
この世界における文明の歩みは、あまりに早い。ほんの数十年前まで剣と魔法による中世ファンタジーのような世界であったのに、今では車が
だが鮮やかすぎる光は、同時に闇を生み出す。
ゴミが散乱し、スプレーの落書きが壁を埋め尽くす路地裏で、一人の男が血だまりに沈んでいた。
ネオンの光も、人の
『駄目……!』
──そう、煩わしい。
止まらない血を、傷口を手で覆おうとするこの愚かな女も。
『死んじゃ駄目……!』
どうしてこの女は泣くのだろうと、薄れていく意識の中で男は思った。
自分が生まれた時に母は死んだ。父はどこの誰とも知らない。十歳の時に姉は犯されて死に、友はバカをやって刺されて死んだ。
人は死ぬ。それが摂理だ。だからこそ、この女が泣いている理由が分からない。
(……どうして)
どうして、目を閉じさせてくれないのだろう。
こんなにも眩しくて、今にも目が潰れそうなのに。
この数日、彼にしか見えなかったはずのその光が、まるで漏れだすように路地裏を白く染めていく。
それは、この世にはないはずの光。奇跡とでも呼ぶべき神聖な光だった──。
「…………」
路地裏が白く染まっていくさまを巨大スクリーン越しに見ながら、ぱくりと手元のポップコーンを口に運ぶ。
……そう。俺がいるのは路地裏ではないし、もちろん帝都でもない。シネマ・フラタニティという名前の、繁華街にある映画館だ。
この世界の文明レベルは地球とそこまで変わりがない。……ただ異世界に来てまで、ポップコーン片手に映画を見ることになるとは、正直思ってなかった。
(聖女アドニアスねぇ……)
映画のタイトルは『聖女の再臨』。聖女の再来とされる貴族の少女と、路地裏で育った少年のラブストーリーがメインらしい。
貴族の反対を押しのけ、様々な困難を乗り越えて、二人はハッピーエンド……という定番の流れだった。
「貴族的にはオッケーなのか、あれ?」
どう見ても貴族批判になる気がするが。
スタッフロールが流れる中
「さすがに、この程度で問題になることはありませんよ。特定の貴族を
意外に思えるかもしれないが、この帝国での貴族の力は中世ほどではない。平民を無礼打ちなんてしたら普通に捕まるし、貴族としての
まあ、色々と抜け道もあるようだが……。
「どうでした、先生?」
席を立ち、顔を
「楽しめたなら良かったです。最近、大変なことが多かったですし……」
気分転換にと誘ってくれたイリアさんは、そう言ってにこりと笑った。
他人から見れば、今の俺はとても恵まれていると思われるだろう。
何しろ映画といえばデートの定番。そして俺の横に居るのは絶世の美少女。映画の最中ですら、彼女の顔を見ようといくつもの視線が注がれていた。そしてそのたびに、あの横に居るモブは何だという視線に
ただ俺は正直、そんな
(大変なこと、か)
──
戦技大会の裏で巡らされていた
俺は
ただ、たとえ過去に戻れたとして、やはり俺は彼女を止めるだろう。自分を犠牲にしながら剣を振るう彼女を、ただ見ていることなんて出来なかった。そういう俺のエゴだ。
(だから犯人を捕まえるのにも協力したってのに……)
あの、
ちっ、と舌を打つ。
「先生?」
「いや、ごめん。なんでもない。イリアさんも楽しめたなら良かった」
俺の言葉に、彼女はぴたりと足を止める。
「? どうした?」
「──言ったはずですよね、先生。その呼び方は止めてください」
「う」
実は最近、俺たちの間では少しの変化があった。呼び捨てで呼べ、という彼女の要望に、俺が折れたのだ。
実際、俺たちの関係はクラスメイトというより師弟に近い。さん付けは良くない、という彼女の言には確かな説得力があった。
「分かったよ──イリア」
「はい」
にっこりと彼女は笑って頷いた。
その後も映画の感想をあれこれ言い合いながら歩き、俺はふと、イリアの横顔に視線を送った。
今日の彼女はひどくご機嫌だ。
「──聖女っていうのは、正真正銘歴史上の人物なんですよ。人を
「そういえば、回復魔法ってないんだっけ」
これは意外な事実であるが、魔法に他人を回復させる、つまり傷や病を癒す力はないのだという。
自分自身の傷を多少治すものならば使える者は多いが、これが他人の傷となれば話は別らしい。
回復魔法といえばファンタジーの定番だが、確かに言われてみれば、この世界には普通に病院があるし、誰かが他人の傷を癒すところも見たことがない。
(俺は魔法について、ろくに知らないんだよな……)
じいさんが俺に教えてくれたのは剣術で、魔法みたいな技もあくまで剣術の延長線上。魔法はどういう原理で動いていて、どういうものがあるのかロクに知らないし、知ろうともしてこなかった。その慢心が、あの魔法使いを逃がしたといっても過言ではない。
(学院で調べてみるか)
学院には魔術の講師もいるし、図書館もある。
目の前のイリアに
(ここ最近、生徒の指導も順調だしな。それぐらいの時間はあるだろ──)
……後に俺はこの考えを、こう評することになる。
そう思っていた時期もありました、と。
◆ ◇ ◆
「……はい?」
夏。ヴィスキネル士官学院の学長室で、思わず
異世界の夏は、日本のそれとほぼ変わりがない。うだるような暑さと、息苦しさを覚える湿気、そして
そして、クーラーの効いた部屋の極楽さもまた、ここが異世界であることを忘れるほどに同じだった。
「あら。聞こえませんでしたか?」
革張りのソファーに腰を下ろし、お茶を手に小さく笑うミレーユ学長──老齢であるが、エルフのような
「いえ……ただその、なんというか、耳を疑うというか」
「その反応は正常だと思いますよ」
ずず、と緑茶を
「……本当なんですか? 学徒戦に出場した生徒が、学校を辞めるなどと」
「ええ」
驚嘆に値するそのニュースを、彼女はあっさりと首を縦に振って肯定した。
学徒戦というのは、先日に行われた戦技大会予選で、学生を主体として行われた武術の大会の通称だ。この帝国において戦技大会は大層な権威を持つ大会であり、総合優勝を果たせば貴族の仲間入りとてありえない話ではない。学生だけで行われる学徒戦であっても、勝ち進めば将来が約束されることはまず間違いないほどだ。
魔物という脅威の中で生き残り続けた帝国において、強さとはそれだけの価値がある。
だから、本戦への切符を手にしながらそれを辞退するとは、まず考えにくい事態だ。
「こればかりは、仕方がないのですよ」
「……といいますと?」
「その生徒は、
ぴたり、と手を止める。
(まさか──)
ありえない、と思う。
思いながらも、脳裏に浮かんだのは銀髪の少女。アイーゼ・リリエス……彼女は望まぬ婚約を押し付けられ、それに
事実、彼女は完璧な優勝で予選を突破し、帝都で行われる本戦への切符を
「安心なさい。結婚するのはアイーゼ・リリエスではありませんよ」
くすり、と笑うように告げた学長の言葉に、思わず顔を上げる。……どうやら
すっと差し出された写真に、ああ、と思わず
もちろん見覚えがあった。最近、戦技大会に出場する選抜メンバーは、大なり小なり教官として
「彼女自身、結婚は望んでいたようです。貴族の結婚ではありますが恋愛結婚ですよ」
「はあ……。でも、結婚なら大会が終わってからでも──」
言いかけて、学長の有無を言わせぬような笑顔に圧倒され、思わず察した。
……なるほど。
それはまあ、出場なんて出来っこないだろう。
「そこでユキトさんに、新たなメンバーを選出して頂きたいのです」
「俺に? なぜです? 適任ではないと思いますが」
確かに、剣という分野であれば多少教えることは出来る。
だがそれ以外で、俺に教えられることがあるとはあまり思えない。まして欠員となったメンバーを選ぶには力不足だろう。
だが俺の心情を察してか、「
「戦技大会予選で、学徒戦の全ての部門を我が校が制覇出来たのは、間違いなく
「……それは過大評価です」
「私はそうは思っていない、ということです」
学長は
「間もなく長期休暇が始まります。長期休暇は本戦に向けて、最後の訓練期間になるでしょう。それまでにメンバーの選出を済ませてください。これは、本校学長としての正式な依頼です」
そう言われても、これ以上手を広げれば自分の修行の時間も取れなくなる。ここは断るべきだろう。
「ちなみにボーナスも出ますよ。これくらい」
「喜んでやらせていただきます」
◆ ◇ ◆
「ごめんね~、お昼休みに呼び出しちゃって」
学長に呼ばれたその日の昼。学内に響き渡った全校放送で、俺とイリアの二人は生徒会室に呼び出されていた。
そしてわざわざ俺たちを呼び出すために、全校放送なんて手を使ったこの少女はシェリー・レレイ。ヴィスキネル士官学院全生徒のトップともいえる生徒会長だ。
「……呼ぶなら普通に呼びに来てください。わざわざ放送なんて使わずに」
「だってこういう時じゃないと使わないしさぁ」
それが理由じゃないでしょう、とイリアはシェリーを
戦技大会予選を過ぎた今、俺とイリアの二人は付き合ってるのではないか、を越えてむしろ公認カップルのように扱われつつあった。
俺が
そしてそんな話題の二人が、全校放送で呼び出される。校内がどよめくのも無理はない。
……そしてこの人は、そういうイタズラを喜々としてやる人なのだ。
「あ、でも用事があったのは本当だよ。ね?」
生徒会書記のリリーさんが
「……先生?」
なぜか半眼で反応するイリアに、思わず肩を揺らす。おかしい。俺は今怒られるようなことをしただろうか。
「あはは、違うってイリアちゃん。さすがにユキト君を
「盗るって何ですか。先生はものではないですよ、会長」
「ふ~ん」
ニヤニヤするシェリーと、静かに流すイリア、そして青筋を立てるレーヴ君──いや。
「そう言えば、レーヴ君がいないな」
「彼には今日は遠慮してもらいました。そっちのほうがいいと思って。ね、ユキト教官」
シェリーの軽いウィンクに、はは、と軽く笑いを漏らす。
「実は、例の新メンバー選び、生徒会で補助することになったの」
「新メンバー選び?」
首を傾げるイリアに、俺は学長から頼まれた依頼を説明する。

学徒集団戦のメンバーが抜けたこと、そして新メンバーの選出を任されたこと。
「なるほど……それで、レーヴ君がいないんですね。彼は候補の一人ですから」
確かに、この部屋には候補は居ない。
イリアは既に総合部門予選に出場したから除外だし、シェリーはいわずもがな学術科の生徒で対象外、リリー書記は実力的に候補外だ。
「それで、どうやって選ぶんですか? まさかもう一度
この戦いの中で学内ランキングを決め、学徒戦の出場者が選出されている。
ちなみに、この
「さすがにそれはないかな。もう長期休暇は間近だし……」
「そうだね。それに、集団戦の場合は個人の力量もそうだけど、連携が大事だし」
シェリーの言う通り、集団戦となれば、個人の力量より連携と戦略のほうが大事だ。これまで集団戦のメンバーは、時間の都合もあってほとんど何も手伝ってないが、これから本戦に向けて本格的に指導していく必要もあるだろう。
(新しいメンバー、か)
まったく面倒なことを押しつけられたものだと、ユキトは深くため息を
◆ ◇ ◆
学院におけるユキトの立場は、色々な意味で複雑だ。
一面では剣術の教官として、もう一面では学院の生徒でもある。ただし特別聴講生であって、本当の意味での生徒ではない。生徒の中で唯一私服ということもあって、色々な意味で目立つ。
これがどれほどの特別扱いか。これがヴィスキネル士官学院でなければ、こんな事例はまずまかり通ることはなかっただろう。
──それゆえに。
彼が力を証明した今も、少なからぬ反発が存在する。
「こんなことが許されると思うか?」
そう問われて、ベイリー・グレンデマンは軽く頰を搔いた。
いかにも
とにかく、モテる。外見が整っているのは言うまでもなく、それ以上に、彼の
その上、四回生の中ではトップクラスの剣士でもある。……まあ、『不作の年』と呼ばれる四回生の中では、だが。
「許されるかって言われてもなぁ……」
「
彼に詰め寄るのは、金髪の少年だ。それも、いわゆる高位貴族の家の出の。
「お前も名門の子息だろう! あんなぽっと出の──」
(ぽっと出だろうが何だろうが、腕は本物なんだからそれでいいじゃないか)
はあ、とベイリーは深く息を吐く。
ちなみにだが、彼とベイリーは別に友人でもなく、大した知り合いでもない。
共通項がもしあるとしたら、同じ貴族
度重なる革新によってもたらされた急速な変化に置いていかれた、悲しき異物──ベイリーの抱く貴族派閥のイメージはそれだ。
(第一、コイツの本音は──)
「しかもあのオーランド伯爵に目をかけられているからと、イリア嬢に対してあんなにも
これだからなぁ、と肩をすくめた。
イリア・オーランドは、ヴィスキネル士官学院における
ただその性格から、いわゆる
そりゃあ、やっかみの一つや二つもあるというものだろう。
「とにかく! あんな教官を認めるわけにはいかんのだ」
「……で?」
「それで俺に何を言いたいんだ? 言っておくけど、彼をクビに出来る権限が俺にあるわけないからな」
こちとらただの
これが例えばオーランド伯爵とかなら、まあ分からなくはないが。
「だが、生徒の署名が集まれば学院として無視することは──!」
「その署名、これまで何人が協力したんだい?」
ベイリーの疑問に、貴族生徒は「うっ」と
「どう考えたって集まるわけないだろ? 戦技大会予選の優勝枠を独占したのは、どう考えてもあの人のお
「そんなのはまやかしだ! あんな
(何の根拠があって……)
まあ確かに、集団戦のメンバーのうち、ユキトの指導を受けたのはベイリーともう一人ぐらいのものだ。だが、そのお陰で多少の実力がついたのは事実。予選突破にユキトの協力が必要なかった、などということはありえない。
はっきりと断ろうとベイリーが口を開いた、その時。
ぬるり、と彼らの頭上に影が差す。
岩のような、あるいは熊のような巨体が、彼らを見下ろしていた。
「な、なんだお前」
「……すまんが、ベイリーに話がある」
「俺が話してるのが見えんのか……!?」
それに対する返答は、無言の目線。しかも頭一つは上から見下ろされ、その迫力に貴族の生徒が押されるように後ずさる。
「……グレンデマン。とにかく、よく考えろ。誰に付くのかをな!」
(いや、お前には付かねぇよ)
などという胸中は口に出さず、ベイリーはひらひらと手を振る。
「……すまん、邪魔をしたか」
「いや、いいタイミングだった」
にこりとベイリーは笑う。まさしくそれは花が咲くような、これが漫画なら後ろに
「で? どうした、ゴドル」
ゴドル・ヴォルド。ベイリーと同じく四回生で、そして同じ集団戦のチームメンバー、頼れる
「……ミサの代役についてだ」
「ミサの?」
ミサというのは、集団戦の元チームメンバーであり、そしてつい最近、
いわゆるできちゃった婚というやつだが、相手の男子生徒に訊くに、どうも本人が狙っていた節がある。
ベイリーたちにとっては困った話だが、その行動力たるや、まったくもって感心するほかない。
「……ユキト先生が、代役を選ぶらしい」
「へえ」
それは面白い、とベイリーは顎に手を当てて笑みを浮かべる。
集団戦メンバーの中でユキトと最も接点が多いのは、剣術クラスを専攻しているベイリーである。しかも真っ先に教えたのが剣の技術ではなく、盾の技術だったことには驚かされた。
彼が新たなメンバーを選ぶとなれば、今後の訓練も彼が担当してくれるということになるだろう。
ただ、問題は──
「ミリーのやつが問題を起こさなきゃいいんだが」
「…………」
やや不安そうに呟いたベイリーに、ゴドルはただ沈黙を返した。彼もその光景をありありと想像してしまったのだろう。
軽い冗談のつもりだったが、それが現実になってしまいそうで……そしてその場合、十中八九自分たちも巻き込まれるだろうと、ベイリーは口の端をひくつかせた。