──いつも、夢を見る。まだ、私の世界が壊れていなかった頃の夢を──。


「なあ、見えるか、ミミ」

 暑い夏の日、すきを片手に父が言った。

 彼の目線の先には、ラスモアの夏の風景。広い畑に働く人々の姿があった。

「……ようやく、ここまで畑を広げられた。これも全部、家族のおかげだ」

 家族?

 首をかしげる私を、父の大きい手がでる。

「ああ、家族だ。この領地の全員が、俺の家族なんだよ」

「……じゃあ、私の家族でもある?」

「そうだ。だから家族が困ったとき、私たちが手伝ってやるんだ。そしてもしお前が困ったとき、きっと彼らが手を貸してくれる」

 そう言って笑う父の顔を、私の頭を撫でる手を、私は覚えている。


 また、ある日。

「ごめんなさいね、二人とも……」

 母が、ベッドの上で申し訳なさそうに、私たちの手二人の手を握った。

 ……母は病弱だった。母はもとより、ユグライルから避難したより貴族の一人、その忘れ形見である娘だそうだ。

 だが、環境が合わなかったのか、それとも生まれつきのものなのか。病弱だった母は、私が生まれた頃に体調を崩し、ベッドで寝込むようになってしまった。

「……貴女あなたたちが大人になるころには、きっと立派なレディになるわ。そしてきっと、素敵で立派な旦那さんと結婚するの。その時まで、私は死ねないわ」

 おかあさん、とその手を握りしめる。

 弱っていく母の姿を見るたびに、私は、自分のせいだと泣いた。

 でも──。

「それは違うわ、ミミ」

 いつも母は、泣いた私を抱きしめてくれた。

「貴女が生まれてきてくれた時、私がどれだけ嬉しかったか……。貴女もよ、アイーゼ」

 私たち二人を抱きしめながら、母は笑った。

「こんな私に、こんな素敵な娘が二人も出来たの。何も後悔なんてない。──貴女たちは、私の宝物なんだから」

 ──怖かった。

 このまま、母が消えてしまうんじゃないかと。

 だが、母は助かった。父が村に呼び込んだ神父によって治療されたのだ。必死に何度も何度も、教会に頼み込んだ結果だった。

 間に合って良かったと、神父様は言ってくれた。

 父と母の前で笑っていた母は──私たちの姿を見るなり、笑って、そして泣き崩れた。

「見れるのね……。貴女たちが、大人になる姿を、ずっとそばで……」

 はじめて、声をあげて泣く母の姿に、私と姉さんも、そして父さんも泣いた。


「ミミ、見つけた」

 また、ある日。

 小高い丘の上。そこにあるアルニの花畑で、姉さんアイーゼは言った。

「また家出?」

「……だって、父さんが私のプリン取ったんだよ?」

「それは父さんが悪い」

 そう言って、私の横に姉さんが腰を下ろす。

 姉さんとは、肌の色も違う。でも、そんな姉さんが私は好きだった。

 私にとって、姉さんはヒーローだ。どんなピンチにだって駆け付けてくれる。どんなに迷子になっても、最後は私を見つけて、いつもおんぶで連れ帰ってくれる。

 ……でもこんな風に、家出しても絶対見つかるのは、一体何でなんだろう?

「ミミ。私、強くなろうと思う」

「え?」

「ラス爺が言ってた。私には魔法の才能があるって」

 その言葉に、私は目を見開いた。

 ただでさえヒーローな姉さんが、魔法まで使えたら……それもう完全無欠なスーパーヒーローになってしまうんじゃないかって思った。

 すごい、と喜ぶ私の頭を、姉さんの手が撫でる。

 いつもの、私を見る優しい目で。

「私が、ミミを守る。ミミだけじゃない──家族全部を」

 そのとき、一陣の風が吹いた。満開のアルニの花が、風にさらわれて、美しいはな吹雪ふぶきとなって舞い上がる。

 ──その時の光景を、私はきっと一生忘れないだろう。

 忘れられない。

 ぎゅっと握った姉の手の強さも。

 家出から帰ったときの、私を抱きしめる父と母の腕の強さも。


 ──そして、世界が壊れるのは、本当に簡単だった。


「なぜだ……!?

 深夜。父の叫び声に、トイレに起きた私はびっくりして、思わず部屋をのぞむ。

「なんでこんなことが……!?

「貴方……」

 机を叩き顔をゆがめる父と、その腕に心配そうに触れる母。

「領地は……民はまだいい。皇室にけんじようすれば何の問題もない。だがそれでは……私はともかく、お前たちが──!」

「駄目よ、貴方。あの子たちはまだ……アイーゼも十歳になったばかりなのに」

「っ……ぐっ……!

 その時、私は何が起きたか分からなかった。

 だが後に知ることになる。父は、同じ貴族である友人に手ひどく裏切られ、多額の借金を負ったのだと。

 ……そして、父は借金を返すため、方々を駆けまわった。だがそのすべてがうまくいかない。私の家が、リリエス家が、この帝国にとって異物なのだと、その時私ははじめて知った。

 苦闘は続いた。だがその苦闘が、ゆっくりと、徐々に、私たち家族を歪めていった。

 父と母は変わった。貴族としての体面ばかりを気にするようになった。表では裕福なフリ、そして裏では食事にも事欠くまつ。歪んだ現実は、父と母を少しずつ変えていった。

 姉の婚約話が出たとき、もうそこに、かつてのおもかげなど感じられないほどに。

 ……苦しすぎる現実は、人を歪めてしまう。どんなに優しい人も、どんなに正しい人も、金や権力によって簡単に歪められてしまうように。

 私の知っ愛している父と母は、もうそこにはいなかった。

(……どうして?)

 私の宝物。それさえあればいいと思った。金も権力もいらない。貴族なんてどうでもいい。父と母が笑って、姉さんが手をつないでくれる、それだけあれば他に何もいらなかった。

 ……それが、こんなにも難しい願いだなんて知らなかった。

 だから──。

「私と結婚すれば、だんしやく家はもう貧困に苦しむことはない。そうすれば……君の父と母も元に戻るかもしれないよ?」

 唐突に現れた救いの糸を前に、私は迷った。

 すがりつかなかったのは、プライドのためじゃない。ミハイル・フラヴァルトと名乗った、その男の目を見た瞬間に悟ったのだ──この人だけは信用してはならないと。

 だがそれでも確かに、彼の言うことは一理あった。

 だが迷って結論を出せない私に、彼は言った。

「それならこうしよう。君が認めれば、お姉さんが貴族として独立できるように私のほうでも手伝おうじゃないか」

「……断れば?」

「その時は……そうだねぇ」

 ニィ、と彼は笑った。

 吐き気すらももよおすほどの、しゆうあくみで。

「私は平民だが、中央へのパイプはあるんだよ。どう思う、ミミ・リリエス」

 ──理解してしまった。その言葉の意味を。

 彼は言っているのだ。婚約を断れば、お前の姉アイーゼのやっていることを徹底的に邪魔してやると。

 ……元より、アイーゼが大会で優勝したとしてもしよせんは学生のそれ。貴族としての独立が認められる可能性は低い。その上、この男が邪魔をすれば……可能性は零になるかもしれない。

「式は半年後にしよう。実に楽しみだ」

 そう言って去っていく彼の姿を、私はただ、黙って見送るしかなかった。

(……嫌だ)

 結婚したくない。気持ち悪い。あんな男と生涯を共にするなんて地獄だ。でも。

 ──私の、せいなんだ。

 姉さんアイーゼの言う通り、父も母も見捨てて、二人で手を取って逃げればよかった。誰の手も届かない遠い場所に。

 それでも……ああ、それでも。

 諦められなかった。

 捨てられなかった。

 ──忘れられなかった。

 過去が、思い出が、それでもまだ私の足を縛り続けている。これはきっと、そんな私のわがままへのむくいだから。

(そう、なんだ)

 ──私が犠牲になるなら、全部、元に戻るかもしれない。


   ◆ ◇ ◆


 リリエス家の片隅にある、私室。庭へと向けていた目を閉じ、アイーゼは小さく息を吐いた。

 ──私は今、この部屋に軟禁されている。

 理由は簡単だ。昨日のこと、父の執務室に呼び出された私は、ミハイル・フラヴァルトと初めて会った。

 金髪へきがん、中肉中背、背は高い。一見すれば優男だが、片目にかけたモノクルの向こうに見える目は、ひどく気に入らなかった。

 ……いや、それは先入観のせいだろうか。ミミの日記を読んだから。

 すべてが書かれていた。ミハイル・フラヴァルトが金によって婚姻を進めたこと、そして最後には、私の存在を理由にミミを脅迫したことも。

(私が、ミミを守る)

 たとえ何を犠牲にしても。

 だから顔を合わせてすぐ、私は言った。

 ──貴方に決闘を申し込む、と。

 しかし冷静に考えて、当人も、そもそも父も認めるはずもない。

 激怒した父は私にちつきよを命じ、私は自室で軟禁されることになった。当然、ミミと会うことも出来ない。

 それだけのことを言った自覚はあるし、あまりにも無茶苦茶なのは分かっていた。

 決闘など通るはずがない。そもそも相手はまだ貴族ですらない。けれど私にとって、出来ることなどその程度しかなかった。

 もし──ここにいたのが私でなく、学院の友人たちだったら、一体どうしただろう? もっとマシな方法で、この状況を変えられたのかもしれない。

 ふと急に、見慣れたはずの自室が、ひどく広く見えた。

「ミミお嬢様の式は、一週間後に行われるそうです」

 部屋の扉の前に立ったランドさんが、無感情にそう告げた。

「ランドさんは、結婚には賛成?」

「……私は執事ですから。口を挟む立場にはありません」

 予想通りの答えに、そう、とただ返す。

 責める気持ちにはなれなかった。

 ランドさんの父は、かつて私の祖父と共に祖国から逃れてきた従者だった。異国の地で、貴族ですらなかった彼が帝国に安住できたのは、祖父の働きかけによるものだったという。

 時代を超えて、血と共に受け継がれてきた恩義を、彼はリリエス家に返し続けている。

 それはじゆばくにも似ている。大した給金もなく、こきつかわれ続ける彼を見て育った私には、そう思えた。

 それでもなお尽くし続ける人を、恨むことなど出来るはずがない。

(呪縛……のろい、か)

 ふと、窓の外に視線を向ける。

 ──これは呪いなのだろうか。

 かつて故郷を捨て、敵国に寝返ったリリエス家。

 誇らしかった父も、優しかった母も、何かに呪われるように変わってしまった。

 ドブネズミとさげすまれる、まさしくその言葉の通りに。お前たちはでいすすらねばならないと、そう縛られるように。

 全てを捨てて逃げてしまえたらと、そう思ったこともある。

 きっと、出来なくはないのだろう。でも──。

「……アイーゼお嬢様」

 ふと、ランドさんの声に視線を送ると、眼が合った。

「?」

 不意に、違和感を感じた。

 見慣れたはずのランド・ラネスという人が、まるで別人であるように感じたのだ。彼は言いよどむように、一瞬目をそむけ、そして再び私の眼を見て口を開く。

「もし、本当に戦う意思がおありなら……相手を知ることが先決であると、私は思います」

「相手を、知る……? ミハイル・フラヴァルトを?」

「そうです。敵を知るもの、百戦を制すと申します故」

 それはあまりに彼らしくない言葉だった。

 言い方は悪いが──彼はこれまで、リリエス家の問題には決して触れずにいた。決して自分の立場を超えることなく、ただ奉仕してきた。そんな彼がなぜ今、そんなことを言ったのか。

「……何か、心当たりがあるの?」

「ございます」

 彼は、迷うことなく頷いた。

 いわく──ミハイル・フラヴァルトとの婚約に前後し、村に見慣れぬ男たちがうろついているのだという。といっても、多くて週に一度程度らしいが……。

「ミハイル・フラヴァルトはおそらく、何らかの理由があって、リリエス家に婚約を申し込んだはず」

「その目的に……その男たちが関係していると?」

「おそらくは。そしてそれを、かのじんは隠しておられる」

 アイーゼは一瞬、言いよどむ。

「……それを探れと?」

 彼は無言のまま、眼を伏せた。

 とどのつまり、弱味を探り、そしてそれを使えということだ。どうやって使うかは言うまでもない。

(手段を選ぶ余裕は……私にはない)

 その秘密が何なのか、分からない。

 分からなくても前に進まなければならない。

「そう言うということは、ここから私が逃げても見逃してくれる……そう考えてもいい?」

 ランドさんは、何も答えず、顔を伏せたまま微動だにしない。それが彼の答えだった。


 ランドが部屋から出て行った後。

 私服から学院の制服に着替え、鏡の前に立つ。

 この服を選んだ理由は単純だ。実は学院の制服は軍服の一種であり、耐刃、防弾に加えてはつすい性やなんねん性までも兼ね備えている。つまるところ、これは戦闘服でもあるのだ。

 鏡の向こうの自分を見つめ、よし、と頷いた時。

 ──鏡台に置いたままになっていた、うすべにいろの押し花に気づく。

(ミミ……)

 いったい、私に何が出来るのか。

 この道の先にあるものを、今の私には何一つ、予想することさえ出来なかった。