああ、ナバラル王国が昔から抱える移民問題だな。西望の民は古くからの移民ではあるが、ここ最近ナバラル王国が急激に発展しているせいで、新しく入ってきた者たちと衝突を起こしている」

「移民問題……」

 そうしてセドリックは詳しく教えてくれた。

 西望の民は二、三世代ほど前に大陸の西からこの国へ移り住んだ、いわば古くからの移民である。ただし、この国でも人種が異なることを理由に、十分な職につけず、いわゆる貧困層となってしまっているらしい。

 もともと保守的な考え方を持つ貴族が多いこの国では、先住のナバラル人と比べて十分な保障を得られなかった。それでも、この国を支える労働力としてこつこつ努力を続けてきた。

 しかし、ここ十年ほどで事態が大きく変わった。他国との交流が盛んになり、様々な人種の人々が街を行き交うようになった。当然、取引も盛んになり、そのままこの国へ移り住む者が増えたのである。

 それらの人々が活躍し、重要な職に就く一方で、西望の民への扱いはまったく変わらない。彼らは最下層の労働力で、どれだけ頑張ろうとも十分な金銭を得られない。結果として、西望の民が他の民族へのてきがいしんを抱きはじめているということらしい。

「私たちも他国の民だからな。あえてそういう人間を狙って、金を巻き上げているのだろう」

「そんな……」

 荒くれ者たちによるただの強盗事件というわけではなかったのだ。その奥に、この国が内包する根深い問題があることを知り、言葉を失う。

「――知らない方がよかったか?」

 セドリックの表情が少し不安げに揺れた。

 この問題は少なからずフィオナの心を揺らす。そのことを理解してくれているからだろう。楽しい旅行の最中にする話ではない。そんな思いを抱きつつも、彼はちゃんとフィオナに教えてくれた。

「いいえ、教えていただけてよかったです」

 だからフィオナは背筋を伸ばし、真っ直ぐにセドリックに向き直る。りんとしたフィオナの姿を見て、セドリックはホッとした様子だった。

 セドリックが言っていた通りだ。この国が抱える問題は、リンディスタ王国が抱える問題でもあるのだろう。次期公爵にして王太子オズワルドの右腕であるセドリックにとっては、日夜向き合い続けている事柄だ。

 フィオナは彼を支えていきたい。そのためには、彼が抱える問題を見て見ぬふりはできない。

 ナバラル王国での出来事だとしても、ちゃんと向き合いたい。そう思えた。

「私はいい妻を持ったな」

(わたしも、あなたに相応しい妻でありたいのです、セドリックさま)

 しみじみと呟くセドリックの表情を見て改めて心に誓い、フィオナも目を細めた。


 とはいえ、思いがけない事件に巻き込まれたのは最初だけ。その後は穏やかなものだった。

 西望の民の中で、セドリックについて噂が流れたのか、中心街に出た時に遠くから視線を感じることはあっても、以後接触はなかった。

 セドリックは実に印象的な風貌をしているから、あの男に近付くなという注意喚起が回っているのかもしれない。

「変に絡まれぬように筋肉でもつける必要があるかとも思ったが、大丈夫だったな」

 などと珍しく冗談まで言ってセドリックは笑っている。

 見た目に変化が出るほど筋肉をつけたセドリックの姿を想像して、フィオナもつい噴き出してしまった。

 そうして別荘街と中心街を行き来しながらナバラルを堪能して七日目のことだった。フィオナはセドリックと相談して、ある訪問先へ向かうことにした。

 クラウディオの屋敷である。

「――ようこそおいでくださいました」

 前回と同じく、両手を胸の前で合わせながら出迎えてくれたのはクラウディオの下僕と称するサウロだった。少し浅黒い肌に、焦げ茶色の髪が印象的な男性だ。

 一礼した彼が顔を上げた瞬間、フィオナは既視感を覚えた。肌や髪の色は違えど、どことなくこちらを睨みつけるような視線に、なぜか先日の男たちの姿が重なったからだ。

 異国情緒溢れる顔立ちが、そう思わせるのかもしれない。ぱちぱちと瞬きしつつも、フィオナは彼についていくことにする。

 そうして前回と同じ居間に通される。その際、フィオナはしっかりと覚悟を決めた。

 今日こそはクラウディオのペースに呑まれてなるものかと、事前にセドリックと作戦を立ててきたのである。

 しかし、またも出だしから調子が狂うことになる。今日も早速クラウディオの軽口が飛び出してくると身構えるも、当のクラウディオが声をかけてこないのだ。

 というよりも、フィオナたちのことなど気にも留めていない。彼は前回と同じカウチソファーに横たわったまま、ぼーっと外の景色を眺めていた。

 窓が開いており、海風が薄いカーテンを揺らしている。爽やかな陽気が感じられるものの、部屋の中はどこか空気が重たい。

(いったいどうしたのかしら、クラウディオ殿下は)

 さやさやと吹き込む風に、彼のクリーム色がかった銀髪が流れた。目にかかって鬱陶しいだろうに、それを払うこともなく、ぼんやりとしている。

 それは少し、異様な光景だった。セドリックと顔を見合わせたまま、クラウディオのそばに歩いていく。

 入り口の方では、サウロがジッとこちらを見据えていた。困惑して一度サウロに視線を投げかけるが、表情の変化は見えない。相変わらずのつり目でこちらを観察するように見つめた後、あえて立ち去ることにしたらしい。やがて部屋の中は三人だけになる。

 主の命令もなく、外部の客だけ残していいものなのだろうか。困惑するも、それがサウロの判断なのだとしたら問題ないのだろう。フィオナは気を取り直して、クラウディオと向き合うことにした。

(この間よりも随分と顔色が悪くなっているわ。なにをする気力もない――みたいなことを仰っていたけれど、もしかしてこの状態が?)

 気鬱と呼べるような限度を超えている。

 心がざらついた。だって、先日のクラウディオとはあまりに違いすぎる。

 フィオナたちがこんなにそばに近付いているというのに、クラウディオはこちらに目を向けることすらしない。眠っているのか――いや、きっと起きているとは思われるが、フィオナたちのことは視界の端に映るちょうちょう程度の存在にしか見えていないのだろう。

「クラウディオ殿下、ごきげんよう」

 恐る恐る語りかけてみる。けれども、彼は軽く視線を動かしただけで、すぐに目を閉じた。そのまま起きているのか眠っているのかすらわからなくなってしまう。

 困惑してセドリックに視線を送るも、彼も難しい顔をしたまま考え込んでいた。

(本当に具合が悪いのね。以前の軽口が嘘のよう)

 さすがに心配になり、フィオナはクラウディオの手を握る。直接魔力を送るようなことはしないが、彼に刺繍入りのハンカチーフを握らせ、その日は屋敷を後にすることにした。


 そうして、さらに翌日のことである。

 またも別荘にサウロがやってきて、クラウディオからの手紙が届けられた。内容は昨日の体調不良に関する謝罪である。一日経ってどうにか体調が整ったようで、よければこの後屋敷に来ないかという誘いだった。

 昨日は満足に見舞えなかったし、セドリックと相談して早速訪問することにした。

「昨日はすまなかったね。君たちが来てくれたことはわかったが、どうも返事をする気力すら湧かなくてな」

 そう言うクラウディオの顔色はまだまだ悪い。今は起き上がるのがやっとのようで、カウチソファーにもたれかかりながら、なんとか上半身を起こした。ただ、昨日渡していたハンカチーフの効果があったのか、簡単な会話程度はできそうだ。

「いえ。――あの、クラウディオ殿下、本当に大丈夫なのですか? お眠りになっていた方が」

「ずっと眠ってなどいられないさ。君たちと話すのは気が紛れそうでいい」

 そう言いながらクラウディオは、サウロに下がるように手を振る。

「あっ、サウロ。もしよろしければ、お湯を用意してもらえないかしら」

 そこでフィオナはサウロに声をかけ、ひとつ提案をした。実はセドリックと相談してクラウディオにお土産を用意してきたのだ。

「リンディスタ王国のメヒナというお茶を持ってきました。気分をリラックスさせる効果があるので、よければと」

「そうなのか。ならば是非いただこう。――サウロ」

 サウロはわずかに怪訝な顔つきをしたが、すぐに言葉を呑み込み一礼して去っていく。その間にフィオナは、持参したティーセットを広げていった。

 お茶にはそれぞれ適した茶器というものがある。クラウディオの屋敷にもきっとひと通り揃っているだろうとは思っていたが、あえて持参したのだ。

 クラウディオの気分をよくするために、爽やかさを感じる明るい絵柄の茶器にした。真っ白さが際立つ磁器の縁には淡いブルーの小花の絵が描かれている。その周囲を鮮やかな若草色の葉が彩り、瑞々しさを感じる意匠だ。少し女性的すぎる気もするが、このメヒナというお茶の味わいにイメージが合うと思ったのだ。

 茶器を広げてから、別途用意した茶菓子も器に移した。わざわざお茶の道具一式を持ち込むのもどうかなと思ったが、クラウディオは気分を害したりしていないようだ。それどころか、どこか興味深そうにこちらを見つめている。

「随分と慣れているな」

「自分で淹れるのが楽しくて。あ、セドリックさまは蜂蜜をお入れになりますよね?」

「ああ、頼む」

 セドリックの好みは熟知している。爽やかな味わいのこの茶葉は、ストレートで飲むのが一般的だが、蜂蜜入りも好まれる。甘い物が好きなセドリックは後者で、ほんのりと香る程度の蜂蜜を混ぜ込むのがいいらしい。

「クラウディオさまは、まずはストレートでお試しになってください。お好みで、後から蜂蜜を」

 説明しながら、慣れた手つきで茶葉をティーポットの中に投入する。ちょうどそこでサウロが湧かしたお湯を持ってきてくれた。

「ありがとう、サウロ」

 礼を言いながら、フィオナはそっと手袋を外した。こうした方が格段に魔力を通しやすいからだ。

 原因不明のクラウディオの体調不良。彼の主治医がその原因がわからないと言うのであれば、フィオナたちにわかるはずもない。ただ、原因がわからずとも、フィオナの魔力なら癒やせる可能性がある。

(魔力を直接送って癒やして差し上げられたら一番いいんだけど)

 さすがにそこまで踏み込むのは危険だ。だから、こうして間接的に力を送ることしかできない。

 正直、昨日のクラウディオの様子は衝撃的だった。

 なんの気力もなく、ただぼんやりと寝て過ごす。以前の彼はこの暮らしも悪くないと言っていたけれど、昨日の様子は明らかにおかしかった。おしゃべりしていた時の彼と違いすぎて、意識がどこにあるのかちっともわからない。

 ただ、あの状態の彼を放っておけるはずがなかった。

 魔力の糸を伸ばすことを意識しながら、ティーポットにお湯を注いでいく。クラウディオの体調が整うように、そして少しでも快適に過ごせるようにと。

 ポットにお湯が満ちると、フィオナは包み込むようにしてティーポットの側面に触れ、さらに魔力を流し込む。その祈りはティーポットを包み込み、お茶に優しく溶けていった。

「――随分と真剣に淹れてくれるんだな」

「殿下のお口に入るものですから」

 そう言ってにっこり笑っている隣で、サウロが動いた。

「失礼」

 すっとフィオナの隣に立ち、持参したティーカップを手に取って凝視している。

 このお茶には薄めのカップだとより口当たりと香りが滑らかになる。リンディスタ文化らしい形のものを持参したが、興味を持ってくれたのだろうか。

(その割には、随分と難しい顔をしているけれど)

 きょとんとしていると、サウロはそのカップにもお湯を注いだ。カップを温めるためなのか、さっと別の容器にお湯を移し、丁寧に元のカップを拭く。それから別の容器に移したお湯を口に含んだところで、フィオナは彼がカップの絵柄を見ていたわけではなかったことに気が付く。

 毒見だ。フィオナがお茶や食器に毒を盛っていないか、確認しているのだ。

 ぽかんとしていると、サウロは納得した様子で大きく頷く。

「問題ありません。――こちら、返却いたします」

「あ、はい」

 呆気に取られたところで、用意していた砂時計の砂が落ちきった。

 サウロからティーカップを受け取り、ゆっくりお茶を注いでゆく。ふんわりと優しい香りが部屋に満ちることで緊張が解け、フィオナの頬も自然と綻んだ。

「失礼、こちらにも少々」

 けれど、そこに再度サウロの手が伸びてきて、小さな器を差し出してきた。紅茶の方も確認させよということなのだろう。

(王位継承争いが激化しているって聞いたけれど、こんなことまで)

 やはり相手が王族で、しかも王位継承権争いのまっただ中であることを実感する。ピリピリとした空気を感じ取り、フィオナはごくりと息を呑んだ。

 緊張しながらもサウロの器にお茶を注ぎ、彼の反応を待つ。

 サウロはまずは匂いを嗅ぎ、くるくると器を回して色を確認してから、ほんのわずか口をつける。そうして舌の上で転がすように味を確認していたようだけれど、唐突になにかに気が付いたらしい。ハッとするように目を見開き、眉根を寄せる。それから怪訝な顔つきで残ったお茶を見つめ直し、考え込むように口を閉ざした。

「……あ、あの。なにか?」

 毒見であるなら、サウロも自分の命をかけているわけで、厳しい表情になることは理解できる。けれども、思った以上にサウロの表情が厳しくて、フィオナの淹れたお茶に問題でもあったのかとオロオロしてしまう。

(緊張して渋みが出ちゃったかしら。――でも、そんな)

 お茶を淹れる時は特別だ。美味しくなれと祈りを込めながら淹れて、失敗することはほとんどない。そわそわしながら審判の時を待つと、サウロはフィオナの方に向き直り、恐る恐る訊ねてきた。

「あなたさまは、もしや――」

「え?」

「――いえ、なんでもありません。失礼いたしました」

 どう考えてもなんでもない反応ではないのだが、これ以上掘り下げるのは怖い気がする。だからフィオナはなにも反応できずにいると、サウロがクラウディオに向かって大きく頷いてみせた。

「こちら、どうぞ。クラウディオ殿下」

 サウロがクラウディオの近くにあるローテーブルに、ティーカップを移動させようとする。

「いや、いい。そちらに行く」

 それを押しとどめて、クラウディオはゆっくりと立ち上がった。

 クラウディオのクリーム色がかった銀髪が揺れた。

 こうやって近くで立っているところを見ると、不思議な気持ちになる。セドリックもかなり背が高い方だが、クラウディオは彼よりもなお長身だった。ただ、彼の持つ柔らかい雰囲気のせいか、長身による圧迫感のようなものは感じない。

 そんな彼はよろめきながら、テーブルの方へと移動する。サウロに支えられながら席に着くと、フィオナの淹れたお茶を嬉しそうに自ら引き寄せた。

「茶会など久しぶりだな。ほら、ふたりとも、席に着いてくれ」

 誘われるままに着席する。もうサウロが毒見をしてくれているが、なにも入っていないことを証明するためにか、セドリックが真っ先にお茶に口をつけた。

「どうぞ」

 一緒に持参したフィオナお手製のケーキも同じように口をつけ、勧めている。当然のようにサウロが毒見を済ませてから、クラウディオも続いてティーカップを手に取った。

「ああ、これはいいな」

 まずはお茶だ。スッキリとした味わいのメヒナは、クラウディオの好みに合ったらしい。目を閉じ、じっくりとその味を堪能している。

「気分をリラックスさせるか。ふむ、もともとの茶の味もよいが、フィオナが淹れてくれたから――」

「クラウディオ殿下」

「くくっ! 少しは口説く暇をくれないか」

「差し上げるはずがないでしょう」

 まさに間髪を容れずといった様子だ。

(セドリックさま、今日とっても気合いを入れていらっしゃいましたものね)

 やはりクラウディオという存在は脅威らしい。狼の紋章を持つウォルフォード家の人間らしいと言うべきか、身内への愛情は非常に強い。

(狼と言うより……ええと、失礼ですけど、その……)

 毛並みの綺麗なわんちゃんみたい、と思ったのは秘密だ。クラウディオを絶対にフィオナに近付けないという強い意志を感じる。

 そんな使命感に充ち満ちた様子のセドリックに対して、クラウディオは実に楽しそうだ。これはフィオナを口説いているというよりも、口説くことでセドリックのツッコミ待ちをしている気がする。

(セドリックさま、今日も殿下のおもちゃになっちゃいますよ……!)

 結局、クラウディオが相手になると、どうもセドリックは主導権を握られっぱなしなのだ。

 ふたりでやいのやいの言い争いが始まっているが、クラウディオが気を悪くしている様子はない。というか、先ほどまでしゃべることすら億劫そうだったのに、今は舌がかなり回ってきている。虚ろだった目には光が宿りはじめて、会話を楽しむ余裕が見えてきた。

 お茶に混ぜ込んだ魔力が効いてきているのか、はたまたセドリックとの会話のおかげかはわからない。

(クラウディオ殿下のご病気、本当になんなのかしら?)

 医者もさじを投げるものを、フィオナが予測できるはずもないのだが、不思議でならない。ただ、セドリックとぽんぽん会話している光景を見るのは、なんだかとても楽しかった。


 間を空けると、クラウディオの容態が一気に悪化する。それに気が付いてからは、できるだけ毎日彼の様子を見に行くことにした。

 先日見た虚ろなクラウディオの様子はセドリックにとっても衝撃だったらしく、彼も毎日の訪問には賛成してくれている。いちいちクラウディオがフィオナを口説き、それにストップをかけるセドリックという流れもすっかりお馴染みになってしまった。

 すっかりやり込められているセドリックだが、彼が唯一クラウディオを打ち負かせるのは、キャンティネンというボードゲームである。

 意外というか、考えてみればしっくりくるというか、セドリックは様々なボードゲームを得意としているようだ。もともと頭のいい人だから納得ではあるが、学生時代にオズワルドやアランと一緒にかなり遊び倒していたらしい。

(学生時代のセドリックさまって、活発でいらっしゃったのね)

 荒事も得意のようだし、今とは雰囲気が違ったのかもしれない。

 普通の男の子のような一面を見つけるたびに、微笑ましい気持ちになるのは秘密だ。

 新婚旅行のはずが、すっかりクラウディオの見舞い旅行みたいになってしまっている。

 さすが外交と商業に強いクラウディオだけあって、彼の話はおもしろく、セドリックも興味津々だ。とはいえ、穏やかに談笑していたと思えば、唐突に意見のぶつかり合いも発生する。ハラハラすることもあるけれど、それも含めてふたりは会話を楽しんでいるようだ。

 ふたりがぽんぽんと会話するのを聞くのは心地いい。最初こそ底の見えない笑みを浮かべていたクラウディオだったが、たまに表情が緩む瞬間があって、回復の兆しが見えるのも喜ばしかった。

 当初の予定とはかなり違ってしまっていたけれど、なんだかんだ三人で過ごすこの時間は楽しい。彼の紹介でナバラル王国の観光地も色々巡れたし、ゆっくりした旅を満喫できているのではないだろうか。

 ただ、困ったことがないわけでもなかった。

「ようこそいらっしゃいました!」

「さあさあ、どうぞ」

 この歓迎っぷりである。クラウディオの従者と言えば常にサウロがそばに控えているイメージはあったが、そこはさすが王子、隠れ住んでいるとはいえ使用人の数もそれなりにいる。そんな彼らが、フィオナとセドリックが顔を出すたびに大歓迎してくれるのだ。

「フィオナさま、いつも美味しいお土産をありがとうございます」

 そうやってお礼を言ってくるのは、使用人の中でも比較的若い女性だった。

 十代後半だろうか。フィオナよりやや年若く、今まさに大人になろうとしている少女の瑞々しさのようなものがある。使用人たちにも、よく菓子を土産として渡しているからだろう。数多くの使用人の中でも、彼女はことさらフィオナに親しみを向けてくれていた。

 そんな彼女がこっそり教えてくれた。実はサウロをはじめとして、この屋敷には西望の民が多く雇われているのだと。

 ただ、彼女たちは中央街で目にする西望の民とは少し雰囲気が違い、動きが洗練されている。一朝一夕で身につくようなものではなくて、長くこの屋敷に仕えているからこその仕草だ。

 同時にどこか気安さもあって、彼らにとってクラウディオがどのような主人であるかがよくわかった。実際、目の前の彼女もクラウディオに対して恩義があるのだと話していた。

 彼のことをとても慕っているのだろう。だからこそ、クラウディオの体調がよくなった要因と考えられるフィオナたちにも真っ直ぐに感謝を向けてくれる。

「ウォルフォードさま、ありがとうございます。あなた方のおかげで、主の顔色が随分とよくなって」

「最近は懇意にしていた商人と連絡を取ることも増えてきたのですよ。無気力だったあの方があんなに精力的に――お二方のおかげです」

 持ち上げられすぎな気もしないでもないが、クラウディオの変化はやはり、大変喜ばしいものだったのだろう。皆、表情が明るく、瞳がキラキラと輝いている。

(どうしてクラウディオ殿下の容態がよくなったのかまで、深く追求されなくて助かっているけれど)

 当然、フィオナの魔法のことは曖昧にしたままだ。

 一方で、クラウディオの病気の原因は、なんとなく見えてきた。

 おそらくだが、魔法だ。

 毎日セドリックと話をする中で出てきた説である。むしろ、それ以外に考えられない。

 魔法省という組織が存在しているリンディスタ王国と比べて、ここナバラル王国は魔法使いを直接縛る法律や組織がない。この国の先住民であるナバラル人が、魔法使いが生まれにくい人種であり、魔法文化が育っていないのだ。

 だからこの国で魔法の才を持つ者が、きちんとした魔法使いになるためには、直接、世界魔法師協会『叡智の樹』に所属するしかない。

 しかし、肝心の叡智の樹と繋がりを持つルートが確立されていないのだ。結果として、きちんとした魔法使いの育成が行われる機会もない。ゆえに、ナバラル王国は優秀な魔法使いの確保が十分にできていないらしい。

 魔法使いの層の薄さが原因で、この国が保有する魔法についての見識が圧倒的に足りない。第一王子であるクラウディオを苦しめているものが魔法であることを特定できていないのもそのせいだ。

 もちろん、フィオナは魔法使いとしては未熟で、クラウディオに魔法がかけられているのか否かもはっきりと言い切れない。

 でも、魔法が不可思議な影響を人体に及ぼす可能性があることは、身をもって知っている。説明がつかない不思議な体調不良、それが魔法によるものだとすると筋は通る。

 惜しむらくは、原因が見えたからと言って、それをクラウディオやその使用人たちに伝えることができないということだ。フィオナの存在が、彼にかけられた魔法を緩和しているという事実を悟られるのだけは避けたい。

 ゆえに、セドリックとフィオナが訪問することで、クラウディオの気分転換になっているからという曖昧な説を押すしかない。

 とはいえ、クラウディオの劇的な変化は事実らしく、この屋敷の使用人たちがフィオナを逃がすまいと躍起になっているのだ。

 結果として、毎日毎日、屋敷を出るまでの足止めがすごい。

「ウォルフォードさま、本日は昼食をご用意しております。是非、殿下とともに召し上がっていってくださいませ」

 などと先回りされてしまえばにはできない。一日、二日だったらまだよかったが、それが毎度のことなのである。

「すまない、この後は妻と一緒に街に出る予定だ。せっかくナバラルに来たのだ。もう少し色々な場所を堪能しておきたくてな」

 旅行期間はおよそ三週間――いや、行き帰りの日数を差し引くと二週間ほどだ。なんだかんだ、この国にいられるのもあと数日。フィオナはともかく、このところセドリックがもどかしそうにしているのも感じていた。

『――向こうに着いたら、君の時間をもらっても?』

 ふと、行きの馬車での彼の言葉を思い出す。

 あの真剣な眼差しに、いまだに囚われたままだ。フィオナの手を取って、愛おしそうに見つめる彼の姿。

 初めて彼と一緒に砂浜を歩いたあの日、彼はフィオナになにかを告げようとした。結局、すぐ近くでクラウディオが倒れてなあなあになったままだけれども、彼はなにを言おうとしていたのだろうか。

 新婚旅行に来たというのに、ついクラウディオの治療のことに頭が行きがちで、セドリック自身の話にはならない。

 クラウディオの見舞いに関してはふたりで決めたことではあるけれど、もう少し新婚旅行らしい雰囲気になってもいいのではとも、フィオナは考えている。

 少なくとも、セドリックはフィオナに言いたいことがあるのだ。それを聞くことで、自分たちはもう一歩前に進むことができる。そうしたら、彼と今以上に夫婦らしくなれるかもしれない。

 この旅を通して、フィオナは今まで知らなかったセドリックの一面をたくさん見つけることができた。でもあともう少し、踏み込みたくても踏み込めないなにかがある。そんな気がする。


 そして、とうとう事件は起こった。

 リンディスタ王国に向け帰路につくまであと二日というタイミングで、ウォルフォード家の従者のひとりが顔色を変えて別荘に帰ってきたのだった。

「――なんだって? 帰国申請が取り消された?」

 そんな馬鹿な話があるものかと、セドリックは従者が持ち帰ってきた手紙に目を通す。

 正確には、ナバラル王国の外務の仕事を取り締まる部署から、話があるからまだ帰国をしないでくれないかというお願いの手紙が来たらしい。

「こんな馬鹿な話があるか」

 さすがにセドリックも驚いたようで、何度も手紙の内容を改めている。

 申請が取り消されたといっても、こちらに法的な問題があるわけではないようだ。手紙も高圧的な文面ではない。

 ただ、リンディスタ王国の高官であるセドリックと直接会って挨拶をしたい。その日まで、滞在を延ばしてくれないか――というお願いを、帰国手続きを却下するという乱暴な形で実現してきたわけである。

「……まさか」

 いくらセドリックと話がしたいといっても、やりようはいくらでもある。

 これはどう考えても、フィオナたちの足止めをするのが目的だ。そして、こちらの不興を買ってまでそれを実現して喜ぶ人と言えば限られている。

 セドリックは震える手で手紙を封にしまい込んだ。そうして彼は煮えたぎる思いを抑えることができずに、すぐに別荘を飛び出そうとする。

「セドリックさま!」

 フィオナも慌てて追いかけて、彼と一緒に馬車に飛び乗った。

「わたしもご一緒させてください」

 たどり着いたのはクラウディオの屋敷である。事前の連絡なしの突然の訪問に、使用人たちは驚いた顔を見せるも、すぐにクラウディオに許可を取ってくれる。そうしてフィオナたちは、いつもの居間へ向かった。

「クラウディオ殿下!」

 さすがに我慢がならないと、セドリックが声を荒らげた。フィオナは彼を追うように部屋へ入るも、セドリックの剣幕にオロオロすることしかできない。

「いったいどういうことですか、帰国の邪魔をするだなんて!」

「――なに?」

 しかし、クラウディオの反応は思っていたものと異なっていた。カウチソファーに寝そべった彼はこちらに向き直り、優雅に座り直す。

 今日のクラウディオは随分と顔色がよかった。毎日彼へ、珍しいお茶を淹れる名目で魔力を注ぎ続けたからだろう。すんなりと起き上がることもできるようになっている。

 気怠げな様子は相変わらずだが、それは彼のもともとの性格なのだろう。人を食ったかのような笑みを浮かべ、こちらの話を促す。

「わざわざ国を動かしてまで足止めをして、楽しいですか」

「国を?」

「しらばっくれるな! あなたの体調のことは気の毒に思います。だからといって、我らをこの地に縛りつける気か」

 セドリックの言葉に、クラウディオは表情をしかめた。いつものように手を払う動作をして、サウロたち使用人を退室させる。

 周囲に人の気配がなくなったのを確認してから、クラウディオは珍しく険しい顔をしてみせる。

「それはどういうことだ。詳しく説明しろ」

「は? ――まさか、知らないとでもいうのですか?」

「知らん。だから、説明しろ」

 はっきりと言い切られ、セドリックが絶句する。そうして、届いた手紙の内容と、まさか国に足止めされるとは思わなかったという苦言をひとしきり言葉にした。

 眉間に皺を寄せていたクラウディオは、ひと通り話を聞いたところでふぅーと大きく息を吐いた。そうしてなにかを考え込むように額に手を当て、おもむろに立ち上がる。

「なるほどな。――セドリック、少しいいか」

 わざわざセドリックだけを呼び寄せ、フィオナと距離を取る。そうしてふたり背中を向けたまま、ひそひそとなにかを話し合いはじめた。

(もしかしなくても、わたし、お邪魔かしら)

 彼らの話を聞かないように、あえて意識を外の景色に向けていると、突然セドリックの怒声が聞こえてきた。

「っ、そんな馬鹿なことが成立すると思うか!」

 声のあまりの大きさにフィオナはビクッと震えて、つい彼らに視線を向けてしまう。セドリックが顔を真っ赤にしながらクラウディオを睨みつけるも、当のクラウディオはどこ吹く風だ。涼しげな顔をしながら、セドリックを流し目で見ている。

「――思うわけがなかろう。だが、向こうは本気だ」

 そう言いながら、今度はフィオナの方へ歩いてくる。

 普段のおもちゃを見るような視線とは少し違っているように思えた。

 なぜだろう。夕日が沈む海の色をした目に、随分と真剣な色が浮かんでいる。どうしても動けなくなってしまって、フィオナもまたクラウディオのことを見つめ続けた。

「フィオナ」

 唐突に手を掴まれ、目を見開く。次の瞬間にはぐいっと強く引っ張られ、クラウディオに抱き込まれていた。

「――――っ!?

 あまりに突然のことでなにも反応ができなかった。

 目を白黒させながら彼の顔を見上げると、微笑むクラウディオと目が合った。いつもの人をおもちゃにしている時の表情とは全然違う。優しげで、どこか切なそうな表情が垣間見え、戸惑う。

 あろうことか、彼はそのまま顔を寄せてくる。フィオナは呼吸することも忘れ、目を見開いた。

(こ、これって、キ、キス――!?

 それだけは理解でき、一拍遅れて体が動きはじめる。

 だって、だめだ。それだけは絶対に。

「やめてください!」

 ドンッ!と両手を突き出すことで、どうにか彼と距離を取ろうとする。しかし、いくら病床に伏せっているとはいっても、相手は大人の男だ。簡単には離れてくれない。

「どうだ、フィオナ? あんなつまらぬ男はやめて、私と結婚し直す気はないか?」

 フィオナは戦慄した。なにを言われているのかわからなくて、唇を震わせる。

 とにかく、今はクラウディオと離れないといけない。その思いだけがフィオナを突き動かし、身をよじる。

 再び目が合った。いつになく真剣な眼差しに射抜かれるも、フィオナは恐怖する。いよいよ涙目になりそうなところで、セドリックが駆け寄ってきてくれた。

「なにを馬鹿なことを言っているのですか、クラウディオ殿下っ!」

 愛しい人の声に、心からホッとする。そうだ、セドリックの言う通りだ。クラウディオの言葉に囚われてはいけない。

 彼がつまらないなんてありえない。フィオナにはセドリックしかいない。だから、このようなとんでもない提案、呑めるはずがない。それなのに、当のクラウディオはフィオナを離してくれる様子がなかった。

「いい加減にしろ! クラウディオ!!

 言葉遣いも忘れて、セドリックが叫んだ。いよいよ我慢がならないと、セドリックがクラウディオとの間に割って入る。そして力任せに引き剥がした。

「このっ……!」

 フィオナが離れたことを確認し、勢いのままにバッと拳を振りかぶるも、それを突き出す前に我に返ったらしい。

 ぷるぷるぷると、握り込んだままの拳が震えている。だって、相手は友好国の王子だ。危害を加えることなど許されるはずもない。

「クラウディオ、か。随分頭に血が上っているじゃないか」

 逆上するセドリックを前にしても、クラウディオは冷静なままだった。

 わざとセドリックの神経を逆撫でするかのように、振り上げられた拳を自らの手で包み込む。それを焦らすようにゆっくりと下ろし、にっこりとさんくさい笑みを浮かべてみせた。

「リンディスタでは冷酷と有名な次期公爵さま、だったか? 噂と違ってなかなかに激情家だったのだな」

「あなたがフィオナにちょっかいを出すからでしょう!」

 セドリックが声を荒らげるも、カラカラカラと盛大に笑っている。

「随分と奥方のことを気に入っているようだ」

「当たり前です。大切な妻なのですから」

「ならば、身の振り方には気を付けることだな」

 クラウディオの纏う空気が冷たくなった。今までの底の見えない笑顔などではない。これは、本心からの忠告だろう。

「ここで私を殴ってでもみろ。いくら君が他国の高位貴族とはいえ、君は捕らえられ、フィオナと引き離される。そうなった時、フィオナはどうなるだろうな?」

「…………っ」

 セドリックの額に汗が滲んでいる。

 ずっと息が荒い。でも彼は煮えたぎる感情を押しとどめようと必死なようだった。ギュッと唇を噛んでから、クラウディオに掴まれた拳を引き剥がす。

 なにも言えなくなったセドリックを、どこか達観した様子で見つめたクラウディオは、しばらくしてからフィオナに視線を移動した。

「フィオナ」

 呼びかけられ、息を呑む。少し怖くて一歩後ろに下がったところで、クラウディオはなぜか安心したように口の端を上げる。

「君はそれでいい。――私みたいな男に、絡め取られるなよ」

 そんな忠告をしたかと思うと、彼はまた、いつもの底の見えない笑顔に戻ったのだった。


 クラウディオの屋敷からの道を、ふたりで並んで歩く。

 同じ別荘エリアに居を構えているため、滞在している別荘とさほど距離は遠くない。迎えがなくとも問題ない距離で――だからこそ、こうしてふたりだけの時間を過ごしている。

「少し、寄り道に付き合ってくれないか、フィオナ」

 すっかり日は傾いており、遠くの海が橙に染まっている。それはクラウディオの瞳の色で、まるですべてを見透かされているかのような不思議な気持ちになった。

(せっかく、セドリックさまともっとゆっくり過ごせると思ったのにな)

 すっかり水を差されてしまった。

 クラウディオのことは放っておけないが、彼と、彼を取り巻く環境に振り回されるのはもうお腹いっぱいだ。まるで心がしおれてしまったような気持ちで、上手に笑えない。

 自分たちはあくまで新婚旅行に来ているのだ。こうも心を乱されるのはなんだか悔しい。

 フィオナは目いっぱい空気を吸い込んだ。

 もう秋も終わりに近付いている。いくら南のナバラル王国とはいっても、夕方の海辺はそれなりに冷える。潮風は冷たく、それを肺のすみずみまで行き渡らせる。そうすることで、少しは気持ちが切り替わればいいと思ったのだ。

 今日の砂浜はフィオナたち以外誰もいない。だからセドリックとふたりきり。今なら、素直な気持ちを彼に吐き出すことができる気がする。

 しかし、肝心のセドリックが先に先にと歩いていってしまう。普段だったら絶対にフィオナを置いていくようなことはしないのに、この時だけは別だった。

 彼はいまだに怒っている。誰にかというと、おそらく、彼自身に。

 そんな彼の背中がとても悲しいものに思えて、フィオナは必死で彼の後を追った。

 でも、彼は待ってくれない。前へ、前へと歩いていき、やがて波打ち際で立ち止まる。呆然と立ち尽くしたまま、ずっと遠くの海を見つめていた。

 彼はなにも語らなかった。ギュッと唇を噛みしめる様子が痛々しい。

 話しかけようとして、やめた。この静かな時間が彼には必要だと感じたからだ。

「――ナバラル王家は、私と君を離縁させるために動くだろうと言っていた」

 長い沈黙の後、セドリックがぽつりと吐き出した。

 それは、クラウディオがセドリックに耳打ちした言葉だろうか。その後、クラウディオがフィオナに求婚してきた。あれは冗談のようなものだと思いたいが、いつになくクラウディオの目が本気だった。

「もしかして、わたしの正体が?」

「あるいはクラウディオの周囲が勝手に好意を汲み取り、君を奴に差し出そうとしているか、だが」

 セドリックは目を伏せた。握った拳がブルブルと震えている。

「どちらにせよ、最悪だ」

 セドリックの目が据わっていく。やがて我慢できなくなったのか、ガバリと彼に抱き込まれる。次の瞬間には強く唇を吸われ、目を見開いた。

「フィオナがあの男の妃に? ありえない。考えただけで身の毛がよだつ」

 一度キスをしはじめると止まらないらしく、何度も何度も彼は唇を喰んでくる。呼吸する余裕すらなくて、どんどん深くなる彼のキスを受け入れた。

 やがてすっかりのぼせてしまい、脚に力が入らなくなる。崩れ落ちそうになったところをセドリックに抱きしめられ、なんとか踏みとどまった。

 積もり積もった恨みというものは相当なものらしい。彼はゆらりと顔を上げるも、前髪が目にかかり、顔に影ができる。その隙間から覗く菫色の瞳はなぜか爛々と輝き、妖しい光を秘めていた。

「あの男、いちいち私のフィオナを口説こうとして」

 その低い声色に、なぜかフィオナの背筋が凍りそうだ。ドキッと心臓が大きく鼓動し、冷たい汗が流れはじめる。彼が冷酷な次期公爵と言われてきた側面を垣間見た気がする。

「日頃のあれは挨拶のようなものでは」

「そんなわけがあるか。どう考えても本気だ」

「……なかったのですね」

 底の見えない笑みのせいで、クラウディオの考えていることなどちっともわからない。だが、彼に恋慕の気配を感じたことはなかった。

 フィオナのおかげで彼の体調がよくなったのは事実で、それに対する恩義はあるのかもしれない。だが、それはあくまで恩義の域を出ないはずだ。

 少なくとも、彼にとってフィオナは地味でつまらない人間に違いないと思っていた。言い方は悪いが、セドリックに対するものと同じ。からかうと暇を潰せるおもちゃのような存在なのだろうと。

 でも、今日のクラウディオの言葉で、フィオナ自身もわからなくなってしまった。少なくとも、あの目は真剣だったように思う。

「――あの男の気持ちをわざわざ私が代弁してやる義理はないが、フィオナを見る目がどう考えても他と違う。最初は興味程度だったかもしれないが、今では――クソ」

「あ、あの、セドリックさま? 言葉遣いが」

「目こぼしを頼む。あんな野郎の目に留まるだなんて――ああもちろん、私のかわいいフィオナが目に留まらないはずがないわけだが」

「セドリックさま!?

 いったいなにを言い出すのだろう。まくし立てるような言葉の数々を聞いているだけで頭が沸騰しそうだ。

 セドリックがこんなにも想いを溜め込んでくれていただなんて知らなかった。いや、彼に愛されている自覚はもちろんあるけれども、彼はいつも大人で、冷静で、フィオナのことを優しい目で見て、引っ張ってくれて――つい、甘えっぱなしになっていたのだ。

 クラウディオはセドリックのことを激情家だと言っていたけれど、その言葉の意味がよくわかった。

 彼の言葉は全部フィオナを想ってくれるからこそ出てくるもので、フィオナのためだけに苛立ち、怒ってくれている。そしてフィオナは、そんな彼の素直な気持ちを今日この日まで引き出してあげられなかった。

 いっぱい我慢させていた。大人な彼に甘えて、心地よいぬるま湯に浸ってしまっていたのだ。

 彼が色々溜め込んでしまう性格だとはわかっていたはずなのに、ちゃんと汲んであげられなかった。そのことを痛感し、言葉に詰まる。

「――ごめんなさい、セドリックさま」

「どうして君が謝る」

 フィオナが謝ることなどない、と、セドリックはようやく声のトーンを落とした。そうして気持ちを切り替えるために深々とため息をついてから、再度フィオナを強く抱きしめる。

「私が至らないせいだ。クソ、あのクソ王子、もう知らんぞ」

「ええと、だから言葉遣いが」

「構わん。あんな野郎、クソ王子で十分だ」

「あ、あはははは……」

 いっそ清々しいほどの開き直りっぷりに、フィオナは渇いた笑いを漏らした。

(でも、セドリックさまが悔しがるのはよくわかる)

 フィオナだって同じことを考えていた。せっかくの新婚旅行にこんな形で水を差されて、イライラしないはずがない。

 そう考えてみると、次から次へとクラウディオに対する文句が溢れ出してくる。

 フィオナは瞼を閉じた。視界が遮断され、セドリックの温もりと、耳から入ってくる音だけの世界に閉じこもる。

 波の音が妙に大きく聞こえた。

 寄せては引くこの波とともに、苛立ちも全部海に流れ込んでしまえばいい。そう考えながら深呼吸すると、いくばくか気持ちも落ち着いてくる。

(馬鹿らしい)

 そんな言葉が、胸にすとんと落ちてきた。

 荒くれだったセドリックに感化されたのだろうか。普段だったら絶対に使わない雑言がするっと心の中に忍び込んでくる。

 そのうちに、いっそ清々しく思えてきた。だからこそ、フィオナは開き直ることができた。

(うん、そうよ。馬鹿らしい。せっかくのセドリックさまとの旅行なんだもの。イライラするなんてもったいない!)

 そう思うと、なんだか廻り廻って色々なことがどうでもよくなってくる。

(クラウディオ殿下もクラウディオ殿下よ! 心から心配して、見舞いに行っていたのに、あんな茶化し方をしてセドリックさまを怒らせるだなんて)

 ぱちりと目を開けた。先ほどまでの重たい気持ちで見る夕焼けとは、景色が違って見えた。

 潮風をいっぱい吸い込んで、吐き出す。肺の中の空気を全部全部出してしまうと、なんだか世界が煌めいて見えるようになった気がする。

「ね、セドリックさま」

「なんだ?」

「――このままだと、ちょっと悔しくありませんか?」

 口を尖らせながらフィオナは主張する。

「新婚旅行を邪魔されて、こっちの厚意も無下にされて、おもちゃみたいに遊ばれて、あんな冗談にならない冗談まで。挙げ句の果てに、帰国を邪魔されてるんですよ?」

「ああ、そうだな」

 フィオナの言葉には全面的に同意してくれたらしい。――ただ、ちょっとセドリックの表情が緩んでいるのはどういうことだろうか。

「怒っているフィオナもかわ……あ、いや、それで?」

 まさかの本音が垣間見え、フィオナも同じように赤面するも、こほんと咳払いをひとつ。気持ちを切り替え、彼からそっと離れた。そうして朗らかに笑いながら海に向かって宣言する。

「もう、クラウディオ殿下なんて知りません!」

 こんなに大きな声を出したのは初めてだ。とうとう言ってやったぞと、得意げな顔をして彼の方へと振り返る。

 セドリックは意外なものを見たとばかりに目をまん丸にしていた。

 彼はどうも、フィオナのことを聖女かなにかと思い込んでいる節がある。でも、フィオナだって誰に対しても優しいわけではない。

「ね、セドリックさま。せっかくナバラル王国に来ましたし、滞在も延びたのでしょう? だったら、もっと遊びませんか?」

「遊ぶ?」

「そうです。イライラさせられたり、難しいことを考えさせられたり、もったいなくないですか? これ、新婚旅行ですよね?」

「そ、そうだが」

「だったら、いちいち煩わしいことに頭を悩ませる必要なんてないですよ。セドリックさまのお仕事は、クラウディオ殿下の様子を見てくること。もう十分以上に成果を出しているではないですか」

「それも、そうだが。いや、しかし――」

 やはり根が真面目だからだろう。あれだけ怒っていたというのに、それを呑み込みさえすれば再び任務に取り組むつもりでいる。それはセドリックの素晴らしい美徳ではあるが、もう少し肩の力を抜いてもいいのではと思う。

「それ以上は努力目標でしょう? ――知りませんよ、クラウディオ殿下をその気にさせたいのであれば、休暇中のセドリックさまに押しつけるのではなくて、リンディスタ王国の皆さま総出で方法を考え、交渉なさったらよいのです」

 とりとめもなく話していながら、考えなしに出てくる言葉が本当に正しいことのように思えてくる。フィオナはすっかりじょうぜつになって、これまで溜め込んできた思いを全部吐き出した。

「オズワルド殿下もオズワルド殿下です! 休暇で釣って、セドリックさまにそれ以上の大変な任務を押しつけるだなんて。セドリックさまがなんでもできるからと言って、セドリックさまに頼りすぎなのですよ」

「フィオナ」

「それにクラウディオ殿下も! わたしがあの方の体調を改善していると自覚しているのであれば、向こうから頭を下げて懇願してくればいいのです! わたしの大切なセドリックさまをからかうような真似ばかりして――いい加減、わたしも怒ってるのですよ!」

 怒りはでんする。ぷりぷりぷりと頬を膨らませ、フィオナはひと息に言い切った。

 セドリックはぽかんとしていた。まさかフィオナがここまで言いたい放題言うだなんて思ってもみなかったのだろう。

 でも、言いたいことを全部吐き出すと、とてもスッキリするらしい。

 なんだか胸の奥のつかえがなくなった心地がする。空気が美味しくて、世界がちょっとだけ明るく見えた。

 セドリックとはまだ見つめ合ったままだ。ぽかんと口を開けたままの彼の顔が妙にかわいく思えて、頬が緩む。そうして一拍の後。

「ふっ、ふふふ!」

「くくく、あはははは!」

 やがて互いに声をあげて大笑いした。

 ああもう、ふたりしてどれだけ我慢ばかりしていたのだろう。

 この街に来てからもう随分経つ。ずっとずーっと気持ちを溜め込んでいたなんて、なんと無駄な時間の使い方をしたのだろうか。

「あー、スッキリした。セドリックさま、せっかくの旅行なのですから、もっと楽しみましょうよ。悔しいじゃないですか、ね?」

「ああ、そうだな。――本当に、その通りだ」

 なんて言うなり、セドリックはパン!と己の手で自分の両頬を叩く。そのまま前に――つまり、海に向かって倒れ込んだ。

 声をかける暇もなかった。彼は倒れながらくるりと体を反転。バシャアン!と水しぶきを上げながら、仰向けに寝っ転がる。

 せっかくの洋服がびしょびしょになるのもいとわず、セドリックはそのまま波にさらされた。

「あ、あの、セドリックさま!?

 フィオナが素っ頓狂な声をあげるも、セドリックは苦々しげに笑っている。そうして彼は、しみじみと呟いた。

「はぁー……私は本当に、ちっぽけな人間だな」

「そ、そんなことはないですけれど。あの、大丈夫ですか!?

 夕方の海はかなり冷えるだろう。というか、服を着たままびしょびしょになるとは思ってもみなかった。

「なに、頭を冷やしているだけだ」

「だけって、そんな……!?

「たまにはいいだろう? ハメを外すのも」

 なんて、セドリックは波打ち際に寝転んだまま笑っている。

 先ほどの苦々しいものとは違い、どこか肩の力が抜けたような砕けた微笑みだった。

 寄せては返す波が、セドリックの髪を濡らしていく。艶のある髪が波に流され、水しぶきを浴びた彼の顔がいたずらっ子のように見えた。でも、それがとても美しくもあって、目が離せない。

 ならばフィオナも思い切るだけだ。

「えいっ!」

「フィオナ!?

 彼の上にのしかかるように、そのまま身を投じる。

 当然、髪もドレスも濡れることになるが気にしない。両手を広げてセドリックに抱きつき、彼と一緒に波打ち際に寝っ転がる。

 思った以上に波は冷たかった。でも、その冷たさが今は心地いい。

「ご一緒します! させてください」

「フィオナ――くく、あははは! ああ!」

 ふたりでびしょびしょになりながら、たくさん笑い合う。それは、今までの自分たちであれば絶対しなかったことだろう。

 きっとフィオナの中で、なにかが変わった。がんがらめだった殻の中から一歩外に踏み出し、前を見る。彼と一緒に見る新しい景色が、とても輝いて見えた。

 その後、別荘に戻った時にロビンにとっても心配され、さらにしこたま怒られるハメになったけれども気にしない。なんだか、今日からは新しい自分になれるような気がしたから。