……少なくとも、それは、広く受け入れられたことだった。

 腕を畳んで棺に納められたその少年について、目を伏せている姉と母親と父親以外に覗き込む影は物理的にない。電脳的な処理にて彼の葬儀に立ち会う人間はいたが……実際にその場まで足を運ぶ人間はいなかった。

 いや、元よりそんなスペースはその一家が息子の棺と向かい合う空間にはなかった。

 やがて、一つ二つと──……その一家と電脳上で共有接続した仮想空間から、それを網膜上に反映させた拡張現実ARから人影が消えていく。

 それを、父親が呆然と眺める。すがるように手を伸ばす。だがあくまでも電脳処理上にしか存在しないその影を掴み止めることは叶わない。

 そして……やがて、最後の立ち会い者の姿も消えた。そうなるのと、同時だった。

【規定に従い、人的資源の循環型資源活動が実施されます。ご遺族の方は、メモリアル・プラントの受取が可能です。お手続き終了後、三番窓口までお越しください】──冷徹な電子音声。

 彼らの愛した息子の棺が閉まる。銀色の棺は、そのまま、小型輸送コンテナだった。

 フリーズドライ処理。そして、破砕。再利用。彼らの息子は、資源としてまた循環の輪に戻るのだ。────規定。個人に課せられた炭素資源生産義務。死体に課せられた義務。

 それは、これまでの消費に応じただけの生産が求められる義務だ。つまりは肥料となって、そのような植物等の生育資源にならなければならない。

 膨大な違約金と引き換えに火葬や土葬を行うこともできたが……そんなものを選べるのは、一握りの人間だけだ。

 だから、それは、諦めと共に広く受け入れられている。

 土から生まれた人は死して、土に還る。そんな聖句のように。

 どこにでも、起こるのだ。例えば────検体となり標本となったアリシア・アークライトの母親のような例外はあるにせよ。

 カレン・アーミテージの祖母のように。

 或いは、アカネ・アンリエッタ・西郷の母のように。



  ◇ ◆ ◇  Goetia Shock  ◇ ◆ ◇



 きゅっと、上から纏ったワイシャツの腰のあたりにリボンを巻きつける。

 そうしていると古代ギリシアやローマに見られるような、一種の古典的な貫頭衣にも見えるだろうか。

 すぐに、白い繊維が汗で体に張り付いた。本来なら拭いたかったが、それだけの時間はない。

 軽く腕を曲げ伸ばししたアリシアは、バトルワンピースを伴わなかったことを後悔した。しかし手枷の鎖と繊維が絡んでしまって、外すのにも時間がかかり……何よりあれ以上、あの空間に居たくはなかったのだ。あの狂いだしそうなほどの快楽の責め苦は、屈辱と恥辱を通り越したトラウマ的な恐怖としてアリシアの背筋に刻まれてしまっていた。

 なんにせよ──胸のあたりが若干窮屈なことを除けば、そう、悪くはない。少なくとも足の付け根のあたりに向けられる視線は遮れる。彼シャツじみた姿と呼ぶには、アカネ・アンリエッタのたいではそこまでダボつくこともなかった。勿論、腕の部分は何度か折り返したが。

 その上で──改めてアリシアの青い瞳が、黒髪の細身の少女を捉えた。

「え、ええと……その……わたしと父様のことを調べられてる方がいるって、その、聞いてしまって……それで、あの……」

「……そう。誰から? 髪は赤い? 黄色? 青? それとも黒?」

「え、えと……あの方は……ええと、あの方は──……」

「……まあいいわ。上着、助かったから。その……ありがと」

 どうも要領を得ないと、会話を打ち切ったアリシアは口をつぐんだ。

 目の前の少女は──明らかに、アカネ・アンリエッタ・西郷だ。今しがた、その電脳へとクラッキングを行って確認したのだから間違いはない。もし別人とするなら、本来のアカネ・アンリエッタから補助電脳ニューロギアを摘出して再移植するという離れ業を行ったことになる。

 装置自体の移植は、そう、難しいことではない。だが内部に張り巡らされた、特殊な繊維の摂取によって中枢神経系内部で疑似成長を行っていくファイバー素子の部分と、どう無理なく接続を図るかというのが問題になる。つまりは、できるとしたら一握りの神業だ。

 そんな手術をするとしたら、よほど膨大な高額となって──ジェレミー・西郷に降りかかるだろう。

(……まあ、アンタなら払えるんでしょーけど)

 かなりの数の絵画を描いてきたジェレミー・西郷だ。彼ならば、払おうと思えば払いきれるだろう。その制作ペースは、ある種の趣味的な芸術家と言うよりは商業作家のようなものだった。彼は精力的に作品を生み出し続けた。

 だからこそ──……そんな男が、こんな芸術解放特区アート・コミューンにまで訪れて何を行っているのか。

 娘と二人で暮らしていけるだけの資産は得ていた筈だ。それなのにそうも描き続けてきたのは、どんなに周囲の期待があったとしても画家当人にそれだけのモチベーションがなければ成り立たない。それほどまでに内なる芸術の衝動に駆られる彼は、本当にこの街で絵を描くことなく隠れていられるのだろうか。

(……モチベーション、ね)

 アリシアは、自嘲的に口を噤んだ。

 あのインタビューアーの記憶に見たサイモン・ジェレミー・西郷の様子。

 あれは到底、モチベーションがある人間とは言い難かった。

 インタビューアーは一切高圧的な態度も取らず無礼も働かなかったが、向かい合うジェレミー・西郷は疲れ切っていた。

 あれは、内からの衝動というより義務感で描いているに等しい。インタビューアーから向けられる支持も肯定も、それが彼の首を締め上げる真綿の一種であると言いたげな姿を見せていた。

 そういう意味で、こんな芸術とは名ばかりの場所に来るのは頷ける。ジェレミー・西郷にとって、絵とは既に自己表現や自己解放ではなく、苦痛の一種であったのだ。

 しかし、何故それほどまでに彼は作品を作っていたのだろうか。

(名誉? 得た客層を離せなかった? でなければ……)

 もっとも思い当たるのは──金銭だろう。

 そしてそれで、きっと殆どの理由付けができる。

 金のために、ああも絵を描いた。そしてそれだけでは足りなくなってしまったから、ジェイスのような人間と手を結んで、この街に来てビジネスを始めることになった。

 そのビジネスが何なのかは不明にしろ、少なくとも、ただ絵を描くよりも実入りがいいことなのだろう。

 おそらく、この部分に関しては確定でいい。

(画家の収入の相場は分からないけど……思ったよりも手取りは少ないの? 少なくとも、それなりにファンが付くぐらいに売れていたというのに……)

 考えるも、答えは出そうにない。歩きながらの思考が他に比べて最も脳を働かせるという研究があるが、アリシアによいひらめきは生まれなかった。

「え、ええと……その、ここ、時たま物が落ちているので、お気をつけてくださいな」

「……どーも」

 道案内を申し出た黒髪の娘が、薄暗がりから控えめにアリシアを振り返る。

 なんとも育ちの良さを感じさせるたおやかな物言いで、実に奥ゆかしい少女だった。

 箱入り──という言葉が相応ふさわしいか。そう思えば、彼女のためには絶対にこんな場所に来ることは勧められない。おそらく、ものの数分の内に路地裏に連れ込まれてしまうだろう。だからこそ籠もっていたというなら頷けるが……それならそも、この街に連れてくる必要があったのだろうか。彼だけここに来れば、それでいい筈なのだ。

(外に一人で置いておきたくなかったか、一緒に居たかったか、それとも彼女もここに来なければならなかったか……。でも、どうして? ここじゃなきゃできないことなんて……そう多くはないわ。何かを求めて連れてきた──とは、あまり思えないけど)

 可能性があるとしたら、やはり、狙われているということなのだろうか。柳生やぎゅうひょうを雇っていたことから考えるにそれは自然だが──……兵衛は何も、常にここにかかり切りではない。普段の彼の警護はジェイスたちが務めているだろう。ジェイスたち程度に退けられる相手など、それなら外でもっと腕のいい事件屋ランナーを雇った方が合理的と思えるが……。

 ともあれ……残る謎は、ジェレミー・西郷当人に確かめればいい。

 思わぬ障害に引っかかってしまったが、残すところ──このぼんやりと足元の光が続く石牢の道の先に答えがあるのだ。

(あたしは……)

 己の思考の内でも口を噤んで袖を握り締めるアリシアを、少女が何度も振り返ってくる。

 よほど不安に思われているのだろうか。

 それも無理はあるまい。全身から汗などを垂れ流した裸の姿で遭遇したのだ。尋常ではないことが起きたと思わせるには十分だし、そんなふうに捕らえられてしまうような人間と知らせるにも十分だ。

 その割に手を差し伸べてくれた少女は、優しく純粋なのだろう。

(……分からないのは、アンタのこともよ)

 あの時襲い掛かって来たサイボーグと近い背格好。だというのにその補助電脳ニューロギアが示す波長はまるで異なっている。あのような一種の攻勢防壁のような精神の乱れもない。

 接続して悪感情がないことは、もう確かめられていた。だから彼女の申し出を受けたのだ。

 一体全体、なんなのか。

 何もかもが、この解放特区の如く悪夢めいている。けむに巻かれる心地だ。

 この社会においては、人間の背格好を似せることなど容易たやすい。個人の極めて明らかなる証明となるのは、補助電脳ニューロギア以外に存在しない。

 つまりは──どちらかが幻だというのか。あれは何か、一種の悪夢の赤子のように生じた……切り離されてこの世の暗部に生まれた暗黒や幻影だというのか。

 暗い廊下のその先が、怪物の口のように思えた。薄ら寒いものが潜んでいる気がして、白いワイシャツ越しにアリシアは己の身体を抱き締めた。

 まだ、害意に晒されている気がする。男たちの嘲笑が金切り声のように聞こえてきて、アリシアの神経をさいなむ。あんな剥き出しの悪意と獣性を目の当たりにしたせいか、精神的に強烈なストレスを浴びたためか、明らかに自分は立ち向かう力を失っている。

 いや、それだけではない。こうなったのは、きっと──……。

「……何よ。そんなに心配?」

「えっ、い、いえ……その……えっと……」

 露骨に視線を逸らした黒髪の少女が、ちらちらと見てくる。

 電脳上で思考を読み取ることは──避けた。直接的な接続の危険性。この街に来て、それで幾度となく痛い目を見た。簡単な感情の把握はまだしも、それ以上をする気力は今のアリシアからとっくに失われている。

 精神の不調は、脳の問題だ。つまりは物理的な話だ。アプリケーションで解決することだって容易いが──……今はもう、それをしようとする意気も起きない。

 そんなアリシアへ、何度か目を伏せながら、ちらりちらりとその月色の瞳を向ける少女。

 不安と言うよりはむしろ……好奇心だろうか。それに含まれているのは。

「も、もし失礼でないのでしたら……ええと、その、気を悪くなさらないでくださいね? その……アリシア様は、本当に探偵さん、なのかしら……?」

「ええ、まあ」

 歯切れの悪いアリシアの言葉に構わず、アカネ・アンリエッタは僅かに目を輝かせた。

「で、でしたら! ……えと、その、失礼を。ご、ごめんなさい……大声を。お許しくださいな。で、でしたらアリシア様に……その、できたらお願いできたらなぁ……って」

「お願い?」

「父様についてなのだけれど……」

 にわかに眉を上げるアリシアの前で、アカネが続けた。

「その……父様は、どうしてこのようなところに来たのか、と……思いまして。父様は、いつも何かに熱心になっていたのに……近頃は、その、塞ぎ込んで何もしないことが日に日に増えて……。どうしてしまったのか、と……わたしが聞いても、何も答えてくれなくて……」

「……それを、確かめてほしいと?」

「ええ、そう……そうなの。わたしに聞けないことでも、探偵さん──なんて方なら、もしかして……って」

 僅かに目を輝かせているのは、探偵という肩書の非日常か。今のアリシアが到底そんな上等な人間に見えぬとは分かろうに。それとも、藁にでも縋りたかったのか。

 逡巡し、

「あなたの気持ちは分かったわ。あたしも、力になってあげたいと思う」

「な、なら……!」

「だけどごめんなさい。今、あたしは別件で仕事中なの。だからあなたとは契約できないし……きっと内容的にも二重請けになるわ。だから、あたしは請けられない」

 消極的に首を振ったアリシアに、少女は一度残念そうに顔を曇らせてから──

「あ、そ、そうですよね……。でも本当にプロって感じで、すごいなぁ……」

 純真な少女のその目線に、

「プロ……」

 今はその言葉に──明確に頷き返せるだけの気力が、アリシアの中にはなかった。

 探偵。

 事件屋ランナー

 この事件に遭ってから、問われている。

 果たして────プロとは、なんだろう。己は、何をってそう呼ばれるのだろう。

 自分をなぶりながら嘲笑ったジェイスの声。

 柳生兵衛の冷たい視線。

 それが、アリシアの中で渦巻いていた。目的地のドアの光が見えても──すぐに答えは見えないままに。

 そして、真相への扉を開く────。


 銃を手に室内をクリアリングする。左手にはスピードローダーを握り込みつつ、両手で握把を握る形で。

 まず──最も恐れていた、あの青年はには居なかった。そのことに胸を撫で下ろす。

 その部屋の中は、少なくとも、あまり画家のアトリエには見えない場所だった。

 まず、古城のテーマパークを改装した関係で概ね魔術師の秘密の地下牢めいて薄暗いというのが一点。そしてその中で、大型のコンピュータに接続したいくつものディスプレイが異界への窓の如くぼんやりとした明かりを放っている。

 机の上に置かれた原料は、しかしそのどれもが手つかずだ。すずりと墨は衝動のままに倒されたように散らばっていて埃を被っている。少なくとも、絵を新たに描いている風には見えない。道具同士の喧騒が繰り広げられているその中でも、一瞬の静寂のように整理された一角には骨壺が置かれている。

(骨壺……ね。そう……やっぱり……)

 ふむ、とそのまま室内を見回した。

 特におどろおどろしいのは、無残な惨殺体じみたドロイドの手足が転がっていることだ。そのいずれにも鋭利な切断面が刻まれており、試し斬りという言葉が思い浮かぶ。

 そして相も変わらずこの街特有のグラフィティ・アートが、奇怪なる異次元の外宇宙生命体の内臓めいて床や壁にぶちまけられる中──その、セーターの上に白衣を纏った男はいた。

「失礼するわ。ノックは必要かしら?」

「……結構です。君を招いた覚えはないので」

「そう? じゃあ、次からはアポ用のサイトを用意しておいて。時代は電子登録よ」

 自分を奮い立たせるようなったらしい言葉と共に、肩を竦めたアリシアは歩き出す。

「どうも。あたしは探偵のアリシア・アークライト。いくつか聞きたいことがあるんだけど、いいかしら?」

「話せることはないです。……早くここから帰ってくれ! 口も開かずに! 兵衛さんは何をしているんだ! 出て行ってくれ! 私たちの前から!」

「ま、待って父様! アリシア様は探偵で、きっと父様が元気がない理由も──」

「アカネ! 部屋に戻りなさい! こんな場所に来てはいけない! 戻るんだ!」

 目を狂気的に剥いて、サイモン・ジェレミー・西郷が叫んだ。

 どこか、ドラッグの反応に近い──……とすれば、彼自身がドラッグに手を出したことから、この街に来たのだろうか。

 それも一点。もう一つ、アリシアには確かめるべきことがあった。

 骨壺に目をやる。──本来なら、遺族の手に戻されることはないそれに。

「確認させてちょうだい。あなたの絵って、そんなに安いの? 確かに還元葬リープの罰金は高いけど、売れている画家にも払えないくらいに──」

「絵の話をするな! 私たちの前で絵の話をするんじゃない! 離れなさい! その子から! アカネ! 部屋に戻るんだ!」

「いやよ! 最近の父様は変だわ! いつも一緒に居てくれるのは嬉しいけど……全然お外にもいかないし、いつもこんな部屋で難しい顔をしている! だから母様も去ってしまったのよ! それでも、きっと母様は父様を心配して探偵さんを雇ったのよ! お願いだから父様、昔のように笑う父様に戻って!」

 目に涙を浮かべる少女と父とのやり取りは、何かのドラマの一つのようだ。ホームドラマ──愛し合う父と娘。その絆。家族の愛情の物語。

 だが、それよりも、アリシアには聞き捨てならない言葉があった。

「待って。あなたのお母さんって、もしかして別に誰か?」

「別? 母様は、一人よ。アリシア様も、母様に雇われた方なのではないの?」

 食い違う。

 ここまで──ここまで少女の内面を探ろうとしなかったのは、アリシア自身だ。

 いいや、或いはアリシアとて、心のどこかでは理解していたのかもしれない。無意識の危機感と共に、彼女への電脳接続を避けていたのかもしれない。

「母様は……いつも父様と一緒にいて……わたしに服を作ってくださって、父様はそんなわたしを絵に……──母様? どこに、いらっしゃるの? だって、わたし、父様といっぱい絵を──……絵、を? どうして?」

「その子から離れろ……! 娘に近付くな……!」

 サイモン・ジェレミーが白衣を翻して、拳銃を構えた。電脳連動式のオートマチックハンドガン。銃と、目線と、肉体を高度に連携させる思考制御拳銃。

 その傍らで、アリシアの前に出ていたアカネ・アンリエッタが蹲っていく。何か強大な力に身体を折りたたまれるように丸めながら、その細い指で頭を押さえて、髪を掻きむしるかの如く呻き声を上げている。

 豹変──いや、予想は付いた。やはりあの大鎌のサイバネ襲撃者はアカネだった。

 ドラッグの禁断症状のように──或いはトラウマのフラッシュバックのように、何か決定的な事態が彼女の豹変を引き起こすのだ。

「離れなさい……! その子を黙らせるわ!」

「黙るのは君の方だ! 早く、ここから居なくなるんだ!」

 そんな叫びと共に放たれる牽制の一発が、床に火花を散らした。

「お前たちはいつもそうだ……いつも私たちから奪っていく……!」

 幽鬼の如く髪を振り乱したジェレミー・西郷が、を吐くように怨嗟を漏らす。

「妻の亡骸も! 私の作風も! 娘の人格も! お前たちはいつもそうだ! 私たちが何をした!? いつだって、私たちの手の及ばない外側がそうしてくる! 好き勝手に! お前たち社会が、私たちではない誰かが! 私たちの外から、手元の幸福を奪うんだ!」

「人格……?」

「こんなものが……補助電脳ニューロギアなんてこんなものがなければ……!」

 ガタガタと、アカネが震えていた。その肉体が、何かに乗り移られるかの如く震えていた。

 口角から涎を垂らし、髪を振り乱し、振り子のように上体が揺さぶられる。

 その瞳は瞳孔の拡張と収縮を繰り返し、完全に、異形の怪物に変貌するかの如き雰囲気を放ちながら異様な姿を露わにしていた。

 瞬間、

(まさか────)

 アリシアの脳に、あの日の兵衛の言葉がリフレインする。

 アリシアに対して事件屋ランナーのあり方について問いかけた言葉ではない。あれは────〈懲罰金返済の強制労働は?〉〈戦争株配当によって企業私有地への不法立ち入りとして拘束される住人達は?〉〈補助電脳ニューロギアの制御機能障害で、人格に損傷が出た事例を知っているか?〉。

 そうだ。

 ゴルトムンド・ロット訴訟事件──ある製造ロットの補助電脳ニューロギアに潜んでいたバグ。今なお被害者を生む、忌まわしい企業の起こした重大事件。被害者の補助電脳ニューロギアの摘出費用補填は認められたが、新たな補助電脳ニューロギアの購入費用と交換手術費用は彼ら持ちで、高額のリハビリ費用と共に未だに障害に苦しむものもいる。

 まさか、サイモン・ジェレミー・西郷が画家としてのキャリアを捨ててまで、ジェイスのような男と共謀してまで資金を求めたのは────。

「まっ、まっ、まま──まま──まんま────あ────あ────」

 泣き笑いが入り混じった異常な表情。

 ぽっかりと広がった空虚のように見開かれた目と、痙攣する顔面。

 複雑に表情が移り変わる。写真を何枚も切り替えるように、とても随意で出せるとは思えないほどの有様で喜怒哀楽が変貌していた。

 その表情の通りの感情が押し寄せているなら、遠からず少女の心は壊れてしまうだろう。

 だが、

「……アカネ。大丈夫だ。苦しいお前は、居ないよ」

 慈しむような表情と共に、ジェレミー・西郷が、折りたたまれた大鎌めいたあのサイバネ義肢を娘に手渡した。

 アリシア自身の言葉が脳裏によぎる──駆動させるとアッパーに入るサイバネ──ああ、つまり、そんなサイバネを使うことで無理矢理に娘の人格に指向性を与えていたというわけだ。人格を刃物そのもののように。役割を与えて、彼女をそれ以上、壊さないために。

 そして彼は、これまで牽制のために地面に向けていた銃をアリシアへと向け直した。

「娘を、人殺しにさせるわけにはいかない……!」

 銃口を向けられつつ──悲壮なその表情を見て、アリシアには全て合点がいった。

 何故、ジェレミー・西郷がキャリアを投げ捨ててまでこの街に来たのか。

 すべては娘のためだ。あんな見境のないサイバネ殺戮昆虫めいた娘は、到底、企業統治エリアで生きていくことはできない。何らかの間違いがあったその日には、排除対象と変わるだろう。それを避けるためにも、統治も何もない場所に来なければならなかった。

 この危険さこそが、彼と娘のためには、丁度良かったのだ。

(……そう。娘さんのことを、愛しているのね)

 アリシアは一度、目を閉じた。

 それを──彼女が観念したと受け取ったのか。顔に苦しさを浮かべたジェレミー・西郷が、無念そうに漏らした。

「っ……わ、悪いが……悪いが私は娘を守ると──決めているんだ!」

 そして、引き金が引かれる。

 だが、弾は飛び出さなかった。

「通じないわ。……どうせなら、銃もアンティーク趣味ならよかったのに」

 既に機器へのクラッキングは終えていた。アリシアから伸びた仮想量子線ストレイラインが、彼の手元の銃の制御を奪う。強制的に安全装置の作動状態を作り出す。

 そのまま、地を蹴った。手近なドロイドの腕を拾い上げ、躊躇ためらいなく投擲する。

 投擲用の身体プログラムと、アリシア自身の類まれなる身体能力を受け取って猛烈な勢いで加速するそれが、一切の容赦なくジェレミー・西郷の痩せぎすの身体を弾き飛ばした。

 直後──彼の頭部の位置を横薙ぎに払った大鎌。

「三度目のしょーじき、ね。この場合は……どっちにとってかしら?」

 吐息と共に、銃を一回転させる。

 不敵に片頬を吊り上げたアリシアは、腰に巻いたリボンに銃を収めてサイバー・アイキの構えを取った。先ほどのものを見せられてなおアカネ・アンリエッタに銃を向けるのは、彼女の中で決定的にはばかられる事態であった。

 その頬を、冷や汗が伝い──……

(それにしても……あたしを撃ったあと……どう止めるつもりだったの……? それに……そんな状態の娘さんに、どうやってこれまで殺人をさせずに……?)

 まだ謎は、残っている。

 だが──なんにせよ、一つの正念場というものだった。

 破綻した人格を前に、補助電脳ニューロギアのクラッキングは不可能。

 そしてまたしても手足を包み込む熱っぽさと倦怠感。

 更に防刃性の装備はなく、拳銃の使用も封じて。

 疾走する四本の大鎌を翻した人型の殺戮昆虫が、アリシア目掛けて飛び掛かった。


◇ ◆ ◇


 それは、冴える銀色の月に似ていた。室内に横たわる繊月だ。

 刀身に、満月めいた黄金の瞳が映る。金槌の音が響き、むわ……と炉からの熱気が上る室内にて、黒衣に身を包んだ美丈夫が目を細める。

 研ぎあがったその刃を眺めつつ、ふと、柳生兵衛は口を開いた。

「風水、とは知っているか」

「なんだい、出し抜けに。……仕事がお気に召さなかったかい?」

 汗に濡れたタンクトップを豊満な乳房に張り付けた女性が口を尖らせると、いいや──と青年は首を振った。

「或いはジンクス。或いは神秘。或いは怪談。すべてに理由が付く、という話だ」

「……この雑談の理由は付かないがね。何が言いたいんだい?」

 小さく肩を竦めた彼は、抜き身の刃をさやに戻す。

 腰から下げた大仰な鞘はバッテリーも兼用であり、そして、撃発装置も有している。生身での使用を前提としていないそんな装備を引っ提げて仕事をこなす彼こそ、ある意味この機械化社会の中での怪談めいた存在だ。

 対機・新陰流──対サイボーグや対パワードスーツであったその流派は、既に本家においてはサイバネ剣士こそが使用する流派に代わっていた。それはある意味の必然だ。小よく大を制す──というのは武道においての理想として語られるが、残酷な話をするならば、技量が同じならば体格で勝るものが勝つ。同様に、対サイボーグのわざは、サイボーグ同士の戦闘にこそ求められた。サイバネ剣士が対サイバネ流派を使った方が圧倒的に強い。

 そんな中でも、ネオチヨダ柳生の長男に生まれた彼は、律儀に生身のままネオチヨダ柳生の業を磨いていた。奇妙な男だ。

「返礼に、忠告を……と思ってな。事故物件とは、判るか?」

「大昔の都市伝説かい? それが何か?」

「理由が付く、という話だ。それが殺人によるものなら──そんな危険な人間が部屋に入れてしまうほどのセキュリティしかない家であり、孤独死ならば管理人もその程度の無関心さしかない住まいであるということだ。霊とは、つまりは危険のことだ」

「それで? じゃあ、自殺なら?」

「……目に見えるものがすべてではない。気配とは、音と認識できぬ音であり、或いは匂いにならぬ匂いだ。或いはサブリミナル効果の如く、映像と認識できない映像か……文字として言語化できない感覚……そんなものでも人は感じ取り、それが、知らずのうちに心身に影響を及ぼす。そんな場所なのだろうよ、それは。……故に避けられるべきである、という話だ。風水的な悪、教訓めいた怪談には必ず理由がある」

「それで……この話の理由ってのは、一体なんなんだい?」

 持って回ったような話し方をする彼に、呆れたように彼女が言った。

 柳生兵衛は僅かに口角を上げ、

人がどうしても近付かぬ場所には、近付くべきではないということだ。思わぬ鬼に会うこともあるだろうさ」

 そう呟き、つかがしらを押さえる。

 まさにその鬼に出会わば斬らんとするように獰猛に金色の瞳を歪める彼こそが、どこか鬼めいていた。

 剣鬼。

 彼が使った刀を見れば、何よりも雄弁に、女性にはそれが分かった。

「……どうも。でもね、そもそも女がそんなひとのない場所に近付くと思うのかい?」

「女……」

 言われてから、彼はふと鍛冶屋カタナシの女性の乳房を見た。

 どうも、今の今まで忘れていたらしい。彼女を女扱いしない男は多くいたが、それでも必ず何かの期待を込めた視線を向けるのも一体不可分であった。まさか本当にその言葉通りに女扱いしないとは、それはそれで随分と失礼な男だった。

「膝でも突いて花を贈った方がいいか?」

「お断りだよ。花なら代わりに、その刀で咲かせてやってくれ

「……違いない」

 微笑と共に、兵衛が鞘を撫でた。彼が人斬りとすれば、女性は、そんな男に凶器を渡している人間に過ぎない。武器の責任や鍛冶師の責任について、あくまでも使用者が悪いという論調が昨今広がっているものの、彼女の本音は違った。

 自分の作品が優れたものと知ることは、ただそれだけで快感だ。そして武器である以上、その性能が何を指すかなど一つしかない。その時点で、殺人を許容しているのだ。それが護身のためや防衛のためなどと言うのは理性的ぶった物言いに過ぎない。本音は──よく人を斬れれば、それで、ただ嬉しいのだ。

 心血を注いだ作品が、その企図の通りに働いて喜ばしくない訳がない。

 そんな、にんにん

 人斬りも鍛冶師も、同じ穴のむじなだ。特にこのご時世に好き好んでそうしている人間など、そんな凝り性アーティーストしか存在していない。

 そういう意味で、彼女は兵衛を評価していた。鍛冶師が幾度と鎚を振るって作品を作り上げるように、彼も、その生涯を使って一振りの刀を作ろうとしている。そんな錬磨の狂気を携えた剣客。ましてやこのご時世にサイバネすら用いぬのは狂気を通り越した自殺的だ。そんな男にわざわざ自分の剣を選ばれたことには、ある種の光栄さがあった。

「さて、では息災でな」

 兵衛が、出口へときびすを返す。そんなときだった。

「なあ、カントクのヤツ……来てないか?」

 極彩色に反射するラメ入りのモッズコートに身を包んだ男が、そう敷居を跨いだ。

「カントク?」

「いや、前々からアンタを撮りたいって言ってたから……もしかしたらここに来てるんじゃないか、と思って……」

「撮らせるつもりも予定もないよ。出直しな」

「いや、本当にさ……どこにもいなくて……何か知らないか?」

 そんなやり取りを聞きながら、兵衛は店を後にする。

「……どこかの穴に落ちたのかもしれないな

 そう、静かに呟きつつ。


◇ ◆ ◇


 死の旋風と、呼ぶに等しい。

 唸りを上げる大鎌が、子供が暴れるかの如く次々に振り付けられる。無残な惨殺体じみたドロイドの手足がそのたびに撒き散らされて宙を舞う。

 それを──全くの生身のまま、アリシアはすべてなしていた。

 潜り、しゃがみ、かわし、伏せ……ある種の演武めいて繰り広げられる攻防。傍目には、それは互いに打ち合わせ済みの踊りじみている。

 それこそが、サイバネとの戦闘技法たるサイバー・アイキの奥義────ではない。

(──アイポロス!)

 幾度と、記憶の中でアリシアの首が刎ねられる。或いは腕が吹き飛び、腹を串刺しにされる。頭を潰され、顔を抉られ、無残にもしかばねに代わる。

 そんな未来。

 それを全て、電脳上で演算する。いや、未来疑似体験フォー・シムステイム──未来の演算を体感する彼女にとってそれは殆ど死に覚えにも等しい。

 未来で殺害される度に現在へ戻り、また未来に旅立ち、そして今の己の回避に活かす。

 至短時間にて行われる電脳のスパークが、彼女にそんな超絶技巧を振るわせた。暴れ牛相手に立ちはだかるマタドーラどころか、牛とフラメンコを踊るダンサーにも見えよう。

 金髪が燃える炎のように揺らめき、旋風を躱す。衆目があるなら、よほどの達人にしか見えぬだろう。

 無数の時間、無限の演算の先に勝機を目指す。そのたびに死の感覚が彼女を襲った。得意の痛覚無視も感覚遮断も、アイポロスの演算の中では使用できない。それが制限なのか何なのかは知らないが──少なくともその分、痛みを味わうということだ。

 現実世界では既に鎮痛プログラムを実行しているため、彼女の動きは鈍らない。それでも僅かな切り替えの瞬間には微かな隙が生まれ、また、即座に痛覚を遮断しているだけでストレス物質は脳内で分泌されてしまっているし──脳内麻薬でどうにかなる分を超えた痛みは、防げない。

 格上との戦闘なら、そこを突かれて敗北もしかねない。それほどまでに危うい技と呼べた。大鎌が巻き上げるドロイドの破片から身を捩り、苦く口元を歪める。

(それでも……ジリ貧ね……!)

 立体機動で襲い掛かる、目の前のアカネ・アンリエッタが素人だからしのげている。

 それでも攻撃に入れる隙間はなく、徐々に状況は悪化していく。

 特に──やはりあの倦怠感だ。身の内が甘ったるい熱を持つ。鎮痛作用を利かせている上でこれなのだから、そうでなければ今頃腰砕けになっているだろう。

 最早、ここに来てそれを偶然とは思えなかった。

 しかし──アリシアが驚愕したのは、それだけではなかった。

「あ、あはっ、はひっ、ひっ、いっ、いいいいい──────」

 黒髪を振り乱して背面アームから大鎌を振り付けるアカネ・アンリエッタが、ぞくぞくと背筋を震わせていた。少女と呼ぶには女が過ぎて、しかしそれでもアリシアよりはまだ軽度にも見える。

 だが──彼女もまた、快感に震えていた。

(……この子にも、効いている……?)

 つまりはそれは、無差別的な作用を引き起こしているということだ。

 考えられるのはガス、広域電波による強力な電脳クラック、あとは何だろうか。

 そしてこの個人差は、なんだ。アリシアと少女で、体格以外に何が違う。サイモン・ジェレミー・西郷も含めるならば、三者の違いとは一体何だろうか。年齢に比例している?

(……違う。あたしの効きも、捕まる前より強い。ということは……)

 ──経験か。

 つまりは薬効ではなく、それぞれの肉体や記憶が持つ体験をベースに引き出されていると考えた方がよさそうだ。それが起こるのは、電脳クラッキングによると見て違いない。

 しかし、電脳魔導師ニューロマンシーでも電脳潜行者ジョッキーでもない者が、アリシアにクラッキングを仕掛けられるというのか。電脳魔導師ニューロマンシーたるアリシアのセキュリティを掻い潜って。

 到底そうは思えず──しかし論理的には、それ以外ない。

 中段に突き出された穂先の一閃を側面を叩いて逸らし、アリシアから走る仮想量子線ストレイラインが部屋の中の大型のコンピュータに接続する。何かの演算や、電波放出のプログラムはないか。回避の傍ら、電脳的な捜索の手を走らせた。

(父娘共に容赦なしのお構いなしって? ジーザス……似た者父娘ね)

 唇を噛みつつ、縦横無尽に暴れ回る殺戮昆虫の追撃を避ける。一閃ごとに床が切り刻まれ、一閃ごとに粉塵が上がる。もう、とっくのとうに二・三人は殺してそうな暴力だ。

 そこで、ふと、ある閃きが脳裏をよぎった。

 娘にも効いているのではなく──……それとも、効かせているのか?

 先ほどの自問自答の答え。父親がアリシアを殺害したとして、その後、暴れるアカネ・アンリエッタの凶刃を如何いかにして躱すのかという命題。ジェレミー・西郷にとてもそんな腕力があるとは思えず、有用そうなサイバネ装備も見られない。となればできるのは、サイバネの内部に停止プログラムを仕込んでいるか──自分以外の外部に何かを仕込むこと。

 ここは、彼のアトリエだ。仕掛けをするのは容易い。

 前者の可能性は捨てきれないが、今現にアリシアにも不調が起きていることを考えれば答えは後者と見て間違いないだろう。

 ならば一体──何を仕込んだか。

 振り下ろされる刃を躱しつつ、並行して記憶を洗い直す。

 この不調が起きたとき、今まで、その場には何があっただろうか。

 始まりのその時、あの金属彫刻の林で。

 二度目のかいこうは、この古城の中で。

 そして、三度目が今。

 それらに共通してあったものは、一体なんだろうか。電波の発生装置。それともガスの噴射装置。ウイルスの発生装置になり得るオブジェクトは何か────いや、違う。後者二つは有り得ない。野外ではリスクが高すぎる。あのように風が流れる場所では十分な濃度の維持ができず、それでも効果を求めるなら、周囲一帯が汚染される。

 周囲一帯────いや、そうだ。まず、どこにも人気がなかった。

 不自然なまでに人がいなかった。二度目三度目の邂逅に関しては分かるが、あの見事な彫刻に関してはあまりにもそぐわない。

 となれば、それも……人を遠ざけるようなそれもまた、ジェレミー・西郷による仕掛けだというのか?

 娘に殺人をさせることを厭っていた。なのに彼女は幽閉されることなく、あのように外に出ていた。それがただ一度の偶然ではなく、あのジェイスが警戒していたように常習的なものであるのなら──……であれば外に出す以上、そこで娘が他人を殺さない確信があるということ。

 つまり、人を遠ざけさせるだけの仕掛けもまた施されていたということだ。

 ならば、それも含めて……あの街並みにも存在していた共通点とはなんだ?

 すべてが異なる立地の中で、それでもいずれにも存在していたものとは?

(──グラフィティ・アート? 模様。でも、そんなもので──……)

 まさかと、そう思った瞬間だった。

 答えの如く。

 それらを鮮明に思い返した途端、ドクンと、胸が跳ねあがった。

 体温が上昇し、脳髄に訳もない多幸感が溢れ、全身の毛穴が開いたように感覚が鋭敏と化しているのが判る。それらグラフィティ・アートの一つ一つを思い描くことが、そんな、ドラッグじみた感覚の発露に繋がった。

 どれか個別に、ではない。すべてを回想したその時に、それは呼び覚まされた。

 何かのアプリケーションが起動したように。或いはファイルが再生されたように。

 つまり──あのグラフィティ・アートとは、

(────記憶の中で炸裂する二次元マトリクス・コード!)

 例えば古くはバーコード、或いはQRコードなど──文字列を画像に変換して読み込ませるそれは、この電脳社会においても現役である。画像のどれがなんの文字に対応しているか、そうルールを定めてエンコード・デコードするアプリケーションさえあれば有線・無線の接続なく光学的に相手に情報を送れるため、実際のところ今でも有用な手段だ。

 しかしながらプログラミング言語ではあまりに膨大な文字数となるため現実的ではないし、何より当然、今やデバイスが人体と連動してしまうようになった中ではセキュリティによって強く制限を受ける仕組みになっている。管理者権限での認証が必要であるのもそうであり、特定行数以上の文字列に対する認識阻害や実行阻害のソフトウェアが作用するようにもなっていた。

 それを──時間軸にて微分する形で、つまりはコードを寸断する形で彼は解決したのだ。

 いくつものバラバラの画像を読み込ませ、それが記憶の中で統合されることで発現する電子ドラッグ。通常のコードであればセキュリティにての防護が可能であるというのに、これは個々には無害だから弾けない。

 そして記憶の回想という管理者自身の通常の──つまり補助電脳ニューロギアでの制限を一々加えていたら日常生活という利便性に支障をきたしてしまう──機能に相乗りする形で、権限承認のセキュリティを回避した。

 芸術家、ではない。彼は紛れもなくある意味で、電脳に対するクラッカーだった。

(凄まじい執念ね……)

 そんなコードを織り込んだ上で畑違いのアートを描く。

 本来は技術者畑ではない彼が、如何にしてその技能の習得に至ったのか。それを想像するだけで途方もない気持ちになる。

 きっと──娘の病状を知ってから。

 電脳を深く知り、幾度と確かめ、やがて彼はそんな領域に辿り着いた。本当ならば娘を治してやりたかったのだろう。何とかしてあげたかったのだろう。そんな父の愛が、電脳潜行者ジョッキーでも電脳魔導師ニューロマンシーでもない身ながら、そんなクラッキングを成立させるに至った。

 ああ──この父娘は、本当に家族なのだ。

「──ッ」

 アリシアの頬を、機械の鎌が掠めた。

 改めて、青い眼差しをキッと強めた。

 視覚的な電子ドラッグ──それがジェレミー・西郷が辿り着いた境地であり、ジェイスと組んで行っていたビジネスの正体。それの稼ぎで娘を取り戻すのか、それ自体の研究の果てに娘を正気に戻すことを目論んでいたのかは知らないが……この治外法権の街は、彼の実験に向いていた。それが事件の真相だった。

 しかしそれを読んだところで、目の前に振りかざされる暴力が止まることはない。

 そうだ。探偵が推理を聞かせるには、犯人の実力行使を防ぐ必要がある。陸の孤島での連続殺人には何よりも探偵が事件の最中に殺されない素質が求められる。

 そうだ。勝利せずして、掴める生還はなし。

 そして──

(っ、アイポロスで……見す、ぎた……)

 幾度と未来演算を行う中で、アリシアの視界は幾度とグラフィティ・アートを捉えてしまっていた。それが、累積する。蓄積する。その指令は、現在に噴出する。

 蓄積するということは、厳密には二次元マトリクス・コードではないのだろう。

 二次元マトリクス・コードでの情報の再生を行うためには共通のエンコード・デコードのプログラムが必要であることを考えれば、おそらくは何かしらのバグや異常電流を引き起こす仕組みであり、それが補助電脳ニューロギア内で何か神経系への誤作動を起こさせる。見れば見るだけ悪くなる……効き始める。そういう仕掛けだ。暴風のように四方八方に跳び回って暴れ続ける娘に効果を発揮させるには、向いているというわけだ。

 その上で──彼女とアリシアの動きを比べれば、それでも分が悪いのはアリシアだった。

 ただし、

「──ショータイムよ、オーディエンス。次で決めるわ」

 それでもアリシアは、不敵に笑う。

 誘うように指を曲げ伸ばし、挑発のポーズをとった。

 荒らされた魔術師の工房めいたぼうとく的な部屋の中、阻むものは何もない一直線。

 アリシアも、飛び道具すら用意しない。大鎌を携えた補助肢が俄かに沈み込み──直後、バネ仕掛けの如く少女が打ち出された。

 爆速的な突進は、まさに弾丸と呼ぶに等しい。小型のスポーツカーめいた疾走のまま、ワイシャツに包まれたアリシアの小柄を両断せんと少女が刃を振りかざす。故に──

仮想量子線ストレイラインッ!」

 アリシアの身体を中心に、蜘蛛くもの巣じみて青白き仮想の通信線が放射された。それは仮想の通信線であり、通電線だ。即ち──

「仕留めなさい!」

 人差し指で銃を作った彼女の動きに合わせて、跳ねる。無数の機械が跳ねる。無残な惨殺体じみたドロイドの手足が、アカネ・アンリエッタの発作に合わせて切り刻まれていたそれらの手足が、動力を持たない筈のそれらが跳ねる。

 それはさながら、墓場の主たる死霊術師ネクロマンサーか。

 仮想量子線ストレイラインの通電供給によって動き出した主なき機械の死体たちが、その関節の曲げ伸ばしの跳躍によって、さながら弾丸めいて疾駆する武装人型昆虫のアカネ・アンリエッタに衝突する。相対速度のその分、威力は凄まじく──手足のつぶては、防御を行う黒髪の少女の機械補助肢を軋ませた。

 速度を殺され、バランスを崩されたその疾走。辛うじて姿勢を制御しようと地面に補助肢を突き立て停止したまさにその瞬間、踏み込んだアリシアの白い手が機械四肢のアームの関節を抑え──重心を掌握。

 まさに一息、旋風が叩き付けられるが如く、

「──サイバー・アイキよ。ま、聞こえちゃいないでしょーけど」

 人型昆虫と化した少女を、猛烈に投げ払った。

 アカネ・アンリエッタの黒髪が鴉の翼の如く広がる。

 機械の姿勢制御を悪用するような物理的なクラッキングと仮想量子線ストレイラインによる電子的なクラッキングの合わせ技で、黒髪の少女は、己が義肢の出力のままに無残にも後頭部から地面へと倒れ込んだ。


 やれやれ、とアリシアは肩を竦める。

 念のために、既に接続しクラッキングを終えた大型コンピュータを経由した侵入も視野に入れていたが……どうやらあちらも豹変の影響か、精神面の負荷が高かったらしい。黒髪の華奢な少女は、そのまま眠っていた。

 ……いや、もぞもぞと手が動いていた。多分無意識に。その、いわゆる大切な場所に。多分あの電脳ドラッグのせい。アリシアは見なかったことにした。情けがあった。

(ず、随分動かすのね……うわ、あんなに……あの歳で……そ、そんなに……? そ、そこをそんなに……? き、気持ちいいのかしら……?)

 見なかったことにした。している。つまり見てない。オーケー?

 年下の少女が自分より手慣れてそうなことを興味深くなど思ってない。オーケー?

(……さて、これで一段落と行きたいところだけど)

 吐息と共に室内を見回す。既に、電脳的には対策済み。

 記憶の中に残るグラフィティ・アートを洗い出し、そのパターンに関して視覚阻害を行うAIを構築した。より正確に言うなら、既に補助電脳ニューロギア内にデフォルトで存在している二次元マトリクス・コードに対するセキュリティにそのデータへの対処を外付けした。

 これで、二度とこの電子ドラッグがアリシアに悪さをすることはない。

 別の電脳魔導師ニューロマンシーならば記憶消去で対処できるかもしれないが……トラウマからそれができないアリシアにとっては、これが最良の対処方法だ。

 そして視線の先で……昏倒から目覚め、ようやく身を起こす白衣の男。

 ふらついたジェレミー・西郷は、再び、アリシアへと拳銃を向けた。先ほどとは異なる拳銃を。

「ますます、君を帰すことができなくなった……この子がこんな風になっていることを、知られるわけにはいかない……!」

「……持ってたのね、骨董品も」

 向けられる銃口に身を固くする。

 その──瞬間だった。背後の扉が開き、現れたのは白髪の剣客。

「盛り上がっているな」

「どこへ行ってたんだ! こんなときに!」

「得物が研ぎ終わったのでな。元より言った筈だ。そのついででいいか──と」

 緊張状態などないもののように、柳生兵衛が姿を現した。

 冷や汗が流れる。

 体はまだ、本調子ではない。あんな──あんな最低な男たちから性的な絶頂を教え込まれてしまった分、アリシアの中で電子ドラッグの効果が増していた。

 柳生兵衛。

 あの遭遇で、十二分に彼我の技量差を知った。そしてあの時の兵衛はきっと、この親子に外部の者を近付けるな──というだけで戦っていたのだろう。

 だが、ここからは、違う。

「その子を斬ってくれ! 娘のことが知られた……ここから帰せない……!」

「なるほど?」

 軽い一瞥に、身を固める。

 殺気もなくあれだけアリシアを圧倒したこの青年が、今度は、剣を抜くということだ。

 もう──どうにもならない。ここで柳生兵衛と戦うしかない。装弾数五発の三十八口径と、スピードローダーが二つ。計十五発。この男を相手にするのは、対機甲兵器用の大型狙撃銃でも不足だろう。それほどの、存在感がある。

 だが彼は──ジェレミー・西郷へと、なだめるような目線をやった。

「慌てるほどでもない」

「何?」

「彼女は電脳魔導師ニューロマンシーだ。当然、自分自身の記憶も消せる……ここで誓約させて、記憶を消して終わりでいいだろう」

「だが──」

「一つ聞くが……お前の防ぎたい娘による死は、直接娘が手にかけたものだけか?」

「────!」

 その金色の瞳は、悼むように倒れた少女を見詰めていた。

 意外だった。

 あの冷徹に思えた青年が、そんな気遣いを見せている。

 依頼人や少女だけではなく──アリシアにまで。柳生兵衛は、この場を最も穏当に収めようとしていた。

 これが、彼の事件屋ランナーとしてのきょうの高さなのか。

 逡巡すら交えることのない判断だった。無駄のない──刀のように。

 そして彼は、アリシアへと向かい合った。

「ここまで来たのだから、外からも捜査は十分に進んだと判るだろう。少なくともお前は、傍目にもよくやっていた。……これが潮時だ。依頼人には適当な方便を使い、生き延びればいいだろう?」

 そのまま、淡々と続ける。

「真相を暴くことが幸福か? お前は今、見た筈だ。明かすべきでないものを。……それでも得意げに解き明かしたいと考えるなら、お前のそれは酷く独り善がりなものでしかない」

 この男からは、出会うたびに問いかけられていた。言葉で──態度で。

 それが事件屋ランナーとしての在り方か、と。

 お前の天秤はどこにある、と。

 今も見せ付けられた。その判断能力の高さ。意識の気高さ。もう、悔しくは思わない──明らかに彼は事件屋ランナーとしての格でアリシアに勝っている。それほどまでの青年だった。

 だからこそ──定まった。

 この男に言葉を返すためにアリシアの中での答えは定まった

「……そうね」

 この街に着いてから……或いはあの日出会ってから、幾度と突き付けられた事件屋ランナーとしての意識。請け負うことが何を意味するのか。

 一度、目を閉じた。息を吸う。

 これは探偵アリシア・アークライトとして、照らしあげねばならない答えだった。

 そして、口を開く。──小さな拳を握って。

「……確かにそうよ。あたしが探偵をしているのは、何かを暴くためじゃないわ。得意げに推理を語りたいわけでも、そこにある謎を解き明かしたいわけでもない」

「……」

 少なくともここでこの親子に起きたことを伝え広げることは、違う。

 それは、アリシアにも分かっている。そうして痛みを量ることもなく無遠慮に踏み込んで、暴き立てて、それでも自分は自分の分の仕事を果たしただけと……そう胸を張るのは、到底、良いこととは思えない。

 それは間違いなく、責任ある仕事とは言えない無関心だ。

 断じて、自分の領分だけは果たしたと断言することが善ではないのが仕事だ。

 だけれども、

「ただ──何かしらの答えが見付からなければ、人はそこで止まってしまう。自分の中の迷路に決着が付けられない。真実を知ることが幸福とは限らないけど、それでも人は前に進むために暗がりを照らさなきゃいけないの……!」

 目を逸らさずに、精一杯言い返す。

 リフレインする。その記憶からアリシアを忘れ去って、ピアノを弾くこともなく、娼婦に身をやつして路地裏で死んだ母親──その最期にも、アリシアのことを思い出せもしなかった母親。

 何故、そんなことが起きたのか。何が母をそうしたのか。

 それを知ろうとすることが、余計に己を傷つけるだろう。その過程で見たくもないものを見るかもしれないし、見なければよかったと思うかもしれない──それでも。

 それでも区切りを付けなければならないのだ。

 何かに──きっと何かに。

「ちっぽけな依頼よ。誰が死ぬわけでも、命懸けの願いでもない。でも依頼人は、その時確かにその人の絵に救われたと言ってたし──彼は、ただその人を心配してた。そのための事実は必要なの……そこに彼がどんな真実を見出すとしても、どんな答えを出すとしても……!」

「……」

「お気遣いありがとう。……でも、答えはノーよ。あたしは探偵──探偵アリシア・アークライトよ」

 アリシアの言葉に、兵衛が僅かに目を閉じた。

「無意味に死に向かうのが、お前の探偵としての在り方か?」

 それは、呆れなのか。無念さなのか。

 一度、拳を握り直し──

「……この、筋道が通らない社会であたしまで道を歪めてしまったら、誰があたしの行き先を照らすの? あたしは、探偵であることをやめるつもりはないわ」

 どんな言葉が返ってくるのか。

 甘いと、鼻で笑われるかもしれない。それとも、幼いと突き放されるかもしれない。それとも殊更に無謀と身の程知らずをたしなめられるかもしれない。

 だがきっと目の前の青年なら、そんなことはしないだろうと信じて──

「んふっ、ふふふ、ははははは!」

 呆気に取られる。腹でも抱えそうなほどに、柳生兵衛は高い笑いを浮かべていた。

 そして、

「そうか──そうかその言葉が聞きたかった

 どこまでも凍てついて、何よりも恍惚をはらんだ声。

 ゾッと、背筋を何かが這い上がるような震えがくる。

 知らない。このような柳生兵衛の声は、知らない。彼とは深い付き合いでも長い付き合いでもない。だが、先ほど見せた思いやりを幻覚だと思わせるほどに──爛々と輝く残酷な金の瞳と共に、彼は実に愉快そうに口を開いた。

「認めよう、アリシア・アークライト。お前は弱い……だが、お前とならば行き着ける果てがあると認識する。お前は進むものだ。お前は確かに、道を進むものだ。果ては違えど、その姿勢は同じものだ。お前ならば斬りがいがあるだろう。……んふっ、ははっ、はははははは! これまで電脳魔導師ニューロマンシーを斬ることはなかったからな……いや、そう言って貰えて俺としてはむしろ助かったぞ。一度は斬っておきたい気持ちもあった──だがきっとつまらぬものになるかと思えば、いやはや、まさか、これほどとは」

 ワイシャツに包まれた素肌があわつ。頬を斬りつけるような剣気。

 鬼だ。剣の、鬼が居た。

 今初めて──柳生兵衛という男は、柳生兵衛という刀の鯉口を切ったのだ。

 決定的に、人間性という鞘を捨てた。彼の中で何一つ矛盾なく──先ほどまでのあの思いやりは嘘ではなく、しかし、今のこれこそが柳生兵衛の本質だ。

 どうしようもない、人斬り。

 立ち上る歓喜の気配が、彼の髪を乱れさせていた。白炎めいた形に。

「イカレてるわね……とんだ凝り性アーティーストじゃない……」

「でなければ、事件屋ランナーランク十位になると思うか? 株式戦争の機動甲殻傭兵ワタリガラスも斬ったぞ」

「ジーザス……」

 思った以上に凄まじい相手だった。何から何まで。やはり早計だったかと思うくらい──これまでの柳生兵衛とは、違いすぎる。

 爛々と、金の瞳が光る。

 本物の剣鬼。事件屋ランナーランク第十位。柳生『十』兵衛。

「場所を移そう。そこの二人に、血を見せては、かなわんからな」

 気遣う声と共に、今にも愉悦を抑えきれないといった酷薄な笑みで兵衛が笑う。

 愉悦にまみれた人斬りと、人道的な事件屋ランナーの二面を一貫する狂気。

 この都市での──最後の戦いだった。

 最強の、相手との。


◇ ◆ ◇


 非常扉を開けた先は、寂寥とした通路だった。通路というか、足場だ。

 金網と、はりと、階段と──飾り気のない剥き出しの鉄骨たちで作られた骨格の足場。海上フロートのメンテナンス用の通路と思しきそこに、夜の海風が吹き付ける。

 ところどころにある落下防止フェンスの向こうは、暗黒の海だ。墨汁だけを広げたように、どこまでも暗い闇として空と海の区別なく広がっていた。

 入り組んではいるが、二人の間には一切の遮蔽物がない。月すらも、眠っている。

 強い光の白色灯だけが、思い出したように幾つもの柱のそこにあり、沈黙する目撃者として闇を照らしていた。

 冷えついた鉄に足跡が響く。街の明かりは、遠い。陸地の明かりは、遠い。

 それでもあの恨めしいほどの円錐ビルディング──《生命の木セフィロト》はそびえている。その足元を遠ざかり、前時代的な死合に臨む二人を見下ろすように。

「……」

 アリシアの右手にあるのは、撃鉄を外に出さない三十八口径五連装リボルバー──アミュレット。通称を豆鉄砲ピーシューター。サイボーグ相手には火力不足だが、生身を相手には十分だ。

 対する兵衛は、腰の二本差し。角ばった大仰な鞘は、充電器を兼ねている。即ちは、生身での使用を前提としていない高周波ブレード。

 後ろを歩く兵衛が自然と足を止めた。アリシアも足を止め、向かい合う。およそ、十メートルほど。拳銃がおおよそ狙って当てられる限界の距離で、刀には厳しい間合いだ。

「……ふ、得手としない武器で挑むか」

「どうかしら。遊園地の景品落としよりは簡単かもね。ここ、テーマパークでしょ?」

 アリシアのかいぎゃくに、兵衛は頬を緩めない。

 そのまま、淡々と言った。

「短銃身、という時点で自白しているようなものだろう? ガス圧を活かせず、反動を殺せず、威力も低い。心得ある者ならまず用いない。可搬性を除いた全てが欠陥品だ」

「……なら、試してみなさいよ」

 図星である。

 否────正解である。

 電脳のコンバット・プリセットをダウンロードすれば素晴らしい早撃ちはいくらでもできる。筋肉の出力を振り絞れば大口径だって使える。しかし、銃そのものの重さに頼れず、構えの工夫と握る力のみでしか保持できない短銃身の跳ね上がりは──いくら電脳の力でも抑制しきれない。武力と呼ぶにはあまりにも不適格がすぎる。兵衛の言葉はせいこくを射ていた。

 だが、それでいいのだ。

 銃で解決できる事件に探偵は必要ない

 それ故に護身用以上の意味合いを持たせぬような拳銃を選んだ。それは、アリシアなりの美学と言っていい。

 果たして、

「さて。……その美学を貫けぬ状況で、如何にするかも美学だろう?」

 アリシアの内心を読んだようなその言葉。

 ひょう、と海風が鳴った。それが合図だった。

 早撃ち勝負ではないが、さながらガンマンの如く銃身が光を舐めて掲げられる。

 同時、抜刀した兵衛が中段に構えた。僅かに刀身を傾け、刀を盾にするようなくらいを取る。

 その刀身に映るアリシアの金髪と、冷たい銃口。直後──夜の闇を裂き、拳銃が嘶いた。

「──な!?

 アリシアは、驚愕した。

 弾丸を弾かれたからではない。それは、ともすれば街のサイボーグ相手にすら起こり得る。光通信神経網などのサイバネが可能とした。兵衛ならば、当然実行できるかと踏んでいた。

 だが──再度、立て続けに引き金を引く。

 ィィインと、鉄のつばめめいた羽音が舞う。弾が逸れる。それはいい。そこまでは、頷ける。

(こいつ────銃を前にしてるのに)

 中段からの切り上げのままに上段に構え、そこから右足を踏み出すと共に振り下ろす。たったそれだけの動き。

 だが、ただそれだけに無駄がない。力みがない。動きの継ぎ目が極めて少ない。斬撃と歩法が組み合わされ、或いは僅かに拍子がずらされ、それでも迫る弾丸への切り払いを絶やさぬままに兵衛は接近した。

 疾走しながら弾丸を叩き落とすサイボーグは見た。足を止めて重機関銃を払いのけ続けるサイボーグも見た。

 しかし彼らは、力んでいた。

 それがけんこんいってきの作業のように、力を込めて行っていた────対して、

「っ、」

 更に連続した銃声にも構わず、帆を張って風を受けた船が穏やかな海上を進むが如く、淀みなく行われる運足。

 拍が取れない。狂わされる。止まっているのか、いないのか。ここで撃てば当たるという確信の持てぬまま、春風が吹くがように兵衛の剣が瞬き続ける。その度に弾丸が払われる。

 斬るのではない。撫でているのだ。薄皮一枚をなぞるかの如く弾丸の際を撫で、薄皮一枚擦るようなその刀身で生んだ回転力を以って弾丸のその飛翔を乱している。

 マズルフラッシュ。刃閃と衝突音。兵衛が近付く。距離が詰まる。最早、数歩。猶予もない。

(マズい────!)

 咄嗟に距離を開こうとスピードローダー片手に地を蹴ったアリシアに合わせて──一際の接近。兵衛の頭上を燕の如く翻った切っ先が、袈裟がけに一直線に落ちる。

 僅かに、遠いか。アリシアには、届かぬか。

 否────金属と金属の衝突音。アリシアの銃を押し下げながら、更なる継ぎ足=斬撃続行。銃身をなぞるように刃が滑りつつ、切っ先が跳ねた。

 横一文字に首へと振られる白刃の一閃。

「──っ、う」

 かろうじて、薄皮一枚、空を斬る。

 アリシアの首筋に赤く線が走り、ワイシャツに飛沫が飛ぶ──よりも早く振り上げられたアリシアの両足。ワイシャツの裾が白花の如く広がり、剥き出しの白く瑞々しいアリシアの両足ごとその小柄が縦に風車めいて回った。

 サマーソルトキック。

 そしてバックフリップ。二連続。

 流石さすがの兵衛も斬撃直後では意表を突かれたのか、手出しはされなかった。だが、それだけだ。

「初太刀は防いだか。まずまずだな」

 首筋の傷を撫でながら息を荒らげるアリシアの前に、兵衛は涼しい顔をしている。斬れなかったことへの悔いはない。彼はそこに心を留め置かないのだ。何一つこだわっていない。最終的に斬れればいいとしか、思っていないだろう。或いはそれすらも考えていないか。

 アリシアの頬を冷や汗が伝う。

 アイポロスの未来予知にてかろうじて回避はできた。

 しかし、未来を予知したところで『殺される』ことは判っても剣の動き自体は見えない。閃光が走っているとしか思えず、振り下ろされる刃の知覚と認識は不可能である。

(白兵サイボーグよりもずっと強い……何なの、この男)

 青眼を細めて睨みつける先の兵衛が、構えを軽く取り直した。冷たさを増した夜風吹く足場の電灯の下に、白刃が舐めるような光沢を放つ。

 アリシアが生き残っている理由は、三点。

 アイポロスの未来疑似体験フォー・シムステイム

 自分自身の筋肉を物理的に電磁ハッキングすることでの疑似デミ神経伝達速度加速ニューロアクセレーション

 そして単に身長が小さく、その分だけ彼との距離が離れており、彼が普通に振るっていてはその物打ちが命中しないこと。つまり、平常よりも踏み込みが求められ、刃の到達にホンの僅かに時間がかかるという点である。

「さて、どうするかね? 柳生相手に無刀取りと洒落込むか?」

 銃を失ったアリシアへ、兵衛が笑う。

 そうだ。これまで彼は、弾を捌きながらの接近だった。弾丸という障害がなくなった以上、兵衛の武力はより容赦なく降り注ぐ。

 アリシアに兵衛への勝ち目があるとしたら、

(サマーソルトは通じたなら……伝統的な武術らしくない動きなら多少は喰い下がれる? カポエイラでも使う? あれなら重心低く、体幹も敵から離せる──)

 しかし問題は、アリシアの小柄だ。

 打撃系の格闘術とは相性が悪過ぎる。よほど綺麗に急所に入らない限りはノックアウトに繋がらず、結果、攻撃の瞬間という隙が増えるだけ兵衛から斬られるリスクが高まる。

 何かしら、一撃もしくはそれに等しい手数で兵衛を圧倒するしかない──苦く奥歯を噛み締めた。

 だが、光明はある。

(無手で剣術家相手にするには、剣を持つ腕を制するか……足を取るしかない。今の感じなら、剣術に近くない動きなら通じる。なら──)

 そして結論を出す。

 同時、古城内部のコンピュータを経由。海上故に乏しいオンライン回線に全速力の命令を出しながら、レスリング技法のプリセットをダウンロードし適用。

 問題は、如何に当てるかだ。

 あの、新陰流独特の──斜め正眼──中段にて斜めに構えた剣を彼我の間に盾にしたような位を、崩さねばならない。視界の先に斜めに座る白刃。切っ先から手元までが攻防一体の兵器である。

(一旦、切り上げさせればいいとして……でも、銃は斬られた。方法は?)

 兵衛が動く。同時、アリシアも動く。

 銃を放り投げ、仮想量子線ストレイラインを走らせた。

 その線に発生させた電気によって弾丸に着火。銃身という爆発力を収束させる筒が断たれたために知れた殺傷能力だが、牽制にはなる。

(もう一丁!)

 更に青く閃くライン。電灯スイッチを操作し、周囲一帯を暗闇に。

 夜の海の恐ろしき暗黒が、一瞬、辺りを飲み込んだ。

 甲高く響く音。散る火花。まさに兵衛が弾丸を切り上げたそこへと、膝を抜くような低空のタックル。アリシアの低身長なら、更に低くから兵衛に襲いかかる刃となる。

 剣において剣術家の受ける下段攻撃は、下方からの切り上げのみ。

 故にこれは剣術家殺しの攻撃である────。

 だが、

「対機・新陰流は介者剣術でもある」

 何を、と言う暇はない。既に動き出したアリシアの身体は止まらない。

 そして何たることか。迫るアリシアの低空タックルに対しての上からの被せ=総合格闘技MMAにもある伝統的なタックル対処法。

 地面スレスレの視界が、更に沈み込む。鉄の足場が、迫りくる。胸を強く打った。肺から空気が絞り出される。

 更に兵衛は、如才なかった。

「ッ────!?

 ジタジタと動くアリシアの手足。地に押し付けられたアリシアの背中の、肩甲骨と肩甲骨の上端のその中間に──食い込んだ刀の柄尻。

 強い痛みが走る。動きを封じる脊椎の肝所。逮捕術にも用いられる苦痛と重心掌握に、挙動が完全に封じられる。

 致命の一撃。絶対の一本。最早、アリシアは死に体だ。

 同時、兵衛は片膝立ちに近い姿勢から──その左手が後ろ腰から抜きはなった鋭い短刀。それが、アリシアの首元に当てられた。

「──つまり、組討ちもできるということだ」

 そして、ふと、気付いた。

 汗で額に金髪を貼り付けながら見上げるアリシアの目線の先で、笑う兵衛の──眼帯に覆われていた筈の金の瞳が露わになっていた。

 左目と同じく。何一つ、傷もない黄金の右目。

(こいつ──────……)

 ああ、と理解する。

 全てがブラフだ。異種格闘が通じると思わせたのも嘘。片目が見えぬというのに至っては完全な大嘘で、眼帯によって常に覆うことで暗所に慣らしていたのだろう。

 何事にも油断のない男だ。欺瞞すら、彼の真剣なのだ。

 見誤った。柳生兵衛という剣客を、見誤った。

 完全なる、文句の付けられない敗北だ。

 あと数ミリ進めれば、この押し当てられた白く輝く刃はアリシアの命を奪うだろう。そのまま、兵衛は言った。

「借り物の技が悪いとは言わないが、使いこなせぬ借り物は単なる借金だ。それはお前の命を取り立てるだろう。……ほう、なんだ。結局、借り物の技は悪いということになるな」

「く……」

「私も、些か拍子抜けだ。お前の本当の力はこれなのか? これが先に繋がる道か? その果てにお前は先を見ていたのか? その借り物が、アリシア・アークライトの全力か?」

 何かして見せろと、意地を示せと言っている。

 しかし、兵衛に油断はない。アリシアの抵抗に期待しつつ、彼は手心なく命は奪いにかかるだろう。この青年は、そう甘くはない。冷徹な殺傷性と、戦闘の高揚を隠さぬ好戦性。しかしそれでも、依頼のための最大の努力は崩さぬという徹底的なプロフェッショナル。

「……まあ、生憎だが問答は終わりか。不本意な幕引きもまた人生だろう……私も、残念だ」

 切っ先が進められるその瞬間に、奥歯を噛み締めた。

 アリシアはブレイドマスターではない。グラップラーでもない。ディテクティブで、ニューロマンシーだ。──故の戦いが、ある!

 ぷんっ、と飛翔音を立てて突撃するドローン。六本の指を持つ──フロート下層の調査に既に放っていたもの。それが、兵衛の注意を引く。

 同時、アリシアを中心に走る仮想量子線ストレイライン。容赦なしのクラッキング。最大出力。

 その瞬間、地が揺れた。地面が揺らいだ。強烈な衝撃に、さしもの兵衛も態勢を崩し────はせず。だが、柄尻に隙間が生まれた。最早、思考は不要だった。全力で動いた。

 突き付けられる短刀を奪いつつ、アリシアは彼の拘束を脱した。

「ほう、地震すら操るとは大した魔術師だ……この衝撃、クレーンか」

「……ご明察」

 あの悪魔城付近で違法建築を行っている大型クレーンを操作し、横倒しにしたのだ。重心を弄った状態で旋回させればどんなクレーンも倒れる。よくある労働災害の一種だ。

 流石の柳生兵衛は優れた体幹で少しも動じなかったが、強烈な衝撃に物理的にアリシアの背中を押さえつける柄尻に間隙が生じた。そこを突いたというわけだ。

 再び、じりじりと距離を空けて──……アリシアは構え、吐息を一つ。小さな身体が上下に揺れる。

「そうね。……見せてあげるわ、電脳魔導師ニューロマンシーとしてのアリシア・アークライトの本気を。後悔してももう遅いわ」

「ふ、は、はっ。……なに、願い叶ったりだ。さあ、存分に来るがいい」

 言われるまでもない。

 直後──けたたましく鳴ったサイレン。足場の危険を知らせる警報が、聴覚を塗り潰す。

 同時、再びの振動。横倒しになったクレーンの暴動。地揺れには遠くとも、それは足場に伝わり不愉快な揺籃を引き起こす。

 石火、上がる銃声。取り落とされたスピードローダーから、弾丸が炸裂する。

 すべて、兵衛は揺らがない。この男は、五感のいずれかのみを頼りにしない。潰したところで動じない。心を留め置かぬからこその新陰流である。

 だが────だからこそ、それでよかった

(だったら、使い続けるそれを乱す────!)

 まさに斬撃が迫るその一瞬、世界が明滅した。

 比喩ではなく明滅した。オンとオフを超高速で繰り返される白色電灯がストロボめいて光を放ち、世界をコマ送りに千切り取る。

 奇怪な残像。閃光の映像。強い光と直後の闇。強制的に視野に襲い掛かる不快な情報の嵐。

 視覚に頼れねば、彼は別の五感を用いるだろう。残る全てでアリシアに応じるだろう。先ほどとて、暗闇に視界を封じられてなお彼は止まらなかった。

 故に──封じるのではない。活かしたまま負荷を加えるのだ

 既にアリシア自身が、ジェイスによって味わった攻撃だ。視界を残したままに混乱させるその明と暗の嵐は、さすがの柳生兵衛とえども応じられる速度にあらず。

 しかし──ああ、だが、それでも流石は柳生兵衛と呼ぶべきか。

 目を閉じることもままならぬその刹那に、それでも、剣の燕は飛んでいた。

 翻る一閃。白刃と黒刃に無数の刹那で切り替わる斬撃が、アリシア目掛けて放たれる。

 視覚を惑わされるのは彼女も同じく────しかし彼女には、第六の感覚があった。

 蜘蛛糸じみて空間を横断する青白き線──仮想量子線ストレイライン

 彼女の意志に応じて電子機器に放射される操作指令は、つまりは電流とは、兵衛の鋼の刃を知る。空気との通電抵抗の違いにより、振り下ろされるその切っ先をる。

 そしてその線が繋がる先は──アリシアの手足だった。西洋人形じみた美貌の少女が、その評価を嫌ってもいた少女が、皮肉にも──今まさに、糸に吊られる操り人形に相成った。

 電子の連動。電磁の連携。ニューロンが撃発した。

 振り下ろされる刃を横に躱しつつ、アリシアの小柄が、兵衛の両手を抑えにかかる。

 芸術的な──実に芸術的な、斬撃に合わせた抑え込み。彼の腕と共に、その全身の体重移動と共に、アリシアの体が地に滑る。

 流石の体幹を持つ兵衛であろうとも、己の重心を乗せて放った人斬りの一閃に少女一人分の負荷を完全に合わせられてしまえば──踏ん張ることもできず。

 片膝立ちに座り込む彼女と、引き崩された兵衛。そして、鋼鉄の床とすねとの間に挟み込まれた刀身。

 ああ、これぞまさしく──────無刀取り。

「んふっ、ははは、ふはははははっ、よりにもよって柳生おれ相手に無刀取りを極めるかよ! なるほどこれは見事に一本取られたな! んふふっ、はははははは!」

「あたしの勝ちよ! 刀から手を離しなさい!」

「ふ。確かにこの眺めをもう少し堪能したいところだが……」

 シャツを掠めていた刃が、アリシアの白く豊満な乳房を露わにしていた。ほんのりと染まった桜色の蕾を眺めて兵衛が笑う。これまで感じたことのない、目の前の青年からの強引な男を感じさせる目線に──アリシアは覚えたこともない恥ずかしさを抱いて頬を染めた。

 それでも、この一本を決して離さぬと兵衛の腕を強く抑え──

「俺の得物は、高周波ブレードだぞ?」

「しまっ──」

 出力最大。鉄が悲鳴を上げ、床が割れる。

 それはカドを落とすように、盛大に床板を両断した。アリシアの体が、宙に浮く。崩れる。落ちる────と思った、瞬間だった。

「大丈夫か、探偵」

 アリシアの前腕を、兵衛が強く支えていた。

 見上げる先には、大輪の満月のように──いや、半月となった金の瞳。また片目を瞑っている青年が、子供のような笑みでアリシアの視界いっぱいに映り込んでいた。

「怪我は?」

「……殺そうとしといて、よく言うわね。なんで助けてるのよ。おかしいでしょ、アンタ」

「うん? お前に下に落ちられるのと、俺が手ずから斬るののどちらが確実だと思う? ここから落ちた程度では、十分に逃げられる人間と評価しているが?」

「……あっそ。この偏屈凝り性アーティースト

 ほんの少し柔らかくなった声と表情と共に、それでもこの男は自分を殺すだろうという予感がする。短刀を持っていたら、今間違いなくアリシアに突き立てた。そのくらいにこの男は、仕事にも本気だ。

 それが、プロフェッショナルということなのだろう。

 剣鬼。

 本物の、事件屋ランナー

 柳生────兵衛。


◇ ◆ ◇


 大胆であれと、己に言う。

 緻密であれと、筆は言う。

 筆が、渦を描く。緩やかに渦を作った墨汁に浸した筆は、その渦を──墨の濃淡をその身に蓄える。それが、紙面の上をなぞるその時に──躍動する黒き川の潮流めいたグラデーションとなる。

 その一筆を紙面に捧げるまで、真の意味で、何が生まれるかは分からない。

 指先に込める力が、押し当てられる筆の先が、その加減が、どの一筆も二度と起き得ない奇跡の如く異ならせていく。

 ある意味で、研ぐことに似ていた。

 紙という鏡を前に、己を研ぐ。

 その一筆は、本当に、己が生みたいものだったのか。それは、本当に、この世に生まれるべきものだったのだろうか。

 奇跡だ、と思う。奇跡を作っているのだ。

 狙い通りに生まれてしまった一筆。狙い通りに生まれてくれなかった一筆。狙いを超えてそこに生じた一筆。やり直しのできないそんなものを組み上げて、己の心の中にしかない渦を拾っていく。

 靄を生み、煙を作り、光と闇を、風の流れを、見えない音をなぞっていく。

 どこまでも──どこまででも。

 自分自身でも見詰めきれない心という渦を、一瞬、紙面に繋ぎ止める。

 頬から汗が流れなくなるほどに向き合い続けた、無限の連なりにも等しい一瞬。すべての線を入れたそのときにそれは完成し──完成したその時には、己の心とは離れている。

 だから、何度でも向かい合う。何度でも向かい合える。

 苦しさが、ある。渇きがある。焼けつくような焦燥と、粘りつくような倦怠がある。一人で地獄の釜に向かい合っているように、或いは垂らされた蜘蛛の糸を上るが如くに、途方もない息苦しさがある。

 それでも止められなかった。

 それでも止まらなかった。

 大きな筆でなぞった渦に向けて、墨が乾き切らぬそのうちに、小筆で更に小さな渦を重ねていく。小さな目玉の連なりにも見えたし、或いは緻密な生体機械にも見えたし、もしくは宙にひらかれた亜空の奥の悪夢にも見えた。

 これは、果たして、己のどの心なのだろうか。

 そんなことを頭のどこかで思いながらも、筆は走る。細かく、荒く、速く、緩やかに、小さく、大胆に──……そうやって己というものを筆に捧げることを愛していた。

 いつからか。

 そんな自問自答のような絵を好きと言ってくれる女性ができた。

 いつからか。

 そんな絵と同じぐらいに、或いはそれ以上に繊細に抱きしめたい生命を授かった。

 いつからか。

 それらが全て──……色褪せた。

 自分の心の中にあった摩訶不思議で尽きることのない渦は、枯れていた。


◇ ◆ ◇


 いつから、壊れてしまっていたのだろうか。

 サイモン・ジェレミー・西郷は、呆然と、石牢めいた部屋の天井を見上げた。

 娘は、床に横たわっている。寝顔はずっと変わらない。寝ているときは、娘は、娘としていてくれる。

 ああ──と、皺だらけになった己の両手を見た。

 いつから、だろうか。

 こうして眠る娘の首を絞めることを、考えなくなったのは。

 そしていつから、自分は、娘のことを殺そうとしていたのか。

 不幸な事故と言ってしまえば、それまでだった。実に奇跡的な確率だと、謝罪でも言い訳でもないような言葉をその担当者が言ったことを覚えている。

 配送中のドローンの落下事故。

 それに、妻が巻き込まれた。結婚祝いの日だった。

 あれは自分が作業に熱中してしまって、いつもそんなもので、いつからか外へのデートをしなくなった。保育用のドロイドがいるとはいえ、一人寂しく家に置いて行かれる娘のこともあり、なおさら、家で祝うようになっていた。そんなときだ。

 ケーキが崩れては困るからと、妻は、その足で店を訪れることを好んだ。そして、市街で空中配達を行う配送屋のドローンが突如として機能停止し、通りを歩く妻に目掛けて落下した。十一階建て。そこから、植木鉢を落とされたようなものだ。本来なら法的に禁ぜられる筈のその高度の飛翔も、企業の役員という点から通された無理が道理を覆し、その事故は起こった。

 配送屋はドローンの製造元を責め、ドローンの製造者はプログラムの作成者を責め、プログラムの作成者は規定外の配送を責めた。そしてそれらの企業間の綱引きが起きて、そこでの裁判が起きた。裁判と言うよりは、互いの失点を別の何で補うかという取引だ。遺族は、置き去りにされた。見舞金も、それが終わるまでは、払われなかった。

 そんなものの終わりより、葬儀の終わりの方が早い。

 せめて、妻の遺骨を手元に置きたかった。本当なら土葬がよかったが、それを行うだけの資金はなかった。いや、借金をしたうえでも難しかった。

 それからだ。

 それから、その金を返すために絵を描いた。

 幾枚も幾枚も。

 妻が作ってくれていた娘の衣装はいつしか着れなくなり、まだ年若い娘の裸体を何枚も何枚も描いた。低俗で、醜悪で、即物的な絵。それを、多く、描いた。

 ああ──……と、考える。

 絵は売れた。飛ぶようにとはいかないが、それまでのように画廊に頼むこともなければ高額な画商やレビュアーに頼って付加価値や評論文を付けることもない。あちらから頼まれて、売る。そんな立場に代わっていた。

 娘は、その裸体を人々に晒してしまうことも、受け入れた。

 それでも──……それでも父様の絵が好きだと、言ってくれた。

 だから、だろうか。

「……すまない、アカネ」

 どうしようもない殺意を抱いたのは

 余人にどう言われても構わない。大衆も、画商も、依頼者も、評論家も、それを褒めそやしても彼らに初めから理解ができるとは思っていない。どうでもいい商業活動で、そんな大衆好みのものの中には、自分の描きたい色を加えていない。

 だから、どう言われようと構わなかった。

 いや────……口さがない人間に、娘をダシにしていると言われるそのときには、殺意が募った。自分の腕ではなく娘というモデルのおかげだと言われることは我慢ならなかった。

 本当の自分の絵ではない。こんなものは、自分が描きたいものではない。こんな低俗が過ぎるものを世に広めることが恥ずかしい。死んでしまいたい。誰にも誇れない。

 なのにそんなものを──娘は、誇るのだという。愛おしいのだという。

 前の作品に向けるような目で。

 彼女は自分に、そう言った。唯一の肉親が。どんな稼ぎ方をしても、健やかに育って欲しかった娘が。そんな、最低の言葉を口にした。

 それからだ。

 それから筆を執るたびに、娘を切り刻んだ。キャンバスの中で幾度も殺した。走らせる墨の線は刃であり、刻まれる水滴は娘の血肉だった。そうだ。決して生と死の幽玄ではなく、あれは死だった。殺人だった。死んでくれと、幾度も考える自分がいた。

 そして皮肉にも──ああ、皮肉にもそれが自分の画家としての評価を高めた。

 娘はやはり、それでも、小さく笑いながらその絵が好きだと言った。

 殺意は、抑えられなくなっていた。それをただ絵画にぶつけていた。

 きっと、それが────それが最後の一押しだったのだ。

「父様……そこにいるの……?」

 地面に横たわるアカネが、ぼんやりと目を開いた。

 妻に似た月色の目。それが満月のようで、プロポーズは、それになぞらえた言葉だった。

 いつしかそれが、苦痛になっていた。その目を向けられることが。

 そしてそれは、娘も同じだった。

「すまない……すまない……私のせいで……!」

 蹲るように、言葉を吐く。

 娘の決定的な破壊をもたらしたのは──ある電脳アプリだ。

 違法な電子ドラッグでこそないが、似たような効果を齎すもの。ストレスの緩和と多幸感の演出。いつからか娘は、そんなものに頼ってまで自分に笑顔を向けていたのだ。

 思えば、当然だ。

 幾年もモデルを務めてきたのだ。キャンバスに向かい合う自分が何を考えているか、どんな目で見ているかなんて、彼女こそがよく知っているだろう。

 それでも妻のために負った借金と、娘を育てるために描く絵画のために彼女自身が言葉を飲み込んだ。幾つも湧いてくる不安と恐怖の言葉を飲み込んで、たった一人で抱えて、父を、勇気づけていた。

 なのに──……自分はそれにすら気付かなかったのだ。気付かずに、愛しい一人娘を憎み続けた。どうしようもない二律背反の感情に、娘を巻き込んだ。

 そのツケが、回ってきたのだ。

 ゴルトムンド・ロット訴訟事件──ある製造ロットの補助電脳ニューロギアの重大な欠陥が人格に損傷を齎したという電脳事故。

 娘にそれが現れる最後の切っ掛けになったのが、そのアプリだ。

 そして──それは規定外の使用とされ、娘の人格損傷は補償の対象に含まれなかった。

 あれだけ打ち込んだ筈の絵画が、いつからかただの資金集めの一環となり、そしてそれすらも失った。

 ……ああ、なんてことはない。

 少女探偵には、外から来るものが全てを奪っていくと告げたが、違う。

 内からだ。絵画を描きたいほどの内からの衝動が、制御しきれない情念が、積もり積もった自分という人格がそれを起こしたのだ。何が悪い訳でもない。

 サイモン・ジェレミー・西郷がサイモン・ジェレミー・西郷でなければ、こんな悲劇は起こらなかったのだ。

 それを、悔やんでも悔やみきれない。

「すまない、アカネ……すまない……! 私のせいで……!」

 そうでなければ、満月のような無垢な視線を向ける娘には──違う未来が用意されていたのではないか。

 そう、口からざんの念を漏らした時だった。

「大丈夫よ、父様。……わたし、分かってるから」

 落ち着いた、静かな──幼さの消えた娘の声。

 思わず、目線をやった。

 娘は、ジェレミー・西郷を見ようともせず、天井を見上げながら呟いた。

「父様……わたし、本当は気付いていたわ。なんでここにいるのか、どうして父様がいつも悲しそうにしているのか……わたし、分かっていたのに……目を背けてたの……」

「……!」

「ごめんなさい、父様……わたし嬉しかったの……!」

 娘のその独白に、止まる。

 サイモン・ジェレミー・西郷にとってそれは、意外だったからではない。

 ああ────同じなのだ。同じであったのだ

 己の中の深い穴蔵の──そのまた奥底にあった想いと、全く、同じだったのだ。

 そうだ。

 幾度と、娘を殺したいと思っていた。ここに来る前は、ずっとそう思っていた。だが──だが。この街に来て、壊れた娘と暮らして、こうして生きていく間にそう思いはしなかったのだ

 娘の言葉と、自分の想いが重なる。応答する。交じり合う。

「父様がわたしのお世話をしてくれて」

 ──もう、娘を裸婦にした低俗な絵を描かずに済む。

「わたしのことをちゃんと守ろうとしてくれて。父様の全部で守ろうとしてくれて」

 ──もう、娘を道具にしなくて済む。

「大好きで大事な大事な絵も捨ててこんなところにまで来て」

 ──もう、娘を憎まずに済む。

「父様の全部を投げ出してわたしに使ってくれていることが、どうしようもなく嬉しかったの……!」

 失墜と破綻を宝物のように抱き締める娘。

 それを愛おしんだ娘。

 それほどまでに焦がれ狂ってしまった娘。

 少女らしいいたいさと男を惑わせその身を捧げさせる毒婦の顔が入り混じってしまった娘。

 ……ああ、そうだ。

 今になって、娘が壊れたのではない。

 とうに────とうに家族は壊れてしまっていたのだ。

 癒える筈がない。

 治る筈がない。

 だって、とっくに、それは破綻していたのだから。治る先なんてないのだ。

 世を恨んでも。

 企業を憎んでも。

 怒っても、悲しんでも、苦しんでも──その全てが事実とは違う。だって、ああ、こんなにもどうしようもなく──仄暗い喜びの中に居たのだから。

 そうだ。堕ちていくのは、悦びだったのだ。

 堕ちながら、沈んでいく。ともに、誰も手の届かないところに沈んでいく。──もう奪われないでいい。もう奪わせない。誰にも犯せない。

 これが、この家族の至るべき幸福であったのだ。

 サイモン・ジェレミー・西郷と、アカネ・アンリエッタ・西郷は──遥か昔に壊れきっていた。

 己たちが作り上げた幽玄の美を現す墨絵のように。

 死と生の境が崩れ、輪郭が曖昧に果てた墨絵のように。

 死生。化生。性愛。寂滅。破戒──……此処には、とっくのとうに、人間はいなかった

「……じゃあ、もう、いいかい?」

 腹の底から、ぽっかりと声が出た。

 静寂として──すべての憑き物が落ちたように。或いは逆に何かの憑き物に魅入られたかの如き声で、父は娘に手を伸ばした。

「いいわ、父様……もうわたしは、いいわ」

 娘はそれに、風になびいて散っていく砂山のような声で応じた。

 ジェレミー・西郷が、床の上に転がった拳銃に手を伸ばす。

 気付きたくなくて、気付きたかったこと。

 どうしようもなく救えないと知ってしまうこと。

 お互いにその思いを抱えたままここまで来た。失楽園の如く、その堕落が望ましい。二人とも壊れて落ちきることで、ようやく、父と娘は再会した。

 もう、これを、崩されたくない。自分たち以外の誰かの手で。どうにもならない外の力で、ようやく得た絆を、崩されたくない。

 幕引きにしようと──引き金に指をかけ、

「……さっき、あの探偵の彼女は、なんて言ってたかな」

 ふと、彼の口からはそんな言葉がこぼれ出た。


◇ ◆ ◇


 風が吹く。宵の風が。

 腕と腕を握り合って宙吊りにされるような形のそのまま──アリシアは考える。

 下着を着けないワイシャツだけの姿に、海風は冷たい。

 それよりも肝を冷やしているのは、別のことだ。

 柳生兵衛──対機・新陰流の使い手。油断のない剣客。白髪剣鬼。

 彼はここまで、対機・新陰流の業を使っていないのだ。

(コイツは、まだ、底を見せていない……)

 勿論、アリシアがサイボーグではないということもある。それは大きい。そして、基本の体捌きや歩法や剣技は紛れもなく新陰流のものである。

 だが、それでも、まだ柳生兵衛の底ではない。

 あの、猛火の如く猛り狂ったアカネ・アンリエッタの攻撃を躱し続けた不可思議な歩法。あれも見せてはおらず、彼は手札のすべてを露わにしていない。最悪なのは、間違いなく先ほどの無刀取り──無刀取りとは特定の技法ではなく素手で刀を制することを指す──で確実に彼に火が点いてしまった。

 これまでより一層の容赦なく、剣を振るうだろう。

 彼の依頼人であるジェレミー・西郷が考えを一転させて止めに来ることを期待しないわけではないが……どう考えてもそれより、兵衛がアリシアの首を刎ねる方が早い。

 第一、見知らぬアリシアよりも自分の娘を優先するだろう。そういう愛が深い父親だ。

 助けは、期待できない。

(どうやって……倒せばいいの……?)

 苦渋に顔を歪めるも道筋は示されない。

 探偵の仕事の域を超えている。始末人モンドを本業とする男と刃を交えるなど──それ自体になんの謎解きも調査も絡まないなど、荒事解決などどう考えても自分の手に負えない。

 これが推理ドラマなら欠陥品で、B級アクションを名乗った方がいい。推理もそっちのけで機械仕掛けの殺人ドロイドよりも恐ろしい剣鬼と決戦をさせられるなど、探偵も人型強襲兵器に乗り込んで推理をすべきだろう。クソッタレだ。どうしてこうなったのだ。

 嘆いても、現実は変わらない。

 そう思索している間に、彼に床上まで引き上げられる。

 何を悩んでいようがいまいが、それで、終わりだ────。

(──いいえ!)

 思った瞬間、仮想量子線ストレイラインを兵衛目掛けて走らせた。

 操作できるのは電脳に限るが、電気を流すのは生体だろうと関係ない。高出力を叩き付ければ、生身であろうと昏倒させられる。

 だが──

「通じると思うのか、俺に」

 殺気だけで不可視の線を見切った言葉と共に、彼の手に握られるアリシアの左腕が弾けた。皮膚が引き裂かれ、肉が潰され、血管が破かれ、骨が砕かれた。

 尋常ではない握力の一撃。彼は素手で人体を完全に破壊できる身体能力を持っている。

 だが、

「通じると思うの? それがあたしに!」

 苦痛による行動中断を見込んだであろう兵衛のその一撃は、アリシアの痛苦たり得なかった。既に痛覚は排除済み。この限定的すぎる状態では、流石の兵衛も的確な一手が打てなかったのだ。

 そのまま、仮想量子線ストレイラインは彼に伸び──しかし身を捻った兵衛は、アリシアを手放しながらそれを回避した。

 結果、宙を舞うアリシアの身体。兵衛が右手で刀を構えるも、遅い。

 不敵な笑みのまま、

地獄で待ってるわアスタ・ラ・ヴィスタ浪人ローニン

 右手の親指を返す。

 それこそが狙い通りだったのだと、光なき暗闇目掛けてアリシアは落下する。

 三度目の。

 三度目の、戦いだった。

 まさに失楽と破綻を現した悪夢めいたこの都市の──その、地の底で。


 それを乗り越えねば、事件は、終わらない。

 探偵としてではない。

 事件屋ランナーとして────立ち向かわなければ、ならぬのだ。