誰もが、言葉をなくしていた。

 戦車──戦車だ。現代最強の兵器、その代表格と言える代物。

 だがそれですら……彼には、に等しい。

 ミハイル・フラヴァルトは過呼吸を起こしたように、もはや震えを抑えられない。

 刀を静かにさやに戻した男が、一歩、また一歩と、彼らのいる席へと近づいていく。

「ひっ……」

「ミハイル・フラヴァルト」

 恐怖に喉をらせた彼の名を呼んだのは──アイーゼだった。

「リリエス家の領内に、無許可で兵器を持ち込んだ。これは立派な重罪」

「……そうですね」

 アイーゼに肩を貸していたイリアもまた、うなずく。

「あれがもしフラヴァルト社のものであるなら、営業停止……いえ、それ以上の処分が降るでしょう」

 たとえそうでなくとも。ミハイル・フラヴァルトの破滅は、もはや決定的だった。

「待ってくれ……」

 だが、そこに声をあげたのは、彼女たちの誰でも、そしてミハイルでもなかった。

 ふらふらとした足取りで、まるで幽鬼か何かのように、イリアたちの元に近寄ったのは……リリエス男爵。アイーゼの父。

「では……婚約はどうなるのだ……? リリエス家は……」

「……父様……」

 アイーゼが、ぜんと声をこぼす。

 イリアが、シェリーが、顔をゆがめた。

 全員が……思わざるをえなかった。

 ──ああ。これは救えない、と。

「まだ……まだそんなこと言ってるの!? パパ、どうして……!?

「ミミ……分かってくれ。他にないんだ。他に……他には……」

 がくりと膝をつきうなれる。

 アイーゼは……ただ悲し気な目で、それを見下ろした。

 何も、変わらなかった。

 決闘なんて、無意味だった。

 その答えが今、彼女の目の前にあって。

「アイーゼ……」

 ……気がつけば。頰に、涙が伝っていた。

 その名を呼んだシェリーが、ぎゅっとその腕を抱きしめる。

 するりと、こぼれるように──アイーゼのコートのポケットから、押し花が滑り落ちた。

「男爵閣下。どうしてそこまで……」

「それは、私が説明いたします」

 イリアの問いに、そう言って名乗り出たのは、後ろに控えていた執事だった。

 アイーゼが彼を見て、そしてわずかに驚きに顔を染める。

 そのは……驚くほどに冷たい。

「はじまりは、今から十年ほど前です。旦那様は、だまされたのです」

「騙された……?」

「ええ。かつて、旦那様にも貴族仲間と呼べる方がいたのですが……」

 曰く。

 その仲間から、投資の話を紹介されたのだそうだ。

 最初は少額で。だが少しずつ、額は上がっていった。

「もう家族に、奥様に苦労させなくても済む。そう考えてのことでした。ですが……」

「……詐欺、だったのですか?」

 ええ、と彼は頷いた。

 貴族仲間だった相手に文句を言っても、知らぬ存ぜぬ、紹介しただけだと突っぱねられた。

 後に残ったのは──大量の負債。

「……その通りです」

 そう答えたのは、彼の妻である男爵夫人だった。

「大量の負債を返済するために、貴族として名を売り、様々な商売に手をつけました。ですが……」

 中には、成功したものもあった。だがそのほとんどが失敗だった。

 もはや残されたのは、こんいんというカードただひとつだけ。

「ですが……間違っていたのですね」

 夫人は、そっと、地面に落ちた押し花を手に取った。

「最初はただ、娘たちにそんな苦労を残したくない……ただそれだけだったはずなのに……」

「母様……」

「追い詰められ、気がつけば、何も見えなくなっていた。そうでしょう、アナタ。本当に見るべきものから、私たちは目を背けてしまった」

「……フェニア……」

 夫人の言葉に、男爵はぼうぜんと、アイーゼを見た。

 涙をこぼし、ただ悲しい目で見下ろす……自分の娘の姿を。

「だが……だが、ではどうすればいいのだ。このままでは、我が家は、私は一体どうすれば──!?

「それは──」

「──危ない!」

 不意に背後から聞こえた声。

 あまりにも一瞬の出来事だった。

 ユキトが、アイーゼたちの前に躍り出る。

 パンッ、という乾いた音。

 そして──飛び散る血と、火薬の匂い。

 全員が目を見開く。

 撃たれたのは……リリエス男爵だった。表情を激痛に歪ませ、そのわき腹から血がこぼれ出ている。

 そして撃ったのは……

「……ランドさん……?」

 執事服の、ランド・ラネス。

 拳銃を片手に、ただ冷たい眼で、彼は男爵を見下ろしている。

「アナタ……!」

 わき腹から血を流し、苦痛に顔を歪ませる男爵に、夫人が手を伸ばす。そこにシェリーが駆け寄った。

「……大丈夫、急所は外れています。でも、銃弾が体内に残って……すぐに摘出しないと危険です」

「い、医者を……」

 夫人が焦った顔でそう言うが……シェリーは止血しながらも、顔を歪ませた。果たして、田舎いなかの医者に銃弾の摘出など出来るのだろうかと。

 それにこたえるように声を上げたのは──意外な人物だった。

「うちに軍医がいる。弾丸を摘出するのなら、請け負おう」

 ゼロ。そう呼ばれたようへいの男。

「どういうつもりだ?」

 ユキトに目線を向けられ、彼は肩をすくめる。

「今回の依頼は失敗。報酬はもう出ん。それに、戦車まで持ち出した者を擁護するつもりもない。うちとしては、さっさと引き上げたいが」

「……あなたの民間軍事会社PMCも当然、見逃すわけにはいきませんが」

「まあ、だろうな。大人しく法の裁きを受けよう」

 といっても、果たしてどれほどの罪になるかは分からない。

 アイーゼから聞いた死体遺棄だって、もうとっくに跡形もなく証拠も出ない可能性が高い。

 あくまで護衛にてつしていただけだと抗弁されれば、どうなるかは分からない。

「うちとしては、今のうちに情状酌量の材料が欲しいのさ。どうする? うちの医者なら、確実に助けられると思うが」

「……お願いする」

 そう言って頭を下げたのは、アイーゼだった。

 遺恨よりも、優先するべきものがある。彼女は冷静だった。

 そしてアイーゼは──拳銃を持ったまま立ち尽くす男に、振り向いた。

「ランドさん、どうして……?」

 それは当然の問いだった。

 アイーゼのその問いに、拳銃を持ったまま、彼は目をつぶる。

「先ほどの話。ひとつ、奥様も知らぬことがございます」

 困惑する彼女を目の前に、彼は言った。

「その全ての糸を引いたのは、この私ということです」

「なにを……?」

「旦那様の貴族仲間に、投資詐欺を紹介したのも。そして、そこで震えているミハイルという男に、エレジウム鉱脈の情報を売ったのも」

 ──それはつまり。

 全ての元凶。全ての黒幕。

 それが……彼、ランド・ラネスである。その告白だった。

「どうしてそんなことを……」

「……呪い、でございますよ。お嬢様」

 疲れたような表情でぽつりと告げた彼に、不意に、アイーゼは悟る。

 彼もまた……リリエス家にまとわりつく『呪い』によってむしばまれた者の一人なのだと。

「私には、おさなじみがおりました」

 彼は語りだす。どこか郷愁に満ちた声で。

「あの頃、私は子供でしたが……子供心にも、人を愛するという感情はあるものです」

 だが、ある日全てが変わってしまった。

 リリエス家の当主が、帝国に寝返ったことで。

「十数年前……暇を頂いた私は、故郷に戻りました。そこで知ったのです。私の幼馴染は戦争によって両親を失い、その後帝国に渡り……身体を売って生計を立てていた」

 彼は、幼馴染の足跡を追い、そして知ったのだ。その末路を。

「私がそれを知った時……彼女はもう死んでいました。男たちにさんざん身体をもてあそばれ、最後は何の意味もなく殺され、山中に埋められたそうです」

 ぴくりと、ユキトが反応する。

(まさか……)

「最初は、帝国そのものをにくみました。だがそもそも故郷を焼いたのは、帝国ではなかった。同じ国ユグライルの者が、リリエス家の裏切りを知り、その故郷を焼いたのです」

「だから……父さんを?」

「彼女が地獄を見ている間、私はのうのうと、ここで平和に暮らしていた。その地獄を故郷にもたらした、リリエスという家もまた」

 だからこそ。

 同じ地獄を見せたかった。そのへんりんであっても。

 彼の言葉に、アイーゼは立ち尽くす。

 ──呪い。じゆばく宿しゆく

 それは確かに、そう呼ばれるものだった。

 運命は、誰も知らぬところで、誰にも制御できずに回っていく。

「リリエスという家も、私の使命も、その全てが、うんざりだった」

 彼はその手の拳銃を、掲げる。

 ユキトが一歩前に進む。だが、彼はただ微笑ほほえんだ。

 壊れたように、ただ。

 自らのこめかみに、銃口をあてた。

「どうか、お幸せに」

「待──」

 パァン、という破裂音が、ただ静かにだました。

 アイーゼは思わずぎゅっと目を閉じる。

 だが──彼女が次に目を開いた時。

 そこにあったのは、頭を撃ち抜いて自殺したランド、ではなく。

「っ、ぐ……っ」

 その手をひねげる、ユキトの姿だった。

 ギリギリと締め上げられた手から、ぽとりと拳銃が落ち。

 次の瞬間。ユキトの拳が、彼の頰に突き刺さった。

 その身体は盛大に吹き飛んで、地面を跳ね、転がっていく。

「させるかよ」

 口と鼻から血を流し、起き上がるランドの襟をつかみ、ユキトは彼を持ち上げる。

「逃げるなよ、クソ野郎。お前がやるべきなのは、その引き金を引くことなんかじゃないだろう」

 そして、アイーゼの足元にランドの身体を投げ捨てる。

 呆然と顔を上げるランドと、アイーゼの目線が合う。

「ランドさん。リリエス家を恨むというなら、どうして、私を助けたの?」

「……お嬢様……」

 ランドからの情報がなければ、決して今に辿たどくことはできなかった。

 全てを彼が仕組んだというのなら……そんなことをする必要など、なかったはずだ。

 膝をついた彼は、呆然とアイーゼを見つめ……

「分かりません……」

 ただ、かぶりを振った。

 空虚な笑みを浮かべて。

「分からないのです。自分でも……私には、何も……」

「ランドさん……」

「無駄だと思ったのです。何も変えられないと。奇跡など何一つあるはずがないと……」

 だが。それなのに。そのはずなのに。

「それなのに、私は……どうして……こんなにも……」

 膝を抱え、肩を震わせる彼のどうこくは。

 悲しみにも、怒りにも、あるいは──願うようにも、アイーゼには思えた。


   ◆ ◇ ◆


「だー、参ったぁ──!!

 晴れ渡らんばかりの青空の下。

 大の字に寝ころんだ金髪の少年が、そう言って天を仰いだ。

 その隣で、完全にグロッキーな顔で黒髪の少年も座り込んでいる。

 トールとジェイ──その二人を見下ろして、ユキトは思わず苦笑した。

「あー……少し厳しくしすぎたかな?」

「す、少しなんだ、これで……」

「そりゃそーよ」

 二人の間にかがみこんだ深緑髪の少女──エニャが、呆れた声を上げた。

「アイーゼの訓練なんて、こっちは見てられないぐらいだったんだから」

「そりゃ……惜しいものを見逃したぜぇ……」

 息も絶え絶えにそう言ったトール。そういえば彼ら二人は、決闘場の設営に駆り出されていて、あの訓練は見ていなかった。

「アンタらが訓練つけて欲しいなんて、百年早いんじゃない?」

「そんなことはないさ」

 ユキトはそう苦笑し、二人の少年に手を差し出した。

 が──どうやら立てる様子ではないらしく、大人しくその手を引っ込め、二人の前にしゃがみこんだ。

「強くなりたいと思うことに、早いも遅いもない。それに二人とも、十分に見込みがあると思うよ」

「ま、マジっすか……!?

「ああ」

 彼らは友のために戦った。たとえ死ぬかもしれないと分かっていても。

 それは極めてがたい資質だ。誰にでも出来ることじゃない。

「もしかして……俺って天才……?」

「このアホ」

 パシン、とエニャに頭をたたかれるトールに、ジェイが笑った。

 二人がユキトにけいをつけて欲しいと願った理由は、とても納得のいくものだった。

 今度こそアイーゼを──友を助けるため。 もちろん、それに頷かない理由など、ユキトにあるはずもなかった。

(幼馴染……か)

 あいにくと、前世を含めても俺にはそんな相手はいなかったが。

 三人と、そしてアイーゼの関係は、本当にまぶしく思えた。

「ユキト先生!」

 遠くから名を呼ぶ声が聞こえ、振り向くと、小柄な少女が手を振りながらこちらへ駆けてくるのが見えた。アイーゼの妹の、ミミという少女だ。

「ユキトさんにお手紙です! 古都からだって」

「手紙?」

 少女が差し出した便箋に、はっとする。その差出人の名は、オーランドはくしやくだった。

 封を切り、中の手紙に目を通し──そしてそれを折りたたんで懐に入れた。

「二人とも。またやりたくなったら、いつでも言ってくれ」

「うっす……」

「あ、ありがとうございました」

 三人に背を向け、ユキトは歩き出す。

 そしてその腕を、少女が取った。ミミだ。

「ユキト先生、お姉ちゃんのところに行くんですか?」

「あ、ああ……」

「私もなんです! 一緒に行きましょ!」

「それは、別に構わないけど……」

 なぜか、後ろの三人にろんな目を向けられながら、ユキトは首をかしげ、その場を後にした。


「ん。どうぞ」

 ノックの返事を待ってから、ユキトは扉を開ける。

 応接用のテーブルにはイリアとシェリーがいて、俺を見るなり「お疲れ様です」とぺこりと頭を下げる。

 片手を上げてそれに応えつつ、俺は正面に目を向けた。

 領主執務室。使い古された執務机に、アイーゼが腰かけていた。

「意外に似合うね、アイーゼさん」

「……その冗談はやめてほしい」

 冗談じゃないんだが、と、ユキトは苦笑する。

 ──アイーゼ・リリエス領主代行。代行というが、彼女が次期男爵であることはもはや疑いようもない。

 まあもっとも。山積みの書類に埋もれているのは、少し同情しなくもないのだが。

「……これは、私のしたことの結果だから」

 それは決して、望んだ結果ではなかったかもしれない。

 彼女にとって、この十数年、貴族なんてものは呪縛に過ぎなかった。捨てられるものなら捨てたいと願っていたに違いない。

 だが、実際のところ、それは簡単に捨てられるものでもない。

 リリエス男爵家は、この村を統治する貴族だ。彼女の決断は、彼女一人、家ひとつで済む問題ではないのだ。

 そして、彼女が自分のした結果から逃げるような娘でないことを、この場にいる誰もが理解していた。

 ……あの決闘騒動から、もう一週間。

 男爵──アイーゼの父親の手術は、無事成功した。彼は既に快方に向かっている。

 だが、心のほうまではそうはいかなかった。

 彼は抜け殻のようになり、もはや執務など行える状態でないのは誰の目にも明らかだった。

 救いがあるとすれば、少なくともアイーゼの母親は、完全に正気を取り戻していた。

 夫人は最初、夫と共に罪を償うことを望んだが、二人が行ったことは何の罪に問えることでもない。ゆえに夫人は今後、自分の手で償っていくのだろう──母親として、その在り方で。

 今では、夫が入院している隣町の病院と、アイーゼたちの元を往復する生活を送っている。さらにはアイーゼの執務のサポートも行っているというのだから、なかなか忙しい生活だ。

 だがその忙しない毎日の中でも、ユキトの目には、夫人の顔は明るいものに映った。

「アイーゼ。こっちの書類は出来たよ。後はハンコだけ」

「……ん。ありがと、シェリー」

 サポートといえば、シェリーとイリアの二人もそうだ。

 唐突に領主の仕事を任されたアイーゼを、二人は献身的にサポートしている。

 だがそれも、長く続くことではない。もうすぐ夏休みが終わるからだ。そしてそれは、アイーゼも同じ。

「アイーゼさん。これからどうするかは決めたのか?」

「ん」

 彼女は頷き、そして俺の目を見た。

「学院は、続ける。当然、戦技大会にも出る」

「そうか……」

 その返事に、少し安心している自分がいた。

 だが大丈夫なのだろうか。彼女は今や領主代行。この領地を放っていくわけには──。

「問題ない。来週には代理執政官が来る」

 いわく、代理執政官とは、領地を離れざるを得ない領主をサポートするシステムなのだという。

 領地を持つ貴族が少なくなった現在では、使われることなど滅多にない。が、かといって完全に失われたわけではない。

「父が政府筋に当たったそうです。学生ということもありますから、すぐ決まったそうですよ」

「へえ……」

「政府から監督員も来ますし、父の目もあります。おかしなことにはならないと思いますよ」

 イリアの言葉に、なるほど、と俺は頷いた。

 オーランド伯爵は、リリエス男爵家とはもう無関係ではない。

 なぜならば、アルナスのエレジウム鉱脈の共同採掘権を、伯爵がアイーゼから買い取ったからだ。

「おかげで借金も完済。伯爵様には足を向けて寝れない」

「そんなことは。正当な交渉の結果──というより、父のほうがよほど得をしていると思います」

 イリアとしては、いまだに納得がいっていない部分らしい。少々がめついのではないか、という意味で。

「貴族なんてそんなものだよ。伯爵はむしろ良心的なほうだと思う。実際、リリエス家単独でエレジウムの採掘なんてまず無理なんだから」

「それは……」

「その通り。イリアが気にすることじゃない」

 それに、と、アイーゼは小さく微笑した。

「第一は、アルナスの皆が納得して、その上で豊かになること。そのためのツテも伯爵が用意してくれた。買い物としては安い」

「……なるほどね」

 経済だ何だは俺には分からないが。

 やはり彼女は、領主に向いている。俺はそう思う。

「ところで先生、今日はどうしてこちらに? しばらく鍛え直すと仰っていたような──」

「ああ……まあね」

 イリアの言葉に頷く。

 というのも、この一件、俺はあまりに自分の未熟さを痛感したのだ。

 今回の事件──個人的に、身につまされるものが多かった。それはきっと、俺の前世を思い起こさせたから。

 俺の両親は、事故で死んだ。正確には、対向車線に飛び出したトラックのせいで。

 だが裁判で、トラックの運転手は無罪となった。過剰労働による心神喪失、という理由でだ。

 俺は、児童養護施設を出て、社会人となり──トラックの運転手を探した。

 ふくしゆうのためではない、つもりだった。本心では、自分でも分からない。

 だが、トラックの運転手はとうに自殺していた。ブラック労働によって彼を追い詰めていた会社の社長も、海外に高飛びして行方ゆくえめい

 そこから先は、言うまでもない、坂を転げ落ちるような人生。

 平凡で、どうしようもない男の出来上がりだった。

 だから……ああまで感情的になってしまったのだろう。

(じいさんには、あまりにほど遠い)

 ──明鏡止水。

 じいさんの剣は、まさにそれだった。

 水鏡に映る、せいひつな月のように。

 今も焼きつく、あのしようけい

 あまりにも未熟だと、叱られているようだった。

「先生?」

「あ、ごめん。なんでもない。それより、伯爵から手紙が届いたんだ」

「父様から?」

 ああ、と懐にしまった手紙を取り出す。

 それを受け取り、ざっと目を通したイリアは、少し目を見開き、そしてアイーゼに差し出した。

 私? と首をかしげるアイーゼに、イリアがこくりと頷く。

 その手紙にあったのは──ランド・ラネスについて。

 あの後、彼は警察に拘束され、移送された。

 だが……その後すぐに、病院に収容されたそうだ。

 身体の、ではなく、心の。

『彼の心はおそらく、とっくに壊れていたのだろう』

 伯爵の手紙には、そうつづられていた。

 彼は自殺する間際、アイーゼの幸せを願った。

 あれはおそらく、本心だったのだろう。

 それがれんびんか、同情か、それとももっと違う別のものだったのか、今では分からないが。

 だからこそ彼は、男爵を撃ったのかもしれない。

「そう……」

 アイーゼは、手紙を置き、窓の外へと目線を向けた。

 思わず、その視線を追う。

 窓の外には、青い空と、白い雲が広がっていた。

 彼女が失ったものは多い。全てが、丸く収まるなんてことにはならなかった。

 どういたところで、過去を変えることは出来ないから。

 でも──彼女が取り戻したものと、守れたものは、確かにあった。

 ユキトは不意に。

 空の向こうに、散っていくアルニの花を見た気がして。

 ふっと、アイーゼが口元で微笑んだ。

 夏は、じきに終わろうとしていた──。


「ところで、気になるんですけど、ユキト先生とイリアさんって付き合ってるんですか?」

「えっ!?

「いや、そんなことは──」

「ってことは、私たちにもチャンスあるってことですよね! ね、お姉ちゃん!」

 アイーゼが、意味がわからないとばかりに首を傾げて。

 シェリーが、こらえきれないとばかりに噴き出していた。