
アイーゼが全速力で山を下り、屋敷に
学院での修練によって高まったアイーゼの気術をもってすれば、まるで風のごとく山を走破するなど朝飯前のことだ。
屋敷は……何も変化はなかった。
警戒しつつも屋敷に踏み入ると、玄関で仕事をしていたランドさんが駆け寄ってくる。
「お嬢様。おかえりなさいませ。随分と汚れていらっしゃいますが──」
「それよりもミミは?」
「は? ……ミミお嬢様でしたら、お部屋に」
返事もせずにアイーゼは駆け出す。
後ろからアイーゼを呼ぶ声が聞こえたが、無視だ。
ミミの部屋の扉を勢いよく開け放つ。
その部屋にいたのは、ミミ一人だけ。音に驚いたのか、ミミが驚いた顔を見せていた。
「お姉ちゃん? どうし──」
無言のまま駆け寄って、ミミをぎゅっと抱きしめる。
「無事だった……」
「無事? 無事って、なにが……」
「いい、ミミ? 落ち着いて聞いてほしい。あの──」
瞬間。
窓ガラスが、音を立てて砕け散った。
小さく悲鳴を上げるミミを抱きしめて
(フラッシュバン──!?)
瞬時に行動できたのは、士官学院での訓練の
すると、今度は煙が部屋を満たしはじめていた。スモークグレネードだ。
(この部屋は、まずい──!)
咄嗟に、魔術を発動した。
爆音──炎によって窓枠ごと壁を吹き飛ばし、そのまま転がり出る。
こういう場合、逆の扉から出ようとするのは悪手だ。とっくに包囲されているに決まっている。
銃声はない。銃を使えば弾丸から犯行が辿られると考えたのかもしれない。
煙の向こうから、何者かが躍り出てきた。
その正体を探ることすらせずに、容赦なくアイーゼは魔術を撃ち放った。
爆音と共に、その人影が吹き飛ばされる。一般人なら優に殺傷する威力だが、手加減する余裕など
だが、それでもなお終わりではなかった。いくつもの人影が、正確にアイーゼへと迫るのを感覚で把握しつつ、ミミをぎゅっと抱きしめる。
「おねえちゃん──」
「ミミ、口閉じて!」
跳躍。全力での逃げの一手。ミミを抱えているこの状況では、それ以外になかった。
裏の雑木林に突っ込んで、木々の間を縫いながら再び走り出す。
「い、一体何が……」
「今は黙って。とにかく行こう」
──行こう、とは言ったものの。
具体的に、行く当てがあったわけではなかった。
追っ手を引きつれたまま、誰かの家に転がり込むわけにもいかない。
ミミを抱えたまま林を抜け、森を抜け──そしてやがて、見覚えのある場所に辿り着いた。
(ここ、は──)
アルニの花。
夕暮れが黄金色に世界を染め上げる、その中で──
ふわりと風が吹き、いくつもの花弁が夕暮れの空を舞う。
かつて家族で来た、あの花畑。
いつの間にか辿り着いたその場所で。
その美しい光景に──ただ、アイーゼは言葉を失っていた。
「
ぽつりとこぼれたミミの声に、はっとして──瞬間、アイーゼはミミを抱き寄せた。
「危ない!」
銃声。
小さく舌を打つ。
気を抜いていなければ、負うこともなかったはずの傷。
じわりとした痛みが、肩に広がっていく。
「随分と、派手に逃げ回ってくれたようですね」
悠然と告げられた声。
その
「ミハイル・フラヴァルト……」
「おっと、動かないほうがいいですよ」
魔力を
いつの間にか……完全に囲まれている。この状況でミハイルを殺したとしても、その後にミミを守り切るのは難しいかもしれない。
いや、きっとこの男は、自分が殺されないための方策を持っている。だからこそこうして、私の目の前に姿を現しているのだ。
「これは……これはどういうことなんですか、ミハイルさん」
アイーゼの背後から、ミミが震える声をあげた。
「おお、これは我が麗しの君。いやね、君のお姉さんが、突然私を襲ってきてねぇ……その自衛だよ」
「あなたは、
ミミを背後に庇い、アイーゼは
「あなたの計画は、ミミと結婚し、その後父と母を殺し、家督を乗っ取ること。この村にある、エレジウムを独占するために」
「ふむ……」
「ミミのことだって、私のことだって、最初から殺すつもり。違う?」
ミハイルは……私たちに銃口を向けたまま、
「なるほど。では、取引といかないか?」
「取引……?」
「君とミミ嬢の命は保証する。夫婦といっても戸籍だけで構わない。式さえ挙げてくれれば、あとはこの
──それは。
つまり、父と母の命は諦めろ、ということ。
ミミの手が、ぎゅっと、アイーゼの手を
その手を、アイーゼもまた握り返す。
「断る」
「……なぜ? 君は養父殿たちのことを、
「…………」
しばらく
「やはりそうか。君は、何も捨ててなどいないというわけだ」
「…………」
「考えてみれば確かに。親元を離れるだけなら、妹を連れて二人で逃げればいい。金のないこの家に、追っ手などまず出せないだろうからね」
──ああ。
そうだ。その通りだ。
「──あの日に戻れたらって、考えない日はない」
ぽつりと
そうだ。私も同じだ。
ギレウス・マリオンのように、私が貴族として認められ、独立できたら。ミミだけじゃなく、父も母も引き取れる日がくるかもしれない。
そうすれば解放されるかもしれない。そう思った。
リリエスという家にまとわりつく、形のない、呪いのような『何か』から。
父さんと、母さんと、私と、ミミ。
どうしてだろう。
そんな、たったそれだけの願いですら、現実は簡単に摘み取ってしまう。
「あの親は、とても救われないと思いますがねぇ……」
ミハイルはパチリと指を鳴らす。
すると、周囲を包囲していた人影が、薄闇から姿を現した。
全員がライフルで武装し、油断なく、少しずつ、包囲を狭めていく。
──強い。
その全員の力量を、アイーゼは察する。
全員が、さっき戦った男と同レベル……もしくはそれ以上。
「まあ、こうなってしまっては仕方がない。後々が怖いが、何とでもなるとも。世の中というのは困ったことに──金さえあれば、力なんて簡単に手に入るんだ」
じりじりと狭まっていく包囲の中で。
せめて、ミミだけでも──
「お姉ちゃん……」
「大丈夫」
ミミをぎゅっと抱きしめる。
空は黄金色に染まり、やがて
風に舞うアルニの花びらが
私はかつてこの場所で誓ったのだ。ミミだけは、彼女のことだけは何があっても必ず守るのだと。
どれほど無力でも、弱くても、嘆くだけでは何も変わらない。
そして──世界が、音をなくした。
全員の動きが止まる。
まるで、不可視の何かに押さえつけられたように。
「……雇い主」
不意に、ミハイルの背後からぬっと何者かが姿を現した。
スキンヘッドの男だ。大型の機械式の槍のようなものを手にしている。なぜ気づかなかったのかと思えるほどの巨体だ。
圧倒的な強者であることは、見ただけで分かった。
だがその強者が……ひどく焦った顔をしていた。
「まずい。逃げてください。今すぐに」
「……どういうことですか?」
「やつが──」
瞬間。
風が吹く。
アルニの花びらが、風にさらわれて空を舞い……そして、アイーゼはようやく、その姿をとらえた。

(ああ……)
静かな足音が、ひとつ、またひとつ。
ただ悠々と──無人の野を行くがごとく。
男がいた。
一見すれば、ごく普通の男。黒髪に黒目……そしてその片手に、
それは、東洋で刀と呼ばれるものだった。
ただそれだけの男なのに。
全員の視線が……
「う……おおおおお!!」
アイーゼたちを包囲していたうちの一人が、弾かれたように銃口をあげ、男へと発砲しようとした。
──何かが、閃光のように
男の腕が、鮮血と共に宙を舞った。
その光景に、全員が息を
……斬ったのだ。あの距離、あの速度で。刀を抜いた手すらも見えないほどの
「……ユキト、先生……」
名を呼んだ瞬間、包囲していた男の一人が走り出した。
はっとして振り向く。そして自分に向かってくる男の目に、その意図を察した。
自分たちを人質に取ろうとしているのだ。それしかないと判断したのだろう。追従するように数人が動き出して、
「止めろ──!」
大男の
男たちの首が、まるで冗談に空を舞った。
その光景を、私とミミは一瞬しか見ることはなかった。気がつけば私たちの前にユキトが立っていて、その背を向けていたから。
「ごめん、待たせたね、アイーゼさん。……よく頑張った」
肩越しに向けられた笑みに。
不覚にも、アイーゼは全身の力を抜いてしまった。
◆ ◇ ◆
時は少し
俺たちが列車でラスモア村に着いたとき、村ではちょっとした騒動が起きていた。遠くの山で煙が見えて、何人もの村人たちが
「山火事かな?」
「──いや」
首を傾げるシェリーの言葉に、俺は目を細める。あれは──
「どういうことだ、神父様!」
その時、駅から降りてすぐの村の広場で、一人の男の荒げた声が聞こえた。
「あそこに娘がいるだって!? どうして──」
「……それは」
「一体何があったんですか?」
突然、横から割って入ったシェリーに、彼らは一瞬目を見開いた。神父と呼ばれた男が「あなた方は?」と首を傾げるのに、俺たちは説明する。学院でのアイーゼの友人であり、彼女に会いに来たのだと。
彼は「そうですか」としばらく
「しかし、外部の方に説明するのは──」
「そう言わんでやってくれ、神父様」
そう言って姿を見せたのは、一人の杖をついた老人だった。長い
「わざわざこんな田舎まで、アイーゼ嬢を追って来られたんじゃ。何がどうなっておるのかぐらい、教えてやるのが人情じゃて」
「しかし……」
「じゃあ、ワシが彼らの身元を保証する。それならどうじゃ?」
その時、不意に老人と目があった。
この人は一体誰で、どうしてそんなことを言うのだろう。疑問が湧きあがるが、老人はただ笑うばかりだ。
だが老人の言葉に、神父は「……なるほど」と何かを納得したように顔を上げる。
そして神父は、端的にではあるが全てを説明してくれた。
ミミとの結婚にアイーゼが異を唱えたこと。ミハイル・フラヴァルトの裏を探るため、アイーゼは幼馴染と共に山に登ったこと。そしてその裏とは恐らく、この村に眠る貴重な鉱山であることも──。
その時、ドンッという爆音が山から響く。
爆炎が立ち上る様に、神父の説明を聞いていたシェリーが顔を青くした。
「──先に行く。クロ、二人を頼む」
ワウッ、というクロの返事を背で聞きながら、地面を蹴った。
……そして、今に至る。
いつもそうだが、後になってギリギリで駆け付けるのは何なのだろう。別に狙っているわけではないのだが。
「アイーゼさん、幼馴染の三人は無事だ」
「え?」
「今頃、イリアとシェリーさんが保護しているはずだ。……二人もここに来てる」
アイーゼがほっとしたように力を抜くのを見ながら、「さて」と向き直った。
音もなく、影もなく、
──彼がミハイル・フラヴァルト。
「……待て」
やはりというべきか、口を開いたのは大男のほうだった。
「我々にはお前と争うつもりがない」
「この状況でよくその言葉を吐ける」
「お前にとっては他人事のはずだ。……我々とて、本当に令嬢たちを傷つけるつもりはなかった」
「そ、そうだ!」
ミハイル・フラヴァルトが我が意を得たとばかりに声をあげ、その様子に目を細めた。
「これはちょっとした誤解なんだ! ……
「行き違いだと?」
ようやく立ち直ったらしいミハイルは、冷や汗を垂らしながら弁明する。
「そこの彼女、アイーゼ嬢が、何かの誤解で私を襲ってきてね。さすがに殺されるわけにはいかないだろう? 彼らは私が護衛に雇っていて、少しばかり過剰反応しただけさ」
「……違います」
その声は、ユキトの背後から聞こえた。
アイーゼの背に
「そこの人は、私たちを殺そうとしてた……!」
ミミ・リリエスは、庇われていた姉の背後から立ち上がって、ミハイルに指を突きつけていた。
「いや、誤解だとも。少しばかり反省してもらうだけで──」
「ミハイルさん……いえ、ミハイル・フラヴァルト。貴方の言うことは何も信用できない……!」
ミミは立ち上がり、きっと彼を
「ミミ・リリエスとして宣言します。貴方との婚約を、破棄します!」
その宣言に、ミハイルは顔を
「ああ……それは残念だ。残念だが……それは養父殿たちが認めるだろうか?」
「……なんですって?」
「式の準備はもう進んでいる。勿論の私の手でだ。この上、婚約を破棄されるとなると……さて、慰謝料はどれほどになるか」
子供を諭すように、柔らかく、穏やかに告げながらも、その言葉は陰湿なものに彩られているように思えた。
「しかもだ。立て続けの婚約破棄──もう次はないだろうね。貴族としても底辺に落ちるだろう。リリエス家は今よりもっと苦しくなる」
ミミは唇を嚙む。
彼の言葉は確かに正しい。貴族とは……いや、他人とはそういうものだ。そこに至るまでの事情などまるで考えもしない。
「ごちゃごちゃ
その言葉に、空気が凍った。
ミハイルが固まった表情で、
「ミハイル・フラヴァルト。さっさと手を引け。──でなければ殺す」
──剣気。
それが物理的な圧力さえも伴って、周囲に叩きつけられる。
表情を保っているのはミハイルの背後に居る男のみ。ミハイルも、アイーゼも、ミミもその表情をひきつらせていた。
「そんな……そんな馬鹿なことがあるか!」
恐怖からか、怒りからか、ミハイル・フラヴァルトは絶叫しながら俺を睨みつけた。
「そんな理不尽があっていいのか! これは私と、そこの連中の問題のはずだ! こんな、暴力で、丸ごと根こそぎひっくり返すなど──」
「どの口が言うんだ? 鉱山を手に入れた後は彼女たちを殺すつもりだったんだろう?」
それはアイーゼの幼馴染たちに
「邪魔だから殺す。利益なるから殺す。……俺が気に入らないから殺す。なあ、何か違いがあるか?」
彼らは、ただ顔を青くして口を
誰もが言葉を失い、いつしか日も完全に死んで、ただ冷たい風だけが通り抜けていく。
そして、再び俺が口を開こうとした瞬間。
「待って」
声を上げたのは、アイーゼだった。
彼女は立ち上がり、そして槍を手に、真っすぐにこちらを見つめていた。
「助けてくれてありがとう、先生。でも……ごめんなさい。この場は私に任せて欲しい」
「……分かった」
俺は剣を下ろし、そして
呆然と口を開けたミハイルを横目に、アイーゼとすれ違い──
「──ありがとう」
すれ違う瞬間、ほんの小さく、彼女はそう告げた。
◆ ◇ ◆
「……何の、つもりだ」
絞り出すように告げたミハイルの言葉に、そしてその視線に、アイーゼはちらりと背後を見た。
彼はどう見ても、後ろに立つユキトを意識していた。いやそれ以外に意識を
そしてそれは、確かに真実だ。
「貴方と交渉がしたい。これは私と貴方の問題だから」
「はっ……」
疲れたように、しかし怒りを
「俺とお前の問題だと……?」
力なく笑いながら、ミハイルは言う。
「お前がそうやって強気でいられるのは、後ろにその化け物がいるからだろうが! 交渉だと!? 脅迫だろう、それは!」
「…………」
「他人の力でふんぞり返るのは楽しいか!? 楽しいだろうなァ! その立場が俺だったら最高に笑えるね! お前も俺と同じ穴の
「その通り」
その言葉に、彼は「あ……?」とアイーゼを見た。
彼の言葉は正しい。こうしてここに立てているのはユキトのおかげでしかない。彼がいなければ、自分は何も果たせずに死んでいただろう。
今この瞬間は、ただ他人によって与えられたものに過ぎなかった。傭兵を雇って自分を殺そうとしたこの男と、何も変わらない。
「私と貴方は同じ穴の貉だ。だから、改めて貴方に申し込む──決闘を」
「決闘、だと……?」
「賭けるのはミミとの結婚。貴方が勝てば、ミとの婚約を認める。鉱山も
その場合、ミミを連れて何としても逃げる。
「そして私が勝ったら……全部を諦めてもらう」
「何を……言っている?」
彼は心底理解できないという顔で、呆然と呟いた。
「そんなことをせずとも、私を殺せば終わりだろう。証拠など、後でいくらでも出てくる──面倒なら
「確かに、そう。そうすればミミは助かる。でも──」
ぎゅっと
「──それじゃあ、父さんと母さんはあのまま。何も変わらない」
「な……」
「きっともう、言葉じゃ何も伝わらない。伝えられない。私には……これしかない」
それは不器用な少女の、最後の賭け。だがそれを、ミハイルは
「ハ、ハハハハハ! 本気で言っているのか、あの二人が改心すると!? 子供を容易に売り渡す親だぞ!? 私の目から見ても、あの二人はとっくに狂ってる!」
「……それでも、まだ諦めたくない」
「いいだろう──」
クッと笑いながら、ミハイルは手を差しだす。
「その決闘とやら、受けようじゃないか。安心したまえ、私が勝っても君たちの命を奪うような真似はしない。……後ろのも、それでいいのだろう?」
「ああ。俺は手を出さない」
こくりと頷くユキトに、にっと彼は笑みを強め──
「それなら、公証人は私が務めましょう」
その声は、その場にはいなかったはずの第三者の声だった。アイーゼが声をたどり、目を向け、そして大きく見開いた。
そこに立っていたのは、金糸のような髪を
「イリア……どうして」
「私たちも、先生と一緒に来ていたんです」
「私、たち?」
ええ、とイリアは頷く。
「──会長も来てます。今は伯爵邸に」
イリアの言葉にアイーゼは驚きに顔を歪ませ、だがすぐにこくりと頷いた。
「イリア・オーランド……」
渋面でその名を呟いたのは、ミハイル・フラヴァルトだ。
オーランド伯爵家の介入は、彼も考えていた。だが伯爵は帝都での貴族会議に出席して不在、息子はまだ幼少、娘は取るに足らないと思っていた。だがまさか、その娘がこの場に現れるとは思ってもいなかったのだ。
「安心してください。公証人として、あくまで第三者として参加します。片方に肩入れなどはしませんよ」
イリアの言葉に、ちっ、とミハイルは舌を打つ。
実のところ、決闘の公証人は正式な貴族のみが行えるもので、伯爵令嬢であるイリアではその権利はない。だが多少の貴族の仕来りならともかく、古ぼけた決闘というシステムの、それも公証人という制度など、平民出である彼に知る由もなかった。──もっともイリアは、父に連絡して代行という権利を手に入れるつもりのようだが。
「……まあ、いいでしょう。ですが、ただし、こちらとしても権利は主張させていただきます」
「権利?」
「当然、代理人を選ぶ権利です。私は戦闘など出来ませんからね」
確かにそれは、決闘を行う上で認められたルールだ。
そしてその代理人とは、言うまでもなく──
「雇い主。すまないが、俺は出れん」
「な……」
ゼロ、と呼ばれたスキンヘッドの男は、そう首を振った。そしてその視線をユキトに向けた。
「俺が出るとなれば、そこの男が出てくるだろうからな」
「だが、それでは……」
「かといって、向こうもそれは望んでいない。手を出さんと言ったばかりだからな」
ユキトはただ黙って、アイーゼの後ろで腕を組み、目を閉じていた。それは肯定とも否定とも取れる態度で、ぐ、とミハイルは唇をかみしめる。
「鬼札をぶつければ負けるのはこちら。であれば、実力の
「俺ですかい」
スキンヘッドの男が名を呼ぶと、アイーゼたちの背後、包囲していた兵士たちの一角から、進み出る影があった。
それは、山でアイーゼと戦った男だった。
「こちらはこいつを出す。問題はないな?」
「分かった。それでいい」
こくりと頷いたのは、アイーゼ本人。
かくして、決闘が成立する。
ミミの婚姻を──そして一人の少女の、己の全てを賭けた戦いが。
◆ ◇ ◆
その後は──少しだけ慌ただしかった。
アイーゼが無事だった幼馴染と再会したり、ユキトたちと情報を交換しあったり、決闘の日程が数日後に定まったり。そして男爵夫妻はといえば、無事だったアイーゼたちに声をかけるでもなく、会うなり顔をしかめ、大股で歩き去っていった。
その背を見送るアイーゼに、誰も何も言えなかった。
──そして。
「風邪引くよ」
深夜。その日の夜は、夏の終わりを感じさせる、少し肌寒い夜だった。
ベンチに座りながら、夜空を見上げていたアイーゼが声に振り向く。
そこにはカーディガンを手に持ったシェリーがいた。差し出されたカーディガンを受け取って「ん」といつものようにアイーゼは頷く。
「ねえ、アイーゼ──」
シェリーはアイーゼの横に座り、いつもと同じように、口を開こうとして、
「見て」
と、アイーゼは空を指さした。
そこに広がるのは満天の星空。まるで宝石箱をひっくり返したように、無数の星々が夜空に瞬いている。それは決して一つの色ではなく、その
「この星空、いつかシェリーに見せたいと思ってた」
それは決して、古都では見ることの出来ない光景──見せたかったというのも分かるな、とシェリーは納得しながら、ただ呆然と頷いた。
しばらく、二人で声もなく夜空に
「「ごめん」」
まったくの同時。
重なった言葉に、二人は呆然と目を見開き、お互いに顔を見合わせた。
──そして、同時に吹き出す。
「もう。何でアイーゼが謝るのよ」
「そっちこそ」
ふふっ、と笑いあって、再び夜空に目線を向ける。
しばらく、決して重くはない沈黙は流れて──ぽつりと、もう一度シェリーは口を開く。
「私ね……男爵の罪を問うことが、アイーゼを救うことだと思っていた。男爵の魔の手から救うんだって、そんな風に思ってた。でも──違ったんだね」
ん……、とアイーゼが頷く。
アイーゼは、いつも必死だった。ただ前だけを見ていた。……でもそれは、後ろを振り返った瞬間、心が折れてしまうからだったのかもしれない。
人の心は
「何度も思った。──私が逃げなければ、全部上手くいったのかもしれない。言われた通りに結婚して、お金が手に入って……そしたらミミも、父さんも、母さんも、元の幸せな暮らしに戻れてたのかもしれない」
「アイーゼ、それは違う」
だってそこに、アイーゼはいない。
──自己犠牲は、他人から見えれば尊くも見えるだろう。だが実際には、他人の犠牲によって得た幸福など、誰一人として救えない。
「……私が、私自身を諦められなかったのは、シェリーがいたから」
私? とシェリーは首を傾げ、アイーゼは頷いた。
「私は、ずっとシェリーに救われてた。今もそう。シェリーが来てくれなかったら、私は死んでた」
懐かしむように、思い出すように、アイーゼは目を閉じる。
「寝坊した時は起こしてくれるし、部屋は片づけてくれるし、勉強も手伝ってくれたし、美味しいご飯も奢ってくれた」
「そんなこと……」
「そんなことじゃない」
孤独だった。
故郷を離れて一人、学院ではいつも裏切り者の一族だと、ドブネズミの薄汚れた血統だと
そんな孤独の中で、ただ一人、シェリーの存在だけがアイーゼを救ってくれた。
「だから……言えなかった。こんな弱い自分を見せて、
「──同じだよ、アイーゼ」
最初は、ただの同情だった。かつての罪を、アイーゼと共にいることで
だけど、アイーゼと共に過ごすうちに、後悔と罪悪感が膨れていった。
もっと普通に、同情なんていう始まりじゃなくて、ただの友達として出会えていたらと──そんな風に、何度も思った。
でも、本当はそんなこと、どうでも良かったのかもしれない。
こうして隣に居られる。隣にいて手を繫ぐことができる。どうか無事でいてほしいと願うことができる。
ただそれだけでいい。
「アイーゼ」
二人で座ったベンチの上で、二つの手が重なる。
「勝って。そして必ず、学院に帰ろう」
──そしてその時は、私の話をしよう。
かつての罪と、今隣にいる親友の話を。