とはいえ、家中しっかりと手入れがしてあるらしく、木の温もりや、自然を感じる色合いのファブリックに包まれた空間は品もあり、ホッとするような優しさがあった。
そうして案内された居間に、彼はいた。
籐で編まれた土台の上にたっぷりとクッションが敷かれたカウチソファー。そこにのっそりと横たわる美貌の男性こそが、この国の第一王子クラウディオその人らしい。
大きな窓には薄い
今日は浅いグレーの詰め襟のロングシャツに、ゆったりとした上着を羽織っている。着心地がよさそうで、寛ぐための服装なのだろう。今にも目を閉じ、眠りについてしまいそうだ。
そんなクラウディオだが、夕暮れの海の色をした瞳をこちらに向けた瞬間、驚いたように瞬いた。
「君は、先日の――」
フィオナたちが誰なのか理解できたのだろう。彼はよろよろと上半身を起こした。そしてカウチにもたれかかったまま、こちらに目を向ける。
「横たわったままですまないね」
まだ具合が悪い様子だ。顔色が青白い。ただ、その物憂げな表情すらも美しく見える。
彼がさっと手を払う動作をしてみせると、サウロが両手を合わせて一礼し、退室していく。
「クラウディオ・シェロ・エメ・ナバラルだ」
居間に三人になったところで、早速目の前の男性――クラウディオが名乗った。てっきり隠すつもりかと思っていたため、驚きで目を見張る。
セドリックも同じ気持ちだったようで、怪訝な顔つきになった。
「はは。オズワルド殿下の右腕と名高い君に、今さら隠したところで無駄だろう? 最初から気付いていたのではないか?」
「それは、そうですが」
戸惑いつつも、セドリックもクラウディオの作った会話の流れに乗ることにしたようだ。
「リンディスタ王国ウォルフォード公爵家のセドリック・ウォルフォードです。そして、こちらは妻の」
「フィオナ・ウォルフォードです。殿下、お加減はいかがですか?」
挨拶とともに尋ねると、クラウディオは大きく頷いた。
「ああ、先日よりはすこぶる快調だ。わざわざ見舞いに来てくれてすまないな。わがままを言った。狭い屋敷だが、好きに寛いでくれていい」
そう言いながら、彼の手前のソファーに目を向ける。案内された通りにソファーに腰かけると、クラウディオは満足そうに微笑んだ。
「セドリックと呼んでも?」
さすが王族であるからか、いちいち物怖じしない。人をなかなか懐に入れることのないセドリックのもとへ、あっさりと踏み込んでくる。
「ええ、もちろん」
セドリックは意表を突かれたようで、なかば流されるように頷くと、クラウディオは
「先日は驚かせてすまなかったな。このところ、私の体調が思わしくないという噂は?」
「あまり表に顔を出されないとは聞き及んでおりました」
「そうだな。出たくても出られぬ。――まあ、今はこうして籠もっている方が性に合っていると思うようになったが」
クラウディオはまるで自嘲するかのような笑みを浮かべた。
カウチソファーに体を預けながら、髪をかき上げる。胸あたりまである長い髪を軽く梳かすその横顔にあまり生気はない。
顔色が悪いせいか、それとも本人の性格のせいか。ゆるりとした雰囲気のクラウディオは、表情こそ柔らかいが、なにを考えているのか読めないところがある。
そんな彼は気怠そうに、とつとつと話しはじめた。
「二年ほど前から体調が思わしくなくてな。何名もの医師に診てもらったが、原因はわからぬ。最初は思うように動けぬことに
そう言いながらクラウディオは窓の外の景色に目を向けた。
大きな窓の向こうには、庭を彩る植物を額縁にして、白い砂浜と青い海が広がっている。この開放的な窓を開けたら、きっと潮の香りとともに波の音が聞こえてくるだろう。
のんびりとした時間が流れるこの部屋が、今のクラウディオにとっては最も心穏やかにいられる場所なのかもしれない。
それならば、都の中心街から離れたこの別荘街に居を構えていることも頷ける。
「だから、先日は驚いた」
クラウディオは微笑んだ。夕日が沈む海の色の瞳が真っ直ぐにフィオナを射抜いている。
「フィオナ、君に触れられてからすこぶる体の調子がよくなってな」
そう言いながらクラウディオは、懐から一枚のハンカチーフを取り出した。
そういえば彼の手に握らせて回収するのを忘れたまま、彼はサウロに連れられて帰ってしまったのだった。
「これは持ち主に返すべきなのだろうな。ありがとう。助かった。――謝礼は後で君たちの別荘に届けさせよう」
「お気遣い、痛み入ります」
差し出されたハンカチーフを受け取るために、フィオナは立ち上がった。そうして彼の前まで歩き、直接ハンカチーフを受け取ろうと手を伸ばす。その瞬間、唐突に手首を掴まれた。
「え?」
思った以上に強い力で手を引かれ、瞬いた。
すべてがスローモーションのように感じながら、気が付けばその場に膝をついている。ふと顔を上げると、クラウディオの顔が近付いてくるのが見えた。
これはだめだと、考える前に体が動いた。ソファーの縁に手をついて、どうにか距離を保つ。
クラウディオはフィオナの反応を見てから、口の端を上げた。目的を変えたようで、それ以上顔を近付けるようなことはない。しかし手だけは強く引っ張られ、手袋の上から恭しくキスをされた。あまりの驚きで、完全に硬直してしまう。
「フィオナ、君は本当に
しかも、軽口まで飛び出してくる始末だ。
「――っ! クラウディオ殿下っ!」
フィオナの後ろから、セドリックの大きな声が聞こえる。ダダダッと、ものすごい勢いで近付いてきた彼は、強引にフィオナをクラウディオから引き剥がした。
「人の妻に、いきなりなにをするのですか!?」
当然のことながら、セドリックの声は鋭い。フィオナは肩を掴まれたままズルズルと連行され、元のソファーに着く。
「ははははは! すまないな。奥方があまりに可憐でな。――だが、挨拶のようなものだろう? そうカッカするな」
「します! こちらは新婚旅行中なのですよ! 恩を
セドリックにしては珍しく躍起になっている。絶対に離すものかとばかりに、彼に強く腰を抱かれた。ギュギュッと抱きしめられる腕は痛いくらいだけれど、フィオナはいまだに、目の前で起こった出来事を理解できないでいた。
(女性関係が派手だって仰ってたけれど、こういうこと!?)
まるで空気を吸うかのように簡単に口説かれた。
根っこから誠実で、社交経験が圧倒的に足りないフィオナにとっては衝撃のひと言である。
手へのキスは挨拶のようなものだとはわかる。わかるが、彼のアプローチはそれだけに留まらなかった。
フィオナのことを可憐だと言った。いや、容姿を褒めるだけではない。今夜私と一緒に、と。
一緒にとは、いったいなにを一緒にするつもりだったのだろうか。というか、あの時抵抗していなければ、顔のどこかにキスをされていた可能性があったかもしれない。
(セドリックさまが気を付けろと仰った意味がわかったわ……!)
社交界にはこういった軟派な男性が大勢いるのだと話には聞いている。ただ、フィオナにとっては初めての出来事でただただ驚いた。
おそらく口説くところまでがセットで、クラウディオにとっての挨拶のようなものなのだろう。そこに深い意味はない。そうに違いない。
フィオナはそう自分に言い聞かせ、己を抱き寄せるセドリックの手に、自分の手を重ねた。そこでようやくセドリックも少し力を抜いてくれる。
「なるほど、新婚旅行。それはおめでとう。夫婦仲もよいようでなによりだ」
「祝福の言葉をどうも。ですから、夫婦仲に積極的に
「ははは! そこは己の魅力で繋ぎ止めておけ」
クラウディオはカラカラと笑ってから改めて体を起こし、こちらに向き直った。そうして顎に手を当てながら、やれやれといった様子で話し出す。
「実は先日は、かれこれ三カ月ぶりに外に出てな」
「三カ月ぶり?」
「そうだ。今は体がすこぶる軽いが、最近はなにをするにも
軽いと彼は言うが、今だってその顔色は悪い。これで調子がよいのであれば、普段はどれほど体調が悪いのだろうか。
「それでも、なにかに導かれるように外に出て、君と出会った」
ジッとこちらを見つめてくる瞳は深い。その夕日が沈む海のような色彩。
底が見えない、と思った。
セドリックに見つめられている時とはまた違う。セドリックにはいつもフィオナを理解しようとする誠意のようなものを感じているけれど、クラウディオの視線にあるのはおそらく――。
(興味?)
ただ、おもしろいかおもしろくないか。彼の好奇心を満たす相手であるかどうかだけを見ているかのような感覚だ。
「運命だと思った。君が触れてくれて、心の
また、口説くような言葉を軽々しく投げかけ、セドリックを挑発している。
きっと、たまたま近くにやってきたおもちゃのような扱いなのだろう。フィオナたちがどういう反応をするのか楽しんでいる節がある。
(なるほど、これは気を付けなければいけないわね)
いちいち真に受けるだけ無駄なのだろう。言葉遊びはほどほどに受け流すことにして、フィオナは純粋にクラウディオの体調だけを気にかけることにした。
「それはわたしと出会ったからでなく、外に出られて気分転換になったからではないですか?」
フィオナが女魔法使いであることは隠さねばならない。
だからフィオナは、単純にクラウディオの気の持ちようではないかと話をまとめることにした。それからちらりと、セドリックに視線を投げかける。
(セドリックさまは、クラウディオ殿下と交流を持ちたいのよね? なんだか、かなり雲行きが怪しくなっちゃったけど)
生真面目なセドリックにとって、自分の妻を口説かれるのはいい気がしないのは確かだ。ああも声を荒らげることなど、ほとんど見たことがなかったのだから。
(大丈夫かしら。――一応、今回の任務は様子を見てくることだけで及第点、なのよね)
もちろん、クラウディオが王太子として立つことが、リンディスタ王国にとっての最終目標であることもわかっている。しかし、新婚旅行中にそこまで求められても困る。
(なんだか、政治に対して前向きな印象はあまりないみたいだし)
これまでの話の節々に、クラウディオの思考は滲み出ている。
二年前まで華やかな場所にいた彼は、体調が悪化してこの別荘街にある家に移り住んだ。今は外に出るのも億劫だし、この家の中でのんびりしている方がいいと思いはじめている――といったところか。
だらんとカウチにもたれかかるクラウディオからは、怠惰で自堕落的な空気が漂っている。それを妖しい色気と感じる女性もいるだろうが、フィオナとしては「体調が整わないのは苦しいだろうな」と、思いを
「つれないな。私はこんなにも君にぞっこんなのに。君と出会って、その手に支えられてから変わったんだよ、フィオナ」
パチン、とウインクをされて、どう受け流していいのかわからず口を閉ざした。いや、スルーすればいいのはわかっているのだけれど、そのやり方がわからない。
ただ、フィオナの代わりにセドリックが積極的に返してくれる。
「殿下」
「はいはい、わかっているさ。君の夫はなかなかに嫉妬深いね。――でも、遊びたくなったらいつでも相手をするから言ってくれ」
「クラウディオ殿下!」
「おお、怖い怖い」
クラウディオは大袈裟に肩を竦めて、笑っている。ふたりして、すっかり彼のペースに呑まれっぱなしだ。
「しかし、気持ちの問題でもなんでもない。フィオナが私を救ってくれたのは事実だ。――だから、お願いだ。君たちがこの国に滞在している間、たまにここに顔を出してくれないか?」
突然の提案に、フィオナもセドリックもハッとする。
回り道をしてきたが、クラウディオにとってはこれが本題なのだろう。真剣な瞳を向けるクラウディオに対し、居住まいを正して向き直る。
「殿下がフィオナのおかげだと言い張る根拠はまったくわかりませんがね。軽率に妻を口説く相手のもとへ、私がむざむざ妻を向かわせると?」
「あー……心配だったら君がついてきても構わないよ。残念なことではあるが、我慢してあげよう」
「それが人にものを頼む態度ですか」
ぴしゃりと言い放つセドリックに対し、クラウディオは口の端を上げる。ちょっとやそっと強く言い返されたところで動じないらしい。むしろ上機嫌な様子でクスクスと笑いながら話を続ける。
「もちろんそれなりの礼はする。この国に滞在する間、第一王子の権力を使って君たちに色々融通してあげるよ。新婚夫婦ならそうだな――王立歌劇団のチケットはどうだ? プライベートビーチも開放するし、会員制のカジノに社交場、どこでも繋いであげるよ」
次から次へと魅力的な提案が飛び出してくる。さすが、外交と商業に強い王子だ。
もちろんセドリックはそのような物理的な誘いにのるような人物ではないが、今回ばかりはセドリック側の事情もある。
「いや、君に対しては回りくどい交渉はやめにしようか。私と顔を繋いでおいた方が、君にとっても都合がいいんじゃないかい? セドリック・ウォルフォード殿?」
「それは――」
見透かされている。リンディスタ王国にとって、クラウディオが王太子になってくれた方が色々都合がいい。そのことは筒抜けらしく、クラウディオは勝ち誇ったように目を細めた。
「オズワルド殿下の片腕、ということは、君も私が王太子になることを望んでいる。そうだろう?」
ここで返事をすると、国の総意として捉えられかねない。だからセドリックは口を閉ざすも、答えなどすでに向こうはわかっているようだった。
「でも残念ながら私は、今さらそんな面倒な立場に立つ気にはなれない。だから、こういうのはどうだろう」
クラウディオは妖しげに笑いながら、セドリックに向けて挑戦的な目を向けた。
「フィオナとここに見舞いにくるついでに、私をその気にさせてみるといい。――なに、フィオナが見舞ってくれるなら、体調もよくなりそうだし気分も晴れそうだ。なにかの拍子でうっかりその気になって、君が望む未来に繋がるかもしれない」
「フィオナが見舞ったとて、あなたの体調がよくなるとは限りませんけどね」
「まあ、それはそうかもしれないがな。可憐な女性を見るだけで、男というのはその気になる。そんなものだろう?」
「共感しかねます」
「なんだったらセドリック、君じゃなくてフィオナにその気にさせてもらおうか」
「っ、私がお相手いたします!」
「――――なんだ、つまらん」
わざわざ大袈裟に嘆いてみせて、すぐに人を食ったような笑顔に戻る。そんなクラウディオを見つめながら、フィオナは
(わたしたち、本当にこの人と交渉なんてできるのかしら)
底が見えないクラウディオという存在に尻込みしつつも、フィオナは頷く。そうして、セドリックの耳元で
「やりましょう、セドリックさま。わたしは大丈夫ですから」
それを聞くなり、セドリックは複雑そうに眉間に皺を寄せ、吐き捨てるように呟いた。
「毎日ではなく、たまにですからね。我々が新婚旅行中だということをお忘れなく!」
「もちろん」
「あと、フィオナのことを馴れ馴れしく呼ぶのはよしていただきたく!」
「善処しよう。――なあ、フィオナ?」
そう言ってクラウディオはパチンとウインクをした。
まったくもって態度を改める気はないらしい。カラカラと笑う彼に圧倒されて、フィオナは硬直してしまった。
「これで当分飽きずに済むな」
クラウディオという男にとっては、フィオナたちは本当にただのおもちゃでしかないのだろう。そう実感しつつ、彼の屋敷を後にしたのだった。