「ていうかアイツ、どこ行ったのよ……!」

 しやようの森、深部。ちっと舌を打つミリーの言う通り、魔物を片付けた頃にはユキトの姿は消えてしまっていた。

 あとは自分たちでやれ、ということなのだろう。帰ることも考えたが……よくよく考えれば、もう帰る道さえも分からない。何より全員が既にボロボロだった。

「まず現状を確認しよう。食料と水はどれぐらいある?」

「……その、今日の分はあると思いますけど……」

 明日以降は厳しい。言われた通りに現地で調達する必要がある。

 サイアク、とミリーがつぶやく隣で、全員のバッグの中身を確認したベイリーはうなずいた。

「テントの設営は後でもいい。まずは野営地にトラップを仕掛けよう。設営中に襲われたら最悪だ」

 了解、と全員が頷いた。

 ヴィスキネル士官学院においてサバイバル学は必修科目である。魔獣の出没地域における野営陣地の設営方法ももちろん習っているし、実地での訓練もこなしていた。

 ベイリーの的確な指示のもと、数時間で落とし穴やなるといったトラップで野営地を囲み、テントの設営までも終えて、一行はようやく一息つくことができた。

「……近くにけいりゆうもあるし、飲み水の確保は問題なさそうだ。野営地としては悪くない」

「最低限だけどね」

「今の装備だと仕方ないさ」

 ベイリーは苦笑し、だけど、と首を振った。

「問題は食料だ。はっきり言って、節約しても二日分もない。どこかで確保するしかないね。……魔獣を狩ってでも」

 その言葉に、全員がごくりと唾をんだ。

 魔獣というのは、魔力によって変質した獣であり、魔物の一種だ。変質といっても食料にする分には何も問題ない。

 ただ問題は、ここが斜陽の森の深部──ハンターギルドも認める危険地域レツドエリアであるということ。

「その、木の実とかそういうのでも……」

「どのみち、魔獣との戦いは避けられないわよ」

 アルネラの言葉を遮るように告げたミリーは、面白くなさそうな顔で周囲を見渡す。

「だって、あのユキトってやつが私たちをここに連れてきたのはそれ以外にないでしょ。今さらサバイバル能力が見たいってわけでもあるまいし」

 それは、確かに彼女の言う通りだった。

 ユキトは恐らく、自分たちに実戦経験を積ませようとしている。彼の訓練スタイルは「実戦に勝る訓練はなし」というたぐいのものだ。

「そうなると……」

 ベイリーが何かを告げようとした瞬間。

 設置していた鳴子がけたたましく音を鳴らした。はっと全員が顔を上げ、武器を手に取る。テントの向こう、トラップを破壊しながら森の中から姿を現したのは──巨大な熊型の魔獣。

「レッドベア……ッ!

 B級に指定される凶暴な魔獣だ。赤の名をかんするのは、その巨大な爪で獲物を引き裂き、その毛皮を赤く染めるため。長い年月を生きた個体ほど、毛皮が赤黒く染まっていく。

 ──魔物とは、古くには神のなげきと呼ばれた人類の敵の総称。そして魔獣とは、魔力に汚染され魔物としてしまった獣のことを指す。

 では魔獣と獣の違いは何か?

 その凶暴性? 魔法を使うこと? 体内に魔核を持つこと? 確かにそれは正しいが、何よりも。

 魔物が魔物たりうるのは、その行動原理にあった。

 魔物は常に人間を狙う。獲物ではなくたださつりくの対象として。たとえ近くに狩りやすい獲物がいたとしても、魔物は優先して人間を標的とするのだ。もしその殺意が生存本能に勝っていたとしたら、恐らく今頃人類は絶滅していただろう。

 その存在が、今、ベイリーたちの前にあった。

「っ……」

 思わず息を吞んだのは誰だったか。

 先ほどの戦闘での負傷と疲れ。連戦であることの精神的な消耗。

 だがそれ以上に。

 その存在が、ベイリーたちの心に重く圧し掛かる。

 いくつものきずあとが刻まれた身体。普通のレッドベアよりも一回りは大きい巨体。そして何よりも……しんよりもなお深い、どす黒く染まったその毛皮。

「全員、応戦を──」

「GRAAAAAAAAAAAA───!!

 ベイリーが指示を告げようとした瞬間、放たれたほうこうが意識を寸断した。

(まずい──!)

 かろうじてつながった意識の糸を必死に手放さないようせながら、ベイリーは盾を構えて腰を落とす。

 地鳴りが聞こえる。否。これはレッドベアが全速力で駆ける音──!

「く、っそぉがァ!」

 ドン、と地面を思いっきり踏みつける。絶対に下がらないというきようを込めて。

 だが。

 盾の隙間から見えたソレに、全身が凍りつく。

 まるで血を煮詰めたような赤い瞳。──そして殺気。まるで呪いにも似た、どこまでも深くどす黒い殺意。

 手加減や幸運など一切存在する余地もない。そこにはただ、うものと喰われるもの、それだけしかなかった。

(し、ぬ……!)

 無慈悲に振り下ろされる爪。少しも動かない手足。終わりを直感して、氷のように冷たい感覚が背筋をい──

「はい、そこまで」

 軽い呟きのような声と同時、目の前がに染まった。

「は……?」

 一体何が起こったのか分からない。ただ痛みはない。

 目の前にいたはずのレッドベアの首が、無造作に宙に飛ぶ。視界を覆うけむりの向こうに、刀を握る黒髪の男がいた。

(なんなんだ、これは──)

 わけが分からない、と思いながら。

 ベイリーはふらりとその場で意識を手放した。


 ぱちり、ぱちりと火のぜる音がする。

 わずかな頭痛と共に目をまし、頭を振りながら周囲を見回すと──

「……ユキト先生?」

「お、起きた?」

 彼はたきの前に座り、何やら肉をかじっている最中だった。

 ひらひらと手を振る彼に、一体何の肉なんだと聞こうとして、口をつぐむ。焚火の向こうに干してある毛皮は、どう考えても見覚えのある代物だったからだ。

 そして理解する。死を覚悟したあの一瞬、きっと彼に救われたのだ。

「……すみません」

 何も出来なかった。深部の魔物が、あそこまで強いなどと想像すらしていなかった。ベイリーの謝罪に、ユキトは手に持った骨をぷらぷらともてあそび、焚火の中に放り込む。

「まあ、よくやったほうじゃないか?」

「……え?」

「他の三人は一発だったけど、君はかろうじて耐えてたわけだし」

 ……そんなの、言い訳にもなりはしない。

 あの時、ユキトが来なければ間違いなく死んでいた。ベイリーだけではなく全員が。

 チームを率いるリーダーとして、何も出来なかったのは純然たる事実だ。

「この森で、君たちに課す試練は一つだけ。一週間後まで生き残ること。それだけだ」

「それは……」

「今回はギリギリ間に合ったけど、次は間に合わないかもしれない。まあ、今のままだと一人二人ぐらいは死ぬかもね」

 なっ、とベイリーは顔を上げる。

 まさか死ぬような訓練をするわけがない、だとか、死んだらそれこそ責任問題になるだろう、だとか、それでも教官か、だとか。

 だがそんな思考は全て、彼と目が合った時に吹き飛んだ。

(この人、本気か……!?

 本来ならありえない。ありえないが、そもそもこの男自体がありえない存在なのだ。

 尋常ならざる腕を持つ剣士。試合を見たが、それこそ、帝都で最強とうたわれるような剣士たちと同等──いや、それよりも上に見えた。

 もし責任問題になったとして、それを彼が一顧だにするだろうか?

 無意味だ。圧倒的な力の前に、法だの責任だの何の役にも立ちはしない。

「まあサービスで、夜はクロが見てくれるから休んでいいよ。それじゃ、頑張って生き残ってくれ。……あ、そこの熊鍋も食べていいから」

 ズボンをはたいて立ち上がり、ひらひらと手を振って、風のように姿を消した。

「……悪魔かよ……」

 地獄みたいな状況にじゆを吐き、ベイリーは深く息を吐いた。


   ◆ ◇ ◆


 森での訓練は、れつを極めた。

 斜陽の森、と呼ばれるこの森の深部はまさしく地獄だ。

 せいそくする魔物は最低でCランク、中にはAランク相当とも思えるような凶悪な魔獣までいる。見つかれば当然、深手は免れ得ない。

 しかしその中で最も際立っていたのは、クロの存在だった。

 クロはユキトの飼うペットであり、Cランクに分類されるブラックウルフという魔獣だ。ただ──どう見ても、普通のブラックウルフではない。

 まずCランク魔獣を倒してへとへとになって拠点に帰ってきたら、Aランク魔獣をご機嫌そうに齧っているクロに遭遇することが数度。

 さらに夜襲をかけてきたAランク魔獣とBランク魔獣の群れを薙ぎ払う光景を見たのが二度。そこで彼らはついに理解を諦めた。あのユキトのペットだし何でもありか、という心境に至ったのである。

 かくいうユキトは、普段どこで過ごしているかも分からない。ただ決まって朝になると顔を出し、にこりと笑いながら、「今日はあっちに」とか大雑把な指示を出しては消えるのだ。

 そして大抵、そこには今の彼らがかろうじて倒せる魔物の姿があった。

 だがそれでも人間とは不思議なものであり、この状況にさえ彼らは徐々に適応しはじめていた。

 ……ただ一人を除いて。

(帰りたい……)

 アルネラ・ディルモントは震える手で弓を握る。

 彼女にとって、この森はまさに地獄そのものだ。失敗して自分一人がをする程度ならまだいい、だがこの森での失敗は、全員の死に繫がりかねない。

「ゴドル、止めろォ──!!

 ドンッ、という車が衝突したような音。

 それは一つの巨体と、一つの怪物が衝突した音であった。

「ぬッ……!

 巨大なせんを振り下ろし、なおも砕けぬそれにゴドル・ヴォルドは顔をゆがめる。その様を、八つの巨大な複眼が無機質に見下ろしていた。

 ジャイアント・スパイダー。名をもって体を成すという通り、まさしく全高二メートルを超すおおである。その甲殻は鉄よりも硬く、吐き出す糸をもって相手をからめとり捕食する。

 本来、野外実習でまず目にかかることのない大物。しかし恐ろしいことに、彼らが連れてこられた森の深部にはゴマンといる魔物の一角でしかない。

 この大蜘蛛の恐ろしさはその複眼による状況把握能力にある。すなわち、人数差を生かすことができないということだ。

「ミリー!!

「言われなくたって──!!

 分かってる、とばかりに彼女は片手を掲げた。

 音もなく、青色の髪がふわりとたなびく。風──目に見えないそれが、まるで彼女の五指によって指揮されるかのごとく、自然にはありえない挙動を見せた。

 颶風の太刀ウインドカツター──振り下ろされた手に従って、無数のやいばが大蜘蛛に振り下ろされた。

 その切れ味も、鉄以上の強度を持つ甲殻を断ち切るには足らない。だがせいにコントロールされた風の刃が殺到したのは、八つからなる大蜘蛛の眼であった。

────ッッ!!

 複眼がずたずたに断ち切られ、大蜘蛛が音にもならぬ悲鳴を上げる。もしあれに発声器官があったのなら、恐らく絶叫していたに違いないほどのダメージ。

 明らかな好機。だが視界が寸断された大蜘蛛もまたそれを自覚したに違いなく、自分の周囲にある脅威を払いのけるためか、その足を無茶苦茶に振り回す。

「くっ……!

 明らかに狙いをつけた攻撃ではない。だが木をたおしながら振り回されるそれに、容易に近づくことは出来ない。

「アルネラ──!」

 分かっている。これが自分の役目。

 どうか当たって、どうか外れないでと願いながら弓を引く。

 ──いくつもの矢が、甲殻の縫い目に吸い込まれるように突き立った。

 痛みゆえか、暴れ回っていた足の動きが止まる。その好機を逃すほど、ベイリーたちは愚かではなかった。

 合図もなく一斉に飛び掛かり、大蜘蛛にトドメを刺すベイリーたちを見ながら──アルネラは弓を下ろしてあんの息を吐いた。

(今回も、どうにか……)

 ちらりと、ミリーへと視線を向ける。

 両腕を組んで不満げな表情を浮かべていた彼女は、アルネラの視線に気づくや否や、ふん、とすぐに顔をらした。

(やっぱり、まだまだ全然駄目だ……)

 自分の弓は、蜘蛛の甲殻を貫くほどの威力は、とてもではないが出せない。

 前よりも少しは強くなった気はする。特に、ユキトに教えられたれん術によって、弓の威力は劇的に上がった。だがそれだって、銃と同程度の威力しかまだ出ない。一撃で軍勢を壊滅させるというディルモントの弓には遙か遠い。

(ずっと、足手まといになってる)

 手が擦り切れるほど弓を引き、ユキトの言葉を信じて錬気術の特訓を欠かさず、それでもまだ埋められない差。

 だがそれは当たり前なのだ。一度、弓を置いてしまった自分が彼女に追いつくなんて、あまりにもおこがましく愚かしい──。

「お疲れ、アルネラ」

「ひゃっ、ひゃい!」

 はっと顔を上げると、ベイリーが土に汚れた顔でにっと笑っていた。

「今回もいい援護だったよ。ナイスアシスト」

「い、いえ……」

 ぽんぽん、と何度か肩をたたかれて、アルネラは思わず顔を赤く染めた。

 でもそのたびに思うのだ。自分は果たして、ここに居ていいのだろうかと──。

「ところで、アルネラ。ちょっと聞きたいんだけど」

「はい?」

「アレ、食べれると思う?」

(アレ……?)

 背後を親指で示すベイリーに、なんだろう、とアルネラは目線を向ける。だがそれを目にした瞬間、思わず顔をひきつらせた。

 アレとは、つい先ほど倒したばかりの大蜘蛛。

 しかもその横で、ミリーが殺気交じりの表情でアルネラをにらみつけていた。自分が嫌いだからか、と一瞬誤解しかけたが、その横であきじりにこちらを見るゴドルの表情に全てを察した。

 恐らく、アレを食料にすることをベイリーが提案し、ミリーが拒否し、ゴドルが中立の立場を取ったのだと。

 すなわち多数決的に、アルネラの一票で決まってしまうということ。

 キラキラした顔で笑うベイリーと、不機嫌そうに睨みつけるミリー、二人の間でアルネラは視線をさ迷わせつつ──。

「……さすがに、それはないかなぁって」


   ◆ ◇ ◆


 その日の夜。

 アルネラが目を醒ましたのは、まさしく草木も眠るような深夜だった。

 既に四日目とはいえ、テントの中はやはり寝苦しい。虫が遠慮もなく入ってくるし、それ以上にこの森の危険性を嫌というほど叩き込まれてきたからこそ、熟睡など望めるはずもない。

 もっとも、夜に限ってはこの野営地は安全である。夜の見張りは生徒ではなくユキトのクロの担当であり、そもそもにして近寄ってくる魔物はおらず、居たとしてクロのえさになるだけだ。

 だが頭で理解していても、安心して熟睡できるということにはならない。

 だからアルネラは夜中に何度も目を醒まし、そのたびに、焚火の炎が消えていないか確認してしまう。焚火を消すということは、何かが起きたという合図でもあるから。

 今日もまた、いつものようにテントから顔を出そうとして──ふと、アルネラは違和感に気づく。女性用に振り分けられたテントの中に、自分以外の気配がない。

(ミリーさん?)

 また、だ。

 アルネラが目を醒ますたび、ミリーがテントにいる確率は半々ぐらい。

 一応弓と矢筒を持って、テントの外に出る。だが軽く周りを見渡してみても、やはり彼女の姿はどこにもなかった。

(どこで、何をしてるんだろう……)

 気になりはしても、口に出す勇気はない。

 ふと、焚火の前に陣取る黒色のおおかみに目がまった。

 ユキトが飼っているという狼──名前はクロ。

「ねえ、クロちゃんはミリーさんがどこに行ったか知ってる?」

 聞いたって無駄だ。返事なんて返ってくるはずもない。だが分かっているからこそ、アルネラはそれを口にすることが出来たのかもしれない。

 クアァ、と欠伸あくびする黒狼ブラツクウルフに、アルネラはそっと手を伸ばし、その黒い毛皮をでる。こうしてみると、やはり魔獣だなんてとても信じられなかった。

「わたし……ここに居ていいのかな?」

 ぽつりと、思わず言葉が漏れた。

 集団戦、同じチーム……だけどあまりに場違いに思えて、自分なんかがここに居ていいのだろうかと、いつも考えてしまう。

 強くなれると言われ、やってみないかと言われ、思わず手を取った。そのことに後悔はないように思う。実際に、アルネラは以前に比べれば明らかに強くなった。

 ユキトがアルネラに伝授した錬気術は、全てを変えた。身体能力ひとつとってもまるで違うし、弓の威力もオーラを込めることで劇的に高まった。

 ……だが、結局のところ、それが何だというのだ。

 多彩な魔術を扱いこなすミリーや、前衛で凶悪極まりない魔物たちを相手にする先輩たち。誰もかれも、自分など到底及ばない天才たち。どれほど必死に努力しても、追いつける気がしない。一歩進んでも二歩離されて、見上げるたびにその距離に足がすくむ。

 はぁ、と深く息を吐いて、クロの前にしゃがみこんだ。

(わたしに、もっと才能があれば)

 それこそ、あのミリーみたいに。

 ……その心の声が、果たして聞こえたというのだろうか。丸まっていたクロが、不意に立ち上がる。

「……クロちゃん?」

「ワンッ」

 そのまま去ってしまうかに思えたクロだったが、肩越しにアルネラを見て小さくえた。まるでついてこいと言わんばかりに。

 だがここは危険な森の深部。迷うが──結局、アルネラはついていくことを選択した。

 この森に来て、クロの強さは何度か見た。いつもはペットのようにわいらしいクロだが、戦闘となれば様子が違う。……いや、あれはきっと『狩り』と呼ぶべきものなのだろう。

 まるで、この森の王。夜の野営地に魔物が現れないのは、きっとクロを警戒しているからに違いない。

 だから、クロのそばにいる限り安心なのだと、既にアルネラは理解していた。

「クロちゃん、どこまで──」

 行くの、と聞こうとして、不意に何かを叩くような異音が聞こえた。

 それも一度ではなく何度も。何なのだろうと目を向けると、そこに居たのは青い髪の美しい少女……ミリー・アレンセンだった。

 手に持ったむち──それも恐らく戦闘用──を振り回し、あるいは時に身をひるがえす。それはひとつの舞のように見えたが、よく見れば分かる。

 これは訓練だ。仮想敵を設定した、戦うための動き。

 ピシッ、と振るった鞭を手元に寄せ、ミリーは深く息を吐き──そして、アルネラへと目線を向けた。

「……アンタ、こんな時間に何してるわけ?」

「あ、いや、その」

 何を言うべきかが分からない。ここで何をしているのか、鞭なんてどうしたのか、それとも……邪魔をしたことを謝るべきなのか。

 だがそのいずれかをアルネラが選択するよりも前に、ミリーはカバンの中からタオルを取りだし、顔をぬぐう。

 優雅な仕草で長い髪をさっとかき上げると、アルネラに目線を向けた。

「……ちょっと眠れなかっただけよ」

「え?」

「野宿なんてサイアク。ちっとも眠れやしないんだから。だからただのストレス発散」

 ──本当に、そうなのだろうか?

 なぜか、アルネラはその言葉をみに出来なかった。

 思い出すのは、さっきの光景。あれをストレス発散というのだろうか。どう見たって、確かにあれは訓練だった。

 何よりも、鞭を振るっていたあの表情。

「なんで、ミリーさんが、そんなに……」

 思わず漏れたその声は、自嘲だった。彼女は間違いなく天才だ。何の才能もない、落ちこぼれの自分とは違う。

 いつも涼し気な顔で、全部が余裕だって表情で、全部簡単そうにこなしていたのに。

「だって、天才じゃないですか、ミリーさんは……」

 ひそかに抱えていた感情に、初めて気づく。

 彼女は天才だから、努力なんてしないから……だから努力を続けていればきっと追いつくんだって思っていた。だってあんなにも才能があるのに、努力も怠らないなんて、それは卑怯だ。不公平だ。だから彼女は努力なんてしないと思いこもうとしていた。

 こつけいだ。あまりにも。

「……私が、天才?」

 だがそれを、まるで馬鹿にしたように彼女は笑った。

「冗談じゃないわよ。アンタが私の何を知ってるっての?」

「そ、そんな言い方……!」

「気に入らないのよアンタ。まるで世界の不幸を全部ってるみたいな顔して」

 ぐい、とアルネラの胸ぐらを摑み、至近距離から睨みつけるミリーの目に、思わずおじづく。

「私が、先輩たちが、他の奴らが、せつの一つも知らないと思う? 不幸の一つも知らないと思う? アンタに何が分かるのよ。そうやって下を向いて、他人のことを見ようともしないアンタに」

 初めて至近距離から見たミリーの瞳は、明らかな怒りに染まっていた。その怒りを正面からぶつけられたアルネラは、何一つ言い返す言葉もない。

 なのに──どうして今更、思い出すのだろう。

 ミリーはアルネラに『足手まといになるな』と言った。『下手くそ』とも言った。

 ……だけど『諦めろ』とも『足手まといだ』とも、一言も言わなかったことに。

「ただ不幸自慢をしに来たのなら帰りなさい。泣きたいなら家で泣け。──どれだけ泣いてたって、ここにアンタを救ってくれる王子様なんていないのよ」

 ……ああ、そうだ。

 わたしは、ずっと待っていたのかもしれない。自分を救ってくれる誰か、どん底から引き上げてくれる王子様。そんなことはありえない、諦めていると自分で言いながら、心の底ではずっと願っていた。

 誰かが自分を助けてくれて、いつかハッピーエンドになれるんじゃないかって。

 だから、ユキトが手を伸ばしてくれた時、思わずその手を取ってしまったんだと。

(違う、のに)

 彼は、自分を救いに来たんじゃない。ただ機会をくれただけ。立ち上がってみろと、前に進んでみろと。

 でも忘れていたのだ。立ち上がるのも、前に進むのも、自分の足でしかないことを。

「……強くなりたい」

 ああそうだ。強くなりたい。

 いつも笑われた。お前じゃ無理だと、才能がないと、諦めろと。どんなに弓が好きでも、それだけでは何にもならないんだと。

 でも、それでも……強くなりたい。諦めたくないんだ。

「なら、下を向くな」

 ミリーの声が、アルネラの胸を叩いた。

「戦うなら下を向くな。そこに敵も味方もいないわよ」

 アルネラを見下ろすミリーの瞳が、その輝きがまるで宝石のように見えたのは、きっと彼女がこれまで、そしてこれからも戦い続けてきたからなのだろう。

 ほんの少し、わずかに一歩、その心に踏み込めた気がして……彼女の手がそっと離れる。ただ燃えるような熱だけが残っていた。

「……ねえ、ミリーさん」

「なによ」

「わたしも、一緒に訓練してもいいかな?」

 熱の残った自分の胸をぎゅっと抱き、まっすぐに前を向いて告げたアルネラとミリーの視線がこうさくし──「好きにしたら」とだけミリーは告げ、きびすを返した。

(下を、向くな)

 才能を言い訳にするのは、もうやめよう。

 一歩ずつでいい、ほんの少しでもいい。それがたとえどんなに時間をかけたとしても──きっといつか、彼女に追いつくために。


 一方。寝静まる森の中で行われたその会話を、陰で聞いていたユキトは、ニヤリと笑みを強めた。足下に飛び込んだクロに、しゃがみこんでその毛を撫でる。

「よしよしクロ、よくやった」

「クーン」

 手にじゃれつくクロに笑みを深めつつ、相対する二人をもう一度見る。

 ……この訓練の真意は、彼女たちの予想通り実戦訓練である。本物の殺気に囲まれた状況でなお実力を発揮するための、だ。

 もちろん、ユキトは彼らを死なせるつもりはじんもない。だが、必ず助けてもらえるという状況での訓練に何の意味もない。

 実戦は常に命のやり取りで、魔物はいつも本気で命を狙ってくる。たとえこちらが強くとも、一瞬たりとも油断できないのが実戦だ。ほんの半秒、目を逸らした隙に喉元にみつかれないとは限らない。

 人の集中力には限界がある。個人より集団が優位な点はまさにここにあると言っていいだろう。負担を分散し、お互いの隙を消しながら相手の隙を探し、一瞬でその喉元に喰らいつくすべを彼らはみがかなければならない。

 ……ただ、チームワークの点でいえば、上級生である二人は問題ないとして、問題は下級生の女性二人。案外息が合うと思うのだが、アルネラがしゆくして実力を発揮できていないことが多かった。

 二人の連携が出来てくれば、恐らくもっと化けるだろうと思う。

 それはこれからの課題、としながらも──小さく息を吐いた。

「で? いつまで隠れて見てるつもりなんだい?」

 立ち上がり、背後を見る。そこに広がっているのはただ静かな森で、声がむなしくくうに響き渡った、ように思えた。

「正直、ちょっと驚いてる。魔法って気配を隠すのにも使えるんだね。そこらのおんぎようよりよほどレベルが高い」

 声はただ森の中に静かに響くだけ。

 何の返答も返ってくるはずがない──。

「あの、さっさと出てきてくんないかな。これじゃただの一人語りする痛いヤツなんだけど、俺」

「──チッ」

 舌打ちが、頭上から響く。

 樹上に座る小さな影。先ほどまで確実に何もなかったそこに、誰かが座っている。

 迷彩か、あるいは幻術なのか、かくそれが魔術であったことに間違いない。

 だがその姿は、なぜか視認できない。気配は確かに人なのに、それはただ漆黒の闇、あるいは影がかたどったナニカにしか見えない。

 パチリ、と音がした。

 それが指を弾いた音だと理解した瞬間──猛烈な気配に襲われて、その場から飛びのきつつも腰の刀に手を伸ばす。

「一つ問う」

 それは男のようにも、女のようにも聞こえる声。

「お前は何者だ?」

「ユキト」

 ただ名を答えながら、目の前の闇を観察する。

 敵ではない、と思っていた。ずっと監視されていることに気づいてはいたが、その視線に殺気や悪意はまるで感じなかったからだ。

 どんな暗殺者であっても、殺気や悪意を完全に隠すことは出来ない。そう思っていた。だがこの異世界なら、そんな存在が居たとしてもおかしくはないのかもしれない──。

 目の前のそれは、俺の答えに納得していないのか、ただ樹上からものすごい圧力が降り注いでくる。

(これは何の術だ?)

 まるで、無数の目に見られているような、そんな奇妙な感覚。気配はたった一つしかないのに、腹をすかせた獣の群れに睨まれているような気さえする。

「お前にとって、シルト・ラナシスはどういう存在だ?」

「え?」

「答えろ。さもなくば殺す」

「……友人、あとは恩人かな?」

 一瞬「まさか」という疑問がかまくびをもたげるが、特に隠すことでもない。

 俺がそう答えた瞬間、それを確かめるように圧力が雨のように降り注ぐ。だが俺は一瞬たりとも目を逸らさず、睨み合うこと数秒。

 再びパチリ、と音を鳴らした瞬間、圧力がうそのように消え去った。無数の目に睨まれている感覚も、まるで最初からなかったかのように消えている。

 そして、まるで霧が晴れるように、木々の向こうからわずかに漏れる月光が、樹上の闇を拭い去った。

「……幼女?」

 思わずぜんと口に出してしまった俺は、多分悪くないと思う。

 亜麻色の髪と、どこか神秘的にすら思えるあおの瞳。そして何よりも、あまりにも幼い出で立ち──そこに居たのが、樹上に座って足をプラプラさせる幼女だったのだから。

「アタシの美しさにれるのは勝手だけどな。人を呼びつけといてその態度は気に入らねェぞ、クソガキ」

「……え」

 だがその外見と全く真反対の言葉遣いに、思わず目を見開いて動きを止めた。それにクソガキって。どう見ても年下だけど。

「ったく、なんでこんなヤツが……シルトちゃんはどういうつもりで……」

「……ひょっとして、シルトさんが紹介するって言ってた魔術師メイガス?」

 その言葉に、彼女は頭を抱えつつ「チッ」と舌を打った。

 確かに、シルトならば今ここに自分がいることも知っている。なぜなら危険地域レツドエリアである斜陽の森深部で訓練をすると、彼越しにギルドに許可をもらっているからだ。

 だが、しかし。

 まさかこんな、ややゴスロリちっくな幼女だとは、あまりにも想定外だった。

「ステーリア・ローゼンクロイツだ。とりあえず頭が高い。ステーリア様と呼べ」

「えぇ……」

 困惑する俺に、ステーリアと名乗った幼女はじろじろと上から下まで視線を送る。

「……なぁオマエ、なんで魔術なんて習いたい?」

「? それはどういう──」

「テメェに魔術なんていらねェだろ。その腰の刀があれば」

 ピシ、と指を突きつける。

「アンタは剣士として既に完成されてる。この上魔術なんて習う必要があるか? いたところ、魔剣まで使えるらしいじゃないか」

「……俺のこと、よく調べてるみたいだな」

「当然だ、アタシは魔術師メイガスだからな。──アンタは魔術を悪用するような馬鹿には見えないが、かといって魔術が必要そうにも見えない。なぜ魔術を求める?」

 彼女の言葉に、俺は事情を説明する。

 そもそも俺が魔術を求めたのは、魔術を使いたいからじゃない。剣の修行も中途なのに、魔術の修行にまで費やす時間はない。ただ、『らく』を名乗る魔術士にまんまと逃げられたあの時、俺は魔術を知らなければならないと思ったからだ。

「……あかつきの聖杯? 水を扱う魔術師?」

 説明を黙って聞いていた彼女は、その名前が出るなりその眉根を上げた。

 彼女はしばらく沈黙した後、ふうん、と意味ありげな目を俺に向けた。

「なるほど。つまり魔術への対抗策を知りたいと」

「ああ。どうだろう? 受けてくれるか?」

 俺の言葉に彼女は「いいだろ」と呟いた。

「ついでと言っちゃなんだが、お前の生徒を見てやってもいい」

「おお、本当か? それなら──」

「ただし一人だ。それもアタシが指定する一人」

 どういうことだと首を傾げると、彼女はにっと笑みを浮かべた。


   ◆ ◇ ◆


「……なるほど。まあ予想通りね」

 ユキトたちが森での訓練を続けるその頃。資料を片手に告げたシェリーの言葉に、イリアは思わず顔を歪めた。

 イリアはあの資料の中身を知っている。なぜなら、アイーゼからの報告を資料の形でまとめたのはイリア自身だからだ。

うわさを流しているのは貴族の子息、その中心に彼がいるのは間違いありません」

 ファーメウスはくしやくの子息、名をラバルト。元より良い噂を聞かない生徒であるが、三回生の中でも相当な実力者で、譜代貴族の子息ということもあって顔が広い。

 念を押すようなイリアの報告に、シェリーはただ「そう」とだけ頷いた。

「……今すぐ、彼を取り押さえるべきです、会長」

「こんな時間に?」

 ふっと笑んだ彼女が窓の外へ目を向ける。外は既に夜の闇、生徒たちはほぼ全員帰宅している。

 それに、とシェリーは続ける。

「冷静じゃないわね、イリア

 普段はしない呼び捨てでイリアを呼び、シェリーはかぶりを振った。

「彼がしたことは学内に噂を流しただけ。別に犯罪でも、校則違反ですらないわ」

「しかし、情報提供者は間違いなく……!」

「だとしても、よ」

 生徒会長の椅子にもたれかかり、シェリーは机の上で指を組む。

 確かにシェリーの言う通りだ。もし、彼が意図的にユキトの噂をばらき、その名声をけがしたとして、それが罪に問われることはまずないだろう。

 時代の移り変わりの中で、貴族と平民の立ち位置が近しくなったとはいえ、イコールになることはない。何しろたった数十年前までは、貴族と平民の間では公平な裁判すら望むべくもなかったのだから。

「オーランド家が正式に抗議するというなら分かるけど」

「……連絡してみましたが、やはり父様が帝都から戻るまでは難しいかと」

「でしょうね」

 背後に貴族がいると仮定するのなら、通信で連絡がついたとしても、伯爵当人が不在の今はオーランド家は動けない。

 そのがゆさにぎゅっと手を握り、そして、イリアはちらりと自分の横に立つ少女を見た。

 イリアとシェリーの会話を、アイーゼはただ黙って聞いていた。その表情からは何を考えているのか、まるで読み取れない。

 戦技大会以降、イリアとアイーゼの関係は友人と呼べるもの……だとイリアは思っている。うぬぼれでなければ、きっとアイーゼも同じだと。

 だがそれでも、いまだアイーゼが何を考えているのか、その表情から読み取ることは難しい。正直、なぜか簡単に読み取れるらしいシェリーをうらやましくも思う。

 だが無表情に見えて、アイーゼが平気なはずがない。

 彼女が上げた報告、つまり今回の噂を広める生徒たちの発言の中には、アイーゼに関する言及も多かった。その中には、イリアでさえも目を覆うものもあったのだから。

「とにかく。この件は私がなんとかするよ。今日は二人はもう休んで」

 シェリーの言葉に思考を中断され、イリアは顔を上げて頷く。

 生徒会室を出て小さくため息をいたその時、「イリア」と自分を呼ぶ声に視線を上げた。いつもの表情が読めない顔で、アイーゼがイリアを見下ろしていた。

「ちょっと付き合って欲しい」

 と、彼女が軽く指さした先。

 校門の向こう──夜を静かにいろどる古都の街並みの光を、アイーゼは指さしていた。


「……それで、どうしたの?」

 二人が訪れたカフェは、古都のみならず帝国全土に店舗を広げるチェーンストアだ。その二階、オープンテラスになっている席に座ったイリアは、アイスコーヒーで口元を涼ませながらそう問いかけた。

 対面に座るアイーゼは、店の名物だというケーキをいくつも口に運びながら──一体何皿目だと思うのだが、なぜか食べ方が汚くは見えない──もぐもぐとしやくし飲み込んでから頷く。

「イリアが何か聞きたそうに見えたから」

 ちよくせつに飾りなく告げたアイーゼの言葉に、思わずイリアは目を見開く。

 ……違う、とも言えない。一連の報道の中には、アイーゼについて言及する報道も多かった。祖国を裏切り帝国にくみした、ユグライル貴族の娘だと。──彼女も帝国貴族の一員であるにもかかわらず。

 イリアはアイスコーヒーのカップを握る手元に視線を落とす。

 ……考えてみれば、イリアはアイーゼについて何も知らない。金のために娘を貴族に売った親と、彼女になつく妹がいることぐらいしか。

 どんな想いで学院に来て、ユーグだとののしられながら、どんな想いでたった一人戦い続けてきたのか。伝聞で予想は出来てもアイーゼの口から聞いたことはなかったと。

「……正直、どうでもいい」

「え?」

 いつもと同じ抑揚のない、まるで呟くような言葉に、イリアは視線を上げた。

 アイーゼは、ただ外を──遠くを見ていた。夜のとばりが下り、それでもなお人が行き交い眠らない古都の街並みを。

「新聞も、うわさばなしも、どうでもいい。私は私のやるべきことをやるだけだから」

「やるべきこと?」

「妹と二人で、普通に生きること」

 普通に生きる。

 言葉の上であればひどくちんで、しかしアイーゼにとってはそうではない。祈って、願って、いて、それでもなお容易たやすくはない夢。

 確かにアイーゼの婚約は解消され、ひとまずの危機は去ったように見えた。

 だが、たとえ彼女がギレウス・マリオンのように戦技大会で優勝しても、その願いを皇帝が聞き届けるかは分からない。何の保証もない命懸けの綱渡りを、彼女はずっと続けている。

「祖国にも、帝国にも、興味がない。今の私に必要なのは──力だけだから」

 テーブルの下で、イリアはぎゅっと手を握った。

 彼女の気持ちは、痛いほどに分かった。

 力がないというのは、ただそれだけで罪だ。力がなければ全てを失い、全てを奪われる。ただ自分を呪い、運命に嘆き、一歩も前に進めなかった自分のように。

「……妹さんって、どんな人?」

 話題を逸らすように口を開いたイリアに、アイーゼはぱちくりと目をまたたかせた。

 しかししばらくして、ぽつりぽつりと語り始める。ミミ・リリエス──彼女にとってもっとも大切な存在のことを。

 だけど、なぜなのだろう。

 妹のことを話すアイーゼの声はどこか温かく、幸せそうに見えるのに──イリアにはその表情が、どこか寂しげに見えた。


   ◆ ◇ ◆


 そして、数日の時が流れた。

 その間も学内の噂は止まることがなく、生徒会は沈静化を図りはしたがあまり効果があるとは言えなかった。

 そもそもユキトやアイーゼを噂している生徒たちは、その大抵が、表面化こそしていなかっただけで彼らに反発心を抱いていた生徒たちだ。

 片や平民で学もない少年教官、片やユグライル人のくせに学内最強を気取る生徒。人は信じたいものを信じるがゆえに、反発心に根付いた彼らの口を閉ざすことは容易ではない。

 そして人というのは、多数の意見に流されるものである。そうなれば『生徒会がユキトたちをかばっている』という声が流れ始めるのも自然な流れ。やがてユキトをめんすべきではないかという声が、教師からも漏れ始めるのも時間の問題だった。

「ハハハッ、まさかこんなにうまくいくとはな!」

 はく色の酒を満たしたクリスタルガラスを傾けながら、少年は笑う。

 ナイトクラブ・アーヴィンヒルト。

 古都の繁華街、その一等地に位置する完全会員制のナイトクラブである。

 黒と金を基調とした高級感のある建物は、日夜多くのセレブリティたちが集う社交場──というには少々品がないが。

 警備は常に厳しく、時に密会を重ねるにも便利とあって、このナイトクラブをひいする貴族も多い。

 ゆえに。その中で何が起きたとしても、決して外に出ることはない──。

「本当にな。生徒会の奴らの悔しそうな顔は最高だったぜ」

 その部屋にいたのは、本来ならこんなところに居てはならない年若い少年たち──ヴィスキネル士官学院の生徒だ。十五歳を越えれば飲酒自体は合法ではあるが、学院規則によってナイトクラブへの立ち入りは禁じられている。

 本来、休日であっても着用を義務付けられる制服を脱いでいること自体、彼らもそれをよく理解しているのだろう。

「なあ、結局、あの平民野郎がユーグなのはマジなのか?」

「さぁ、知らねぇよ」

 あっけらかんと答えたのは、ラバルト・ファーメウス、ユキトに関する噂を広めた張本人である。

 もっとも彼がしたことは、事実に加えて噓を織り交ぜ、父親に教えただけ。実際にあの新聞記事を用意したのは彼の父である。

 父の真意をラバルトは知らないが、それはどうでもいいことだった。翌日には期待通り新聞に載り、喜々として学院中に噂を流した。今ユキトはいないが、帰ってきた時にはもうユキトの居場所はない。

「アイツが帰ってきた時の顔が見ものだぜ」

 ニヤニヤと酒をあおろうとして、手元が震えていることに気づき──足元に目線を向ける。

「……なに震えてやがるんだ、オイ。酒が揺れるだろうが」

 その足元にいたのは、人だった。

 せんじようてきな衣装に身を包んだ女。だが、露出した肌にはいくつもの痛々しいきずあとが刻まれている。

 ──もっとも、刻まれているのはそれだけではない。首筋に刻まれたずみは、アゼフの印と呼ばれる『ユーグ』の証。

 その足置きがガタガタと震えているのを見下ろしながら、顔を蹴り飛ばす。

 まるでカエルが潰れるような声を漏らしながら転がった女は、ガタガタと震えながらも、慌ててカーペットの上に頭を擦りつけた。

「も、申し訳、ありませ……」

「脱げ」

 びくりと、女の肩が跳ねた。

 彼女は知っている。自分の主であるこの男は、機嫌がいい時、いつもなぶるように自分を犯すのだ。そして機嫌が悪い時は、痛めつけるように犯す。

 そのストレス発散によって死んでいった同胞を、何人も知っていた。

 尊厳を壊し、肉体を壊し、全てを壊しながら弄ぶのだと。

 ──法に触れる? それが何だと言うのだ。壊されて捨てられたものは、誰の目に触れることもなく処理される。法などというあいまいなものが自分を救ってはくれないことを、彼女はよく理解していた。

「おい、さっさとしろよ!」

 震えながらかたひもに手をかける彼女に、同席した少年たちが口笛を吹きながらはやてる。

(待っていろ、イリア・オーランド……)

 ストリップを見物しつつ、ラバルトは大きく口元を歪めた。

 あんなにも自分が目をかけてやったのに、みようさえない平民に尻尾しつぽを振ったばい。まさかあんな女とは思わなかったと大層失望したが、見た目だけはいいのだ。いつかこの女と同じように使ってやると──。

 だが、その時、扉の外からそうおんが聞こえ、ラバルトは思わず顔を上げた。

 人の叫ぶ声、走る音──尋常ならざるその物音に、少年たちは思わず顔を見合わせる。下の階で乱闘騒ぎが起こることは少なくないが、それが二階にまで及ぶことはひどく珍しい。

 一体何事だと、彼らが腰を浮かした瞬間。

 バンッ、と音を立てて扉が開け放たれ、有無を言わさず男たちが踏み入ってきた。

「なっ──」

 ラバルトが声を詰まらせたのは、彼らがただびとではなかったからだ。一様に統一された藍色の制服と、突きつけられた拳銃の群れ。

「警察──!?

 悲鳴にも似た叫び声が、部屋の中にだました。


「……なるほど」

 ナイトクラブの裏口、何台ものパトカーが回転灯で夜の闇を裂いているそのわずか後方、腕組みをしたイリアはぽつりと呟いた。

 彼女の傍には二つの人影がある。一人はシェリー、一人はアイーゼだ。

「人の口に戸は立てられない。だから別の噂で塗りつぶす、ですか」

「噂を流した側に後ろ暗い点があると分かれば、噂なんてあっという間に消えるってわけ」

 あっけらかんと告げたシェリーを見ながら、イリアは半ばせんりつしていた。

 噂が流れてからたった一週間。その間に全ての情報と証拠を集め、警察を動かしてみせた彼女の手腕に。

 こんなことが出来る学生が、果たしてどれだけいるのだろう?

 イリアも天才だとはやされはするが、真の意味での天才とは彼女のような者を指す言葉に違いない。

「……いくら貴族でも、さすがにこれはいんぺいできない」

 そう呟いたアイーゼの言う通り、ナイトクラブの周囲には何台もの警察車両が殺到している。この時代、貴族の権力は決して無敵でも絶対でもない。

 警察が動いたのは、ナイトクラブで行われていた不法労働と殺人の証拠が固まったからだ。主にユグライル人を言葉巧みにだまして働かせ、ごうかんと暴行の末何人も死に至らしめていた。その扱いはほぼ奴隷同然だという。

 監禁に殺人、死体の隠蔽、どれも重大犯罪だ。人種がどうだなどと言い訳にもなりはしない。

 そしてそこに噂の首謀者であるラバルト・ファーメウスが通い詰めていたことを、シェリーは調べ上げていた。

 恐らくファーメウスきようは火消しに必死になるだろう。下手をすればはいちやくもありうる。

(こんな風に解決してしまうなんて)

 随分苦戦させられたわりに終わりは実にあっけない。イリアが呆れまじりに建物を見守っていたその時。

 警察に手錠をかけられたラバルトたちが連行されている姿が目に入った。だが、それは向こうも同じだった。イリアたちに目を留め、はっと何かに気づいたようなラバルトの表情が目に入る。

「……そういうことか……」

 殺意のこもった目でイリアたち……いや、シェリーを睨む。しばらくうつむき、震えたと思いきや、がばっと顔を上げた。

「シェリー・レレイ! お前の差し金かぁ!」

「……だったら、何なのかしら」

「このアマ……ッ!

 シェリーに近づこうとして警察に取り押さえられ、地面に転がりながらなお怒りとぞうが籠った目がシェリーに向かう。

「……行きましょう、会長」

「ええ──」

 これ以上は見ていられないと、シェリーの肩を押すイリアだったが。

「なぜだ、シェリー・レレイ! なんでお前がユーグの肩を持つ! 奴らに祖父を殺されたお前が……!!

 その言葉に。

 足を止めて振り返ったのは、シェリーだけではなかった。

 一瞬ラバルトへと振り返ったイリアは、思わずシェリーと、そして横に立つアイーゼへと視線を送った。

 そして見てしまった。

 アイーゼと、シェリーの視線が、ただゆっくりと交錯していく様を。

「はははっ、そうだ! アイーゼ・リリエス、お前が彼女の友などというのはとんだ勘違いだ! ありえないんだよ、そんなことはァ!」

 高らかに笑い声が響く。彼が拘束され、パトカーに乗せられていくその時まで。

 ──遠ざかっていくパトカーのサイレンは、どこか、彼の笑い声の残響のようにも聞こえた。