
「う、うわあああぁぁ!!」
悲鳴が響き渡ったのは、地下にある薄暗い空間。
その奥で、不吉な獣の
彼らが
だが──叫びと共に剣を振り下ろした先に、既にその影すらもない。
『グルル──』
唸り声が、すぐ後ろから聞こえた。
まるでその唾が首筋に触れたのかと思えるほどに、ひやりとした感触が全身を包む。
(し、死ぬ──!)
ただの魔物だ、などという油断は一瞬で吹き飛んだ。速度、力、何もかもが
ゆっくりと、彼は周囲を見渡した。
もう、立っているのは自分一人──。
そんな
そのうちの一人が、
「……あれってブラックウルフじゃなかったか、ユキト」
「いや、まあそうなんですけど」
「どー見ても違うと思うんだけどなァ。なんか巨大化しやがるし?」
「そういうものなのでは?」
二人の会話を聞いていたもう一人、銀髪の青年は「普通、ブラックウルフは巨大化しないよ」と呆れたように首を振った。
そう言われても、昔からそうなんだけど、とユキトは首を
……この施設はギルドの地下に位置する訓練場。そして今、彼らはブラックウルフことクロと、ハンターたちの訓練を見守っていた。
言うまでもなく訓練、である。ただまあ、実際にこれが訓練として機能しているかは不明である。何しろ開始数秒でほぼ全滅したのだから。
「しかし知りませんでした。まさか
「ま、技術の限界ってやつだ」
そして今回、グラフィオスの要請で、地下訓練場でクロと新人ハンターたちの実戦訓練を行っている、わけなのだが。
「……もうちょっと手加減が必要ですね」
といっても、死者はない。さすがにクロは手加減も心得ていて、外傷さえほとんどないのだ。ただ単純に、殺気と恐怖で気絶しただけ。
ぺしぺし、と巨大化を解いて気絶者の頭を
「いや、これでいいのさ」
「そうですか?」
「勝てねぇからって相手が手加減してくれるか? 世の中ってのは理不尽なもんだ。人間も、魔物もな。こっちの事情なんて、あいつらは考慮してくれねぇ」
理不尽の中で、いかに
確かにそうだなと
「とりあえず叩き起こすか……ユキト、クロにもうちょい殺気を緩めてやれって言ってくれ」
「グラフィオスさんから説明すれば大丈夫ですよ。クロは頭が良いので」
そうか? と言いつつ、バケツ片手に歩み寄るグラフィオスに、クロがじゃれつくように駆け寄った。
ああしてみると、子狼の頃からクロは変わらない。魔物だ魔獣だの言われても、俺にとってはただの家族だ。
「──今日はありがとう、ユキト君。訓練にクロを貸してくれて」
「いえ、クロも楽しんでますから」
クロの日常は、朝に散歩、昼は自由に散策、夕方になるといつの間にか校門で俺を待っている。
週に一度ほど、実家の掃除も兼ねて山に登っているが、やはり首輪を外して遊ぶほうが楽しそうに見える。
「さて、報酬についてだけど──」
とはいえ、無報酬なわけもない。
「確か、僕に願い事を聞いて欲しいって話だったよね? グラフィオスさんではなく、どうして僕に?」
そうなのだ。今回の依頼について、俺は報酬を彼にお願いした。しかしそれは金銭ではない。
俺は一応、学院の客員教師のような立ち位置にある。副業が禁止されているわけではないが、学院──正確にはその上層にある軍──とギルドは複雑な関係にあって、ギルドと親密すぎるのはあまりよろしくない。
まあ、明文化された規則でもなし、俺自身の立ち位置が非常に微妙ということもあって、そこまで
だが報酬をお願いという形にしたのは、それ以上に、これが渡りに船だったこともある。
「シルトさんって魔法を使いますよね」
「ああ、うん、まあ」
何度か見せてもらった風の魔法。あれは気術の
「出来たら、俺に魔法を教えて欲しいんです」
「……魔法に興味があるのかい?」
「ええ。正確には魔法そのものというより、その対抗策というか」
事情をシルトに説明する。
魔法使いに苦汁をなめさせられ、まんまと逃げられてしまったこと。
「
「それが、伯爵はしばらく古都の外にいるらしくて……」
イリアに相談しようと思ったが、結局なんだかんだと、あれから声を掛ける機会がない。それにやはり、教え子に
なるほど、とシルトは頷き、しかし首を振った。
「残念だけど、僕がユキト君に教えるわけにはいかない」
「……そう、ですか」
「意地悪を言ってるわけじゃない。僕じゃ無理って話なんだ」
どういうことだとシルトに目線を向けると、彼はかぶりを振った。
「魔法──いや、魔術は危険な技術だ。だからその伝授には、特別な資格がいる」
「資格?」
「
なるほど、と頷いた。だから学院に魔術の授業がなかったのだ。しかしそうなると、学院になぜ
「いや、学院に
「どうしてですか?」
「それは──」
「連中が偏屈だからさ」
不意に、グラフィオスの野太い声が割り込んだ。新人たちを叩き起こした後なのか、彼の背後では、座り込んで体力を回復しているハンターたちが、元気に訓練場を走り回るクロに何やら恐ろし気な目を向けている。
「なんだ、魔術に興味あんのか? もし
「ドグマ……?」
「
「ふむ」とシルトは何かを思い出したように口元に指をあて、そして小さく「そういえばこの時期か」と小さく
「ユキト君、
「もしかして紹介してもらえるとか?」
「ああ。僕の知る中で、最高の
そう言う彼の
◆ ◇ ◆
士官学院の敷地はとにかく広い。山一つを丸々使い、射撃場やそれこそ兵器などを試すような大フィールドも存在する。
戦車の操縦などはカリキュラムに含まれないが──そもそも免許が必要で、学生には不可能だ──銃の分解と組み立て、三回生からは重火器を取り扱う授業まである。
軍学校よりも
閑話休題、その広大な敷地の中には授業に使われていない場所も存在する。
アルネラ・ディルモントが居る校舎から離れた場所にあるこの森も、そのうちの一つだ。
「ふう……」
座禅を組み、深く息を吸って、吐き出す。
背中から伝わる熱が心臓に伝わり、心臓から全身へと流れていく、奇妙な感覚。
「──うん、いいね」
アルネラの背中から手を離したユキトは、そう言って頷いた。
「やっぱり君には才能がある。魔術じゃなくて、気術のね」
「気術、ですか」
帝国において『気』という概念がある程度体系化されはじめたのは、つい最近のことだ。それでも帝国──というか大陸では、気はオーラとも呼ばれ、魔力と同一のものという扱いを受けていた。
しかし東方の文化が帝国に流れ込んだとき、その武術体系もまた流れ伝わって、気術は少しずつ体系化されていった。
だがそんな才能があると言われても、アルネラはこれっぽちも信じられない。ディルモントの弓といえば
だがこの半月。
ユキトに受けた『訓練』によって齎されたものは、あまりに劇的だった。
「わたし、気術の訓練ってもっとこう……滝に打たれるとかだと思ってました」
「はは」
アルネラの言葉にユキトが笑う。
彼の『訓練』は実に単純だった。座禅を組んだ状態で、ユキトがアルネラの背に手をあて、呼吸を繰り返す。
呼吸一つにさえ技術があるのだと、アルネラは初めて知った。
「錬気っていうのは、要は全身を流れるエネルギーだよ。それを何倍にも、何十倍にも増幅させて使うんだ」
ユキトは「まあ細かい理論とかは知らないけど」と笑ったが、
「──行きます」
座禅を終えたあとは、いつものルーティンへ。
的に向かって弓を構え、もう一度呼吸を整える。呼吸によって増幅、倍化を繰り返し、徐々に感覚が鮮明となっていく。
タンッ、と軽やかに放たれた三本の矢が、同時に風に舞う木葉を貫き、緩やかなカーブを描いてその先の的にまで突き立った。
「お見事」
パチパチと手を叩くユキトに、アルネラはぱっと顔を明るくして振り返った。
だが。
「そろそろいい時期かな」
見上げた彼の笑みに、猛烈に嫌な予感がして、思わず笑顔をひきつらせた。
これまでアルネラが課された訓練は、座禅だけではない。それこそ死ぬほど校庭を走らされたり、殺気に耐える訓練と称して魔物──クロだ──に追い回されたり。そのたびに死ぬ思いをしてきたが、そうした訓練の前は大抵この顔をするのだ。
……そしてやはり、というべきか。
今回の彼女の予感は、大いに当たることになる。
「な、なんですか、これ……」
それから、わずか数日後。
アルネラたち、集団戦メンバーである四人がユキトに率いられてやってきたのは、古都の外。
本来、この森は人が立ち入れる場所ではない。遊歩道など当然なく、特にその深部はほぼ全く手つかずの原生林が広がっている。
手つかずとはつまり、魔物が出没する地域ということである。
しかし士官学生たちにとっても、毎年のように野外訓練がある場所である。学院トップに数えられる彼らにとって、そこまで危険な地域ではない──はずだった。
彼らがユキトに連れてこられたのは、斜陽の森の深部。
アルネラはおどおどしながらも周りを見回すが、見た目そう変わりないように見える。なのに、何なのだろうか。先ほどから全身に突き刺さるような、この嫌な感覚は。
ただ知識として分かるのは、
「さて、それじゃ訓練を始めようか」
だが困惑するアルネラたちをよそに、ユキトは荷物──恐らくあらかじめ森に持ち込んでいただろう大荷物──を指さした。
「……これ、テントですか?」
その通り、とユキトは手を叩く。
「これから一週間、君たちにはこの森で過ごしてもらう」
「はぁ!? ちょっと、授業は、それに食料は!?」
声を上げるミリーに、こくこくとアルネラは頷く。
ここまでの流れ、口を挟む余裕など一切なく、説明されたのは『野外授業』とだけ。
授業に関しては学院に届け出済み。あとで多少の補習はあるだろうが、正式にカリキュラムとして組み込まれた授業の一環だという。
しかしユキトは、
「そこにあるだろ?」
と、森を指さした。
要は、サバイバル。しかも極めて危険な魔物の領域。いつ襲われるか分からず、常に気を張り続けなければならない。
不安そうにアルネラは周囲を見渡し、そして気づく。先ほどから全身に刺さるようなこの違和感は、周囲に
「
「アンタねぇ──!」
「話してる余裕はないぞ?」
ユキトが言うや
木々の向こうから、まるでこちらを
「それじゃ、はじめようか」
後に、彼らは述懐する。
ユキトのその笑みは、まさしく悪魔のそれだったと。
◆ ◇ ◆
シェリー・レレイは伯爵令嬢である。
レレイ伯爵家といえば、古くは黄金街道の一角を任されるほどの名門貴族であり、かつて
貴族解体とも称される政変以降、大半の領地を失い黄金街道の祝福を失いはしたが、かといってその権勢全てを失ったわけではない。
斜陽の中にあってなお、伯爵夫人は社交界で二花の一つと称され、現貴族派の中でも相当な影響力を有していた。
もっとも、かの『
──もっとも。当人であるシェリーにそんなつもりなど毛頭ない。
この日もまた、シェリーは執務室で黙々と業務をこなしていた。
彼女の仕事は多岐にわたり、それこそ十代半ばの少女がやるようなことではない。古都での情報収集、古都貴族との社交、予算の管理、その他もろもろ。だがその全てにおいて、彼女はまさしく完璧だった。
全ては、自由を手にするため──。
(……うん?)
執務の最中、ふと、テーブルに置いた新聞に目を留める。
それは今日、執事が取ってきた朝刊の一つ。情報収集のため、彼女は古都に存在する全ての新聞社から新聞を取り寄せている。
その中でも、殊更にゴシップを扱う大衆紙。こういうのは大抵、真偽不明で裏取りも不確かなものばかりだが、それゆえに人目を
「……これは?」
そして、その日
あまりにも馬鹿馬鹿しく、そして、無視するにはあまりにも身近に過ぎた。
──某学院の教官Y、実はユグライル人だった!?──
この某学院がどこで、教官が誰なのか、分かる人が見れば一発で分かる。
何しろこの都市の教育機関は二つしかなく、うち学院といえば一つだけ。そしてそこに居る教官で、しかもユグライル人の生徒に教えている頭文字Yといえば、もう一人しかいない。
情報提供者によれば、から始まるその記事は、事実と噓を巧妙に織り交ぜたものだった。
たとえば、ユグライル人の生徒を
だが記事にそんなことなど一切書かれていない。
その教官は身元が不明だとか、貴族とのコネで不正に教官になっただとか、そして最後には、果たして彼のような人間が
「なによ、これ」
まったくもって馬鹿馬鹿しいと、新聞を机に放り投げ、椅子の背もたれに身体を預けながら天井を仰いだ。
確かに、記事の半分以上は事実だ。だがそこに、誇張と悪意を実に巧妙に織り交ぜて、読んだ人の怒りを駆り立てるような記事になっていた。
もっとも、これでユキトがクビになるなんてことはありえない。
彼が教官になったのも、生徒になったのも、特に法に触れるものではないし学院のルールに反するものでもない。
それ以上に彼は、戦技大会予選、しかも総合部門の優勝者──しかもその全てを圧倒し、試合時間の歴代最短記録を出した男。
それだけで、古都では半ば英雄扱いである。彼の記事を書かせてくれと、校門に記者の列が出来たことさえあった。その全てを断ったため、彼の顔を知る者は多くないが……。
──とはいえ。
「学院のほうは、少しうるさくなりそうね……」
一体誰が、こんな面倒な喧嘩を仕掛けたのか。
心当たりがあるだけに、シェリー・レレイは面倒そうにため息を
◆ ◇ ◆
奇妙な噂話が広まり始めたのは、つい二日前のことだ。
曰く、剣術教官であるユキトは、実はコネで不正に採用された。
戦技大会では相手を買収、脅迫して
それら全ての背後には旧ユグライル系の
「ここまでデマが膨れ上がると、馬鹿馬鹿しいとしか言いようがないわね」
イリアは生徒会室のテーブルに新聞を投げ捨てると、吐き捨てながらかぶりを振った。
ユキトに関する報道は、最初こそ事実を微妙に
しかも、それだけではない。
ユキトが指導しているユグライル人──つまりアイーゼのことまでも、まるでそれ自体が罪であるかのように
「オーランド伯爵のほうで止めてもらうことは出来ないのか?」
考え込むように告げたのは、生徒会書記、レーヴ・オルキュール。
本来ユキトと犬猿の仲──もっともレーヴが一方的に
事実、ユキトが罪を犯したなら別だが、あからさまなデマに乗るほど愚かではない。
だが彼の言葉に、イリアは苦々しそうな表情でかぶりを振った。
「父様はちょうど帝都に出てるわ。私が代行するとしても、下手をすれば、圧力をかけられたと喜々として報じるでしょう」
かつて貴族が情報を
今回のようなケース──明らかなデマであれば別なのだが、標的になっているのはただの平民のユキトだ。報道もオーランド家の名誉を傷つけないように立ち回っており、横から口を出すのも容易ではない。
(実に
ユキトと父が不在の間に流れた、実に悪質なデマ。
狙いすましたようなこれは、事情を知っている誰かの仕業であることは確か──。
「……つまり、この情報提供者というのは本校の学生ね。その上、多分どこかの貴族も関わってるわ」
生徒会長の席に座ったシェリー・レレイの声に、その場にいる全員の視線が集まった。
もしこの場で解決できる方法を出せる人間がいるとするなら、彼女以外にはありえないから。
「貴族、ですか?」
「多分、その学生の実家か何かね。一学生が新聞に情報を売っただけじゃ、こんな風にはならないもの」
なおも首を傾げるイリアたちを前に、シェリーは飲んでいた紅茶のカップをソーサーに戻し、テーブルの上で指を組む。
「今回のこの報道、どうあれオーランド伯爵家に喧嘩を売ってるようなものよ。普通の新聞社がこんな記事を一面で通すわけない」
「……つまり、貴族が背後にいると?」
「ええ。だから抗議なんてしなくて正解よ、イリアちゃん」
シェリーの言葉に、イリアは思わず胸を
もしもイリアが抗議していたら、恐らくこの噂は貴族社会全体の噂になっていた。
父の代行としての仕事は、母や執事たちに手伝ってもらっているものの、こうした政治的な嗅覚はイリアにはまだない。
「あと、こんなにも早く学内に噂が広まるのは不自然すぎる。誰かが流していると考えるべき。恐らく一人じゃないから、協力者もいるわね」
確かに記事になったとはいえ、購読者も少ないような大衆紙で、全員がそれを読んだとはとても
「次にこの記事の内容、彼についての情報が細かすぎる。特にアイーゼを指導してるなんて、学院の関係者でなきゃ知りえない情報よ」
シェリーはあえて言葉にはしなかったが、『アイーゼを贔屓している』という部分については、明らかに学生の目線から出た情報である。ちなみに言わなかったのは、何となくイリアの目を気にしたからだ。
「そして何より、記事の全体から漂うユグライル人への強烈な差別意識。そしてそれを
「──確かに」
一部貴族のユグライル人への反発は、平民のそれとはワケが違う。
なぜなら彼らは、かつてのユグライル戦役で家族を亡くし、あるいはその蛮行をその眼に焼きつけた者たちなのだから。
「……ということは、今回の話を流したのはユグライル人を差別している貴族で、しかも子息をこの学院に通わせている?」
「簡単に言えばそうなるかな」
イリアの言葉に頷き、シェリーはアイーゼに視線を飛ばした。
「……ん」
彼女は軽く頷き、そして席を立った。
この問題は、彼女ほど詳しい者は居ないだろう。表立ってユーグと呼ぶ者、そうでなくとも敵対心を抱く者、いずれもアイーゼは良く知っている。
だけど、とシェリーは思わず表情に影を落とす。
そのたびに、アイーゼはどれほど傷ついてきたのだろうと。
確かに、あの戦争はあまりにも
だがその戦争とアイーゼは関係ない。実際に戦争犯罪を犯した首脳部や兵士たちは既に裁かれ、この世に居ないというのに。
人は理性だけでは生きられない──その事実は、まるで人の本質がただの獣だと言っているようにシェリーには思えた。
(アイーゼ……)
なぜか、どうしようもなく。
親友の背中に言葉に出来ない感覚を、それこそ『嫌な予感』を覚えながら……シェリーはただ見送るしかなかった。