子供の頃は、善も悪も知らなかった。

 誰だってあるだろう。知らずにやったことで、誰かを傷つけたことが。

 それは善でも悪でもなくて、ただの無知だ。だが──時に、そういう無知が、決して許されない罪を生むこともある。

「僕ね、将来は医者になることが夢なんだ」

 自分と同じ年頃の少年が、くちぐせのように言っていた。

 友達、と言っていいのかは分からない。みちばたで倒れていたから拾った少年だった。

 当時、帝国は今ほどゆうふくな国とは言えなかった。戦後から二十年、急速に復興を果たしはしたが、行き倒れる者が皆無だったわけでもない。

 幸いにして、少女は貴族だった。

 行き倒れた少年をかいほうし、世話を出来るほどには裕福だった。

 何より少女の両親は、貧困層にも食事を分け与え、教会に高額な寄付をするほどの篤志家だった。

 ただ、少年には変わったところがあった。

 風呂が嫌いなことだ。

 水に入るのも嫌がり、日々、どこかに隠れて身体をくだけ。

 最初は気にならなかったが、共に過ごす日々が一週間、一カ月、半年と増えるごとに、どうしてそうなのかが気になっていった。

 元来より、彼女は好奇心旺盛な子供だった。何でも「どうして」が気になる。

 どうして空は青いのか。どうして世界は生まれたのか。誰も答えられない「どうして」が気になって、眠れない日すらもあった。

 だから気になったのだ。

 どうして水が嫌いなのかと。

 そして、見てしまった。陰に隠れて身体を拭く少年の背中を。その背中にきざまれた、不思議なもんようを。

 彼はすぐに隠したが、やはり少女は気になった。どうしてそんな紋様があるのか、一体それは何なのか。だからいた。身近な大人に──つまり、父に。

 父は最初こそほほましに娘を見ていたが、やがて話がその紋様の詳細にうつると次第に顔をこわらせていった。

 その日の夜。叫び声が聞こえた気がした。幽霊じゃないかと最初は怖かったが、すぐに寝てしまった。

 そして次の日の朝。少年は居なかった。

 両親はただ、彼は遠くに行ったと告げた。

 ──彼が死んだのだと、いや両親に殺されたのだと気づいたのは、それからしばらくの月日が経ってからだ。


 それこそが罪。

 シェリー・レレイのおかした、許されざる最初の罪だ。


   ◆ ◇ ◆


「この愚か者が!」

 怒号と共に殴り飛ばされた少年が床に転がる。

 それを見下ろす貴族の男は、それでもなおふんまんやるかたないというかのように、自分の執務机に拳を振り下ろした。

「下手を打ちおって! この件を揉み消すのに、どれほどの金が必要だと思っている……!」

「……申し訳ありません」

 殴り飛ばされた少年──ラバルト・ファーメウスは、自分の頰を押さえながら謝罪の言葉を口にした。

 彼が警察にこうりゆうされ、しやくほうされたのがついさっき。拘留といってもたった数時間、しかも貴族子息ということで留置所とは思えないような待遇ではあった。だがものに触れるような警官たちの目線はラバルトの神経をさかでし続けた。

 ──帝国は法治国家である。法を犯せば貴族であろうと罪は免れない。

 だがそれは表向きの話である。ラバルトの犯した罪は飲酒と暴行、しかも暴行した相手もユグライル人である。そうなれば司法にも多少のそんたくが生じ、けんということで処理されて終わりだ。

 高位貴族ともなれば、たとえユグライル人を殺しても見過ごされることすらある。もちろん法律の上では重罪だが、証拠不十分で証人すら出てこず、ロクに捜査もされずに揉み消されるのだ。

 彼の父が言う『下手』とは、揉み消すことすら出来ずに逮捕されたことそのものにある。上手くやれるのなら、何をしようが好きにしろという意味だ。

(……くそッ!)

 今回、ラバルトに法の裁きは下らなかった。だが貴族の間で流れる噂はそうではない。貴族のちやくなんがくだらない罪で逮捕されたとなれば、その能力に疑問を持たれるのも自然の流れ。これが帝都にまで伝われば最悪、廃嫡ということもありえる。

「……父上。今の学院は毒されています」

「またその話か」

 ふん、とラバルトの父は皮張りの椅子に腰かける。

「お前の言葉を信じ、マスコミを使うのも許してやった。多少の金も融通してやった。だが結果はどうだ?」

 ふん、と机の上に置いた新聞記事を取り上げて顔をしかめる。

「赤っ恥をかかされた連中は、今頃はらわたが煮えかえっているだろうよ。わしがいなければ、明日の朝刊を飾ったのはお前だったろうな」

 ぎろり、とその眼をラバルトに向ける。

 これ以上の失態は許さん、という意思表示である。

 ──正直なところをいえば、ファーメウスはくにとってユキトの存在などどうでもいい。問題はその背後にいるオーランドはくしやく家だ。

 オーランド家はかつて、ファーメウスよりも家格が下であった。だが『貴族解体』以降、商業で成功したオーランド家は急速に力をつけ、今では目の上のたんこぶとなっている。

 ぐんばつ貴族であるはずのファーメウス伯爵家が貴族派閥寄りになったのも、すべてはオーランド家に対する反発からと言っても良い。

 ユキトという平民の存在を知った時、ファーメウス伯の目には、彼が明らかにオーランド家の急所に見えた。

「──父上!」

 ラバルトが立ち上がり、机に身体を乗り出す。

 一瞬不快そうに顔をゆがめたファーメウス伯であったが、ふと表情を変える。目の前にある自分の息子の目に、とても無視できないぞうの炎を見て。

「奴を許してはならないんです! 事は学院だけの話ではない! 奴はいずれ古都に、いや帝国にわざわいをもたらすに間違いない!」

 ──こうなった原因は何か。

 ラバルトがそう考えたとき、やはりすべてはユキトに帰結した。

 彼が学院に来てから全てが狂った。イリア・オーランドも、シェリー・レレイもだ。きっとようじゆつか何かで裏から全てを操っているに違いないと。

 歪んだ思考で辿たどいた歪んだ結論。

 息子の内面を正確にはかったファーメウス伯は「ふむ」と脳内で冷酷な算盤そろばんを弾く。

(……確かに、野放しにしておくべきではないか)

 ラバルトはファーメウス家の長男。いずれ家を継ぐ身だ。廃嫡して次男に継がせるのも手であるが、やはりそうなると貴族の評判にさわりが出る。

 息子に問題があるとして、その原因を排除してしまえばいずれ正常に戻るだろう。

 そして何より。

(あの男とオーランド伯の娘は恋仲らしい)

 その相手を排除すれば、オーランド伯を揺さぶることは容易たやすい。しかも平民ときた。警察の手を引かせることも難しくない。

「いいだろう」

 ニヤリとファーメウス伯はしゆうあくな笑みに顔を染めた。

 彼らはまだ知らない。それだけは決して手を出してはならない、どくまんじゆうであったことを。


   ◆ ◇ ◆


「やりました、先生!」

 目を輝かせて俺にそう報告したのはアルネラ・ディルモント。先日、集団戦のメンバーに入った桃色髪の少女である。

「見てください! A判定です、A! わたし、こんな成績取れたの初めてで……!」

「うん、俺も見てたけど、よくやったよ」

 そう言って彼女がかかげるのは、期末試験の成績表──中でも実技試験の枠である。

 戦術科の期末試験は自由選択式であるのだが、今回、アルネラが挑戦した試験は魔獣とうばつ試験だ。数ある試験形式の中でも、実地ということもあって非常に難度が高い。

「討伐試験なんて初めてで、最初は不安ばっかりだったんですけど、先生の言う通り始まったら落ち着いてきて、いつも通りやればいいって思って、だから──」

「うんうん、良かった良かった」

 いつもは大人しめの彼女がこうまでじようぜつになるということは、よほど嬉しかったのだろう。

 だがそこで、アルネラは「あ」と動きを止めた。

 ようやく、周囲の状況に気づいたらしい。

 ──俺たちがいるのは生徒会室。今日はフルメンバー出勤中で、イリアにシェリー会長、レーヴ君の姿もある。だが全員が実に忙しそうだった。

 それもそうで、今日が学期最終日、今日中に終わらせないといけない仕事が山のようにある。ということで、俺も珍しくその手伝い中だ。

「その、忙しそうですよね、すみません」

「いいよ別に。俺は力仕事だけだし、今は休憩中」

「あ、そうだ。その、夏季休暇中の訓練についての申請を──」

「俺から渡しとくよ」

 彼女の抱えていた資料を手に取ろうとして、横から伸びた手にさらわれた。

「それはこっちでやる。お前は大人しく座ってろ」

 そう言ってじろりと俺をにらむのはレーヴ君だ。いつもと違う眼鏡姿だが、その奥に見える目はひどく疲れていた。

「大変そうだなぁ、レーヴ君」

「誰のせいだよ……!」

 え? と首をかしげる俺に、ワナワナとレーヴ君は手を震わせ、

「計算は間違える、文字は書き間違える、適当に散らかして資料を失くす……!」

「うっ」

「……わかったらそこに座ってろ」

 ハイ、と大人しく腰を下ろす。

 手伝ってる? 邪魔してるの間違いでは? と言わんばかりのアルネラからの視線がキツい。尊敬される教師というのは俺には実に荷が重そうだ。

「あはは……どうぞごゆっくり」

 書記のリリーから差し出されたお茶を受け取って、喉をうるおしながら改めて生徒会室を見る。

(うーん……)

「? どうかしました?」

 キョロキョロと視線を巡らせる俺を不審に思ったのか、目の前のアルネラが首を傾げた。

「なんというか……おかしくないか?」

「? 何がです?」

 違和感がある。明文化しづらい、ほんのさいな違和感。

 その原因は、たぶん二人──イリアとシェリー会長の二人だ。

 二人は黙ってただ真面目に仕事をしているように見えるし、実際その通りなのだろう。だがその光景に、どうしてか違和感をぬぐえない。

 なんというか、空気が重いのだ。

 その違和感が明らかなものになったのは、更なる人物が生徒会室を訪れた時だった。

「あれ、アイーゼさん?」

「ん」

 ノックされた扉から姿を現したのはアイーゼだった。

 だが彼女の声がした瞬間、ぴくりと、イリアとシェリー会長の二人が反応する。妙な緊張感が漂って、特にイリアは明らかに視線を右往左往させていた。

「これ。先生から頼まれた」

「……あ、ああ、そうなんだ。ありがとう」

 アイーゼからシェリーに渡された資料を、後ろからリリーが覗き込む。

「どんな資料です?」

「これはね、ほら、本戦で帝都に行くからお店とかを調べてて──」

(やっぱりおかしい)

 ……なぜかさっきから、シェリー会長はアイーゼに視線を合わせようとしない。そしてそれを、傍らから不安そうにイリアが見ていた。

 あまりにも妙な雰囲気に、俺は思わず首をひねる。

 そのまま生徒会の仕事も終わり、帰宅の時間となった。身体を伸ばしながら帰ろうとする俺を、しかし呼び止める声がひとつ。

「ちょっといいか」

 レーヴ君だった。

 彼は俺を軽く手招きして、階段の踊り場まで連れ出した。よもや決闘かと思ったが違うらしい。レーヴ君は少ししゆんじゆんするようにあごを当て、そして口を開く。

「……この話は、正直、お前に話すべきか迷っていた。実際、もう終わった話だしな」

 ──彼が切り出された話は、俺たちが森に行っている間に起こった一連の騒動、そのてんまつだった。

「俺がユグライル出身?」

「馬鹿馬鹿しい噂だが、お前を追い落とそうとする連中が仕組んだんだろう」

「はあ……」

 ユグライル人と帝国人は、外見上はほぼ変わらない。高位貴族の一部がアイーゼのように褐色の肌を持っていたそうだが、一般市民はそうではない。

 だからそういう言いがかりをつけられても否定は難しいだろう。そもそも、俺はどこの出身だかも分からない捨て子だ。

 ……ただ、それが何だという話だ。出身がどうであれ俺は俺だし。帝国で生きづらくなればどこか別の国にでも行けばいい。

「ともかくそれは終わった。噂を流した奴が捕まったからな」

「なるほど、でもそれがあの二人に何の関係が?」

「……その捕まったヤツ、ラバルトっていう男子生徒なんだが、最後にくだらないことを言い残していってな……」

 いわく。連行されていたラバルトは、アイーゼに向かって言ったそうだ。

 シェリーの祖父が、ユグライル人との戦争で殺されたのだと。

「事実なのか?」

「俺も初めて知った。だが事実らしい」

 それで三人の様子がおかしかったのか、とユキトは得心した。

 だがかといって、自分出来ることがあるだろうか? いや、もっと言えば何かする必要があるだろうか?

 シェリーとアイーゼの関係は、ひとづてにしか聞いてないが、それでも二人の間にあるものは、決してうわつらのものではない。何もしなくたって、二人で解決できるはずだと。

 ──そのはずだ。

「先生」

「うおっ」

 振り向けば、そこにはアイーゼが立っていた。

 元より気を張っていたわけでもないが、考え込んでいたせいで気配に気づかなかったのか、それとも彼女が気配を消していたのか。会話を聞かれただろうかとレーヴ君に視線を送れば、彼は無言で首を振った。わからない、という意味だろう。

「ど、どうした?」

「例の件で、話を聞いた」

 例の件? と一瞬首を傾げ、「ああ」とすぐに思い当たる。

「集合は明日の、お昼過ぎで良い?」

「ああ」

「分かった。学院についたら連絡する」

 そう言って背を向け、あっさりと去っていく彼女に、俺は息を吐いて──

「あと。その件は気にしないでいい。どうせ時間が解決する」

 足を止めて肩越しに告げた彼女に、俺は思わず「あ、ああ」とうなずいた。

 確かに彼女の言う通り。こういうものは時間が経てば自然に解決する。間違いない。

 だがこの時なぜか、俺は胸騒ぎのようなものを感じていた。


   ◆ ◇ ◆


「雑貨屋、フライングリム?」

 首を傾げながら、掲げられた看板の名前を告げた。

 俺たちがそこを訪れたのは、夏の中期休暇に入ってすぐのことだ。シルトさんの用意してくれた自動車SUVに乗り込み、古都環状線を一時間。西区の住宅街に、その店はあった。

 俺の横で、「なんで雑貨屋?」とアイーゼが首を傾げている。そんな俺たち二人を、自動車SUVの運転席から降りたシルトさんが苦笑した。

 何故なら俺たちは今日、以前約束した『魔術』について教えてもらいにやってきたからだ。

 あの日、ステーリアさんが指名したのはアイーゼだった。理由は不明だ。シルトさん曰く「貴族嫌いだからじゃないかな」だそうで、アイーゼも納得していたような顔をしていたが。

 伝統区に位置するその雑貨屋は少し古めかしいが、特に変わった様子はない。どこからどう見ても普通の雑貨屋で──。

「シ、ル、ト、ちゃぁぁあああん!!

 バーン、と扉が開き、小さな影がシルトに突進し、鳩尾みぞおちに突き刺さる。「ぐふぅ」という情けない声がイケメンの口から漏れたのが聞こえた。

「やっと来たー! もー、待ってたんだからね、もー!!

「ご、ごめん」

 飛び出してきたのは、長い色の髪の先をリボンで結んだ、可愛らしい少女。

 そう、あの日森で会ったステーリアを名乗る少女──

(……だよな?)

 森で出会った彼女と、目の前でぷんぷんと頰を膨らませる少女のイメージがどうしても一致しない。混乱する俺と、それを横から見て首を傾げるアイーゼを尻目に、彼女はシルトの手を引いた。

「ねね、さ、早く家にはいろ! 今日はとびっきりのパンプキンパイをママが焼いたって──」

「ごめん、言っただろう? この後仕事が入ってるって」

「えー!!

 不服ですとばかりに頰をパンパンに膨らませる少女。

 何度も謝り、「夜には来てよね」と約束を取り付けて、ようやくシルトさんは俺たちに向き直った。

「ユキト君はもう会ったと思うけど、彼女がステーリア。僕の幼馴染だよ」

 彼のその言葉に、俺は「あ、はい」としか言えなかった。


 シルトさんが帰り、俺たちは雑貨屋の中に案内されることになった。

 この雑貨屋は、ステーリアの実家らしい。建ち並ぶ雑貨はごく普通の品々で、やはりこれといって変わったものはない。中身は魔法使いの店だとか、そんなことは無かった。

「オラ、さっさと上がりな。こっちは暇じゃねぇんだよ」

「えっ?」

 ケツを蹴っ飛ばす勢いの言葉に、アイーゼが目を見開く。

「やっぱりそっちが本性か……」

「あぁ? んだよ。ガンくれてんじゃねぇぞオイ」

 ……いや、猫かぶりすぎでは。

 だまされてますよシルトさん!?

「シルトちゃんの紹介じゃなきゃ、アタシみたいな超天才サマが授業くれてやることなんざ、テメェらのショボイ生涯じゃ絶対ありえねぇんだからな。シルトちゃんにクソほど感謝しろオラ」

「あ、はい」

 やっぱりやべぇよこの幼女。

「テメェ、今チッコイとか言わなかったか? あァ?」

「イッテマセン」

 まさか心を読めるとか言わないよな……?

 雑貨屋の奥にある階段まで案内され、二階に上がるのかなと思ったその瞬間、ステーリアはその裏にあるスペースを足でトンと叩く。

 すると、さっきまで何もなかったそこに、唐突に地下への扉のようなものが現れた。

 彼女は扉をよいしょっと持ち上げて開くと、ぱっと光が灯る。どうやらはしがかかっていて、そこから降りられるようだ。

 しかし彼女は梯子を使うこともなく飛び降り、かと思えば空中で一瞬静止してひょいっと着地すると、またもや俺たちを手招きした。

 梯子を下りた先は洞窟のようになっていて、ステーリアが指を滑らせると、壁に掛かったしよくだいあおい炎をともす。

「……凄いんだな、魔法ってのは」

「オイ。一応、お前はこれからワタシの指導を受けるんだ。魔法じゃなく魔術と呼べ」

 その言葉に首を傾げる。魔法と魔術、二つの違いは何だろうと。

 そんな俺に、洞窟を歩きながらステーリアはため息をく。

「いいか? 魔法っていうのは、いわゆる神の奇跡だとせきだとか、そういうモンも含まれる。魔術も魔法の一形態だが、人間が扱う魔法を魔術というんだ」

「じゃあ、人間に扱えないものが魔法だと?」

「少し違うな」

 曰く。魔法の歴史は非常に古い。ゆえに、有史以前、神の仕業としか思えないような秘蹟、奇跡のこんせきがいくつも存在する。

「神の爪先──魔法をそう呼ぶ奴もいる。実際に、人間の手でも自然現象でもありえないような奇跡や秘蹟の類が世界各地に存在する。……それが本当に神の手によるものかは、正直疑問だが」

 ステーリアはそう言って呆れたように首を振った。

 かつて俺がいた地球にも、そういったものはあった。一見、科学ですべてが解明できるように見えるが、神の不在を証明できないように、世界の起源が仮説の域を出ないように、分からないことなど山ほどあった。

 あるいは、世界に存在する一個の生命でしかない人間が、世界そのものを解き明かそうとすることは、それこそごうまんなのかもしれない。

「だが、神なんてのはたとえ実在したって、何もしようとしない間抜け野郎さ。救いがあれば神のおかげ、悲劇が起これば神のせい。実際にゃ現実っていう偶然を前にして、そうやって心のあんねいを保ってる、ただの人間がいるだけだ」

「それはそれで必要なこと」

 ステーリアの言葉に口を挟んだのはアイーゼだった。

 確かに、そうなのかもしれない。俺は知っている。無神論が一般的となった日本という国で、すがれるものを失い、他人に責任をてんしなければ生きられない弱い人間の姿を。

 もし神という存在がその救いとなるのなら、それはそれで必要なシステムなのかもしれない。

 かもな、とステーリアが頷いたとき、俺たちは洞窟を抜け、だだっ広い空間に出た。

 ふっと彼女が手を振ると、一斉に光が灯る。

 そこは白い壁に囲まれた空間だった。明らかに人工物であり、むしろ四方を白い壁で囲まれたそれは近未来さえ感じさせる。

「さて、始めるか」

 そう言ってステーリアが人差し指を振ると、壁際にいくつものまと──射撃の的に使われそうな円形のターゲットが現れた。

「最初は小娘からだ」というステーリアの言葉に従い、アイーゼが前に出る。

「まずは現状確認だ。魔術を撃ってみろ。そこの壁に」

「……でも」

「結界は張ってある。テメェがどんなに頑張ってもどうもなりゃしねぇから、さっさと撃ちやがれ」

 うながされ、躊躇ためらいつつもアイーゼは頷く。

 不意に、魔力の高まりを感じた。

 彼女から放たれる魔力が、炎となって形を成す。

連弾レインブリツツ

 それはさながらマシンガンのごとく、無数の炎の球が的に殺到する。

 だがステーリアの言う結界とやらは相当のものであり、壁に当たった炎はあっさり散らされ、壁にはあとひとつもつかなかった。

「ふうん。悪くないじゃねぇか。一発の威力は低いが、こりゃけんせい用か」

「先生からアドバイスをもらったから」

 二人の視線に、俺は頷く。

「でも、これじゃ相手の防御は突き崩せない」

 例えばエキシビジョンマッチでは、イリアによって氷の壁を作られて全て無効化された。アイーゼの魔術は一発もイリアの防御を突破できなかったのだ。

「威力が低いからな」

「……でも、威力を優先すると当たらない」

「ま、そうだな」

 どうするのだろう? と見守っていると、不意に、彼女は俺に目線を向け、指鉄砲の形を作った。

「ばーん」

!?

 とつじよ感じた魔力の揺らぎに、とつに飛びのく。すると一瞬前まで立っていた俺の足元から、唐突に火柱が上がった。

 怖っ!?

「ま、こんな感じかな」

「ちょ……いきなりすぎだろ……」

「アンタなら直撃しても火傷やけど一つ負わねぇだろうがよ」

 ふっとガンマンのごとく指鉄砲に息を吹きかけ、涼し気にはなつステーリアさんに、コイツマジでやべぇな……と俺は冷や汗を搔いた。天才は変人が多いっていうけど、まさしくそれを体現しているようだ。

「今みたいに魔術の起点、つまり発射地点を自在に操作出来れば、それだけで切り札になりうる。戦闘中にこれをやられて避けるのは簡単じゃねぇ」

「……でも戦闘中にそれは、さすがに難しい」

「自分を起点として、一定距離に発動させる。発射地点を複数持っておけば、十分に奇襲になるだろ」

 見極められると厄介だがな、とステーリアさんが告げる。

 だがそれは、どんな技でも同じだ。奇襲とはそれだけ強い。アイーゼにとって、心強い技になりそうだ。

「──ま、そういうわけでアンタにはこれだ」

 ぽい、とアイーゼにステーリアさんが投げ渡したもの。それは、どこにでも売られてそうな大きめのゴムボールだった。

「離れた距離からそいつを浮かす。術式はシンプルでいいが、いんぺい術式はつけろ。それで少しずつ距離を離していく」

「……分かった」

「んじゃあとは一人でやりな。十メートルまで伸びたら言え。それまでは家で練習するんだな」

 アイーゼは頷き、ボールを手に取って一人で訓練を始めた。確かにあの訓練法なら家でもできそうだ。

「さて、それじゃアンタだが……」

 彼女がじろりと俺に目を向ける。

「水を使う魔術士にいいようにやられたっていうが、具体的に言え。実際にどんな術式だ」

 俺はこくりと頷き、《らく》ディープ・アウレギアの魔術について説明する。

 特に厄介だったのは、水滴を飛ばす魔術と分身だ。分身については全く分からないし、攻略方法も現状ではさっぱりだ。

「分身ねぇ。まぁメジャーな術式じゃねぇな。だが恐らく、その魔術は術者自身に繫がっていたはず」

「繫がっていた……?」

「術式ってのは、そこまで複雑な動作はできない。まして人間に見せかけるなんてのは、常に操り続ける以外にない」

 糸で人形を操るように。

 であればその『糸』を辿れば術者に辿り着けたはずだと、彼女は言う。

「糸を、たどる……」

「どのみち、お前に必要なモノはひとつだよ。前者も後者も、同じ結論にたどりつく」

 彼女がパチンと指を鳴らすと、その周囲に六つの炎がおどった。

 まただ。あの水使いの男と同じ。魔力などまるで感じ取れず、気がつけば魔術が発動していた。

「術式の長所は三つ。一つは、さっき言った継承の問題。二つ目は、あらかじめ術式を準備しておくことで高速化し、強化できること。三つ目は、魔術を複雑化できる点だ」

「複雑化?」

「色々あるが、まあ有名なのは隠蔽術式だ。術式そのものをおおかくし、隠蔽する」

「なるほど……」

 さっき言っていた隠蔽術式というやつか。

《奈落》と名乗ったあの男。彼の術を最後まで見切れなかったのはそれが理由なのか。

「魔術に対する察知力を上げる。そうすりゃ、あの人形を操っていた『糸』も見えるようになるはずだ。見破れさえすりゃ、あとは……アンタなら簡単だろ」

「どうやって……」

「自分で考えろ、と言いたいが。ヒントぐらいくれてやる」

 瞬間。背後に何か嫌なものを感じて、咄嗟に飛びのく。

 俺の背後に出現していた炎の球が、床に当たってさんした。

「今のは最初に見せた隠蔽術式と同じものだ」

 だが気づけた。それはなぜか?

「あとは自分で考えてみな」


   ◆ ◇ ◆


(ふん……)

 ステーリア・マインフォート・アリオルト・ローゼンクロイツは、訓練を始めるユキトを見ながら軽く鼻を鳴らす。

 今、ユキトの周囲にはいくつものろうそくが立てられている。いわゆる簡易的な魔導具だ。どこかの蠟燭にランダムに火が灯る、それを目をつぶって当てるというミニゲームだ。

 もっともその火は隠蔽術式によって魔術の起動が隠されている。ユキトの言う「水滴」の魔術と同じように。

 つまり正確に当てるためには、隠蔽された魔力を確実に読み取る必要がある。

 ……まあもっとも。

 それぐらい、この男なら一日も経たずにクリアしてしまうかもしれない。

 彼女はユキトに魔法の才能が無い、と言った。

 だが実のところ、それは真っ赤な噓だ。

けんを見様見真似で再現した? ありえねぇだろ)

 実のところ、ユキトはその才能を既に証明済みなのだ。

 魔剣というのは術式を剣に刻む、気術ではなく魔術の類だ。だがこの男は目に見えないはずのそれを一瞬でほうして見せた。つまり、もうとっくに魔術を使っている。

 気術と魔術の境界は実にあいまいだ。二つは根が同じであるがゆえに、極めれば辿り着く先は同じ。そしてこの男は、既にその領域に足をかけている。

(シルトちゃんは気づいてない。いや……お人好しだからな。気づいてても目をそむけているだけかもしれねぇ)

 それは別にいい。彼は宮廷魔術士でも騎士でもないのだから。

 オーランド伯も同じだろう。彼の強さを知って、あわよくば取り込もうとしているようだが──。

(コイツは、バケモンみたいに強いだけだ。今はまだ

 問題は。

 この男はまだ、何一つ完成されていないということだ。

 理不尽なほどの強さを持ちながら発展途上。その異常性に誰も気づいていない。

…………

 天井をあおぐ。

 最初、シルトに相談されたとき、ステーリアはユキトを鍛えることに反対した。

 ──危険だからだ。調べれば調べるほどに、彼の危険性はりになった。

(一体、どれほどの修練をすればここまで……)

 たった十八歳。自分よりも年下。

 だが、気術……魔力のコントロールというただ一つを論じるならば、完全に自分の上を行っている。

 まるで、本当に、ただ呼吸をするように。

 魔術士は呼吸をするように魔術を操るというが、それはしよせんにすぎない。だが気術において、呼吸とは奥義にも通ずるという。

 その奥義を──ごく自然に、当たり前のように、彼は常に行っている。どれだけ気が抜けてそうに見える一瞬でも。

 生まれながらの天才はいないと、ステーリアは思っている。もしも才能という言葉があるとしたら、それはいかに修練を積めるかという才能だけだ。

 だがこの男のそれは、完全にイカサマにしか思えない。持論を覆したくなるほどに。

(もしも、コイツが魔術までも完全におさめたら──)

 それは、誰も手がつけられない怪物を生み出してしまうことになりはしないだろうか。……魔王、とも呼ばれるような。

 術式管理会グリモワールの連中がそれを知ったとき、彼をどうすか。危険因子と断じて排除に乗り出すのか、あるいは囲い込むか。

 あるいは百年前の術式戦争が、現代に再現される可能性すらもある。

 いや、あるいはあの人のように──

『君になら分かるはずだ。ほかならぬ君になら』

 シルトの言葉を思い出して、ステーリアは首を振った。

(力は、人格を否定しない)

 どれほど強くとも、生きている人間なのだ。ステーリア自身にもまた、それは言えた。

 時に、化け物と恐れられた。

 容易に人を殺せる力。ただそれだけを見て、内面などすべて無視して、あまの大人たちは彼女へとののしりと呪いの言葉を浴びせかけた。

 もしかしたら、それは一面では正しいのかもしれない。

 事実として彼女は、まるで小指をひねるように、人を殺せる。殺される側にとってそれは、ただ立っているだけで、銃口を突きつけられているのと変わらない。

 その正しさは、正義は、いつも彼女の敵だった。

 そんな中で……彼女を支えていたのは、何でもないおさなじみだった。

 その幼馴染は、彼女のように突出した才能があるわけではない。だが、恐れるでなく、こびを売るのでもなく、そばにいてくれた。ただの幼馴染として。

 君は人でいいんだと、そう言われた気がした。それだけが、彼女の生きる支えだった。

 ……そんな自分が、彼の未来を見て恐れようとしている。

 その馬鹿馬鹿しさを、笑い飛ばす。

(シルトちゃんは、コイツを信用できると言った)

 ならば、まずは信用してやろうと思う。

 だが、もしも──この男が幼馴染を害するような怪物になった時は。

(アタシが、殺してやるよ)

 十二階梯エル・アデイール、第八席──『薔薇十字ローゼンクロイツ』の全身全霊をかけて。


   ◆ ◇ ◆


 夜──といってもよいくちとも言える時間、イリア・オーランドは珍しくカフェテリアにいた。

 理由はこれといってない。たまにはカフェテリアに寄って、コーヒーでも飲みながら復習しようか、という気分だった。それだけだ。

 イリアはもともと、出歩くのが好きな性分ではない。自分がもくを集める性質であることは良く良く知っていることだしことさら人の視線にさらされるのは不快だ。

 ただ……あの一件から、その不快感が薄れつつあるのを感じていた。

 他人の眼が嫌いだった。だが正確に言うなら、怖かったのかもしれない。そのすべてが自分を責めているように、無自覚のうちに感じていたのだろうか。

 ペンを止めてふっと笑む。世界が違って見える、なんて、ちんな言葉が漏れそうで。

「あら」

 ただ、そんな日に限って、彼女に声をかけるちんにゆうしやがいた。

 二階の入り口近くに座ったのが良くなかったのだろうか。視線だけなら意識からシャットアウトすれば済むが、声をかけてくるとなればそうもいかない。

「……アレンセンさん?」

「こんなところで何をしてるのかしら、オーランドさん」

 視線を上げた先にあった顔は、少し見慣れた顔と制服。青色の髪をした美少女、というより美女だ。ミリー・アレンセン──アレンセン子爵家の令嬢で、イリアにとっては去年のクラスメイトである。

「伯爵令嬢である貴女が、こんな庶民向けのカフェに来るなんて」

(それを言うなら、貴女も子爵令嬢では?)

 二人の仲は……控えめに言っても良好ではなかった。

 なぜかイリアの前でだけ優雅な口ぶりをするミリーだが、言っていることはなんくせに近い。理由はよく分からないが、嫌われていることだけは良く分かる関係だった。

 どうしたものかとイリアは目をさ迷わせて、その後ろにいた少女に目を留めた。

「えっと……」

「はっ、はじめまして! アルネラ・ディルモントです……!」

 自己紹介されずとも良く知っている。ユキトが選んだ、新たな大会のメンバーだ。

 イリアが困惑したのは、二人が行動を共にしている点にあった。なんというか、相性が悪そうな二人に思えたのだが……意外にそうではないのだろうか?

 とはいえかくがあるわけでもない。イリアは「はじめまして」と返しながら、手を差しだして握手をかわす。

「貴女の噂は聞いてるわ。とても優秀だとか」

「そっ、そんな!」

けんそんしないで。あのユキト先生が選んだんだもの」

 そう。あのユキトが選んだ生徒が、非凡なはずがない。

 光栄です、と緊張に頰を染めるアルネラに微笑ましさを感じていると、横から「ふうん」と少しねんちやくしつな声が聞こえた。

「前から気になってたんだけど……ねえ、実際ユキト先生との仲はどうなわけ?」

「は?」

「どこまで行ったの? ひょっとしてもう──」

「何を言ってるかわからないけど。私と先生はそういう仲じゃない」

 まったく、とかぶりを振るイリアにミリーは面白くなさそうな顔を浮かべる。だがそれをじっと見つめていたアルネラは、おもむろに口を開いた。

「それじゃあ、まだ片思いってことですか?」

 あまりにもちよくせつなその言い方に、ミリーは吹き出すように笑おうとして──イリアの顔を見て、ぜんとした。

 イリアは完全に目を見開き硬直していた。恋する乙女のそれというより、はとが豆鉄砲を喰らったような。

「……片思い……?」

「えっ、すみません。でも、てっきりイリアさんはユキトさんのことが、その、好きなんじゃないかと……違い、ました?」

 イリアにとって、それは晴天のへきれきのようだった。

(好き? 好きって、異性として……?)

 恋愛と言う言葉の意味なら知っている。父と母のような関係のことだ。人は結婚して子供を産み、育てる。学院でも好きがどうの恋人がどうの、同級生たちが話していた。

 でも、自分には無関係の、ずっと遠い話だと思っていた。いや、今もそう思う。

「……アンタって、意外にお子ちゃまだったのね」

「は?」

「止め止め。この石女の恋愛相談なんて絶対乗りたくないし」

 ミリーはイリアの隣の席に呆れるような顔で腰を下ろすと、手を振って店員を呼んだ。

 元よりミリーとアルネラの二人も、気分転換にカフェで試験勉強しようとしていたらしい。自然と、教え合ったほうが効率がいいだろうということになり、三人ともテーブルに教材を広げて勉強することになった。

 その間も話題は広がっていく。学院のこと、試験のこと、そしてミリーたちが行った森での訓練のこと。

「死ぬかと思ったわ、あれ。アンタもやらされたわけ?」

「森での訓練は私もやったわ。でも、そのお陰で随分と鍛えられた」

「やってることが無茶苦茶なのよ」

 呆れたように彼女はため息を吐く。

 ユキトの訓練は、技術がどうこうより精神力に重きを置くものが多い。小手先の技術なんてのは後でいい、というのはユキトの言だ。

 今になって思えば、きっとそれは正しい。魔術にせよ気術にせよ、その源泉にあるのは精神力、折れない心。

(折れない心、か)

 ユキトが、イリアのふくしゆうを止めたあの時。

 なぜ止めたのだと、何の怒りも湧かなかったかと言われれば否だ。今でもそうで、ふとした瞬間に復讐の炎が心のすみにちらつく。

 でも思う。あの時の自分の心は、折れていたのだと。

(私には、覚悟がなかった)

 いつかきっと、自分も人を斬る時が来る。戦うということはそういうことだからだ。自分だけじゃなく、目の前の彼女たちもまた、いつか人殺しになる時が来るだろう。

 その重さに、ほんの少しだけ触れた。そして理解した。人を殺す覚悟も、復讐を背負う覚悟も、何もかも足りなかったのだと。

 殺される覚悟と殺す覚悟。戦うことを選んだ自分たちは、いつもその薄氷の上に立っている。

 そして、ユキトはそれを知りながら、その重さを背負いながら……いつもまるで少年のように笑っている。

「あ……」

 アルネラが小さく呟いた。

 イリアの浮かべた笑みに気づいて。

 いつも氷のようで、りんとしていて、まるで女神のようにも思えた彼女が──うっすら頰を赤く染めて、幸せそうに笑っていた。

(絶対、ユキトさんのことだ)

 口には出さずに、アルネラは確信した。

 あんな顔を浮かべるなんて、ユキトのことを考えてるに違いないと。

 そもそもにして、イリアの態度はあまりにも分かりやすい。ユキト向ける目線、態度、他とはどう考えても違うし、恋する乙女そのものだと思っていた。

 それなのに、本人にまったく自覚がない。

 言いたい。物凄く言いたい。それは恋ですよと。

 そのじれったさに身もだえしながら、しかし、ミリーの視線が怖くて言い出せなかった。

 ミリーもまた間違いなく気づいている。気づいているが、自分の恋愛感情さえ自覚できないイリアを見て楽しんでいるのだろう。意地が悪いと言えばそうだが、確かに、横から口を出すのが良いことでもない。こういうのは自分で気づいてこそ価値があるのだ。

 でも……じれったい。

 アルネラは身もだえしながら、結局何も言えないまま、勉強会はお開きになった。


 その帰り道。

 イリアと別れたアルネラとミリーは、寮への帰り道を歩いていた。

 二人は普段、イリアとは違って寮に住んでいる。ミリーは古都にも家があるが、普段は寮で過ごしている。寮のほうが気楽、とはミリーの言で、アルネラもそういうものなのかと納得していた。

「あの石女、あんな弱点があったなんてねぇ」

「弱点って……」

「私がユキト先生を寝取ったら、あいつどんな顔するかしら」

「ちょっ……!

「……冗談に決まってるでしょ。あんなイカレ野郎、こっちからお断りよ」

 でもからかったりはするんでしょ、と口には出さずに思いながら、アルネラは空を見上げる。

 以前は、こういう風にミリーと話せるようになるなんて、とても想像すらしていなかった。自分がここにいるのは、あの時、ユキト先生が手を伸ばしてくれたおかげで。

 古都の夜空は、星がよく見えない。街は街灯の光であふれ、夜空の星はその光によってされる。

 自分が住んでいた田舎では、星がよく見えた。だからアルネラにとっての夜空とは、かつて姉と共に見た星の海だ。満天に広がる宝石のような星々を、二人で眺めては星座を数えた。

 だから、この古都の夜空が、アルネラは嫌いだった。

 でも、今はそうではない──懐かしく思い出すことはあっても、いつかあの星空をもう一度見たいことはあっても、もう嫌いではない。

「何してんの、行くわよ」

 ミリーの言葉に、はっと視線を下げて「うん」と頷いた。

 いつかユラ姉さまに話そう。星の良く見えない古都の夜空を。

(そのためにも──まずは期末試験!)

 ぐっと腕を握り、小走りに近づこうとして。

 背後から甲高いスキール音が鳴った。「えっ?」と声が漏れる間もなく、強く太い腕が首に回される。冷たい感触が口元を強引に覆い、すぐに、それが黒い皮手袋に覆われた手だと気づいた。

「動くな」

 カチリと耳元で音がした。それが拳銃の撃鉄を起こした音であることをアルネラは悟る。そして銃口が突きつけられているのが自分であることも。


「……何なの、アンタたち」

 ミリー・アレンセンは腰を落としながら、冷たい声で問う。

 すべては唐突だった。背後から貨物自動車バンが物凄い勢いで突っ込んできたかと思ったら、そこから降りた黒ずくめの男たちが銃を片手にアルネラを攫ったのだ。

「──待ちなさい!」

 車に引きずり込まれようとするアルネラを前に、一歩を踏み出す。

 だが。

(まずい……!)

 アルネラのこめかみに突きつけられた拳銃に、そして自分を囲むいくつもの銃口に、ミリーの足が止まる。

 魔術を放ったとしても、アルネラを巻き込まないようにするのは難しい。もし彼らが魔力を感知したら、その瞬間に彼女が殺されてもおかしくない。

(あるいは一撃で……殺すしか……!?

 しゆんじゆんする、一瞬。

 だが──その一瞬に割り込んだ影が、一つ。

 たん、という軽い足音と共に、小さな影がバンの上に降り立った。

「──させないわ」

 けんせんほとばしる。

 さやから抜き放たれた細身の騎士剣が空を裂き、バンのタイヤを細切れにした。

「ぐぁ──っ

 うめき声が一つ。視線を向ければ、アルネラに銃を突き付けていた男の手がこおいている。

 ──バンの屋根から舞い降りた少女が、金色の髪を空に舞わせながら、ミリーに向かって喊声を上げた。

「今よ!」

「!」

 ミリーはまなじりを吊り上げ、咄嗟に術式を練り上げる。

 れつのごとき炎が、波のように広がった。その炎は的確に、彼女を囲んでいた男の眼だけを焼く。限定的な魔術にしたのは、熱による拳銃の暴発を防ぐためだ。

 悲鳴がだまし、拳銃を取り落とす男たちに、真っ赤なむちからみつき、地面に引き倒した。

 ミリーは男たちがきっちりと拘束されていることを確認したあと、ふう、と息を吐いて金髪の少女に向き直る。

「助かったわ……イリア」

 剣を鞘に納める少女──イリアは、その感謝にしかし首を振った。

「間に合って良かった。それにごめんなさい」

「……えっと、ごめんなさいって?」

 イリアの言葉に、アルネラが首を傾げる。震えている様子もない──案外にして彼女は心が強いのだ。

 実際、拳銃を取り落とした男の股間を的確に蹴りつぶして脱出している。咄嗟のことで焦ったが、ユキトから気術をでんじゆされた彼女なら自力でどうにかしてしまった可能性すらある。

 そんなアルネラの質問に、イリアは小さく頷いた。

「この男たち、ついさっきまで私を尾行していたの。どうやら、貴女たちのほうが襲いやすいと思ったのかもしれないわね」

 それに気づいてイリアはアルネラたちを追い、今の場面に遭遇したのだ。

「でも、彼らは一体……」

 ミリーの魔術で作った炎の鞭によって拘束されている男たち──炎といっても少し熱いだけで肌を焼くほどの温度は無い──に視線を向けるアルネラの言葉に、イリアは「さあね」と首を振った。

「……どこの誰の差し金でもいいわよ」

 その眼に明らかな怒気を宿しながら、アルネラは呟く。

「こんなナメた真似をしてくれたんだもの。落とし前はきっちりつけさせてもらうわ」


   ◆ ◇ ◆


「失敗しただと……!?

 部下のもたらした報告書を、ファーメウス伯爵──ラバルトの父──は手を震わせながら握りつぶした。

 しかも失敗の理由は、あまりにも呆れたものだった。

 元より伯爵は、ユキトを襲えとしか言っていない。だがその途中、息子であるラバルトの指示により、ユキトの生徒のゆうかいが組み込まれてしまった。

 結果生まれた兵力の分散。しかも生徒相手ということで仕事は雑になり、結果として失敗してしまった。

「あの馬鹿息子が……!」

 ダンッ、と机を殴りつける。

 誘拐を失敗した男たちはとらえられ、恐らくごうもんにかけられる可能性が高い。何しろ貴族令嬢に手を出そうとしたのだから、その親が黙っているはずがない。真っ当に司法の手に渡されるという考える方がおかしい。

 もっともラバルトも多少頭を使ったようで、こんせきを辿られないように何重にも人を介している。こちらに辿り着く可能性は低い。

(落ち着け……)

 ふう、と息を吐き、ベッドの上に腰を下ろす。

(あの男の暗殺はまだ失敗していない……)

 問題ないはずだ、と伯爵は自分を落ち着かせる。

 手配したのは精鋭中の精鋭。ばくだいな金を使って雇わせた本物のプロだと。

 ラバルトの失敗は手痛いが致命傷ではない。今後の教育は考えるべきだが──。

 頭を振って、枕元にある呼び鈴を鳴らす。暗殺の件がどうなったか聞くためだ。だが──。

(なぜ誰も来んのだ……?)

 普通、隣部屋に執事が待機しているし、メイドたちも部屋の前に立っているはず。だというのに、声の一つ、足音の一つさえも聞こえない。

 妙に嫌な予感がして、ベッドから立ち上がる。

 ──瞬間。

「動くな」

 部屋に響いた声が、伯爵の動きを制止させた。

 首筋のやわはだ一枚むこうの冷たい感触に、ぞっと全身が泡立つ。

「な……おまえ……なぜ──」

 声をあげようとしても、叫ぼうとしてもうまくいかない。心臓が押しつぶされるような圧迫感に、ただ口をぱくぱくと開閉させる。

「……俺を殺そうとするだけなら、まだ我慢出来た」

 ごとり、と何かが足下に転がった。

 目だけを動かして見下ろせば……それは男の生首だった。自分が送った、殺し屋の。

「ラバルト・ファーメウスもそうだ。何をやったって所詮は子供、まだ学生なんだ。やり直しなんていくらでもきくし、そのための機会を与えるのも教師の仕事だ」

 だが、と。

「……お前は一線を越えたな」

 ひやりと、まるでまされた刃のような冷気が、彼の声に宿る。

「ま……待ってくれ……!」

 それは違う、と。

 生徒に手を出そうとしたのは息子のラバルトだ。自分じゃない。

 だが喉がって言葉がうまく出ない。背後にひそむ死神のような重圧が、伯爵の口をめていた。あるいは悟っていたからかもしれない──そのような言い訳は無駄だと。

「お前は……人を殺せない男だと……」

 伯爵とて、ユキトを調べなかったわけではない。その結果は──人を殺せない甘い男、所詮はただの若造……というものだった。そのはずだった。

 はっ、とまるでちようするような失笑が、伯爵の背後から漏れる。

「──剣を握っておいて、人を殺さないは無いだろ?」

「わ……私は、高貴なる貴族だぞ! それも上級貴族だ! 殺せばどうなるか、」

 全て言い切ることは出来なかった。喉が声を失い、視界が暗転する──宙を舞う視界の中で最後に見えたのは、まるで何かの冗談のように首を失った自分の肉体と。

 無感情に自分を見下ろす、闇そのもののような死神の姿だった。

 ……そのはず、なのに。

「──旦那様!」

 聞き慣れた執事の声に、伯爵ははっと顔を上げた。

(一体、何が……)

 すべては夢だったのだろうか?

 ──否。

「ひっ」

 床に転がった生首──自分が依頼した暗殺者の首と目が合って、細い悲鳴を漏らす。

「これは一体……旦那様!?

「あああ……あああぁぁぁあ!!

 伯爵はがたがたと震え、ベッドの中に逃げ込む。

 ──死。あまりにもおぞましく、あまりにもリアルな。ユキトの剣気によってもたらされたげんが、伯爵の心を折っていた。

 後に彼は引退し、その爵位はラバルト・ファーメウスではなく次男に継がれることとなる。かくいうラバルトはその日のうちに廃嫡となった。

 だがその廃嫡は、る死神から逃げるように、あるいは許しをうかのように為されたことは、伯爵本人以外は知る由もないことだった。


   ◆ ◇ ◆


 深夜。古都であろうと眠りにつく時間帯。灯るのは街灯の光だけで、いつものけんそうを忘れたかのように、街は静まり返っている。

 その光景を、屋根の上に座り込んで見下ろしながら……ふう、と息を吐いた。

 ──れんとうろう

 剣気をぎようしゆくして叩きつける、俗に心剣と呼ばれる技術である。

 本来なら敵の動きを止めるか縛る程度の技だが、訓練していない人間であれば廃人にまでも追い込む。

(これで終わりか)

 あの首からユキトが辿られることはない。

 何より、自分が依頼した暗殺者が死んだからと、警察に駆け込むような馬鹿な真似は出来ないだろう。

 今更、斬ることに躊躇いはないが、お尋ね者になるのは少し困る。伯爵を殺さなかったのは、たったそれだけの理由である。

「お手を煩わせてしまいましたな、ユキト殿」

 背後から聞こえた声に「いえ」と笑みながら、肩越しに視線を向ける。

 そこに立っていた老紳士は、オーランド家の老執事──セバスチャンさんことグレイグ・ピーター氏である。今日は執事服ではなく、全身が黒ずくめだ。

「ラバルトのことは任せていいんですよね?」

「ええ。彼は間違いなく廃嫡となるでしょう。そうなれば何をしようとしても無駄──こちらも監視は欠かしませんので」

「そうですか」

 イリアたちが襲われたことを、ユキトに伝えたのは彼だった。

 ただ彼がやったのはそれだけで、暗殺者を皆殺しにしたのも、その首を手土産に伯爵を折りにいったのも、全て自分の判断だ。

「後の処理は任せます」

 はい、という返事ひとつで、背後から気配が消失した。

 ぬるい風が頰を撫で、吐き出した吐息をさらって消えてゆく。座り込んだまま見下ろした自分の手を、ぐっと握りしめて……かぶりを振った。

生徒たちかれらに人殺しをさせたくないっていうのは、俺の傲慢なんだろうな)

 イリアたちが誰も殺さずに済んだのはただの偶然だ。何かひとつ、ほんのわずかな偶然の掛け違いがあったなら、誰かが死んでいたかもしれないし、殺していたかもしれない。

 人殺しは、どこまでも抜け出せない泥沼のようなものだ。

 ふとした瞬間、感触がよみがえり、己のごうを思い返させる。少しずつ、ほんの少しずつ自分の中の何かが壊れていく。

 ……いずれ、彼ら彼女らはそれに対面することになるだろう。早いほうがいいのか、もっと鍛錬を積んでからがいいのか、明確な答えはない。

(難しいな、人を育てるってのは)

 願わくば──そう、願わくば。

 命の価値に、そのとうとさに、向き合わないでくれと思う。


 かくして、夏の夜が過ぎていく。

 だがユキトとて、知る由もなかった。

 その夜の裏側で──一人の少女が己の運命とたいしていたことを。


   ◆ ◇ ◆


 夜空を見上げながら、アイーゼは歩く。

 古都の夜空は暗い。町の光が星々を搔き消して、ただそこに、暗い海が広がっているように見えた。

 かつて、故郷で見えた星の海が、どうしてか、この日はひどく懐かしく感じる。

 不意に気配を感じて、アイーゼは視線を落とす。

 街灯の下、誰かが立っている。いつもなら無視して通り抜けるが、なぜか、アイーゼは足を止めた。

 黒い影。ただそれでしかなかったりんかくが、光の中へと進み出た。

 そして──全身を奔る衝撃で、アイーゼは目を見開いた。

「父、様……?」

「久しぶりだね、アイーゼ」

 くぼんだ瞳。かつしよくの肌。

 絶対に、この街で会うはずのないひとが、そこに立っていた。