「う、うわあああぁぁ!!

 悲鳴が響き渡ったのは、地下にある薄暗い空間。

 その奥で、不吉な獣のうなごえと共に、いくつものけんげきと銃声がだましていた。それは間違いなく戦闘の音──それも、魔物と人間のである。

 彼らがあいたいしていたのは、四本足の獣。それも人の身長を優に超える巨体だ。

 だが──叫びと共に剣を振り下ろした先に、既にその影すらもない。

『グルル──』

 唸り声が、すぐ後ろから聞こえた。

 まるでその唾が首筋に触れたのかと思えるほどに、ひやりとした感触が全身を包む。

(し、死ぬ──!)

 ただの魔物だ、などという油断は一瞬で吹き飛んだ。速度、力、何もかもがりよがいの怪物──後悔など、もう意味がない。

 ゆっくりと、彼は周囲を見渡した。

 もう、立っているのは自分一人──。

 そんなさんげきを、椅子に座ってぼうかんする影が三つ。

 そのうちの一人が、あきれたようにおもむろに口を開いた。

「……あれってブラックウルフじゃなかったか、ユキト」

「いや、まあそうなんですけど」

「どー見ても違うと思うんだけどなァ。なんか巨大化しやがるし?」

「そういうものなのでは?」

 二人の会話を聞いていたもう一人、銀髪の青年は「普通、ブラックウルフは巨大化しないよ」と呆れたように首を振った。

 そう言われても、昔からそうなんだけど、とユキトは首をかしげるほかない。


 ……この施設はギルドの地下に位置する訓練場。そして今、彼らはブラックウルフことクロと、ハンターたちの訓練を見守っていた。

 言うまでもなく訓練、である。ただまあ、実際にこれが訓練として機能しているかは不明である。何しろ開始数秒でほぼ全滅したのだから。

「しかし知りませんでした。まさか白碑ホワイトベルトの結界が地下には影響しないなんて」

「ま、技術の限界ってやつだ」

 白碑ホワイトベルトというのは、いわゆるものけと呼ばれる結界であり、魔物はその中では活動できなくなってしまう。当然、黒狼ブラツクウルフと呼ばれる魔物であるクロもそのはずだが、普段はそれを無効化する首輪をつけているため無事だ。

 そして今回、グラフィオスの要請で、地下訓練場でクロと新人ハンターたちの実戦訓練を行っている、わけなのだが。

「……もうちょっと手加減が必要ですね」

 るいるいとなった訓練場を見ながら、軽く苦笑した。

 といっても、死者はない。さすがにクロは手加減も心得ていて、外傷さえほとんどないのだ。ただ単純に、殺気と恐怖で気絶しただけ。

 ぺしぺし、と巨大化を解いて気絶者の頭をたたくクロの姿は、「これで終わり?」と実に不満そう。窮屈くびわから解放されて半ば遊んでいるだけなのかもしれない。

「いや、これでいいのさ」

「そうですか?」

「勝てねぇからって相手が手加減してくれるか? 世の中ってのは理不尽なもんだ。人間も、魔物もな。こっちの事情なんて、あいつらは考慮してくれねぇ」

 理不尽の中で、いかにあらがい、いかに生き残るのか。答えなどないが、経験があるかないかはうんでいの差だ。

 確かにそうだなとうなずく俺に、グラフィオスは肩を回して椅子から立ち上がった。

「とりあえず叩き起こすか……ユキト、クロにもうちょい殺気を緩めてやれって言ってくれ」

「グラフィオスさんから説明すれば大丈夫ですよ。クロは頭が良いので」

 そうか? と言いつつ、バケツ片手に歩み寄るグラフィオスに、クロがじゃれつくように駆け寄った。

 ああしてみると、子狼の頃からクロは変わらない。魔物だ魔獣だの言われても、俺にとってはただの家族だ。

「──今日はありがとう、ユキト君。訓練にクロを貸してくれて」

「いえ、クロも楽しんでますから」

 クロの日常は、朝に散歩、昼は自由に散策、夕方になるといつの間にか校門で俺を待っている。

 週に一度ほど、実家の掃除も兼ねて山に登っているが、やはり首輪を外して遊ぶほうが楽しそうに見える。

「さて、報酬についてだけど──」

 とはいえ、無報酬なわけもない。

「確か、僕に願い事を聞いて欲しいって話だったよね? グラフィオスさんではなく、どうして僕に?」

 そうなのだ。今回の依頼について、俺は報酬を彼にお願いした。しかしそれは金銭ではない。

 俺は一応、学院の客員教師のような立ち位置にある。副業が禁止されているわけではないが、学院──正確にはその上層にある軍──とギルドは複雑な関係にあって、ギルドと親密すぎるのはあまりよろしくない。

 まあ、明文化された規則でもなし、俺自身の立ち位置が非常に微妙ということもあって、そこまでかたひじを張るものでもないが。

 だが報酬をお願いという形にしたのは、それ以上に、これが渡りに船だったこともある。

「シルトさんって魔法を使いますよね」

「ああ、うん、まあ」

 何度か見せてもらった風の魔法。あれは気術のたぐいではない、確かに魔法だった。

「出来たら、俺に魔法を教えて欲しいんです」

「……魔法に興味があるのかい?」

「ええ。正確には魔法そのものというより、その対抗策というか」

 事情をシルトに説明する。

 魔法使いに苦汁をなめさせられ、まんまと逃げられてしまったこと。

はくしやくには相談したのかい?」

「それが、伯爵はしばらく古都の外にいるらしくて……」

 イリアに相談しようと思ったが、結局なんだかんだと、あれから声を掛ける機会がない。それにやはり、教え子にくというのも抵抗がある。

 なるほど、とシルトは頷き、しかし首を振った。

「残念だけど、僕がユキト君に教えるわけにはいかない」

「……そう、ですか」

「意地悪を言ってるわけじゃない。僕じゃ無理って話なんだ」

 どういうことだとシルトに目線を向けると、彼はかぶりを振った。

「魔法──いや、魔術は危険な技術だ。だからその伝授には、特別な資格がいる」

「資格?」

魔術師メイガスと呼ばれるマスターしか、魔術を教えることは出来ない。帝国法上そうなっているから、僕が君に魔術を教えたりしたら、僕も君も捕まることになる」

 なるほど、と頷いた。だから学院に魔術の授業がなかったのだ。しかしそうなると、学院になぜ魔術師メイガスがいないのだろうか、という話になるが──。

「いや、学院に魔術師メイガスはいるはずだよ。でもね、ちょっとややこしくて──魔術はあまり大っぴらに教えられるものでもないんだ」

「どうしてですか?」

「それは──」

「連中が偏屈だからさ」

 不意に、グラフィオスの野太い声が割り込んだ。新人たちを叩き起こした後なのか、彼の背後では、座り込んで体力を回復しているハンターたちが、元気に訓練場を走り回るクロに何やら恐ろし気な目を向けている。

「なんだ、魔術に興味あんのか? もし魔術師メイガスを探すなら、ドグマの連中はやめとけよ。どいつもこいつも偏屈ジジイばっかで、くだらん政治に巻き込まれるぜ?」

「ドグマ……?」

帝国魔導院ラビリンス・ドグマさ。まあ確かに、ユキト君の場合は注意が要るか──」

 いわく、帝国魔導院ラビリンス・ドグマとは帝国最高峰の魔術士養成機関であり、同時に魔術界における最高峰の権威であるという。

 魔術師メイガスを見つけるとなれば大抵ここに依頼することになるし、例えば伯爵に頼んだ場合は、魔導院の魔術師メイガスが派遣されることになるだろう。

「ふむ」とシルトは何かを思い出したように口元に指をあて、そして小さく「そういえばこの時期か」と小さくつぶやいた。

「ユキト君、魔術師メイガスの件は僕に任せてもらっていいかな?」

「もしかして紹介してもらえるとか?」

「ああ。僕の知る中で、最高の魔術師メイガスを紹介するよ」

 そう言う彼の微笑ほほえみは、いつものそれよりも、ずっと素顔に近いように見えた。


   ◆ ◇ ◆


 士官学院の敷地はとにかく広い。山一つを丸々使い、射撃場やそれこそ兵器などを試すような大フィールドも存在する。

 戦車の操縦などはカリキュラムに含まれないが──そもそも免許が必要で、学生には不可能だ──銃の分解と組み立て、三回生からは重火器を取り扱う授業まである。

 軍学校よりもはるかに自由な雰囲気を持つ士官学院だが、授業までもそうではない。わずかなミスが命取りになる授業もあるのだから、常に緊張感があった。

 閑話休題、その広大な敷地の中には授業に使われていない場所も存在する。

 アルネラ・ディルモントが居る校舎から離れた場所にあるこの森も、そのうちの一つだ。

「ふう……」

 座禅を組み、深く息を吸って、吐き出す。

 背中から伝わる熱が心臓に伝わり、心臓から全身へと流れていく、奇妙な感覚。

「──うん、いいね」

 アルネラの背中から手を離したユキトは、そう言って頷いた。

「やっぱり君には才能がある。魔術じゃなくて、気術のね」

「気術、ですか」

 帝国において『気』という概念がある程度体系化されはじめたのは、つい最近のことだ。それでも帝国──というか大陸では、気はオーラとも呼ばれ、魔力と同一のものという扱いを受けていた。

 しかし東方の文化が帝国に流れ込んだとき、その武術体系もまた流れ伝わって、気術は少しずつ体系化されていった。

 だがそんな才能があると言われても、アルネラはこれっぽちも信じられない。ディルモントの弓といえばきゆう、すなわち魔術だからだ。

 だがこの半月。

 ユキトに受けた『訓練』によって齎されたものは、あまりに劇的だった。

「わたし、気術の訓練ってもっとこう……滝に打たれるとかだと思ってました」

「はは」

 アルネラの言葉にユキトが笑う。

 彼の『訓練』は実に単純だった。座禅を組んだ状態で、ユキトがアルネラの背に手をあて、呼吸を繰り返す。

 呼吸一つにさえ技術があるのだと、アルネラは初めて知った。

「錬気っていうのは、要は全身を流れるエネルギーだよ。それを何倍にも、何十倍にも増幅させて使うんだ」

 ユキトは「まあ細かい理論とかは知らないけど」と笑ったが、あいまいとしたその話が、アルネラは実体験として既に体感していた。

「──行きます」

 座禅を終えたあとは、いつものルーティンへ。

 的に向かって弓を構え、もう一度呼吸を整える。呼吸によって増幅、倍化を繰り返し、徐々に感覚が鮮明となっていく。

 タンッ、と軽やかに放たれた三本の矢が、同時に風に舞う木葉を貫き、緩やかなカーブを描いてその先の的にまで突き立った。

「お見事」

 パチパチと手を叩くユキトに、アルネラはぱっと顔を明るくして振り返った。

 だが。

「そろそろいい時期かな」

 見上げた彼の笑みに、猛烈に嫌な予感がして、思わず笑顔をひきつらせた。

 これまでアルネラが課された訓練は、座禅だけではない。それこそ死ぬほど校庭を走らされたり、殺気に耐える訓練と称して魔物──クロだ──に追い回されたり。そのたびに死ぬ思いをしてきたが、そうした訓練の前は大抵この顔をするのだ。

 ……そしてやはり、というべきか。

 今回の彼女の予感は、大いに当たることになる。


「な、なんですか、これ……」

 それから、わずか数日後。

 アルネラたち、集団戦メンバーである四人がユキトに率いられてやってきたのは、古都の外。うつそうと広がる、緑の壁ともいうべき大樹海──しやようの森。

 本来、この森は人が立ち入れる場所ではない。遊歩道など当然なく、特にその深部はほぼ全く手つかずの原生林が広がっている。

 手つかずとはつまり、魔物が出没する地域ということである。

 しかし士官学生たちにとっても、毎年のように野外訓練がある場所である。学院トップに数えられる彼らにとって、そこまで危険な地域ではない──はずだった。

 彼らがユキトに連れてこられたのは、斜陽の森の深部。

 アルネラはおどおどしながらも周りを見回すが、見た目そう変わりないように見える。なのに、何なのだろうか。先ほどから全身に突き刺さるような、この嫌な感覚は。

 ただ知識として分かるのは、さいと深部ではまるで違うということ。ここはそれこそ、ハンターでさえ容易に踏み込むことのない危険地域レツドエリア

「さて、それじゃ訓練を始めようか」

 だが困惑するアルネラたちをよそに、ユキトは荷物──恐らくあらかじめ森に持ち込んでいただろう大荷物──を指さした。

「……これ、テントですか?」

 その通り、とユキトは手を叩く。

「これから一週間、君たちにはこの森で過ごしてもらう」

「はぁ!? ちょっと、授業は、それに食料は!?

 声を上げるミリーに、こくこくとアルネラは頷く。

 ここまでの流れ、口を挟む余裕など一切なく、説明されたのは『野外授業』とだけ。

 授業に関しては学院に届け出済み。あとで多少の補習はあるだろうが、正式にカリキュラムとして組み込まれた授業の一環だという。

 しかしユキトは、

「そこにあるだろ?」

 と、森を指さした。

 要は、サバイバル。しかも極めて危険な魔物の領域。いつ襲われるか分からず、常に気を張り続けなければならない。

 不安そうにアルネラは周囲を見渡し、そして気づく。先ほどから全身に刺さるようなこの違和感は、周囲にひそむ魔獣たちの、殺気交じりの視線であることに。

まきは木を切ればいいし、テントがあるだけ優雅ってものさ」

「アンタねぇ──!

「話してる余裕はないぞ?」

 ユキトが言うやいなや。

 木々の向こうから、まるでこちらをうかがうように、狼の群れが姿を現した。ただの狼ではない──しんに染まるそのは、まさしくろうあかし

「それじゃ、はじめようか」

 後に、彼らは述懐する。

 ユキトのその笑みは、まさしく悪魔のそれだったと。


   ◆ ◇ ◆


 シェリー・レレイは伯爵令嬢である。

 レレイ伯爵家といえば、古くは黄金街道の一角を任されるほどの名門貴族であり、かつてこうごうにも選ばれ、強大な権勢を誇っていた。

 貴族解体とも称される政変以降、大半の領地を失い黄金街道の祝福を失いはしたが、かといってその権勢全てを失ったわけではない。

 斜陽の中にあってなお、伯爵夫人は社交界で二花の一つと称され、現貴族派の中でも相当な影響力を有していた。

 もっとも、かの『おうごんきよう』オーランド伯爵ほどではない。シェリー・レレイが親元を離れ、ただ一人で古都に来ることになったのは、レレイ伯爵家がオーランド家を意識してのことだ。けんせいか、あるいは取り入るためなのか……。

 ──もっとも。当人であるシェリーにそんなつもりなど毛頭ない。

 この日もまた、シェリーは執務室で黙々と業務をこなしていた。

 彼女の仕事は多岐にわたり、それこそ十代半ばの少女がやるようなことではない。古都での情報収集、古都貴族との社交、予算の管理、その他もろもろ。だがその全てにおいて、彼女はまさしく完璧だった。

 全ては、自由を手にするため──。

(……うん?)

 執務の最中、ふと、テーブルに置いた新聞に目を留める。

 それは今日、執事が取ってきた朝刊の一つ。情報収集のため、彼女は古都に存在する全ての新聞社から新聞を取り寄せている。

 その中でも、殊更にゴシップを扱う大衆紙。こういうのは大抵、真偽不明で裏取りも不確かなものばかりだが、それゆえに人目をくのもまた事実である。それがどれだけせんであっても、大衆の意思がどこにあるかを常に把握しておくのは、為政者として極めて重要なことである。巨木がありの群れによって朽ちるように、どれほど強大な国家であっても、民心を失えば容易に崩れるのだから。

「……これは?」

 そして、その日つづられていたその記事は。

 あまりにも馬鹿馬鹿しく、そして、無視するにはあまりにも身近に過ぎた。


 ──某学院の教官Y、実はユグライル人だった!?──


 この某学院がどこで、教官が誰なのか、分かる人が見れば一発で分かる。

 何しろこの都市の教育機関は二つしかなく、うち学院といえば一つだけ。そしてそこに居る教官で、しかもユグライル人の生徒に教えている頭文字Yといえば、もう一人しかいない。

 情報提供者によれば、から始まるその記事は、事実と噓を巧妙に織り交ぜたものだった。

 たとえば、ユグライル人の生徒をひいにしているとか。このユグライル人の少女は、間違いなくアイーゼ・リリエスに違いない。ユキトは確かに彼女に教えているし、贔屓していると言われればその通りだが、それは彼女の事情と才能あってのことだ。そして実際に、アイーゼはその才能を大会予選で証明してみせた。

 だが記事にそんなことなど一切書かれていない。

 その教官は身元が不明だとか、貴族とのコネで不正に教官になっただとか、そして最後には、果たして彼のような人間がきようべんをとって良いのだろうか、などと締められている。

「なによ、これ」

 まったくもって馬鹿馬鹿しいと、新聞を机に放り投げ、椅子の背もたれに身体を預けながら天井を仰いだ。

 確かに、記事の半分以上は事実だ。だがそこに、誇張と悪意を実に巧妙に織り交ぜて、読んだ人の怒りを駆り立てるような記事になっていた。

 もっとも、これでユキトがクビになるなんてことはありえない。

 彼が教官になったのも、生徒になったのも、特に法に触れるものではないし学院のルールに反するものでもない。しようへい教官も特別聴講生もずっと前に、かつて貴族が権勢を誇っていた時に作られた制度だ。あまりにも古臭くて、今どき使われることは少ないが。

 それ以上に彼は、戦技大会予選、しかも総合部門の優勝者──しかもその全てを圧倒し、試合時間の歴代最短記録を出した男。

 それだけで、古都では半ば英雄扱いである。彼の記事を書かせてくれと、校門に記者の列が出来たことさえあった。その全てを断ったため、彼の顔を知る者は多くないが……。

 ──とはいえ。

「学院のほうは、少しうるさくなりそうね……」

 一体誰が、こんな面倒な喧嘩を仕掛けたのか。

 心当たりがあるだけに、シェリー・レレイは面倒そうにため息をいた。


   ◆ ◇ ◆


 奇妙な噂話が広まり始めたのは、つい二日前のことだ。

 曰く、剣術教官であるユキトは、実はコネで不正に採用された。

 戦技大会では相手を買収、脅迫してちよう試合を行った。

 それら全ての背後には旧ユグライル系のざいばつによる資金力があり、彼はその財閥から送り込まれた帝国へのかくである──。

「ここまでデマが膨れ上がると、馬鹿馬鹿しいとしか言いようがないわね」

 イリアは生徒会室のテーブルに新聞を投げ捨てると、吐き捨てながらかぶりを振った。

 ユキトに関する報道は、最初こそ事実を微妙にわいきよくしたものであったが、いつしかデマが膨れ上がり、今ではほぼ全て噓で塗り固められていると言って良い。それも悪意に満ちた噓で。

 しかも、それだけではない。

 ユキトが指導しているユグライル人──つまりアイーゼのことまでも、まるでそれ自体が罪であるかのようにつづられている。

「オーランド伯爵のほうで止めてもらうことは出来ないのか?」

 考え込むように告げたのは、生徒会書記、レーヴ・オルキュール。

 本来ユキトと犬猿の仲──もっともレーヴが一方的にえているだけだが──であるレーヴだが、今回の報道はとても歓迎できるものではない。

 事実、ユキトが罪を犯したなら別だが、あからさまなデマに乗るほど愚かではない。

 だが彼の言葉に、イリアは苦々しそうな表情でかぶりを振った。

「父様はちょうど帝都に出てるわ。私が代行するとしても、下手をすれば、圧力をかけられたと喜々として報じるでしょう」

 かつて貴族が情報をいんぺいできたのも今は昔。報道法の成立以後、国家治安に関わるものでなければ口を出すのも容易ではない。

 今回のようなケース──明らかなデマであれば別なのだが、標的になっているのはただの平民のユキトだ。報道もオーランド家の名誉を傷つけないように立ち回っており、横から口を出すのも容易ではない。

(実にずるがしこいこと──)

 ユキトと父が不在の間に流れた、実に悪質なデマ。

 狙いすましたようなこれは、事情を知っている誰かの仕業であることは確か──。

「……つまり、この情報提供者というのは本校の学生ね。その上、多分どこかの貴族も関わってるわ」

 生徒会長の席に座ったシェリー・レレイの声に、その場にいる全員の視線が集まった。

 もしこの場で解決できる方法を出せる人間がいるとするなら、彼女以外にはありえないから。

「貴族、ですか?」

「多分、その学生の実家か何かね。一学生が新聞に情報を売っただけじゃ、こんな風にはならないもの」

 なおも首を傾げるイリアたちを前に、シェリーは飲んでいた紅茶のカップをソーサーに戻し、テーブルの上で指を組む。

「今回のこの報道、どうあれオーランド伯爵家に喧嘩を売ってるようなものよ。普通の新聞社がこんな記事を一面で通すわけない」

「……つまり、貴族が背後にいると?」

「ええ。だから抗議なんてしなくて正解よ、イリアちゃん」

 シェリーの言葉に、イリアは思わず胸をでおろす。

 もしもイリアが抗議していたら、恐らくこの噂は貴族社会全体の噂になっていた。

 父の代行としての仕事は、母や執事たちに手伝ってもらっているものの、こうした政治的な嗅覚はイリアにはまだない。

「あと、こんなにも早く学内に噂が広まるのは不自然すぎる。誰かが流していると考えるべき。恐らく一人じゃないから、協力者もいるわね」

 確かに記事になったとはいえ、購読者も少ないような大衆紙で、全員がそれを読んだとはとてもかんがにくい。何しろイリアも、シェリーから教えられるまで一切気づかなかったほどなのだから。

「次にこの記事の内容、彼についての情報が細かすぎる。特にアイーゼを指導してるなんて、学院の関係者でなきゃ知りえない情報よ」

 シェリーはあえて言葉にはしなかったが、『アイーゼを贔屓している』という部分については、明らかに学生の目線から出た情報である。ちなみに言わなかったのは、何となくイリアの目を気にしたからだ。

「そして何より、記事の全体から漂うユグライル人への強烈な差別意識。そしてそれをあおるような言論。……これを書かせたのは、まず間違いなく貴族だと思う」

「──確かに」

 一部貴族のユグライル人への反発は、平民のそれとはワケが違う。

 なぜなら彼らは、かつてのユグライル戦役で家族を亡くし、あるいはその蛮行をその眼に焼きつけた者たちなのだから。

「……ということは、今回の話を流したのはユグライル人を差別している貴族で、しかも子息をこの学院に通わせている?」

「簡単に言えばそうなるかな」

 イリアの言葉に頷き、シェリーはアイーゼに視線を飛ばした。

「……ん」

 彼女は軽く頷き、そして席を立った。

 この問題は、彼女ほど詳しい者は居ないだろう。表立ってユーグと呼ぶ者、そうでなくとも敵対心を抱く者、いずれもアイーゼは良く知っている。

 だけど、とシェリーは思わず表情に影を落とす。

 そのたびに、アイーゼはどれほど傷ついてきたのだろうと。

 確かに、あの戦争はあまりにもさんなものだった。特に第二次ユグライル戦役において、ユグライル王国──いや、共和国は休戦協定を破り、突如として帝国に侵略した。の民が虐殺され、あまの戦争犯罪が行われた近代史最悪の戦争。

 だがその戦争とアイーゼは関係ない。実際に戦争犯罪を犯した首脳部や兵士たちは既に裁かれ、この世に居ないというのに。

 人は理性だけでは生きられない──その事実は、まるで人の本質がただの獣だと言っているようにシェリーには思えた。

(アイーゼ……)

 なぜか、どうしようもなく。

 親友の背中に言葉に出来ない感覚を、それこそ『嫌な予感』を覚えながら……シェリーはただ見送るしかなかった。