第一章 洋画家、小田野カネ

 

 

 文久二年初冬の、今にも落ちてきそうな午後おそく、右肩にてんびんぼうを担ぎ、左手に風呂敷包みを持った私は、横浜東波止場近くの通りを異人居留地へと向かっていた。

 運上所(※港で主に貿易事務を扱った役所)に文使いを頼みに行くと、ちょうど港にヴラド宛の荷物が陸揚げされたと言うので、それを引き取った帰り道だった。

 運上所の役人は荷車か軽子かるこに運ばせようか訊ねてくれたが、これも修行になるからと断って、人々の行き交う通りを足早に進んでいく。

 まだ陽があっても冬の空気はきん、と澄んでいて冷たく、吐く息は白く変わった。ここ二、三日横浜には冷たい雨が降り続けて、朝晩の冷え込みも厳しさを増していた。

 今日の空はよく晴れているので傘の必要はなかったが、長雨の後で横浜の道は少しくぬかるんでいた。町の人も泥に下駄の歯を取られながら、おっかなびっくり歩いている。

 私も悪い道の上を慎重に歩いていると、南蛮寺にぞろぞろと異人が入っていくのが見えた。そういえば今日は英語で日曜日サンデイとか言う日で、キリシタンは皆、南蛮寺(※教会のこと)に参詣をするらしい。この寒い中でも参詣を欠かさないのはずいぶん信心深いことだと感心する。

 ふと、思う。

 ヴラドがああして南蛮寺に参詣するのを、まったく見たことがない。そもそも朝起きていることが珍しいのだから、朝の参詣はできないのだろうが、夕方や夜でも滅多に寄り付かない。異人はみな大抵熱心なきようの信者だと思っていたが、どうもヴラドは違うらしい。

 踏み出すたびにせつがやわらかい泥の中に沈むので難儀しながら、ようよう歩いていると、走って通り過ぎて行く子供に声をかけられた。

「あー、くまのおねえちゃんだ」

「こんにちはー、くまのお姉ちゃん」

 思わず足を止める。

「おはよう。ただすまんが、熊のお姉ちゃんはやめてくれないか」

 先日の一件以来、私は横浜の人々から妙なあだ名で呼ばれるようになっていた。

 往来の真ん中で熊退治をしてしまったから当然といえば当然なのだが、その後続いた港崎遊郭での一件も相まって、人々は事件をさらに大げさに噂してしまったらしい。

 いつの間にか私はじようろう百人を相手に大立ち回りを演じたことになっていて、噂が噂を呼び、わざわざ私の顔を見に押しかけて来る者もいた。しまいには勝手に瓦版に書いて売り歩くものまで出てきたので、それはさすがに奉行所にかけ合ってもらい止めさせた。瓦版は出回らなくなったが、今ではもう横浜の町の人々は皆知っているのではないかと思われる。

 一応私も女の身だから、宮本無三四や大宅太郎おおやのたろうみたいなあだ名は少しもありがたくない。声をかけてくれる人にはそのあだ名で呼ばないでくれと言ってはみるのだが、今のところ効果はなかった。

 ヴラドによれば異人たちの間でも私のことは有名になっているらしく、夜の夕食会などでたびたび話題に登るらしい。中には私を直接雇いたいという異人もいるそうで、冗談ではない。

 挨拶を返すと、子ども達も立ち止まった。三人連れのうち、女の子が駆け寄ってくる。

「だってお姉ちゃん熊より強いんでしょう」

「あれはたまたまだ。お姉ちゃんはそんなに強くない」

 そう言うと、男の子がずいっと前に出てきた。

「でもおいら、お姉ちゃんはすごい強いお侍だって聞いたよ。九尾の狐も素手で倒したって」

「わたしは大入道と戦ったって聞いたよ」

「あたしは大蛇を海に投げ落としたって」

 

 いかん、どんどん噂話に尾ひれが付いている。

 

「お姉ちゃんは九尾の狐とも、大入道と戦ったこともない。見たこともない」

 きっぱり言うと、子どもたちは少しがっかりしたような顔をした。しかし女の子の一人が、また確かめるように聞いてくる。

「でも、熊を倒したのは本当だよね」

「む。……それはまあ、本当だが」

 子どもたちの顔がぱあっと輝く。

「やっぱりお姉ちゃん強いんだね」

「わたしたちになんかあったら守ってね」

「あ、ああ」

 そう言われては無下にするわけにもいかず、つい頷いてしまう。子どもたちは笑って駆けていった。

 ため息をひとつ吐くと、再びヴラドの屋敷への道を歩み始める。

 

 

 小半時ほどかけて、屋敷に帰り着いた。ヴラドも起きているはずなので門をくぐった時に声をかけたのだが、返事がない。もしや一人で屋敷の外に出ていったのではないかと思い、慌てて奥に行くと台所の方で音がした。

「おやサツキ、お帰りなさい。遅かったですね」

 ヴラドは台所にいた。ちょうど夕飯を準備するところであったらしく、木台の上に食材が並べられている。ヴラドは普段の洋服ではなく、女中のクレアがつけているような前掛けをつけていた。エプロンというらしい。

「む、いま帰った。文を出すのはすぐに終わったのだがな、港にお前宛の荷物が届いていたのでついでに引き取ってきた」

「それはご苦労様でした。まったく、あなたがいないから外にも出られないので困りましたよ。暇なので夕食の準備をしてました」

 ヴラドはうっすら笑って、少し不平らしく言った。彼女を困らせてしまったことは事実なので、素直に謝る

「すまなかった。私もこれほど遅くなるとは思わなかったんだ」

 ヴラドはくすくす笑った。

「フフ、失礼、少し意地悪を言ってみただけです。どうせ仕事の予定はありませんでしたから気にしないでいいですよ。今日はSundayですからね」

 そう言われて南蛮寺に参詣に行く異人達のことを私は思い出した。そういえば今日サンデイにキリシタンは、みな仕事を休むのだという。

「それなら良かった。実は、私のいない間にお前が勝手に屋敷を出て行ってしまうのではないかと少し心配していたんだ」

「いったんはそうしようかとも思ったんですが……」

「待て、やめろ。絶対にやめろ」

「フフ、そうやってサツキを怒らせるよりは、先にこの前の汚名を返上しようかと思ったのですよ」

 妙に私を困らせたがるヴラドに辟易しつつも、汚名という言葉が気になった。

「汚名とは? なにかあったか」

「忘れたんですか? 私が前に料理を作ったときあなた食べもしなかったでしょう」

 思い出した。

 最近私とヴラドは時間の空いた時に交代で食事を作っていた。

 それまでは出前や料理屋からの仕出し、弁当屋で何とかなっていたのだが、ヴラドがどうしても肉を食べたいと言い出して、次第に屋敷で作るようになった。横浜にある食い物の店はどこも魚をおかずにしていて、獣肉を扱う店は少なかったためだ。

 たいていは私が作ったが、仕事のないときはヴラドが作ることもあった。彼女が言っているのはこの前の料理のことだろう。

「あのときか、ちゃんと野菜は食べたじゃないか」

「ええ、ですが肉に少しも手を付けなかったのはいささか傷つきました」

「あ、あれは、確かにすまなかったがお前も悪い! 生の肉を食わせようとするからだ!」

 ヴラドが皿を食卓に並べたとき私は目を疑った。血の滴るような赤い牛肉がどん、と目の前に置かれたのだ。

「ローストビーフはちゃんと火を通してありますよ。やれやれ、一応一番得意な料理だったんですけどねえ」

「どう言われようと生の肉を食う気はない。どうして異人はあれが平気で食べられるんだ」

「私からすると、生魚を平気で食べている日本人の方が奇妙に映りますが」

 とにかく、とヴラドは言った。

「その汚名を返上するために、今日の夕食はこうして私が作ろうかと思ったのです。必ず美味しいと言わせましょう」

「もう生肉はかんべんしてくれよ」

「大丈夫です。今日は魚と米の料理ですから」

「む」

 木台を見ると、たしかに普通の食材が並んでいた。鱈に鮭、海老に、幾らかの野菜。魚はどれも新鮮で、きっといま棒手振りから買ったばかりなのだろう。

「ほう」

 美味しそうだな、と素直に思う。まだどんな料理をつくるかも知らないが、食材だけで美味しいものができそうだと察せられる。ヴラドは(意外なことに)料理の腕自体はとてもいいので、期待できそうだった。

「楽しみにしている」

 そう言うと、ヴラドは自信ありげに笑った。

「フフ、任せて下さい」

 

 

       ****

 

 

「で、あれがどうしてこんなことになるんだ……」

 膳に盛られた料理を見て、開いた口がふさがらなかった。人のことをとやかく言える腕ではないが、それにしても……あまりにも想像とかけ離れている。

 てっきり白米に味噌汁、タラの焼き物、かぶと海老の煮物、なんてものが出てくるかと思っていたのだが、膳の上にあるのはたった一皿、それも実に珍妙な料理がのっていた。

 まず、全体的に黄色い。すごい黄色い。

 香りも私が今まで嗅いだことのない強いものだ。

 具材は鱈も海老も米と一緒くたに混ぜられていて、どう見ても美味しそうではない。

 嫌な予感はしていたのだ、台所から漢方薬じみた匂いがしていたから。しかし万事にそつのないヴラドのことだから、きっと大丈夫だろうと高をくくっていたのだが。

 そのヴラドは、意外そうな顔をしている。

「おや、気に入りませんか。米と魚のある食事を作れといったのは、あなたですよ」

「いや、たしかにそうだがこれは……そもそもこれは一体何だ?」

「ケジャリー(※イギリスのシーフードカレーのような料理)です。鱈や鮭の切り身、海老を炒めて炊いた米と混ぜて、カレーのスパイスで味付けした料理です。イギリスではよく食べられているんですが、日本でも比較的材料が揃えやすかったのは助かりました。日本の米はずいぶん粘りがあって、うまく炒められなかったのだけ残念ですが」

「エゲレスの料理なのはまあいい、だがなんで米が黄色いんだ」

「インドのスパイスを使っているからです。体に害はありませんよ。騙されたと思って食べてみてください」

「うーむ……」

 正直、美味しそうには見えない。

 しかしヴラドがせっかく私好みのものを作ってくれたのに、食べもしないのはさすがに悪い。

 今回は魚だし、ちゃんと火も通してあるようだし、死にはしないだろう。観念して席についた。

 いま屋敷で食事に使っている部屋にはヴラドの希望で椅子と机が運び込まれている。洋式の椅子は足が高くて座ると違和感を覚えるのだが、今日は特に座り心地が悪かった。

「どうぞ、スプーンで食べてください」

 ヴラドから金物の匙を手渡される。たしかに箸では食べにくそうだった

「いただきます」

 料理をひとすくいし、恐る恐る口に運んだ。瞬間、口の中に今まで食べたことのない味が広がる。辛いような、苦いような、甘いような、うまいような、なんとも言えない味だ。過去食べたどの料理にも似てないので言葉で表現しようがない。

 しばらくしやくして、飲み込む。

「どうですか?」

 ヴラドが尋ねてくる。

「……思っていたよりずっとうまい」

「それは良かった」

「うん、うまいなこれは!」

 二口目を食べると、やはり美味しかった。舌が刺激的な味付けに慣れると、そのうまさがわかる。鱈と海老の旨味がたっぷり米の中に染み込んでいて、香辛料の複雑な味付けがそれを引き立てている。

 エゲレス料理で初めて好きな食べ物ができた。

 私は夢中になって食べ続けた。ヴラドはそんな私を楽しげに眺めて、自分の分を食べ始める。

 やはり世界は広い。いままで想像したこともない料理が出てくるものだ。ヴラドはやはり料理がうまい。

 勢いよく「けじゃりー」を食べていると、だんだん匙が進まなくなってきた。西洋の料理は全般的にそうなのだが、やや油っこいのでだんだんと胃にもたれてくる。

「ブラド、エゲレス人はこれを普通に食べているのか? 私には少し油が多すぎるんだが……」

 ヴラドは意外そうな顔をした。

「これ、イギリスでは朝食ですよ」

「信じられん」

「使ってる油も日本の菜種油ですからイギリスよりずっと薄いですよ。向こうではラードやヘットでしたからね」

「なんだそれは?」

「牛や豚の脂身のことです」

「……うえええ」

 聞いただけで胸焼けがする。

「残しても構いませんが」

「それはもったいないから食べるさ。味はいいしな」

「ふむ、今度作るときは油を少し控えましょう」

「そうしてくれ。肉といい油といい、異人の胃袋はおかしい」

「日本の料理があっさりし過ぎなのです。初めてあなたが夕食を作ってくれたとき、あなたに嫌われているのかと真剣に悩みました」

「あれは、まあ、すまなかった」

 屋敷で料理を始めたとき、私は夕食にご飯と味噌汁、白菜の漬物と焼いたメザシを出したらヴラドに「なんですかこれ? 子猫の餌ですか?」と言われた。どうもその料理は異人の感覚では粗食に当たるらしい。最近は頑張って港からイノシシや豚の肉を買ってきては焼いたりしている。

 時々失敗して焦がしてしまうが……。

「サツキももう少し料理のレパートリーを増やしたらどうですか。たまになら魚でも私はかまいませんよ」

「うぐ」

 思わず言葉を詰まらせる。言いたくなかったが、しぶしぶ口を開いた。

「私は、魚はさばけないんだ。メザシは焼くだけから何とかなったんだが……」

 もう捌かれている肉はともかく、魚は大抵そのままで売っている。それを三枚に下ろすことがまだできないので、魚料理は切り身で買ってこないと作れなかった。さらには飯炊きも下手なので、たまに失敗する。初めてでもちゃんと米を炊けたヴラドとはえらい違いだ。

 案の定、ヴラドが吹き出した。匙を軽く振って笑い出す。

「ククク……、それでよく今まで食事が出来ましたね」

「江戸にいた時は、料理はほとんど従者が作ってくれていたんだ」

 ヴラドがいよいよ笑い出した。恥ずかしくて、思わず大きな声を出す。

「わ、笑うな! どうせ私は下手なんだ。うまい料理が食いたいなら飯炊きを雇え」

「クックックク、ハハハハ。失礼。コックを雇ってもいいですが、もう少しいい人材を探してからにしましょう」

 肩を震わせたまま、ヴラドは言った。前々から気になっていた疑問があるので、彼女に尋ねる。

「お前は何で奉公人を使いたがらないんだ? 他の異人館では日本人の女中や使用人を雇っているぞ」

 ヴラドはようやく笑いを引っ込めて、といっても口元は片側を釣り上げたまま、答えた。

「使うのが嫌なわけではありませんよ。今もいい召使がいないか探しています」

「……探しているようには、見えないが」

「私はあなたのような召使が欲しいんですよ。私の言うことに逆らったり、意見するような召使が」

 ヴラドの言葉に首を傾げる。普通奉公人を雇うときは従順で文句を言わない者を選ぶのではないだろうか。

 私の疑問を察したのか、ヴラドが説明を加えた。

「私もヨーロッパにいた頃は、たくさんの召使を雇っていましたよ。家来も大勢いました」

「ヨーロッパ? エゲレスのことか?」

「いえ、私は昔、ヨーロッパの東にある国の貴族だったのです。いろいろありましてそこで暮らせないようになり、イギリスに渡って商売を始めたのですよ」

「なに、お前エゲレス人じゃなかったのか!?」

「帰化しているので国籍はイギリスですよ。移民、ということですね」

「ちょっと待てそんなことまったく知らなかったぞ!?」

 しかし言われてみればヴラドの髪も目も他のエゲレス人とは違っている。ヴラドの元々の民族の特徴ということだろうか。

 私は居留地でよく出会う、金髪や淡い茶髪の英国人達を思い出した。ヴラドのように銀髪で紅い目をした異人というのには、一度も会ったことがない。

「まあ、聞かれませんでしたからね」

 ヴラドはちょっと肩をすくめて言った。

「それで東欧にいた頃ですが、その頃の私は、命令には絶対逆らわない、黙って従うものを家来にしていたのです」

「いまでも、そうしそうな感じはするが」

 ヴラドは見た目は穏やかに笑っていながら、基本的に相手がうんと言うまで引かないところがある。

「ですが色々ありましてね、気づいたんですよ。命令に黙って従う家来というのは、私が滅ぶときもただ黙って見ているということに。私に逆らう家来は、扱いづらいですが、私が間違えたときそれを教えてくれます。そのことに、最近ようやく気づいたのです」

 以前何か、あったのだろうか。ヴラドがさっき言った、そこで暮らせないようになったことと何か関係があるのだろうか。

 私は日本に来る前のヴラドのことを少しも知らない。いままで気になったこともなかった。人は誰にでも踏み込まれたくない領域というものがあるし、ヴラドの過去がどうあれ私の役目が変わるわけでもないから気にしないでいた。

 しかし、ヴラドが祖国にいれなくなった訳というのは、正直気になる。日本人は鎖国の法があるため普通のは一生この国の外に出ることはない。そんな日本人の一人である私にとって、故郷を捨てるというのはよほどの事情があると見た。ヴラドがエゲレスから日本に渡ってきたのも、もしかしてその事情が何か関係しているのではないだろうか。

 ヴラドの過去を訊ねていいものかどうか、迷った。

 迷って、結局何も聞かないことに決めた。それは僅かな逡巡だったはずだが、ヴラドは目ざとく気づいたらしかった。

 ヴラドは食事の手を止めると、肘を突いて両手を組み、そこに細い顎を載せた。

「サツキ、聞きたいことがあれば聞いてくれていいんですよ」

 びっくりして匙を使う手が止まる。慌てて誤魔化すように「けじゃりー」を口に入れた。

「何を言ってる。別に聞きたいことなど何もないぞ」

「そうですか? 私の過去が気になるような顔をしていましたが」

「何も無いと言ったら無い」

 ヴラドの察しの良さに内心舌を巻きつつ、あくまで突っぱねる。ここで私が質問したら、ヴラドに興味があると認めるようなものではないか。

 

 

       ****

 

 

 それからしばらく経ったある昼下がり、ヴラドはまた突然に妙なことを言い出してきた。

 

 

「私にニュースペーパーの取材?」

「ええ、公使館からの紹介でして」

 

 

 用事があるとかで珍しく昼の少し前に起きたヴラドは、そのまますぐに英国公使館へと出向いた。護衛として私もついて行き、公使館の中の番士室で待機していたのだが、用事を済ませたらしいヴラドは部屋に来るなりそんなことを言った。

 番士室は本当は英国公使館警護役の兵士のために用意された部屋なのだが、最近私たち別手組(※外国人護衛役)の侍も使えるようになった。英国人が日本人の護衛になれてきたのもあるだろうが、以前よりも待遇が良くなってきたのも感じる。

 これもあの事件のお陰なのだろうか、と内心思ったりしていたのだが、真実はよくわからない。

 ヴラドが入ってきたとき、私はちょうど公使館女中メイドのクレアと一緒にお茶を飲みながら話していたところだった。

 持っていた茶椀をクレアに返し首をかしげる。

「私に取材と言ったのか? お前じゃなく」

「ええ、あなた個人を取材したいのだそうです。ほら、この前の攘夷浪士を相手の大立ち回りで」

「うげ」

 思わず呻き声をあげてしまった。

 あの件では変に目立ちたくないから、これまでその手の話を聞きたい連中は全員会わないで来たというのに、それでも瓦版に好き勝手書かれて閉口したのだ。

 日本語で会話したために隣のクレアがきょとんとしていたので、ヴラドの話を伝える。話を聞いた彼女は無邪気な笑顔で言った。

『Cracking! 取材なんてすごいですね、サツキさん。あのことすごい評判でしたものね』

『いや、あんまりありがたい話ではなくてだな……』

 クレアに返事をしてから、ヴラドに英語で話す。

『いつも言っているだろう、その手の取材は受けんぞ、断って……』

『断れませんよ。もう承諾してしまいました』

「おい」

『後でこの部屋に来るよう伝えましたから、よろしくお願いしますね』

『待て待て待て待て! お前はどうしてそう人の気持ちも確認せずに!』

 文句を言おうと立ち上がると、逆にヴラドがつい、と近寄ってきたので機先を制されてしまった。

 ヴラドは私の前に人差し指をピン、と立てて言う。

『いいですか、これは貴重なチャンスなんですよ?』

『む……どういうことだ?』

『いま日本とイギリスの関係は決して良いものではありません。二年前のとうぜん襲撃事件(※イギリス公使館のあった東禅寺が攘夷志士に襲撃された事件。その後イギリス公使館は横浜に移った)しかり、今年のなまむぎ事件しかり、横浜に住む外国人、イギリス人の怒りは甚だしいものがあります』

『まあ、そのくらいは知っているが……』

『そこで、貴方の活躍が使えるわけです。日本の侍が、西洋人を攘夷浪士から守ったという感動的なニュースは、横浜に住む外国人にとって、ひいては本国に住む人々にとっても怒りを和らげるのに充分な力を持っているでしょう。ここで取材を受けることはただ市民の好奇心を満たすだけではありません。ひいては日英の友好のために必要なことなのです』

『日英の友好、か』

『今のままでは日本とイギリスはまずいことになりかねないのですよ。生麦事件の賠償問題もまだ解決していませんし。ジョーイローニンが私たち外国人を憎むように、日本人を憎んでいる外国人、とりわけイギリス人はとても多いのです』

 ヴラドの語りは真に迫っていて、思わず私も頷いてしまう。

『そ、そうなのか……』

 すると、黙って話を聞いていたクレアが急にずい、と身を乗り出して言った。

『わ、私はサツキさんのこと大好きですよ!』

『ありがとう、わかってるよクレア。私もクレアのことが大好きだ』

『……えへへ』

 クレアが嬉しいことを言ってくれたので、抱き寄せて頭をなでる。彼女は頬を赤くしてはにかんだ。

『私もサツキのこと大好きですよ』

『お前の好意は胡散臭いからいい』

『おや、ひどいですね』

 いつもと全く変わらない、あやしい笑顔で言われても嬉しくも何ともない。

 やれやれと思いながら、クレアを抱きしめるのをやめてヴラドに向き直る。

『お前の言うことにも一理あるのはわかった。日英友好のためだと言われれば、私も今は奉行所にお仕えする身だしな。否やは言えん。取材は受けよう』

『ありがとう。そう言ってくれると思ってましたよ』

『しかし、取材と言っても所詮は瓦版屋なんだろう? 瓦版でそんなに異人の心が変わるとは思えんのだが」

『瓦版とニュースペーパーは似てますが違うものです。まあその違いについては追々わかってくるでしょう。とりあえず、私たち外国人はニュースペーパーから日々いろんな情報を得ていますし、その内容はかなり信頼されています』

『ふーん、瓦版と言うより書物に近いものなのかな……』

 ニュースペーパーについて思いを巡らしていると、ヴラドが言った。

『あとは直接記者に会った方がわかりやすいでしょう。そうそう、その記者さんは絵もとても上手い人でしてね。あとで貴方の姿もスケッチさせてほしいと言っていました』

『な!? だからどうしてそういうことを勝手にぽんぽん決めるんだ!?』

『だってサツキ、貴方前に写真は嫌いだと言っていたじゃないですか。向こうは本当は貴方の写真を撮りたかったんだそうですが、私が説得してスケッチまでにしてあげたんですよ』

『む。それは確かにありがたいが、絵だって良くないぞ。……は、恥ずかしい』

『サツキさんは写真はお嫌いなのですか?』

 クレアがそう尋ねてきたので、戸惑いつつ答える。

『あ、いや、嫌いというか、そのだな。……まあ、嫌いだ』

 魂が抜かれると聞いたから……と答えたら、流石にヴラドに笑われそうなので言わないでおく。

 ちょうどそのとき、番士室の扉をコンコンとノックする音が響いた(最近ようやく私もノックという風習が飲み込めるようになった)。

『おや、どうやら時間になったようですね。それではサツキ、よろしくお願いしますよ』

『待てと言っているだろう! 絵に描かれるのは勘弁してくれ』

『大丈夫ですよ。彼女はとても絵が上手いですし、それに日本人ですからその辺のこともくんでくれるでしょう』

『そう言う問題ではないと――む、待て。彼女? 日本人?』

 疑問に思っている間もなく、ヴラドが部屋の扉を開ける。「どうぞ」と彼女が中に招いた人物は、確かに着物を着た日本の女性だった。

「初めまして、小田野おだのカネです。今回は取材を受けてくださって、ありがとう存じます」

 そう名乗った彼女は明るい笑顔で挨拶をした。年の頃は二十前後で少し緊張している風だった。が、それより気になる部分がある。

 地味な小袖を着ているが姿態はすんなりと美しい。整っている顔立ちの中で、瞳が利発そうに輝いている。肌も抜けるように白く、美しい雪を連想させる。

 つまり総じて、カネさんはただの瓦版書きとは思えないくらい美人だった。

 大体の事情が飲み込めた。

 カネさんにあいさつを返す前に、部屋を出ていこうとしているヴラドに声をかける。

「おい」

「さて、では私は別の仕事があるのでこれで。カネさん、どうぞごゆっくり」

「おい、待てブラド」

「ありがとうヴラドさん! 今度お礼しますね」

「いえいえ、お気になさらず。お役に立てて良かったですよ。今度一緒に食事しましょう」

「待てえぇっ、ブラド。お前私をだしに使ったな!」

「なんのことだか。ではサツキ、取材が終わったら迎えに来てくださいね」

「なにが日英友好だっ! お前の言うことはもう信じないからなーーーーっ!」

 こういうときのヴラドは本当に素早い。私が追いつく寸前で惜しくも扉は閉められてしまった。

 

 

「くそっ、逃げられた!」

 眼前で閉じられた扉に、思わず舌打ちする。

 ヴラドとのやりとりを見ていたカネさんが、ややひきつった顔で言う。

「えっと、もしかして無理矢理取材させてもらうことになってしまいましたか?」

「いや……」

 一つ大きなため息をついて、カネさんに向き直る。

「一度は了解したんだ。あいつの本当の思惑がどうあれ、大差はない……。もう慣れたしな」

「はあ……」

 カネさんはよくわからないというようにあいまいな返事をした。

「とにかく、一度落ち着こうか」

 彼女に椅子を勧めて私も座る。クレアが、『お茶をいれ直してきますね』と断って部屋を出ていった。

 私の正面に座ったカネさんは、改めて見てもやはり美人だった。少しはかなげな印象もあり、ニュースペーパーの書き手と聞いて想像するのとはだいぶ違った。こんな線の細い女性がなぜ、と思う。

 そこで、挨拶がまだだったことを思い出し、改めて名乗った。

「初めまして、五十嵐五月と言います。挨拶が遅れましてご無礼を」

「いえ、こちらこそ急なことなのに会ってくださりありがとうございます。小田野カネです」

「いきなり尋ねて申し訳ないのですが、小田野さんはなぜエゲレス公使館に? いや、そもそもなぜニュースペーパーの書き手を?」

 次々思ったことを尋ねると、カネさんは苦笑する。

「あの、その前に、敬語はやめてください。私は五十嵐様よりずっと身分が低いですから」

「む」

 私はちょっと考えた。

「別に敬語をやめるのはかまいませんが、小田野さんはおいくつですか?」

「今年二十一になります」

「なら私より一つ上です。小田野さんは私の家来でもなんでもないのですから同じく敬語をやめてください」

「いや、そうは言っても私は生まれは下士かし同様ですから、五十嵐様とは身分が釣り合いません」

 困ったように眉根を寄せるカネさんに、続けて言う。

「小田野さんは、身分制度が好きですか?」

 少し意地悪な問いかけだった。

 カネさんは少しの間黙っていたが、やがて、真剣な表情で言う。

「いえ、嫌いです」

「私もです」

 思わず笑顔になって、言う。

「こんなところでまでお互いの立場を考えるなんて馬鹿馬鹿しいと思います。もちろん城や奉行所の中では意地を張ることはできませんが、ここはエゲレス公使館、日本の中の異国の地です。この中でくらい、身分を忘れて普通に付き合いませんか?」

 カネさんはなおもためらっているようだったが、やがて淡いほほえみを浮かべて頷いた。

「はい、では五月さんとお呼びしてもいいですか」

「はい、私もカネさんと呼ばせてもらいます」

 私たちの間に流れる空気が少し弛緩した気がする。カネさんはほほえんだまま優しい声音で言った。

「聞いてたとおりの人ね、五月さんは。居留地の異人達に人気があるのもわかる気がするわ」

「そうなのか? たしかに子供にはよく声をかけられるが……」

「一度お話を聞いてみたいと思ったの。五月さんはそうやって騒がれるのが嫌いだと聞いていたから、今までなかなか勇気が出せなかったのだけど、思い切ってヴラドさんにお願いして良かった」

「あいつはカネさんと仲良くなりたかっただけだと思うが」

「そうそう、最初の質問に答えないとね」

 ぽん、と軽く手を合わせてカネさんが言う。最初の印象と違って、少女のように無邪気な笑い方をする人だ。

「私、もともとはあるイギリス人さんのお手伝いをするために横浜に来たの。と言うか無理矢理頼み込んで見習いにしてもらったのだけど」

「イギリス人?」

「ええ、チャールズ・ワーグマンていう人なのだけど、知っている?」

「む……さて、どっかで聞いたような気もするが」

 腕組みをして首をひねっていると、カネさんが風呂敷包みからなにやら取り出した。

「これ、今年発行された、『ジャパン・パンチ(※日本最初の漫画雑誌)』の発行をしている人なの」

「おおっ! これは知っているぞ」

 カネさんの取りだした本を見てようやく思い出した。横浜や日本で起こったことを、くだけた絵にして本にまとめた作者がたしかチャールズ・ワーグマンと言う名だった。絵が多くわかりやすい英語の本として、横浜に来たばかりの頃ヴラドが貸してくれたのだ。よく読んだので覚えている。

「これは本当におもしろい本だった。む。ということは、カネさんが見習いとして雇ってもらったというのは……」

「そう、このチャールズさんのところにいま住み込みで弟子にしてもらっているの。チャールズさんてものすごい絵が上手いでしょう。本格的な洋画を学びたくて、横浜まで尋ねてきたの」

「ほう。もともとの出身はどちらなんだ?」

「東北の秋田藩の出なの」

「秋田!?」

 驚いて思わず叫んでしまった。私も行ったことはないが、雪深く険しいところだと聞いている。

「はー、それはそれは大変な旅だったろうな」

「雪の季節じゃなかったから、女の足でもまあ何とかね」

 カネさんも少し苦笑いしている。それはそうだろう。想像以上に大変な旅だったに違いない。

「しかしそんな苦労をしてまでなぜわざわざ……藩命か?」

 遠くから江戸や横浜まで洋学を学びにくる他藩の藩士は多い。どんなに過酷な旅でも、命令とあれば逆らえないのが武士の悲しさだ。

 カネさんはゆるく首を振った。

「いいえ。私の家は禄高も低い下級藩士に過ぎないから、藩命をいただくことはないの。そもそも私は二女の部屋住みだし」

「では、なぜ?」

「……絵が、好きなの」

 小さいが、思いのこもった声でカネさんは答えた。

「知らないと思うけど、秋田藩の小田野家は昔かららんが得意な家系で、私も隠居したお祖父様からその手ほどきを受けていたの」

「ほう……」

 秋田でらん(※オランダから伝わった西洋画のこと)が盛んにおこなわれているとは、確かに初耳だった。

「子供の頃は絵の勉強はあくまで趣味で、極めようなんて思ってもいなかったけれど、そのうちにあの開国騒ぎがあったでしょう? 異人さんが大勢来て、蘭画や洋画に関する本や道具も大量に入ってくるようになったって聞いたら、いても立ってもいられなくなってね。そのうちにチャールズさんていうものすごい洋画の上手い人が横浜に来たって聞いたらいよいよ我慢できなくなって、ダメもとで藩にお願いしたら、部屋住みがどこに行くのも自由と言うことになって……援助はないけど、とがめられることもなかったから、思い切って横浜に来てみたの」

「よく思い切ったなあ」

「親には死ぬほど反対されたけどね」

 そう言ってカネさんはぺろりと舌を出しいたずらっぽく笑った。

「横浜に来たばかりの頃は右も左もわからなかったけど、なんとかチャールズさんへの伝手をたどって、会えたその日に弟子入りをお願いしたの。向こうは相当困っていたみたいだけど、こっちも今更藩には帰れないから必死に頼んだら最終的にはお願いを聞いてくれて、今はこうしてニュースペーパーの挿し絵画家見習いとして働いているというわけ」

「は~~~~~」

 私は驚きの余り二の句が接げなかった。恐るべき行動力だ。並大抵の意思でできることではない。

 なんと言っていいかわからず、ただ目を白黒させていると、ちょうど部屋へお茶を用意したクレアが入ってきた。

『お茶をどうぞ、オダノ様も』

「ありがとう」と礼を言って、カネさんはクレアの淹れたお茶を飲む。話通しで喉が渇いたのだろう。

 私はと言えば、クレアのお茶に手を着けるのも忘れて放心していた。

 ……世の中にはすごい人がいるものだなあ。

『では、どうぞごゆっくり』

 準備を終えたクレアがそう挨拶したところで、はっと我に返る。

 反転して部屋の扉に向かう彼女に、慌てて声をかけた。

『あ、す、すまんクレアせっかくお茶を淹れてくれたのに礼も言わず』

 クレアはボンネットを揺らしてくるりと振り向くと、いつものように優しい笑顔で、

『お気になさらないでください。大事な取材中なんですから』

『いやどちらかというと私が聞いていたところで……』

 あたふたしていると、私とクレアのやりとりを見たカネさんが緩やかな声で尋ねた。

『なんだか随分と親しげだけど……お二人はどういう関係なの?』

 エゲレス人の画家を師匠に持っているだけあって、さすがに見事な英語を使ってカネさんが尋ねる。クレアもちょっと驚いた様子だ。

 クレアが扉の方から再び戻ってきて、カネさんの前に立ち、スカートを摘んで一礼する。

『初めまして、英国公使館付き女中のクレアと申します』

『小田野カネです。どうぞよろしく』

 カネさんも丁寧にお辞儀を返す。

 クレアが、少し恥ずかしそうにしながら話した。

『えっと、サツキさんとは直接何かの関係があるわけではないのですが、いつもとっても親しくしてくださって……。ヴラド様の警護で待機している間、一緒にお茶を飲んだり、おしゃべりしたりしているんです』

『クレアと話すのは楽しいし、待機中の時間があっという間にすぎるから助っているんだ。英語の勉強にもなるし、世話になってばかりだな』

『いえいえそんな! 私の方こそサツキさんとお話出来るだけその日一日楽しいんです! 最近は日本語も教えてくださって、本当に感謝しています』

『いやいや、こちらこそいつも美味しいお茶に菓子までいただいて申し訳ないくらいで……』

『いえいえいえいえいえ私のほうこそ……』

 そのときくすくすと笑い声が聞こえた。見ればカネさんが口元を隠して小さく笑っている。

『お二人は本当に仲がいいのね』

『あ、いや……』

 なんとなく恥ずかしくなって、クレアと顔を見合わせる。

 こほん、と咳払いして話を戻す。

『えっと、それで、何の話だったか』

『私たちの関係は何かというお話です』

『そうそう、そうだった。つまり私とクレアは、一言で言うとだな……』

 そこで、私は言葉に詰まった。

「……なんだ?」

 つぶやき首をかしげる。

「どうしたの?」

 カネさんが不思議そうな顔をする。クレアも目をぱちくりさせた。

『いや、考えてみるとどういう関係かわからなくなってな。ただの知り合いという浅い関係ではないが、仕事が同じわけでもないし、馴染みの客というのも違うし……。ああ~もやもやする! うまい言葉が見つからん』

 クレアとはまだ出会って数か月しかたっていないが、時間では表せない親しい関係になれたと思っている。

 なのにこれを表す言葉が見つからない。たしかな感覚が心にあるのに、言葉にできない。もどかしい。

 言葉を探して頭の後ろをがりがりかいていると、カネさんがにっこり笑って口を開いた。

「何言ってるの、二人の関係を表すのにぴったりの言葉があるじゃない」

「なんだ。わかるなら教えてくれ」

「それはね…………百合よ!」

 カネさんはちょっと勿体をつけてから、大仰なしぐさで言った。

「百合?」

『英語で言うならLily』

『Lily?』

 私とクレアは同時に首をかしげる。

『なんで私とクレアの関係が百合なんだ? というかそれは関係を表す言葉なのか』

『いや、ちょっと待って。私もこんなことを言う気はなかったのよ。なんかいま急に頭に天啓がひらめいて……。いったいなんで百合なんて言ったのかしら?』

『私に聞かれてもわからないんだが』

『う~~んわからない~~! でもなんとなくだけど百年以上未来には理由がわかる気がする~。二人の関係を百合って言ってる気がする~』

『いったい何を言っているんだ』

 カネさんは頭を抱えてうんうんうなっている。どうしたというのだろう。

 しばらくしてカネさんはうなるのをやめた。恥ずかしそうに咳払いをする。

『ンン、とりあえず気を取り直しまして、二人の関係を表すにはぴったりの言葉があるわよ』

『なんだ?』

『といっても英語なんだけどね。friend、っていう言葉よ』

『フレンド……』

 聞きなれない言葉だ。

『日本人にはあんまりぴんと来ない言葉よね。私もうまく説明できないんだけど、身分を超えて特に親しい人のことを向こうではそう呼ぶらしいの。家族でも奉公先でもないけれど、とても大切な人のこと』

『家族でも、仕えているわけでもない相手、か……。たしかに私とクレアにはフレンドというのがふさわしいかもしれん』

 しかしそういう言葉があるということは、外国にはそういうフレンドがたくさんいるということだろうか。家や役職にとらわれない自由な関係が普通に存在しているのだろうか。身分でがんじがらめに縛られた日本とは大違いだ。そういうところは少し外国がうらやましい。

 なにはともあれ、これでもやもやはすっきり解決できた。フレンド。知ってみるといい言葉だ。

 隣のクレアの手をしっかり握ってぶんぶん振った。

『よし、今日から私とクレアはフレンドだな!』

『は、はい。friend、friendです』

 クレアはちょっと顔を赤くしてはにかんだ。相変わらずそういう仕草がとてもかわいい。

『えへへ、私、イギリス人以外のfriendはサツキさんが初めてです』

『私も日本人以外のフレンドはクレアが初めてだ』

 クレアが不思議そうな顔をして言う。

『ヴラド様は違うんですか?』

『あいつは……まあ、あいつもフレンドと言ってもいいが……』

 確かに日ごろからいろいろ世話になっているから、すでにただの異人と護衛役の関係とはいいがたい。毎日一緒の家で寝泊まりしているわりにさっぱり気心が知れないが。

『ブラドは何を考えているかわからんところがあるからな。それに、あいつと親しくなったのはクレアのおかげだ。クレアは間違いなく初めての異人のフレンドだよ』

『なんか、そういってもらえるととっても嬉しいです』

 クレアはますます顔を赤くして答える。

 と、まだ手を握ったままだったことに気付いた。カネさんもすっかり置き去りにしてしまった。

『すまないカネさん、話がずいぶんあらぬ方向へ転がってしまった。取材の続きを……』

 言いながらクレアの手をはなすと、思いもよらぬ鋭い声が飛んできた。

『待って! 二人ともまだ手をつないだままで! もうちょっとでスケッチが終わるから!』

『いったい何をやっているんだあなたは!?』

 カネさんは膝の上に乗せた紙の上で、何やらものすごい勢いで筆を動かしている。