事件屋ランナー】[名詞]Replacement-Union-Normalized-Number-Employee-Resolver

 衛星軌道国家と地上都市国家の衝突から続いた幾度の紛争と、二度の大規模パンデミックによって引き起こされた国家支配から企業支配への支配体制の移り変わりは、必ずしも企業にとっての福音を意味しなかった。

 国家支配ならば保証されていた筈の安全と教育を、新たなる支配者となった企業が担わなければならなくなったためである。

 利益以前の運用コストともいえるこれらの解決のために、企業都市国家群は効率的な選択と集中を実施。その結果引き起こされたのは、不均衡な人的資源の勾配であった。

 純粋な企業育成人員の損失を避けるための各種の代行業者──それが、事件屋ランナーだ。

 しかしながら、決して彼らは無力であることや粗悪であることを意味しない。

 その上位者は単機にして一企業の私設軍事部門に比肩する──と表現されている隔絶した暴力の持ち主である。



  ◇ ◆ ◇  Goetia Shock  ◇ ◆ ◇



 顔認証や虹彩認証システムが発達したからといって、扉の鍵がなくなる訳じゃない。

 俺たちは、その鍵のようなものだ。

 そう──……昔先輩に言われたなと、白髪混じりのアリサワ警部は思い出していた。

 それは比喩であったが、今彼の目の前にある部屋には確かに鍵が備え付けられていた。とは言っても、単に随分と廉価にさえなったセキュリティシステムも導入する余裕がない程度の住居というだけだ。

 視線の先のうさぎの小屋のように手狭な室内には円盤じみたドローンが詰めかけ、そのボディに備えた光学カメラや紫外線ライトを用いて検証を進めている。

 鑑識ドローンとその責任者。現場封鎖用のロボット。あとは、スーパーバイザーという名の保安官アオイヌによる企業統治法令違反を取り締まる監視者を務めるドロイド──……これが操作の基本形態になっている。

「……どうやら搬送先で一命を取り留めたみたいですけど、多分、脳みそは焼き付いちまってますね。後遺症は多分出るんじゃないかなーって」

 そう、タブレットを片手に現れた若い相棒は肩を竦めた。

 焼き付き────脳神経系の不可逆な変容。

 補助電脳ニューロギアによる制御によって人体は管理可能となったが、それでも、限度を超える刺激を受け続ければ神経系が変質する。物理的に脳の一部が駄目になってしまえば、如何なる補助電脳ニューロギアといえども制御のしようがない。

 中には文字通りに脳に張り巡らされたネットワークに過電流を与えて神経細胞を焼き焦がすなんて事例もあるが──……基本的には、受容体の減少や脳自体の萎縮を指す言葉である。

快楽失墜症候群パラダイスロストねえ……」

 若い彼が、呆れたように室内を見回した。

 生活感のない殺風景な部屋。

 強いて言えば、大昔に──或いは今も──路上に残されている落書きじみた極彩色の文字とも絵とも知れないものが額縁に入れられている。それだけだ。

 そして彼が手をかざすと共に、部屋の中心に浮いていた球形ドローンが青白い光を放って、殺風景な部屋に電脳空間を被せた。ホログラムめいたプロジェクションマッピングの一種。被害者が接続していただろう仮想空間を投影している。

 ある種の、典型的な若者の部屋と言っていい。

 現実世界では余計な荷物を持たず、企業が提供する電脳個人空間の中に物を置いている。

 更にその中でも特に廉価なサービスであったようで、これらの仮想用具はそれに触れても刺激も与えられないし干渉もできないものであったらしい。全て紛い物イミテーション。積まれた漫画も雑誌も楽器も玩具も、何もかもがただの見せかけだ。単に、電子データの購入に伴って部屋の中に置かれていくだけのシンボル。

 企業職員になれなかった若者が行き着く、唯一の自由の先。

「今月、三件目ですよ。よっぽどのドラッグでも出たんですかねえ」

「……」

 そう呟く相棒役の軽薄な青年は、どこか他人ひとごとのような口調だった。実際のところ、他人事なのだろう。そこに熱意なんてものはない。

 結局のところ、下請け業者なのだ。

 保安官アオイヌ────という称号は、その実、かつてと異なり何の公的な権威も持たない肩書だ。司法職員でも何でもない。業務代行の派遣社員と言っていい。事件屋ランナーの一つに数えられるのはそういうことだ。

 あくまでも企業都市の司法を担うのはそれぞれの企業が抱えた正社員の執行官クロイヌのみであり、単に、彼らの数が限られている────だからこそ実業務を外部委託する、という形となる。裁判官ハヤブサもそうだ。

 警部なんてのも、社内の役職の呼び名にすぎない。

 アリサワ警部のようにかつて国家支配の下で司法に携わっていた人間や、或いは義務教育時の二度の適性検査──前期・遺伝子適性検査と後期・遺伝子適性及び環境要因成長度適性検査──によって素質ありと認められた人間に、電子的な法執行活動業務データや司法処理判断基準マニュアルをダウンロードして集めたスタッフ。これも、紛い物イミテーション

 ときには、受刑者がそれを行うことさえあった。

 統治者クラスの管理者権限にて補助電脳ニューロギアを用いて行動の抑制や制限ができてしまうなら、彼らもまた利用可能な人的資源だ。死刑や禁固刑は、この社会においてよほどの特例でない限りは存在していない。罰金刑か、自由懲役刑──職業適性の内から指定された懲役を行いその乏しい報奨金にて懲罰金を返済する──のどちらか。公的サービスの従事者は、それら懲役者で賄われる事例も多かった。

 選択と集中。

 そして効率性と合理性。

 それらが進んだ果てが、これだ。

「あ、オレはそっちで捕まった訳じゃないっス。そっちを聞かれてもわからないんで!」

「……ああ」

 アリサワ警部の沈黙を疑念と受け取ったのか、彼はそう手を振って否定した。

 ミタマエ&ヒトゴミ・エンタープライズのグループの末端に属している彼らの派遣会社は、特に、そういうコストの安いワケアリな人材ばかりを集めている。

 アリサワ警部も例外ではない。

 彼もまた、受刑者だ。起訴直後に懲罰金を肩代わりした返済代行業者への支払いは、乏しい報奨金では利子の分の返済にしかならない。結果、いつまでもこの懲役が終わらない。

 いや、そうした仕組みなのだ。この街は。この世界は。

 かつて古代に存在していたローマ帝国がその公務員の多くを奴隷で賄っていたように、効率化を望む企業支配者たちは罪人に対して合法的に──そしてひとまずの人道的な言い訳ができる建前だけを整えて──働かせている。社会奉仕活動、社会貢献活動、そして更生プログラムだと。

「それにしてもそんなに凄いんですかねえ……危ないと判っててよくやりますね」

「……補助電脳ニューロギアを通じて脳そのものに刺激を加える。人間が脳で動いている以上は抗えない。初期なら抑制プログラムを適用すれば、かつての時代よりニコチンやアルコールやドラッグの中毒症状を容易に断つことができるのに……そもそもその魅力を前に、そんな判断力もなくなってしまうんだ」

「へえ。……うわ、絶対オレは手を出さないようにしとこ。それにしても、警部は随分と詳しいんですね? そういう犯人を結構見ました?」

「……」

 一度、アリサワ警部は口を噤み、

「……そんなようなところだ」

 そう返す彼を眺めて、青年は僅かに距離をとった。

「やめてくださいよ。実は自分がそうだった──なんてオチは。警部、何で捕まったんですか?」

「……俺は違う。それに罪状を聞くのは社内規定違反だ。お前も聞かれたくないだろう?」

 その言葉に軽薄そうな青年は、何でもないように軽く肩を竦めた。

「や、全然問題ねーっすよ。オレは、企業所有地への不法侵入なんで」

「それは……」

「そーっス。株式戦争の奴隷ちゃんです♡ ま、だからあんま別に後ろ暗いところないんスよね」

 株式戦争。それも、選択と集中の結果だ。

 天災や人災、疫病によってその支配能力に疑問を呈された国家と新たなる支配者として立ち上がった企業による闘争の中、争いは何もその二者だけのものではなかった。

 混乱に乗じたテロリストもそうであるし、かつての統一国家に含まれていた地域の独立運動もある。火種は無数にあり、つまり、連鎖する戦争というのは避けられない事実として存在していた。

 そんな状況の中で──少しでも戦争による資源のロスを避けようとして生まれたのが、株式戦争という仕組みだ。

 そして目の前の青年は、企業所有地への不法侵入──つまりは、元々のその地域の住民であったのに、株式戦争の配当として土地を得た企業によってその私有地への不法な立ち入りであり設定時間までの立ち退きをしなかった悪質な犯罪、として裁かれた人間だ。

 奴隷制は、企業支配の下でも否定されている。建前の人権は唱えられている。

 だから────こうなる。

 効率化と合理性の果てに、生み出されたものだ。うんざりするほどに行われている、人類全体の存続のための誤差のようなものだとして。

「まあでも、オレ、そこまで気にしちゃいないんスよ。それなりのスコアを出してれば絶対に飯ぐらいは保障してくれますし、ちょっとした行動制限だけでまあ──生活はできますし。あと子供の頃、実は刑事ドラマとかちょっと見てたんでそれなりに楽しくて!」

「……」

「何よりこの街、オレの故郷より全然綺麗なんでね。悪くないっスよ。それに大昔にあって……今もちょっとある……なんでしたっけアレ。ああ、刑務所、なんていうそういう非人道的な設備より全然いいですって。ちょっとクレカの登録ができないぐらいですから」

 ねえ、と笑う青年は本当にその言葉程度のことしか考えていないのだろう。

 職業適性や学修適性を判断するための、遺伝子解析と環境成長解析──才能というのは必ず因子ごとに遺伝子由来と環境由来の比率があるために──も、効率的

 犯罪をした人間を刑務所という箱にしまい続けて閉じ込め続けるのではなく、いっそのこと労働させて自分で食い扶持を稼がせて安価な労働力として使うほうが効率的

 戦争で何もかも焼き尽くされて人的資源と環境資源が失われるより、免争符ラックスで占有率制の非破壊指定権利を売買し、戦争株ですべての市民にとってのビジネスの場にしてしまった方が効率的

 新しい支配者は、奴隷に鞭を振るわない。殴りつけもしない。強制的な搾取も行わない。ただ──首輪を付けるだけだ。システムという首輪を。法という首輪を。

 建前、理由、必要性──……整った街並みを見るたびに、それが周到に厚化粧で塗り固められた醜悪さのように感じてしまう。

「……ドラッグに手を出すのも、判るかもしれないな」

 そう、アリサワ警部は呟いた。

 一見して判りやすい破綻など用意されない。真綿で首を絞められているような閉塞感があるだけだ。それも──彼のように、かつての国家支配を知る人間にとっては。

「え……いや、マジ、冗談でもやめてくださいよ! 不安になりますから! ここんとこの快楽失墜症候群パラダイスロストの仲間入りとかって勘弁してくださいよ! 警部、社内でも比較的まともそうな人なんですから! 他と組ませるのは勘弁して欲しいっス!」

「まともそう……」

 青年のその言葉に、アリサワ警部は自嘲的に笑った。

 遺伝子適性と環境適性で割り振られたわりに、青年の見る目は甘かった。まさか──殺人者がまともそうと称されるとは。

 結局、システムもアプリケーションも完璧ではない。

 人間の中にある技能などの文化的遺伝子ミームを継承するには不十分であるのだ。

 そのことに、古い人間として僅かに溜飲が下がる気持ちとなり────どことなくやり返せた気分で、久方ぶりに眉間の皺を薄れさせた警部は、若い保安官アオイヌに向き合った。

「なら、まともそうな刑事として熱心に仕事をしないとな。昼の休憩を取らなくなるが、構わないか?」

「え、いや労働法違反……」

「受刑者には労働法も限定的にしか適用されないぞ、ルーキー」

「いいぃ……娘さんに言いつけますよ! オレ、知ってるんスよ! 警部に娘さんがいるって! 手帳に写真挟んでるんだって! パパはとんでもない奴って告げ口しますよ!」

「……俺に娘はいない」

「え、じゃああの写真なに……金髪ロリ趣味……? え……うわヤダ……えっキモ……」

「行くぞ」

 青年の肩を叩き、アリサワ警部は歩き出す。

 青年は存分に嫌そうな顔をしてから──……頭を掻きむしって、彼に続くように歩き出した。派手そうな見かけによらず、素直な青年だった。

「で、どこ行くんスか?」

「刑事ってのは、昔から足で稼ぐもんでな。まともそうと言われたなら、せっかくだから色々と教えてやろうと思う」

「うぇー……余計なこと言った……」

「食い扶持のためだろう? 色々と上手うまくできた方がお前にもいいんじゃないのか?」

「そりゃそうっスけどー……うぇー……」

 狭い廊下のアパートを肩を並べて歩きながら、アリサワ警部は古臭い手帳を広げた。

 結局、紙が一番セキュリティに優れている。

「幾らか、電脳潜行者ジョッキーのツテがある。ヤサは変えられているかもしれんが、こだわりが強い奴だ。匂いまでは消せない。そう遠くなく見付けられるだろう」

「うぇー……これならオレ、例の怪盗王子事件の方に行っとけばよかった……絶対あっちの方が派手な上に楽だった……」

美味うまい飯屋も教えてやる。ここがネオチヨダなんて呼ばれる前からやってる店だ。味は保証する。バーガー・スシ・バーには行けなくなるぞ」

「……マジ、それ不味まずかったら一生アリサワ警部信用しねーっスからね?」

 随分と遠ざかっていたやり取りにアリサワ警部は頬を吊り上げ、懐のイミテーション・シガレットを握り潰す。

「にしても……なんでこう流行はやり廃りみたいにちょこちょこまとめて出るんスかねえ、この手の患者」

「そういう周期で電脳潜行者ジョッキーが開発を行っているのかもしれないし、需要が長じて高値になりすぎて客が離れ、それが原因で安値に戻すことでまた広がるのかもしれん」

「そうっスか? 実際、こう、闇の組織がこれを広げて人体実験とかやってるのかもしれねえっすよ! そういう立体映画見たことあるっス!」

「……映画の見過ぎだ。現実と区別しろ」

「そういうアリサワ警部は頭が固すぎっスよ。たんなく言わせて貰うとしたら!」

 賑やかに声を交わしながら、二人の保安官アオイヌは雑踏へと進んでいった。


◇ ◆ ◇


「悪徳の最上たるものは、悪徳すらも恥じない心だ。それらは狼のマントで着飾ることなく忍び寄り、立ち去るときは胸を張った大股で、その悪徳を吹聴する」


────【四人の王と火盗人】著:ウィリアム・シェイクスピア AI人格より


◇ ◆ ◇


 夜雨に濡れた石畳の路面を、仄かに滲むガス燈の灯りが舐めるように彩る。

 都市工場部の生み出す煙と蒸気の霧の入り混じった青白い闇は、表通りの行き先さえ不鮮明に遮っていた。

 スモッグとミスト──それらが入り交じり霞んだ大型工業都市は、しかし、在りし日の情緒的な古き街並みを忘れぬままに近代化を果たしている。

 そういう舞台設定だ。

 電脳利用者は、その、煙の奥に神秘の残り香が青くくすぶる煉瓦と石畳の街に接続する。

 かつては夢物語であった筈の自動人形や空飛ぶ車が世に満ちるにつれ、対照的に、これらの蒸気パンク的な光景はある種のノスタルジーと共に幻想的なモチーフとして語られるように変化した。──カレン・アーミテージがそうであるように。

 この電脳空間も、大規模な蒸気力学的エネルギーが隆盛した世界線であると銘打たれた没入型仮想現実ゲーム空間の一角だった。

 その中の、一軒。歯車的な意匠を追加したヴィクトリアン風の服装に身を包んだ人々が雑多に行き交う通りに面した騒がしいパブの中で、ゲーム内ギャンブルとしてそのチェスは行われている。

 指し手は二名。

 高級感のある重厚なスーツに身を包んだ中肉中背の白髪の男性と、モノクルを着けた執事風衣装の紫髪の青年だった。

 癖毛の青年のその指が、黒のポーンを掴み取る。

『どうでした。例のコードは、使い物になると思いますか?』

『中々面白いね。悪くない、といったところだ』

 応じる男性が、白のポーンの開けた筋からビショップを動かした。

 隣二つのテーブルでも同様の光景が広がっており、特に彼らに構う人間はいない。ごく普通の、定石通りの立ち上がりからそれぞれが思うままに手を指している状況だ。

 そして──彼らの交わす言葉は、誰にも聞こえない。彼ら自身にすらも。

 チェス盤と時間を利用した暗号を読み取った解読機によって双方の電脳上で言葉が表示されるだけであり、表向きは、ゲームのサーバーにさえ何の会話も記録されていないのだ。

 ここにはただ、VRゲーム内でチェスを指す者だけがいる。

『絵で表された何か特定のプログラムが読み込まれたり補助電脳ニューロギアがクラックされたりした……というよりは、その画像パターンが何らか僕らのニューロンを刺激して、その活動電位を観測する時の補助電脳ニューロギアの信号パターンまでもが複合して不可思議な誤作動が起きたといったところかな。まあ古くは閾下知覚サブリミナルという細かな原理は解明されぬまま禁じられたものもあるし……この世の不可思議さに暇はないよ。脳内にネットワークを張り巡らせることはできても、まだ僕らは脳機能全てを把握した訳ではないからね』

 老人が淡々と打つ手と共に一際の長文が繰り出され、青年は肩を竦めた。

 そのまま背後を────ビジネススーツ姿の長身の、現実の彼が背後を振り返り、頷く。

「だそうだ。良かったな」

 電脳の文字列が、他者に聞こえる筈もない。独り言に等しい。

 港湾部に数多あまたに積まれたコンテナのうちの一つの内側に立つ彼の背後では、ブルーシート上に両手足を縛られた少年が転がっていた。

 ジェイス・D・ガスの協力者────。

 脱法電子ドラッグたる二次元マトリクス・コードの売人であった彼は、さるぐつわを噛まされてそこにいる。その隣では、既に彼の仲間が、ドローンに中枢神経系を支配された清掃用ラットに淡々と捕食される死体として横たわっていた。

「では、呼びますか?」

 癖毛の彼の端的な言葉に合わせて、電脳空間上の自動化された彼自身のアバターが速やかにチェス盤の手を進める。

『そうだね。できるだけ、色々な方法で快楽失墜症候群パラダイスロストを試しておきたいところだけど……でもこれ、そこまでの強度はなかったからねえ』

『トリップ性能は薄い、と?』

『どちらかというと、個々人がそれまで体験した刺激を想起させている意味合いが強い。言ってしまえば記憶の発掘の一環だろうね。で、快楽失墜症候群パラダイスロストを起こすには──』

『もうすでに快楽失墜症候群パラダイスロスト同然になっている必要がある、と』

『そんな形だ。残念だけど……そこまで優先性はないかな』

 その後幾らかのやり取りを済ませた彼は、そのまま無感動に現実の自分のそばに転がる少年に目をやった。

 懐から葉巻ケースを取り出し、

「やるかな?」

 一本を摘み、一瞬遅れて少年が頬を強張らせながら小刻みに首を振ったのを確認して、彼は咥えた葉巻にオイルライターで着火した。

 ジジジ、と煌々とした火を抱える葉巻。存分に口の中でフレーバーを楽しんだ彼の口から、煙が吐き出され────ない

 葉巻ケースに記された二次元マトリクス・コード。

 オイルライターは火打ち石が切れ、葉巻は、その先端に赤いLEDライトが仕込まれたイミテーション。

 全てが紛い物だ。

 それを、彼は、気に入っていた。

「結局の所、現実というのは、脳の見る幻想だ。かの臨済宗のりんざいげんもきっと喜ぶだろう。ああ、そうだ……そうなんだ。すごくいい」

 恍惚と、癖毛の青年は煙を吐き出す。幻想の煙を。誰にも見えない煙を。

 それを続けてから、屈み込んで、言った。

ここで死ぬのと、永遠に生きるの。どっちが君の好みだろう?」

「────!?


◇ ◆ ◇


 この社会でやっていくには三つの鉄則がある。


 一つ──非専有流動地域レッドエリアで酒を買うな。

 二つ──企業直轄地域グリーンエリアで銃を買うな。

 三つ──共同統治地域ホワイトエリアで喧嘩を買うな。

 そして鉄則にもならない大原則──四人の巨王ビッグフォーの不興を買うな、だ。


────ある事件屋ランナーの聖句


◇ ◆ ◇


 灰色のテーブルは、本当に、取調室じみている。

 そこに似つかわしくない学園の制服を纏ったアリシアに向けられる好奇の視線は、なにがしかのインモラルさを見出そうとしているというのか。或いはそれは丈を余らせた男性用のトレンチコートを纏っているからかもしれないし、痛々しく包帯巻きで吊った左腕を見てのことかもしれない。何か事件に巻き込まれた良家の女子にでも見えているのか。

 そんな視線をまぶたの筋肉への容赦ない直接通電によって遮るアリシアの目の前には、スーツ姿の依頼人がいた。

 執筆ドローンに代行させた紙面の報告書を眺めた優男の彼は、

「そうですか。……娘さんの療養に」

「ええ。プログラムの不具合のせいで、相当酷いことになってるみたいよ。筆も殆ど置いているとか」

 どこか寂しそうに顔を伏せた。

 彼は、アリシアが用意した紙のレポートを興味深そうに捲っている。なんとも時代遅れと言えるが、電子媒体での報告書はセキュリティの面から避けられる。大切な内容は紙で記録して、更に読み取り者の記憶をロックするのが企業のスタンダード──などと言われるほど。

 結局のところ、娘の件については……ジェレミー・西郷の同意のもと、レポートに記載していた。それ以外の経緯は、アリシアは不要と判断した。

 娘を気遣う父がいた。それだけで、十分すぎる。

「……でも、安心しました。生きていてくれたら、まあ、いつか良くなる日も来ますからね」

「そうね。……それを願うわ」

 脳神経系への不可逆な──器質的な変化は、電脳魔導師ニューロマンシーの力でも治せない。物理的に変質してしまったものには手は及ばず、そして、例に漏れず電子ドラッグも器質を苛むものだ。

 あの親子があれからどうするのか。

 それはアリシアにも、依頼人にも及ばないことだ。願わくば──二人で歩き出し、いつの日か、それが癒えることがあって欲しいが。

 ストロベリーフレーバーのフレッシュミルクの氷が音を立てた。にわかに、静寂に包まれる。

 ぽつりと──……

「そういえば、どうして『春の庭の愛娘』が好きなの?」

「え?」

「そう言ってたでしょ? あたしが前に聞いたときに」

 努めて世間話の雑談のように。

 目の前の彼にとっての何気ない救いになった絵は、そのことがまた別の人間の救いにもなった。その事実を、知りたかった。

 そして、青年はおもむろに口を開き、

「ああ──……いやほら、あの娘さんの裸ばかり見てる訳じゃないですか。それだと段々と感動が薄れていくんですよね。やっぱり着ている服を脱いでるって特別感が大事な訳ですよ。それに普段こんな清楚な格好をしている娘が脱いだらああなんだなあ……って思うと感動しますし、こう、俺はこの子の裸を知ってるんだぞ?──みたいな優越感が湧いたりなんかしちゃって。そういうのもあって傑作なんですよ! あれの評価が悪かったなんて、男として低レベルとしか言えませんね!」

「…………………………」

 なんだこいつ。

 行く前に聞いてなくて本当によかった。言ったらその場で銃を乱射されていた。

 なんだこいつ。

 そりゃあの父娘も気を病むわ。

 なんだこいつホント。

「勿論、それだけではなく──あの墨絵を用いた古典的印象派的な技法も良くてですね。単色で表現しているというのに、濃淡だけでああも変わるものかと……風に靡く彼女のスカートの繊維さえ幻視するぐらいです。そこが一番なんですよ。あれが本物なんです」

「本物?」

「思うにVRものの映像っていうのは、結局は紛い物イミテーションな訳じゃないですか。現実の映像を綺麗に切り貼りしていようとも、です。わかりますか?」

「や……全然……」

「それはあくまでも現実の映像であって、俺が欲しい理想の映像ではないんですよね。その辺、想像力で補わなければならない不完全なものこそ、個々の完全な理想が投影されていて……そちらが俺にとっての本物なんですよ、って。現実よりも、想像の方が俺にとっての真実なんです

 いい話風に言ってるけど、アンタあの子の裸に興奮してただけだからね?

 そう言わないだけの理性がアリシアにはあった。というか疲れがあった。いい話としてまとめて欲しかった。あれだけ恥ずかしい目にもあったし大変な目にもあったので、本当に何から何までいい話にして欲しかった。記憶消したい。

 まあ──……そして依頼人が立ち去ったあとの席で、一人呟く。

「事実は一つだけど、真実は視点の数だけある……か。そして事実は人を必ずしも幸福にはしない、か」

 物憂げに窓の外を見る。

 大変な仕事で──だからこそ余計に感傷的になっているのかもしれなかった。

 そして、店を後にする。

 表通りを進む車列の反射光が眩しく、訳もなくセンチメンタルな気分になって──

「む」

「げ」

 相も変わらず二本差しを腰にぶら下げた白髪の眼帯青年と遭遇した。

 あれだけのことがあったというのに涼しい顔のまま──なんの緊張感も見せずに、彼はまっすぐに歩み寄る。アリシアと間合いを近付けることに、何ら心理的生理的な硬直もなしに。

 そのまま、すれ違うような形で通りに足を止めた兵衛が──言う。

「息災そうじゃないか、探偵」

「……お陰様で傷物にはならなそうよ」

「そうか。残念だ。その時は、責任ぐらいは取ろうと考えてはいたのだがな」

「……ゾッとしない冗談はノーセンキューよ」

 冷静と言うよりは飄々と、気心の知れた仲のような声色。

 そういうところが、やはりいけ好かない青年だ。殺し殺される間柄となったのに、何ら思うところもなく──……これでは身を固くするアリシアの方が、馬鹿みたいだ。

 柳生兵衛。

 今は、あの事件の前のような対抗意識は薄れ──事件屋ランナーとして彼に一目を置く気分にはなった。だけど、それだけだ。これまで出会った中でも一番の危険人物で凄腕。馴れ合う気には到底なれない相手で、まあ──……本当にその腕は認めている。そこだけは本当に素直に。あれだけの物量攻撃を叩き付けて直撃の一つも受けない業前は、尊敬に値するだろう。その点に関しては、まあ、認めてやってもいい。ちょっとは。ほんのちょっとは。

 まあ、うん、ちょっとだけ。

 そんな黒衣の青年は肩を竦め、

「そうか? これでも私としては本気なのだがな。お前を恋人にするのも悪くない」

「──────!? なっ、なにっ、なによいきなり!? トチ狂ったの!?

「うん? あれほどできる女なら、俺としても敬意に値すると思っただけだ。強く美しいなら、そう評価しても問題ではないだろう? お前のその意思も機転も目を見張るものがある。外見だけでなく、お前はその内面も美しい。少なくともかしずきたくはなるほど。俺は、お前を認めているよ。アリシア・アークライト」

「──────────!?

 なにを。にゃにを。

 何をいきなり口走っているのだこの男は。いきなり。往来で。人の目あるのに。信じられない。こんなに軽く。女の子に。そんなこと言う。本気で。

 ばか。しんじられないばか。ばか。ばかおとこ。

「まあ、冗談だが。生憎と良人や細君を斬る趣味はないのでな。お前を恋人にしてしまっては、斬り合う機会がなくなってしまう。んふっ。それはチと、残念が過ぎるだろう?」

「………………」

 ……訂正する。

 やっぱりコイツさいてー男だ。クソ剣鬼だ。一瞬たりとも気を許そうとしたのが馬鹿だった。こんなに浮ついた言葉を吐くなんて信じられない。さいてー男。クソ剣鬼。セクハラばか。こんなやつ、いくら顔がよくても願い下げだ。

 顔だけがいいのが本当に腹が立つ。天はコイツに何物与えてるんだろうか。

 思いっきり眉間を右手で押さえて、溜め息を漏らす。

「……で? なに。用がないならいくわよ」

「いや、そう怒るな。美しい、と言ったのに誤りはない。十分に魅力的だ。そこは俺も、伊達や酔狂で口にできるほど女人に長じてはいないものだ」

「うっさい。一々口説かないで。アンタみたいな軽薄男こっちから願い下げよ。次にふざけたこと言ったらアンタの裸踊りの写真をネットにばらくわよ」

「ほう。……では、その素材を提供した方がいいか? 随分と積極的に誘うのだな。ま、俺の方もあの夜に存分に堪能したからこれでお相子としておくか?」

「──────っっっ!?!?!?」

「……俺が言うのもなんだが、こんな軽口でそこまで。いや、すまんな。次からは配慮しよう。風紀を守る規則意識はあるようだな、学生」

 〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっ、クソセクハラ男!

 かろうじてそう怒鳴らなかった自分を褒めてやりたくなった。えらい。えらいアリシアえらい。

 逆立ちそうになる髪を呼吸で抑え、腹の底からの吐息と共に首を振る。

 完全にこの男にいいようにやられている。あの冷静そうな顔を全部大嘘にしたこんな男に。初対面のあの冷徹さはどこへやら。コイツ、元来はかなりいい性格をしてる。

「……で、わざわざ何の用なのよ。本気で通報してやるわよ」

「声かけ事案は不味いな。なに、忘れ物を届けようかと思ってな」

「忘れ物……?」

 後ろ手に差し出された紙袋を右手で受け取る。

 包帯で固定された腕と胸で包みを挟み込み、その紙袋を開いてみれば──見えたのはピンク色の布だ。

 ひらひらと。

 摘まみ上げるそのまま、路上に漂い落ちた。

 片側のゴムが切れたショーツと、大きなブラジャー。

 喫茶店の窓越しにアリシアを横目に見ていた客たちが、一斉に路上を見た。

「取り戻しておいた。礼はいらん、探偵」

「死ねっっっ! このクソセクハラさいてー男っっっ!」



 思いっきり後ろ回し蹴りを振り抜いたが、まんまと躱されてしまった。

 そのまま彼は去った。次に出会ったら絶対に顔面にぶち込んでやると、そう決意する。

 そして──その紙袋の奥底に。一枚のカード上の紙片が眠っていた。

「……?」

 指で摘まみ上げてみれば、そこに描かれていたのは白黒ドットが不規則に並んだ印刷物──二次元マトリクス・コード。

 げ、と顔をしかめた。あれだけの出来事があった直後に贈られるのは悪趣味が過ぎる。柳生兵衛は、そういうデリカシーが欠けているか──それとも意図して片笑いでやるか。そういう青年だ。

 心底うんざりした気分になりながら……また、溜め息。

「これで裸踊りのデータだったら、アンタ本当に社会的に再起不能にするわよ?」

 口を尖らせながら視覚的に読み取る。

 補助電脳ニューロギアを伝わる神経パルスが、すぐに、そのデータのデコードを開始する。

 どうやらプログラムですらなく……なんの変哲もないデータファイルの圧縮形らしい。まあ、それすらも偽装というのも有り得るものだが……おいそれとクラッキングを受けるアリシアではない。

 街路樹を華麗に躱した配送ドローンが頭上を通り過ぎるのを見上げつつ、アリシアはおもむろにファイルを再生した────。


 二点ほど伝えようと思う。

 まず一点。サイモン・ジェレミー・西郷に関しては、現行法で裁くことは難しいという点だ。やろうと思えば如何ほどにもできるが、言わば、あの男の行ったトリップコードというのは補助電脳ニューロギアの不具合を利用した形のものだ。それを表に出せば、同時に、その不具合に関してオニムラが他の企業から糾弾されかねない問題を抱える。何としてもオニムラ側で事件を表に出さないように取り計らうであろうし──……他の企業の手前、彼を不用意に消すこともできない。その点で、どこかが余計に刺激しない分にはあの親子の安全は図られていると推測していいだろう。少なくとも、企業筋に関しては……だが。

 二点目。こちらが、不味い問題だろうか。

 あの後に捜してみたが……ジェイス・D・ガスの姿が確認できなくなっている。身を隠した上で、あの男個人の復讐である──というならば、お前ほどの腕なら如何ほどにもできよう。だが、奴は、ジェレミー・西郷の電子ドラッグを外と取引していた。買い手がいるのだ。

 単なる非合法組織というなら、やはりお前なら何とでもなろうが……そうでない可能性もあり得る。十分に警戒をしておいてもよいだろう。この街では、臆病さを失ったものから消えていく。目を凝らして息を潜め続ける者こそが、真に勇敢であろう証と言えよう。無論、今更お前に語るまでもないことであろうが。

 そして……この事態に関して、もしも危急であるなら、私を頼ってもいい。連絡先を記しておく。直通でこちらに繋がるようになっている。その時は、優先して対処しよう。

 とは言っても──……お前は自分で解決を図るのだろう、電脳探偵アリシア・アークライト?


 そう、いやに達筆で記された手書きのテキストの画像データを再生した二次元マトリクス・コードの記された紙を握り潰す。

 補助電脳ニューロギアも持たない生身の偏屈男がそれらのエンコードを行ったとなると、誰かにわざわざ依頼したのだろうか。

 御大層なことだと、丸まった紙片をトレンチコートのポケットに仕舞い、

「……フン。アンタに言われるまでもないわよ」

 口を尖らせ──それでもどこか上機嫌な足取りで、アリシアは歩き出した。


◇ ◆ ◇


 右手で鍵を弄び、表通りの脇に停めた大型胴のアーバンレイヴンに向かう。

 車体スタンドを有さず、停車のために車体を沈めた可変ホイールは、どこか翼を畳んで地面にくっついて眠っている大鴉のようで愛らしい。

 何度か車体を撫でた。銀色の重金属混じりの黄砂。今も深刻な汚染を引き起こす飛来小惑星由来の新型重金属が多いこんな日は、表を歩こうという人も少ない。だからこそ車上荒らしや盗難も起きるのだが──現にそんな不埒なやからが使用していたドローンとドロイドが、二輪車の傍に転がっていた。アリシア以外の接続者には、強烈なカウンタークラックをお見舞いする仕掛けとなっている。ご自慢の空飛ぶバイクだ。

 防塵ゴーグルと頸椎保護の硬化型ネックガードを引き上げたその時だった。

『アロー、アロー、アロー、アリシア。女性休暇はまだ活用中? 今月何度目かしら?』

「……それセクハラになるって知ってる、カレン?」

 いつも通りのアンニュイそうなのに多弁な読書家からの通信。

 色々と世話になったのは事実だが……そもそもあの電脳非対応都市の案件がカレンから渡されたと思うと、どうにも顔を顰めてしまう。最終的に請けたのはアリシアだが。適材適所と呼ぶには外れを引いたとしか言えない仕掛けランだ。

 幾分か他愛もないやり取りを済ませた後に、カレンはおもむろに本題に入った。

『で、貴女に依頼があるのだけど……お手隙かしら、ホームズさん?』

「ポアロの方が好きなの、あたし」

『そう? どちらかと言えば、エルキュールヘラクレスこしみのを剥がれるアマゾネスに思えるけど』

 誰がアマゾネスだ。どっちかと言うとニンフだろうに。

 そう言ってやりたかったが、厭世家で皮肉屋で読書家の情報屋フクロウ相手に余計なことを言えば、更に二言三言が乗せられて本題から外れかねない。

 やれやれ──と肩を竦め、吐息を一つ。

「で、何よ。言っとくけどあんなのはもう二度と御免よ? 一歩間違えれば本当に危なかったんだから……最低でもレッドエリアに留まる依頼にしてくれない?」

『そう。なら安心よ。今度はホワイトエリア。企業共同統治都市』

「へえ? 場所は? スンプ移動要塞都市フォートシティあたり? 第五キョート?」

『いいえ。今時珍しい非要塞都市。関所ゲートなし。海に面して、夜景は絶景』

「ってなると……」

 しばし逡巡したアリシアは、

「……ネオチヨダここ?」

『あら、流石ねアマゾネス』

「どーも。その回りくどい喋り方は探偵への憧れ? ご希望なら代わってあげても構わないけど?」

『丁重にご遠慮させていただくわ、ミス・ディテクティブ。あわや二十年物の処女を奪われそうになった女探偵さん?』

「まだ二十年経ってないわよ!? 勝手に四捨五入はやめなさいよ! 乙女の数年を軽視するな! あと奪われそうになってない! あれは作戦なのよ、作戦!」

 そう、作戦。

 相手が低俗でプロ意識の欠片かけらもないことを利用して内側に潜り込む作戦。トロイの木馬とロキが女装して巨人の首を掻っ切った事件のアレンジ。

 そういうことにした。することにした。そうでないとちょっと耐え難かった。あれからまだ夢に出てきたり、色々思い出したりする。

 だからそういうことになった。した。オーケー? アンダスタン?

『そう? なら女スパイに転向する? ……その大きな胸でセンサートラップを躱せるとは思えないけど……』

「先月よりウエストが大きくなった女に言われたくないけど?」

『……あら。ハラスメントね。この通信は記録に残させて貰うわ』

裁判官ハヤブサのパパと弁護人テンビンのママに言いつけるって? 子供の喧嘩に親を呼ぶのって切腹案件じゃないの、この土地」

『家族間で隠し事はしない主義なの、うちは』

 よくもまあ言う、と苦笑が漏れる。

 娘が電脳空間でストリップショーまがいの賭け事を行っている、なんて知ったらその手のお堅い両親は卒倒するだろう。警官だったアリシアの父──義理の父であった男性も、未だにアリシアがこんな稼業をしていることに難色を示しているのだから。

 まあ、何はともあれ……日常だ。

 あの悪魔的な建造物と冒涜的なオブジェと毒々しいアートが彩る非電脳的都市ではない。空母じみたトラックを母艦にして飛び立つドローンの群れと、立ち並ぶビルの壁面に森林自然風景を映し出す欺瞞的な電脳都市。

 取り繕ったそれを見るたびに厭世的な気持ちになったものだが……今はそれが懐かしかった。自分も随分と物質主義的現代社会に染まってしまったものだ。

「それで今度は? 猫探し? 鼠退治?」

 言いながら、アーバンレイヴンを起動する。

 沈んでいた車体が持ち上がり、管制情報が車体ディスプレイと視界の両方に情報を投影する。自動操縦オン。合流要請。これで、あとは両手離しでも目的地まで導かれる。

 一先ずは、あのヘンタイ剣鬼に叩き切られてしまった銃器の新調。あとは、同じくヘンタイ剣鬼に握り潰された左腕の再生治療だろうか。既に体細胞をダイレクトリプログラミングした幹細胞フィルムは病院にストック済み。そのほか、炭酸アパタイトと活電パッチで骨折治療、超分子薬・高周波パルス治療で神経再生を、シトクロムCオキシダーゼ活性赤外線レーザーでミトコンドリアを刺激して全般的な治療促進を。全く便利な世の中だと、他人事のように吐息を漏らす。……まあ、全部がオーガニックで高くつくが。

 生身に拘る感傷。

 それが先ほど出会ったどこぞのヘンタイ剣客を想わせて、首を振って頭から追い出す。アレと同類扱いなど絶対にお断りだ。

「言っておくけど、始末人モンドとやり合うのは当分御免よ」

『あら、普段は「機械に頼る三下に後れを取るつもりはない」──なんて言っておいて』

「機械に頼らないド変態に出会ったからよ。あたしは学習能力と知能指数が高いの」

『……男の味も学習した?』

「ドセクハラ! アンタの個人情報をネットに流すわよ!」

『データハラスメントね。やれやれ、探偵というのはそこまで謎をオーディエンスに広げるのがお好きなのかしら』

 そうこう言い合ううちに、アーバンレイヴンが動き出した。調整された車の流れに合流する。

 管理された社会。

 管理された物流。

 選択的な集中と効率的な成長を標榜し、何もかもを経済の一環に組み込んだどうしようもない支配者たちの座す摩天楼へと都市のからすが流れていく。

「それで? さっさと本題に入りなさい。そろそろ痛み止めが切れてきそうなの」

『脳内物質も操れる電脳魔導師ニューロマンシーの言葉としては説得力に欠けるわね。……まあ、別に勿体ぶる案件でもないんだけど……都市伝説ってご存じかしら、名探偵さん?』

入れ替わりスナッチャーとか呪いの電脳体験サッド・エイコーとか赤い機械義足レッドシューズとか? ……ゴシップ記事の調査? それ、本当にあたしの出番?」

『ええ。学園の子からのちょっとした依頼よ。どれだけそれが小さくても、真実を確かめるのも、探偵さんの仕事でしょう?』

「真実、ね」

 カレンの言葉を聞きながら、その言葉を噛み締める。

 真実────真実というのはきっと、人の数だけ存在する。サイモン・ジェレミー・西郷にとっては自分が家族を愛していた時の絵が一人の勤め人を救って、依頼人にとってはジェレミー・西郷が望まずに描き続けたアカネ・アンリエッタの肖像が彼にとっての癒しになった。そこにある事実を、どんな真実という額縁に入れるのかは観測者の主観による。

 知るのがいいのか、知らぬのがいいのか。

 知らせるのがいいのか、知らせぬのがいいのか。

 自分なりに答えを見付けたと思っても、また迷いが生まれてくる。問いかけはどこまでも湧いてくる。

 そんなおうのうと向き合う己は、道化のような物なのかもしれない。

 それでも──

「あたしは探偵。電脳探偵、アリシア・アークライトよ」

 そう呟いて、アーバンレイヴンの速度を上げた。

 都市を横切る高架ハイウェイ。未だに飛び舞う重金属砂の中では、普段は滞りがちなそれも存分に流れていく。

 遥かに望むは天を突くような円錐ビルディング──《生命の木セフィロト》。

 企業支配の象徴。

 取り繕われた建前と、そこで蠢く薄暗がりのうつし

 それでも譲ってやるもんかと──青い瞳を尖らせ、アーバンレイヴンに跨ったアリシアは駆けていく。緩やかなカーブを描いたその道を。アリシアは、一直線に駆けていく。


 ふと。

 補助電脳ニューロギアが、電子の波を放つ。

「……カレン」

『何かしら。ツチノコでも見付けた?』

「いたわ」

『何が』

「首無しバイク騎士」

『え』

「首無しバイク騎士、いた。ホントにいた」

『視覚データを送って! 言い値で買うわ! これはすごい発見よ、アリシア! 実のところ私、あの賭けをやりながらずっと探してたんだけど今まで出会うことがなくて──ねえ、聞いてるかしら探偵さん? 待ちきれないわ。口頭でいいから外見を教えて。どの説が正しいのかしら。主流なのは手足がバイクと一体化してるシラミズ説と、胴がそのままバイクから伸びているレイモンド説があるんだけど──』

「……アンタそんなタイプだったのね。そう……。いや、うん、いいけど」

 進んでいく。

 まだ見えない真実へと──向かって。

 アリシア・アークライトは進んでいく。ネオチヨダブロックという企業都市へ、進んでいく。