呆然とマリーはつぶやく。
ギルアンは耳を小指でほじりながらダルそうに言う。
「疑うならスカーレットに確認してみたらどうだ?」
その余裕の態度に、マリーはギルアンの言葉が真実だ、と察してしまった。
「三日後に、お前を迎えにくる。それまでに準備を整えておけ」
ギルアンにそう言われたが、頭が真っ白になってマリーは何も考えられない。
「じゅ、準備って……?」
「これからは俺の邸に一緒に住むんだ。家に来たら、もう二度と貧乏人がやるような針仕事なんてさせないようにしてやるから感謝しろ。女は旦那様を出迎えて満足させるだけが仕事だからな」
それは大好きな針仕事から引き離されるということだ。これまでのマリーの存在意義も否定するようなその言葉に、目の前が真っ暗になる。
「そんなことできない……! 嫌よ……ッ」
マリーは頭を振る。
春を売るなんてできるはずがない。しかも相手は世界で一番嫌いなギルアンだ。彼に毎日身も心も蹂躙されるのだと思うと、死んだ方がよっぽどマシに思えた。
「それが嫌なら借金を耳をそろえて返すんだな。俺がお前の借金を肩代わりしてやったんだ。これからは俺に誠心誠意尽くせよ。……そしたら可愛がってやらないこともない」
耳元でねっとりとそう囁かれて、マリーはぞわりと悪寒が走った。ギルアン相手にそんなことをされても気持ち悪い以外の感情が浮かばない。
ギルアンがご満悦といった様子で笑うと、ユサユサと腹の肉も一緒に踊った。
「せいぜい男の喜ばせ方でも勉強しておけ。ブスなお前でも、愛想を振りまくことくらいできるだろ」
マリーは決して不細工ではない。むしろ花街の女性の頂点に立っていた母親の美貌を濃く受け継いでおり、並外れた器量を持っている。しかし昔からギルアンの前では背を丸めてしまう癖があり、その重たい前髪によって生来の美しさの大部分は隠されていた。
ギルアンは去って行ったが、マリーは己の体を抱きしめて震えていた。
ベティはぐっと苦いものを飲み込んだような表情をしてから、マリーの手を取る。
「スカーレットのところに行こう。ギルアンの糞野郎の言っていることが本当かどうか問いただすんだよ!」
そしてスカーレットのもとまでやってくると、ベティが前のめりになって抗議する。
「いったいどういうことだい!? マリーをギルアンなんかに売るなんて! マリーがどれだけこの娼館に貢献してきたか知っているだろう!? 率先して下働きの子達がするような仕事もしてくれていたし、マリーの作ったドレスで仕立屋も繁盛していたじゃないか!」
書斎で煙管を吸っていたスカーレットは、不快そうに片眉をあげてフゥと白い煙をベティに吹き付ける。
「相手は四大貿易商のひとつ、テーレン商会長の息子のギルアン・テーレンだよ。商会に睨まれちゃあ、うちも商売がやりにくい。それに商会長もギルアンも、うちのお得意様だからねぇ。あれだけお金を積まれちゃ私だって嫌とは言えない。マリーの借金を支払っても余裕でおつりがくるんだから」
スカーレットのけだるげな言葉に、マリーの胸が塞がる。
「私には、できません……」
か細い声で、マリーはつぶやくように言う。
娼婦という仕事を下に見ている訳ではない。実際に母もそれでマリーを育ててくれた。
たとえ人から蔑まれるような職業であっても、マリーは母親を尊敬している。しかし身体を売る商売は病気にもなりやすく、若くして亡くなる者が多い。
母親はマリーにはそういう仕事をさせたくないと生前ずっと話していた。そんな母親の気持ちを裏切りたくなかった。
何より、ギルアンは男尊女卑の思想家で、言うことを聞かない女は殴ってでも分からせろ、という思想の持ち主だ。マリーは幼い頃から何度もギルアンに暴力を振るわれている。ギルアンが娼館で揉め事を起こすたびにギルアンの父親がスカーレットにお金を握らせて黙らせるのだ。そんなギルアン相手に身をゆだねるなんてできない。
「できる、できないじゃない! やるんだ。これは命令だよ! それが不満なら今すぐ借金を返すんだね! できないならガタガタ言うんじゃないよ!」
そう取り付く島もなくスカーレットは言い、マリー達は書斎から追い出されてしまった。
廊下でベティに「何もできなくて、ごめん」と申し訳なさそうに謝られてしまう。マリーは力なく首を振った。
「ううん。ありがとう、ベティ。……あと三日でお別れになってしまうのは寂しいけど、それまでよろしくね」
誰も頼れる者がいないこの娼館で、ベティはマリーに優しくしてくれた。きっと彼女がいなければ、ここまで耐えられなかっただろう。
マリーが無理やり作った笑顔を、ベティは悲壮感あふれる表情で見返していた。
マリーは下町を当てもなく歩きながら、物思いにふける。
今は石鹸などの生活必需品の買い出しのためと言い訳して娼館を出てきていた。実際は娼館の中が息苦しくて、外の空気を吸いたかっただけだ。
「……そろそろ帰らなきゃ」
マリーはぽつりとつぶやいた。
遅くなったらベティを心配させてしまう。スカーレットにも怪しまれる。すぐに誰かが捜しに来るだろう。
(……もし、このまま帰らなかったら)
逃げたい。けれど逃げ出したことがバレたら捕まって折檻される。追手もすぐに遣わされる。
だが三日後にはギルアンのもとに行かなければならないと思うと、どうしても娼館に戻る足が重くなってしまう。
せめて今引き受けている仕立ての仕事を終わらせたかったが、それも無理だろう。
マリーが引き受けている仕事は【織姫】に制作して欲しいという指名を受けたものだ。他の人が同じ図柄を織っても同じ物は作れない。
「でも……受注している仕事が終わるまで待っていて欲しいと頼んだって、ギルアンが受け入れてくれるはずがないわ……」
彼の性格をマリーはよく分かっていた。ギルアンはマリーの意思を考慮しない。
マリーが途方にくれて立ち止まった時――。
(貴族の馬車……?)
馬が駆ける音が響いていた。こんな細い裏通りの道に金馬車がやってくるのは珍しい。
マリーは馬車を通らせるために道端に寄る。馬車が目の前を通っていく際に、車窓の中にいた女性と偶然にも目が合った。
その直後、中から「停めろ!」と大声が響いて馬車が急ブレーキをかける。
馬が背中を反らして、いななきながら歩を止めた。
馬車の扉が勢いよく開き、タラップを落とす隙もなく中から二十歳くらいの女性が飛び出てきた。
彼女はまるで男性貴族のようなトラウザーズを穿いている。
マリーは驚いて彼女を見つめる。
(え? 女性……よね?)
どう見てもその美しい顔は女性のものだったが――。
彼女はとても貴族の子女とは思えないような駆け足で、マリーに近付いてきた。強く腕をつかまれてしまう。
「え……?」
その無遠慮さに驚きながら、自分を睨みつけている背の高い女性を見上げた。
「マリア! お前、こんなところで何をやっているんだ!!」
突然、まくしたてるように怒鳴られて、マリーは目を白黒させた。
(え? 知り合い? でも私には、お貴族様の知り合いなんていないわ)
混乱しながら記憶の中を探ってみても、知人にこのような男装の麗人はいない。
女性は大仰にため息を吐きながら言う。
「あんな置き手紙だけ残して家出するなんて、どうかしている! お前は一応、伯爵家の娘なんだぞ! 危険な目にあったらどうするつもりだったんだ!?」
「あ、あの……おそらく人違いで……」
マリーの声がか細かったせいか、女性には聞こえていないようだ。
「まあ、お前は昔から海賊王の花嫁になりたいとか馬鹿なことばかり言っていたが。漁港をいくら捜してもお前の手がかりが見つからなかった。まさかこんな下町で油を売っていたとはな。どうせ、またあのオッサンにつれなく振られて、気まずくて家に帰れなくなったんだろう。ああ、もうまったく! どうしようもない妹だ! さっさと邸に帰るぞ!」
早口で言われて、マリーは会話に口を挟める隙がなかった。
そのまま馬車まで連れ込まれそうになり、さすがに慌てて、その場に踏みとどまる。
「ちょっと待ってください! 私、そのマリア様って方ではないんです!」
「へ?」
マリーと女性はじっと見つめあった。
奇妙な沈黙を引き裂いたのは執事服の青年だった。
いつの間に近付いていたのだろう。とび色の髪を後ろに撫でつけている。二十歳を少し過ぎたくらいの年の、黒ぶち眼鏡の青年だ。
「エマお嬢様、この方はマリア様ではありません」
「はぁ? ロジャー、お前こんなそっくりな人間が他にいるっていうのか?」
ロジャーと呼ばれた青年はブリッジを人差し指で押し上げながら言う。
「お嬢様、わが主君エマ・シュトレインが大変失礼を致しました。どうかお許しください」
ロジャーにそう丁寧に腰を折られて、マリーは恐縮して首を振った。
「あっ……いっ、いえ! お気になさらず」
「お嬢様はお優しい方ですね。もし良かったら、お名前をお伺いしても?」
「私は……マリーと言います。苗字はありません」
彼女のその言葉に、エマが噛みつくように話に割り込んできた。
「ほらみろ、マリアだ! マリーだなんて名前まで似てるじゃないか! きっと偽名が思いつかなかったから苦しまぎれに名前をひねり出したんだろう」
ロジャーが半眼になってエマを見据える。
「マリーもマリアも、地域によって呼び名が違うだけで、同じ名前ですよ。よくある名前です。被ったからといって、同一人物と断定するのは横暴でしょう」
エマは疑いのこもった瞳で、じっとマリーを見つめてくる。
近しい位置から二人に凝視され、マリーは顔に熱が集まるのを感じた。しかも、この騒動を遠巻きに見ている者達もいるのだ。さすがに距離があるから周囲に声までは届いていないだろうが……。
「ふむ……確かに妙だな。おてんばな我が妹なら私を殴ってでも逃走を図っているところだ。それにアイツはこんなにお淑やかじゃない」
本物のマリアだったら憤慨するだろうことを言って、エマは納得してしまった。
「じゃあ、マリアは未だに行方知れずってことか……参ったな。この事態が皇家にバレたら大変なことになるっていうのに」
「エマお嬢様、しゃべりすぎですよ」
ロジャーは鋭く叱咤する。彼はその怜悧な瞳でマリーをじっと見つめた後、何やら思いついたような表情で、エマに耳打ちする。
続いてエマの「それは名案だ!」と言う声が聞こえた。
「あの……?」
戸惑っているマリーに、エマは笑顔で言った。
「なぁ、マリーとやら。私の妹、マリア・シュトレインの身代わりになってくれないか?」
「はい?」
要約すると、マリアは婚約者と結婚するのが嫌で逃げ出してしまったとのことだ。その相手が皇太子カルロなのだという。
その衝撃的な話を、マリーは【ショコラール】という喫茶店で聞いた。
この店は予約がないと入れない人気店だったが、エマが名前を出すとすぐに支配人が現れて、三人は上の階に案内されたのだ。
「ここの店は、シュトレイン伯爵家が出資しているんだ」
エマの言葉に、マリーは圧倒されてしまう。
吹き抜けになった広い店内には、ゆったりとした間隔でソファー席がもうけられている。一階は満席だったが、二階には他の客はいなかった。
(偶然だけど……また、このお店に来られて良かった……)
このお店は、マリーもまた来たいと思っていた。初恋の相手との思い出の場所だったから。しかし庶民では予約が取りにくいのと仕事の忙しさから十年間も来店できていなかった。
メイドが机に三人分のホットチョコレートを置いていった。このお店はチョコレート専門店だ。
厚めのカップに入れられた茶色の液体を口に含むと、シナモンの香りが鼻腔を抜けていく。砂糖の甘さとチョコレートの苦みが口いっぱいに広がる。それにホッとしながらマリーはエマの話に耳を傾けた。
十年前――シュトレイン伯爵家の次女マリアは八歳の時に家族でバレル海に行き、ならず者に襲われた時に海賊王レンディス・バークナイトに助けられた。それから二十歳も年上の海賊王に熱を上げてしまった。彼が現れるという噂の酒場を調べては通い詰め、しつこく求婚をしては振られるのを十八歳になるまで繰り返していたのだという。
「マリアは一言で言うと、猪突猛進な馬鹿なんだ。海賊王に『俺のような平民のオッサンに構ってないで、もっと年の近い貴族の坊やを見つけな。その方がお前も幸せになれる』って諫められても、逆に『素敵! 私の旦那様、格好良い~!』と燃え上がる始末で……」
エマは頭を抱える。よほどマリアのことで苦労しているようだ。
しかし、それから事態が急展開する。
マリアがこの帝国の皇太子カルロの婚約者に選ばれたのだ。それはカルロの強い希望で結ばれた縁だった。
エマは肩をすくめる。
「私も家族も全く知らないことだったんだが、カルロ皇子は十年ほど前にマリアにどこかで会って好意を抱いたようなんだ。マリアに聞いても『知らな~い。殿下って何言ってるのかよく分からないから。それよりレンディス様みたいな大人の男性って、どんなプレゼントをしたら喜ばれるかしら?』と全く興味なさそうだったが……まぁ、とにかく、両親がマリアの強い反対を押し切って、カルロ皇子との婚約を結んでしまったんだ。伯爵家からしたらこれ以上ない良縁だったからな」
エマは粗野な振る舞いに反して、貴族らしい優雅な所作でカップを口に運ぶ。
「子供の内なら『海賊王の嫁になりたい』と言うマリアの言動も、まだ笑い話で済む。だが、その熱意を抱いたまま成長してしまえば嫁ぎ先がなくなってしまうと両親も心配したのだろう。いずれマリアの初恋の熱も冷めると思っていたんだ……だがそうはならなかった」
エマは憂いを帯びた表情で続ける。
「マリアはどうにかカルロ皇子から婚約破棄してもらおうと躍起になって、皇子に幼稚な嫌がらせを繰り返した。伯爵家から破談の申し入れはできないからな。両親にも賛成してもらえなかったし。そのせいでマリアの周囲から人がいなくなってしまい、今では嫌われ者になってしまった。カルロ皇子は誰にでも人当たりがよく紳士的だが、段々マリアに愛想が尽きたのか今では冷たく接するようになった。まあ当たり前の話だがな」
(マリア様はカルロ皇子に嫌われようと、やることが過激になっていったのね……)
マリーは困惑ぎみに尋ねた。
「そんなに彼女から嫌がられていたのに、なぜカルロ様はマリア様と婚約解消しようとなさらなかったのでしょうか?」
普通に考えれば、そこまで嫌がる相手と結婚なんてしたくないはずだ。
エマはホットチョコレートを口に運びつつ、首をひねる。
「……さあな。まだ初恋に幻想を抱いていたのかもしれない。マリアは今年、皇宮に入ることになっていたんだ。だが二週間前に『私は海賊王レンディス様のお嫁さんになります。捜さないでください』と置き手紙をして家出してしまった」
エマとロジャーが重々しいため息を落とした。おてんばなお嬢様に振り回されている二人の気苦労が伝わってくる。
「伯爵家の醜聞だ。これが皇家に知られたら、我が家は終わる。だから私達はマリアが行方不明になったことは伏せて捜索していたが、港町のどこにもマリアの痕跡がなくてな……おそらく、この逃亡計画を長年マリアは水面下で周到に準備していたんだろう」
愛する人を一途に思うマリアの行動力はすごいが、周りの迷惑などおかまいなしだ。色んな意味で、あっけに取られてしまう。
「という訳で頼む! 妹が帰ってくるまでマリアの振りをしてくれないかッ!?」
エマに両手を掴まれて懇願される。
「え!? そっ、そんな……! 私がマリア様の振りをするだなんて、むっむむむ、無理ですよッ! 平民ですし!」
マリーは慌てて頭を振る。
「大丈夫だ! 本当に君はマリアにそっくりだ! 姉の私ですら横に並んでも判別できない。皇太子にそんなに頻繁に会う機会はないし、恐れる必要はない!」
「でっ、でも……」
マリーは混乱した。助けてあげたいのは山々だが、さすがに別人に成りすますのは荷が重すぎる。
「もう、これ以外の方法がないんだ。どうか、お願いだ。私達を助けて欲しい……! マリアが見つかるまでの時間稼ぎをしてくれるだけで良いから……!」
そう苦しそうにエマは言うと、深く頭を下げた。それにロジャーも静かに倣う。
マリーは慌てて立ち上がる。
「や、やめてくださいッ! 貴族の方に頭を下げられるなんて……っ」
「君が了承してくれるまで、私は頭を上げられない! 私達は君を頼ることしかできないんだ。妹が見つかったら本人が嫌がろうが縄にかけてでも連れ戻し、入れ替わりも終わりにする! 約束する! どうか、それまでの間お願いできないだろうか。もちろんタダでとは言わない。謝礼ならできる限りのことはするから!」
「そんな……」
マリーは震える指を握りしめた。
誰かの振りをするなんてとんでもないことだ。しかも相手は皇太子。発覚すれば不敬罪で斬首刑になってもおかしくない。
(でも、こんなに困っている人達を見捨てることなんてできない……私が見捨てたら、彼らは没落してしまうかもしれないし……)