父に案内されたホテルに、アイーゼは思わず目をいた。

 アイーゼでも知っている、古都でも有名な高級ホテル。急速な発展と高層化が進む都心部でも、三十階を超える建物はここだけだ。

「こんなホテルに泊まるお金、どうやって──」

「まあまあ、いいじゃないか。ここのレストランに予約を取っている。さあ行こう」

 ニコニコと笑う父に、アイーゼは悪寒を加速させた。

 リリエス家はいわゆる貧乏貴族だ。こんなホテルに泊まる金などありはしない。だが父の表情は、どこか余裕を感じさせた。

「アイーゼ、ようやく来たのね」

 神経質そうな女性の声。聞きなれた声だ。

 フェニア・リリエス。私の母だ。肌を白く染める濃いめの化粧に、高級そうなアクセサリーをいくつも身に着けている。

「……お母さん」

「母様とお呼びなさいと言ったでしょう? まったく……学院は何を教えているのかしら」

 思わず、表情がゆがむ。

「貴族の間でも高名な学院というから通わせたのに……聞けばずいぶんと、他とは違う学院だとか。最初から知っていれば……」

「学費は自分で稼いでいる。文句を言われる筋合いはない」

「だから何だというの? 貴族の娘として──」

「まあまあ、いいではないか。久々の再会なのだから、今はきゆうかつじよそうじゃないか」

 父の言葉に、母は「あなたが言うなら」とほこを収める。

 その母の表情に──やはり、浮かぶのは怒りなどではなかった。ただ悲しみに胸がけられて、その痛みに泣きたくなる。

 案内されるがまま、ホテルのレストランで席につく。

 父が「それでは」と手に持ったワイングラスをかかげた。

「久々の再会と、アイーゼの大会優勝を祝って」

 乾杯、という父の言葉に、アイーゼはうつむいた。

 目の前には、高級そうな料理が並んでいる。

「どうしたアイーゼ、食べないのか? せっかくの料理だ、味わうといい」

「……その前に聞いておきたい。ここのお金はどうやって?」

 そんな金があるはずがない。

 人は言うのだ。貴族なのだから金持ちなのだろうと。いい暮らしをしてきたのだろうと。……幼い頃、自分と妹の食事がまつなパンとスープばかりだったと言えば、彼らはどんな顔をするだろうか。

 リリエス家の収入源は、小さな領地ひとつ。微々たる収入でしかない小さな土地に、未だにしがみつき続けている。

 その上、見栄を維持するために借金を重ねるので、家計は火の車だ。

 それを知っているから、アイーゼは問わざるをえない。

「こんなホテルに泊まる金も、こんな食事をする金も、うちにはないはず。まさかまた借金を──」

「ははは、そんな心配は無用だよ」

 父は笑って、ワイングラスをかたむけた。

 いつも余裕のない母も微笑し、料理を口に運ぶ。

 ……おかしい、とアイーゼは眉間をゆがませる。この余裕は何なのだと。いつもならげきこうしてきてもおかしくないのに。

 思い浮かんだのは、元婚約者の男だった。

 いや、だが、それはありえない。

 イリアからは正式に処理が終わったと聞いたし、婚約が解消されたことははくしやくにも告げられた。それを聞いていないということはないだろう。父はそのことで謝罪までもしたはず。

 では一体……。

「貴女がワガママを言って、婚約を勝手に解消したことには肝が冷えたわ」

「……私から婚約の解消を申し出たわけじゃない」

 たとえそうしていても、誰も耳を貸さなかっただろう。貴族の婚約とはそういうものだ。

 あの男は、自分から婚約を解消したのだ。

 ……イリアや伯爵、そしてユキトには、どれほど感謝しても足りない。

「でもそのお陰で、伯爵との繫がりが出来た。そのことは、良くやったと思っています」

「……イリアを利用するつもりなら、絶対に許さない」

 カッと頭が白くなって、語気も荒く言い返す。

 返さなければならない恩が山ほどある。一生かかっても返せないぐらいの恩が。それだけじゃない。イリアは、自分にとって大切な後輩で、友達だ。そんなことを許せるはずがない。

「安心なさい。そんなつもりはありません。オーランド家とは派閥も違いますからね」

「ああ、派閥といっても気にすることはない。お前はお前の友人を大切にしていいんだよ、アイーゼ」

 そう言って、父は口元をナプキンでき、私に笑いかけた。

「アイーゼよ。私たちはもう、お前に結婚しろとは言わない。だがお前は長女じゃないか」

「何を言われても、私の結論は変わらない」

「リリエスの家名をけがすつもりか?」

「……家名なんて、とっくに穢れている」

「違う!」

 突然、ダンッ、と父が机をたたく。テーブルに乗せられた食器が音を立てたが、幸いにして床を汚すことはなかった。

「父が故国を捨てたのは、あろうことか、愚かな連中が王家に反逆したからだ! その上に国を滅ぼした! 我が家は賢明な選択をしたのだ!」

…………

 何度となく聞いたセリフ。

 この話題になれば、父は必ず激怒する。分かっていながら触れてしまった自分の失敗だった。

 周囲の注目を察してか、母がせきばらいをすると、父は気まずそうな顔でテーブルを叩いた手を下ろす。

「ともかく。私としては、もうお前に結婚を強いるつもりはない。だが家には帰ってきてほしい。ミミもお前を待っている」

「ミミ……」

 不意に告げられたその名が、口からこぼれ出た。

 絶対に守ると誓った、たった一人の妹。

「……ミミは、どうしてる?」

「元気に過ごしているとも。あの子も、お前の祝福を待っているはずだ」

「……?」

 何の話か分からずにアイーゼが首を傾げると、父は「ああ」と思い出したかのように呟いた。

「そういえば言ってなかったな。あの子の結婚が決まったのだよ」

「──は?」

「このホテルも食事も、その婚約者が持ってくれている。いやあ立派な青年だよ、彼は」

 ──何を言っているんだ、この人は。

 ぼうぜんと口を開く私に、母が、ささやくように告げた。

「あなたの結婚が流れたでしょう? どうしたものか困っていたのだけれど……何事もりんおうへんにいかなくてはね」

 つまりそれは。

(……わたしの、せいで?)

 ガツン、と、頭を殴られたような気がした。


   ◆ ◇ ◆


 アイーゼが訓練を休んだ。

 それだけならまだいい。寮の彼女の部屋はもぬけの殻で、その行方について知る者は誰もいなかった。財布などは持ち出しているのに携帯端末フイジフオンは部屋に置いたままで、連絡もつかない。

 その状況が一日、二日と過ぎた時だった。

 ドアベルの音に自室の部屋の扉を開けると、そこには一人の少女が立っていた。

「シェリーさん?」

「ユキト君……ごめん、ちょっといいかな?」

 どう見てもやつれた顔をしたシェリーさんが、そこにいた。何より、彼女がホテルの部屋まで来るなんて初めてのことだ。

 部屋に通した彼女は、ソファーに腰かけて、深く息を吐いて──そして俺を見た。

「アイーゼの居場所が見つかったの」

「……無事なんだよな?」

「ええ。アイーゼは、自分の故郷に戻ったそうよ」

 故郷。

 アイーゼの出身は確か、古都の近くにあるという辺境の村だと聞いたことがある。

「ただの里帰りってことか?」

 長期休暇だし、それもあるかと聞いた俺に、彼女は「いいえ」と首を振った。

 そして俺の目の前に、胸ポケットから二枚の写真を取り出した。

「これは……?」

「こちらはアイーゼの妹、ミミ・リリエス」

 え、と思わず目を見開く。

 写真に写っているのは、白い肌をしたツインテールの少女だ。

「姉妹で肌の色が違うのか? ひょっとして義理の姉妹とか──」

「正真正銘、血が繫がった妹で間違いないよ。たとえ同じ血を継いでいても、かつしよくの肌になるのは三割を切るみたいだしね」

 ……ひょっとして遺伝ですらなく、魔法的な何かが関わっているのだろうか?

「それでこっちが、ミハイル・フラヴァルトという男よ」

 誰だ? と首をかしげる俺に、彼女はこくりとうなずく。

「彼はこのミミ・リリエス嬢の婚約者。……それも、今月中に式を挙げる予定の」

「……それで、アイーゼさんが実家に帰ったのか」

 ええ、とシェリーさんが頷いた。

(しかし……)

 写真を見る限り、ミミ嬢は恐らく十代前半、十三歳ぐらいの少女に見える。対してミハイルという男は、どう見ても二十代後半だろう。

「こういう歳の差は、貴族では普通なのか?」

「昔ならともかく、今はさすがにそんなことはないよ。違法ではないけど、慣例的には少し早すぎる」

 やはりそうか。ただとはいえ、あくまで慣例の話だ。

 対して、シェリーさんはミハイルの写真を指先で叩く。

「ミハイル・フラヴァルト。新進気鋭の銃器メーカー、フラヴァルト・インダストリーの創業者。かなりやり手の起業家アントレプレナーね」

「商人か」

「こういう資産家が貴族と結婚して爵位を得ようとすることは多いの。……でもそれなら、リリエス男爵家のような家を選ぶのはおかしいんだよ」

 シェリーさんいわく。それは貴族に関する税が関係している。

 かつて貴族は法の上にあり、税金を納める必要がなかった──貴族免税権というやつである。だが時代が変わり、『貴族解体』とも称される政策の中で、貴族には地税と相続税が課せられることになった。

 貴族の収入のほとんどは、しようえんと呼ばれる広大な領地の地代と農業じゆんだ。だがそこに多額の税がかけられたことによって大打撃を受けることになる。

 もっとも貴族たちがそれを許したのは、せきしん皇帝による中央集権化と、せんけつ皇帝によるだいしゆくせいによって、貴族たちの力が大きくがれていたからであるが。

「普通、商人が狙うのは領地を国に返還し、それなりの爵位があるのにこんきゆうしている貴族。でもリリエス家はそうじゃない」

「領地もあるし、爵位も低いか……」

 それにあの家は、かつてユグライルを裏切り帝国についたことで、他の帝国貴族からもつまはじきにされている。確かに、選ばれる理由がない。

「それなのに、私が調べたところでは彼の方から接触したとある。……フラヴァルト社は黒い噂も絶えない。この婚姻には、きっと何か裏があるはず」

 だから、とシェリーさんは俺に目線を向けた。

「アイーゼは親にも裏切られて、あの子には妹しかいない。……だからユキトくん、私に協力して。この結婚は必ず止めないと──!」

「──断る」

 え、とシェリーさんが動きを止めた。

 立ち上がり、窓の外へ目線を向ける。高層階から見下ろす古都の光景は、あまりにも前世のそれに似ていて──ここが異世界だということを忘れさせる。

 だからこそ、俺は思う。

 この世界が単純な善悪で片づけられる世界でないのだと。

「もし、裏がなかったら?」

「え……?」

「だってそうだろう。もしかしたら、政治的なおもわくなんてない単純な恋愛結婚かもしれない。ただの一目ぼれかもしれない。歳の差って問題はあるかもだけど」

「……本気で言ってるんですか?」

「俺は貴族には詳しくない。でも君の言うことが全部正しいって、そう言えるこんきよはあるのか? 横から口を挟んで全部ぶっ壊して、それでアイーゼさんたちが幸せになれると、君は断言できるのか?」

…………

「それに、シェリーさんも貴族だろう。そんな横槍を入れて、立場は大丈夫なのか? もし君が無茶をしたら、悲しむのはアイーゼさんじゃないのか」

 俺の言葉に、彼女は答えなかった。

 きっと図星なのだろう。貴族の家の結婚に、よその貴族が口を挟むなんて、どういう結果を生むかは俺だって分かる。

「なあ、何を焦ってる?」

 黙り込んだ彼女は、顔を伏せて、ぐっとスカートの上で両手を握りしめた。

 窓をひとつ、ふたつと、あましずくが濡らす。にごった空から降り始めたさめは、すぐにその足を強めて、あっという間に雨音を満たしていく。

 その雨音に──ぽつりと言葉が混じった。

「──私のせい、だから」

 彼女はうつむいていた顔を少しだけ上げた。

 くぼんだ目。少し荒れた髪。しようしてはいるが、きっと眠れていないのだろう。どこか疲れ切った顔で、まるでちようするように彼女は笑った。

「私はずっと……彼女を、あの子と重ねて見てた……」

「あの子……?」

 俺の問いに答えはなかった。いや、彼女は俺を見てすらいなかった。

「全部自分のためだった。同情だった、つぐないだった……だから見透かされたんだ。アイーゼを、あの子自身を見ていなかったって……だから──!」

 しわの寄ったスカートに雫が落ちて、淡いシミになる。

 それまで寝そべっていたクロが、ぴくりと耳をそばだてて立ち上がると、「くぅん」と小さく鳴いてシェリーさんを見上げる。それに、彼女はようやくはっとして顔を上げた。

「……何を言ってるのかはよく分からないけど」

 ただ、それはきっと、シェリーさんの抱えてきた罪なのだろう。

 だからこそ、彼女は誤解を解けなかった。──あるいは、それもまた一面の真実であったのかもしれないから。

 だけど。

「俺は二人の関係がそれだけなんて思えない。思いたくない。シェリーさんは違うのか?」

 俺の言葉に、彼女は目を見開いた。

 顔を俯かせ、ぐっと唇をかみしめて──そして、首を横に振って涙のあとぬぐった。

「……私は、アイーゼに会いたい。どんな目に遭ってもいい。もし、アイーゼが今、心細い思いをしてるなら……今度こそ、あの子で味方でいたい」

 ああ、と頷く。

 今度こそ、しっかりと顔を上げた彼女は、真っすぐに前を見ていた。

「その話、私も混ぜてもらっていいですか?」

 不意に横から声が割って入り、俺はにっと笑みを作った。ずっとそこに居て、入るタイミングをうかがっていたのは分かっていた。

「イリア……」

「細かい事情は聞きません。でも……お二人の関係は、私の憧れなんです。だから、そんな風に悲しいことを言わないでください」

「……うん」

 頷くシェリーさんに、イリアが俺へと視線を送る。

 こくりと頷き──「ワウッ」とクロがえた。自分をのけものにするなと言うかのように。そんなクロが吹き出した美少女二人にでられるのを、ちょっとうらやましく思いつつ、俺はもう一度窓の外を見た。

 ……雨は、まだ止まない。


   ◆ ◇ ◆


「おかえりなさいませ、アイーゼお嬢様」

 小高い丘の上。小さな屋敷の前で一人の男性が頭を下げる。

「うん、久しぶり。ランドさん」

 ランド・ラネス。リリエス家のれいだ。久々に見たその姿は、少し、しらが増えたようにも見える。

 家令といっても名ばかりで、家は別にあるし、畑も持っていて普段はそちらで過ごしている。リリエス家からの給金だけでは食べていけないからだ。

「旦那様からは、数日遅れると連絡を受けております」

「うん。……ミミの婚約者と話してくるって言ってた」

「左様ですか」

 荷物を預かりつつも頭を下げる彼に、変わっていないなと、そう思った。

 彼はリリエス家の事情には、不干渉を貫いている。

 私の味方をしてくれるわけではない。ただ何も言わずに、私たちの面倒を見てくれる。敵でも味方でもないけれど、家族がおかしくなってなお私たちが生きてこれたのは、たぶん彼のおかげだ。

「ミミはどうしてる?」

「ミミお嬢様でしたら、お部屋に。ですが、お着替えとみの準備をしておりますので、ぜひ先にそちらを」

「……わかった」

 本心では一刻も早く妹に会いたい。けれど、旅で汚れた格好のままで会うわけにいかなかった。

 はやる心を抑えながらも、案内されるままに歩を進めた。


 扉を叩いたノックの音に「はい」という返事が聞こえ、私は扉を開く。

 屋敷の隅、わたしの部屋の隣にある妹の私室。

 その部屋は、何も変わってはいなかった。とてもシンプルで、物も少ない。私物なんてベッドに置かれた古ぼけたぬいぐるみぐらいだ。

「……おねえちゃん?」

 机の前に置かれた椅子から立ち上がり、ミミはぜんとした顔で、いつものように私を呼んだ。

「ひさしぶり、ミミ」

「おねえちゃん──!」

 胸に飛び込んできた妹を受け止め、そして抱きしめた。

「背、伸びた」

「当たり前だよ……」

 いつの間にか背が伸びて、もう子供とはいえないほどに成長していた。ほんの少しの寂しさを感じながら頭を撫でると、ミミは顔をうずめるように頰ずりした。

(こういうところは、変わらない)

 そうだ。ミミはまだ十四歳。まだまだ子供なのだ。

 ──あるいは、そうであって欲しいという、私の願望でしかないのかもしれないけれど。

「お茶、用意するね」

 すっと身体を離し、笑ってそう言った妹に、「うん」と私は頷いた。

 ふと、妹が向かっていた机が目に入る。

 その机には、一冊の手帳が置かれていた。

 ミミは色んな話を聞きたがった。学院の話、友達の話、大会の話──私が予選で優勝したという話に、ミミは嬉しそうに笑いながらあいづちを打つ。

 ──だが、気づいてしまった。

 相槌を打つミミの顔に、どこかかげがあったことを。

「……ミミ」

「? なに、おねえちゃん」

「ミミが、結婚するって聞いた」

「そうだよ。相手はすごいお金持ちだって。すごいでしょ」

「貴女は、それに納得している?」

 聞きたかったのは、それだ。それだけのために、帰ってきた。

 ……少なくとも結婚するのなら、こんな貧乏な生活とは無縁になれる。確かに父の言うことも、母の言うことも、間違っていない。

 結婚したほうが、ミミは幸せになれるかもしれない。

 愛なんてなくとも、やがて育まれるものなのかもしれない。

 それを本当にミミが望むのだとすれば、私は全力で応援する。けれどもし、ミミがそれを望まないならば──

「うん」

 ミミは笑顔のまま、頷いた。

「ミハイルさん、優しい人だよ。結婚したら自由にしていいって言ってくれたし。こんな良い条件もないかなって」

「……本当に?」

「本当だって。もう、心配しすぎだよ、お姉ちゃんは」

 笑いながらカップを持ち上げるミミに「そう」と私は頷いた。

「あ、式にはちゃんとお姉ちゃんも出てよね!」

 頷きながら……そう言って笑うミミの、右手で左手をさする仕草を、私は見逃さなかった。

 ミミが噓をつくときの、いつもの癖を。


 ミミの部屋に泊まることになったわたしは、一緒にお風呂に入ろうという言葉にあらがえず、体を洗いあったりと騒がしい時間を過ごした。

 ベッドに腰かけ、色んなことを話して──空が夜に染まりだした頃、ノックの音が部屋に響く。

「──ミミお嬢様。お戻りになりました旦那様が、お呼びでございます」

「え?」

「……ランドさん。それはミミだけ?」

「はい」

 間髪無く扉の外から返ってくる声に、ミミと目が合う。「こんな時間に?」と首を傾げつつも、ミミは立ち上がった。

「それじゃ行ってくるね。あ、帰っちゃダメなんだから!」

「ん」

 また後でね、と扉をくぐりながら何度も注意してくる妹を苦笑しつつ見送って、アイーゼは天井をあおいだ。

(ミミは、噓をついている……)

 その結婚が、本当は望まぬものであることは確かだ。

 確かだとして……なら、どうして噓を?

(私は……どうすればいい?)

 結婚に反対するのが正しいのか。本当に、ミミがそれを望んでいるのだろうか?

 ふと視界の端に、テーブルの上に置かれた一冊のノートが映った。

(あれは……)

 歩み寄って手に取ると、それは、古ぼけた一冊のノートだった。

(交換日記……)

 どうしてここに。まだ持っていたのか。そう疑問が湧きつつも、懐かしくなってページをめくった。

 つたない子供の文字で書かれた文章が、交互に並んでいる。赤は自分、青はミミだ。

 内容は、本当になんでもないこと。その日に見たもの、聞いたこと、ご飯の話や天気の話。

 毎日顔を合わせているのだから、その時に話せばいいのに、交換日記に書くからと言い渋っていたっけ。

 こんなことあったな、と思うものも、こんなのあったっけ、と思うようなものもあって。

(この頃は……幸せだった)

 まだ、家族が壊れていないころ。

 ふと──かさりと、ノートの合間から何かが落ちた。

(これって……押し花?)

 うすべにいろをした、その花を見た瞬間。

 記憶が……おぼろで、色あせて、記憶の片隅にしかなかった記憶が、いろあざやかに脳裏によぎる。

 あれは、そう。たった一度だけ、家族でピクニックに行ったとき。大泣きしたミミと私を慰めるために、珍しく母が外に行こうと行った時。

 今でも覚えている。一面に咲く薄紅色アルニの花が、風にさらわれて空に舞う光景を。

 お互いの顔が土だらけになって、なぜかおかしくて大笑いしあったことを。

 そんな、なんでもない……はるか遠い日々の記憶を。

 そして。

 最後のはずのページに……まだ、続きがあった。私の知らない続きが。