「五月様」

「どわああああああっっ!!!!」

 

 突然風呂の外から声をかけられ、思わず大声を上げた。慌てふためき振り返ると、格子戸の外に見知った顔がある。

「だ、誰だと思ったら絹か」

「ご無沙汰しています、五月様」

 私が江戸にいたときの従者、お絹が風呂場の外に立っていた。

 私と視線が合うと、絹はぺこりと頭を下げる。短く切りそろえられた前髪が、動きに合わせてかすかに揺れる。旅姿のままなのだろう、動きやすさを重視した鼠色の筒袖に伊賀袴を身につけている。傍目には彼女のほうがずっと忍らしく見えた。

 動揺したまま格子の外に声をかける。

「す、すまんこんな格好で、というか風呂に入っているときに急に声をかけるな」

「すみません。玄関で案内を乞いましたが、返事がなかったもので」

「この屋敷には私とブラドしかいないんだから当たり前だろう」

「この大きさの屋敷にその人数は不用心ですね、大丈夫なのですか?」

「だからお前を呼んだんだーっ!」

 無表情のまま首を傾げる絹に思わず大声を出した。本当は外に出て言いたかったが、裸の今はさすがに出るわけにはいかない

 

「と、とにかく今あがるからお前は私の部屋で待っていてくれっ」

「どこが五月様のお部屋かわからないのですが」

「北側奥にある番士室が私の部屋だ。入り口に札を下げてあるからすぐにわかる」

 屋敷には異人もしょっちゅう来るため、日本語と英語の両方で部屋の名を書いた札を屋敷中に下げたのだった。

「わかりました、部屋でお待ちしています」

 そう言って絹はもう一度ペコリと頭を下げ、屋敷の中へと立ち去った。

 屋敷の庭は用心のためにわざと落ち葉を片付けないで積もるままにしていたのだが、去り際にも枯れ葉を踏む音一つ立てないのは流石だった。

 思わず溜息をつく。背中でヴラドがクスクスと笑った。

「かわいらしい子ですね」

「お前は本当そういうことにしか興味が無いのだな。……手を出すなよ」

「そうですね、今はやめておきましょう。あの子、あなたのことしか見ていませんでしたから。フフ、初対面の女の子に注目されないのは久しぶりです」

「恐ろしい自信だな……」

「事実ですから」

 てらいなくそう言ってのけるヴラドに呆れつつ、私は湯船から上がることにした。

 

 

       ****

 

 

 手早く体を拭いて浴衣に着替えてから、絹を待たせている部屋に向かう。

 障子を開けると、絹は部屋の隅で折り目正しく正座して待っていた。彼女はいつでも行儀が良い。私も絹に向き合い腰を下ろした。

「待たせたな。さっそく江戸の話を……」

「五月様、その前に」

「む?」

 絹は一瞬で私の背後に回り込むと、どこからか手拭いを取り出し、

「髪はきちんと拭かれてください。せっかくの綺麗な御髪が台無しです」

 と言って私の頭を拭き始めた。

「や、大丈夫だ自分で拭ける!」

「拭けてないではありませんか」

「それよりも江戸の話を……」

「拭き終わるまでは駄目です」

「むむむ……」

 有無を言わさぬ絹の迫力にすっかり飲まれてしまう。

 仕方なくそのまま髪を拭いてもらった。

 絹は丁寧に髪の水気を取った後、椿油を少し手にとって髪になじませ、柘植つげの櫛で梳いてくれた。最後に髪留め帯で一本にまとめてくれる。

「五月様、髪留めを変えられましたか?」

「む? その髪留めは横浜に来てからしばらくして使い始めたんだ」

「珍しい色の髪留めですね。よくお似合いです」

 絹の声には素直に称える響きがあった。褒められて、私も嬉しくなる。

「五月様は横浜に来て少し変わられたようですね。こうして自分から身綺麗にしてくださること、絹は嬉しく思います」

「ありがとう。その髪留め帯は私が買ったものではなくてな。リボンと言って、横浜に来てすぐの頃、ブラドからもらったんだ。絹が褒めていたとあとで伝えておこう」

「………………………………」

 その時唐突に絹の手が止まった。

「絹? どうした?」

 不思議に思って訊ねると、急に髪を強く引かれる。

「…………それは、よう、ございました、ねえ!」

「いたたた! ひっぱるな! 急にどうしたんだ絹!?」

 

 

 髪をまとめてもらい終え、ようやく私たちは部屋で向かい合った。

「では改めて、久しぶりだな、絹。急に呼び立ててすまなかった」

「ご無沙汰してました、五月様。江戸表よりただ今到着いたしました」

「うむ、くノ一組の方は変わりないか?」

「みな息災です。いまのところ大奥の警護を無事に勤めています」

「それは良かった」

 この二月でいろいろあったせいか、御城のことがずいぶん懐かしく聞こえる。大奥の警備しかすることがなかったころと較べて、横浜では毎日が変化に富んでいた。

「ところで、その荷物は一体何だ?」

 私はふと絹の横にある長持に目線を移して訊いた。いや、部屋に入ったときから気になっていたが、挨拶にとりまぎれてつい尋ねそびれてしまったのだ。といっても絹のことだから、おそらく各種の忍び道具だろうと見当をつける。絹はくノ一組でも特に忍術に長けていて、薬や毒の調合などもうまいのだ。もともと伊賀の出身で、江戸に来る前は隠れ里で修業をしていたというからその実力は折り紙付きである。

 そんなことを考えながら絹に尋ねたのだが、彼女の答えは予想の斜め上をいった。

「はい、五月様にもいろいろ入り用の物があると思いまして、江戸から持ってきました」

「それ全部私の荷物なのか!?」

「主立った物は大八車で運んできましたが、これは積みきれなかったもので」

「待て、大八車まで引っ張ってきたのか!?」

 泡を食って障子を開けて外に飛び出すと、確かに中庭につぶれそうなほど大量の荷物を積んだ大八車がでん、と停められている。

 しばらく開いた口がふさがらなかった。

 絹は時々本当に突拍子もないことをする。そのほとんどが私のためにやっているらしいのが、また始末に悪い。

 ようやく目の前の光景が飲み込めてきた私は、ゆっくりと絹に振り返り尋ねた。

「…………い、一体なにを運んだらこんな量になるんだ」

 そこで絹の目が、ほんの少し、鋭くなった気がした。

「まず、五月様のお着物です。恐れながら五月さん、その浴衣、替えはありますか?」

「私が持っているのはこの一枚だけだが」

「羽織袴は」

「二着あるのを着回している」

「帯は」

「三本」

「……よもやと思いますが襦袢は」

「四枚あるぞ」

「…………」

 絹が無言でこちらを見つめてくる。その表情は、何というか、余人なら深いため息をついてそうな顔だった。

「ぜ、全部ちゃんと洗っているんだからいいだろう!」

「ではお尋ねしますが、そのお着物のどれも、糸のほつれも袖の破れも、縫い目がほどけたりもしてないのですか」

「………………」

 今度は私が黙り込む番だった。目は明後日の方向を泳ぐ。

「五月様、一人では繕い物もできないのに、どうして数着しか着物を持っていないのですか」

「いや、私はそういう洒落っ気が嫌いでな……」

「というわけでしようこう丸ごと、二つお持ちしました」

「どうしてお前はそう極端なんだ! 確かに着物が少ない私も悪いがどう考えても挟箱一つで十分だろう!」

「必要だと思いましたから」

 絹はしれっと済ましている。この言い訳で本当に押し通すつもりらしい

 いつまでも外にいられないので、部屋の中へと戻った。障子をしっかりと閉めて、せめて外の光景だけでも目に入らないようにする。

「まあいい。それで他の荷物は? 衣装行李だけであんなにはならないだろう」

「まず日用品です。台所の諸道具、夜具の換え、草履と鞋、薬種、墨と筆、一応手文庫も。それから食料品もお持ちしました」

「持ってき過ぎだ、長屋ごと引っ越すんじゃないんだぞ」

「こちらで長く暮らすのですから、困るということはないはずです」

「それはまあそうだが……」

「それから香箱もお持ちしました。紅と白粉おしろいと『江戸の水』(※当時の化粧水)も買ってきました」

 絹がそういって小箱を差し出すので、私はさすがに文句を言った。

「ななな、なんで買ってきたんだ。いらんと文にも書いただろう」

「いります。お持ちでないなんてあり得ません」

 絹が、ずい、と迫ってき、いつになく真剣な顔で言う。その迫力に気圧されて、頷かざるを得なかった。

「わ、わかった使う。使うよ………いつかな」

 ぼそっと最後に付け加えた言葉はどうやら聞かれなかったようで、

「それと、こちらは五月様から文にて頼まれていたものですが……」

 言いながら、絹は長持ちの蓋を開けた。中から書物を二冊取り出す。

「『華英通語かえいつうご』の、上下巻です」

「む、助かる。これが欲しかったんだ」

 絹から真新しい表紙のそれを受け取る。『華英通語』は二年前に出たばかりの、日本で初めての英和辞書だ。

 早速パラパラと中身をめくってみる。英語と日本語訳はもちろんのこと、発音をカタカナで書いてくれているのがありがたい。かゆいところに手が届く便利なつくりの辞書だった。

「ありがとう絹。手に入れるのは大変だっただろう」

「はい、まだ数も少なく……しかし外国奉行の村垣様が、五月様のためならと融通してくださいました」

「村垣のじい様が? そうか、いつもお世話になるばかりだな」

 私は村垣様の柔和な顔を思い浮かべた。

 村垣様はもと御庭番で、今は外国奉行として働かれている。身分のわけ隔てなく優しい村垣様には、御庭番に入ったばかりの頃から何かにつけ面倒を見てもらっていた。

「それにしても素晴らしい本だ……これを作った人には足を向けて寝れん」

「発行したのは中津藩士の福沢諭吉という人だそうですよ」

「福沢諭吉? 聞かん名だな」

「身分は低い一藩士ですから。しかし二年前にかんりんまるに乗ってメリケンまで行き、昨年はけんおう使せつだんとともにヨーロッパへ行ったそうです」

「ほう、大した人物だな」

「今は江戸の中津藩邸で私塾を開いているそうです。ところで五月様、もう一つ頼まれていたものをお持ちしました」

 続けて絹はながもちから差料さしりようを取り出した。

「こちら新しい刀です。……が、本当にこの刀でよろしかったのですか?」

 そこで絹は初めて僅かに不満そうな顔を覗かせた。理由に察しはついているので、私は苦笑しながら柄袋に包まれた刀を受け取る。

「おお本当に助かる! 待っていたんだ」

 私の刀は度重なる戦いで刃こぼれしたり曲がったり散々な状態になってしまった。研ぎに出してもみたが、横浜の鍛冶屋や研師も腕は悪くないが、やはり刀は専門外なのか満足のいく出来ではなかった。江戸にわざわざ送って研ぎなおしてもらうより、いっそ新しい刀を持ってきてもらおうと思い文で頼んだのだった。

 持ってきてくれた絹は、なおも不満そうな顔をしていた。

「それにしても五月様が刃引きの刀(※刃先を丸めて、斬れないようにした刀)を差すなんて……町同心にでもなられたようです」

「いいんだよこれで。もとより今の私の役目は攘夷浪士を捕まえることだ。斬ることじゃない。まさに町奉行所の同心と一緒さ」

「ですが、それではいざという時に」

「どうしてものときには脇差しもある。私は横浜にいる間はこの刀を差すつもりだ」

 袋を解くと、中から黒鞘に包まれた打刀が姿を見せた。

 鞘から抜いて部屋の行灯にかざしみる。

 刃の厚い武骨な拵えの刀で、私の好みに合っていた。

「む。いい刀だな。急だったのによく用意してくれ……いや、待て、これは。絹、まさかとは思うがこの刀」

 刃を見るうちにあることに気づいて声が上ずる。表情も変えずに絹は一度頷いた。

「お察しのとおり、どうぬきです」

「同田貫を刃引きしたのか!?」

「新刀を刃引きしたわけではありません。五月様から文を頂いて城下の刀屋を回っていたとき、ちょうど刃こぼれを直すために刃引きされた同田貫がでておりましたので譲っていただいたのです」

「な、なるほど……。それにしても同田貫とは」

 道理でいい刀なわけだ。短い日取りでよく見つけてきた。さすがは絹と言うしかない

 改めて刃引きの同田貫を見る。

「少し重いな」

「はい、ですが実戦に耐えられる刀となると、それが一番良いかと。鯉口を切る音がやや大きいのが難点ですが」

「うむ、まあ闇討ちをするわけではないし、問題ないだろう」

わたくしもそう思います」

 刀を鞘にしまう。絹が選んだだけあって、良い状態だ。改めて礼を言う。

「ありがとう。辞書といい刀といい本当に助かった」

「当然のお役目を果たしたまでです」

 絹は表情を変えないままかしこまった。どんな苦労も本心から当然の役目と信じているようだった。

「荷物もありがとう。あの量では江戸からここまで大変だっただろう」

「いえ、わずかに十里の距離ですから」

「それは、おまえの足ならそうだろうが……」

 絹は小柄な体躯に似合わず、くの一組の中で一番足が速い。私がどんなに駆けても半日で四十里走るのがやっとだが、絹は五十里稼ぐ。

 絹がほんの少し表情を動かし、得意げな顔をした。

「途中で飛脚を二人追い越してきました」

「相手は本職だぞ。かわいそうに」

 大八車を引いた相手に追い越されては、今頃自信を喪失しているだろう。運が悪かったというほか無い。

 話している内にいよいよ外は闇が濃くなってきた。絹が部屋の行灯に火を入れる。

 ぼんやりと部屋の中が明るくなったところで、絹が立ち上がった。

「では、私は食事の支度をしてまいります」

 絹の言葉に面食らった。いくらなんでも来た初日からそこまでしてもらっては申し訳ない。

「いくらなんでも働きすぎだ。私が作るからお前は休んでいろ。そもそも今日は私が当番の日なのだ」

 すると絹はほんの少し眉をひそめて首を振る。

「いけません、五月様自らが食事の支度など……全て私に任せてください」

 言うが早いか止める間もなく、身を翻して絹は去ってしまった。

「うーむ」

 部屋に取り残されて、腕を組み一人唸る。

 絹のやつ、江戸にいた頃より甲斐甲斐しくなっている気がする。

 ヴラドと余計な面倒を起こさなければいいが……これから護衛を頼むのだから、ある程度は親しくなってもらわないと困る。

 どうにかできないか、しかしま、なるようにしかならないか。

「さすがに絹もいきなり斬りつけたりはしないだろう」

 絹は私以上に異人を快く思っていないが、私以上に分別も思慮もある。普段はとても落ち着いていて、冷静に物事を考えられる子なのだ。私のことになると多々暴走してしまうだけで……。

 そのうち絹も横浜での生活になれてくれるだろうと思い、夕食ができるまでの間暇つぶしに本を読むことにした。

 行灯の光の下で、絹の持ってきてくれた華英通語を開く。初めに「V」の項を開いて、本文を読み始める。

「ふむふむ、『バイオリンは西洋のきゆうなり……』」

 

 

       ****

 

 

 四半刻(※30分)ほど後、私はヴラドの部屋に行った。彼女の部屋に私の方からおもむくことはほとんどないのだが、ちょっと話したいことがあったのだ。

 部屋の前に来て襖(ふすま)をノックする。英国公使館のような重い木の扉にノックするのはともかく、紙と細い木でできた襖を手で叩くのは音もでないし少々間の抜けた感じがするのだが、これが西洋の文化だから仕方がない。

 そういえば絹にはこの風習をまだ教えていなかった。後できちんと伝えておかねばならないだろう。ノック無しに部屋に入って怒られるくらいならまだいいが、着替え中だとか重要な書類を読んでいるときなどに入ったりすると大問題になる。

 そんなことを考えていると、中から「どうぞ」と返事があった。

「ちょっと邪魔するぞ」

 襖を開けるとヴラドはくつろいだ様子で中央の椅子に腰掛けていた。机の上に広げていた本に栞を挟んで、視線をこちらに向ける。

「サツキの方から来るのは珍しいですね。何かありましたか?」

「いや、別に対した用事ではないのだがな……」

 なんとなくすぐに話すのが気恥ずかしくてためらっていると、ヴラドが席を立って机の脇に行き、置いてあった長火鉢から西洋やかんを取りお茶を淹れ始めた。ややして、熱いほうじ茶が私の前に差し出される。

「クレアさんほど美味しくはないかもしれませんが、どうぞ」

「ありがとう」

 礼を言って受け取る。

 話しにくそうな私の様子を見て気を回したのだろうが、相変わらずヴラドの察しの良さには驚かされるばかりだ。

 心でも読めるんじゃないか。

 ヴラドもまた自分用の紅茶を淹れると、さらにそこに一、二滴洋酒を垂らして(ブランデー、と言うらしい)、再び元の椅子に腰かける。

 会話の接ぎ穂に困って部屋の中を見回していると、ヴラドの読んでいた本が目に入った。

「本を読んでいたのか? 悪い、邪魔をしたな」

「いえ、気晴らしに読んでいただけですので結構ですよ。挿し絵がほとんどで、読むと言うより絵を見ていただけですから。前々から横浜の書店に頼んでいたのですが、ようやく入荷しましてね。手に入ったばかりなんです」

「ほう、日本の本なのか。なにを読んでいたんだ?」

「歌麿の『歌まくら』です」

「ぶおっほっ!」

 飲みかけていたお茶をすべて吹き出した。

「げっほ、ごっほ!」

「おや、どうかしましたかサツキ?」

「どうかしているのはお前だヴラド! なんでそんなもの読んでいるんだ!?」

 歌まくらは有名な笑い本(※春画本)だった。私は手に取ったこともない。

「私がなにを読もうと、私の好みでしょう。それに絵自体の出来栄えも素晴らしいですよ」

「くそ、ヴラドの話をまじめに聞いた私がばかだった」

 手ぬぐいで口を拭い。息を整える。

 と、ヴラドがまじまじとこちらを見つめてきた。

「先ほど聞いたときも、おや、と思いましたが……、ねえサツキ、もう一度私の名前を呼んでくれませんか?」

「うっ」

 さすがヴラド、もう気づいたか。

 しかし何ともあほらしい状況になってしまった。これなら変にもったいぶるのではなかった。

「あ、あー……、なんでわざわざお前のことを呼ばなきゃいけないんだ」

「いいじゃないですか、一回だけですよ。というか、もしやそのことを伝えようと思って私の部屋にやってきたのではないですか?」

「あー、うー」

 ヴラドの察しの良さが今度は恨めしい。

 はずかしい、顔が赤くなってる気がする。

「ヴラド……これでいいか?」

 呼ばれた彼女は輝くような笑みを浮かべた。ヴラドが満面の笑みを浮かべるのは、とても珍しいことだ。

「やはり! ちゃんと発音できているじゃないですか。いったいどうしたんです? 練習したんですか?」

「べ、別に練習と言うほどのことはしていない。ただ、絹が持ってきてくれた本に『V』の発音が載っていたから……。日本語の『う』を濁らせるように発音するとあって、通じるかどうか試そうと思っただけだ」

 ヴァイオリンとは西洋の胡弓なり、そんな一文から『V』の項目は始まっていた。

「よく発音できています。ああ……感動ですね。ついにサツキに名前を呼んでもらえるなんて……」

 ヴラドはなぜか恍惚として身を震わせていた。私に名前を呼ばれたことがそんなに嬉しいのだろうか。自分ではまだまだと思うのだが。

「そ、そうか。通じたなら嬉しい。私ももう少し英語が上達しそうだ」

「それにしても素敵な本を書いた人もいたものですね。なんて言う本なんです?」

「華英通語という英和辞書でな。福沢諭吉という九州の藩士が作ったらしい。興味があるなら後で貸そうか?」

「ほほう、それはぜひ。福沢諭吉ですか、覚えておきましょう。いつかこの国の誰もが知るような有名人にしてあげないといけませんね。日本が紙幣を発行するようになったら、その顔を載せるのもいいですね」

「…………いや、そんなことは絶対あり得ないと思うぞ」

 なにを言っているんだこいつは。

 異人たちが紙でできた金を使うことは知っているし、何度か見たこともあるが、日本はそうそう紙の金など発行しないんじゃないか。まず幕府が許可しないだろう。

「いえ、私はやると言ったらやりますよ」

「わかったわかった。馬鹿な話は置いておいて、とりあえずお前の名前をちゃんと呼べるようになってよかったよ。改めてよろしく、ヴラド」

「ええ、こちらこそ」

 どちらともなく手を差し出しあって強く握手した。初めて出会ったときよりも、絆が強くなったように感じる。

 もちろんヴラドは完全に信頼できる相手ではない。異人だし、怪しい点が多いし、驚かされることばかりだ。

 それでも……私たちを隔てる様々な壁とは別のところで、やはり同じ人間なのだと強く感じることがある。たとえばそれは、自分の名前を正しく読んでもらえて喜ぶときなどだ。

こうしたものをたくさん積み重ねて人と人は親しくなるのだろう。人種が違っても、言葉が違っても、国が違っても、同じ人間ならわかり合えないということはない。

 このことを絹も理解してくれればいいのだが……と考えたとき、ふいにぞわり刺さるような冷たい視線を感じた。

 恐る恐る振り返るといつの間に来ていたのだろう、襖越しに絹が木枯らしよりも冷たい目でこちらを見ていた。

「食事の準備ができましたのでお呼びしに来たのですが……五月様、また異人と親しくしていますね……」

 普段よりさらに抑揚を欠いた声で絹が言う。慌てて握っていた手を放した。

「ああ! ま、待て、違うんだ絹。これはちょっと私たちの間で特別なことがあってだな。決してお前が想像しているような関係ではないぞ」

「やっぱり五月様は異人に心を奪われている……私が何とかしないと……」

 絹は小さな声でぶつぶつ言っている。いかん、絶対何か勘違いしている。

「絹、まてちゃんと話を聞いてくれ」

「いいんです五月様。それより早く夕食にしましょう。『日本の』食事を食べて日本人の心を取り戻してください」

「だから私は別に西洋好きになったわけではないんだ!」

 いくら言っても取り合わず、絹はそそくさと台所に戻ってしまった。おそらく妙な誤解をしたまま。

 というか絹はもしかして、私が横浜にいる間に西洋かぶれになったと思っているのか?

 わざわざ江戸からやたらと品物を持ってきたのもそのためか。わたしが日本を忘れるはずなどないというのに。

 後ろでずっと見ていたらしいヴラドが、クスクス笑って言った。

「なかなか愉快な人ですね。キヌさんは」

「面白がっている場合じゃないぞ、たぶん今のでお前への感情がまた悪化した」

「おや、これですか?」

 ヴラドはそう言って頭の両脇にぴんと上げた人差し指をつけて、鬼の角をはやす真似をした。どこでこういうことを覚えてくるのだろう。

 私も人差し指を一本立てて、額の上につける。

「いや、もともと二本だったから、今三本目が立った感じだな」

「それは恐いですね」

 ヴラドはころころと笑っている。まったく、こいつはどこまで本気なのか。

 これ以上絹を待たすわけにもいかないので、私たちは食堂へと向かった。

 

 

       ****

 

 

 屋敷一階の居間兼食堂は綺麗に片付け整えられていた。隅まで埃一つなく清められ、卓の上にはふゆすみれがしとやかに活けられている。ながばちにかかった鉄瓶からは湯気が立ち上り室全体を温めていた。

 あの短い間にどうやって、とは思わない。絹は一人で普通の女中三人分くらいの働きが常にできるのだ。

 それからほどなく始まった夕飯の席で絹とヴラドが挨拶を交わした。

「改めまして、五月様にお仕えしている足軽のお絹と申します。よろしくお見知りおきの程を」

「これはご丁寧な挨拶ありがとうごさいます。イギリス出身のヴラド・ドラキュリアです。どうぞよろしく」

 絹は無表情、ヴラドはいつもの何を考えているかわからない笑みを浮かべての挨拶だったので、朗らかな空気とは言いがたい。

「キヌさんは、サツキの従者ということでよろしいのですか?」

「はい。これまで四年間ずっと、五月様に仕えてきました。これからは五月様身の回りのお世話は一切、私がやらせていただきます。もちろんこちらの屋敷での家事炊事その他諸事全般引き受けいたしますのでご心配なく。私もこちらに住まわせていただきますから」

 ヴラドが異人だからか、絹の言葉の端々には棘があった。困ったものだ。好き嫌いはどうしようもないとはいえ、もう少し仲良くしてくれるとありがたい。

 私も数か月前まで似た様なものだったからあまり強くも言えないが。

 一方ヴラドは絹のそうした態度を少しも気にする風もなく、笑っている。

「そうですか。屋敷の人手をそろそろ増やしたいと思っていたところですから、助かります。今日はさっそく夕食の用意もしてくださったようで」

「江戸では私が常に五月様の食事をお作りしていましたから、当然のことです」

「なるほど、そういえばサツキが料理はあなたに作ってもらっていたと話していましたね」

「はい、西洋の料理もきちんと作りますのでご安心を」

「それは楽しみです。ですが私は日本食も食べられますよ。この二月ほどの間にだいぶ慣れましたから」

 うむうむ。さすがヴラドだ。

 友好的とは言えない絹の態度にも怒ることなく話を進めている。ヴラドのことだから何か言い返してもっと二人の仲がこじれるかもと心配したが、杞憂に終わりそうだ。

 私がそう思いかけた矢先、ヴラドが小首をかしげて絹に言った。

「それにしても……キヌさん、あなたはたしか16歳でしたよね」

「はい、それがなにか」

「いえ、それにしてはサツキに比べてずいぶんと」

「ずいぶんと?」

 ヴラドがにっこり笑って言う。

「小さくかわらしい身体をしていると思いまして」

「…………………………………………………………余計なお世話です」

 長い沈黙の後、絹が小声でぼそりといった。絹はめったに驚いたり声をあげたりしないが、そのかわり虚を突かれると黙り込む癖がある。顔もほのかに赤くなっているので驚いた。彼女にしては劇的な表情の変化と言っていい。

 おおよそなんでも器用にこなす絹だが、背丈だけはどうしようもない弱点だった。今の背丈は目尺で……四尺五寸(※約136センチ)というところか。

「たしかに、飯は食ってるのにいっこうに背は伸びんな」

「五月様も余計なことをおっしゃらないでください。それに、江戸を発つ前に測りましたら、去年より一分(※約0.4センチ)伸びていました」

「一分って」

「私には大きな変化なのです」

 絹が必死に食い下がる。ヴラドはますます笑みを深くして言う。

「本当に可愛らしい。並んでいると姉妹みたいですね」

「うぐ………………」

 煽る煽る。

 絹が口を引き結んで悔しがっている姿というのを初めて見た。

 というかヴラドも、基本美少女に甘いとはいえやはりちょっとは気に障っていたのか。絹にチクリと言い返したといえばそれまでだが、それにしてもあまりに直接的な返し方だ。

 ようやく気を取り直したらしい絹がヴラドに言う。

「わ、私の背のことは別にいいでしょう。五月様にお仕えするのに支障はありません」

「いえ、私が言っているのは背のことだけでなく、他にも色々と」

「もういいと言っております」

 絹が小声に力を籠める。さすがヴラド、相手が一番触れられたくないところをついてくる。

 私の方を振り返った絹が目を怒らせて言う。

「…………五月様、ヴラド殿が無礼なことを言っております」

「そもそもお前が口喧嘩を吹っ掛けたのが悪いと思うぞ」

 絹には申し訳ないがあんまり同情できなかった。

「五月様までヴラド殿のお味方をされるのですか」

「いや、別にそういうわけではないんだが」

「やはりヴラド殿の色香に惑って」

「だから違うと言っているだろう」

 どうも絹はなにか、大きな勘違いをしている気がする。

「…………………………まあ、もうよいです。食事が冷めますからもうお運びします」

 絹は暫時台所に消えたかと思うと、土鍋を両手に持って戻ってきた。

「冬はやはり鍋かと思いまして、鴨鍋にしました」

 鍋の中には色艶の良い鴨肉と、刻んだねぎせりが入っている。鴨の脂と葱と、醤油の交じり合った良い香りが湯気とともに立ち上った。

「いい香り……とても美味しそうですね」

 ヴラドが食べる前からもうそんな感想を漏らす。

「うむうむ、さすが絹。美味しそうだ」

「どうぞ召し上がってください」

「では……」

 私も箸をとり、早速食べ始めた。

 私とヴラドは一口食べるなり、

「うまいっ!」

「美味しいですね!」

 と感嘆の声を上げた。

 数カ月ぶりに食べる絹の料理はやはり格別だった。急ごしらえの横浜の料理屋より数段うまい。鴨肉は噛めば噛むほど後から味が増してくる。本当に美味しい。

「それはようございました」

 絹がほんの少しまなじりを下げる。余人にはわからないだろうがこれは絹の笑顔だ。横浜に来てから初めての笑顔だった。絹は滅多に笑うことが無く、くノ一組では絹の笑顔を見れるとそのその日一日良いことがあるとまで言われている。

 絹はその後も次々と料理を出してきた。南瓜の煮物(冬至だからだろう)、ほうれん草の白酢和え、大根の味噌汁、もちろん白いご飯も。どれもよくある料理なのに、一工夫も二工夫もされていて素材の味を引き立てている。おそらく素材そのものもいいのを選んでいるのだろう。絹の細やかな気遣いが実感できる食事だった。

 料理の味に感動しているのはヴラドも同じようだった。

「とても美味しい……。何が違うんでしょう。私が作ってもここまでは。調味料が変わったのでしょうか」

「はい。塩も味噌も江戸から持ってきましたから。醤油は亀甲萬きつこうまんのものを野田から樽で取り寄せました。」

「樽ってお前……」

 だからあんなに巨大な荷物になったのか。

「驚きました。日本食ってこんなに美味しいものだったのですね。サツキの料理とは大違い」

「おいヴラド、いま何か聞き捨てならないことを言わなかったか?」

「だってお米に芯がありませんよ。日本ではお米は固く炊くものなのかと思っていました。私が炊くときちんと炊けるのに、不思議に思っていたのです」

「む、ぐう……」

 それを言われるとぐうの音しか出なかった。

 代わりに絹が口を挟んでくる。

「料理は全て私がやりますから五月様は良いのです。そもそも五月様自ら包丁を握るというのがおかしいのですから」

「あんまり慰めになっていないのだが」

「五月様はご自身の身分を考えなさすぎです」

「身分身分と言うのは好かんし、そもそも私だって一介の浪士の娘にすぎないからな」

「そういいましても、今は百五十俵取りの頭取身分なのですから、それにふさわしい振る舞いをされてください。その方が私もお仕えしやすいのです」

「むぅ、私の方がかえって気疲れしてしまうぞ。ここは江戸ではないのだし、別にいいじゃないか。もっと気楽にやろう」

「……まあ、五月様がそこまで言うのでしたら」

 絹はそう言って引き下がってくれた。彼女の心配もわかるだけに少し申し訳ない気持ちになる。実際私がまだ御城に出仕していたら、絹の言う通り身分に合った生活をしなければならないのだ。

 もともと身分制度は嫌いだったが、横浜に来てからその気持ちが一層強まった気がする。身分や出自に関係なく活躍している人たちをたくさん見てきたからかもしれない。

 間違いなくその筆頭……ヴラドは南瓜を箸でつまんでおもしろそうに見ていた。

「日本も冬にパンプキンを食べるんですね」

「というか、夏の野菜で冬まで保つのが南瓜くらいしかないんだ。冬至の時は柚子湯と一緒でこれを食べるのが習わしになっている」

「英国にもパンプキンを使うお祭りがありますよ。ハロウィーンというのですが、西暦でOctoberの終わり……日本の暦で九月の初めごろに行われるのです。その時は日本のとは違って、もっと赤くて大きいパンプキンが使われますが」

「ほう、まるでお化けみたいな南瓜だな」

「当たっていますよ。そのお祭りでは特に子供がお化けの仮装をして町を練り歩くのです。大人たちはお菓子を用意して待っていて、家にやってきた子供たちにお菓子を配るのですよ。お菓子をもらうときの掛け声は“Trick or Treat”で、お菓子を与えない家には悪戯をします」

「やな子供たちだな」

「そういう昔からの習慣ですから」

 ヴラドの話を聞いて、私はあることを思い出した。

「やってきた子供たちに菓子を配る……なんだか初午祭りに似ているな」

「ハツウマ、祭りですか?」

「ああ、新年最初の午の日にやる稲荷神社の祭りでな。神社にやってきた子供たちに菓子や餅、甘酒を配るんだ。横浜では見ないだろうが江戸では武家屋敷の中にある稲荷神社も多くてな、普段厳しい武家屋敷でもこの日ばかりは、門を開いて子供たちが屋敷内に入ることを許可する。屋敷によっては特別に菓子を用意して子供たちに振る舞うこともあるんだ」

「聞けば確かに似ていますね、時期はだいぶずれますが。案外何か関係があるかもしれません。そういえばパンプキンとナンキンも、なんだか発音が似ています」

「うむ、南瓜は渡来ものだから、案外外国語が元になっているのかもしれん」

「そうかもしれませんね」

 

 

「…………………五月様」

 

 

 ヴラドと話していたら、ひやっとする声を浴びせられた。

 絹が表情を変えず、しかし明らかに怒りの炎を燃やしている

「ヴラド殿とお話が弾んで楽しそうですね」

「き、絹、なにをそんなに怒っているんだ」

「怒ってなどいません」

 絶対怒ってる。とは口が裂けても言い出せそうになかった。

「あー……、悪かった、そういえばお前とほとんど話していなかったな」

「ですから、別にやっかんでなどいません。本当です」

 絹はなおもそう言い張ってから、ヴラドの方に視線を向けた。

「それにしてもヴラド殿はたくさん召し上がりますね」

「ええ、絹さんの料理は美味しいからまだまだ食べられますよ」

 その時絹から何か不穏な気配がした。

「それは嬉しいお言葉です。まだ料理はたくさん作りましたから、ぜひおかわりしてください」

「ほう? では遠慮なく」

 絹はいそいそと台所に戻って行った。やがて追加の食材とご飯をおひつで持ってくる。

「さあどうぞどうぞ、召し上がってください」

「ありがとうキヌさん」

 絹がヴラドの膳にモリモリご飯をよそい、ヴラドはそれを美味しそうにパクパク食べていた。

 妙だ。絹がいやに愛想が良い。

 次々料理を平らげていくヴラドを絹はにこにこして見ながら小声でつぶやいた。

「ふふふふふ、かかりました。こうして美味しい料理を作ってブラド様に食べさせ続ければ、いずれ豚のように肥え太り五月様も幻滅されるはず」

 そんなこと企んでいたのか。

 一応絹に教えてやる。

「あのなあ……すぐにわかることだから教えてやるが、ヴラドはいくら食べても太らんぞ。そういう体質らしい」

「な!」

 絹が衝撃を受けたように固まる。

「そ、それでは私が今日腕をふるった事は全て無駄と……?」

「無駄ではないだろう。ヴラドはお前を気に入ってくれたらしい」

「それでは意味が無いのです……」

 絹が深々とため息をつく。

「はあ、もういいです……。ヴラド殿。鍋用の鴨肉が少し余っているのですが、網焼きにしたら召し上がられますか?」

「いただきます!」

「ではご用意します」

 と、答えた絹が再び台所へと戻ってゆく。その後姿を眺めながら、ヴラドが言った。

「私のことを嫌っているのに給仕はきちんとしたり、美味しい料理を食べさせてくれたり、不思議な子ですねえ」

「そういう奴なんだ」

「いい子ですね」

「だろう」

 私も深く頷く。

「そういえば、今さらだが西洋人も鴨を食べるのだな」

「フランス料理にもよく使われますし、取り立てて違和感はありませんよ。味付けは西洋料理の方が、ワインなどをソースに使うのでより濃厚ですが。……そういえば今日はまだワインを飲んでいませんでしたね」

「これから飲むのか?」

「当然です」

 ヴラドは部屋の隅にしつらえられている飾り戸棚の中から葡萄酒を取り出す。

「サツキも飲みますか?」

「遠慮する。どうせ飲むなら酒の方がいい」

「それは残念」

 ヴラドがグラスを一つだけ持ってきて、葡萄酒の瓶の栓を抜きギヤマンの杯に注いだ時だった。

「お待たせしまし…………………………ひっ」

 物の割れる音がして私は振り返った。食堂の入り口にやってきた絹が皿を取り落としている。地面に散らばる皿にも気づかないのか、青くなって立ちすくんでいる。

「どうした、絹?」

 様子がおかしいので声をかけると、絹は青ざめた顔をこちらに向けた。唇を震わせたまま、ヴラドを指さし、

「ちを…………、血を飲んでます、鬼です」

 と、今にも消え入りそうな声で言った。彼女が何を勘違いしているのかようやく合点がいく。

「落ち着け絹、あれはワインといってだな……」

 

 止める間もなかった。

 

 絹はどこから取り出したのか掌中に棒手裏剣をひらめかすと、私の声も聞かずに一呼吸で打ち出した。

「いかん!」

 即座に刀を抜き、手裏剣を横合いから弾き飛ばす。ヴラドの上体にまっすぐ向かっていた銀の光条は金属がぶつかる甲高い音を響かせて部屋の隅へと転がった。

 ヴラドはぽかんとして動きを止めたままだった。

 私は一足飛びに絹のもとへ行って、その小さな体を抑え込んだ。

「落ち着け、絹。あれはワインといって葡萄から作った異人飲み物だ、血ではない」

 初めこそ身を放そうともがいていたものの、絹はすぐにおとなしくなった。

「あ…………」

 胸の中でこちらを見上げる瞳は、いくらか正気を取り戻している。落ち着いたのを見ては私は彼女の頭を軽く小突く。

「絹、落ち着け。異人は鬼だの血をすするだのは幕府が流した風聞にすぎん。同じ人間だよ。大体私たちはヴラドの護衛に来ているんだぞ、お前が攘夷を実行してどうする」

「すみません、五月様……ですが、あれはどう見ても……」

「ええいまだわからないのか、見ておけ」

 私は絹の体を放してヴラドの方へ歩み寄ると、その手から杯をひったくった。絹とヴラドが目を丸くしているのは気にせず、一息に杯の中身を飲み干す。喉奥に熱い液体が流れ込み、胃の腑に降りていくのを感じた。

 少しこぼれた口元を手でぬぐい、絹に言う。

「ほらな、普通に飲める、西洋の酒だ。血ではない」

「……………………」

 絹はしばらく黙ったまま、私と手元の杯を見つめた後、ぺこりと頭を下げた

「よく納得できました。ヴラド殿、申し訳ありませんでした」

「ああ、いえ、気にしていませんよ」

「すぐに床を片付けます。しばらくお待ちを」

 そういうと絹は割れた皿の片づけを始めた。ヴラドに杯を返しつつ、私も詫びる。

「すまんヴラド、驚いただろう。怪我はなかったか?」

「はい、大丈夫です。……というか二人の動きが早すぎてほとんど見えなかったのですが、とくにサツキ、あなたさっき空中のナイフを弾いてませんでしたか?」

「あれくらい大したことではない。それより怪我がなくてよかった」

「私も、サツキが側にいて本当に良かったと思いましたよ」

 ヴラドはそういって小さく微笑んでから、何かを考え込むような目つきになった。

「ところで、先ほど気になることを話していましたが」

「む?」

「西洋人は鬼だとか血をすするとか、いったい何の話です? 私たちはそんな風に思われていたのですか?」

「ああ、根拠のない風説だ。気にするな、といっても無理だろうが、あまり気に病まないでいい。昔から日本人の間ではびこっている埒もない噂だ」

「詳しく聞いてもいいですか?」

「構わないが、あまり楽しい話にならないぞ……。つまり異人は、きんじゆうに等しいとか、かかとがないとか、鬼のように怖いとか、人の生き血を啜るとか、とにかく脈絡もない噂がずっと日本にはあったんだ。……私も子供のころは信じていたから、人のことは言えんが。

 西洋人はわたしたち日本人とは姿も言葉も違うだろう初めて異人を見る者にはその高い鼻も青い目も、金の髪も全く別の生き物に見えるのさ。まあお前は銀髪に赤い目をしているが」

「それは、うわさなんですね。事実だとはだれも思っていないんですね」

「初めこそみんな信じていたが、見慣れればすぐに嘘だとわかることだ。私だってこの通りお前と一緒に暮らしているし、横浜に住む人間ならみんなもう笑い飛ばすような話だろう。――どうした? なんだかいやに念を押すな。いい心持がしないのはわかるが」

「いえ」

 ヴラドはそのまま黙りこくってしまう。彼女が何事か暗い表情で考え事をしているのは珍しい。

 首をかしげていると、ヴラドは急にえんぜんと微笑んで私に訊いた。

「サツキ、もし私がその鬼や悪魔だったらどうします? 人の生き血を啜る化け物が本当の正体だったらどうします?」

「む、なんだ急に」

「奉行所に訴え出ますか? 英国公使館に報告しますか……それとも、私を斬りますか?」

 声はいっそ恬淡とした響きだったが、一方でヴラドの眼にはどこかこちらの反応を伺うような輝きがあった。普段と同じに人をからかっているようで、どこか違和感がある。

「…………」

 ヴラドの問いに何と答えたものか躊躇していると、ヴラドは急に表情を返した。陰気を散らすように快活な笑顔になる。

「なんて、冗談ですよ。サツキは本当にからかうとおもしろいですね」

「む、冗談にしては趣味が悪いぞ」

「私の体も日本人と変わりませんよ。ちゃんと踵もあります。見ますか?」

「わざわざ見せないでいい、知っている。おい、なんで急に長足袋ながたびを脱ごうとしているんだ! やめろ!」

 

「それにしても」

「なんだ」

 ヴラドが急に黒の長足袋(ソックスとか言うらしい)を脱ごうとしたので慌てて止めようと押し合いへし合いをしていたら、また間の悪い時に戻ってきた絹に見られ妙な勘違いをされた。勘違いを解くのにまたひと騒動あって、ようやくすべて落ち着いたときヴラドが言った。

「私も油断していました。日本人がワインを見慣れていないことをすっかり忘れていましたよ。これからは気を付けましょう」

「悪いな、日本人のほとんどはまだ異人の文化に慣れていないんだ。肉を食うのも葡萄酒を飲むのも奇妙に映る」

 私も強く頷いた。絹は今、食事の後の洗い物をしている。

「サツキはあまりこういうことに驚きませんでしたから、日本人にも西洋の習慣が知れ渡っているのかと思っていました」

「私は特別なんだ。私の師匠であり上役だった方が、異国の文化に明るい人だったのでな」

「ほう」

「もともと私の奉公している御庭番は開明的な方が多い組織なんだが、先代頭取の空木綾様がとりわけ外国事情に詳しくてな。様々なことを私に教えてくれた。外国奉行の村垣様や支配組頭の柴田様も御庭番出身だが、綾様はお二人よりさらに西洋に詳しかった。」

 綾様はペリーの来る何年も前から外国のことを独自に調べていた。きっと昔からいつか日本が開国することを予見していたのだろう。常に先を見通して行動される人だったと思い出す。

 そこまで考えて、すんなりと綾様のことを思い出せたことに気づく。最近は綾様のことで思いわずらうことも少なくなった。前は辛いことばかり思い出していたのに、今は楽しかったころの記憶も少しずつ思い返せている。

「……なんだか妬けますね」

 物思いにふけっていると、ヴラドが急に妙なことを言いだしたので危うくひっくり返りそうになった。

「きゅ、急に何を言い出すんだ!」

「サツキの瞳が恋人を思い出すようでしたから。ふむなるほど、サツキにはもうとっくに想い人がいたのですね」

「変な納得をするのはよせ! そーいうのを下衆の勘繰りというんだ。……それに、綾様はもう亡くなられている」

 最後は自分にも言い聞かすような気持だった。ヴラドがわずかに目を見開いて、

「それは立ち入ったことを聞きました、茶化してすみません」

 本心から詫びるように言うので、私は首を振る。

「いいんだ。私もそろそろ飲み込まねばならないことだから」

「そうですか。もしいつか話せるようになったら、あなたの師匠の話を聞かせてください。これは茶化しているんじゃないですよ」

「わかってる」

 ヴラドは静かに椅子を引いて立ち上がった。

「今日は昼間から動いて疲れたので、もう寝ますね。サツキも早く休むといいでしょう」

「ありがとう、そうするよ。……お前が夜に寝ると、なんだか調子が狂うな」

「フフ、そういう日もあります。ではおやすみ、サツキ」

「ああ、おやすみ」

 ヴラドは二階の寝室へと上がっていき、入れ替わるように洗いものを終えた絹がやってきた。

「お待たせしました……ヴラド殿はどうされました?」

「先にもう休んだよ。私たちも居室に戻ろう」

「承知しました」

 

 

 食堂を出て暗い廊下を歩きながら、絹が尋ねてきた。

「五月様、このあとはどうされます?」

「ん……、本当は横浜の今後のことで二つ三つ話したいこともあるのだが……、ま、それは明日でもいいだろう。せっかくヴラドが早く寝たからな、私ももう休むよ」

 返事をしながら部屋の戸をからりと開けると畳の上にはすでに布団が敷かれている。

「そう思いましてすでにとこをのべておきました」

「手際よすぎるだろう……いつの間に敷いたんだ」

 もはや驚く気も起きない。絹の家事万能振りがいささかも衰えていないことを、今日だけでよっく思い知らされた。

あんどんの油は足しております。どうぞお休みくださいませ」

 そういって絹が下がろうとしたので、不思議に思って呼び止める。

「どこに行くんだ」

「はい、私は隣の部屋で休ませていただきます」

「別にわざわざ離れて寝なくても、せっかく二人なんだし一緒に寝ればいいじゃないか」

「……………………………………………………………………………………………」

 今日もっとも長い沈黙があった。さきほどと違うのは絹の顔が朱に染まっていることだ。

そんなに変なことを言ったかと内心首をかしげていると、やがて絹はつっかえつっかえ小声で言った。

「え、ええと……………、その…………………」

「? どうした?」

「それは、夜伽をせよということでしょうか……」

「どーーーしてそうなるんだっ!」

 予想の斜め上を行く返事に思わず叫んでしまう。

「ですが、五月様、綾様とは、その、そういうことをされていたんじゃないですか?」

 今度はこちらが驚かされる番だった。

「い、いや、あれは違う。そういうことでは決して無い」

 まさか私が綾様と一緒の布団で寝ていたことを知られていたとは、恥ずかしすぎる!

 しどろもどろになりながら弁明する。

「えっと、その、あの頃の私はまだ子供……というわけでもないが、幼かったし、綾様は私にとって姉とか、母親のような方で……子供の頃から一緒に過ごしていたから、ともに寝ていただけだ。そういう関係では、ない」

「あ、そ、そういうことでしたか。すみません私はてっきり……その、くノ一組でそういうことは珍しくないですから」

「ま、まあそれは私もなんとなく知っているが……。というか絹はなんで私が綾様と一緒に寝ていたことを知っているんだ!? 夜中こっそり部屋に行っていたのに!」

「え、あれで忍んでおられていたのですか!?」

 絹がめすらしく、本当に驚いた顔をしている。どうやら数年前まで私が綾様の部屋をこっそり尋ねていたのはとっくにバレていたらしい。

 顔から火が出る思いがする。

「ど、どうして知っていると教えてくれなかったんだ」

「まさか隠されているとは思いませんでしたので……といいますか、組の者のほとんどは知っていて、五月様と綾様の関係を勘違いされているものと……」

「……………………………………」

 がっくりと膝をつく。今日起きた出来事の中で一番の衝撃だった。

「…………………穴があったら入りたい」

「その、気を落とされないでください。組の者もみんな応援していましたから。いえ、幾人かは悔しがっていたようですが……」

 絹がそう言って慰めてくれるが、正直あまり慰めにはなっていなかった。

 深く、息をつく。なんだかいろいろと疲れてしまった。

 

「…………寝るか」

「はい」

 

 絹の部屋から一緒に布団を持ってきて、ふたり枕を並べて床に就いた。

 

 今日はいろいろあったが、気心の知れた相手と共に眠ることができるようになったのは、少なくともよいことだと思った。