翌日、霜月三日(※ 西暦1862年12月23日)。朝起きると、屋敷全体が輝いて見えた。
はじめは昨晩降りた霜が光っているのかとも思ったが、そうではなくすみずみまで掃き清められ磨き上げられているのだった。考えるまでもなく絹がやったことだった。ひんやりした空気の中にはすでに朝餉の匂いが混じっている。
ヴラドはともかく私は夜明け間近に起きているのに、すでに掃除が済んでいるとはまだ暗い内から掃除しているに違いなかった。夜闇の中でどうやってここまで綺麗に掃除できるのか想像もつかないが、まあ、絹のすることだから、早々に気にしないことにした。
着替えと洗面をすませてから、食事の支度を手伝おうかと思って台所に顔を出したが、早々に追い出されてしまった。ここで無理に手伝うと機嫌がとても悪くなるので、仕方なく庭で素振りをする。
半時(※一時間)ほどして、朝食の膳を持ってきた絹と二人で部屋で食べた。
朝食は昨日の鴨鍋の残りを利用した鴨飯だった。一口大に切った鴨の肉を米に混ぜて醤油で炊き、刻んだ青ネギをふりかけて食べる。簡素だがとても美味しい料理だ。
湯気の立つ鴨飯をかきこんでいると、絹がたずねてくる。
「いちおう、ヴラド様の分も用意しましたが、お待ちしますか」
いちおう、のところに若干のとげを感じる。
「いや、先に食べてしまおう。どうせあいつは昼過ぎまで起きないだろうから」
「ずいぶんと寝過ごされているのですね。異人の風習ですか」
「いや、そうではない。昼間も寝て過ごしているのはヴラドだけだ。なんでも日の光に弱いのだとか言っていたな。ずっと昼と夜があべこべの生活をしていたらしい。だから起こしにいかなくていいぞ」
「わかりました」
「それに、今日は寝てくれている方が都合がいい。この後二人で出かけるのだからな」
「何か用事ですか?」
絹は本気でわからないらしく首をかしげた。
「神奈川奉行所(※神奈川、特に横浜の民政、治安を預かる役所。現代の神奈川県庁)だ。お前まだ挨拶をすませていないだろう。面倒でも、戸部の奉行所にきちんと出向いて顔をつないでおかないと後で何かと面倒なことになるぞ」
「失念していました」
「とにかく、食べ終わったらすぐに出かけよう」
言い終えて、赤だしの味噌汁をすする。
絹の作る食事はやはりうまかった。
絹とともに神奈川奉行所へ出向き上役の三島に面会の旨申し込むと、なぜか
案内してくれた若党に理由を尋ねると、今日は神奈川奉行様みずからお会いくださるという。それを聞いて私はますます首をひねった。絹も不思議に思ったようで、小声で訪ねてくる。
「着任の挨拶を神奈川奉行様が受けるというのは良くあることなのですか」
「いや、聞いたことがない。どう考えても与力の三島様で十分なはずなのだが」
「では、何かあったのでしょうか」
「かもしれん。もしかすると何かお叱りを受けるとかな」
奉行直々の引見となるとあまりいい予感はしない。ともかくも部屋の中に着座して奉行様を待つことにした。
悪い予感は当たった。しばらくして神奈川奉行様とともに御用部屋にやってきた三島は、顔を真っ赤にして怒っていた。
「この愚か者ーっ!」
挨拶もそこそこにいきなり三島から怒鳴りつけられたので、私も絹も目を丸くした。
なんで怒られているのかよくわからないのでとりあえず尋ね返す。
「恐れながら、愚か者とはいかなることでしょう」
「東海道を大八車が猪のように猛進してきたと番所から報告があったわ! 横浜で何事か事件が
絹の車、やはり大騒ぎになっていたのか。
まあ、なるだろうなあ、道を突然大八車が飛脚より速く走っていけば……。
私が手をつけるより早く、絹が礼儀正しく謝った。
「それは私の手抜かりでございました。まことに恐れ入り奉ってございます」
「う……む……」
いきなり謝られて毒気を抜かれたのか、三島も言葉を失う。
ころあいを見計らったように上座から穏やかな声があがった。
「まあ、当人がこうして反省していることでもあるし、三島もその辺に」
声の主は上品な女武士だ。
すでに三十半ばのはずだが、身に纏う生来の育ちの良さからまだ二十代にも見える。
この方こそ神奈川奉行、