幕 間 初恋の君(カルロ視点)
カルロは机の上にハンカチが残されているのを見つけ『マリアの忘れ物か?』と思い、何気なくそれを手に取った。
(何か入っている……?)
その硬い感触に
(一応、中身を確認しなければ……)
ほんの少し芽生えた罪悪感から目を
そして、そこにあったものに目を
(え……? どうして、これがここにあるんだ……?)
それは、十年前にカルロがマリアにプレゼントしたブローチだった。
(いや、おかしくはない……のか? これはマリアへ贈ったものなんだから)
どうしても
もし彼女が今までちゃんと持っていたなら、再会したときに『記憶にありませんけど……?』などと
仮にその後にどこかで無くしたブローチを見つけたのだとしても、どうしてこんな風に皇宮にまで持ってくるのか。ハンカチに大事そうに包まれている理由が理解できない。
(彼女は海賊王のことが好きなはずだ。それは
マリアが嫌いな男――興味のない男からもらった物を身に着けたり、持ち込むような性格とも思えない。
(これは
混乱のあまり、ありえない想像までしてしまう。
これは同じものは二つとない特注品だと兄から聞いているのに。
(何かが、おかしい……何かが……)
思えば、パーティの時からマリアの様子がおかしかった。
これまでしつこいほど毎回聞かされてきた海賊王の話をしない。
礼節をわきまえた態度を取る。
いつもなら
そして、大の苦手だったはずの
(いや、まさか別人……? そんなことありえる、のか……?)
あまりに常識外れな推論だった。とても受け入れがたい。馬鹿らしい考えだと自分でも思う。だが、そう考えると全て
「マリーとマリアは別人……なのか?」
カルロは頭を振った。
「いや、ありえないだろう。そんなこと……馬鹿馬鹿しいことを考えるな!」
思わず口をついて出てしまうくらい、カルロは混乱の
しばらくの間、放心していた。
そしてマリアが戻ってくるかもしれないと思い、ブローチが包まれたハンカチを元の場所に戻す。
(もしこれが本当に彼女の物なら、忘れ物に気付いて取りにくるかもしれない)
そうして半信半疑のままソファーに座って待っていると、マリアが息を切らしながら扉から入ってきた。
「カ、ルロ……様……」
マリアはひどく驚いたような表情をした後、気まずげに視線を
カルロは
「マリア、どうしました?」
「あ、いえ……何でもないです」
そう言いながらもチラチラと机の上を確認している。
その瞳に『もし中を見られていたら……』と不安が混じっているように見えた。
カルロは知らんぷりを
そして早足で扉の前で一礼すると、静かに出て行ってしまった。
カルロは不思議な確信を
(こんなところにいたのか……マリー……)
心の底から喜びが込み上げてくる。感情があふれてきて、目の端がにじんだ。
その時、扉がノックされてカルロの手下の諜報員が入ってきた。
「カルロ様、
「もしかして、マリーとマリアは別人だった――という話ですか?」
カルロの言葉に、男は驚いたように目を見開く。
「
そうして続く報告は、カルロの予想通りのものだった。
シュトレイン伯爵家の使用人から密告されたそれは、マリアが家出をしてそっくりの赤の他人である『マリー』が『マリア』に成り代わっているという話だ。
『マリー』という少女は、
彼女は育ての親である娼館の女主人に多額の借金をしていたが、それをカタにテーレン商会の
しかしシュトレイン伯爵家から資金
同時に社交界で話題の【織姫】はマリーだった、ということも判明した。
人が
(マリーは借金のせいで、
そう思うと、カルロは胸がぎゅうと引き絞られるような痛みを覚えた。
(このままにしてはおけない……)
いずれギルアンとかいう商人の息子には相応の
(マリー……今度は僕が君を助けるから)
そうカルロは心に
馬車に乗って足早に伯爵家に帰るマリーの姿を窓から眺めながら、カルロは窓ガラスに映る彼女の背中をなぞる。
「ようやく君に会えた……」
もう思い出したくないと思いつつ捨てられなかった十年前の記憶が
◇◆◇
「カルロ殿下、少しお休みになられた方がよろしいかと……」
そう声をかけてきたのは、従者だった。グラウローゲン
顔なじみの従者の顔には心配そうな色がある。
この頃、カルロは日々の
「……僕には休んでいる時間はないんです」
カルロはそうこぼして羽ペンを動かす。
兄のグレンが
カルロより九歳年上のグレンは、十七歳にして帝国の
それでカルロはグレンの代役として立太子され、重責を負わされることになったのだ。
(本当に兄さんは余計なことばかり僕に
カルロは第二王子として兄をサポートするよう育てられてきたのに、いきなり次期
「カルロ様がグレン様に追いつこうと
従者の一言にカルロは
「……もう良いです。さがってください」
「しかし……」
「これは命令です」
いつもより強めに言えば、従者は息を
本当は
カルロはぐしゃりと黒髪を掻きむしる。
誰もが自分に期待をしていた。――それが
「本当に腹立たしい……です、ね……」
うっかり素が出そうになって、
誰に対しても
その代役になるのだから、兄のようにならなくてはいけない。
(そう両親も周囲も期待している……)
深くため息を落とした時、政務室がノックされた。
「カルロ、お前ずいぶんと根を
そう言って近付いてきたアーネストはカルロの肩を抱いて、なぜか頬にもう一方の
アーネストの手を振り
「何の用ですか、アーネスト叔父さん」
「知っているか、カルロ。今日が何の日か?」
「何の日かって……」
ふいに、カルロの脳内で兄グレンの声が
昨年の兄の言葉を思い出して口をつぐむ。首元につけたタキシナイトのブローチに
「……妖精降臨祭でしょう?」
「そう。だから、こっそり城下に出かけようぜ」
グラウローゲン帝国の妖精降臨祭は前夜祭、後夜祭あわせて三日間行われる。この間は国民の祝日となり、各地でパーティが行われていた。
例年、宮殿でもパーティは開いていたのだが、三か月前に皇太子のグレンが亡くなってしまったことから
「……今は
そうカルロは固辞したが、アーネストは
「良い
大方、最近のカルロの様子を心配した皇帝夫妻がアーネストに
(……仕方ないな)
「分かりました」
カルロは
たくさんの人々が行きかう、夕暮れ時の
カルロは叔父のアーネストに連れられて、護衛も連れず庶民の格好をして城下町にやってきていた。
妖精降臨祭の時だけは、帝国内では仮装が許されている。カルロも今は目元だけ仮面
大通りを歩く人の中にはおかしな鳥の仮面をつけている人や、バケツをかぶってブリキの人形になりきっている子供、
式典以外では宮殿からほとんど出たことがなかったカルロにとって、下町の光景は非常に興味深いものだった。
「ほら、ちんたら歩いていたら迷子になるぞ」
そう振り返りながらアーネストは言う。アーネストの目元にもクジャクの羽のついた派手なマスクが
「お前を迷子にしてしまったら、
「はいはい。アーネスト叔父さん、どこへ行くんですか?」
「フッフッフ……良いところだ。お前もそろそろ大人の遊びを知るべきだろう。陛下には
アーネストはニヤついている。
叔父は若い時から
しかしカルロの予想に反して、アーネストが向かったのは大通りにある
「【ショコラール】……? 大人の遊びって、ここのことですか?」
半分安堵と
(ここって、確かシュトレイン伯爵家が開いたチョコレート専門店だったよな……)
チョコレートはスパイスを加えた苦い飲み物というのが
カルロはアーネストと同じく、一番人気のオレンジピールとシナモンが入った飲み物を選ぶ。
メイドが置いていったカップを口に
「……
「だろう?」
アーネストは
カルロはわずかに笑みをこぼした。
自分と同じように
しかし、それから間もなく一人の女性がやってきて、背後からアーネストに抱きついた。
「こんにちは、
そうアーネストに向かって言ったのは、黒い羽の仮面と
「いいや、いま来たばかりだよ。ハニー」
そう言って、アーネストは彼女と口付けした。
まさか目の前で叔父と見知らぬ女性の濃厚なキスが行われると思っていなかったので、目のやり場に困ってカルロは視線を窓の外に向ける。
「あら、この子がアーネストの言っていた男の子ね?」
「そうだよ、ローザ。――カルロ、彼女が俺の
そうアーネストに
「どうぞ、よろしくお願いするわね。今日は
そう言って、ローザは自分の背後に隠れていた少女を手招いた。
「……カルロです」
そう自己紹介しながらも、これはいったい何なんだろうとカルロは
「ちょ……っ、ちょっと! 叔父さん、どこへ行くんです!?」
「あ~、悪りぃ悪りぃ。お前はここでマリーちゃんと、ゆっくり話でもしていてくれ。
「大人の話し合いって……そんな……」
カルロは
(前々から、ちゃらんぽらんな叔父だと思ってはいたけど、まさかここまでとは……)
カルロは八
皇帝から直々にカルロの面倒を見るように任されたはずの叔父は、その役目を放り捨てて恋人と遊びに出かけてしまったのである。カルロは大人のこずるさを知った。
(後で父上に言いつけてやろうかな……)
立ち
「ごめんなさい。私じゃあ、お話し相手にはならないかもしれないけど……」
「あ……いや、そんなことはありませんが……」
カルロは変に気を
そのまま立っていても仕方ないので、カルロはソファーに座り込む。ずっと仮面をつけたままなのも
向かいの席におそるおそるといった風に少女が
(ハァ……どうせ待たなきゃいけないなら店の外の
窓の外ではガス灯が馬車道を照らしている。仮装した子供達がランタンを
気まずい空気が
「さっきの女性は君の知り合いですか?」
「えっ、えっと……そう。
なぜか不自然な間があった。
少女の目は不自然に
(もしかして
しかし何のためなのかは分からないが……。
(まあ、良いか。どうせ今だけの関係だ。深入りする必要はない)
カルロはそう思い、カップに口をつけようとした――その瞬間、手がすべってしまい、ほとんど残っていたカップの中身がトラウザーズにこぼれてしまった。
信じられないような失態に頭の中が真っ白になる。
「あっ、
そう心配そうに
(ああ……最悪だ……)
まだ水だったら良かったのかもしれない。いや水でも嫌だが、時間が
(どうしよう……)
叔父が帰ってきた時に起きたことを伝えてトラウザーズを買ってきてもらうか。
しかし、そんなことをすれば叔父に『漏らしたのか』と、からかわれてしまうだろう。それは
洗ったとしても
今だってカルロの弟やいとこを、皇太子に
(もし『カルロ様は八歳にもなってお漏らしを……』なんて噂が立ってしまったら、どうしよう……)
「もう兄のように
あまりの情けなさに目が
「だ、大丈夫だよっ! 洗えば綺麗になるから! こっちにきて」
マリーは慌てた様子でそう言うと、自分がまとっていたローブを
彼女はカルロの手を引っ張って、手洗い場へ向かう。そして何を思ったか、そのまま女性用トイレにカルロを連れ込もうとした。
「ちょっ……! ここは女性用じゃないか!」
まだ八歳とはいえカルロにも性差は分かるし、
「今は仕方ないの! 大丈夫、あなたは女の子みたいな顔をしているから、しゃべらなければ男の子だって分からないわ」
「フォローになってない!」
そう言いつつ、マリーにトイレの個室に押し込まれた。カルロは誰かに見られるのではないかと気が気ではなくて周囲を警戒してしまう。だが幸い、その時は人目はなかった。
「なっ、何をする気なんだ?
「カルロ、ズボンを脱いで。下着も」
「え?」
「私が洗うわ。ちょうど手洗い場に
そう言って、マリーは手洗い場の方を指差す。
確かに高級店らしく石鹸まで用意されていた。庶民の店ではないのが
「しかし洗っても汚れは取れないだろう……」
「良いの? 洗わなくて」
マリーにきょとんとして問われて、カルロはぐっと言葉に詰まった。茶色に汚れているよりは水に濡れた状態の方がマシだ。
(でも知り合って間もない少女にズボンと下着を脱いで
それもかなり
内心
マリーはそれを受け取ると、手慣れた動作で洗い始めた。何度かこすったり
「良かったぁ。これなら落ちると思ったんだよね」
「え……すごいな」
洗い物は普段は使用人任せなカルロも、チョコレートのような汚れは落ちにくいことは知っている。だから少女の
マリーは鼻の下をこすりながら、エヘンと胸を張る。
「えへへ。いつも洗い物してるからね。コツがあるんだよ。はい、どうぞ」
「あ、あぁ……ありがとう」
カルロはトラウザーズと下着を受け取った。よく
(しかし、この後はどうすれば……)
カルロは
「じつはね、そのローブには、おまじないがしてあるの。本当は寒さ対策のために暖かくなるようにしたんだけど……きっと身につけていたら
マリーはそう訳が分からないことを言った。
(
妖精降臨祭の間は、妖精が人の姿をして街に降りてくるのだという。マリーは役になりきっているのだろう。
カルロはそう納得して、
(まあ、
そう思い、カルロは個室で濡れた下着とトラウザーズを穿き、その上からローブをまとった。
不思議と温かい風がローブの中に
ぐっしょりと濡れた下着とトラウザーズは気持ち悪いかもしれないと不安だったが、思っていたより穿きにくくも不快でもなかった。
「良かった。妖精さん
マリーは
不思議に思っていると、彼女はカルロの手を取って、
「ねえ、おじさん達もまだしばらく帰ってこないだろうから、こっそり抜け出して遊ばない?」
「え? ここを抜け出すのか?」
「うん、大丈夫。私はこの街に
そう悪戯めいた笑みを浮かべるマリーに、カルロはドキリとする。
(そうだ。どうせ
そう思い、カルロは笑みを浮かべた。
「その話、乗った」
ここしばらく忘れていた、年相応の笑顔で。
喫茶店のメイドに事情を話し、代金だけ
マリーと向かった広場には焼きリンゴや、ソーセージ、