そう思うと、マリーにはそれ以上断るという
「……わ、分かりました」
「ありがとう! 感謝する!」
エマは
マリーはおずおずと言う。
「ただ、私は貴族ではありませんし……演じきれるか自信はありません」
花街の女王だった母親から幼い
「貴族女性の知識は……そんなに気にしなくて良い。マリアは馬鹿なんだ!」
そうエマが自信を持って言うので、マリーは戸惑ってしまう。
(え……?
「そ、そうですか……? それなら安心? ですね……」
困惑しながらも、マリーはそう言う他なかった。
「それで謝礼金の話だが、いくら必要だろうか。
そう切り出したエマに、マリーはおそるおそる言う。
「で、では、もしかして……三億五千ジニーでも大丈夫ですか……?」
(さすがに高すぎて
マリーは不安に思った。全額でなくても良いから、一部だけでも負担してもらえたら助かるのだが……。
エマは「ふむ……」と思案するように
「それだけで良いのか? ロジャー、すぐに銀行へ行って三億五千ジニーを用意してくれ」
「えぇ!?
マリーは
エマは不思議そうに眉を上げた。
「なんだ? 君が言ったんじゃないか」
「そっ、そうですけど……」
そんなにあっさり支払ってもらえるとは予想外だった。
「なぁに。心配するな。我が伯爵家の財産は
マリーは
ロジャーが眼鏡のブリッジを押し上げながら言った。
「マリー様。こちらでお金はご用意させていただきますので、ご安心ください。……ところで
そう
幼少期に
「なるほど……そのギルアンとかいう男は
「エマお嬢様、言葉が
主の吐き捨てた言葉に、ロジャーは眼鏡を押し上げながら同調する。
「とりあえずはマリーの借金はこちらが
「そうですね……しかし黙ってお金を払ってやるだけなのは
エマとロジャーが悪い顔で笑っている。
その
「あ、あの何を……?」
「安心しろ。伯爵家の名にかけて、恩人の君に不便をさせるつもりはない。――もしマリアを
そうエマに問われて、ビックリした。あまりにもマリーに都合が良すぎる契約だ。
(新しい土地で……誰も私のことを知らない場所で生きていく?)
それは夢のような生活だった。自分のお店も開けるかもしれない。
胸が
エマは満足げに笑った。
「よし、
そうエマが言って立ち上がった時、マリーは今引き受けている仕事のことをふいに思い出し慌てた。
「あっ、あの……!」
「どうした?」
「あ、いえ……大変申し訳ないのですが……いま私のもとへ来ている
すでに三か月先の分まで依頼を受けてしまっている。マリーが突然仕事を
「おいおい、そんなに時間をかけていたら、君はギルアン・テーレンに良いようにされてしまうぞ。放っておけば良いだろう。どうせ辞めるなら、君に何の責任もないんだ。その女主人も他の
マリーはうつむく。エマの主張はもっともだった。
確かにそんな義理などないと言われたら、その通りなのかもしれない。
でもお客にマリーの事情は何の関係もないのだ。【
「お願いします。一か月ほどいただければ、作業も終わると思いますので……」
そうマリーは頭を下げる。
エマは
「分かった。マリーはなかなか
「……っ! はいっ! ありがとうございます!」
マリーは満面の
それからエマはすぐに銀行で大金を引き出し、マリーの借金を返済してしまった。
スカーレットはマリーを手放すことをかなり
あれよあれよという間に事が進んだ。荷物をまとめ、その時に会うことができたお姉さん達にはお別れの
(タイミング悪く出かけていたベティにお別れの挨拶ができなかったのは残念だけど……必ずまたいつか
お世話になった女性の顔を
伯爵家の人達にはすでに話が済んでいたらしく、エマの両親も邸のメイド達もマリーを
「こんな事態に巻き
申し訳なさそうにエマの父親――ローレンスは言った。その
「……まさか」
「え?」
マリーは
「いっ、いえ! 何でもないの。よろしくね、マリーちゃん」
エマは両親に向かって快活な
「自分に似た人間が世界に三人はいるとは言うが、世の中にこんなにマリアにそっくりな相手が本当にいるなんて驚きだよな」
「そ、そうね……」
ヘレナは、そうぎこちない笑顔でうなずく。
マリーは首を
突然ヘレナが勢い良くマリーの手を握ってきて、マリーは目を丸くする。
「マリーちゃん、これからはそんな他人
そう言われて、マリーは戸惑いつつも
「はい、お母様……」
「私のことは『お姉様』だ。父のことは『お父様』と呼んでくれ」
エマはそう言った。
マリーの父親ローレンスが、
「お
ローレンスの言葉にヘレナも首肯する。夫妻は娘の家出のためか、少しやつれた顔をしていたが
「あ、ありがとうございます……! お世話になります……!」
まさかここまで歓迎してもらえるとは思っておらず、マリーの胸があたたかいもので満たされる。
これから、『マリア』になりきるのだ。これまでしたことのない勉強ばかりで大変だろうけれど、この優しい人達のためにも
◇◆◇
「マリー、
そう心配そうにエマから声をかけられて、マリーはハッとして顔を上げる。
ティーカップを手に持ったまま、つい物思いに
「大丈夫です。以前のことを思い出してしまって……」
マリーはそう苦笑した。
ほんの一か月ほど前までは、まったく違う生活をしていたのだ。それを
三日後には皇宮でパーティがあり、初めて婚約者である皇太子と顔を合わせることになっている。考えるだけで緊張してしまうが、この一か月間の訓練のおかげで多少貴族令嬢の
今は伯爵家の中庭のガゼボでエマと午後のティータイムを取っているところだった。
三段のケーキスタンドにはスコーンやプチケーキ、サンドイッチが並べられ、庭園の
サンドイッチにはベーコンと
「娼館がどうなったか気になるのかい?」
エマにそう問われて、マリーは少し視線を落としてからうなずく。
「少し……気になります」
戻りたいという感情も
エマは
『織姫が
それはスカーレットの仕立屋の経営が傾いているという記事だった。
「これは……?」
「どうやら【織姫】が
「そう……なんですか?」
マリーは驚いた。自分がいなくなったことで、こんなに新聞で
エマは紅茶に砂糖を三つ入れてスプーンで
「君は仕事を一人でしていたから、なかなか全ての依頼を引き受けることはできなかったんだろう? 調べたところ【織姫】目当てに仕立屋にやってきた客は、スカーレットの話術に負けて、スカーレットに
つまり【織姫】効果で仕立屋が
「しかし
マリーは
(仕立屋の方はともかく、どうして娼館まで
妖精が住む場所には祝福が
ふと中庭の薔薇とたわむれる妖精達が視界に入った。
(え!? 娼館にいた子達、皆いる!? まさか私が
その時、マリーは母親に言われた言葉を思い出す。
『マリーは【妖精の
マリーは
内心
「食べたまえ。美味しいぞ」
エマにうながされ、マリーはクッキーをつまんで口に運んだ。
料理長が焼いてくれたそれは、サックリとした歯ごたえで、ほのかに甘い。バターの香りが口いっぱいに広がる。こんなに美味しいものは娼館にいた頃はめったに食べられなかった。甘いものを食べると気持ちが落ち着いていく。
「……それでは、スカーレットさんはお店を
マリーの小さな
「このままだとそうなるだろうな。残念か?」
しばらく考えた後、マリーは首を振った。
マリーが去ったとしても、スカーレットが好かれていれば妖精
マリー自身に欲はないが、それでもスカーレットのやり方にうなずくことはできない。
顔を合わせたことはないが、きっと雇われていたお針子達も給金を満足いくほどもらえていないだろう。スカーレットは多くの人から
「……スカーレットさんのやり方には賛成できません。やはり正当な
エマはうなずく。
「そうだな。自分で
近付いてきた妖精がマリーの指先に乗る。エマは首を傾げながら「指がどうかしたのか?」と聞いてくる。妖精が見えていないのだ。
「いえ……え? え?」
顔見知りの妖精と初対面の妖精が四人ほどマリーの服の
「えっと……」
マリーは困りながら立ち上がる。妖精達があっちへ行ってみろ、と
彼らは
「マリー? どうした?」
エマとロジャーが不思議そうな顔をしていた。
マリーは「ちょっと散歩に行ってみたくなって」と
(妖精達のことはお母さんに秘密にしなさい、と言われているもの)
彼らを見ることができる人間はごくわずかだ。妖精のことを話せばマリーは変な子だと思われてしまう。
エマは立ち上がりながら言う。
「そうか。それじゃあ、私が案内しよう……って、マリー!? 散歩というスピードじゃないぞ!!」
「わ、わわっ!」
妖精達に引っ張られるようにして、マリーは別館の方に足をもつらせながら向かった。
(な、なに……?)
気分屋の妖精達がこんなに
「おや? 中に入りますかな?」
別館の近くで庭作業をしていた男性がマリーの姿を認めて、
「あっ、ありがとうございます……って、あああ~!」
マリーがお礼を言う間もほとんどなく、妖精達に引っ張られてマリーは一階の一室に入った。
(い、良いのかな。勝手に入っちゃって……)
マリーは戸惑いながら部屋の中を見回す。そこはあまり使われていないようで、
「あれ? これはピアノじゃない……?」
妖精が布を引っ張ろうとしていたので、マリーが代わりにその布をめくると、そこには見慣れた機織り機があった。マリーが娼館で使っていたものと大差なさそうだ。それほど古い物ではない。
「ああ、それは我が家が経営している機織り工場で使っていた機械の見本だな。もう十年以上前の古いものだが……まだ残っていたのか」
追いついてきたエマが息を切らせながら言う。後ろに続いている執事のロジャーは
「糸や針もずいぶん残っていますね」
壁際にあった
マリーが機織り機に
「動かしてみても良いですか?」
マリーがエマに問うと、びっくりしたようにエマは首肯する。
「ああ、もちろん構わないが……動かせるのか?」
マリーが
「とても良いですね」
マリーは満面の笑みで、エマに向かって言った。
娼館から持ってくることができなかった機織り機のことがマリーは気になっていた。布を織る時に機織り機は必要になるが、大きすぎて運んでこられなかったから。本音では残念でならなかった。
「気に入ったなら、この部屋のものは好きに使うと良い。部屋も
「本当ですか! ありがとうございます!」
エマの言葉に、マリーは飛び
こんなところで機織り機と
スカーレットの店で引き受けた仕立ての仕事は、これまでにマリーが織った布を使ってほとんどの物は完成できた。だが中にはどうしても新しく布を織らねばならないデザインもあり、どうしたものかと
「これからよろしくね」
そう言って機織り機をそっと
◇◆◇
皇宮のパーティーでカルロと再会した翌日、マリーはいつものように別館で機織りをしていた。すでにスカーレットの店で受注していた残りの仕事は終わり、今は