第一章 新婚旅行に行きましょう!


 居間から弾むような声が聞こえ、フィオナは微笑んだ。

 すっかり秋が深まり、気温が落ち着いてきたこの季節。それでも昼間は暖かく、このウォルフォード家のタウンハウスにもいっぱいの陽差しが差し込んでくる。ぽかぽかとした過ごしやすい陽気の中、フィオナは足どり軽く、明るい声の聞こえる居間へと向かっていた。

 秋のはじめに、フィオナは二十歳になった。年相応に落ち着きたいところだが、口もとが緩んで仕方がない。

 キャラメルのような甘い色をした髪が揺れる。フィオナは若草色の瞳をキラキラと輝かせながら、ここ最近見られるようになったこの家の変化に心を弾ませていた。

「――から、――――でしょ?」

「だからライナス――そういちいち――」

 居間から聞こえてくる声はふたつ。

 相手をからかうような若い声と、なにかを言いよどむ深い声。言い争っているような雰囲気があるけれども、兄弟同士のじゃれ合いであることをフィオナはよく知っている。

(ふふ、セドリックさま、今日も楽しそう)

 深い声の持ち主こそ、フィオナの夫であるセドリックだ。フィオナに対しては表情豊かだが、それ以外の相手には基本的にクールだ。普段もさほど口数は多くない。弟であるライナスにすっかり言い負かされている様子だが、そこにけんのんとした空気はない。むしろ、ふたりの打ち解けた空気感が伝わってきて、フィオナの表情は自然と綻んだ。

 ティーセットを手にしたまま、フィオナはひょっこりと顔を出す。そこには向かい合わせのソファーに座り、雑談に興じている兄弟の姿があった。

「って、兄さん。まさかとは思うけど、もしかしてまださんに――」

「っ、おい! 待て!」

 フィオナの存在に気が付いたセドリックが慌てて会話を止める。フィオナに聞かせたくない話題だったのだろうか。さっと耳まで真っ赤に染めたセドリックを前に、フィオナはぱちぱちと瞬いた。

 ソファーでくつろぐ兄弟は、顔の造形こそ似ているが、雰囲気がまるで違う。

 フィオナと目が合うなり、気恥ずかしそうに目をらしたのがセドリックだ。フィオナの夫で、二十四歳。このウォルフォード家の次期公爵とされている。

 彼は宵闇色の艶やかな髪にすみれ色の切れ長の瞳を持った美貌の男性だった。こうして顔を背けていても、その整った横顔につい見とれてしまう。

 すっと通った鼻筋に薄い唇。一見冷たい印象の見た目のせいか、あるいは合理的な性格のせいか、彼のことを冷酷だと称する人も少なくはない。

 けれども、こうしてフィオナやライナスと一緒の時は、普段のクールな印象もなりを潜める。どこか肩の力が抜けた様子で、あどけない表情を見せたり甘えたりしてくれるようになった。

 ただ、今の彼は少しだけ気まずそうだ。

「…………聞いていたのか」

 とても声が小さい。というか、尻すぼみである。

「お邪魔してしまったでしょうか」

 ふたりの会話に交じりたくて急いでしまったけれど、もう少しばかり兄弟だけの時間があった方がよかったのかと思う。間が悪かったとフィオナが肩を落としていると、セドリックは慌てて首を横に振った。

「いや! そういうわけではなくて! 聞いていなければいいんだ」

「えっと、おふたりの楽しげな様子は伝わってきましたけれど、内容までは」

「そうか」

 フィオナの返事に、セドリックはあからさまにホッとしている。ようやく表情を緩めて、その場から立ち上がり、フィオナを迎えてくれた。

「すまない。多少気恥ずかしかっただけだ。茶を用意してきてくれたのだな」

 などと言いながら、当たり前のことのようにフィオナの手からティーセットを受け取る。それらをさっとローテーブルに置いてから、フィオナの腰を抱いて自分の隣に誘った。ソファーに腰かけてからも、彼はフィオナの腰を抱いたままだ。

「うーわ、兄さん。そこまででろ甘なのに。嘘でしょ」

「うるさい」

 ライナスのからかう声を聞き、セドリックはぴしゃりと言い放つ。けれどもフィオナを絶対離さないあたり、彼は徹底している。ライナスの言う『でろ甘』という言葉を実感し、フィオナの頬も桃色に染まった。

「まったく、この新婚夫婦は。あー、ほんと普段寮生活にしてよかったよ!」

 結婚してからあと数カ月で一年となる。本来ならば、そろそろ関係性が落ち着いてくる時期のはずだ。ただ、セドリックと本当の意味で心が通じ合ってからはまだ三カ月程度である。そのため、ふたりの間に漂う空気はいまだに初々しいものだった。

 夫婦であるはずなのに、どこか付き合いはじめの恋人のようなままだ。そのせいか、使用人たちに温かい目で見守られているのはわかっている。

 フィオナ付きの侍女であるロビンなどは『いつまでっても初々しくていらっしゃって』と苦笑いするほどだ。おそらく他の夫婦とは異なり、とてもゆっくりとした歩みなのだろう。

 正直、彼とはまだまだ関係性を築いている最中なのである。だから、いまだにこうして腰を抱かれているだけで心臓がバクバク暴れて落ち着かない。

「いちゃいちゃしすぎで見ていて恥ずかしいっていうか。兄さんのこんな姿を見せられる身内の気持ちにもなってよ」

 なんて肩をすくめながらも、ライナスは楽しそうに笑っている。

 ライナスはセドリックと同じく、深い夜色の髪に菫色の瞳を持った青年だ。印象的には少年から青年への過渡期とでも言おうか。十六歳という年齢よりも少し幼い印象がある。

 とはいえ、一カ月前と比べてさらに成長したようだ。すでに身長もフィオナと同じか、やや高いのではないだろうか。もともとの顔立ちがセドリックよりも柔らかい印象で、どこか中性的なため、より若く見えるのかもしれない。ただ、確実に大人の男性へ成長しようとする兆しがある。

 かつて、セドリックの魔力暴走の弊害で、その成長を阻害されていたライナスは、ここ数カ月で驚くほど体が大きくなった。フィオナの特別なしゅうの効果で、今までの分を取り戻すかのようにぐんぐんと身長が伸びたらしい。

 あと数カ月もすれば年相応の体つきになるだろう。同じ年齢の子たちと遜色なくなった彼は、この秋から晴れて王立高等学校へと通っている。念願の騎士になるために、騎士コースに編入を果たしたのだ。

 今は学校の寮に入って、毎日しっかりと学んでいるようだ。そして休みになるたびに、このタウンハウスに顔を出してくれていた。

 もう何年も、この兄弟はまともに顔を合わせることすらできていなかった。その時間を取り戻すかのごとく、和気あいあいとじゃれ合っているのである。

 とても喜ばしくて微笑ましい光景であるけれども、今日は少しだけ合流するのが早かったようだ。セドリックは気にするなと言ってくれたが、気にならないはずがない。

 兄弟水入らずの邪魔をしてしまったのが申し訳ない。フィオナは気落ちするのを隠すために、いそいそとお茶をカップに注ぐことにした。

「兄さんってば、相変わらず義姉さんがれたお茶しか口にしないの?」

「別にフィオナの茶だけというわけでは。――その、彼女の淹れてくれるものが特別うまいのは事実だが」

「あーハイハイ。ごそうさまー」

 自分から話題を振っておきながら、ライナスは半笑いになっている。そうしてフィオナからティーカップを受け取ると、くぴっとひと口飲んだ。

「もう、味がわからないってこともないんでしょ?」

「む。まあ――そう、だが」

 ライナスの言葉に、セドリックは口をつぐむ。

 かつて、セドリックがライナスの成長を阻害したことを悔いているように、ライナスはライナスで、セドリックが長年魔力を封印してきたことを気にかけているようだ。

 セドリックは十年もの間、自身の魔力を封印する特別な指輪をはめ続けてきた。体内に渦巻く莫大な魔力を、二度と暴走させないようにするために。その副作用により、彼は味覚や触覚などの感覚が鈍くなる他、まともな睡眠も取れない体になっていたのだ。

 もちろん、今は改善した。フィオナが持つ特殊な魔力によって症状ははっきりと緩和したし、そもそも封印の指輪も壊れてしまった。だから彼は、人間としての当たり前の感覚を取り戻していた。

 もう魔力を封印するつもりもないらしく、セドリックの指には新しい指輪が輝いている。フィオナの瞳の色をした結婚指輪だ。フィオナのものにはセドリックの瞳と同じ菫色の石がはめられており、対になっているのだ。

 いい思い出も、苦い思い出も両方が詰まっているからこそ、フィオナはこれらの指輪を宝物のように思っていた。

 ただ、それらの思い出がどれほど大切になっても、セドリックが約十年間も食事も睡眠も楽しめないまま生きてきたという事実は変わらない。

 ライナスが休みのたびにこのタウンハウスに顔を出すのは、セドリックが穏やかに暮らしているのか確認する意味もあるのだろう。――どちらかと言うと、長らく会えなかった親愛なる兄にちょっかいをかけに来ている要素の方が大きそうだが。

「それもこれも全部、義姉さんのおかげって? 兄さん、義姉さんに感謝しなきゃだね」

「お前に言われずとも」

 セドリックは口をとがらせた。

 普段は主である王太子に対しても一歩も退かないほど弁が立つ彼だが、弟の前では形なしだ。耳まで真っ赤にしつつも、反論できないでいる。

「義姉さんも、あれからどう? 勉強は進んでる?」

 ふと話を振られて、フィオナは瞬いた。

 セドリックを癒やしたフィオナの魔力、それはこの国で――いや、今はこの世界でも唯一かもしれない特別なものだった。

 自覚なく生きてきたけれど、フィオナはどうもこの時代でたったひとりだけの女魔法使いなのだという。そしてたまたま生まれ持ったフィオナの魔力の性質が、人を癒やすというものだそうだ。

「そうね。まだ魔力の引き出し方や、体へのめぐらせ方を覚えている最中だけど、なんだかわくわくしているの」

 フィオナは微笑んだ。

「あまりおおっぴらにできる力ではないけれど、もっとあなたの役に立てるとうれしいわ」

 ライナスはいまだ成長過程にある。彼はすでに、フィオナにとっても大切な義弟だ。そんな彼のためにできることがあるのはとてもうれしい。だからフィオナは、人を癒やす力を授かったことを少なからず誇りに思うようになった。

(アランさまは、正確には『人の魔力の流れを正しく整えたり、浄化したりする能力』って仰っていたけれど)

 専門的なことはフィオナもよくわかっていない。魔法はまだまだ初心者だ。

 実は、セドリックの友人でこの国でも有数の魔法使いであるアランに、最近手ほどきのようなものをしてもらえるようになったのだ。

 フィオナは世界魔法師協会や、この国の魔法省に属しているわけではない。そもそも、それらの魔法機関に対しても魔法使いであることを隠せと言われている。女魔法使いという存在があまりにしょうすぎて、どういう扱いになるかさっぱりわからないからだ。

 普段目にする魔法使いが自由奔放なアランだから勘違いしそうになるが、魔法使いには実は制約が多い。

 アラン曰く、魔力自体は人が生きるために必要なものであり、どんな人間でもごく微量の魔力を持ちあわせているものだそうな。ただ、それがいわゆる魔法として、なんらかの効力を発揮することができる人間はほとんどいない。そういったな魔力量を保有した人間のことを、魔法使いと定めている。

 おおよそ魔法使いとしての才能は成長期に目覚めることが多く、発見され次第、必ず魔法省に登録される。

 リンディスタ王国では魔法使いの力を大きく認めていて、階級にもよるが、上位のさんしちぼうともなれば、たとえ平民だとしても上級貴族と同等の権力が与えられるのだ。

 だからこそ、制約がある。

 まず、リンディスタ王国の魔法省に所属する魔法使いは、もれなく世界魔法師協会『叡智の樹ティ・ヴィスクナ』の管理下に置かれることとなる。魔法という力があまりに大きすぎて、なんらかのルールで縛る必要性があるというのが、世界中の共通見解なのだ。

 魔法使いたちが守るべき制約のことを『叡樹の誓いアス・ヴィスティナ』と呼ぶ。その内容は詳しく教えてもらうことはできなかったが、使用可能な魔法の規模や、政治利用に関する条件、対人で魔法を使用する際の細かい取り決めなどが定められているらしい。

 ちなみにアランは『常識の範囲内で使えば問題ないんだよ』と言っていたが、彼の言う常識をあてにしていいのかどうかは、悩みどころである。

 そういうわけで、組織に所属し、叡樹の誓いで縛られない限りは、術式と呼ばれる魔法の使い方を身に付けることなどできない。すべての術式は、魔法使いたちの間で口伝となっているためである。組織に所属しない人間に教えることなどないのだ。

 しかし、女魔法使いであるフィオナが、それらの組織に所属するわけにはいかない。

 女魔法使いに子ができると、その子にも確実に母体と同等の魔法の才能を継承できると言われている。歴史上、フィオナの前の女魔法使いは、もう二百年以上遡らないと存在しないらしいから、本当なのかどうかすらわからないが。

 ただ、その性質上、存在がバレたら確実に他の魔法使いたちに狙われる。魔法使いの権力はフィオナが考えている以上に大きく、場合によってはセドリックと引き離されるような事態になるかもしれない。セドリックは次期公爵で確かな身分を持った男性ではあるが、それでもどうなるか、誰にも予測がつかない。

 だからこそ、セドリックやライナス、アランなどの一部の人間以外には、絶対に女魔法使いであることがバレてはいけない。そう、セドリックやアランに口酸っぱく言われているのだ。

(アランさまの訓練も、本当に基礎の基礎だけだもの)

 魔力が暴走しないように制御をするだけだ。そもそも、魔法省に所属していないのだから、アランも術式等を教えるわけにはいかないのだという。

 そういうわけで、フィオナは自分が持って生まれた魔力の性質を活かす以上のことはできない。

(これで十分だけどね。誰かを癒やすことができる力で、本当によかった)

 ちなみに、こういうフィオナのような隠れ魔法使いを『はぐれ魔法使い』と呼ぶらしい。なんとも怪しげな名前だが、実際にあまり表に出られない存在なのだから、言い得て妙だ。

 一方、同じ魔法使いの才能があるセドリックはというと、その力が開花した頃に、すでに魔法使いの登録だけは済ませているらしい。とはいえ、魔法省に所属しているわけでもなく、きちんとした鍛錬を積んだわけでもない。だから叡樹の誓いに縛られることもなく、いち貴族として普通に過ごせるのだとか。

 ただ、訓練をしていない身なので、その魔力は宝の持ち腐れとなる。本来ならば稀少な才能を無駄にすることなどあり得ないことだが、セドリックには確かな身分もあれば、魔法以外の才覚もあふれている。だから、魔法使いの道を捨てることに未練はないようだ。

(――なんて、わたしの存在がバレないように魔法省への所属を見送っていらっしゃるだけかもしれないのだけれど)

 フィオナが彼の可能性を狭めているのかもしれない。なんてことも思うけれど、卑屈にはならないようにしている。

 フィオナはフィオナで、彼の望む未来のために胸を張って横に立っていたいのだ。

 改めて目標をみしめていると、隣からこほんとせき払いが聞こえた。

 セドリックである。なにか言いたげな様子で、こちらをジッと見つめてくる。

「ライナスのことを気にしてくれるのはありがたいが、その、フィオナ」

 先ほどからどうも言葉を濁している。いったいどうしたのだろうと彼に向き直ると、横からライナスのカラカラ笑う声が聞こえてきた。

「もう! 兄さん、いい加減覚悟を決めなよ! 頑張って取ったんでしょ、休暇!」

「休暇?」

 セドリックほど忙しい人が休暇を取るだなんて、よほどのことだ。このところ仕事は好調だと聞いているが、一日休みを取るだけでもかなり無理をしないといけないことはフィオナも承知している。

 この流れでは、もしかしなくてもフィオナのために休暇を取ってくれたということなのだろうか。彼と過ごす時間をたっぷりともらえるかもしれない。それはとても喜ばしい話題で、ついつい期待してしまう。

「君と結婚したというのに、ずっと、まとまった休みが取れていなかっただろう? 秋になって、仕事も落ち着いてきたし――そろそろ、どうかと思ってな」

「どう、とは?」

 心臓がバクバク暴れている。なんだかセドリックの眼差しに熱がこもっている気がして、目を逸らせない。

「つまり、新婚旅行、なのだが」

「え……っ!?

 驚きすぎて大きな声が出てしまった。しかし、それも仕方がないことだと思う。

「新婚旅行? ――あ、あの、セドリックさま、お仕事は? 本当に、そのような時間が?」

 捻出するなど、可能なのだろうか。

 いや、セドリックのことだから抜かりはないのだろう。それはわかっているが、旅行というには日帰りというわけでもなさそうだ。少なくとも一泊二日。その時間を作り出すために、彼がどれほど仕事に根を詰めなければいけないのかと考えると、くらくらしてくる。

「あのな、フィオナ。今はもう秋だし、議会もほとんど動かない。もともとこの時期は時間を作りやすいんだ」

「そうなのですか?」

「今さらかもしれないが、君と夫婦になった実感がもっと欲しい。私に付き合ってくれるな?」

 フィオナが気に病まないような誘い方をしてくれるところ、本当に優しい。フィオナは両手を頬にあて、こくりと小さくうなずいた。

「旅行なんて、わたし、幼い時以来で。――セドリックさまとゆっくり過ごせるの、嬉しいです、とても」

 思い返すと、実の両親が健在だった頃以来だ。緑溢れる湖畔の別荘を借りてのんびり過ごした思い出だけが残っている。

 両親がまかって以降は、自分とは縁のないものだと思っていた。だから大好きな人と初めての場所に行って楽しめるだなんて、夢みたいだ。

「――そうか」

 フィオナの事情も理解しているからこそ、セドリックは少しだけ寂しそうに笑う。それから力強く頷いて、フィオナの手を取った。

「今までの分を取り返すくらい、向こうで楽しめばいい。オズワルド殿下が、すでにナバラル王国の別荘を手配してくれていてな。三週間ほどはゆっくりできるはずだ」

「さん、しゅう、かん……?」

 予想だにしない長期間、しかも国外ときた。あまりの事態に思考がついていかない。彼に手を取られたまま、フィオナはぴしりと固まった。



 セドリックにとって三週間の長期休暇をもぎ取ることは、実はさほど難しくはなかった。

 普段からどれほど国に貢献してきたと思っている。フィオナをめとるまでは休暇を取るという感覚がなかっただけで、いい加減め込んだ休みを消化していいはずだ、そうに違いない。

(まあ、殿下の提案がなければ、私もこんなにも思い切った休暇は取っていなかっただろうが)

 ――それはフィオナに旅行の提案をする二日前のことだった。

 いつものようにオズワルドの補佐官として働き、その日の報告を終えた後、彼に話を持ちかけられたのである。


『それで? そろそろ貴族たちも領地に戻る時期だが、お前はどうするんだ?』

 華やかな金髪をかき上げながら、オズワルドがたずねてきた。

 オズワルド・アシュヴィントン・リンディスタはこのリンディスタ王国の王太子だ。同時にセドリックの主だが、彼の母親が自分の叔母という、いわば従兄弟同士でもある。セドリックのひとつ年上で、学生時代から常にそばにいるため、互いに遠慮がない間柄だ。

 この日も彼は、あおい目にからかいの色を浮かべながらセドリックを見つめてくる。以前からなにかと絡んできたが、フィオナを娶ってからますます楽しそうに話題を提供してくるのである。

 とはいえ、彼もまたセドリックの抱えていた事情を知っているからこそ、その変化を喜んでくれているのだろう。むしろセドリックが変わりすぎて、おもしろがっている節もある。

『どう、とは。今年はライナスも王都に来ておりますし、私は――』

 夏いっぱいで王都での社交シーズンは一旦幕を下ろす。地方の貴族たちは秋頃より、各領地に戻っていくのだ。そして、王都や他領にいる貴族たちを自分の領地に招いて、紅葉狩りやガーデンパーティ、狩りなどを楽しむ。つまり、社交の場が王都から地方へと移るのである。

 だがセドリックには、今年も領地に戻るつもりはなかった。

 もちろん、フィオナのおかげで家族との関係性は大きく変わっている。今ならば両親となんの気兼ねもなく会えると思う。だから一度領地に顔を出すのも悪くないが、もうひとつ、どうしてもしておきたいことがあるのだ。

『休暇をいただきたいと思っております。結婚してからずっとバタバタしておりましたし。少しはフィオナとの時間を――』

 と、途中まで言いかけたところで、がしりと誰かが肩を組んでくる。

『なになに? セドさん、ついに新婚旅行でも連れていってあげる気になったの?』

 などと明るく声をかけてきたのは、魔法省所属にしており、セドリックと同じくオズワルドの腹心でもあるアラン・ノルブライトだ。

 朱色の長い髪を後ろでひとつ結びにした彼は、大きめのローブをまとっている。糸目で、常にへらっとした印象の彼だが、その実力は折り紙付きだ。この国の魔法省の中でも第三位、わずか七名しか存在しないという七芒の位を持った優秀な魔法使いなのである。

 ふんにゃりした雰囲気からは想像もつかないが、頭も切れる。だから下手な近衛よりも優秀な護衛兼相談役としてオズワルドに仕えていた。

 ――などと一見いいようにも聞こえるが、少々言いたいこともある。行動力の塊であるオズワルドと、好奇心の塊であるアランが組むことで、厄介事が二倍になってセドリックに降り注ぐのである。

 これまで仕事で忙殺されてきた要因のひとつに、彼らの暴走があるとはっきり言える。なぜかセドリックは常にふたりの尻拭い係。苦情や相談がもれなくセドリックのところに集まってくるところまでが一連の流れだ。

『あなた方が余計なことさえしなければ可能でしょうね。私だって、かわいいフィオナを旅行にくらい連れていってやりたい』

 そのためには、とにもかくにもまずは休暇の確保だ。なんのトラブルにも巻き込まれることのない穏やかな日々。それがセドリックには圧倒的に不足している。

 もちろん、フィオナの魔法により体も心もすこぶる快調だ。自分の仕事を片付けるスピードだって上がったし、業務を誰かに託すということも覚えた。以前と比べると、格段に仕事量の調整ができるようになってきた。

 それでもまとまった休暇となると、オズワルドやアランの協力がなければ難しい。だからセドリックは、そばにいるふたりにじとーっとした目を向けた。

『今まで散々こき使われてきた分、私にだって休暇を取る権利くらいあるでしょう』

 胸を張って言い放つと、ふたりはどっと笑い声をあげた。

ちょうじょう重畳! なかなかいい傾向じゃあないか、ウォルフォード』

『だね。浮ついていてもやっぱり仕事人間だよなーって思っていたけれど、少しは安心していいのかな』

 なんて、ニマニマした目でこちらを見てくる。

『フィオナちゃん、全然わがまま言わなさそうだもんね。セドさんが気にかけてあげないと、彼女から旅行なんて絶対言ってこないよ』

『そ、それは……』

 痛いところをつかれて、セドリックはうっと言葉に詰まった。

 アランの言う通り、フィオナは本当に慎ましい。いつもセドリックのことだけを考えてくれて、迷惑をかけないように本心を隠してしまう傾向がある。

 もちろんセドリックは、彼女に隠し事なんてさせるつもりはない。彼女の心の憂いはすぐに払えるよう、常に気を配っているけれども、フィオナはフィオナで隠すのが上手なのだ。

(それに――私も、彼女にきちんと誓いたいことがある)

 いまだに、彼女に契約結婚を持ちかけて、中途半端な関係性を築いてしまったことを後悔している。今でこそ彼女と心を通わせたが、はじまりがはじまりだ。夫婦でありながら、けじめをつけていない。恋人同士だし家族でもあるのだが、夫婦という関係性にはあと一歩足りない。

 あけすけに言ってしまえば、いまだにセドリックは、彼女とどうきんしていないのである。

(いや、それに関しては! 私も! 色々と言い訳があるのだが!!

 誰に対して弁明しているかすらわからないが、セドリックは心の奥で叫んだ。

 要は、彼女と本当の夫婦になるためには、きちんとしたけじめをつけなければいけないと考えている。

 結婚式で心からの誓いができていれば、それがけじめになっただろう。しかし、彼女との結婚式はとてもではないが、心のこもったものとは言えない。むしろ、今思い出しても、彼女に対してなんて失礼な振る舞いをしたのかと頭を抱えたくなる。

 そういうわけで、結婚式に変わる誓いを、セドリックははっきりと表明したかった。

(それに――)

 もうひとつ、どうしても気にかかっていることがある。

 いや、正直、これこそがセドリックの本音なのだろう。

(彼女を抱くということは、子をなす可能性があるということだ)

 公爵家のためにも、いつかは必要となる。でも、あと一歩がどうしても踏み出せなかった。

 意気地がないと自覚している。それでも、女魔法使いである彼女が妊娠するということ――それは即ち、魔法使いの子を持つことにつながってしまう。

 セドリックにはその覚悟が足りていない。確実に魔法使いの子を持つという事実がどうしても重くのしかかるのだ。

 自分自身が魔法使いで――思いもよらない暴走で家族を苦しませ続けてきたからこそ、その宿命を子に授ける決意ができない。

 でも、いつまでも怖じ気づいていられないことも自覚していた。

(だから、新婚旅行を通して、私は真にフィオナと夫婦になるんだ)

 この決意は固い。ゆえに休暇。なにはともあれ、今最も必要なものは休暇なのである。

『ふぅーん』

 ニマニマニマと、セドリックの肩を抱いたままのアランは、思わせぶりな目を向けてくる。

『そうだよね。そろそろ一歩進まないと、フィオナちゃんもかわいそうだし』

 こう見えて彼は、よく人を見ている。案の定見透かされていたわけだが、さらに決定的な言葉を言われ、セドリックは顔色を変えることになった。

『せっかく結ばれたのにぃ、旦那さまってばわたしに手を出してくれな~い。わたしってば魅力がないのかしらあ~』

『っ、アラン!』

『――なーんて。でも実際、自分に責任があるって考えちゃいそうじゃない?』

 言い方は似ても似つかないが、ぐうの音も出なかった。

 次期公爵の妻ともなれば、世継ぎを作ることは重要な役目でもある。最初に結んだ契約では、子を作るような行為はしないと明記していたが、それはとっくに破棄されたものだ。慎ましい彼女のことだ、自分から話を切り出せないものの、思い悩んでいる可能性は大いにある。

『だから! けじめを、つけてきますから! ――休暇を!』

 ひときわ大きい声が出たところで、アランとオズワルドは体をのけ反らせてドッと笑ったのであった。

『しかしウォルフォード、新婚旅行といっても、どこに行くつもりだ?』

 オズワルドに改めて話を切り出され、セドリックは額に手を当てる。からかわれすぎて頭痛がする。眉間に深くしわを刻みながらボソボソと答えた。

『そうですね、湖畔の街サイクスでしたらウォルフォード公爵家の別荘もありますし、さほど遠くはありません。日常を離れてゆっくり過ごすなら最適かと思っていたのですが』

『ナバラル王国』

『え?』

 遮るように言われた地名に、セドリックは瞬いた。

『ナバラル王国なんてどうだ? 近年のバカンスの定番ではあるだろう? あそこなら、まだしばらくは暖かいし、ゆったりと浜辺を散策するのもよいのではないか?』

『それは、そうですが』

 ナバラル王国というのはリンディスタ王国の南東に隣接する国だ。この王都からのアクセスも悪くない。

 国の規模はリンディスタ王国と比べるとやや小さいが、歴史と伝統のある友好国である。

 ただ、ここ十年ほどで国の雰囲気が随分と変わった。南側は温暖な海が広がり、海産物や資源が豊富なのは変わらないが、その美しい海岸線沿いにいくつものリゾート施設や別荘が建ち並ぶようになったのだ。今や国外からの観光客も大勢受け入れている一大観光大国なのである。

 別荘を他国の貴族に貸し出すことで、人々の交流を促し、市場拡大に繋げているようだ。リンディスタ王国の貴族の間でも、かの国で秋や冬を過ごすのがひとつのブームになりつつある。

 まさに、この季節に新婚旅行に行くのにうってつけの場所でもあるだろう。

『三週間』

 丁寧に、オズワルドが三本の指を立てて宣言する。

『かの国に行って、ちょっとしたお使いを頼めるのだとすれば、君に三週間融通するよ』

『三週間……!』

 自分が想定していた三倍の休暇である。――いや、他の者たちにとっては、たいした長さではないのだが、これまで休暇という休暇を取ってこなかったセドリックにとってはいまだかつてないほどの大型休暇である。

 それに行き先がナバラル王国となると、きっとフィオナも喜ぶだろう。

(なによりもあそこは、彼女の好むカメオの原産地だ)

 昔ながらの技術によるシェルカメオの精巧さは有名で、彼女の喜ぶ姿がありありと目に浮かぶ。若草色の瞳をキラキラと輝かせた彼女は、きっととびっきりのお気に入りを見つけるだろう。それをセドリックの手ずから彼女の胸もとに飾るところまでを妄想し、ハッとする。

 だめだだめだ。あまりに魅力的な条件すぎて、反射的に頷いてしまうところだった。

 うまい話には裏がある。特に、提案してきたのがあのオズワルドなのだ。彼の意図はしっかりと確かめないといけない。

『それで、ちょっとしたお使いとは?』

『ああ、それはね――』

 オズワルドは優美な笑みを湛えながら、彼に事情を話すのだった。