おっさんがびじょ。 2 わるものVS異世界ブラック企業 (アース・スターノベル)

山田 まる


俺とおっさんのカオス極まりないある日の午後。



 それは、ある日の午後のこと。

 俺が部屋でゆっくりと過ごしていると、こんこん、とドアが鳴った。

秋良あきら青年、いるか?」

「イサトさん?」

 俺は首を傾げつつドアに向かう。

 確か今日の午後は倉庫の整理をして過ごすという風に聞いていたのだが。

 ガチャリとドアを開くと、その先には華麗にナース衣装を着こなしたイサトさんが立っていた。

 最近ではもうある程度慣れたのか、魔法少女よりはマシだという結論に落ち着いたのか、あまり抵抗なく赤ずきんとナース服をローテしているイサトさんである。

 俺自身も早くその域にまで達したいと思っているものの、現実はなかなか難しい。

 しばらく一緒にいればそういうものだと思うことも出来るのだが、こんな風に突然扉を開けた向こうにナース服で立っていられたりなどすると、どきりと鼓動が跳ねる。

 つい丈の短いナース服の裾と、ニーハイブーツの間の絶対領域に視線が吸い寄せられそうになるのをこらえつつ、俺はふーとこっそり息を吐いて心頭滅却の後、口を開いた。

「倉庫の整理、もう終わったのか?」

「ある程度は。ただちょっと、得体えたいの知れないものが結構多くてな。その辺をどうしようか君に相談しようと思って」

「……得体の知れないものって」

「実際得体が知れないのだから仕方がない」

 そう言って、イサトさんはごそごそとインベントリからアイテムを取り出すと、テーブルの上にそれらを並べ出した。やたら縦に長い壺やら、刀身のくねったナイフ、見事な装飾が施された小箱など、一見して普通のものではない感が漂っているものばかりである。

 これは確かに得体が知れない。

 俺はなんとなく壺を手に取ってみる。

 ゲーム時代であれば、カーソルを合わせればアイテム名が表示されたし、右クリックである程度の効能を調べることも出来たのだが……こっちの世界ではさすがにそんな便利な機能は存在していない。

「数はないんだよな?」

「うむ。それぞれ一個ずつしか入ってなかった」

「いろんな意味で危険だな」

「だよな」

 数が多くあるのなら、それは一般的に出回っているアイテムということだ。今手放して、今後必要になる時がきたとしてもすぐにまた新しく手に入れることが出来る。だが、数が少ないアイテム、特に一つしかないもの、となるとレア度が高い可能性がある。それこそ、1キャラクターにつき一つしか手に入れることが出来ないようなレアアイテムであるかもしれないのだ。そうなるとさすがに倉庫の肥やしになっているからといって簡単に手放すことは出来ない。

「それで、もしかしたら君が知ってるんじゃないかな、と思って持ってきてみたんだが」

「うーん……俺も見覚えがないな」

 全キャラ共通イベントで必要になるレアアイテムであれば、少なからず俺にも見覚えぐらいはありそうなのだが。もしかすると、~~職限定イベント、などで必要になってくるアイテムなのかもしれない。その辺になってくると、さすがに俺も網羅していない。

 俺は壺をテーブルに戻すと、今度は小箱を手にとってみる。

 ころん、と何かが動く感触が手に伝わってきた。

「あれ。これ、中に何か入ってないか?」

 軽く振ると、中からカタカタと小さな音が聞こえる。

「本当だ。もしかすると、中身がアイテムの本体とか?」

「かもな。開けてみるか?」

「うむ」

 俺はイサトさんの了承を得ると、見やすいように小箱をテーブルの上に置いてからその蓋に手をかけた。そっと蓋を持ち上げる。キィ、と軽く軋むような音をたてて開いた箱の中は布張りになっており、いくつかの窪みが設けられていた。ほとんどが空になっている中、片隅の二つだけ美しい虹色の宝石が納められている。


「──げ」

「うわ」


 その宝石に、見覚えがあった。

 というかこれ、トラップ極まりない。

「秋良、閉めろ!!

「ッ!」

 イサトさんの言葉を聞くまでもなく、俺は慌てて小箱の蓋をしめようとするものの──…それよりも先に、宝石と同じ色をした光がカッと瞬いた。

 強烈な虹色に染め抜かれて、視界だけでなく意識までが揺らぐ。

 くらりと感じた眩暈めまいにがくんと膝をつく。

「くっそ、」

 毒づきつつも意識が白み──…


*     *


 はッと意識が戻った。

 おそらくそう長い間ではないものの、一時的に意識が途絶えてしまっていたらしい。

 俺は緩く頭を振りながら身体を起こそうとして、その動きに合わせてゆらりと揺れる銀色に気付いた。厭な予感がする。というか厭な予感しかしない。

「…………」

 もう大概何が起きたのか理解はしているのだが、それを確認する勇気がなかなか持てなかった。

 が、いつまでも石化したかのように硬直しているわけにもいかない。俺は渋々と軋むような動きで視線を下に下ろす。

 床についている手は、明らかに俺のものではなかった。

 華奢な、滑らかな褐色の五指。

 つるりとした形の良い爪は、まるで小さな貝殻のような薄桃色だ。

 そこから繫がって伸びる腕も、しなやかに細く、明らかに俺のものではない。

「……勘弁してくれ」

 ぼやく言葉すら、耳に心地よい柔らかなイサトさんの声で響いた。

 噓だろ。いや本当マジで。勘弁してくれ。神様。頼む神様。

 このままでは俺はこういう状況におけるセオリーを実行してしまう。

 いや確認のためには仕方ないんだって。

 下心とかじゃないんだって。

 自分の身の上に起こってしまったハプニングを正しく認識するために必要不可欠な行為であって、古今東西全ての男ならこういう時するであろう行為なわけで俺が悪いわけじゃなくて、


「胸に触ったら記憶がなくなるまでドつきまわすぞ」


 怒気をはらんだ聞き覚えのある低い声が響いた。

 というか俺の声である。

 聞き覚えがあるようなのに、若干違って聞こえるのは他人の声として聞くからだろうか。

 ぎぎい、と軋むような動きで顔をあげると、そこにはヤンキー座りでメンチ切ってる大層人相の悪い男がいた。俺である。どう見ても俺である。俺であるはずなのだが、俺である時よりも人相が悪い上にその背後に殺気が滲んでいるようなのはどういうことだ。いや、俺のせいなんですけども。

 俺は渋々と胸にやりかけていた手を下ろした。

 くそう。限りなく状況のせいにしてナチュラルに触るチャンスだと思ったのに。

「えーと、聞かなくても大体わかるがイサトさんですよね?」

「うむ。そっちは秋良青年、だよな?」

 お互い自分の身体の中に入っているのが誰なのかを確認する。

 そのまましばし見つめ合った後、ほぼ同時に溜息をついて項垂うなだれた。

「しくじったな……あれ、入れ替わりの宝玉ほうぎよくじゃねーか」

「ゲーム内だと宝石が見える形のアイコンだったからな……」

 そうなのだ。

 先ほど俺が開けた小箱の中に入っていた虹色の宝石。

 その名を『入れ替わりの宝玉』と言う。

 箱を開き、光に触れると同時に発動し、その場にいる人間のアバター(外見)を一定時間入れ替えるというお遊びアイテムの一つである。ゲーム内では箱に納められた状態で虹色の宝石を見せる形のアイコンで表示されていたため、俺もイサトさんも外箱には見覚えがなかったのだ。

「これ、効果が続くのって10分ぐらいだっけ?」

「確か15分だったような気が」

「短いようで長いな」

 俺は半眼で呻く。

 この状況で一人であったなら、いろいろ妄想ゆめも広がるところなのだが、イサトさんという監視がいる以上悪いことは出来そうにない。ただおとなしく時間が過ぎるのを待つだけだとすると、15分というのは結構長い。

 俺はよっこらせ、と立ち上がろうとして……がくん、と足元がつんのめった。なんとか体勢を立て直そうとしたものの、足元が何故かおぼつかない上に、妙に身体が重い。自分の身体が自分の思う通りに動かない。いや、実際俺の身体ではないわけなのだが。状況を摑めないまま俺はそのまま前にべちゃりと無様に転び、ガンと床に膝を強打する。

「いってええええええ!」

「何やってんだ君」

 イサトさんに心底呆れたような半眼で見られてしまった。

 中に入っているのがイサトさんだとわかってはいても、自分自身にそんな顔を向けられると拳でぶん殴りたい衝動にかられる。いや、それよりも、だ。

「イサトさん、普段こんなの履いて動いてんのかすげえ」

 足元である。

 むちりとした太腿のあたりからつま先までを覆う黒革のニーハイブーツに備え付けられたヒールこそが、俺が体勢を崩した原因だった。普段イサトさんが何気なく履いているせいで気にしていなかったが、結構高さがある。かかとが地につかないというだけで、こんなにも不安定になるとは思わなかった。

「手を貸そう。立てるか?」

「な、なんとか」

 差し出されたイサトさんの手を取る。

 半ば持ち上げるようにして立たせてもらいながらも、俺の脚はがくがくと産まれたての小鹿のように震えている。

「そのブーツ、わりとヒールが太いので動きやすい方だと思っていたんだが」

「いやいやいや。よくこんなの履いて戦闘出来るな」

「乙女のたしなみです」

「……俺の顔で言われても」

「自分で違和感すごかった」

「だろうな」

 イサトさんはくつ、と喉を鳴らすように笑うと、俺の腰に腕を回して……そのままひょいと抱き上げた。

「ちょ、イサトさん!?

「いや、持てるかなと思ったら持てた。凄いな君」

「いやいやいやいや!」

 相手が自分自身の身体、ということもあってか、イサトさんの手つきに遠慮はない。

 中に入っているのが俺だから、ということもあるのかもしれない。

 が、逆に俺からすると俺自身の身体とはいえ、自分より図体のでかい男に抱きあげられてしまったかのようで非常に薄気味悪く、落ち着かない。何が悲しくて男にお姫様抱っこされなければならないのだ。しかも相手は自分自身である。心底厭そうな顔をしている俺に対して、イサトさんは対照的にものすごくたのしそうににんまりと笑みを浮かべている。

「腕力があるって素晴らしい」

「腕力にものを言わせるのは良くないと思います」

 普段から気安く女性に触れるようなことはしていないつもりだが、今後はもっと気を付けよう、としみじみ思ってしまった。

 イサトさんはしばらく感慨深そうに俺のことを抱いていたものの、やがてゆっくりとベッドへと座らせてくれた。

「ブーツ、脱げるか?」

「脱げると思う……、ってこれどうやって脱ぐんだ」

 すぽっと脚から引き抜こうと試みるものの、ぴっちりと肌を覆う黒革のブーツがそんな風に脱げるはずもない。どこかにジッパーがあるに違いないと、脚を曲げようとしたところを柔らかな黒革に阻まれた。ぐぬぬ、と俺が悪戦苦闘していると、イサトさんがふっと呆れたように笑うのが気配として伝わってきた。

「私が脱がせてあげよう」

「……お、おう」

 俺の外見で、イサトさんが俺の前に膝をつく。

「はい、脚こっちに乗せて」

「え」

 ぽん、と叩いて足を乗せるように指示されたのは、イサトさんの腿の上だった。

 いや、外見上は『俺』というべきだろうか。

 俺が呆然と瞬いていると、イサトさんはさっさと俺の足首を軽々と引っ摑んで腿の上へと乗せてしまった。だからさっきからイサトさんは腕力にものを言わせすぎである。ちらっと見やったベッドサイドの鏡には、『俺』が『イサトさん』の足元にひざまずき、その足を恭しく己の腿に乗せている様が映っている。なんだこれ。なんだこれ。

 どこにドギマギしていいのかわからないまま、顔が熱くなった。鏡に映ったイサトさんが動揺した様子で真っ赤に顔を火照ほてらせているのは非常に可愛らしいのだが、それが俺だと思うとなんだかもう死にたくなってくる。何やってんだ俺。なんだこの状況。

 イサトさんはといえば、俺のそんな葛藤には気づいてもいない様子で慣れた風に俺のブーツのジッパーをゆっくりと下ろしていく。『俺』が、てらりとした黒革をそっと『イサトさん』の生足から剝ぐように脱がせていく様子を鏡越しに見てしまってますます死にそうになった。なんで男に靴を脱がされて俺が恥じらわなければいけないのか。

「……しにたい」

「君はいきなり何を言いだしてるんだ。ほら、逆も」

「じ、自分で脱げるから!」

「ここまで来たら一緒だろう」

 逃げようとした足を軽々とひっ摑まれて、抵抗できなくなった。

 鬼に金棒、イサトさんに腕力。


 力ずく、いくない。


 やがて両足のブーツを脱がされる頃には、俺はぐったりとされるがままになっていた。

 普段イサトさんの体力の無さを笑っていたものの、こうして体験してみると笑えない。元の身体に戻ったら、とりあえずイサトさんに筋トレを提案した方が良いかもしれない。

 そんなことを考えている俺を余所よそに、イサトさんは脱がし終えたブーツをベッド脇に並べて立ち上がる。俺も素足になって動きやすくなったので、おそるおそるベッドから下りてみた。ぺたり、と裸足の裏に感じる木の床の感触は普段とそう変わらない。普通に立っている分にはそれほど違いは感じないようだった。着ているのがミニスカナース服であるせいか、下半身が妙に心もとなく感じる程度である。下穿いてない感が凄まじい。

「こうしてるとそんなに差は感じないんだけどな……って」

 イサトさんを振り返ったつもりで、俺の目に飛び込んできたのは『俺』の胸板だった。

 ぐ、と顔をあげて初めて顔が見える。

 でかい。

「……俺、でかいな」

「でかいぞ、君は。目線が高いのが新鮮で、それだけでちょっと楽しい」

 ふふん、とイサトさんは楽しそうに口角を持ち上げて俺の頭をぽんぽんと撫でる。

『俺』の顔であるはずなのに、そんな笑みはイサトさんらしさが滲んでいて、中身が違うだけで浮かべる表情にも差が出るもんなんだな、と思ってしまった。

 というか、俺はいろいろ大変だというのにイサトさんだけ楽しそうで大変悔しい。

 イサトさんにも少しばかり焦っていただきたいものだが、どうしたらぎゃふんと言わせられるだろうか。俺は少し考えた後、そっとインベントリへと手をやった。

 イサトさんと俺の肉体が入れ替わっているのなら、インベントリの中身もイサトさんのものであるはずである。

「あ、やっぱり」

 実際その通りで、ふっと目の前に浮かんだインベントリの中にはイサトさんの持ち物がずらりと並んでいた。その中から俺はマジ狩るしゃらんらを選んで取り出す。先日の黒薔薇ばらの庭での戦闘以来、しゃらんらはイサトさん預かりになっていたのである。

「おい、秋良」

「ふっふっふ、イサトさんだけ楽しそうなのもアレだからな。俺は俺で楽しもうと思います」

 魔法少女に変身してじっくり鑑賞してくれようと思う。

 黒薔薇の庭園ではそれほどじっくり眺めてもいられなかったのだ。

 俺自身は魔法スキルは持っていないが、先ほど腕力の差を感じた通り、今の俺とイサトさんは外見だけでなく外見に伴った能力値なども入れ替わっている。つまり、俺にでもこのマジ狩るしゃらんらを使って変身出来る可能性があるのだ。

「おいやめろ」

「ふふふふふふふふふ」

 じりじりと俺へとの距離を削るイサトさんから、円を描くような動きで逃げながら俺はしゃらんらを握る手に力を込めスキルを発動させようとして……

「……あ」

 スキルが分からないことに気が付いた。

 しまった。駄目じゃん。

 魔法スキルを使う時のコツというかそういったものが全くわからない。イメージだけでもスキルは発動させることが出来るので、イメージ次第ではその魔法スキルを使うことは出来るのかもしれないが……室内でやっても被害を出さずに済みそうなスキルに心当たりがない。俺が見たことのあるイサトさんの使える魔法スキルなんて、そのほとんどが攻撃魔法だ。

「ええと」

 諦め悪く記憶を探ろうとしているところで、

「全く、何をしようとしてるんだ」

 するりと接近したイサトさんに軽々としゃらんらを奪われてしまった。

 取り返そうとするものの、ひょいとしゃらんらを持った手をあげられてしまうとイサトさんの身体では手が届かなくなる。リーチの差が憎い。

「身体が大きいというのはかくも有利なものなんだなあ」

 しみじみとイサトさんが言う。

 そしてそこで一度言葉を切ったイサトさんは、にやりと口角を持ち上げた。

 もともと人相のよろしくない俺の顔でそんな表情を浮かべられると、至極悪役である。

「ところで──…、これ、私がこの状態で魔法スキル使ったら君の身体が大変なことになるんだろうか」

「おいやめろください」

「おや、君は私の魔法少女姿をいつだって見たがっていたじゃないか」

「それはそうだけど!!!!

 外見、というのは大事なファクターなのですよ、イサトさん。

 21歳ガチムチ男の魔法少女コスなんて誰が見たがりますか。

 それが自分ならばなおさら嫌だ。断固として拒否する。

「私は結構見たい」

「マジでやめてください」

「わりとガチのトーンで止められてる気がする」

「わりとじゃねえよ完全に本気だよ」

 どこまでも本気である。

 俺と能力値が入れ替わっているのならば、イサトさんの方だって現状は俺のステータスであるはずだ。そう考えると恐れる必要はないような気もするのだが……油断は出来ない。

 例えば、俺がイサトさんのステータスでありながら上手くスキルを使えなかったように、おそらくイサトさんは俺のステータスを所持していても大剣を使いこなすことは出来ないだろう。慣れの問題だ。大剣を振りまわす腕力を持ってはいても、イサトさんには経験がないから大剣を操れない。

 その逆に、俺は腕力はイサトさんのレベルまで落ちてはいるが、大剣を振りまわしての戦闘に関しての経験や知識はある。体力が尽きるまでは、木刀ぐらいならば振り回せるだろう。

 ならば。

 それならば。

 俺のごくわずかなMPでも、イサトさんであれば何らかの魔法を駆使することが出来るのではないだろうか。


 ぞわッと悪寒に背中の毛が逆立った。


 脳内に首から下にぴんく色のモザイクが乱舞した俺の図が描かれる。

 やばい。

 これはやばい。

 R100ぐらいに指定したい。

 というかグロ画像でいいんじゃないだろうか。

「イサトさん、落ち着け。落ち着くんだ。早まるんじゃない。深呼吸だ。それからそっとそのしゃらんらを置こうか」

「君が持ちだした癖に」

「反省してる。ものすごく。超反省してる。だからしゃらんら置こうか」

 タイムスリップが出来るものならば、あそこでしゃらんらを持ちだした自分自身の後頭部をぶん殴ってでも止めてやりたい。

「…………」

 むーとイサトさんが唇を尖らせる。

 普段であればなかなかに可愛らしい仕草なのだと思うが、俺の顔でやられるとやはり殺意しかわかなかった。腹立つなその顔。

「……まあ、仕方ない。紳士協定だ。君だって私の身体で好き放題するのは我慢してくれてるわけだしな。君が私の身体に対して紳士でいてくれる限り、私も君の身体に対しては紳士的な扱いを約束しよう」

 ふ、っと小さく息をつきつつ、イサトさんはようやくしゃらんらを下ろしてくれた。

 部屋の中に満ちていたお前を殺して俺も死ぬ、的な緊迫感が薄れていく。

 良かった。

 俺も深々と息を吐きつつベッドに腰を下ろした。

 たかだか数分の間にものすごく気力と体力を消耗した気がしてならない。

「後はおとなしく元に戻るのを待つか」

「そうだな」

 ぼす、とイサトさんが隣に腰掛ける。

 座ってもやはり、イサトさんの方が……というか俺の身体の方が目線が高い。

 普段見下ろすことの方が多いせいか、こうして見上げなければ顔が見えないというのは新鮮だ。

「イサトさんさ」

「ん?」

「普段首痛くならない?」

「そうでもないぞ。相当距離が近くなると別だが」

「ああ、そっか。近い方が角度が急になるのか」

「そうそう」

 なるほど。

 相手の身になって考える(物理)、である。

 と、そこでイサトさんがひょいと立ちあがった。

「なあなあ、秋良青年。戻る前に、私ちょっと試してみたいことがあるんだけれども」

「なんだ?」

「壁ドンしてみたい」

「ぶッ」

 噴いた。

 壁ドン、というのは少女漫画などでよくある構図で、男キャラが女の子を壁際に追い詰める際の構図の一つである。

「なんでまた……」

「いやだって、私と君の体格差って壁ドンにはちょうど良いぐらいじゃないか」

「えええええ……」

 確かにそうかもしれないが、いろいろと複雑である。

 何故俺が男(しかも自分)に迫られなければならないのか。

 だからといって身体が自分のものならそれで良いのかと言われれば、それはそれで変に意識してしまいそうでこっぱずかしい。そう考えるとお互いの身体が入れ替わっている今ぐらいじゃなければ、壁ドンなんてやってみようとは思えないのかもしれない。

「しゃらんら我慢したんだから、これぐらい付き合ってくれても良いだろう? こんな機会滅多にないぞ」

「……まあ、そりゃそうかもしれないけど。イサトさんのその壁ドンへの情熱はどこからくるんだ」

「職業病」

 即答された。

 そういえば、イサトさんは少女漫画の原作だとかを書いている人だっけか。

「壁ドン体験ツアー的なもので、される側は体験したことがあるんだ」

「なんだその珍妙なツアーは」

「あるんだよ、そういうのが。だからまあ、今度はする側を体験してみたい」

「……ええー」

 切々と説得されてしまった。

 ぐぬぬ、と俺が眉間に皺を寄せていると、イサトさんがふっと残念そうに目を伏せた。

 諦めたのだろうか、と思ったとたん。

「君がつきあってくれないのなら──…エリサにでも頼むか」

「おいやめろ人の身体で何すんだあんた」

 全力で引き留める。

 イサトさんは良いかもしれないが、元に戻った後エリサと顔が合わせられなくなる。

 そんなことになるぐらいなら、俺が付き合った方がまだマシだ。

 俺はしかめ面をしつつ、イサトさんに付き合ってベッドから立ち上がった。

「わかったよ、付き合う」

「君ならわかってくれると思っていた。ありがとう」

 イサトさんは満足そうににんまりと笑みを浮かべた。

『俺』に壁ドンされるというのは薄気味悪いものがあるが、確かにイサトさんの言うとおりこんな状況でもなければ体験できないことである。

 俺が壁を背に立つと、イサトさんは嬉しそうに壁に手をついたり腰に腕を回してみたりとし始めた。

 壁ドンである。

 身長差があるため、ぬっとイサトさんが俺に向かって顔を寄せると頭上から影が差して逃げ場がなくなる。なるほど。壁ドンというのはなかなか圧迫感が凄い。普通に顔を寄せられるよりも、「迫られてる感」を感じる。

 が、俺にしてみれば目の前にあるのは『俺の顔』でしかないわけだし、イサトさんにしてみても目の前にあるのは自分の顔、である。

 先ほどのように客観的に鏡でも見てしまえばキそうな光景ではあるものの、相手の顔しか見えないほどに密着してしまえば逆に感慨は薄い。

「どう、イサトさん」

「うーん何故だろう。目の前にあるのが自分の顔だと思うとカケラもときめかないし、自分の身体に触ってもそう楽しくない」

「だろうな」

 俺も同感である。

 ひたすら圧迫感しか感じない。

「ただ、思ってたより私の睫毛まつげが長くて今自分で感動してる」

「長いよな、イサトさん」

「うむ。ラクダっぽい」

 俺から見ると長い銀色の睫毛に縁どられた神秘的な瞳も、イサトさん本人からすると「ラクダっぽい」の一言で終わってしまうものらしい。

 と、そこで。

「ッ、……」

「……ッ」

 くらり、と眩暈がした。

 すぅ、と意識が遠のく。

 時間切れだ。

 これでようやく、元に──…


*     *


「…………」

「…………」

 ゆっくりと目を開けると、目の前にイサトさんの顔があった。

 ぼんやりと伏せ目がちの双眸に銀色の睫毛が柔らかに影を落としている。

 俺はといえばそんなイサトさんを壁際に追い詰めるように縫いとめていた。

 壁ドンである。

 まがうことなき壁ドンである。

 片腕を壁に添え、吐息が触れそうなほどに顔の位置が近い。

 もう片方の腕はといえばイサトさんの腰裏をぐっと引き寄せているし、それどころか、俺の片膝はイサトさんの脚の間にねじこまれている。


イサトさんあんたの身体で自分の身体にナニしてくれてんだ。


 視覚やら五感やらが本来の自分の肉体のものに切り替わったとたん、腕の中に抱き寄せた華奢な身体の柔らかさなどが伝わってきて、先ほどまでの冷静さが噓のように鼓動がガンガンと鳴り始めた。かああああ、と全身に熱が巡る。

 は、と驚いたようにこぼれたイサトさんの吐息が俺の唇を撫でていく。

「あ、秋良青年」

「なに」

 イサトさんがか細く俺の名を呼んだ。

 視線を落とす。

 頭一つ分ほど下にイサトさんがいる。

 俺の腕の中に、すっぽりと収まる華奢な身体。

 俺を見上げる顔は、真っ赤に火照っている。

 良かった。

 この状況で気恥ずかしさを感じているのが俺だけだったならば、流石さすがにいたたまれない。

「ええとその、もういいかなーとか、思うわけ、ですが」

「いやいやイサトさんも壁ドンされる側を存分に体験してみたいだろ?」

「……ッ」

 先ほどまでの仕返しもかねて、にんまりと笑う。

 びく、と腕の中に捕えた身体が強張るのを感じた。ますます笑みが深くなる。

 たぶん今の俺は獲物を捕まえた肉食動物みたいな笑みを浮かべているんだと思う。

「う、う、うううううう」

「(えがお)」

 イサトさんが降参めいたごめんなさいをするまで、俺の理性がちゃんと持つと良いな、と他人事ひとごとのように思う、とある日の午後だった。

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