五限目 現代歴史文学研究会が生き残るには、局地戦に勝て




 これなら合宿をしなくとも間に合うと、そう思っていた時期が俺にもありました。


 描いても描いても終わらないというのは、なんと恐ろしいことだろうか。

 決してサボっているつもりはない、何なら全員、自分が持ちうる最大限の力を発揮していると言っても過言ではないのだ。

 だのに、一向に前に進まない、三歩進んで三歩下がっているような、そんな気分。

 出口の見えない暗闇のトンネルを、出口に向かって歩いているのかも分からない、そんな雰囲気が俺達全員を包み込んでいた。

「ば、ばじゃじゅぐどの……ぼうぶりでず……」

とら泣くな……泣いていいのは現代歴史文学研究会の存続が決まった時だけだ」

「で、でずが……」

まさつぐくんの言うことは分かるけれど……ここ最近はずっと睡眠時間を削っていたし、その上で徹夜二日目は……かなりつらくなってきたわね……」

「あ、後もうひと踏ん張りだ……お、終わりさえすれば……それで……」

 分かっている、初めての経験が目測を誤ったのだ、ストーリー制作に時間を割いたのはコンテストで他作品と差をつけるために仕方のないことであったとはいえ、虎尾という実力者がいれば間に合うという考えに甘え過ぎてしまっていた。

 期間を考えれば虎尾一人では限界がある、だからこそ俺やほうじようが懸命に虎尾から作業を学んだりしたのであったが、虎尾もそれで時間が取られてしまう。

 徐々に慣れてきても、習い始めて一週間と少ししかっていない連中にハイペースを求めるのも無理のある話で、覚えのいい北条でさえも苦戦を強いられてしまったことで、不幸にも更に虎尾の負担が増えていく。

 最初こそそれでも笑顔はあったが、ついに締め切り間際となる最終局面、二泊三日の校内合宿二日目で、ついに大幅にペースがダウンしてしまった。

「いいことを教えてやる……カフェインが効かなければエナジードリンクを飲む、それでも駄目ならエスタロンモカだ、これはよく効くぜ……」

「雅継殿ぉ……ちゃんと用法用量は守ってくだされ……」

「雅継くん……目の下のくまがひどいし少し休んだほうがいいよ……一ページ進めるのにあまりにも時間がかかり過ぎちゃってるから……」

 ちなみにたつはバレー部の校内合宿をわざわざ抜け出して手伝いに来てくれている。

 実はふじおか書房の原稿を見せてもらったあの時の女子生徒と龍田が知り合いで、彼女の漫画制作の手伝いをしたことがあると聞いて、無理を言って手伝って貰っているのだ。

 だからやけに漫画に対して知識があるのかとは思っていたが……ともかく。

 それでもペースとしてはかなりギリギリ、仮眠を取ってペースが上がるなら問題ないが……寝ないで済むならこのペースでも続けた方が──

「あ! 雅継殿見て下され! あんな所で主人公とヒロインの修羅場が──」

「は? 何言ってんだ……そんなもんある訳──」

「あら、あっちでは……羨ましいわ……私も雅継くんとまぐわいたい──」

「北条まで何言って──……ま、まさか──」

 つ、ついにやって来てしまったというのか……眠気を越えたその先にあるとうわさの幻覚が……ぐ……こ、これは流石さすがに……。

「ま、雅継くん……ヤバいよ……もう原稿どころじゃないよ……ちゃんもあやさんもペンを置いて立ち上がって幻影を追いかけちゃってるし……」

 龍田があまりの異様さに恐怖してしまったのか俺のそばまで近づいてきておびえた声で俺にそうささやく。

 二人共感情ゲージまで錯乱してしまっている……あれだけ我慢強い北条でもこうなってしまっているのだからこ、これ以上はもう……。

「わ、分かった……! 一時間、一時間だけ寝よう、そしたらまた再開だ……」

「う、うん……確か虎尾さんが仮眠用に持って来た布団が準備室にあったはずだから、運んできて準備するね」

「悪いな……おい北条、虎尾、しっかりしろ、えず一回寝て──ぬぐっ!」

 フラフラと動き回る二人を呼び止めた瞬間、いきなり北条が俺の右腕を、虎尾が俺の左腕をがっしりとつかんでくるではないか。

「うう~ん……とてもたくましい腕でありますな……それに何だか心地よい……」

「こっちもとても安心感があるわ……良い匂いも……この腕に抱かれて眠りたい……」

「い、いや……だ、駄目だって……このまま立ったまま寝たら……」

 あまりの眠気に身体からだを支えていられないのだろう、二人共身を預けてくるのでこのままでは倒れて床に顔をぶつけてしまう──

 しかし俺の体力も限界だったので身体が言うことを聞かない……それでも最後の力を振り絞ってうわごとつぶやく二人を引きずると、力尽きて龍田が急いで敷いてくれた布団の上へと倒れ込む。

「ぐ……も、もう限界だ……」

「ま、ましゃちゅぐどの……」

「ん……ま、雅継くん……」

 布団の上で横になった北条と虎尾はあっと言う間に眠りについてしまう──ま、待て……こんな二人に寄り添われたままでは……。

「お、お疲れ様雅継くん……」

「あ、ありがとなひかり、何から何まで……部活だって忙しいのに」

「それは──部活も頑張らないといけないから手は抜けないけど……で、でも現代歴史文学研究会は雅継くんにとって大事な場所でしょ?」

 龍田が思いがけずそんな言葉を告げるので、少し驚いてしまう。

「えっと……まあそういうことには……なるけども……」

「それなら私も、一緒に守りたいなって────ほ、ほら! 船頭多くして船山に登るっていうし!」

「難しい言葉知ってるのにそれをここで使っちゃ駄目でしょ」

「そ、それに……雅継くんには────

「……ん?」

「な、なんでもない! 一時間しか寝れないんだし、私達ももう寝よっか!」

 何かを言おうとしていたように見えたが、顔を赤くして慌てて否定をしてしまった龍田は部屋の電気を消すと布団へと潜り込んでしまう。

 どういうことか、俺と北条の間に潜り込んで。

「えっ、ひ、ひかり……?」

「だ、だって布団この一つだけしかなかったから……お、おやすみなさい!」

 お、おやすみなさい……って、こんなので爆睡出来る筈が──

「すー……」

 めっちゃ寝てるやん……。

 まあ……龍田もかなり頑張ってくれていたから、疲れがまっていたのであろう、そっとしておいてやるとするか……。

 当の俺はこんな三人に挟まれた状態では休まるものも休まるはずがないのだが……。

 寝れないならこのまま作業を続けようと思い、起こさないようにして何とかい出すと、窓から山の麓の夜景を見て一度伸びをする。

…………ふう」

 結果がどうなるかは分からないが……今俺達が出来る最善をしないと確実に後悔することになるだろう、それだけは絶対にあってはならない。

 実際この中じゃ俺が一番役に立ってないしな……後もうひと踏ん張りだ。

 そう思い、顔を軽く二度たたき、活を入れ直した時だった。

「……なんだ?」

 窓越しでも聞こえるぐらいけたたましい音が聞こえてきたかと思うと、一台の大型バイクが、校門の前で停止する。

 先生が忘れ物でも取りに来たのか? とも思ったが、それならあんな場所にバイクをめたりはしないだろう。

 ただそれでも不思議な光景ではあったので、校内合宿をしている生徒を激励に来たヤンチャな卒業生なのかなと、少し窓に張りついてのぞいてみる。

 すると。

 ややあってフルフェイスのメットを脱ぎ、外灯と満月の明かりに照らされて見えた素顔に、俺は言葉を失ってしまった。

…………え? め、メイド……?」

 そこには、バリバリ仕事が出来そうなメイドがいるのだった。

 周囲を何度か見回した後、さつそうと正門へと通じる階段を上り始めた謎のメイド。

 あまりにも異様な光景に目がえてしまった俺はついその様子を追ってしまう──遠くなのでその顔はよく見えなかったが、何処どこからどう見てもメイド服のその女は階段を上りきった所で正門の前にいた警備員に呼び止められてしまった。

「そりゃそうだろ……」

 そんな格好で、しかもこんな夜中に学校に侵入しようなど、自分は不審者ですと言っているようなものだ。

「さあメイドよ、この関門、どうやって切り抜ける……!」

 なんて、自分もかなり疲れが溜まっているのか実にらしい実況をして楽しんでしまっていると、次の瞬間。

────え?」

 突如、警備員がメイドにもたれ掛かるようにして気を失ってしまい、彼女に頭を支えられながら地面へと倒れ込んだではないか。

「な、何だ……? どういうことだ……?」

 あまりにも唐突過ぎる事態に理解が追いつかず、ぼうぜんとその状況を眺めてしまう。

 ──あ、そうか、俺も北条や虎尾よろしく幻影を見てしまっているんだな、そうでなければこんな素頓狂な展開、起こる訳がないじゃないか。

 全く……俺だけでもしゃんとしておかないといけないのに、メイドが警備員をぶっ倒して校内に侵入してくる幻影など、ストーリーにするにはあまりにもチープだぞっ。

 危ない危ない、と俺は気持ちを入れ直して「んっ」と声を出して深く背伸びをすると、首を左右に曲げて骨を鳴らし、両ほおを三度ほど、今度はしっかり目に叩く。

「よし、これでオーケーだ……何せ俺にはメイド服の趣味はないから──」

 めっちゃまだいるやん。

 何なら警備員の襟首を摑んで引きずると、さっきまで警備員が待機していた小さなボックスに放り込んでいた。

うそでしょ……」

 いまだにこれは幻影だと思いたいが、どうやらそんなことを言っている場合ではない、ねんの為にこの中でまだ疲れがマシそうな龍田の身体を揺すって起こす。

「おい、ひかり……ちょっと起きてくれ……頼む……」

「ん……んん……? え、ま、雅継くん……どうしたの……? おしっこ……?」

「おしっこぐらい一人で行けるわ、いや違うんだって、悪いんだがちょっと一回こっちに来てくれないか……」

 まだけ眼の龍田の手を引くとそのまま窓際まで連れて行く。

「うーん……雅継くん……だ、駄目……そういうのはもっとお互いのことをよく知って……それから正式な段階を踏んでからじゃないと……」

「何を言っとるんだ……いいからほら、窓を覗いてみてくれ、あそこに何が見える?」

「ふああ……ちょっと待ってね……」

 龍田は眠そうな欠伸あくびを一つすると、目をこすってから俺の指定した場所へと目をやる。

………………メイドがいるね」

「いるよな、やっぱりいるよな?」

「間違いなくいるけど……演劇部か……歌唱演劇科の生徒かな……?」

「そう思いたいんだが、あのメイドあそこにある大型バイクで登場して、しかもあそこにいた警備員を始末したんだけど、演目だと思うか?」

「……多分殺人事件だと思う」

「だよな……」

 いやまだ殺したかどうかまでは分からないんだけども、あの女はただのメイドではない、どう考えても異常事態だよな……。

「え、ど、どうしよう……先生に言いに行った方がいいのかな……それとも警察?」

「どっちもだと思うんだが──でも何かおかしいんだよな……」

「おかしい……? もちろんメイド服なのはおかしいと思うけど……」

 いや、というよりは何となく俺はあのメイドを知っているような気がする

 ただ何処で知ったのかを思い出せない……一つ言えることはこんな時代にあんなバリバリのメイドがいるというのはどう考えてもおかしいということ。

 だからこそ記憶の隅にあるのだけど……それがもう少しで思い出せそうなのに……、えーっと何だったかな……。


「……あお?」


「うおっ! び、びっくりした……北条起きてたのかよ……」

「何だかひかりさんが駆け落ちをしている夢を見たから目が覚めたのよ」

「へええっ!? か、駆け落ちって……! わ、私そんなことしないよっ!」

 龍田がやけに焦った表情を見せながら、ちょっとムキになった声で反論するが、自分からそんなことを言った割に北条の反応がイマイチ悪い。

「……北条、今さっき蒼依って言ったよな、もしかしてあのメイドのことか?」

「え? も、もしかして北条さんのおうちってメイドさんがいるの?」

 俺達の問いかけに対して北条は一瞬しまったというような、何とも苦い顔になるが、言い逃れは出来ないと思ったのか、観念して口を開く。

「……周知のことだと思うけれど、私の家庭が裕福なのは知っているわよね?」

「それは……あんまり朱雀さんの口から言うことが無かったから、触れて欲しくないのかな……と思ってかないようにしてたけど……」

 俺からしても彼女がそれを話したくないのであれば訊くようなことはしない、別に知った所で関係が変わることもないのだが。

「ありがとうひかりさん──そうね、はっきり言って超が付くほどのお金持ちなのは否定しないわ、それに付随して……というのもおかしいのだけれど、家には複数人のメイドがいて、常時私達の身の回りの世話をしてくれているわ」

「つまりそのメイドの中の一人が、あの蒼依って訳か」

 北条は小さくうなずく。

「名前はたちばな蒼依、私が小学生の頃からずっと身の回りの世話をしてくれている人よ、他人に厳しく、自分にも厳しい人で、若くしてメイド長になったこともあってよく他のメイドから陰口を叩かれているけれど、私には怒ったことが一度もないぐらい優しい人よ」

「怒るって、そりゃお前のことを叱れるメイドなんていないだろ」

「それもそうね──と言いたい所だけれど、彼女は私の両親からの信頼がかなり厚くて、実はそういうことも許されていたらしいわ、それでも彼女は私がちゃんとしているからって理由で叱らなかったのだけれど──多分違うと思う」

「? 違うっていうのは?」

「蒼依は私にとってお姉ちゃんみたいなものなの、としは八つぐらい離れているけれど、私の話をいつも聞いてくれるし、女の子らしさなんていうのも彼女から学んだくらいよ、それにいつもずっと一緒にいたから、だから教育係という関係性ではないの」

「わあ……すごく良い関係だね……」

 確かに、それだけ聞けばただの美談として終わるだろう、俺だって素直に良いメイドさんじゃないかと、声を掛けてやりたい所だが──

「問題はその蒼依っていうメイドさんが何故なぜ学校に来ているのかってことだ」

 本当は何となく理由は察していたが、えて北条に問いかける。

 彼女はバツの悪そうな表情をしたが、らしていた目線を俺達に戻した。


「……ごめんなさい、本当は校内合宿は親に内緒で来ているの……」


「やっぱりそうか……」

 あの時北条の感情マークが一瞬不安に満ちたのは勘違いでも、能力が劣化したのでもなく、校内合宿に本来は参加出来ないかもしれなかったからだったのだ。

 そして合点もいった、あいが水泳の合同合宿で北条のそばにいたと言う謎のメイドは、あそこにいる蒼依というメイドで間違いない──

「え、で、でも校内合宿には親の同意書が必要だったと思うんだけど……」

「別に親に書いてもらわなくても筆跡ぐらい自分で変えられるし、なついんだって自分でするぐらいワケないだろ、つまり北条は自分で親の欄にも名前書いて提出したんだよ」

…………

「ええ! そ、それじゃああのメイドさんは──」

「少なくとも、家に帰ってきていない北条を探しに来たと見て間違いないだろう」

 しかも北条が約束を破ったことに怒っているというより、北条が帰れないような状況になっていると、勘違いをしている可能性が高い……。

 ましてや警備員を一撃でのしてしまうような実力者……漫画に出てくるキャラクターのような戦闘力などしやになっていない──

「……ちなみにだけど北条、あの蒼依ってメイドから何か連絡は来てないのか?」

「もう何通もメールが来ているけれど、一つも返事はしていないわ」

「おいおい……それは駄目だろ……」

「一応蒼依にだけ分かるように『学校にいます、探さないで下さい』と置き手紙はしたから問題ないと思って……」

「もっと駄目じゃねえか……」

 家出の仕方ヘタクソか。

 これで怒っていないとなると奇跡に近いものを感じる、何とかあのメイドを落ち着かせて交渉する場を設けられればベストなんだが……。

「多分……このまま出会ってしまったら雅継くんがどうなるか分からないわ」

「だ、だよな……」

「あ──ま、雅継くん! み、見て!」

 どうしたものかと思っていると、龍田が俺の袖をくいくいと引っ張るので視線を窓に戻してみたら、今度はどうしたことか、メイドが屈強な男達五人に囲まれているではないか。

「ええ……もう全然意味わかんないんだけど……」

「多分ラグビー部の人達じゃないかな……確か校内合宿をしているって聞いていたし」

 どうやらメイドに因縁を付けているというよりは、物珍しさに加えて美人だからなのだろうか、テンションが上がってちょっかいをかけているように見えた。

 校内合宿なんて学生からすればこれ程楽しいイベントはないのだから、気持ちがたかぶってしまう気持ちは分からないでもない──まああれだけ筋肉質な軍団であればそこまで心配する必要もないだろう……。

 などと、勝手に思っていたら。

「──え?」

 メイドを囲んではしゃいでいた五人のラグビー部員が、麻酔ガスでもばらかれたのかという程の速度で、ほぼ同時にゆっくりと膝を折り、あおけに倒れてしまうのであった。

「え……ええ? えええっ!?

 龍田も理解が追いついていないのか思わずその光景を三度見する。

「……あれが蒼依よ、実は私を護衛するために様々な鍛錬を積んでいるの」

「北条家の人間は化物しかいねえのかよ……」

 まさかド○ゴンボールの世界以外で速過ぎて目で追えなかったなんて思う日が来ようとはな……いやそんなことを言っている場合ではなくて。

「早急に対策を練らないといけないが……今は隠れてやり過ごすことが先決──うっ!」

 これが恋の予感であれば、どれだけ幸せであったことか。

 ラグビー部を一撃でのしてしまったメイドが、何の前触れもなく顔を上げ、校舎内から見下ろしていた俺と目が合ってしまう。

 遠目過ぎてその好感度ゲージと感情マークを確認することが出来なかったが、僅かに視認できるその表情は氷のように冷たくゾっとする。

 蛇ににらまれたかえるごとく凍りつく俺の身体からだ、あの目つきは普通じゃない……完全にキレちまってるってやつじゃないのか……?

「ヤバい……見られた」

「え──う、うそ、雅継くん大丈夫なの……?」

「──恐らく私も見られたわね……こうなったら私だけが彼女の元に行くわ、大人しく家に帰ればこれ以上彼女は何もしないと──」

「逃げるぞ」

「え、ちょ、ちょっと待って雅継くん! 私の話聞いていたのかしら」

 いつになく慌てた表情の北条が俺にぐっと寄ってくる。

「聞いていたというか……北条が蒼依ってメイドに出頭するのは却下だぞ」

「ど、どうして……これは私の責任よ、私が黙っていたせいで招いた結果なのだから、大事になってしまう前に私が行けばそれで丸く──」


「でも、それだと漫画は完成しなくなるし、北条のおもいも無駄になる」


「そ、それは──」

「北条がこんなうそをついてまで、自分で同意書作ってまで合宿に参加してくれたのは、現代歴史文学研究会を存続させたい、その一心だったんだろ?」

「だ、だって……ここが無くなってしまったら、雅継くんと虎尾さんの居場所が無くなっちゃうから……それだけは私は絶対に嫌で──」

「それは俺だってそうだ、虎尾なんか泣きわめくに決まってるし、北条も、絶対に悲しむなんてことぐらい分かってた、ひかりにだってあれだけ体育祭で頑張ってくれたのにそれが無駄になってしまうのはあまりに申し訳ない」

「でも……」

「だからこそ、北条がいなくなるやり方だけは考えないようにしよう、皆で頑張って最後まで作り上げて、笑って終われるようにしようじゃないか」

「雅継くん……」

「そ、そうだね! 皆であれだけ頑張って色んなことやってここまで来たんだもん! 朱雀さんも一緒に最後までやろうよ!」

「ひかりさん……ありがとう……」

 そうだ、こんなことを言ったら子供がわがままを言うなと言われるかもしれないが、ここで北条を引き渡す訳にはいかない。

 何としても全員で完成させるのだ、誰か一人でも欠けてしまえば間違いなく完成はしない、そうなってしまえば今度こそ現代歴史文学研究会は終わりなのだ。

「これからどうするかは逃げてから考えるぞ──おい虎尾起きろ!」

 布団を抱きしめて幸せそうな顔をして眠る虎尾を揺すって起こす。

「うーん……鈍感とは打首にも値する罪なり……」

「寝言を言っている場合か……いいから早く起きろ! 追跡者が出たぞ!」

「はえ……? 冷凍弾は持っておられますか……?」

「そんなもんを持ってても勝てるかどうか怪しい奴だよ、急いで逃げるぞ」

「???」

 寝起きのせいで状況を理解していない様子であったが、説明をしている時間はないので虎尾の腕をつかむと北条と龍田と一緒に部室を飛び出していく。

「わっ、く、暗いよ……」

 廊下は使用する教室以外は午後九時以降全て消灯となってしまうので、明かりをつけて移動する手段がなかった。

 だが幸い天気が良いこともあり、満月の明かりでかすかに道筋が見える、こんな所で故事みたいな展開に見舞われるとは何とも滑稽な話ではあるが、風流さを感じている暇はないので俺が先頭となってゆっくりと前に進み、トイレの入口付近に隠れた。

「あの、雅継殿……イマイチ状況を摑めていないのでありますが、一体どうやって逃げるのでありますか……?」

「逃げ切れる保証ははっきり言って無いが、あのメイドが強硬手段に出る前のギリギリぐらいまでの時間を稼ぐことは出来るさ、何とかそれまでに北条を連れ戻されずに済む方法を考えよう」

「メイド? 連れ戻される……? もしかして何か北条殿に──」

「しっ! メイドが上がってきた……静かにして、一ミリも動くんじゃないぞ……」

「もごもご」

 焦って虎尾の口を自分の手で塞いでしまったが、一応察してくれたのか、そこから一言も発さなかったので、トイレの中にいた俺達は全員身をかがめて、息を潜める。

 それから十数秒ぐらいだろうか、ひとの全くない廊下にカツカツという地面を鳴らす音が聞こえ始める。

 音が聞こえるようになってから近づいてくるまでの速度は明らかに早く、その音はあっという間に俺達が隠れているトイレまで来てしまった。

 夏の定番肝試しなんて次元をゆうに超えたホラーだなおい……まさかこんな経験を人生の中で味わう日が来るなんて思ってもみなかったが……。

…………

 頭を屈め、息遣いさえ漏れないよう呼吸まで止める。

 それが幸いしたのか、メイドの足音は俺達の横を通り過ぎると、奥の旧校舎へと向かって歩みを進めてくれるのだった。

 そして完全に音が聞こえなくなった所で、俺達は一斉に大きく息を吐いた。

「ぷはっ……助かった、これでひとまず……うん?」

「ふえ……こ、怖かった……」

 暗がりでよく見えなかったが、今にも泣き出しそうな声の龍田が俺の袖を引き千切らんとばかりに握りしめていた。

 真夜中の学校にあのメイドはそこら辺の安っぽい肝試しよかよっぽど恐ろしいからな……それでも声を上げなかったということはかなり我慢してくれたのだろう。

「な、中々のスリルでしたな……しかし雅継殿、どうして足音が聞こえる前から追跡者──いえ、メイドが来るのが分かったのでありますか?」

「本来なら足音を頼りにしないと乗り切れないんだが……後手を踏んでしまったら終わりだからな……だからここはこれを使ったんだよ」

 そう言って俺は自分の目の横をトントンと、虎尾にだけ見せるようにしてたたく。

「……邪眼?」

「ちげーわ、俺の言いたいことぐらい大体分かるだろ」

「それはもちろん……しかしそれが相手の位置を察知出来ることとはあまり関係のないような気が──あ、もしかして──」

 そうなのだ、俺のこの、人の好感度と感情が分かる能力は人の身体の一部に確実に映る仕組みになっているのである。

 だがそれは明るい所でないと見えないとか、人の形を認識しなければ分からないというものではない、人がそこにいれば身体の何処どこかに浮かび上がる、つまりそこが光の一切差さない真っ暗闇であったとしても、それだけは見えるのである。

 当然距離の問題はあるが、大きさは文庫本サイズのパラメーターなので、遠くでも形だけは視認出来る。

「どうだ、暗闇ならどんなつわものであっても俺の方が有利なんだぜ」

「思わず感心をしてしまいましたが……なんと言いますか、下手なのか下手じゃないのか分からない能力の使い方をしないでくれませぬか……」

ひどくない……? で、でもこれでメイドよりも先に相手の位置を察知して逃げられるだろ、相手がしびれを切らさない限り延々と逃げ続けられることは証明出来た」

 だがそれでは何の根本的解決にもならない、あの怪力メイドをどうにかして説得するか、諦めさせるように仕向けなければ……。

「──北条、蒼依ってメイドは両親からの命を受けて来ていると思うか?」

「え?」

「……? それは当たり前ではないですか? 無断外泊をしているとご両親が憤ってメイドを派遣したとなれば自然だと思いますし」

 こういう展開になると飲み込みの早い虎尾が、全てを察して北条の代わりに答える。

「本来ならそれが自然だと俺も思うよ、こんなこと言いたくはないが、北条はお嬢様なんだからな、それが本来帰ってくるべき時間にいないとなれば、大騒ぎどころの話じゃないだろう──でもだったら普通は警察じゃないのか?」

「あ、言われてみればそうでありますな──」

 だが、あのメイドは単身でこの学校に乗り込んできた、そうなると大事にしないために一人で連れ戻しに来たという可能性も十二分にあると思えたのだ。

 北条の置き手紙が効力を示しているかは分からないが──

 すると、俺達の一番後ろで身を潜めていた北条はその問いかけに小さな声を出す。

「……絶対とは言えないけれど、彼女は独断でここに来ているかもしれないわ、本当は同意書を提出する日の直前までどうやって参加をしようか悩んでいたのだけれど、たまたま両親が仕事の都合で海外に出張に行くって話が出てきて──」

「……感情マークが同意書を出した時に揺れ動いていなかったのはそれでか」

 その言葉に北条は一瞬驚いたような表情を見せる。

「隠し通したつもりだったのだけれど……やっぱり雅継くんにはお見通しなのね」

「親が不在の時期と校内合宿の時期がかぶっていれば問題はクリア出来る、あとはあのメイドをそれらしい理由を付けて言いくるめればどうとでもなると思っていたみたいだが……どうやら失敗に終わったみたいだな……」

 北条は力なく顔を縦に振った。

 だがそれが事実なら、やはりあの蒼依ってメイドは恐らく自分の失態で北条を無断外泊させてしまったという責任を感じているはず、両親にそのことがバレる前に何とか北条を連れ戻したいと思っているならチャンスはある。

「──こうなった以上はしょうがない、恐らくもうメイドは俺達がいた現代歴史文学研究会にいるだろうし、足音を立てない速度で下の階に降りよう」

「えっ……! こ、ここから移動するの……? だ、大丈夫なのかな……」

 恐怖で震えてしまっていた龍田が俺の袖を摑んだまま不安そうな声で言う。

「……彼女の目的は北条だが、俺のことも同時に探している筈──それなら虎尾とひかりは待機して、タイミングを見て逃げてもらった方がいいかもしれないな」

 何より──いまだ具体的な好感度指数が分かっていないのが一番怖い。

 万が一俺のことを北条をたぶらかした不届き者だと思っていたらその好感度指数は一桁台ということもあり得る。

 他人の好感度を見定めてトラブルを避けてきた俺にとって、一番低かった数値は逢花とけんをした時の15%ぐらい、もしそれを下回る数値となれば……。

 近くで確認をしたいが、それはほぼ死を意味する行為だし……どうすれば──

「しかし雅継殿はどうするのでありますか? 逃げ回ってばかりではらちが明きませぬし、先程も言っていたように相手が痺れを切らしてしまったら──」

「そこは最悪リスクを負ってでもメイドの好感度ゲージと感情マークを把握する、そうすれば新たに対策を練れるしな」

「むむう……それを二人でするというのは、あまり感心出来ませぬな」

「え?」

「狙いが雅継殿と北条殿と言うのであれば、私達は無関係と言えますが、裏を返せば都合のいいおとりにもなれる、そうだとは思いませぬか?」

「へっ!? ゆ、裕美ちゃん……?」

「い、いや……それはそうかもしれないが、でも虎尾、あいつは──」


「私は雅継殿に体育祭で助けて貰いました、ですから今度は雅継殿を助けさせて下され、それに皆がそろわないと漫画は完成しませぬ、そうでありましょう?」


「虎尾……」

「うー……わ、分かった! わ、私も囮になるよ! 一人でも多い方が相手をかくらんさせられるでしょ?」

 いつになく真剣な表情で話す虎尾に触発されたのか、それともヤケになったのか分からないが龍田までそんなことを言い始める。

「い、いや無理しなくてもいいんだぞ、足震えまくってるじゃないか」

「ひ、一人でいる方がよっぽど怖いし……そ、それに私だって現代歴史文学研究会を残したいっていう気持ちは同じだもん!」

「ま、乗りかかった船というやつですな、出来る所までやってみて、それで無理なら諦めましょう、その時はまた適当な名前を使って新しい部を作るまでです」

「そこまでして……」

 虎尾の口からまさかそんな言葉が、しかも平然と笑ったまま言うものだから、俺の心は酷くえぐられてしまう。

 でも────お陰で決意も固まった。

 こんなようはとっとと終わらせて、漫画制作を再開するんだ、そして必ずやコンテストで受賞し、現代歴史文学研究会を存続させてやる。

「雅継くん、虎尾さん、ひかりさん──私のわがままに巻き込んでしまってごめんなさい」

 俺の横にいた北条が申し訳なさそうな顔で、深々と頭を下げた。

「なに、気にすることはないでありますよ、どの道北条殿がいなければ完成は出来なかったのでありますし、ここは試練と思って、皆で乗り越えましょう」

「朱雀さんは、一人じゃないから……!」

「北条行こう、必ず俺達で何とかしてみせるから」

「みんな────ありがとう」

 さあて──俺達の逆転劇の始まりと行こうじゃないか。


    ○


 などと、威勢のいい感じを全面に押し出したのだが。

 基本的には俺がメイドの動きを監視し、左手の甲に見えるマークが視界に入れば物音を立てずにゆっくりと移動する、それを何度も繰り返すだけなのである。

 だが、緊張感が漂う空間で何度も何度も慎重に動くのは体力というよりは精神力が地味に削られ、注意力も散漫になってしまう。

 これぞまさにイタチごっこ、これでは俺達が先にヘバる羽目に……。

「諦める様子は全く見受けられないし……というか、何かおかしくないか……? どうして彼女はずっと校舎内を探し回っているんだ……?」

「それも不思議なのでありますが、あのメイド、私達の近くに来る回数が異様に多い気がするのであります……四階建てで、新校舎と旧校舎を入れるとまあまあの広さはある筈なのですから、ここまで何度も出会わないと思うのですが……」

「逃げる階数もランダムにしているのに、何ですぐ出会っちゃうんだろ……」

「……待って」

 そんな不穏な空気を危惧していると、俺の後ろを歩いていた北条が急に立ち止まる。

「……なんだ、どうした?」

「ここって、今、何階だったかしら」

「階……か? えっと、確か四階だったと思うが」

「今の場所は大体何処か思い出せる?」

「はて……旧校舎の一番奥、山側だったと思いますが──」

「おかしく……ないかしら、どうして私達はそんな逃げづらい場所にいるの

 北条の言葉にはっとして、慌てて周囲を見渡す。

 周囲の教室は全て鍵がかかっている、唯一身を隠せるトイレもここにはない、突き当たりも壁になっていて、すぐ近くに階段はあるが、降りる以外に進む道はない──

「朱雀……さん、もしかしてこれって──」

「分からない……まだそれを口にするべきではないのかもしれないわ、で、でも──もしかしたら、もしかしたらなのだけれど」


 俺達はメイドに誘導されているんじゃないのか……?


「い、いやですがおかしいでありましょう、私達はメイドが気づくよりも先に姿を見つけて、上手うまく逃げ回っていたのでありますよ?」

「それが、藤ヶ丘高校の構造を把握する為のもので、それが分かったからあのメイドが追い込みを掛けているのだとしたらあるいは──」

「そんな……蒼依は最初から私達が何処どこにいるのか分かっていたの……?」

 そうだとしたら、彼女は校内で大事になるのを避けるために、且つ俺達を校外へ逃がさないようにしつつ、追い詰められる場所を探していたことになる──

 何人も気絶させていたらいずれ足がつくからな……なんて用意周到なんだ……。

「どうやら……蒼依は相当やばいメイドだったみたいだな……」

 追跡者どころか、戦火をくぐり抜けて来たのかと言いたくなるぐらいのしたたかさを感じる──俺達は完全に彼女のてのひらで踊らされていたのか……。

「ど、どうしよう……このままじゃ──」

 龍田が不安そうな声を上げる、気持ちは分かるが、知らぬ間にこんな所まで追い詰められて、一発逆転の方法などすぐに思いつく筈が──

 ないと、頭を抱えそうになった時、カツンと、音が聞こえる。

 幾度となく聞いたメイドの歩く時に鳴る音、だが何処にも彼女は見当たらない。

「ま、まま雅継殿……彼女は何処から来ているのでありますか……?」

「わ、分からない……一番可能性が高いのはその階段からとしか──で、でも姿は何処からも見えないんだ」

「い、今来た廊下を戻った方がいいんじゃないかな……そ、それなら」

「いや……さっき俺達はその方向からあのメイドの姿を目撃したんだ……それに……彼女が意図して俺達を移動させてきたなら、戻ることも想定済みとしか……」

 だがここで黙って動かずにいるのもリスクでしかない……どうしたらいい……? これではメイドに北条を連れ戻されるだけに──

「……やっぱり、私が直接、蒼依と話しに行くわ」

「い、いや、それは駄目だ。もしにでもメイドに連れて行かれたらどうするんだ? あれだけのことをして怒っていない筈がないだろ」

「でもこうなってしまった以上対処の仕様がないわ……大丈夫、私は蒼依と何でも話せる仲なのよ、もし使命を受けて来ているならどうにもならないかもしれないけれど、怒っているだけなら謝れば許して貰えるかもしれないし──」

「だけど──」

 と言いかけてふと、考え直す、待てよ────もしかしたら、この方が北条が直接行くよりも可能性はあるんじゃないのか……?

「雅継殿」

 徐々にカツンカツンという足音が近づき始める中、虎尾が俺の袖を引っ張ってくる。

「虎尾……?」

「こちらに三つの鍵がございます、一つは現代歴史文学研究会の鍵、もう一つは私のコスプレ衣装が置いてあります準備室の鍵、そして最後は──屋上の鍵であります」

「お前……」

「最近は使っていなかったのでありますが、気分転換には丁度良い場所です、役に立つかは分かりませぬが、やるだけの価値はありますでしょう、私とひかり殿でメイドを撹乱します、そうすれば扉の鍵を開けるぐらいの時間は稼げます」

「えっ!? わ、私も……? う──ううん! わ、分かった! 行こう裕美ちゃん!」

「そんな……二人共駄目よ、私が──」

「悪いな──お前達に危害は加えないと思うが……死ぬんじゃねえぞ」

「フラグを立てるのはめておきますよ……ですが、生きて会いましょう」

 それを合図に龍田がもと来た廊下を走り出し、虎尾が階段を勢いよく駆け下りていく。

「待って! 二人共──!」

「北条! こっちだ!」

 俺は北条の手をつかんで引っ張ると勢いよく階段を上へと駆け上がる。

 そして上がりきった先の扉の鍵穴に、あらかじめミスをしないように握っていた屋上の鍵を突っ込むとガチャンという音を立てて解錠する。

「きゅ~……」

「む、無念……」

 それとほぼ同時に、龍田と虎尾がやられてしまった声が遠くから聞こえる、くそ……二人共別方向に走っていったのに何で同時にやられるんだよ……。

 しかし悔やんでいる余裕はない、俺は北条の腕を摑んだまま屋上へと飛び出すと即座に扉を閉め、すぐさま鍵をかけた。

 外は夜とはいえまだまだ暑さが残っているが、吹いている風が僅かに心を落ち着かせてくれる、眼下には俺達が住んでいる街が見え、百万ドルには到底及ばないが、百ドルぐらいの価値はありそうな夜景が広がっていた。


「鬼ごっこはあまり好きではないのですが、これでようやく終わりですね」


「おいおい……鍵はかけたはずなんだけどな……」

「あの程度の扉の鍵も解錠出来ないようでは朱雀様をお助け出来ませんから、それではメイドとして失格です」

 そんな物騒なメイドがいてたまるか。

 北条よりもへいたんというよりは、感情が籠もっていない淡々としたしやべり方、それだけを見れば怒っているとは到底思えないが、オーラでも出ているのかと言いたくなる奇妙な圧力が俺と北条を一歩、また一歩と後ずさりさせてしまう。

「私の待ち伏せを全て回避し、立ち回っていたことに関しては褒めさせてもらいます、ですが地の利が平等にあるとなれば、無理をしなくとも追い詰めるぐらい造作もありません」

「みたいだな……お陰で逃げ場が無くなってしまった……」

 しかしもうこうする以外に方法はない、それで駄目なら北条は──

「あなたのような不届き者に言うことではありませんが、一応最後にご心配事だけ解消してさしあげます、あの警備員も、頭の悪そうな学生共も、そして浮気相手二人も死んではいません、私もこの程度で殺しはしませんよ、あくまで眠っているだけです」

「それは有り難い話だ……これで漫画制作は続けられる」

「? 話はこれぐらいにしておきましょうか、朱雀様を渡して貰いましょう」

「蒼依お願い! 私はまだ帰る訳にはいかないの!」

 俺の後ろにいた北条が、蒼依に対して大きな声を出す。

 だが彼女は表情を崩すことはなく、それどころか一層姿勢を正すと、両手を前に重ねるようにして見事なメイドらしいたたずまいを取ってしまう。

「朱雀様……これはあまりにしき事態です、旦那様と奥様が留守の間に無断で外泊など、あまりに非常識であるということを自覚して下さい」

「でも──私が校内合宿に参加したいと言ったら、許してはくれなかったでしょう」

「朱雀様に何かがあってからでは遅いので当然のことです、現にその男のせいで起きてしまっているのですからなおさらですが」

「違うわ、私は不純な理由があってこんなことをした訳じゃないの、大事な友達の場所を守るために協力をしたかった、それだけよ」

「その大事な友達が朱雀様を連れ回して逃げたりはしないでしょう、友達をおもうのであれば、その人を尊重するのが友達というものです」

 ぐうの音も出ない正論だ、俺達のやっていることは北条家に関係する人間から見れば常識外れで、わがままを言っている子供のように見られても仕方がない。

 つまり彼女は至極真っ当で、非の打ち所がない、そんな完全無欠のメイドが悪い子になってしまった北条におきゆうを据えに来たのは、それだけを見れば何もおかしくはない。

 やはり、俺のすべきことは一つ──

「要するに、北条さんをこのまま残してくれるという選択肢はないんですね?」

「無いですね、早急に家に戻って頂き、北条家の名誉のためにもこのことは無かったものとして処理させて頂きます」


「そういうことだったら、北条は渡さない」


 俺は両手を左右に広げると、北条を隠すようにして立ちはだかり、そう言った。

「……何?」

 距離が遠く見えづらいが、メイドの感情マークが僅かに揺れ動いたように見えた。

「北条は渡さないって言ったんです」

「ま、雅継くん……?」

「はぁ……高校生にもなってそんな我儘を言わないで頂けますか、あなたが朱雀様に対してどんなお気持ちを抱いているのかは知りませんが、淡い恋心でつまらないを張られましてもご迷惑でしかありません」

おつしやる通りこれはつまらない見栄なのかもしれません、でも俺は北条の気持ちを一番尊重したいんです、誰にも相談を出来なくて、それでも俺達と一緒にと言ってくれた彼女の気持ちを」

「──それは朱雀様の為にならないと、先程申し上げた筈ですが」

「それで北条がずっと後悔するぐらいなら、俺は彼女を家に帰らせません」

 その言葉にメイドはただでさえ怖い目つきを、更に細く研ぎ澄ませた気がした。

「蒼依……駄目……」

「……そうですか、言っても分からぬなら、というやつでしょうかね」

「男なら、こういう所で格好つけないと、ダサいですしね」

「承知致しました、では──」


 と、その言葉を聞いた瞬間、三十メートル程の距離にいたメイドが姿を消す。

 いや、消したのではない、俺の視界から消えたのだ、だが気づいて目線を下に向けた頃には彼女と俺の距離はほぼゼロになってしまっていた。

 手加減はしてもらえないだろう──今までの出来事が走馬灯のように思い出されるかと思ったが、思い返すと大した人生ではなかったのでそれはなかった。


「雅継くんっ!!


 北条の悲鳴にも似た、俺の名を呼ぶ声が聞こえる。

 暗闇に目が慣れてきたのか、蒼依という名のメイドの顔がよく見える。

 こんな時に言うのも何だが実にれいな顔をしている、まるで三白眼のような冷たい目つきだけが怖さを増幅させてしまっているが──言動を見ればよく分かる、全ては何よりも北条を優先して行動する素晴らしいメイドさんだ。


 ………………あれ?


 が、俺はこのゼロ距離になってようやく視認することの出来た、好感度ゲージと感情マークを見て、とてつもなく奇妙な感覚に襲われる。

 いや……ど、どういうことだこれ……? 彼女の口調、雰囲気はどう考えても怒っているようにしか思えなかったのに……。

 でもそういうことならやはり俺の仮説は──

 しかし、それに気づいた時には警備員と屈強なラグビー部員、そして虎尾と龍田を仕留めた手刀が俺の首筋へと迫る、彼女の手より先に、ふわりとした風が俺の首に当たった。

 ええい! 後は野となれ山となれだ──!


…………

…………


 流れたのは一瞬の静寂。

 思わず目をつぶってしまっていたが、どうやら意識はある……らしい。

 口からとんでもない量の息が漏れて来そうになったが、何とかそれをこらえると、俺は恐る恐るその目を開けてみる。

…………は?」

 するとそこには、俺をぶっ飛ばそうとしていたメイドが、膝をついて深々と頭を下げている姿があるではないか。

「あの……え、えっと……」


雅継様、この度は数々の無礼、大変申し訳ございませんでした」


「あ、蒼依……?」

 北条も何が何だか理解出来ないという感じらしく、困惑した声を上げる。

 無理もないだろう、俺だって、直前まではこういう展開になるとは思っていなかった。

 本来は北条が蒼依と仲が良く、何でも話し合える仲という点を鑑みて、北条が彼女に俺のことを好意的に話している可能性に賭けるつもりだった。

 屋上に上がることさえ出来れば後は怒れるメイドと敵対する構図を作り、北条に俺の名前を叫んで貰う、そして向かってきたメイドに月の明かりに照らされた俺の顔を視認して貰えれば、動きは止まり話し合いの余地は出ると踏んだのだ。

 だが、驚いたことに。

 彼女の、蒼依というメイドの好感度ゲージは実は70%だったのである。

 おまけに感情マークも、によく似た何かをたくらんでいるといった表情。

 つまるところ、蒼依というメイドは北条の無断外泊をした理由が俺であることを分かっていた上で、あえてこんな真似まねをしたという可能性が高い。

 流石さすがは北条のことを一番知っているメイドというだけはある……恐らく最初から北条のスマホにGPSでも付けて動向を見守っていたのだろう。

「無論今回朱雀様が私達に黙って外泊をしたことに関しては、断じて認められない行為ではあるのですが、その原因が雅継様であるというのであれば話は別です、ですので奥様にも旦那様にもこのことは告げ口しておりません」

「え──? べ、別って……でも、そしたらどうして蒼依はこんな──」

「朱雀様を信用していなかった訳ではないのですが……私はあくまで朱雀様からのお話でしか雅継様のことを知っておりませんでしたので、その、何と言いますか……朱雀様を無断外泊させてしまう程のお方が一体どんな方なのか、見定めたいと──」

「あ、蒼依──!」

 北条が珍しく怒った表情を見せるので、蒼依さんは非常に気まずそうな顔をする。

 やっぱりそういうことか……しかし彼女の言いたいことは分からないでもない。

 あれだけ品行方正、誰よりも真面目な優等生である北条朱雀が、唯一俺のことになると我を忘れるのだから、そりゃ超お金持ちの令嬢に仕えてきたメイドとしては、一体どれ程の人間なのか、確かめたくもなるだろう。

 それにしては、北条を泳がせまでしてやり過ぎな気がするが……こうなると俺を見定める為に意図的に足音を出して追い詰めていたなこいつ……。

 無論あの時の言葉は打算的ではないうそ偽りのない言葉なのだが、もしメイドを失望させるようなことを言っていたらと思うとゾっとする。

 何にせよこれで、話し合いの場を持つことは出来そうだな……。

 そう思った所で俺は本来の目的の為に、彼女と同じように膝をついて話し始めた。

「蒼依さん、お願いがあります、実は僕達は今漫画を作っているんです」

「漫画……ですか?」

「はい、それは僕達が所属している部活が関係しているのですが、実はコンテストの締め切りが迫っている状態でして、どうしても全員で協力しなければ終えることが出来ない、それで彼女は無理してまでこの合宿に参加してくれたんです」

「お、仰っていることは分かりますが……」

「このコンテストで結果を残さなければ僕達の部は無くなってしまいます、それは本意ではないんです」

「……そうですか、雅継様以外にもそんな事情が」

「二日も待って頂いた上で厚かましいことを言っているのは重々承知ですが、あと一日、一日だけ北条さんに合宿に参加する許可を頂けないでしょうか、お願いします!」

 蒼依さんの俺に対する好感度が分かっているのでこれはあまりに形式張ったことで、そう思ってしまうことが己の嫌な面を出してしまっているようで不快になるのだが、それでも、誠意を見せる上で、俺はしっかりと頭を下げた。

「蒼依、私からもお願い、雅継くんや友達のいる場所を無くしたくないの」

 そしてそれに追従するようにして、北条も頭を下げる。

…………

 しばらく続く沈黙──だが蒼依は小さく息を吐くとこう言った。

「本来であれば、今回はおとがめ無しで朱雀様を連れて帰る予定だったのですが──非常に良き物を見させて頂きましたからね、仕方ありません、朱雀様の合宿参加を認めましょう」

「蒼依……! ありがとう……でもごめんなさい、心配かけてしまって」

「私は朱雀様が幸せで、そして無事であればそれでいいのですから、口出しをすることはありません、ただ今後は私にはちゃんと説明して下さい」

「はい……ごめんなさい……」

 ふう……助かったな、一時はどうなるかと思ったが、これでようやく問題は解決した。

「蒼依さん、俺からもありがとうございます、ご迷惑をおかけしました」

「お気になさらないで下さい、今回の件は北条家のメイド達の中だけの秘密で終わらせるよう徹底しておりますので、ただ──」

 蒼依は最後に、少し神妙な面持ちになると、こう言うのだった。


「旦那様だとこうは行きませんので、ゆめゆめお忘れのないように」


    ○


「おい、虎尾、目を覚ませ」

「んん……? はて……私は生きているのでありますか」

 気絶しているというよりは、完全にぐっすりと眠ってしまっているほおをぽんぽんとたたくと、虎尾はそんな言葉を吐いて目を覚ます。

 蒼依によって気絶させられてしまった虎尾と龍田は階段の踊り場で二人並べて寝かせられており、蒼依さんにお願いして何とか現代歴史文学研究会の部室へと運び込んだ。

 流石は常人の域を超えた戦闘力を誇っているだけあり、軽々と二人を肩で抱えて連れてきてもらったのは有り難いことではあったが、これだけの力、一歩間違えたら首の骨を折られていた気しかしない。

「ひかりももう寝ている時間はないぞ、ほら、起きてくれ」

「うにゃ……? わ、私何をしてたんだっけ……えっと──」

「虎尾様、龍田様、この度は申し訳ありませんでした、大変しつけな真似を──」

「ぬなっ! な、何故なぜメイドがこんな所におられるのですか!?

「虎尾落ち着け、問題は無かったというか……解決したんだよ、えず蒼依さんは俺達に協力してくれることになったんだ」

「は、はあ……それなら安心ですが……し、しかし近くで見れば見るほど本当にメイドなのでありますな……まさか現代に存在していますとは……」

「お気軽に蒼依とお呼び下さい、今時家に仕えるメイドというのは珍しいとは思いますが、正真正銘メイドでございますよ」

 通常時は冷たい顔をしているが、しやべると意外に表情が豊かというか、微笑ほほえんだりもするんだな、血はつながっていないのに、そういう所も北条っぽくて少し面白い。

「はー……ショップで売っているようなコスプレ衣装とはまるで違いますな……材質からしてと言いますか……実にお高そうな……」

「私の衣装は特注品になっておりますので、もしかしたら少しお高いかもしれませんね、防弾、防刃具としての機能も備わっていますから」

 このメイドは誰と戦っているんだ。

「──ってそんな話をしている場合じゃなくて、時間はないから早く──」


「それにしても──朱雀様が雅継様と良い関係を築けているようで安心致しました」


 もう締め切りは目前にまで迫っているのに、俺の言葉を遮るようにして、とした表情のまま口を止める気配がまるでない。

「朱雀様は私が北条家に仕えるようになった時には既に雅継様のことをお慕いしておりましたので、雅継様が県立藤ヶ丘高等学校に進学しているというお話を聞きつけた時はそれはもう、自分のことのようにうれしく思ったものでした」

「あ、蒼依……? 急に何を言っているのかしら──」

「即座に転入手続きを済ませて、雅継様と同じクラスになるよう便宜を図ったりなど……それはもう大変ではあったのですが、毎日嬉しそうに雅継様のお話をされる朱雀様のお顔を見れば一層やる気に満ちあふれるというもので──」

「蒼依、落ち着いて、今はそんな話をしている時じゃないから──」

 明らかにエンジンの入ってしまった蒼依に対して、北条がかなり焦った顔で止めにかかろうとするが、一向に止まる気配はない。

 というか……こ、これって北条の俺に対するスキ具合の裏話を延々とされる流れじゃないのか……い、いやそれはいくら何でも……。

「毎日家に帰れば雅継様のお話をされるのですよ、あんな所が素敵とか、あんなことをしてあげたいとか……でも朱雀様はこんなにおれいなのに極度の恋愛下手でして」

「蒼依、わ、私の話を聞いているのかしら……」

「雅継様に何をしてあげれば喜ぶのか分からないようでしてよくモジモジと──なので私から色々アドバイスをさせて貰ったりしているのですが」

「お、お願い……蒼依待って……」

「いつもうわごとのように『雅継くんに嫌われてないかな……』とおつしやっております、まあ男というのは美人にスキと言われて、しかも身体的密着を図られればキライになるやつなどいませんので、やはり私のアドバイスは間違っていないようですね」

「あ……あ……」

 北条の顔がみるみる赤くなっていく、そりゃ普段はクールに見せながらも積極的なアプローチを図ってくる彼女が、実はどう接したらいいか分からないから蒼依の言う通りにしていたなんてバラされれば恥ずかしいに決まっている。

 ただそこは、北条の好感度はなにせ120%である、そこまで振り切ってしまっていれば一度やれば躊躇ためらいなどあるはずもない、何なら俺が満更でもない顔をしてしまっているせいで癖になっているまである……。

 つうか、北条の常軌を逸した変態的行為の発端はお前だったのか……絶対どっかの漫画からの受け売りだろ……とんでもねえポンコツがバックにいたとはな。

 既に北条は死にかけてしまっているが、我を忘れたメイドは口を滑らせ続ける。

「財閥の令嬢という身分でありますから、やはりそれ相応の振る舞いは常に要求されるものです。しかしおもい人にまでそのように振る舞う必要などありません、思いっきり相手が喜ぶことをしてあげればいいのです、そしたら自分も幸せなのですから」

「あ、あああ……」

「雅継様、勘違いはしないで頂きたいのですが朱雀様はとても純粋なお方です、ただ雅継様を愛しているだけでそれ以上でも以下でもありません、その証拠としてご希望とあらば朱雀様の雅継様グッズを持って来させて頂きますので」

!?

 そ……それは純粋というよりはやヤバさしか感じないのだが……しかしまあスキを上手うまく表現出来ない北条らしいと言えなくもないが……間違いなくこのポンコツメイドの入れ知恵の線が濃厚だろう。

 当の北条はあれだけの異常スキンシップをしておきながら、今更何をという感じではあるが、両手で顔を覆って直立不動になっている。

ちなみに朱雀様は家で雅継様とお付き合いした際のシミュレーションを日々行っておりますので、お付き合いとなった際には非常に甘美なお時間を──」

「いやあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!

 ついに断末魔とも言える北条の悲鳴が現代歴史文学研究会に反響する。

 もう顔は見たこともないほどに真っ赤っ赤で、俺に視線を合わせること無く一直線に蒼依の所へ向かうと彼女の肩をぽかぽかと叩いていた。

 ううむ……好感度120%というのは攻守ともに隙のない強さを発揮しているのかと思っていたが、まさかこんなもろい一面があったとはな……。

 実に女の子らしい一面を知って嬉しさはあるものの、反面俺も恥ずかしさが勝っているので何を言ったらいいのか分からない……。

「! こいつ……」

 そしてしてやったりと言わんばかりの蒼依の表情を見て合点が行く、この野郎……わざと北条の意外な一面を暴露して虎尾と龍田をけんせいしやがったな……。

「むむむむ……! ぎゃ、ギャップえなどそくな……」

「むう……普段と違う一面って大事なのかな……」

 言われてみれば蒼依は二人のことを浮気相手とか言っていたし……どう見ても勘違いをこじらせて北条の被害を拡大させちゃってんじゃねーか。

 あまりにも可哀かわいそうなので同情しそうになるが、何故か虎尾と龍田がフグみたいに頰を膨らませて俺の方を見ているのでそっちに目が行ってしまう。

「と、虎尾……?」

「ふんっ! さっさと漫画制作を再開するでありますよ!」

「え? な、何で俺が怒られてんだよ……」

「ま、雅継くんはし、しおらしい感じの私とか、ど、どう思うかな……?」

「……は? いや、元気なひかりが一番いいと思うけど」

「ほ、本当に! そ、それなら──わっ! ゆ、裕美ちゃん……お、押さないで……」

「一分一秒を争っておりますからね! この件が無ければもっと早く──」

 何だかどこもかしこも渋滞してやがるな……と思っていると北条を抱き寄せてなだめていた蒼依(いや悪いのは蒼依なのだが)がふとそんな状態を見て口を開く。

「……そういえば皆様は漫画を制作すると仰っておりましたね、よろしければ私もお手伝いをしましょうか?」

「……はえ? 蒼依氏は漫画制作の経験がおありなのですか?」

「北条家に仕える者としてどんなことでも人並みに出来るようになるというのがモットーですから、因みに得意科目はBLです」

「てめえ大分偏った知識北条に埋め込みやがったな」

 実質的な北条の姉としての威厳を保つために北条にポンコツ教育をしやがって……。

 しかもメイドにそんな仕事があってたまるか、突っ込みどころ多過ぎだろ。

 だが、悔しいが猫の手も借りたい状況を考えればこの人材を逃す訳にはいかない──

 少し困った表情を俺に向けていた虎尾に対し俺は小さくうなずいてオーケーをした。

「それだけの知識があれば十分でありますな、お願いしても宜しいですか?」

「朱雀様のお友達とあれば、もちろんです、早速始めるとしましょう」

 よし……かなり遠回りをする結果にはなってしまったが、何とか締め切りまでに間に合うかもしれない、蒼依の襲来でどうなるかと思ったがこれで──

「……後は──」

 と俺は気恥ずかしさを覚えながら北条の元へと近づくと、肩を優しくたたく。

「えっと……まあ今は漫画制作に集中しようぜ、お、俺も気にしないようにするから」

…………う、うん、分かった……」

「う……」

 振り向いた北条の見たことのない半泣きの表情によって、恐ろしく胸がざわざわさせられたが、ぐっと我慢して邪念を振り払うと、急いで漫画制作を再開させるのだった。


    ○


「で、出来た……!」


 それから。

 俺達は交代で一時間程度の仮眠を取る以外はひたすらに原稿を描き続けた。

 虎尾が上げたものにベタやトーン、ホワイトといった作業をひたすら行う、優秀なアシスタント蒼依が入ったことで虎尾の負担が減り、面倒だった部分が簡略化され、作業効率もアップした。

 部活もあるのと、今日は家に帰らないといけないという龍田とは途中でお別れする事態もあったが蒼依の優秀さが光り作業効率はほとんど変わること無く、完成した原稿は増えていき──

 締め切り当日の午後八時を回った段階──虎尾が表紙に空けていたスペースに『スキとキライは紙一重』のタイトルロゴを描き加えた所で、無事原稿が完成したのであった。

 あまりの疲労感に蒼依以外のメンバーはぐったりとする、完成したのはうれしいが、正直に言ってもう二度とやりたくない程度にはこんぱいしてしまってるなこれ……。

 目をうつろにし、あおけで倒れ込んだ虎尾がボソりとつぶやく。

「何度も無理だと言ってしまいましたが……雅継殿、北条殿、ひかり殿、そして蒼依氏のお陰で終わることが出来ました……ほ、本当にありがとうございまする……」

「お礼は後回しだ虎尾……当日消印有効なのに違いはないが、最寄りの郵便局が閉まるまで三十分もないぞ……応募できなかったら元も子もないからな」

「あっ! そ、そうでありましたな……えっと今からバスを乗り継げばギリギリ……間に合う……のでありますか……?」

「虎尾様ご安心下さい、私の愛車、ニンジャがあれば十分とかからず到着出来ます」

「蒼依、交通ルールはちゃんと守るのよ」

「……では二十分で、時間もありませんし急ぎましょう」

「わ、分かりましたであります、では雅継殿、北条殿行ってまいりますね!」

「振り落とされないようにな、頼んだぞ」

「後はお任せ下さい、それでは行って参ります」

 そう言って蒼依はわざとらしいウインクを俺達に向けると、虎尾を連れて小走りで現代歴史文学研究会を後にするのだった。

 残ったのは散らかりに散らかった部室と、俺と北条の二人のみ。

…………

…………

 無事終わったな、色々あったけど北条がいなかったらきっと間に合わなかった、ありがとう──と本来なら言っている筈が、微妙な空気が二人の間を流れる。

 蒼依が余計なウインクをしたせいで北条はほおを少し赤く染め、伏し目がちになってしまっており、でもそれが妙に可愛かわいらしく、また俺を少し緊張させる。

 ただ、少なくとも好感度120%である彼女は別の惑星からきた異星人でも何でもなく、超人でこそあれ、普通の女の子なのだと分かったのには、少し嬉しさもあった。

 とはいえ、このま会話が滞ったままでいるのは……、なにか話題を振らなければと思いながらも北条と目を合わせられずにいた。

 その時。


「あ──────


 北条の口から滑り落ちた音と同時に、百ドルと形容した夜景から、一筋の光が上がり、パンと小さな音を立て、夜空に一輪の花を咲かせた。

「花火……そっか……今日は花火大会なのか」

 毎年小規模ではあるが、この町では花火大会がある、丁度俺達が体育祭の練習や、青春ごっこで自転車の二人乗りに使ったがわの河川敷から花火が上がるのだ。

 ただ、藤ヶ丘高校は山側、川とは正反対なので、ここから見える花火のサイズはとても小さい。

 なのに、達成感か疲労感のせいか、妹達ともっと河川敷に近い家から、何も考えずにボーっと見ている時よりも、何故なぜかとても美しく感じられた。

 どうやらそれは北条も同じ気持ちだったのか、いつの間にか頰の赤さは消え、花火にくぎけになっている、そして、ぽつりぽつりと言葉を紡ぎ始めた。


「花火……両親と、その関係者以外の人と見たのは初めてかも」

「やっぱり……外泊を許してもらえなかったからなのか?」

「それもあるけれど、小さい頃からずっと、水泳漬けだったから──友人と遊ぶことはあっても夜遅くに外にいたことなんてなかったし」

「それは……普通の学生みたいな生活、出来るはずないよな」

「──で、でも、私は雅継くんを見つけることが出来たから──それで……」

…………

「あの──」

「……なんだ?」

「雅継くんは昔のこと、覚えていたり──するのかしら」

「……水泳をしていた時か? 北条はその時の俺のこと知ってた……んだよな」

「そう……ね」

「うーん……でも北条を覚えてないってことは、大分記憶の中で薄くなっているのかもな、情けなくて申し訳ないんだが」

「それは──いいの、雅継くんは覚えていないのは当然だと思うから」

「? いやでも──」

「ううん、私が覚えていれば、雅継くんは覚えていなくていいの、それに、それを知って雅継くんを意識させちゃうのはフェアじゃないと思うから」

「いくら何でもそんなことはないと思うが……」

「ちょっとおおかもしれないけれど──ただそうなったら嫌だと思っただけ、だから、今の私、北条朱雀は転校した先で雅継くんの優しさを知ってれちゃった女の子なの、えっと、その──」

「……分かってるよ、なんつうか、俺もずるやつみたいで申し訳ない」

「それは違う……、勝手に私がスキって言ってるだけだから……それなのに雅継くんをかすつもりなんて無い、今は……そばにいられれば……」

「非常にうれしいお言葉ではあるんだが……その……今後はもう少し、身体的接触に関しては控えめにして貰えると……嬉しい……かな」

「蒼依の──も、もしかして……嫌……だった……?」

「い、いや、嫌じゃないけど……ほ、ほら、あのままだと俺も正気を保てなくなるから……さ、それは北条も本意じゃないだろ?」

「私は別に雅継くんなら全部差し出してもいいと思ってるけれど──」

「ほ、ほら! そ、そういうのはさ、一歩一歩進んで行くものだろ? それを無視してっていうのはやっぱり、よ、良くないというか……」

「……言われてみれば、それもそうね……でも我慢出来なくなったらどうしよう」

「そこは我慢しろよ……」

「じゃ、じゃあ、が、頑張るから! 頑張るから──そ、その、あれを──」

「あれ?」


「ま、雅継くんと、て、手をつなぎたい……です──」


「えっ、あ──そ、それなら……い、いいけども……」

「良かった……そ、それじゃあ──はい」

「お、おう……」

「嬉しい……こんな花火が見える場所で、雅継くんと手を繫いで二人きりなんて──いつか罰が当たりそう」


 でも、ありがとう、と北条はやっと俺の方を見て優しく笑った。

 どうやら俺は、彼女と昔から少なからず接点があったらしい。

 ただ、恐らくそれは間接的なもので、きっと俺は面と向かって会ったことはなかったのだろう、だって北条みたいな美人と話をしていたのなら、いくら過去をすぐ忘れがちな俺でも覚えていない筈がないからだ。

 ましてや、それをきっかけに俺をスキでいてくれているというなら、なおさらである。

 なんとも有り難い話だ、いやむしろ申し訳なさすらある──

 だが、同時にそのことが彼女にとって負い目となるのであれば、過去のことは気にするべきではないのだと、そう思った。

 何故なぜなら俺が見なければならないのは今の北条だと思うから。


 それから──俺達は一言もしやべることなく、遠くの夜空に咲く花を見続けた。

 ああ全く……とんでもない校内合宿だった、体育祭に続いて、こんなのはもうご免だと大きな声で叫びたいぐらいである。

 ──でも、何もかもが、悪いことばかりではなかった。

 皆で一つの作品を作り上げるというのは、存外達成感があるものだったし。


 何より、お陰で北条のことを少しだけ、知ることが出来たのだから。