その時、どこかでとびらが開いた音が聞こえる。視線を転じると、扉の前で赤い顔をしたメイドがこちらを見つめていた。ワゴンにはティーセットが載っている。

「あ……っ」

 思わずマリーの口から声がれた。見られているしゆうしんから、顔面が一気に熱をおびる。しかし、すぐに視界をさえぎるようにカルロに正面を向かされた。

「……よくをする余裕がありますね」

「カ、カルロ殿下……あ、あの、見られていますし……ちょっとこの体勢は……!」

 カルロの訳が分からない態度で思考は大混乱していた。

(もう帰りたい……っ!)

 カルロはくちびるの前で人差し指を立てると、ぼうぜんと赤い顔で見つめていたメイドに向かって言った。

「これはただのこんやくしやとのたわむれですので。それはそこに置いておいてください」

「は、はいっ! 失礼いたしました!」

 ハッとした様子で、メイドは慌てて扉を閉めて出て行った。

 マリーはあんの息を漏らしたが、すぐにそんな場合ではないことに気付く。カルロに押し倒されているのだ。

「あ……ごめんなさい……っ、その、放して……」

 えきれなくなりなみだごえでそうマリーがうつたえると、カルロが瞠目してわずかに身を引いた。

「……どうしたんです? マリア、やっぱりどこかおかしいんじゃないですか?」

「おかしくはないです! おかしいのは、カルロ様の方じゃないですかっ!?

 マリーは混乱して、そうさけんだ。

 最近のカルロはマリアのことにいつさいの興味がないと聞いていたのに、この二重人格のような態度はどういうことなのか。マリアへのしゆうちやくかくせていない。

「確かに……先ほどの僕はなんだか……おかしかった、ですね。すみません……冷静さを欠いていました」

 しばしみような沈黙が落ちた。

 カルロは自分でも戸惑っているのか、口元を手で覆って視線を泳がせている。今は完全にいつもの落ち着いたかれもどっているように見えた。

(やっぱり、カルロ様はマリア様のことを愛しているんだわ……)

 そうでなければろうぜきを働くマリアを許してまで婚約者でいる理由がない。

 マリーは泣きたい気持ちでたずねた。

「どうして、カルロ様は婚約解消をしようとなさらないのですか? マリアさ……いえ、私は、カルロ様にきらわれるようなことばかりしてきたのに」

 マリーはそう言って、そっぽを向く。ふとすればなみだあふれそうになるのをそうとしたのだ。

「……知りたいですか? 僕がどうしてかたくなに君と婚約したままにしているのか。どんなにいやを言われたり、いやがらせをされても婚約解消しない理由」

 カルロの感情の読めない表情にひるんで、マリーは後ずさりしようとした。だが、押し倒されている今の状況では逃げることができない。

 それなのにカルロが距離を詰めてきた。

 カルロはマリーの耳元でため息を漏らし、ちよう気味に笑う。

「先ほどの答えです。別れてあげた方が良いことは分かっていても、どうしても手放せなかったんです。……本当におろかしいですね。幼い頃の思い出に引きずられて、ひどい仕打ちをされ続けても、初恋の未練を捨てきれないなんて……」

「初恋の未練……?」

 マリーは放心して、つぶやいた。カルロは顔をゆがめて笑う。

「数年前……再会した君は僕のことを一切覚えていなくて、別の男に夢中でした。……僕は手ひどいしつれんをしたという訳です。……でも、君をなおに海賊王にくれてやれるほど僕はできた人間ではなかったので。だから婚約解消はしてあげなかったんです」

(そんなにマリア様のことを愛しているのね……)

 カルロのおもいの強さにマリーは打ちのめされた。

「で……でも、それは歪んでいると思います。愛する相手の幸せを願ってこそ、愛だと……」

 マリーの言葉に、カルロはまゆを寄せて皮肉げに笑う。

「歪んでいる……? 確かにそうですね。でも仕方ないと思いませんか? 自分にとって特別な思い出でも、相手にとってはおくすみにも残らないような価値のない――ゴミくずのようなものだと知ったらんでしまうでしょう。その上、大切にしていたものを初恋の相手にプレゼントしたのに『そんなものは知らない』と言われて、簡単に捨てられてしまったのだと知ったら?」

(プレゼント……? マリア様はカルロ様に何か渡されたのに、なくしてしまったのかしら……?)

 マリーの困惑した表情を見て、カルロは不快そうに眉根を寄せる。

「今さら、そんな申し訳なさそうな顔をしないでくださいよ。もう、君には何の期待もしていません。長年レンディス、レンディスと言われ続けて、とっくの昔に百年の愛も冷めましたので」

(それなのに婚約解消しようとしないのは……マリア様への未練ということ……なのね)

 彼は自分がじゆんしたことを話していることに気付いていないのだろう。

 マリーは胸が苦しくなる。

「ごめんなさい……」

 本来なら、部外者の自分が別れ話をするだなんて、失礼にもほどがある。

 居たたまれなさを覚えて、マリーは身を縮めた。

「何についてあやまっているんですか? プレゼントをなくしたこと? 約束を違えたこと? それとも他の男を好きになってしまったことですか? どちらにせよ、今になって謝られても困りますよ。それにマリア、君は僕に謝罪するような人間ではないじゃないですか。本ッ当、……この前から調子が狂う」

 カルロは髪をき回してから立ち上がった。

 マリーは身を起こしてからカルロに一礼する。

「……失礼します」

 その場の空気に耐えきれず、立ち去った。

 机の上に、ハンカチに包んだお守りの黄色いブローチを置きっぱなしにしていることに気付かないまま。




(しまった! ブローチを部屋に忘れてきちゃった……!)

 マリーはこうしつえをしようとしたところで、己の失態に気付き青ざめた。脳内は大混乱だ。

(私、どうしてブローチ持ってきちゃったの……!?

 部屋の机の引き出しにっておけば良かったのに、習慣がけきらなかったのだ。十年間、ずっとお守り代わりにしてきたから、そばに持っていないと不安で。それが裏目に出るなんて思わなかった。

(よりによって今日やらかしてしまうなんて……!)

 妃教育の夜会用のドレスに着替えて、なくしてはいけないとハンカチで包んで机の上に置いておいたのだ。夜会用のドレスにはポケットがなかったから。

(い、いや……、きっとカルロ様はもう部屋から出ているはず……)

 あのブローチはマリーが幼いカルロからプレゼントされたもので、マリアに贈られたものではない。だからカルロに見つかったらまずいのだ。

 おそらくブローチのことをカルロはもう覚えてないだろうけれど、万が一ということもある。見つかってり聞かれるとボロが出してしまいかねない。

 マリーは慌てて先ほどの部屋にけ込む。

 しかし残念ながらカルロはまだ部屋にいた。うれいを帯びた表情でソファーにすわっている。

「カ、ルロ……様……」

 マリーは息を切らしながら、彼の顔を見て心臓が激しくどうするのを感じた。

(見られた……?)

 だが、彼はいつもと変わらない穏やかな笑みで、

「マリア、どうしました?」

 と尋ねてくる。そのこわに動揺はない。

「あ、いえ……何でもないです」

 マリーはそう答えて、落ち着きなく机に視線を走らせる。

(ど、どうしよう。取り戻したいけど……)

 万が一、ハンカチに包まれていた中身を見られていたら……?

 見た目でも少しふくらみがあるのが分かるし、さわればかたかんしよくが手に当たるから何かが隠してあることはすぐに気付くはずだ。それなら自分の物じゃない振りをした方が良いのかもしれない。

(いや、もしかしたらカルロ様がまだ見ていない可能性もあるし……)

 もしかくにんしていたら、こんな無関心な態度は取れないだろう。カルロは先ほどマリーに声を掛けてきたきり、ずっと考え事でもしているかのように窓の外をながめている。

 マリーはかくを決め、そろりそろりとしのあしで歩き、机の上のハンカチをそっと手にした。

 その後はできるだけ早く扉の前に戻り、一礼して出て行く。

(良かった! カルロ様はハンカチを見ていなかったんだわ……!)

 そう安堵した。もし確認していたら何か言わずにいられないはずだ。あんな態度は取れないだろう。

 マリーはそう思い、完全に油断してしまった。

 これからカルロの激しい執着が己に向けられることになるとは、まったく思いもせずに。