しかし本人にそのような厳しい雰囲気は微塵もなく、穏やかでややのんびりした、言葉悪く言えば頼りない雰囲気の持ち主だ。事実今も、面倒くさいから早く終わらせたいという雰囲気を隠してもいない。
三島も苦い顔をして振り返った。
「しかし天下の街道筋をお騒がせしたのですから、少しは仕置もせねば他に示しがつきませぬ」
「そこよそれ、この件で仕置きなどしてはならぬ」
正音様の言葉に、おや、と思う。もしかしてかばってくれるのだろうか。
「仕置となればその理由を江戸表に届け出ないといけなくなる。さすれば東海道の騒ぎを知りながらみすみす何もできなかったことになろう。神奈川奉行所の管轄でそんなことがあったと知れたら奉行所の、引いては私の失点になる。しからばこの件は一切不問。問題なし!」
思わずがっくりと倒れそうになった。正音様の事なかれ主義は相変わらずらしい。
三島も口を開けたまま呆れたように突っ立っていたが、やがて、
「まあ、阿部様がそうおっしゃるのであれば……」
と言って引き下がった。
正音様は
「まあ、全くお咎めなしではしめしがつかぬのももっともであるから、五十嵐と絹は後で私の書院に来るように。
「ははっ」
私と絹は平伏してその場から下がった。
****
奉行での引見を終えると、私と絹は神奈川奉行所内の奉行役宅(※奉行自身や家族が暮らす場所)に顔を出した。
正音様はすでに正装の打掛(うちかけ)を脱いで平服に着替えをすませている。目の前に置かれた机に両肘を突き寄りかかるようにして座っていたが、私を見ると大げさなため息をついた。
「は~~~~~~~~~~」
正音様のそばに寄りあぐらになると、私は訊ねた。
「お疲れですね」
「誰のせいで疲れてると思ってるの」
きっ、と目をつり上げて正音様は言う。残念ながら少しも怖い顔になっていないが。
「も~、こういう面倒事起こさないでよー。ただでさえ生麦事件の後処理で奉行所は大変なんだから」
「先ほどは寛大なご処置ありがとうございました」
「まあ、気にしないで。これ以上余計な仕事増やしたくなかっただけだし」
「だろうとは思いました」
「前言撤回。もうちょっと感謝してよ」
むー、と正音様は唸っていたが、ふと、私の後ろに目を向けた。
視線を追って振り返ると、絹が座敷の隅で平伏している。正音様との身分差を考えれば当然の行動ではあったが。
「絹ちゃん、だっけ? なにしてんのそんなところで、もっとこっち来て」
「は……」
正音様は同身分と接するような気安さで手招した。絹もさすがにどうしたものか困惑しているようだ。
私も絹の方を向いて声をかける。
「気にしないで近づいていいぞ。こういう方だ」
「はい、では……」
絹は恐る恐るという感じで近づいてきた。改めて私の隣に座り、平伏する。
「御庭番くノ一組、足軽の絹と申します」
「ん、これからよろしく。こういう時は私のことも名前で呼んでいいよ。公の場だとさすがにダメだけど。絹ちゃんが罰されちゃうからね」
「あの、阿部様は」
「ま、さ、ね」
「……正音様は、五月様とお知り合いなのですか?」
当惑した表情のまま絹が尋ねた。正音様は視線を宙にあげて答える。
「んー、というかさっちゃんの師匠と私が幼馴染で、その縁でね。ほら、くノ一組先代頭取の
「申し訳ありません。私が組に入った四年前には、すでに五月様が頭取となられていたので……空木様には数えるほどにしかお会いしておりません」
「あ、そうなんだ。私も昔はちょいちょいくノ一組の組屋敷に顔出していたんだけど、去年まで京にいたから、最近入った子は知らないんだよね」
その言葉に刺激され、正音様が綾様とよく組屋敷の縁側で親しく話しをされていた姿を、私も思い出した。
まるで昨日のことのように鮮明に、脳裏に蘇る光景だ。
「そういえば、正音様が神奈川奉行になられてそろそろ一年ですか」
「去年の霜月十一日からだから、そうだね。早いなあ、いろいろありすぎてもうやんなるけど」
「私は二月いただけでも目の廻る思いがしました」
「さっちゃんが来てくれて私は嬉しいよ! ねえねえ、いっそ異人の警護なんかやめて私のこと守ってくれない? お手当弾むからさ」
「お断りします。ヴラドより大変になることが目に見えているので」
「むーー」
ふくれっ面で唸る正音様だったが、またすぐに表情を変え「あ、そういえば」と絹に話しかける。
「ところでさ、絹ちゃんてすごい礼儀正しいのにさっちゃんのこと名字で呼ばないよね、なんで?」
絹は答えを返す前にちらと私を見て、
「初めは五十嵐様とお呼びしていたのですが……仰々しいからやめてくれと何度も命じられて、仕方なく」
「あははは、さっちゃんらしいね」
正音様が笑う
「本当は今の『様』だって恥ずかしいのです」
「まーね。そもそもこんなしゃべり方の私が言える事じゃないし」
「まったくです、奉行様がそんなくだけた態度なんて前代未聞……といいたいところですが、遠山様の例もありますしね」
「金さんは凄いよね~。もう亡くなって八年くらいになるっけ。いい人だったなあ」
「私の両親も、思い出すたび感謝していました」
「あ~あ、私も早く出世して江戸町奉行になりたいなー。神奈川は毎日問題ばっか起こるんだもん、やんなっちゃう」
「正音様が町奉行になったら江戸が大変なことになりますから出世しないでください」
「なに言ってるの、私の最終目標は老中(※幕府常置の最高職。現代の内閣官房に相当)なんだから! 目指せ本丸御用部屋!」
「日本が沈みます……」
「さっちゃんさっきからひどくない? 私これでも奉行なんだよ。偉いんだよ」
「はいはいえらいですえらいです立派です。失言でした、お許しを」
「ぜんぜん謝られてる気がしない……」
「ところで正音様、私達をこうして奥に呼び出したのは、何か他の用事もあってのことではないですか」
むーー、とまたふくれっ面をしている正音様に尋ねる。正音様と話しているのは昔も思い出せて楽しいが、いつまでも談笑しているわけにもいかない。
正音様もすぐに表情を戻す。
「そうだった。さっちゃんに教えときたいことがあったんだよ」
「と申されますと」
「さっちゃんも何となく気づいていると思うんだけどね。ほらさあ、奉行所の空気? なんていうか、こう、わかる?」
さっぱり要領を得ないが、言いたいことは伝わった。
「一昨日と今日、三島様に会って感じましたが、アレですか?」
「そうそう、アレ。三島が特に酷いんだけど、まあ、アレがみ~んなだと思って」
「やはり、嫌われてますか」
「嫌われてるっていうか、ただのやっかみだけどね」
私と正音様がお互い頷いていると、絹が訊ねてきた。
「どういうことです? 五月様が奉行所の方々から嫌われているというのですか」
「そういうこと。今のところ同心たちが中心だけど、上役の与力や組頭にもさっちゃんをよく思ってない人はいるかな」
「何故ですか。五月様は立派にお役目を果たしておられるではないですか」
「むしろそれがまずいんだよねえ。目立った功績を上げているのが気に食わない連中もいるわけでさ。それにさっちゃんは英語ができるようになってきて異人とも普通に話したりしてるでしょ。それがまた火に油を注いでるわけで。まあどっちもただの嫉妬だけどね」
「な……」
絹が絶句している。
まあ、私も覚悟はしていたものの、これほどとは思っていなかった。
「やっぱり英語がまずかったかな~。いまはちょうど攘夷の嵐が高まってるし。三年前ならここまででもなかったんだけど、井伊様が桜田門で討たれてからいろいろおかしくなっちゃった」
「しかし、異人と付き合う以上英語を学ばないわけにはいきません。彼らの言葉を知らなければ、きちんと守ることもできませんよ」
「そういう合理的な思考ができない頭のかたい連中がたくさんいるのよ。攘夷とはいかなくても、異人とはなるべく付き合いたくないって連中が」
「頭の痛い話ですね」
正音様と二人して、腕組みして考えこむ。
絹が悔しそうに眉を歪めた。
「おかしいです。五月様は賢明にお務めしているなのに、それで煙たがれるなど」
「そういうものだ。なに、絹だって異人とは仲良くし過ぎないほうがいいとたびたび忠告してくれたじゃないか。こうなってみると、まったく正しいな」
「あれは、そういう意味で言ったわけでは……」
絹がもごもごと口内でしゃべる。あとを引き取って正音様が言った。
「ま、そういうわけだから西洋人と仲良くするのはしばらく控えておいて」
「控えるといいましても、どの程度でしょう」
「それがねえ、この前運悪くちょうど評定があってね、そこで決まったのだと、『日本の国家機密を漏らさない』『キリシタン宗門に肩入れしない』」
「それはまあ……」
「西洋人主催の会合や宴は、外交上やむを得ない場合を除いて参加禁止。また会場でパンや肉を食べてはならず、米を主食とすること」
思わずひっくり返ってしまった。
「相手に招かれた宴で相手の国の料理を食べないのですか!? いくらなんでも無茶苦茶です!」
「しょーがないじゃんそう決まっちゃったんだから」
ふと、ある予感が私の頭をよぎった。
「その評定、もしかして三島様の一存で開かれたものではありませぬか」
「あ、よくわかったね」
やはり。
キョトンとしている正音様に、私が三島から睨まれていることは告げなかった。話せば力になってくれると思うし、実際正音様の権力ならどうにかできてしまうだろうが、それは正音様自身を難しい立場に追い込んでしまう。特に今は私をかばうことがそのまま異人をかばったことにされてしまいかねない。
三島の一件はあくまで私自身の問題だ。そのことを改めて強く意識しつつ、単純な疑問のみを口にする。
「しかし私はそもそもヴラドと……西洋人と一緒に暮らしていますし、同じ食事を食べているのですよ」
「わかってるって、奉行所も建前でこう言ってるの。誰も本気で実行しようなんて思っていないよ、それこそ外交問題になっちゃうし。でも私みたいな外国奉行が会食するならともかく、さっちゃんはあくまで警護役だから、気を付けて」
「は、心にとめておきます」
これは三島に限らず、幕府内部に相当攘夷熱が広まっていると考えるべきだろう。三ヶ月前なら気にも留めなかったことだが、いざ自分が異人の警護役となると、動きにくいことこの上ない。
何も知らずに、ただ異人が嫌いだと言えてたころが懐かしく思えてくる……。
「うん、付き合うなとは言わないけどほどほどにね。外国方はどうしたって間者(※スパイ)の疑いをもたれやすいから……」
正音様はそう真面目な表情で語ったあと、急にくるりと表情をにこやかなものへと反転させた。
ぽん、と両の手を打ち合わせて言う。
「ま、忠告はこれだけだから。あとはおしゃべりしよう! いやー、さっちゃんとおしゃべりするのひさしぶりだな!」
「は? いや、正音様仕事の方は? 会見がなくとも神奈川奉行は多忙なはずでしょう」
「サボった♪」
「嬉しそうに言わないでください!」
「うるさいうるさーいっ! 元はと言えばさっちゃんが全然遊びに来てくれないのが悪いんだよ! 私ずっと待ってたのに!」
「私の身分で正音様と気軽にほいほい会えるわけ無いでしょう」
「だったら屋根とか伝ってこの役宅にお忍びで会いに来てくれたらいいじゃない。仕事なんかうっちゃっていくらだって時間作るよ」
「かりにも神奈川奉行がそれでいいのですか……」
「五月様、私、奉行所の運営が不安になってきました」
****
奉行所での用事を終えて、私と絹は帰り道を急いでいた。朝のうちには帰るつもりだったのに、もう時刻は八つ半(※午後三時)をとっくに過ぎている。
絹の着任挨拶はすぐに片付いたものの、その後の阿部正音様との話が長引いてしまった。最近の攘夷派浪士の動向や、神奈川奉行所の対応、といった真面目な内容から私とヴラドとの同居生活などいろいろな話をしている内に、いつの間にか昼近くになってしまったのだ。
すると正音様が「どうせなら一緒にお昼ごはん食べようよ」と誘ってきた。たしかに正音様とは久しぶりにお話しするし魅力的な相談ではあったのだが、この時間だと屋敷に帰るころにはヴラドが起きている可能性があった。
ヴラドは私がいないと、これ幸いとばかりにひとりで街にくり出してしまう困った悪癖がある。危険だからやめろと何度も言っているのだが聞く耳をまったく持たない。どうもあいつには自分の命を軽んじているところがあった。
そんなわけでヴラドのことが心配だからと一度は断ったのだが、
「ふーーん、そうなんだ、私とのお昼が食べられないって言うんだ、さっちゃんは。ふ~~~~~~ん、べつにいいけどね~~~~。あーあ、せっかく用意してもらったのにもったいないなー。あーあ、なんだか急にさっちゃんを勘定方に役務替えしたくなってきちゃったなー」
「わかりました、わかりましたっ! お昼お供させていただきます! まったくなんてことに権力使うんですか!」
「ほんと? えへへ、わるいねー」
と、
本当は急いで戻らねばならないのだが、少し歩むのが億劫だった。足取りを重くしているのは、正面から吹き付けてくる冷たい木枯らしばかりではない。
一昨日の時もそうだったが、せっかくヴラドや英国公使館の面々などと親しくなり始めたというのに、幕府は水ばかり差してくる。少しでも異人と付き合えば、お互いそう変わらない人間だとわかるだろうに。
「五月様」
袖を引かれて振り返る。絹が普段と変わらない表情ながら、慰めるようにな声音で言った。
「五月様の思い悩むことではありませんよ」
「わかっている。わかってはいるのだが……。なんでこの国は鎖国なんてしているのだろな」
「いまはすでに開国しております」
「そうだが、心はまだまだ鎖国している。幕府も諸藩も、武士のほとんどは破約攘夷(※通商条約を破棄して攘夷を実行するという意味)に賛成だ」
「仕方ありません。二百五十年間続いてきたことを急に変えているのですから、どうしても反発はおきます。他ならぬ私もまだ異人は信用なりません」
「む……、私も横浜に来る前はそうだったのだが」
ずいぶん自分の心が変わったことを思う。ヴラドに初めて会った時の印象は最悪といってよかった。今だって多々あやしげなふるまいはあるが、最初の時とはずいぶん感じが変わった。少なくとも嫌いでは、ない。
異国の出身でも、見た目が違っていても、同じ人間だと今は強く思う。
結局人と人とが直接知り合うことでしか、わかりあうことはできないのだろう。
「絹、わかっているとは思うが、くれぐれも早まったことはしないでくれよ」
「大丈夫です。嫌いとはいえヴラド様も他の異人にも危害を加えるようなことは致しません。昨夜のことは少々取り乱してしまっただけです」
「昨日は悪かったな。私も赤葡萄酒のことは話しておくべきだった」
「五月様のせいではありません」
「思えば絹は昔からお化けや怪談の類をひどく怖がっていたからな。おびえるのも当然のことだ」
「…………べつに化け物が怖いわけではありません。少し苦手なだけです」
「それを怖がりというんじゃないのか?」
「違います、苦手なだけです」
「まったく蛇も百足も平気で触れるくせに、お化けは恐いというのがよくわからん」
「ですから、苦手なだけです」
そんな話をするうちに、横浜の町に戻ってきた。
ヴラドの屋敷に近づくにつれ、私は耳をそばだてる。
「む……?」
「どうされました、五月様」
「気のせいか、屋敷の方からなにか聞こえてこないか?」
「なにか、ですか」
「どうも歌のようだが……」
「歌、ですか」
冷たい北風に乗って耳慣れない旋律が聞こえてくる。
耳を澄ませば、どうも歌声であるらしい。しかし聞いたこともない歌だった。
「♪……Silent night,……holy night ……all is calm, ……all is bright……Round yon Virgin…… Mother and Child.……Holy infant so tender and mild,……♪」
近づくにつれてそれが英語の歌であることがわかる。屋敷はもう目の前で、どう考えても歌は屋敷の中から聞こえてきていた。こうなると歌い手は一人しかいない訳だが、私と絹はお互い顔を見合わせた。
二人同時に首をかしげてから、屋敷の中に入る。
屋敷のどの部屋にもヴラドの姿は無かった。
歌声の聞こえる方へ向かっていくと、はたして庭に面した縁側にヴラドは座っていた。意外だったのはその周りに、近所に住んでいるらしい子供たちが五、六人集まっていたことだ。皆騒ぎもせずじっとヴラドの歌に耳を傾けている。いや、聞き惚れていると言ってよかった。
すぐには声をかけず、私も絹も改めてヴラドの歌に耳を澄ましてみる。
ヴラドは実に良い喉をしていた。歌の歌詞はわかりにくいところもあったが、哀切な響きと慈しみを含んだ優しい歌だった。
「……Sleep in heavenly peace ……Sleep in heavenly peace――」
やがて、ヴラドの歌は終わった。終わった後も空気は歌の旋律を韻韻と含んでいて、今も歌声が耳に流れてくるようだった。
「……いまのが Silent night と言う歌です。そうですね、日本語では聖なる夜、とでも言うのでしょうか。きっと明日の夜、このヨコハマの町でも歌われるはずですよ」
「お姉ちゃん、ありがとう」
「すっごい上手だったよ!」
「フフ、どういたしまして」
ヴラドが歌を終えると、ぱっと子供たちが飛びついてきた。ヴラドは優しいほほえみで子供たちに応じている。それは今まで見たこともない表情で、私は思わずヴラドの横顔をまじまじと見つめてしまった。
「お姉ちゃん。誰ー?」
「む」
「あ」
子供たちの一人が私に近づいてきた。その声ではじめて気付いたように、ヴラドが視線を上げる。
「おやサツキにキヌ、帰っていたのですか」
「ああ、いま帰った。良い歌だったからな、声をかけたくなかったんだ」
「黙って聞いてしまいすみませんでした」
ちょっとばつが悪く感じながら、ヴラドの前に出る。すると彼女もめずらしくその白皙をほのかに赤くしていた。銀髪をもてあそびながらあらぬ方を向いて答える。
「いえ……かまいませんが、少し恥ずかしいところを見られてしまいましたね」
「そんなことない。とても綺麗な歌だった」
「とってもお上手でした」
私と絹が口々に褒めると、ヴラドはますます顔を赤くした。
「……ありがとうございます」
少しはにかむような笑顔を浮かべてヴラドは言う。
やはりそうだった。子供に囲まれている時のヴラドは、普段のどこか他人を寄せ付けない妖しい雰囲気がなく、ずっと穏やかな顔をしている。
いつも張り付いたような笑顔を浮かべて他人に気を許すことなど無いように思われたヴラドだが、もしかするとこちらが彼女本来の表情なのかもしれない。
絹がそっと耳打ちしてくる。
「なんだか昨日のヴラド様とずいぶん印象が違いますね」
「うむ、私もこんな姿は初めて見た」
「五月様も……。いったいどちらが本当のヴラド様なのでしょう」
「さて、な」
私と絹は、どちらともなく黙って子供たちと戯れる姿を見つめていた。
ややして、絹がふと顔を上げる。
「そうだ五月様、屋敷の掃除がまだでした。すぐいたします」
「む? いや、そんなの後でも……」
私が言うより先に、姿を消している。
絹は家事の鬼だから一度仕事に気付くと止めても聞かない。こんな時くらいゆっくりしていればいいのに。
絹が屋敷の中に戻ってしまったので、とりあえず先ほどから抱いていた疑問を尋ねることにした。
「この子供たちはどうしたんだ?」
すると、ヴラドはまた少し恥ずかしそうにする。
「いえ、貴方達が出かけている間ちょっとここで息抜きに歌っていたのですが、どこから聞きつけたのやら集まってきてしまって。ねだられたので三、四曲歌ってあげていたんです」
ヴラドがそういうと、子供たちが急にわっと騒ぎだした。
「とってもうまかったんだよ」
「唄のお師匠さんみたい」
「異人のお姉ちゃんなのに、優しかった」
子供たちが口々に誉めそやすので、ヴラドはますます顔を赤くした。こんな表情を見るのは初めてで、いたずら心が騒ぎ出しからかいたくなってきた。
「そうか。そんなに良かったのならまたいつでも聞きに来ていいぞ」
「「「ほんとー!」」」
「待ってくださいサツキ、何を言っているのです」
顔を赤くしたままヴラドが目を白黒させた。
「たまにならいいじゃないか。隠れてこっそり歌うくらい、歌が好きなんだろ」
「それとこれとはまったく別です」
「皆も、このお姉さんの歌また聞きたいだろう」
「「「ききたいー」」」
「な」
笑いながらヴラドを見ると、観念したのかため息をついていた。
「意地が悪いですよ、サツキ。昨日からかったことをまだ根に持っているのですか」
「そんなことはないさ」
珍しくおろおろするヴラドの姿を見れて満足していると、袖を引かれた。
「む?」
「ねーねー、お姉ちゃんは歌わないの?」
「
子供の一人に尋ねられて青くなる。
「いや、私はちょっとな……」
「おやサツキどうしたんですか? 歌ってあげればいいでしょう」
こんなことばかり目ざといヴラドが、すきを逃さず食いついてきた。瞳に早くも、いつものからかうような光が戻ってきている。
「いや、私はいいんだ。ほらみんな、もう暗くなるし帰ったほうがいいぞ」
「いえいえそんな時間は取らせませんよ。みなさん、このお姉さんの歌も聞きたいですよねえ」
「「「ききたいー!」」」
「ヴラドお前……」
わかっててやってるな、と視線を送ると、ヴラドはそしらぬふりをして言う。
「私もサツキの歌聞きたいですよ」
「お前な、人をからかうのもいい加減に」
「か・ん・ざ・し」
ヴラドが愉快そうにこちらを眺めてつぶやいた。
「~~~~~っ、それを今使うなんてずるいぞ」
「サツキは約束を守る人間ですよね?」
「ヴ~~ラ~~ド~~~っ!」
言い合っている間に子供たちは、すっかり期待に満ちたまなざしで私を見つめていた。
「――わかった、歌えば、歌えばいいんだろう」
「それでこそサツキです」
「わーーーい!」
笑いを含んだ目で見ているヴラドをにらみながら、やや捨て鉢になって歌い始めた。
****
「異人のお姉ちゃん、ありがとー」
「「ありがとー!」」
「はい、さようなら。気をつけて帰るのですよ」
「歌の下手なおねえちゃんもありがとー」
「「ありがとー!」」
「……はは」
大きく手を振る子供たちを私とヴラドは見送った。寒空の下でも元気一杯に、子供たちは帰っていく。
その姿が見えなくなると、私たちも手を振るのをやめて屋敷の中へと戻った。
「まさかサツキがあんなに音痴だとは思いませんでした」
「お前のせいだぞ」
「おや、先に仕掛けてきたのはそちらでしょうに」
私が文句を言うと、ヴラドはいつもの余裕たっぷりな態度で切り返してくる。
「いつもあそこで歌っていたのか?」
「いつもということはありませんよ。本当にごくたまに……、それに子供たちが来たのは今日が初めてです」
「なんで隠れて歌っていた」
「なぜってそれは、恥ずかしいじゃないですか」
屋敷の玄関で靴の泥をはたき落としながら、ヴラドは本当に恥ずかしそうに言った。
日ごろあれだけ放蕩の限りを尽くしているのに、いまさら恥ずかしいも無いだろう思っていると、顔に出ていたのかヴラドが言い添える。
「歌はまた別なんです」
「別、か」
廊下をヴラドと共に歩きながら少し考えた。ヴラドの別という意味はわからなかったが、歌を歌っている時の彼女は楽しそうだった。
あんな表情は初めて見た。
「いいじゃないか、恥ずかしがらずに歌えば」
「え?」
「だって好きなんだろう、歌」
ヴラドが私を見る。私もまた、ヴラドを見返した。
「歌っているときのお前は楽しそうだった。歌うのが好きなら、それでいいじゃないか」
ヴラドは、目をしばたたかせた。
「そう、ですね」
やがて視線を前に戻したヴラドは、また静かに歩き始める。
ややして、ポツリとつぶやいた。
「お母様が好きだったんです、私の歌」
「ほう」
「私に歌を教えてくれたのもお母様でした。お母様はとても穏やかな人で、私を大切に育ててくれました。小さい頃に離れ離れになってしまいましたが、今でも歌を歌うとあの頃に戻ったような懐かしい気持になるんです」
そうか、と小さく相槌を打った。
ヴラドが家族について話すのは初めてのことだった。
以前天涯孤独だということは聞いていたが、どこか話したがらないような雰囲気があった。家族については私も同じ気持なので強いて聞きはしなかったが、今日は何か思うところがあったのだろう。
廊下を歩きながらヴラドはどこか目をしていた。その瞳は茫漠として、思い出にひたっているというよりも、どこか古い古い昔の記憶を掘り返しているような色をしている。
いつに無く感傷的なヴラドに突き動かされて、少し自分の家族のことを思い返した。
私は江戸の小さな町道場で生まれた。父と母は優しく、三つ下の妹は生意気だがかわいかった。男子が生まれないことを両親が残念がっているほかは、特に不自由の無い幸せな家庭だった。
家が道場だったこともあって私は幼少の頃から剣に興味をもった。母は眉をひそめたが、父は面白がって熱心に稽古をつけてくれた。そのおかげで腕はかなり上達し、十を過ぎる頃には同年代で私に勝てる子はいなくなり一回り上の大人に混じって稽古をしていた。父と母はますます、私が男に生まれてくれたらとくやしがっていたそうだ。
私が十三才になった年、安政二年十月の夜に、巨大な地震が江戸を襲った。世に言う安政の大地震で、道場は潰れ父も母も、家の下敷きになって死んでしまった。私と妹は運良く助け出されたが、地震のときに負った怪我が元で妹だけがその二日後両親と同じところへ旅立った。
そのままでいれば私も、あの時たくさん生まれたみなし子の一人になっていたのだろうが、父と親しくしていた道場の高弟の一人が見かねて私を引き取ってくれた。それが空木綾様で、私は嫌も応も無く新たな御庭番のくノ一として訓練され育てられた。
訓練は厳しく辛かったが不満は持ってない。おかげで幕臣として召し抱えられ、自分の腕で食べていくことができた。
ただ、と思う。もしあのまま普通に生きて、家族の元で育って、私は誰か婿を取って道場の後を継いで、妹はどこか良い家に嫁に行って、皆が幸せになって。もしそうなったらどんなに良かっただろう。
そんな未来は、もう永遠に来ないのだと、何度となく思った。
「普通に生きるのというは、難しいな」
知らず、つぶやいていた。
「ええ、本当に。本当に」
返事がきたので驚いた。見ると、ヴラドが深く深く頷いていた。適当に
「お前でもそう思うのか?」
「私はずっと、普通に生きたいと思っていますよ」
「やろうと思えばできるんじゃないか?」
「いいえ、できません。おそらく、一生、できません」
それがあまりにも思いつめた様子だったので、何か重い過去があるのだろうと察することはできた。
「ヴラド」
「なんです」
「ちょっと見直したぞ」
「はいィ?」
ヴラドはぐりんと首をこちらに回して、いぶかしげな視線を寄越す。
「正直、お前は金と女が好きな欲望まみれの守銭奴だと思っていたが」
「ふむ。特に訂正する必要は無いですね」
「でもまあ、そんなお前でも、人間らしく普通の幸せを願う気持もあるんだな」
ヴラドは私の言葉を聴いてしばらく固まっていたが、やがて肩をすくめた。
あきれたように、でもどこか楽しそうに、笑う。
「私は欲望まみれの守銭奴と思っていただいていっこうにかまわないのですが」
「そんなことはないともうわかった。いつも憎まれ口ばかり叩いてないで、もっと素直になれ。ヴラドは正直になったほうが可愛げがあるぞ」
「サツキはもっと不真面目になったほうが可愛げがありますよ」
ああいえばこういう、もういつものヴラドだった。それでも自分なりに思うところがあったのか、こう付け足した。
「まあ、もうすぐChristmasですからね。少し感傷的になったのでしょう」
****
屋敷の中では絹がせっせと掃除に励んでいた。
今は食堂を掃除していて、私を見ると申し訳なさそうな顔をして言う。
「すみません五月様、まだ屋敷の半分しか掃除が終わっていません」
「いやいや、むしろどうして半分も掃除が終わっているんだ」
相変わらず絹の家事能力は時間さえ縮めるようだった。ちなみに私とヴラドがここに来たのは別に食事をするためではなく、ここが屋敷の中で一番暖かい部屋だからだ。
「そういえばヴラド、さっきクリスマスのことを話していたが……お前もたしかそのクリスマスパーティーというのに呼ばれているのだったな」
「ええとっくに。まあ私を招待しなかったらニールを横浜湾に放り込みますからね」
ヴラドは本当にやりかねないから怖い。
「そうか。私も招かれているから警護するにはちょうどいい……」
そこまで言いかけたところで、着物の裾を後ろからそっと引っ張られた。
振り返れば絹が私の顔を見上げている。
「五月様、お忘れですか? 正音様に注意されたこと」
「あ」
絹に言われてはたと思い出した。正音様から「異人とあまり親しく付き合わないこと」という注意を受けていたのだった。そうだ、まったく考えていなかったが、クリスマスの祝賀会に招かれるというのはこの「異人と親しく付き合うこと」にしっかり当てはまってしまう。
私と絹の顔を交互に見くらべて、ヴラドは小首をかしげた。
「どうかしたのですか? サツキ」
「む……いやな、実は奉行所へ行ったときに阿部正音様から異人とのつきあいについて注意を受けてしまったのだ。ああ、正音様というのは外国掛での私の上役にあたる方だ」
「ほう、どういう注意を受けたのでしょう」
私は奉行所で受けた話をざっとヴラドに語って聞かせた。
話を聞き終えると、さすがの彼女も眉根を寄せて考え込んでしまう。
「それは……悪いタイミングに悪い注意を受けてしまったものですね。しかしその、神奈川奉行のマサネさんという人もずいぶん人が悪い」
「ううむ、正音様自身はもともと異人に好意的なのだがな。昔から外国の文化に興味を持って、いろいろ勉強されていた。むしろ今回の件は外国掛内の攘夷派役人からの突き上げを押さえきれなかったからだろう」
「なるほど、外国方の中でも攘夷派と開国派の争いが起こっているわけですか」
「特に今は世間も幕府も攘夷派が力を握っているからな。いくら正音様でもどうにもならん」
「しかしそうなるとサツキを祝賀会に招くのは本当に難しいですね。食事をしたり酒を飲むのもいけないんでしょう?」
「正音様からはだめだと言われたな」
「宴の席に招かれて飲食はしないなんて、そんなの火のない暖炉であたたまるようなものですよ。見ている方が寒々しい」
ヴラドが肩をすくめた。私もその通りだと思う。
絹が横から声をかけてきた。
「それだけではありません。その「くりすます」というのが耶蘇教の重要なお祭りなのでしたら、最悪の場合五月様にキリシタンの疑いがかかりかねませんよ」
「む……。その可能性もあるのか」
絹の言葉はもっともだった。幕府は西洋列強への配慮から表向きキリシタンへの詮議はゆるめているが、一方裏側では直参のキリシタンへの改宗に目を光らせている。疑われる可能性は大いにあった。
「むむ……そうなるとますます祝賀会には行けないな」
「困ったものですね」
私もヴラドもそろってため息をつく。悩ましい。
思わず頭をかきむしった。
「あ~~~、もう! どうしてみんな普通に仲良くできないんだ。私が誰と親しくなろうと勝手だろう!!」
「そうはいかないのが国際情勢というものです」
「わかってはいる、わかってはいるのだが……。いらいらする」
腕組みをしてうなっていると、絹がいつもの抑制の利いた、しかし固い芯のある声で言った。
「五月様、今回はあきらめた方がいいと思います。時期が時期ですし、正音様に注意されたばかりでこれは言い訳のしようがありません」
「む……だが、せっかく招かれたのに……」
「私も今回は見送った方がいいと思いますよ。サツキ」
意外なことにヴラドも絹に同調して言った。
「なにもこれで公使館の面々とつきあいがなくなるわけではありません。焦らずに時勢が変わるのを待ちましょう。こういうと気を悪くするかもしれませんが、日本人は世情に流されやすいところがあります。今の攘夷気分だってしばらく時間を置けば変わりますよ」
ヴラドにまでそう言われては頷くほかない。せっかくの招きを、他に予定があるわけでも無いの断るのは気が引けるが……。
「はあ、わかった。今回はあきらめよう」
「…………よし」
「む? 絹、今なんだか嬉しそうにしてなかったか」
「いえ、まったくそのような」
「本当か?」
絹の顔をじっと見つめたが、いつもの無表情に戻ってしまっている。
おかしいな、気のせいだったのだろうか。
「ところでサツキ、断るにしてももう日がありませんから早めに済ませた方がいいですよ」
「む、そうだな」
私は顔をヴラドの方へと向けた。彼女は懐から鎖付きの時計を取り出して時刻を確かめている。
「ちょうど私も少し公使館で済ませたい用事がありますから、良ければこのまま一緒に行きませんか? 手紙よりも直接会いに行った方が、向こうにも気持ちが伝わるでしょう」
「それは助かる。ありがたく付いていくよ」
「ではすぐに出かけましょう。今の時間なら急いでいけばアフタヌーンティーに滑り込めます。キヌさんも共に来てくれますね?」
「はい、もちろんです」
「では決まりですね」
その後、私たちは手早く準備をすませて、横浜の山手にある英国公使館へと向かった。
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冬のやわらかい陽を浴びながら小高い丘を登りきって、英国公使館についたのは夕七つ(※午後四時)過ぎのことだった。西洋風に作られたこの木造の建物も、初めて見たときは荘重な威圧感を受けたものだが今ではすっかり見慣れた感がある。門の脇で背筋を伸ばし立っている衛兵も顔なじみになってきた。
しかし英国公使館に来るのが初めての絹は、丘を登りきったとき息をのんで立ち止まり、公使館をしげしげと眺めていた。
「ここがエゲレスの公使館ですか」
「ああ。ここに日本における英国のすべてが詰まっている。変にかしこまる必要はないが、失礼の無いようにな」
「心得ました。ここには英国の公使様もいらっしゃるんですよね」
「うむ、今は代理公使のニールという男が頭をつとめている」
「にーる様……わかりました、よく名前を覚えておきます」
「たぶん日本で一番かわいそうな英国人だ」
「どういうことですか?」
「すぐにわかる。ヴラドの気まぐれに振り回されるのは私たちだけではない、という話だ」
「はあ……」
絹ははっきりと顔に出しはしないが、不可解そうにする。しかしそれ以上は訊ねてこず、代わりに衛兵の詰め所で訪問の挨拶をしているヴラドに目を向けた。
今度ははっきりと怪訝そうな顔をして絹は尋ねてくる。
「ヴラド様といえば……、あの方は外出されるときいつもあのような格好をされるのですか?」
「ああそうだ」
私は頷いた。ヴラドはいつものように背の高いトップハット(※シルクハットのこと)をかぶり、夜のように黒いスーツに同じ色のコートを着てさらにその上から裏地が朱絹の黒マントを着けていた(最近ようやく私も西洋の衣服の名前がわかるようになってきた)。さらに手はしっかりと白の手袋をはめ、足は固いブーツを履き、上から下まですっかり服によって覆い隠されている。外にでている肌と言えばヴラドの顔くらいのものだ。それもトップハットの広いひさしによって陰に隠れてしまっている。
私はもう見慣れてしまったので何とも思わないが、絹が疑問に思うとおり、ヴラドの格好は少々厚着過ぎる気がする。寒がりといえばそれまでかもしれないが、今日は陽差しがあって最近にしてはわりにに暖かい日だったし、それにヴラドは昼間外出するときでも同じ格好をしていた。
ヴラドの方を見たまま、絹が話し続ける。
「ずいぶん重ね着しているように見えますが……暑くないのでしょうか」
「本人は暑くないんだろうな。あいつが汗をかいている姿は見たことがない」
「それにしてもまだ昼間なのに、まるでこうもりみたいな格好です」
「蝙蝠か、言い得て妙だな。そういえばヴラドは前に、日差しが苦手なんだと話していたぞ。日に当たるとすぐに気分が悪くなるらしい」
「日差しが……それであのように白いお顔をされているのですね」
「ああ、欧州でも北の国の出らしい。それで日差しを避けたり、夜しか外出しないんだそうだ」
「異国にもいろいろ変わった風習があるのですね」
そんなことを絹と話していると、首尾良く訪問の許可を得たらしいヴラドが笑顔でこちらを手招いた。
「お待たせしました。さ、入りましょうか」
ヴラドはそう私たちに声をかけると、さっとマントを翻し先に立って公使館の中へと歩いていった。
公使館に入ってすぐ、小さな声が聞こえた。しかしそれがなんなのかはっきり確かめる前に、ジョン・ニール代理公使が自ら出迎えにきたのでそちらに意識を持っていかれてしまった。
ニール代理公使は明らかに困ったような笑顔を浮かべている。ヴラドの突然の訪問に戸惑っているようだった。もっとも彼がヴラドを心から歓迎している姿は見たことがない。
『やあミス・ヴラド。いつも言っていると思うが、こういう突然の訪問は止めてくれないかな。心臓に悪い』
『おや、軍人でもあるはずの貴方が情けないですね。もう一度軍隊に戻って鍛え直した方がいいのではないですか? それに今日は、紅茶を飲みにちょっと立ち寄っただけですよ』
『ああ、それなら悪いが、もう午後の茶会の席はいっぱいでね、よければ別に日を改めてほしいんだが……』
『「アレクサンドレッタ」、「陸軍」、「経費」』
『わかった、わかりましたよ。すぐに君たちの分も席を用意させる。……まったくいったいどこであの情報をつかんだのやら』
後半は聞こえるか聞こえないかの声でぶつぶつ言いながら、ニールは奥へと引っ込んでいった。かわいそうに、と同情しながらその後ろ姿を見送る。
英語のわからない絹が不思議そうな顔で私に顔を向けた。
「いったいなにがあったのですか? 男性の異人がやってきたと思ったら、すぐに去ってしまいましたが」
「あれがここで一番偉い代理公使のニールだ。私たちの訪問を断ろうとしていたんだが、どうもヴラドにやっかいな弱みを握られているらしくてな。脅されてしぶしぶ茶会の席の準備に向かった」
「……ヴラド様はいったい何者なのですか?」
さすがに驚きを隠さず絹が言う。肩をすくめて応じた。
「私にもわからん。ろくでもないことをしているのは確かだけどな」
「五月様よりあの人の方が、なんで公使館のくりすますに呼ばれたのか不思議です」
「呼ばなきゃもっとおそろしい目にあわされると思われているんだろう。たぶん」
「二人で私の噂話ですか?」
ヴラドが首だけでこちらを振り返って言った。さすがに耳ざとい。私と絹が同時に口をつぐむと、ヴラドはおかしそうに吹き出した。
「そう怖がらないでください。お茶の準備が整うまで退屈なら、好きに私の噂で盛り上がってかまいませんよ。小声で話す限り、ですが」
お茶の準備が整うまで、というヴラドの言葉で、私は公使館に入ったときに覚えた違和感を再び思い出した。
「そうだヴラド、少しこの場を離れてもいいか? 確かめたいことがある」
「かまいませんが、いったいなにを確かめると言うんです」
「公使館に入ったときから聞こえていたんだが、どこからか子供の泣き声がするんだ。それが気になってな」
「泣き声、ですか? 私にはぜんぜん聞こえませんが」
ヴラドが不思議そうに首をかしげる。
私が絹に視線を移すと、同じように首を振った。
「私にも聞こえません……が、五月様は耳が鋭いですから、私たちには聞こえないだけかもしれません」
「ほう。しかし公使館の中は広いですからね。どこから聞こえるかわかりますか?」
私は耳を澄ませた。話し声の無い中だと泣き声はよく聞こえ、だいたい方角の見当もついた。
「上の方だな。たぶん三階の東側、奥まった壁際の部屋だ」
「そこまでわかるんですか?」
ヴラドが疑わしそうな目つきをすると、なぜか絹が自慢げに言った。
「わかります。五月様の五感は人よりずっと優れていますから」
「なんで絹が答えるんだ」
まあ自分も間違いないだろうと思っているが。
「私の勘違いならそれでいいさ。それにあの泣き声はどうもクレアのような気がしてな。それで気になっているんだ」
「ほう」
ヴラドはますます疑うような目をしたが、同時に強く興味を引かれたようだった。口角の片側をつり上げるような笑みを浮かべる。
「おもしろいですね。その泣き声について確かめに行きましょう」
「おいおい、ここでニールを待たなくていいのか」
「私たちの姿がなければ、勝手に向こうが探すでしょう。放っておきましょう」
ただ待っているのも退屈ですしね、と言うとヴラドは先だって歩き始めた。相変わらずの傍若無人ぶりにますますニールへ同情しつつ、私もヴラドとともに歩き出す。
と、後ろから着物の裾を引かれて立ち止まった。ふりかえれば絹がいつも以上の無表情で私を見ている。
「どうかしたか? 絹」
「五月様、そのクレアという人は、どんな方ですか?」
「む? ああ、ここで働いているかわいらしい女の子だ。そうだな、年は絹より二、三歳下じゃないか?」
「…………ほう」
「私がヴラドの護衛でここに通ううちに仲良くなってな。英語の勉強を助けてくれたり、お茶を持ってきてくれたりするんだ」
「……………………ほほう」
「優しい性格のいい子でな、たまに一緒に食事をしたりもする………どうした、絹、なんだか顔がこわいぞ」
「いえ、ふだんと変わりありません」
「それは確かにそうなんだが、なんかこう、雰囲気が……」
「お気になさらず。それより早く問題の部屋へ急ぎましょう」
そういうと絹はなぜかすごい早さで歩き出してしまった。言い出しっぺの私がなぜか一番遅れる格好になったので、焦って二人を追いかける。
「ま、待ってくれ。ヴラドはいいが絹、おまえ何でそんなに急いでいるんだ!?」
公使館の三階、東向きの角部屋から問題の泣き声は聞こえていた。部屋の前まで来るともうはっきりと、中からの声がクレアのものだとわかる。しかし扉の前まで来て、少しためらった。
どうしよう、入ってもいいものだろうか。彼女の泣いている理由がもし繊細なものだったとしたら、他人がくちばしを突っ込んではいけないかもしれない。そう思うとノックをするための手が宙に止まってしまった。
だが逡巡している間に、ヴラドが隣から出てきて優雅にノックをした。
彼女が礼儀正しかったのはここまでで、中から『あ、ちょっと、今は入らないで!』という声が聞こえてきたにもかかわらず、勝手に扉を押し開ける。
『失礼します。中から声が聞こえたもので、気になって入らせてもらいました』
と弁解になっていない弁解を言いながらヴラドが部屋の中に踏み込む。私は先ほど部屋から聞こえた声にクレアとは別の聞き覚えを感じていた。
『ちょっと無礼じゃない、今は入らないでって言ったでしょう! ……ってまたあなたなの!』
思った通り、声の主はスカーレットだった。そして怒った彼女の胸あたりに抱きとめられているのは……目を真っ赤に腫らしてすすり泣くクレアだ。