『やはりクレア! どうしたんだ?』

 非礼を詫びるより先に思わず駆け寄った。スカーレットもクレアも、一瞬びっくりしたように私を見る。そのすぐ後、クレアが大声で泣きながら私に抱きついてきた。

『うえっぐ、ひっぐ、サ、ツキ、さあん』

『おっと、よしよし、どうした』

 彼女を抱きとめてあやすように頭をなでる。クレアは泣きやまず、顔が当たる部分の着物が涙であたたかく湿っていくのが感じられた。

 どうやらクレアはすぐに話せるような状態じゃないらしいので、私は訊ねるようにスカーレットへ視線を向けた。するとスカーレットはどう勘違いしたのか狼狽えだす。

『な、なに!? 別に私がいじめて泣かしたんじゃないわよ!』

『そんなこと誰も思っていないよ。ただなんで泣いているのか聞きたいと思ったんだ』

『あ、そ、そうなの。そうよね』

 どうやら彼女もいささか気が動転しているらしかった。泣いている少女をあやしていたところに突然人が乱入してきたら無理もない。

 スカーレットはこほんとひとつ咳払いをすると『実は……』と話しかけ、

『……んん? いやちょっとまって、そもそもなぜサツキやヴラドがここにいるの? それにどなたか見慣れない顔があるようだけど』

 と首をかしげた。

 いかん、すっかり忘れていた。

 たしかに説明がなければさっぱりわからないだろう。どこから話したものか悩んでいると、すい、とヴラドが前に出てくる。

『私たちが公使館内に入ったとき、サツキが泣き声がすると言ったのですよ。それで声の元を尋ねて探し回ったら、この部屋にたどり着いたというわけです』

 スカーレットが疑わしそうに眉根を寄せる。

『それ、本当? この部屋の泣き声が聞こえたって言うの?』

『私も先ほどまで信じられませんでしたが、この光景を見る限り真実のようですね』

 スカーレットとヴラドが同時に私の顔を見たので、軽く頷いてやる。

『子供の泣き声には昔から敏感でな』

『信じられないわ。ウサギの耳でも持ってるの?』

『む、失礼な。嘘ではないぞ。それに何でも聞こえるわけではない。実際スカーレットも同じ部屋にいるとは気付かなかったしな』

『私は黙って慰めていただけだから……って、そもそもこの部屋の声が聞こえること自体おかしいのよ』

 スカーレットはなおも訝しそうに私を見ていたが、やがて小さく頭を振った。深く考えることをやめたような仕草だった。

『ま、いいわ。ところでそちらの小さなお嬢さんはどなた? できれば私にも紹介してもらえると嬉しいのだけど』

 スカーレットは絹を顎で示して言う。

 私が口を開こうとする前に、ヴラドが軽く手を打った。

『まあまあ、これ以上は話が長くなりそうですし、まずは全員椅子に腰を下ろして落ち着きませんか? 今から誰かメイドに言ってこちらにお茶を運ばせましょう。暖炉も焚いた方がいいですね。陽が落ちたらこの部屋はずっと寒くなりそうですよ』

 

 

       ****

 

 

 しばらく後、ヴラドの言った通りの支度が私たちのいる部屋に準備された。

 五人分の茶器、紅茶のたっぷり入ったティーポット、色とりどりの菓子や軽い食べ物の載った皿、そして薪をくべられパチパチと火の粉をこぼしている暖炉。

 ただし、私と絹は湯飲み茶碗をもらった。エゲレスの茶碗は薄いし細くてうっかりすると壊してしまいそうだからだ。

 お茶の手配をすべてしてくれたのはニール代理公使だった。準備をしに女中メイドと共に部屋にやってきたときヴラドに一言二言不平をこぼしていたが、当然のように無視されていた。かわいそうに。

 私たちは部屋の中心にある大きな円卓にそろって座った。特に席の場所は決めなかったのだが、なぜか私が座ったとたんクレアと絹がさっと隣の席に座った。謎だ。

 絹は紅茶を初めて飲むらしく、湯呑みに入った赤い液体を興味深そうに見つめていた。鼻を動かして匂いをかいでから、「毒は無さそうですね」とつぶやいている。

 そんな心配しなくてもいいぞ、と言いかけたが、私自身警戒して最初の頃は口にできなかったから、言えた義理ではない。

 私もすっかりエゲレス式の茶会になれてしまったな……ちょっと複雑な思いが胸に去来する。思えばこのお茶のことがクレアと話すきっかけだった。

 クレアはいくらか落ち着いたのかもう泣きやんでいた。それどころかお茶の用意が部屋に届けられると一番に立って全員にお茶を配りはじめた。こんな時でも自分の仕事を優先する彼女は本当に尊敬する。変に触発されたのか、絹も一緒になって手伝いはじめた。

 全員に紅茶が行き渡ると、各人が思い思いに飲んだ。警戒していた絹も結局飲んだ。

 一口含んだとたん、絹が顔をしかめる。

「……変な香りのするほうじ茶みたいな味がします」

「砂糖を入れるといいぞ」

 私は砂糖壷を絹の方に押しやった。絹は言われたとおりに砂糖を二杯紅茶に入れる。再びおそるおそる口をつけると、今度はちびちびと飲みはじめた。気に入ったらしい。

 一息ついた頃、私はまず絹のことをその場の全員に紹介した。

 絹も立ち上がりペコりと挨拶する。

「足軽の絹と申します。江戸のころから五月様にずっと仕えております。以後お見知りおきを」

 なぜだろう、絹はいつもと変わらぬ態度で話しているはずなのに、なぜか空気がぴりぴりした。

 絹の言葉を簡単に訳して伝えると、スカーレットが『……へえ』とつぶやき片眉をあげた。クレアはいつもと変わらない笑顔を浮かべている。

 スカーレットが優雅な仕草で紅茶を一口飲んだ後、貴族的なほほえみを浮かべて、『スカーレット・キューパーよ。こちらこそよろしく』と言った。

 こちらもなぜかしら、言葉に妙な力が籠もっている気がする。

『公使館メイドのクレアです。よろしくお願いします』

 と、礼儀正しくお辞儀してクレアが自己紹介した。もちろん二人とも英語なので私が絹に訳している。

 よくわからない緊張感が場にみなぎったところで、ヴラドがぽんと軽く手を叩いた。

『それで……、クレアさんはいったいなぜ泣いていたんですか?」

 クレアの顔をさっと暗い影が覆った。なにも答えず俯いてしまった彼女の手をスカーレットが握り、代わりに口を開いた。

『クレアは……もうすぐ客間女中パーラーメイドに昇進するんだけど、そのことは知っているかしら?』

 話の先が見えなかったがとりあえず頷く。

『ヴラドから前に聞いたな。クレアががんばったおかげで上の役職に就けるのだろう?』

『それなら話が早いわ。そう、クレアが昇格するのは喜ばしいことなのだけど……その代わりに来年ヨコハマにいられないかもしれないのよ』

『どういうことだ?』

『サツキも知っているんじゃないかしら? ほら今、シナガワで新しく造っているでしょう?』

「あ……ああ! そういうことか!」

 そこまで言われてさすがに気がついた。向かいの席に座るヴラドもはっとしたように目を見はる。

 私とヴラドの顔を見て、隣の絹が不思議そうに首をかしげた。

「いったいなにが『そういうこと』なのでしょう、五月様」

「絹は知らないのも無理はない。実は幕府もあまりおおっぴらにしていないのだが、今品川の殿てんやまに西欧各国の公使館をまとめて建てているんだ」

「品川に、ですか」

「うむ。各国の公使館は横浜にあったり江戸の寺にあったり方々に分散しているだろう。それだと東禅寺事件(※イギリス公使館のあった東禅寺が攘夷志士に襲撃された事件)の時のように警護が困難だから、この際一カ所に集めてしまおうという考えでな。エゲレス公使館も新しく造られていて、たしか来年完成するはずだ」

「まったく知りませんでした」

「市中から離れるとはいえ江戸の近くに異国の公使館を建てるわけだからな、余計な波風を立てないように幕府内でもごく一部にしか話が回っていないのだ。私はその計画が出た時から正音様に聞いて知っていたが……」

 それにしても迂闊だった。来年には英国公使館が品川に移ることを、まったく忘れているとは。横浜に来た時からここに通っていたから、なんだかこれからもずっとあるような気がしていたのだ。

『たしかに昇格した女中なら移転に付き添わないわけにはいくまい。つまりクレアの嘆きの原因は――』

 ヴラドが後を引き取って話す。

『来年には公使館の移転とともに、ヨコハマを離れなければならない、そういうことですね』

 ヴラドの言葉はわかりやすかったがちょっと直接的すぎた。

 クレアが再び目尻に涙を浮かべる。

『せ、せっかくサツキさんと仲良くなれたのに……あんまりですっ!』

 そのまま顔を伏せて泣き始めてしまう。慌ててクレアの頭に手をやり、なだめる。

『だ、大丈夫だクレア。横浜と品川はそう離れているわけではないし、会おうと思えばすぐ会いに行けるさ。それにほら、ヴラドはしょっちゅうこの公使館に来ていただろう、行き先が品川に変わるだけでこれからもちょくちょく会いに行ける。そうだなヴラド?』

『それはどうでしょうかね』

 私の目配せを完璧に無視しながらヴラドは紅茶を一口飲んだ。

『私がイギリス公使館によく来ていたのは、距離が近く様々な手続きや商談に便利だったからです。それが関外、それもシナガワに移るとなると……正直大半の用事は手紙で済ますことになるでしょうね。公使館へは月に一度くらいしか行かなくなるのでは?』

『うわーーーーーん!』

『ああ~、泣くなクレア!』

 案の定クレアの泣き声がさらに大きくなった。頭を撫でてやりながら、ヴラドに殺気を込めた視線を送る。

「ヴ、ラ、ド~~~~」

「どうかしましたか?」

 こ、こいつ……!

 本当いつか性根を叩き直してやる。

「お前なあ、こういうときくらい話を合わせろ!」

「人を安心させるためだけに、できもしない約束をするのは私の好みではありません」

 飄然としてヴラドが言う。こういう奴だとはわかっていたが、くそ。

 腕の下のクレアへ必死で話しかける。

『だ、大丈夫だクレア。護衛役など関係なく会いに行くから! なんならヴラドのことなんか放って会いに行ってやる!』

「おやサツキ、ひどいこと言いますね」

「うるさいだまれ」

 テーブルクロスを涙で濡らしながら、クレアが答える。

『ぐすっ、ひっく……いいんですサツキさん、無理しないでください。サツキさんにはサツキさんの大切な仕事があるんですから。私は、お別れする前のあと二ヶ月くらい、少しでもお会いできたらそれでいいです……』

『クレア……』

 健気さにこちらまで涙がこぼれそうだ。私もクレアの護衛役だったらもっとお役目に励んだだろうに。

『わかっている。私だって毎日でも会いにきたいくらいだ』

『ぐすっ……では、ではその……、クリスマスの時は、お会いできますか? 勝手なこと言って申し訳ないのですが、祝賀会は新公使館員への送別会も兼ねて行われるのです。サツキさんには出てほしくて……』

『ああもちろんだ………………んんっ!?」

「あ」

「……あ」

 私、ヴラド、絹が同時に声を上げ顔を見合わせる。

「「「…………」」」

 三人ともしばらく一言も発せなかった。

 私の背中を、じっとりした冷汗がつたっていく。

 動揺が伝わったのか、クレアが顔を上げて私を見上げた。

『……サツキさん?』

「う、」

 思わず顔を逸らしてしまうと、冷たい目つきのスカーレットと視線がかち合った。

『ねえサツキ? あなたまさか』

『……いや』

『クリスマスパーティーに出ないなんて言うんじゃ』

『も、もちろん出るとも! 出るに決まってる!』

 クレアの顔がぱあっと明るく輝いた。

 スカーレットはまだ疑わしそうにこちらを見ている。

 絹はあきれたようにため息をついて顔を覆い、ヴラドだけは楽しそうに口笛を吹いた。

 ……だってしかたがないだろう!

 この状況でほかにどう答えられる!

『サツキさん、私楽しみにしてますね!』

『あ、ああ……』

 涙をぬぐって笑顔を見せるクレアへ、わずかに頷くことしかできなかった。

 いつの間にか側に寄ってきたヴラドがくすくす笑いながら、私の耳元に唇を寄せてささやく。

「……人を安心させるためだけにできもしない約束をするのは――」

「うるさいだまれ!」

 さ~~~~、困ったことになった!