アイーゼが全速力で山を下り、屋敷に辿たどくには、さほどの時間も必要としなかった。

 学院での修練によって高まったアイーゼの気術をもってすれば、まるで風のごとく山を走破するなど朝飯前のことだ。

 屋敷は……何も変化はなかった。

 警戒しつつも屋敷に踏み入ると、玄関で仕事をしていたランドさんが駆け寄ってくる。

「お嬢様。おかえりなさいませ。随分と汚れていらっしゃいますが──」

「それよりもミミは?」

「は? ……ミミお嬢様でしたら、お部屋に」

 返事もせずにアイーゼは駆け出す。

 後ろからアイーゼを呼ぶ声が聞こえたが、無視だ。

 ミミの部屋の扉を勢いよく開け放つ。

 その部屋にいたのは、ミミ一人だけ。音に驚いたのか、ミミが驚いた顔を見せていた。

「お姉ちゃん? どうし──」

 無言のまま駆け寄って、ミミをぎゅっと抱きしめる。

「無事だった……」

「無事? 無事って、なにが……」

「いい、ミミ? 落ち着いて聞いてほしい。あの──」

 瞬間。

 窓ガラスが、音を立てて砕け散った。

 小さく悲鳴を上げるミミを抱きしめてかばい、窓を見ると、何か小さいものが放り込まれるところだった。

(フラッシュバン──!?

 瞬時に行動できたのは、士官学院での訓練のたまものだろう。

 とつに目を閉じて防御するが、耳まではそうはいかない。聴覚を越えたごうおんによって、思いっきり殴られたような衝撃に頭をふらつかせつつ、必死に目を開ける。

 すると、今度は煙が部屋を満たしはじめていた。スモークグレネードだ。

(この部屋は、まずい──!)

 咄嗟に、魔術を発動した。

 爆音──炎によって窓枠ごと壁を吹き飛ばし、そのまま転がり出る。

 こういう場合、逆の扉から出ようとするのは悪手だ。とっくに包囲されているに決まっている。


 銃声はない。銃を使えば弾丸から犯行が辿られると考えたのかもしれない。

 煙の向こうから、何者かが躍り出てきた。

 その正体を探ることすらせずに、容赦なくアイーゼは魔術を撃ち放った。

 爆音と共に、その人影が吹き飛ばされる。一般人なら優に殺傷する威力だが、手加減する余裕などじんもない。

 だが、それでもなお終わりではなかった。いくつもの人影が、正確にアイーゼへと迫るのを感覚で把握しつつ、ミミをぎゅっと抱きしめる。

「おねえちゃん──」

「ミミ、口閉じて!」

 跳躍。全力での逃げの一手。ミミを抱えているこの状況では、それ以外になかった。

 裏の雑木林に突っ込んで、木々の間を縫いながら再び走り出す。

「い、一体何が……」

「今は黙って。とにかく行こう」

 ──行こう、とは言ったものの。

 具体的に、行く当てがあったわけではなかった。

 追っ手を引きつれたまま、誰かの家に転がり込むわけにもいかない。

 ミミを抱えたまま林を抜け、森を抜け──そしてやがて、見覚えのある場所に辿り着いた。

(ここ、は──)

 アルニの花。

 夕暮れが黄金色に世界を染め上げる、その中で──うすべにいろの花が、美しく咲き乱れていた。

 ふわりと風が吹き、いくつもの花弁が夕暮れの空を舞う。

 かつて家族で来た、あの花畑。

 いつの間にか辿り着いたその場所で。

 その美しい光景に──ただ、アイーゼは言葉を失っていた。

れい……」

 ぽつりとこぼれたミミの声に、はっとして──瞬間、アイーゼはミミを抱き寄せた。

「危ない!」

 銃声。

 くうを裂いた銃弾が、アイーゼの肩を裂いた。

 小さく舌を打つ。

 気を抜いていなければ、負うこともなかったはずの傷。

 じわりとした痛みが、肩に広がっていく。

「随分と、派手に逃げ回ってくれたようですね」

 悠然と告げられた声。

 そのあるじは──

「ミハイル・フラヴァルト……」

「おっと、動かないほうがいいですよ」

 魔力をれいさせかけ、しかし、ぐるりと囲むように人の気配を感じ、アイーゼは舌打ちした。

 いつの間にか……完全に囲まれている。この状況でミハイルを殺したとしても、その後にミミを守り切るのは難しいかもしれない。

 いや、きっとこの男は、自分が殺されないための方策を持っている。だからこそこうして、私の目の前に姿を現しているのだ。

「これは……これはどういうことなんですか、ミハイルさん」

 アイーゼの背後から、ミミが震える声をあげた。

「おお、これは我が麗しの君。いやね、君のお姉さんが、突然私を襲ってきてねぇ……その自衛だよ」

「あなたは、うそばかり」

 ミミを背後に庇い、アイーゼはまなじりを吊り上げた。

「あなたの計画は、ミミと結婚し、その後父と母を殺し、家督を乗っ取ること。この村にある、エレジウムを独占するために」

「ふむ……」

「ミミのことだって、私のことだって、最初から殺すつもり。違う?」

 ミハイルは……私たちに銃口を向けたまま、ゆがんだ笑みを浮かべた。

「なるほど。では、取引といかないか?」

「取引……?」

「君とミミ嬢の命は保証する。夫婦といっても戸籍だけで構わない。式さえ挙げてくれれば、あとはこの田舎いなかから離れて二人で暮らすといい。どうかな?」

 ──それは。

 つまり、父と母の命は諦めろ、ということ。

 ミミの手が、ぎゅっと、アイーゼの手をつかんだ。

 その手を、アイーゼもまた握り返す。

「断る」

「……なぜ? 君は養父殿たちのことを、にくんでいると思っていたが?」

…………

 しばらくにらみあい──そして、クク、とミハイルが小さく笑った。

「やはりそうか。君は、何も捨ててなどいないというわけだ」

…………

「考えてみれば確かに。親元を離れるだけなら、妹を連れて二人で逃げればいい。金のないこの家に、追っ手などまず出せないだろうからね」

 ──ああ。

 そうだ。その通りだ。

「──あの日に戻れたらって、考えない日はない」

 ぽつりとこぼれた言葉に、ミミがはっと顔をあげた。

 そうだ。私も同じだ。

 ギレウス・マリオンのように、私が貴族として認められ、独立できたら。ミミだけじゃなく、父も母も引き取れる日がくるかもしれない。

 そうすれば解放されるかもしれない。そう思った。

 リリエスという家にまとわりつく、形のない、呪いのような『何か』から。

 父さんと、母さんと、私と、ミミ。

 ぜいたくなんてなかった。貴族らしくなんてなかった。ただ四人で、まるでごく普通の家庭のようだった……あの日に戻れたら。

 どうしてだろう。

 そんな、たったそれだけの願いですら、現実は簡単に摘み取ってしまう。

「あの親は、とても救われないと思いますがねぇ……」

 ミハイルはパチリと指を鳴らす。

 すると、周囲を包囲していた人影が、薄闇から姿を現した。

 全員がライフルで武装し、油断なく、少しずつ、包囲を狭めていく。

 ──強い。

 その全員の力量を、アイーゼは察する。

 全員が、さっき戦った男と同レベル……もしくはそれ以上。

「まあ、こうなってしまっては仕方がない。後々が怖いが、何とでもなるとも。世の中というのは困ったことに──金さえあれば、力なんて簡単に手に入るんだ」

 じりじりと狭まっていく包囲の中で。

 せめて、ミミだけでも──

「お姉ちゃん……」

「大丈夫」

 ミミをぎゅっと抱きしめる。

 空は黄金色に染まり、やがてあおい夜へと変わっていく。

 風に舞うアルニの花びらがきらめいていた。

 私はかつてこの場所で誓ったのだ。ミミだけは、彼女のことだけは何があっても必ず守るのだと。

 やりを手に、立ち上がる。

 どれほど無力でも、弱くても、嘆くだけでは何も変わらない。

 かなければ、きっと未来などないから。


 そして──世界が、音をなくした。


 全員の動きが止まる。

 まるで、不可視の何かに押さえつけられたように。

「……雇い主」

 不意に、ミハイルの背後からぬっと何者かが姿を現した。

 スキンヘッドの男だ。大型の機械式の槍のようなものを手にしている。なぜ気づかなかったのかと思えるほどの巨体だ。

 圧倒的な強者であることは、見ただけで分かった。

 だがその強者が……ひどく焦った顔をしていた。

「まずい。逃げてください。今すぐに」

「……どういうことですか?」

「やつが──」

 瞬間。

 風が吹く。

 アルニの花びらが、風にさらわれて空を舞い……そして、アイーゼはようやく、その姿をとらえた。

(ああ……)

 静かな足音が、ひとつ、またひとつ。

 ただ悠々と──無人の野を行くがごとく。

 男がいた。

 一見すれば、ごく普通の男。黒髪に黒目……そしてその片手に、さやにおさまった剣が握られている。

 それは、東洋で刀と呼ばれるものだった。

 ただそれだけの男なのに。

 全員の視線が……とらわれたかのごとく、彼から離せない。

「う……おおおおお!!

 アイーゼたちを包囲していたうちの一人が、弾かれたように銃口をあげ、男へと発砲しようとした。

 ──何かが、閃光のようにまたたいて。

 男の腕が、鮮血と共に宙を舞った。

 その光景に、全員が息をむ。

 ……斬ったのだ。あの距離、あの速度で。刀を抜いた手すらも見えないほどのはやさで。ぜつきようが響く中、彼がちらりと周囲に目を向けると、包囲していた兵士たちがたたらを踏む。その目には、恐怖がちらついていた。

「……ユキト、先生……」

 名を呼んだ瞬間、包囲していた男の一人が走り出した。

 はっとして振り向く。そして自分に向かってくる男の目に、その意図を察した。

 自分たちを人質に取ろうとしているのだ。それしかないと判断したのだろう。追従するように数人が動き出して、

「止めろ──!」

 大男のだいかつが響いたときには、既に遅かった。

 けんせんが、音もなくくうき。

 男たちの首が、まるで冗談に空を舞った。

 その光景を、私とミミは一瞬しか見ることはなかった。気がつけば私たちの前にユキトが立っていて、その背を向けていたから。

「ごめん、待たせたね、アイーゼさん。……よく頑張った」

 肩越しに向けられた笑みに。

 不覚にも、アイーゼは全身の力を抜いてしまった。


   ◆ ◇ ◆


 時は少しさかのぼる。

 俺たちが列車でラスモア村に着いたとき、村ではちょっとした騒動が起きていた。遠くの山で煙が見えて、何人もの村人たちがあわただしく走り回っている。

「山火事かな?」

「──いや」

 首を傾げるシェリーの言葉に、俺は目を細める。あれは──

「どういうことだ、神父様!」

 その時、駅から降りてすぐの村の広場で、一人の男の荒げた声が聞こえた。

「あそこに娘がいるだって!? どうして──」

「……それは」

 じんじようならざる様子に、俺たちは視線を交わし合い、彼らに近寄る。

「一体何があったんですか?」

 突然、横から割って入ったシェリーに、彼らは一瞬目を見開いた。神父と呼ばれた男が「あなた方は?」と首を傾げるのに、俺たちは説明する。学院でのアイーゼの友人であり、彼女に会いに来たのだと。

 彼は「そうですか」としばらくしゆんじゆんし──そしてイリアとシェリーさんの学生服を見て、そして頷いた。

「しかし、外部の方に説明するのは──」

「そう言わんでやってくれ、神父様」

 そう言って姿を見せたのは、一人の杖をついた老人だった。長いひげを撫でながら俺たちを見ると、にこりと笑みを見せる。

「わざわざこんな田舎まで、アイーゼ嬢を追って来られたんじゃ。何がどうなっておるのかぐらい、教えてやるのが人情じゃて」

「しかし……」

「じゃあ、ワシが彼らの身元を保証する。それならどうじゃ?」

 その時、不意に老人と目があった。

 この人は一体誰で、どうしてそんなことを言うのだろう。疑問が湧きあがるが、老人はただ笑うばかりだ。

 だが老人の言葉に、神父は「……なるほど」と何かを納得したように顔を上げる。

 そして神父は、端的にではあるが全てを説明してくれた。

 ミミとの結婚にアイーゼが異を唱えたこと。ミハイル・フラヴァルトの裏を探るため、アイーゼは幼馴染と共に山に登ったこと。そしてその裏とは恐らく、この村に眠る貴重な鉱山であることも──。

 その時、ドンッという爆音が山から響く。

 爆炎が立ち上る様に、神父の説明を聞いていたシェリーが顔を青くした。

「──先に行く。クロ、二人を頼む」

 ワウッ、というクロの返事を背で聞きながら、地面を蹴った。

 ……そして、今に至る。

 いつもそうだが、後になってギリギリで駆け付けるのは何なのだろう。別に狙っているわけではないのだが。

「アイーゼさん、幼馴染の三人は無事だ」

「え?」

「今頃、イリアとシェリーさんが保護しているはずだ。……二人もここに来てる」

 アイーゼがほっとしたように力を抜くのを見ながら、「さて」と向き直った。

 ざんけいたちつむぎ──かいほうせん

 音もなく、影もなく、しんちようされた無形の刃が空間を滑り、周囲を囲んでいた全員をえる。どさりと周囲で倒れ伏す音が連続し、すっと下ろした刃を前の二人に向ける。

 ──彼がミハイル・フラヴァルト。きようがくに目を見開いた彼は、貴公子というには随分と落ち着きがない。対して、その横でひかえる大男は冷静にこちらを見据えていた。

「……待て」

 やはりというべきか、口を開いたのは大男のほうだった。

「我々にはお前と争うつもりがない」

「この状況でよくその言葉を吐ける」

「お前にとっては他人事のはずだ。……我々とて、本当に令嬢たちを傷つけるつもりはなかった」

「そ、そうだ!」

 ミハイル・フラヴァルトが我が意を得たとばかりに声をあげ、その様子に目を細めた。

「これはちょっとした誤解なんだ! ……さいな行き違いなんだよ」

「行き違いだと?」

 ようやく立ち直ったらしいミハイルは、冷や汗を垂らしながら弁明する。

「そこの彼女、アイーゼ嬢が、何かの誤解で私を襲ってきてね。さすがに殺されるわけにはいかないだろう? 彼らは私が護衛に雇っていて、少しばかり過剰反応しただけさ」

「……違います」

 その声は、ユキトの背後から聞こえた。

 アイーゼの背にかばわれた、小さな少女から。

「そこの人は、私たちを殺そうとしてた……!」

 ミミ・リリエスは、庇われていた姉の背後から立ち上がって、ミハイルに指を突きつけていた。

「いや、誤解だとも。少しばかり反省してもらうだけで──」

「ミハイルさん……いえ、ミハイル・フラヴァルト。貴方の言うことは何も信用できない……!」

 ミミは立ち上がり、きっと彼をにらみつけた。

「ミミ・リリエスとして宣言します。貴方との婚約を、破棄します!」

 その宣言に、ミハイルは顔をゆがめ……その上で、にやりと笑みを浮かべた。

「ああ……それは残念だ。残念だが……それは養父殿たちが認めるだろうか?」

「……なんですって?」

「式の準備はもう進んでいる。勿論の私の手でだ。この上、婚約を破棄されるとなると……さて、慰謝料はどれほどになるか」

 子供を諭すように、柔らかく、穏やかに告げながらも、その言葉は陰湿なものに彩られているように思えた。

「しかもだ。立て続けの婚約破棄──もう次はないだろうね。貴族としても底辺に落ちるだろう。リリエス家は今よりもっと苦しくなる」

 ミミは唇を嚙む。

 彼の言葉は確かに正しい。貴族とは……いや、他人とはそういうものだ。そこに至るまでの事情などまるで考えもしない。

「ごちゃごちゃうるさい連中だ。そもそもなぜ、俺がお前たちを生かして帰すと思っている?」

 その言葉に、空気が凍った。

 ミハイルが固まった表情で、ぜんと俺を見る。

「ミハイル・フラヴァルト。さっさと手を引け。──でなければ殺す」

 ──剣気。

 それが物理的な圧力さえも伴って、周囲に叩きつけられる。

 表情を保っているのはミハイルの背後に居る男のみ。ミハイルも、アイーゼも、ミミもその表情をひきつらせていた。

「そんな……そんな馬鹿なことがあるか!」

 恐怖からか、怒りからか、ミハイル・フラヴァルトは絶叫しながら俺を睨みつけた。

「そんな理不尽があっていいのか! これは私と、そこの連中の問題のはずだ! こんな、暴力で、丸ごと根こそぎひっくり返すなど──」

「どの口が言うんだ? 鉱山を手に入れた後は彼女たちを殺すつもりだったんだろう?」

 それはアイーゼの幼馴染たちにいた話だ。

「邪魔だから殺す。利益なるから殺す。……俺が気に入らないから殺す。なあ、何か違いがあるか?」

 彼らは、ただ顔を青くして口をつぐむ。

 誰もが言葉を失い、いつしか日も完全に死んで、ただ冷たい風だけが通り抜けていく。

 そして、再び俺が口を開こうとした瞬間。

「待って」

 声を上げたのは、アイーゼだった。

 彼女は立ち上がり、そして槍を手に、真っすぐにこちらを見つめていた。

「助けてくれてありがとう、先生。でも……ごめんなさい。この場は私に任せて欲しい」

「……分かった」

 俺は剣を下ろし、そしてさやにしまい込んだ。

 呆然と口を開けたミハイルを横目に、アイーゼとすれ違い──

「──ありがとう」

 すれ違う瞬間、ほんの小さく、彼女はそう告げた。


   ◆ ◇ ◆


「……何の、つもりだ」

 絞り出すように告げたミハイルの言葉に、そしてその視線に、アイーゼはちらりと背後を見た。

 彼はどう見ても、後ろに立つユキトを意識していた。いやそれ以外に意識をく余裕はないようにさえ見えた。彼にとっては、ユキトが自分の心臓を握る死神に見えているのだろう。

 そしてそれは、確かに真実だ。

「貴方と交渉がしたい。これは私と貴方の問題だから」

「はっ……」

 疲れたように、しかし怒りをにじませながら、ミハイルは失笑した。

「俺とお前の問題だと……?」

 力なく笑いながら、ミハイルは言う。

「お前がそうやって強気でいられるのは、後ろにその化け物がいるからだろうが! 交渉だと!? 脅迫だろう、それは!」

…………

「他人の力でふんぞり返るのは楽しいか!? 楽しいだろうなァ! その立場が俺だったら最高に笑えるね! お前も俺と同じ穴のむじなだ!」

「その通り」

 その言葉に、彼は「あ……?」とアイーゼを見た。

 彼の言葉は正しい。こうしてここに立てているのはユキトのおかげでしかない。彼がいなければ、自分は何も果たせずに死んでいただろう。

 今この瞬間は、ただ他人によって与えられたものに過ぎなかった。傭兵を雇って自分を殺そうとしたこの男と、何も変わらない。

「私と貴方は同じ穴の貉だ。だから、改めて貴方に申し込む──決闘を」

「決闘、だと……?」

「賭けるのはミミとの結婚。貴方が勝てば、ミとの婚約を認める。鉱山もしやくも貴方の自由にすればいい」

 その場合、ミミを連れて何としても逃げる。

「そして私が勝ったら……全部を諦めてもらう」

「何を……言っている?」

 彼は心底理解できないという顔で、呆然と呟いた。

「そんなことをせずとも、私を殺せば終わりだろう。証拠など、後でいくらでも出てくる──面倒ならねつぞうしてしまえばいい」

「確かに、そう。そうすればミミは助かる。でも──」

 ぎゅっとそでを握る小さな手の感触に、アイーゼはミミを見て、こくりと頷いた。

「──それじゃあ、父さんと母さんはあのまま。何も変わらない」

「な……」

「きっともう、言葉じゃ何も伝わらない。伝えられない。私には……これしかない」

 それは不器用な少女の、最後の賭け。だがそれを、ミハイルはちようしようした。

「ハ、ハハハハハ! 本気で言っているのか、あの二人が改心すると!? 子供を容易に売り渡す親だぞ!? 私の目から見ても、あの二人はとっくに狂ってる!」

「……それでも、まだ諦めたくない」

「いいだろう──」

 クッと笑いながら、ミハイルは手を差しだす。

「その決闘とやら、受けようじゃないか。安心したまえ、私が勝っても君たちの命を奪うような真似はしない。……後ろのも、それでいいのだろう?」

「ああ。俺は手を出さない」

 こくりと頷くユキトに、にっと彼は笑みを強め──

「それなら、公証人は私が務めましょう」

 その声は、その場にはいなかったはずの第三者の声だった。アイーゼが声をたどり、目を向け、そして大きく見開いた。

 そこに立っていたのは、金糸のような髪をあおよいやみになびかせる、美しい少女。

「イリア……どうして」

「私たちも、先生と一緒に来ていたんです」

「私、たち?」

 ええ、とイリアは頷く。

「──会長も来てます。今は伯爵邸に」

 イリアの言葉にアイーゼは驚きに顔を歪ませ、だがすぐにこくりと頷いた。

「イリア・オーランド……」

 渋面でその名を呟いたのは、ミハイル・フラヴァルトだ。

 オーランド伯爵家の介入は、彼も考えていた。だが伯爵は帝都での貴族会議に出席して不在、息子はまだ幼少、娘は取るに足らないと思っていた。だがまさか、その娘がこの場に現れるとは思ってもいなかったのだ。

「安心してください。公証人として、あくまで第三者として参加します。片方に肩入れなどはしませんよ」

 イリアの言葉に、ちっ、とミハイルは舌を打つ。

 実のところ、決闘の公証人は正式な貴族のみが行えるもので、伯爵令嬢であるイリアではその権利はない。だが多少の貴族の仕来りならともかく、古ぼけた決闘というシステムの、それも公証人という制度など、平民出である彼に知る由もなかった。──もっともイリアは、父に連絡して代行という権利を手に入れるつもりのようだが。

「……まあ、いいでしょう。ですが、ただし、こちらとしても権利は主張させていただきます」

「権利?」

「当然、代理人を選ぶ権利です。私は戦闘など出来ませんからね」

 確かにそれは、決闘を行う上で認められたルールだ。

 そしてその代理人とは、言うまでもなく──

「雇い主。すまないが、俺は出れん」

「な……」

 ゼロ、と呼ばれたスキンヘッドの男は、そう首を振った。そしてその視線をユキトに向けた。

「俺が出るとなれば、そこの男が出てくるだろうからな」

「だが、それでは……」

「かといって、向こうもそれは望んでいない。手を出さんと言ったばかりだからな」

 ユキトはただ黙って、アイーゼの後ろで腕を組み、目を閉じていた。それは肯定とも否定とも取れる態度で、ぐ、とミハイルは唇をかみしめる。

「鬼札をぶつければ負けるのはこちら。であれば、実力のはくちゆうした相手をぶつけるほかないでしょう。……レオ」

「俺ですかい」

 スキンヘッドの男が名を呼ぶと、アイーゼたちの背後、包囲していた兵士たちの一角から、進み出る影があった。

 それは、山でアイーゼと戦った男だった。

「こちらはこいつを出す。問題はないな?」

「分かった。それでいい」

 こくりと頷いたのは、アイーゼ本人。

 かくして、決闘が成立する。

 ミミの婚姻を──そして一人の少女の、己の全てを賭けた戦いが。


   ◆ ◇ ◆


 その後は──少しだけ慌ただしかった。

 アイーゼが無事だった幼馴染と再会したり、ユキトたちと情報を交換しあったり、決闘の日程が数日後に定まったり。そして男爵夫妻はといえば、無事だったアイーゼたちに声をかけるでもなく、会うなり顔をしかめ、大股で歩き去っていった。

 その背を見送るアイーゼに、誰も何も言えなかった。

 ──そして。

「風邪引くよ」

 深夜。その日の夜は、夏の終わりを感じさせる、少し肌寒い夜だった。

 ベンチに座りながら、夜空を見上げていたアイーゼが声に振り向く。

 そこにはカーディガンを手に持ったシェリーがいた。差し出されたカーディガンを受け取って「ん」といつものようにアイーゼは頷く。

「ねえ、アイーゼ──」

 シェリーはアイーゼの横に座り、いつもと同じように、口を開こうとして、

「見て」

 と、アイーゼは空を指さした。

 そこに広がるのは満天の星空。まるで宝石箱をひっくり返したように、無数の星々が夜空に瞬いている。それは決して一つの色ではなく、そのきらめきは川のようにも、雲のようにも見えた。

「この星空、いつかシェリーに見せたいと思ってた」

 それは決して、古都では見ることの出来ない光景──見せたかったというのも分かるな、とシェリーは納得しながら、ただ呆然と頷いた。

 しばらく、二人で声もなく夜空にられて──そしてぽつりと、言葉がつむがれた。

「「ごめん」」

 まったくの同時。

 重なった言葉に、二人は呆然と目を見開き、お互いに顔を見合わせた。

 ──そして、同時に吹き出す。

「もう。何でアイーゼが謝るのよ」

「そっちこそ」

 ふふっ、と笑いあって、再び夜空に目線を向ける。

 しばらく、決して重くはない沈黙は流れて──ぽつりと、もう一度シェリーは口を開く。

「私ね……男爵の罪を問うことが、アイーゼを救うことだと思っていた。男爵の魔の手から救うんだって、そんな風に思ってた。でも──違ったんだね」

 ん……、とアイーゼが頷く。

 アイーゼは、いつも必死だった。ただ前だけを見ていた。……でもそれは、後ろを振り返った瞬間、心が折れてしまうからだったのかもしれない。

 人の心はもろい。諦めてしまうのは簡単で、あらがうのはいつだって痛みをともなう。

「何度も思った。──私が逃げなければ、全部上手くいったのかもしれない。言われた通りに結婚して、お金が手に入って……そしたらミミも、父さんも、母さんも、元の幸せな暮らしに戻れてたのかもしれない」

「アイーゼ、それは違う」

 だってそこに、アイーゼはいない。

 ──自己犠牲は、他人から見えれば尊くも見えるだろう。だが実際には、他人の犠牲によって得た幸福など、誰一人として救えない。

「……私が、私自身を諦められなかったのは、シェリーがいたから」

 私? とシェリーは首を傾げ、アイーゼは頷いた。

「私は、ずっとシェリーに救われてた。今もそう。シェリーが来てくれなかったら、私は死んでた」

 懐かしむように、思い出すように、アイーゼは目を閉じる。

「寝坊した時は起こしてくれるし、部屋は片づけてくれるし、勉強も手伝ってくれたし、美味しいご飯も奢ってくれた」

「そんなこと……」

「そんなことじゃない」

 孤独だった。

 故郷を離れて一人、学院ではいつも裏切り者の一族だと、ドブネズミの薄汚れた血統だとののしられ、のろいの言葉を投げかけられた。

 そんな孤独の中で、ただ一人、シェリーの存在だけがアイーゼを救ってくれた。

「だから……言えなかった。こんな弱い自分を見せて、げんめつされるのが怖かった」

「──同じだよ、アイーゼ」

 最初は、ただの同情だった。かつての罪を、アイーゼと共にいることであがなえた気になっていた。

 だけど、アイーゼと共に過ごすうちに、後悔と罪悪感が膨れていった。

 もっと普通に、同情なんていう始まりじゃなくて、ただの友達として出会えていたらと──そんな風に、何度も思った。

 でも、本当はそんなこと、どうでも良かったのかもしれない。

 こうして隣に居られる。隣にいて手を繫ぐことができる。どうか無事でいてほしいと願うことができる。

 ただそれだけでいい。

「アイーゼ」

 二人で座ったベンチの上で、二つの手が重なる。

「勝って。そして必ず、学院に帰ろう」

 ──そしてその時は、私の話をしよう。

 かつての罪と、今隣にいる親友の話を。