結局、僕らが教会を後にしてログハウスに戻ったのは夜の十時過ぎだった。

 振袖ふりそでさんとリサは僕らの帰りを待ち構えていたらしく、そりゃもう激怒。約束をすっぽかした挙句あげく羽織はおりさんと二人きりで過ごしていたのだから、そりゃ怒られても仕方がない。

 七緒ななおさんは僕らのフォローをしようと、振袖さんとリサには『僕が引きもって作業に没頭していたせいか、体調を崩した』と伝えたらしい。その付き添いで、羽織さんもいないと。

 うん。噓だとしても、理由としては上々だと思う。

 ではなぜ振袖さんとリサが怒っているというと、そんな噓という名の配慮がばれたから。

 女の子の勘って恐ろしい。二人とも噓を瞬時に見抜き、七緒さんに詰め寄ったらしい。あの二人から質問攻めにあうとか軽く尋問レベル。七緒さんが口を割ったことは責められない。

『若い二人がこんな時間まで二人きりとは不健全だ!』『そうよそうよ!』『嫁入り前の娘が男と二人きりなどふしだらすぎる!』『そうよそうよ!』『我が弟ながらナイスハーレム!』

 振袖さんの怒号に合いの手を入れるリサ。まるで新春もちもちもちつき大会のようなテンポの良さなんだけど、おかしいな? 二人共こんなに仲が良かったっけ?

 姉さんの意味不明な茶々入れは全力で無視しつつ、隣のソファーですやすやと眠っているポメ子にちょっと癒やされた。

 そんなこんなで、僕と羽織さんが二人から解放されたのは夜の十一時過ぎ──羽織さんと別れた僕は一人、自室にこもって作りかけのビスチェと向き合っていた。

「なんか……現実味がないよね」

 思わずつぶやきながら、僕は自分の手を見つめる。

 一時間ちょっと前、僕はこの手で羽織さんのおっぱいに触れた。

 ずっと望んでいた時間が訪れて、過ぎ去った。

 夢のようにはかなくはなく、でも現実というには儚すぎる。

 それでもあれが現実だったと確信するのは、やはりこの手に残るおっぱいの感触。

 数あるおっぱいの形の中でも美乳と呼ばれる見事なおわん型。大半は利き腕の方が大きくなる傾向があるけれど、羽織さんは見事なシンメトリー。67華奢きゃしゃなアンダーがトップ85のDカップをそれ以上に大きく感じさせ、その触感は言葉では形容しがたいほどに柔らかかった。

 埋もれる僕の指がその重みをしっかりと記憶しているあたり、どうやら僕の煩悩ぼんのうノ手は新たなステージへとステップアップしたらしい。まさか重量まで計測可能になるとは。

 あの後、羽織さんの態度はいつもと何一つ変わることなはなかった。

 大した会話はなかったけれど、それでも僕らを包む空気は相変わらずおだやかで──それでも違ったことがあるとすれば、この胸に感じるわずかな想いの違い。

 胸を触り、胸を触られた今、僕らの関係が変わることはなくとも心の距離が一気に縮まったように感じる。それは、言葉以上に行動で現れていた。

 気が付けば、僕らはどちらからともなく手をつないでいたりして……なんていうんだろう。

 ああ……これが幸せというものなのかな? なんて思ったりもした。

「よし……やろう」

 思い出を振り返るのも、幸せをみしめるのも、後でいい。

 今はただ、やるべきことがある──僕は自分にそう言い聞かせ、ビスチェ作成の最終工程に取り掛かろうとした時だった。

「──?」

 不意に響くドアをノックする音。

 脳内によみがるのは昨日の振袖さんとリサの夜這よばいイベント。思わず身構える。

「──あきちゃん。入るわよ」

「え?」

 聞こえたのは姉さんの声だった。

 振り返ると同時、姉さんがドアを開けて入ってくる。

「……姉さんがノックするとか珍しいね」

「さすがに寝ずに頑張ってる弟の邪魔はしないわよ」

 普段だったら速攻突っ込まずにはいられない台詞せりふ

 だけど、その配慮は『姉さんが初めてノックをした』という事実で証明される。

「どうかした?」

「作業の調子はどうかと思って様子を見にきたのよ。撮影は明後日の朝九時から。大丈夫?」

「大丈夫……かな。余裕はないけれど、道具や生地が全部そろっていたおかげですぐに作業に取りかかれたのが大きかったと思う」

「そう。ならよかったわ。羽織ちゃんも喜ぶと思うわよ」

「ていうか姉さん──」

「ん?」

 これらの道具、初めからこうなるってわかっていて用意した?

「いや……なんでもない」

 そう聞こうとして、僕は口をつぐんだ。

 きっと聞いたところで、姉さんは『さあ、知らないけど?』って言うに違いない。

 誰がどう考えたってそういうことだと思う。はなから僕に羽織さんのビスチェを作らせるために道具を用意して、わざと衣装合わせの時にサイズのずれたビスチェを着させて──。

 僕が気づき、羽織さんのためにビスチェを作るよう仕向けたんじゃないか?

 だって僕は、このビスチェが羽織さんのだと一言ひとことも言っていないのに、姉さんは『羽織ちゃんも喜ぶと思うわよ』と口にした。それがもう、証拠のようなものだと思う。

 羽織さんが姉さんにドレスのモデルをやりたいと頼んだ時から、ここまでとは言わなくても、なにかを予感していたに違いない──そんなふうに思えてしまう。

 だてに若くして下着ブランドを立ち上げて成功まで導いたわけじゃない。

 もしかしたら女の勘ってやつかもしれないけれど。

「いつだったかしらね。彰ちゃんが初めて女性の胸を守りたい! って言ったのって」

 姉さんは唐突にそう口にした。

「……小学校五年生の時だよ。忘れもしない」

 あの時は本当に大変だったし、あの後も大変だったんだから。

「作文に書いたら担任の先生には呼び出しくらうし、両親にはぶったたかれるし、その後リサにはからかわれるし……今思えば、僕は随分大胆というか迂闊うかつなことを口にしたなと思う」

「そうねー。お父さんとお母さんに怒られる彰ちゃんをフォローしたのが懐かしいわ」

 そうだったね。姉さんだけが味方をしてくれたっけ。

「もう六年も前なのね」

 姉さんはどこか懐かしそうな顔でつぶやいた。

「それで彰ちゃん」

「ん?」

「結局、あの子たちの中から誰を選ぶの?」

 誰を選ぶ──。

 少し前の僕なら、その言葉の意味するところが『誰のおっぱいを選ぶの?』ということだと解釈していただろう。だけど、それが間違った解釈であることはもうわかっている。

「いつまでも今のままって訳にもいかないんじゃない?」

「わかってるよ……」

 そんなことは、誰より僕がわかっている。

「本当に? 誰かを選ぶってことが、誰かを傷つけるってことも?」

「わかってるって──!」

 しつこい姉さんに、僕は思わず声を荒らげた。

 部屋に嫌な空気が流れる。

「ごめん……自分が今、どういう状況にいるかはちゃんとわかってるんだ」

 僕は気まずくなり、思わず目をらす。

「ねえ、姉さん……やっぱり誰かを選ばなくちゃいけないのかな?」

 僕の口から漏れたのは、自身でも思いがけない言葉だった。

 だけど、口にしてみればこの一言が、今の自分の心境を如実に表しているのだと気づく。

「僕はこれまで誰かを好きになるってことの意味がわからなかった。それを疑問に思ったことはあるけれど、漠然ばくぜんといつかわかるようになるんだろうなって……いまだに僕は誰かを好きだとは言いがたいけれど、誰かが僕を想ってくれる気持ちは、ようやく理解できたんだと思う」

 人はいつまでも鈍感ではいられない。

 そうは思うけれど──。

「だけど、向けられた想いに対して、僕の気持ちがわからない」

 それが僕の、正直な想いだ。

 だからこそ──。

「僕はそれを知りたくて、羽織さんにビスチェを贈りたいんだと思う」

 一度は七緒さんに対して口にした言葉。

 再度口にして、それが僕の本心だと改めて確信する。

「そっか。うん。それでいいんじゃない?」

 姉さんは思いのほか、あっさりそう答えた。

「姉としては思春期の弟が、ある意味全力で思春期を謳歌おうかしてるのは心配したりもするけれど、なにも考えてないわけじゃないってわかって安心よ」

 姉さんは続ける。

「彰ちゃんが本気で女性の胸を愛しているのは誰より知ってるし、それはそれで青春だと思うしこころざしあってのことだものね。でもね、やっぱり姉としては、弟の将来が心配なものよ」

「……ごめん」

 この謝罪の言葉すら、たぶん少し前の僕には出てこなかったはずだ。

 姉さんの心配している言葉の意味すら、僕は理解できていなかったはずだ。

「謝るくらいならお礼をいいなさい。私じゃなくて、想いに気づかせてくれた女の子たちに。彰ちゃんは今、その女の子たちの中の一人のために頑張っているんでしょ」

「うん」

 僕の返事を聞いて、姉さんは満足そうにうなずいた。

「邪魔しちゃ悪いから、そろそろ行くわ」

「うん。ありがとう」

「明日はポメちゃん以外は彰ちゃんの部屋に近づかないように言っておくから、なにも気にせず作業に没頭して」

 ちょっと待って。

「なんでポメ子以外はなの?」

 僕がそう言うと、姉さんは部屋の外から熟睡しているポメ子を抱きかかえて連れてきて、どうしてか僕のベッドに寝かせた。

 久しぶりに見るポメ子の寝顔はとても満足そうで、眠りながら『彰ちゃん、だからそれはまな板の上の干しブドウじゃないよ……』なんて言っているんだけど、僕を夢にだすならマジで倫理規定を踏み越えないで欲しい。エロに寛容な幼馴染おさななじみとか扱いに困る。

「……それで? なんでポメ子だけ? なんでベッドに寝かせるわけ?」

「彰ちゃんにとってポメちゃんがそばにいるのは日常でしょ? あんまり根を詰めすぎるよりも、リラックスした方がいい物が作れる。ポメちゃんの世話を焼いてるくらいが丁度ちょうどいいわ」

「……同意をしかねるなぁ」

 なんて返したけれど、確かに見慣れたポメ子の顔を見たらほっとした自分がいる。

 認めるのはしゃくだけど、微妙に癒やし効果があるようなないような。

「じゃ、頑張って」

 姉さんは手を振りながら、僕の部屋を後にした。

「よし。やるか……」

 僕は早速布団ふとんを蹴り飛ばしたポメ子に布団をかけ直し、机に向かった。


ω


 それからは寝食を忘れ、徹夜でビスチェ作成に追われていた。

 採取した羽織さんのおっぱいデータをもとに生地を切り、い合わせ、いつからかずっと思いえがいていたデザインをベースに、ハイペースでビスチェができ上がっていく。

 いやはや、さすがにプロの道具は作業効率が違う。もしかしたら、僕が成長したのもあるのかな? なんて思いながら、僕の胸にあふれるのは多大な感謝と使命感。

 羽織さんの支えになりたい──強く想うだけでなく、その中にほんの少しのまだ知りえない感情。いや、理解し始めた感情。その感情が、やたらと僕の作業ペースを上げてくれる。

 眠さはとっくに限界を超えてランナーズハイ状態。覚醒し続ける脳は、もはや一切の雑念もなく完成イメージを脳内に描き、手はひたすらイメージに近づけようと作業を続ける。

 でもどこか冷静さを保ち続けているこの状況は、もしかしたらアスリートが経験するといわれるゾーンに近いのかもしれない──なんて、どこか思ったりもした。

 そうそう。ポメ子がなにげに身の回りの世話をしてくれていたのも集中できた理由かな。

 普段から僕が作業中に部屋に転がり込んでいたこともあり、掃除や片付けなんかを放っておいてもやってくれる。感謝を込めて、途中何度かお菓子を上げて餌付えづけをしておいた。

 猫の手は借りられなかったけれど、ポメ子の手が意外と役にたって意外や意外。思い返せば、ポメ子は僕が真剣な時はいつだって傍でお手伝いをしてくれていたっけ。

「……それでもおなかだけはくんだな」

 丸二十四時間が経過したころ、僕の手をとめたのは睡眠欲ではなく食欲。

 ひと段落つき、それまで忘れていた空腹感とのどかわきに襲われた。

「……ひとまずなにか食べよう」

 時計を見ると午前0時。

 椅子いすから立ち上がると、軽く眩暈めまいを覚えるあたり限界だったのかもしれない。

 それもそうだ。昨日の夜、羽織さんと一緒に軽井沢かるいざわ高原教会こうげんきょうかいから帰宅して以来、ずっと部屋に籠もりっきり。口にしたのはたまたま持っていたカロリーメイトだけ。

 僕はベッドでよだれを垂らしているポメ子の口をき、布団を掛け直して部屋を後にする。

 リビングに足を運ぶと、そこに見慣れた姿を見つけた。

「……七緒さん?」

 そこにはフローリングでストレッチをしている七緒さんの姿があった。

 緩めのTシャツに黒のスパッツ。開脚しながら身体を倒すことでのぞく胸元に視線を奪われるも残念。下はピッタリしたスポーツブラのせいで谷間が見えない! かがんだ時のチラリズム──あふれるおっぱいと強調される谷間に埋もれたい願望がかなわずもだえそうになる。

彰人あきと?」

「トレーニング中だった?」

 僕は即座に視線を胸元から上げて七緒さんに向き直る。

「邪魔したよね。ごめん」

「ううん。大丈夫。気にしないで」

 七緒さんは立ち上がり、僕の傍にやってくる。

織姉おりねえのビスチェ作りは順調?」

「うん。おかげさまで」

そで姉とリサさんが心配してたよ。根を詰めすぎじゃないかって」

「もしかして二人とも僕がビスチェを作ってるって知ってる?」

「うん。瑞穂みずほさんが伝えてた。だから邪魔しないであげてって」

「そっか……後で二人にはなにか言われそうだね」

「私がへまやって彰人と織姉が花火大会を抜け出してたのがバレちゃったのもあって、複雑そうな顔してたけど……二人とも織姉の状況は知ってるし、納得はしてくれたみたい」

「それならよかった。七緒さんには噓をつかせちゃったからね……迷惑かけてしまったんじゃないかって、少し心配だったんだ」

「ああ、あたしなら心配いらないわよ。彰人に噓を吐くようおどされたって話しておいたから」

「え!?

 いやいやいや、ちょっと待って!

「実際大変だったのよ。あの二人ってスイッチ入ったら止められないじゃない? あたしも色々疑われちゃうし、仕方なかったのよ。ごめんね」

「……うん。まあ、仕方ないよね」

 七緒さんを責めることなんてできないよ。僕のために噓をついてくれたんだから。

 だけど……うん。全部終わったら覚悟を決めよう……。

「冗談よ」

「……ん?」

「冗談。上手くやっておいたから心配しないで」

 七緒さんはしてやったりな顔で僕を見つめる。

 旅行の最初の頃に見せていた複雑そうな表情は、もはや皆無かいむだった。

「心臓に悪い冗談言わないでよ! 本気で覚悟を決めかねたんだぞ!」

「ごめんごめん。あんまり根を詰めてるからさ」

 言われてハッとした。七緒さんの冗談に付き合わされて驚いて、こうしてホっとした今──なんだか肩の力が抜けたような気がする。いや、気がするというか、間違いなく抜けた。

 きっとこれも、七緒さんなりの優しさなんだろうな、なんて思った。

「それで? 織姉とのデート、どうだった?」

「そうだね……」

 それから僕は、羽織さんとのデート内容を少しだけ話した。

 僕らが想像していた以上に、羽織さんは思い詰めていたこと。

 羽織さんは今回の件で、自分を変えようとしていること。

 僕は羽織さんのためにビスチェを作るため──そのおっぱいに触ったこと。

「そっか……」

 そうつぶやく七緒さんの表情からは、感情が見て取れなかった。

「やっとだね……」

「やっと?」

「やっとお互いの協力関係が達成されたね」

 協力関係──それは出会ってすぐにした取引。

 僕が羽織さんのおっぱいを触れるよう七緒さんが協力してくれる代わりに、七緒さんのお願いを聞いてあげるというもの。そのお願いとは、三姉妹の不仲を解消する手助け。

「不仲のことも、オーディションの許可をもらったことも……ずっと私ばっかり助けてもらってたから申し訳ないと思ってたの。少しでも力になれたのならうれしいな」

 七緒さんはき物でも落ちたように、穏やかな表情でそう言った。

「少しどころじゃないよ」

 本心で口にする。

「羽織さんも言っていたけれど、きっと七緒さんに出会わなければ、今はなかったと思う。春休みのあの告白で、七緒さんに邪魔されることなく羽織さんの胸に触れていたとしても、今みたいな気持ちではいられなかったはずだよ。そう思うと、七緒さんには感謝しかない」

 邪魔をされて感謝っていうのも変かもしれないけどね。

「まだ四カ月ちょっとなのにね……なんだか懐かしい」

「そうだね」

 わずかにしんみりとした空気が流れた時だった。

「これで私たちの取引関係も終わりだね。なんていうか……お疲れさま」

 七緒さんは穏やかな笑顔でそう言い、僕に手を差し伸べる。

 互いの目的の達成をたたえ合っての握手──僕はその手を取る。

 だけど、なんでだろう……?

 僕は胸にぽっかり穴が開いたような虚無感に襲われた。

「どうしたの?」

「いや……お疲れさまって言われると、なんだか全部終わったみたいで少し寂しいなって」

「寂しい? どうして?」

 七緒さんは僕の顔を覗き込む。

「どうしてだろう? 僕と七緒さんとの間には色々なことがあった。今にして思えば大変ながらに楽しいことばかりだったし、僕にとってもプラスになることは多かったなって思うんだ。だからそれが終わったんだなって思うと、少しだけ寂しいような気がしたのかもしれない……」

 そう伝えると、七緒さんは困った顔をしながら小さく笑った。

「バカね。協力関係が終わっただけで、私たちの関係はなにも終わってないじゃない」

「僕らの関係?」

「なに? 彰人は私に言った台詞せりふを忘れたの?」

 僕の言った台詞──それはすぐに脳内によみがえる。

 そう。忘れるはずがない。

「僕のために、モデルになって欲しい」

 コスプレ会場で口にしたその言葉は、僕にとって、ある意味告白のような一言でもあった。

 七緒さんの将来を縛ってしまう可能性を秘めたその台詞。僕は七緒さんの将来に対して本気で責任を持つつもりで言ったんだ。

「私はその言葉をかけてもらえて嬉しかった。いつかデビューして、有名になって、その頃には彰人は下着メーカーで働いていて──私が彰人の作った下着のモデルをする」

 語る七緒さんの表情が優しく緩む。

「二人の取引は終わったけど、二人の夢はまだまだずっと続くでしょ?」

「うん……」

「寂しいことなんてなにもないじゃない」

 そうだね。うん──そうだ。

 僕はなにをセンチメンタルになっていたんだろう。

 僕らの夢は現在進行形で、何一つ終わっちゃいないじゃないか。

「お互いが夢を追っている限り、ずっと一緒。私たちはパートナーみたいなものでしょ?」

「うん。そうだね」

「死ぬまでずっと夢を追い続けるなら、生涯のパートナーって言っても過言じゃないわ」

 頼もしすぎる。最強のパートナーだとすら思うよ。

「さてと、なにか作ろっか? どうせお腹でも空いて下りてきたんでしょ?」

「そうだけどさ、でも七緒さんもトレーニング中だったんでしょ? オーディションも近いし、僕のことはいいから続けてよ」

「気にしないで。ちょうど休憩しようと思ってたところだし」

「でも──」

 言いかけて、僕はドキッとした。

 七緒さんは不意に僕のくちびるに人差し指を添えて口をふさぐ。

「いいからその辺に座ってて。それでも気に病むならさ、全部終わったらまた私をサポートしてよ。彰人が手伝ってくれるなら、オーディションもきっと上手くいく」

「わかった。それなら任せてよ。なんならもう一着オーディション用のビスチェを作ってあげたいくらいだ。なにげに七緒さん、最近また体形変わったみたいだしね」

「……なんでそんなことまでわかるのよ」

「なんで? わかるに決まってるさ。どれだけ僕が七緒さんの身体を見て触ってきたと思ってるんだ。ヒップサイズが一センチ小さくなっただけじゃなく、ずいぶん引き締まってるのもに気づいてるよ。やっぱりバランス的に大きすぎるお尻を気にして──痛い痛い!」

「いいから黙って大人おとなしく待っててくれませんか!」

 ややほおを染めているのはストレッチが激しかったのかな?

 それはともかく、久しぶりの敬語でほっぺうにうにがたまらない。

 怒っている時の恒例行事。だけど、今の七緒さんは怒っているようには見えなかった。

「じゃあ、その辺に座って待ってて。すぐ作るから」

「うん。ありがとう」

 それから七緒さんはキッチンに立ってすぐに料理を始めた。

 こうして七緒さんの料理姿を後ろからながめるのは二度目。一度目は姉さんを待つ間に僕の家に来た時だった。あの時の下着エプロン姿は今思い出しても幸せになれる。

 だけど、こうして目にしているスパッツエプロンもまた捨てがたい。お尻のラインがなんとも悩ましく……やっぱり露骨なエロよりも、日常生活に垣間かいま見る僅かなエロこそ至高だよね。

 なんて思いながら、僕は七緒さんの料理が完成するのを待ち続けた。


ω


「できた……」

 翌日──軽井沢旅行最終日、八月六日の朝。

 ビスチェが完成した時、時計は七時を示していた。

「なんとか間に合ったな……」

 手にしてかかげる会心の一着。

 寸分の狂いもなく羽織さんの身体にあったビスチェにして、僕の持てる技術を全てささげたまさに集大成と言っていい。過去最高の仕上がりなのは間違いない。

 達成感と共に訪れたのは、極度の疲労。どっと疲れが押し寄せるのを自覚する。

「さすがにきつい……お風呂に入って目を覚まそう」

 ビスチェを机に置き、僕は椅子から立ち上がる。

「痛て……」

 ずっと同じ体勢を維持していたせいか、身体の節々が痛い。まるで浦島太郎よろしくおじいちゃんになった気分。体を引きずるようにして、僕は部屋を後にした。

 階段を下りるのも一苦労。廊下を通り、お風呂に向かおうとした時だった。

 リビングのドアが開いていて、僕は中を覗く。

 そこには誰にもいなかったけれど、テーブルの上に白い紙が置いてあるのに気づいた。

 ……昨日の深夜に七緒さんから作ってもらったご飯を食べた時にはなかったぞ。

 気になって中に入り、その紙を手に取る。

 それは、とても綺麗きれいな字で書かれた書き置きだった。


『一足お先に、教会へと向かいます。ご承知おきくださいませ。

服部はっとり羽織』


 思わず顔をしかめる。

 どうして──?

 いや、理由なんてどうでもいい。追わなくちゃ。

 僕はすぐに部屋へと戻り、完成したビスチェを手にして部屋を出る。

「彰ちゃんどこに行くの?」

 廊下でばったり出くわした姉さんから声をかけられた。

「ごめん。先に教会に行ってるから!」

「先に行くって……撮影は九時からよ? 早すぎない?」

「わかってる! 姉さんは後から皆を連れてきてくれればいいから!」

 僕は半裸の姉さんにそう告げ、ログハウスを後にした。


 早朝の軽井沢は深いきりに包まれていた。

 朝日は霧にさえぎられ、踏みしめる雑草は朝露あさつゆに濡れていて、霧に包まれる杉林はどこか不気味にすら目に映る。冷気がはだを刺し、夏のさわやかな早朝とはとても思えない。

 そんな中、僕は先ほどまで感じていた体の痛みも忘れて駅へと走る。

 羽織さんが一人で軽井沢高原教会へと向かったのなら、先日僕と一緒に訪れた際と同じようにタクシーを使うはずだ。とてもじゃないけど散歩で向かえる距離じゃない。

 駅に向かう途中、羽織さんを見つけることはできず、駅についても姿は見つけられない。僕はすぐにタクシーに乗り込み、それから十数分後、星野ほしのリゾートエリアの駐車場に到着。

 ログハウスを出てから約三十分。

 霧はだいぶ晴れ、僅かに注ぐ朝日が木々と道を照らす中、僕は教会へ向かう。

 教会の前に着くと、扉は僅かに開いていた。

 そっとドアに触れると、ひんやりとした感触が手に広がり──僕は扉をそっと開いた。

「──」

 思わず声をなくす。

 そこには、ステンドグラスから注ぐ朝日を浴びる羽織さんの姿があった。

創真そうま君……」

 僕の名を呼ぶ声が、静かな教会内に小さく響く。

 表情は穏やかで、でもどこかはかなげで──僕はかける言葉を探す。

「ご心配をおかけしてしまったでしょうか?」

 先に言葉を口にしたのは羽織さんだった。

「いや……そんなことないさ」

「気持ちを落ち着かせようと思えば思うほど、じっとしていられませんでした」

「なんとなくわかるよ。それだけ羽織さんがこの撮影に懸けているってことも」

 羽織さんはこの撮影をきっかけに、変わろうとしている。

 それは誰かに言われたからではなく、羽織さんみずからが望んだこと。自分のからを破ったその先には、きっと羽織さんの理想とする未来があって、それを手にするために──。

『前を向いているだけではなく、手を伸ばさなくてはならない──』

 羽織さんの言葉が頭の中でよみがる。

 その言葉をみしめる。

 だったら僕は、羽織さんの決意に応えたい。

 その背中を押すだけじゃなく、後ろからそっと背中を支えたい、そう──二十四時間三百六十五日、休むことなく女性の背中を支え続けるブラジャーのベルトのように。

「羽織さん。渡したいものがあるんだ」

 僕は歩を進め、羽織さんとの距離を縮める。

 僕はカバンからそれを取り出し、羽織さんの右手を取って渡した。

「今日のために僕が作った、羽織さん専用のビスチェだよ」

「私専用の……ビスチェ」

 羽織さんが着る和装ドレスと同じ、けがれなき純白のビスチェ。もちろん紫陽花あじさい刺繡ししゅう入り。

 ビスチェは本来、ドレス用の補整下着ということもあってワイヤー入りの物が多い。それは、ドレスの美しさに半ば無理やりに身体を合わせる必要があるからだ。

 だけど、羽織さんほどに完璧なプロポーションであれば極度の補整は必要ない。身体に負担のかかるワイヤーは外し、その代わりウエスト周りの生地にパッドを埋め込んで補強した。

 たったそれだけで、羽織さんのボディラインは完璧に整うはずだ。

 ことスタイルバランスだけでいえば、羽織さんはリサや七緒さん以上に美しい。

「ありがとうございます……」

 羽織さんはビスチェを胸に抱く。

「うん……でき上がったのはついさっき。間に合ってよかったよ」

「これまで貰ったプレゼントの中で、一番嬉しいです……」

 羽織さんは抱きしめるようにビスチェを胸に埋める。

 そのひとみから、一滴の涙がこぼれた。

「羽織さん。聞いて欲しいことがあるんだ」

 涙をぬぐうしぐさを見せる羽織さんに、僕は続ける。

「羽織さんの告白に対する返事なんだけどさ」

 羽織さんはまっすぐに僕を見据みすえる。

 大きく一度深呼吸をした。

「はい……お聞かせください」

 僕も深呼吸をして、想いの全てを口にする。

「僕はね、たぶん──羽織さんのことを好きなんだと思う」

 この一言は、僕にとってまぎれもなく告白だった。

 羽織さんは瞳を僕に向け続ける。

「だけどね、この好きという感情は、恋愛感情かといえばたぶん違う」

「……」

 一瞬だけ羽織さんの表情が歪む。

 だから僕は、誤解のないように言葉を続けた。

「羽織さんも知っている通り、僕は女性の胸を愛している。物心ついた頃から女性の胸にあこがれて、愛して続けてきた。僕の初恋は女性の胸といってもいい。それが他の人たちの恋愛感情とは違うってこともわかってた。事実、僕は人と人との恋愛というものをわかってなかった」

 だけど──。

「だけどね、七緒さんや他のみんなと出会って、僕は色々なことを知った。女性の美しさが胸だけじゃないことや、夢にかける想い。家族の絆の強さとか──誰かを想う強い気持ち。振袖さんやリサからはっきりと好きだと告げられて、僕はようやく誰かから向けられる好意という意味での恋愛感情を理解できたんだと思う」

「……」

「でもね、じゃあその好意を向けられた僕自身の気持ちはというと……よくわからないんだ」

 我ながら、なんともはっきりしない男だと思う。

 だけど、これが僕の正直な想いだ。

「みんなのことは大切に思ってる。振袖さんは頼りになるし、責任感が強いし、直球すぎるくらいストレートなところが魅力的だと思う。リサは少し小悪魔的なところがあるけれど、自分の想いに素直だし隠そうともしない。あれだけはっきりと想いを口にされると正直揺らぐよ」

 もちろんこれだけじゃなく、二人のいいところはたくさんある。

「七緒さんの夢に向かって努力するひたむきさはまぶしくて、これからモデルとして歩む道を、僕も一緒に歩みたいと思ってる。羽織さんの言う通り七緒さんに出会わなければ、きっとこんな今はなかったなと思う……本当、感謝の思いでいっぱいだ」

「はい……」

「その意味で、僕はみんなのことを大切に思っているし好きだけど、恋愛感情じゃない。それは……今の時点では羽織さんに対しても同じ気持ちなんだ」

「……」

 そこまで語り、僕は首をふる。

「いや……そうじゃない。僕はそれを確かめたくて、羽織さんにビスチェを作ったんだ」

「どういうことでしょう?」

 羽織さんは少しだけ身を乗り出して僕に問う。

「羽織さんから告白をされた時、僕は素直に嬉しかった」

 言葉にして、僕の体温が急に上がる。

 気恥ずかしさに言葉が続かない。

 それでも僕は、気持ちを吐き出すように口にする。

「自分がずっとあこがれていた女の子が、僕を好きだと言ってくれた。男として、こんなに嬉しいことはないと思う。自分でもよくわからないんだけど、これまで感じたことのない喜びと、恥ずかしさと、満たされた気持ちになった……それは、やっぱり羽織さんだからだ」

「……」

「ずっと傍にいて、お互いに影響を与え合って、いつも僕を理解してくれて、困った時は力になってくれて──僕はそんな日々の中で、他の女性に対してとは明らかに違う想いを羽織さんに抱いていたんだと思う。だから僕は、この想いの答えを知りたいと思っている。今はまだ、この想いが恋愛感情なのかわからない。だけど、全くそうじゃないとも言い難い」

「さようですか……」

「もちろんこの先、僕が他の誰かを好きになる可能性も否定はできないよ。それも含めて、僕はこれからもみんなと一緒にいたい。自分勝手すぎるとは思うけど、これが今の僕に出せる精一杯の答え。これからは、ちゃんと自分の気持ちに向き合おうと思う」

 我ながら本当にひどい返事だと思う。

「だから、それまで待っていてくれないかな?」

 はっきりしない上に男らしくない。

 愛想を尽かされても仕方がないとは思う。

 だけど、こんな僕を好きだと言ってくれる女の子たちに、不誠実ではいたくない。

 あやふやなままで適当になんて選べないよ。

「わかりました」

 しばらくして、羽織さんはそう答えた。

「よかった……私はまだ、創真君のことを想い続けてもよろしいのですね」

「こんな僕でよければ……どれだけ待たせてしまうかもわからないけれど」

「大丈夫です。創真君の本心がわからず待ち続けていた今までに比べれば、苦でもなんでもありません。創真君の答えが出るまで、私はいつまでも待ち続けます」

「……ありがとう」

 見せてくれた笑顔は、とても晴れ晴れとしていた。

 こんな情けない返事しかできない僕を、それでもこうして受け入れてくれる。

 やっぱりもう羽織さんでいいんじゃないか? なんて早まりそうにもなるよね。

 僕らはしばし無言で見つめ合い、穏やかな時間が流れる。

「創真君」

「なんだい?」

 羽織さんは不意に僕にビスチェを差し出した。

「え……」

 どういう意味だろう?

 まさか突き返し? 気に入らなかった? それとも『こんな返事しかできないのならビスチェなんて受け取れません!』という意思表示だろうか? やばい。どうしよう!

「一つだけ、我儘わがままを聞いていただけませんか?」

「我儘?」

 そう口にする笑顔が、僅かに含み笑いで──どことなくリサを連想させる。

 よかった。どうやら僕の心配は杞憂きゆうらしい。それにしても……羽織さんもこんな表情ができるんだな。今まで見たことのない表情に、思わず胸がドキッとした。

「我儘なんて言ったら、僕のさっきの返事は我儘の極みさ。代わりと言ってはなんだけど、羽織さんの我儘の一つや二つなら全力で応えさせてもらいたい」

「では、遠慮なく──」

 羽織さんは僕にビスチェを押し付け、くるりと背中を向ける。

「そのビスチェ、是非創真君の手で着けてください」

 ぐは! まじか!

「いやそれは……我儘というか、僕にとってはご褒美ほうびみたいなものなんだけど」

「心して着けてくださいね。もしも次、創真君が私の胸に触ることがあるとすれば、その時は創真君が私を選んでくれた時です。選ばなければ、最後の機会になりますから」

「え? そうなの? せっかくこういう仲になれたのに残念だな」

 羽織さんの言い方がちょっと強気な感じに聞こえた。

「当然ですよ。胸を触ることが婚約ですとか、お姉様たちのようなことを言うつもりはありません。ですが、本来こういった間柄になれば、将来はおのずと夫婦になるのが当然かと。七緒やリサさんがどうかはわかりませんが、私はそれほど安い女ではありませんから」

 でも、その強気な物言いも、羽織さんが口にすると決して嫌味があるわけじゃない。

 むしろ遠慮がなくなったから──そんな感じ。

 たぶんそれは、良いことなんだと思う。

「わかった。心して着けさせてもらうよ」

 僕は羽織さんの着ているワンピースのひもを肩から外し、背中をあらわにさせる。そう、先日羽織さんのおっぱいを触った時のように、ブラジャーのホックを外して取り払った。

 そしてビスチェを背中から当てがってフロントに手を伸ばし──お腹の前でジッパーを上げ、アンダーバスト辺りで一度止めた。

「触るよ」

「はい……どうぞ」

 僕は後ろから胸元に手を忍ばせ、羽織さんの胸に触れた。

「んンッ……」

 羽織さんの口から漏れる甘い吐息。

 理性のバリケードに四トントラックが突っ込んできたんじゃないかと思うほどの衝撃が、僕の脳内を襲った。溢れる煩悩ぼんのうを抑えきれる自信がない。なんだこの感触は!

 先日羽織さんのおっぱいに触れた時もその柔らかさは実感していた。でもその時はデータの採取が目的で、幾分いくぶんか理性で抑えられてはいたんだ。

 しかしながら、今はデータの採取目的ではなく、純粋に羽織さんのおっぱいに触れている。

 いつもは三分の一の純情な下心が今は三分の二を占め、残りの三分の一は使命感。

 つまりなにが言いたいかというとね──煩悩レベルが当社比二倍!

「あの……創真君……」

「え? ああ、うん……どうしたの?」

「ど、どうしたと言いますか……」

 羽織さんはやや前かがみになりながら、胸元を強襲する僕の手を押さえている。

「その……そんなに激しくんでいただくと……」

「え──!?

 言われてようやく冷静さが帰ってくる。

 おかえり。できればまだ帰ってきて欲しくなかったよ!

「ごめんなさい!」

 煩悩レベルが二倍になったせいか、揉む激しさも二倍になっていたらしい。

 いやでも……おっぱいに敬意を払う僕が、こんなにもおっぱいに夢中になるなんて。

 ふと思い出される、先人の言葉──。

『この世で最も多くの男性をおぼれさせたのは、海ではなく女性のおっぱいだ──』

 なるほどどこかのエロい人。僕はようやくその言葉の意味を理解できました。

 さて、いつまでもおっぱいを揉んでないで、ビスチェを着させてあげないと。

 僕は羽織さんわきの下から手をまわし、おっぱいから溢れ、脇や背中やお腹にこぼれている潜在おっぱいをき集めてビスチェのカップに収めていく。

 左右のおっぱいを収め終わるとジッパーを閉じ、合わせて調整用に備え付けておいた背中部分の紐を締めて微調整。完成したバストとウエストのラインを左右から確認する。

「うん……完璧だ。いや……完璧すぎる。僕の想像以上だ」

 朝日が降り注ぎ、燦然さんぜんと輝く教会内。

 その中心で、羽織さんは光を一身に浴びていた。

 背中に羽でも生えていたら天使と見間違えるかも──なんて、ちょっとキザかもしれないけれど、ブラジャーを着けた天使とかどこぞの下着CMみたいで興奮する。

「ありがとうございます。このビスチェがあれば、私は今日の撮影を乗り越えられそうな気がします……いえ、必ず乗り越えてみせます」

 羽織さんは振り返り、僕を見つめる。

 穏やかな表情の奥に、僅かに覚悟を見せてくれた。

「どうか、見ていてくださいね」

「うん……頑張って」

 その時だった──不意に扉が勢いよく開く。

「え──?」

 なだれ込むように入ってきたのは振袖さんや七緒さん。もちろんリサや姉さんも。ポメ子にいたっては全員に押しつぶされて白目をむいている。

「ちょっと! なんで押すのよ!」

「はっ! そんなでかい尻をしていれば嫌でも押してしまうだろう! そもそもお前の尻は世界の余剰空間を無駄に占領しているのだ!」

「でかくはないでしょうが!」

 なんて、二人がいつものように犬猿の中なのはどうでもいいけど、責任のなすりつけ合いはよくないと思うな。それと覗きもよくないよね。

「まさかみなさん……ずっとそこで……」

 困惑しながら顔を赤くする羽織さん。

「違うのだ羽織! すべてはこの桃尻娘が覗こうなどと──!」

「なんで人のせいにするのよ! 生徒会長が『抜け駆けは許さん!』とか言って率先して覗こうとしたんじゃない!」

 結局は二人して覗こうとしていたんですね。

「はいはい! みんな静かにしてー!」

 騒然とした空気の中、姉さんが手をたたく。

「彰ちゃん。準備はいいかな?」

 姉さんは笑顔で僕に確認する。

「うん。いつでも始められるよ」

「オーケー。それじゃあみんな、ちょっと早いけど早速始めましょ」

 姉さんが合図をすると、外で待機していた女性たちが教会内に入ってくる。携帯電話で時間を確認すると八時過ぎ──機材やドレスを運び込み、祭壇付近ですぐに準備を始めた。

「みんなもすぐに着替えてちょうだい」

「「「はい」」」

 息の揃った三姉妹の返事。

 その返事を聞いて、僕は一人教会を後にしようとする。どうせまた着替えている最中は出て行けと言われるんだ。ちょっと名残なごりしいけど、紳士たる僕は言われる前に行動を起こす。

 七緒さんとすれ違おうとした時だった。僕の袖をキュッとつかんで引きめた。

「安心して。私たちが来た時にはもう織姉がビスチェを着た後だったから」

「そっか」

 よかった。さすがにおっぱい触っているところを見られるのは気が引ける。

「でもまあ、大方なにがあったかあたしにはわかるけど」

「……ですよね──痛い!」

 七緒さんに思いっきり足を踏まれた。

「ちょっと! いきなりなにするのさ!」

「彰人ってさ、そのうち本当に女の子に刺されかねないから気を付けた方がいいよ」

「そんな怖いことを言わないでよ。誰に刺されるっていうのさ」

 真顔で言われてビビる僕。

 そんな僕を見て七緒さんは。

「私に──♪」

 悪戯っぽい笑顔でそう答え、僕の下から駆けて行った。

「……いや、ぜんぜん笑えないんですけど」

 ましてや自分が今まで相当鈍感だったと自覚があるが故、なおさら笑えない。

「七緒さん」

「ん? なに?」

「大丈夫かい?」

 羽織さんとのことが解消した今、僕に残る心配はリハーサルの時の七緒さんのこと。

「うん。大丈夫。織姉だけじゃなくて、私のこともちゃんと見ててよ」

「もちろんだよ」

 向けてくれた笑顔に、一切の曇りはなかった。

 僕は胸をなでおろし、教会を一時後にした。



「はい七緒さん、視線こっちに向けてー♪」

 こうして始まったウエディングドレスの撮影は、順調に進んで行く。

 最初は色打掛いろうちかけ姿の振袖さんだった。

 リハーサルの時みたいなストリップショーにならず、至って真面目に撮影にのぞむ。あれはあれで面白かったけれど、いやはや、さすがに色っぽい。流し目とかずるいだろ。

 続いて今、七緒さんの番。

 その姿がリハーサルの時以上に輝いているのは明らかで、リサの指摘した僅かな硬さも見て取れない。それを証明するように、リサは『吹っ切れたみたいね。まあいいんじゃない?』なんて言っていた。僕から見ても、悩みが吹っ切れたような爽快感が見て取れた。

 まるで本当の花嫁のように魅せる笑顔は幸せに満ちていて、それでいてドレスをしっかりと訴求そきゅうするような立ち居振る舞い。よく見るパンフレットのモデルさんそのもの。

 姉さんがシャッターを切るたびに僅かに表情を変え、視線を変え、体勢を変え、次々に姉さんのリクエストに応えていく。

 本当に成長したな……思わずこれまでを回想して懐かしむ。

 色々あった。色々ありすぎた──懐かしむにはまだ早いとわかっていても、胸にこみ上げてくるものは抑えようがない。

「はい。オッケー。七緒さん、お疲れさま。よかったわよ」

「ありがとうございます」

 祭壇を降りる七緒さんが、満面の笑顔で僕の下にやって来た。

「どうだった?」

「いらぬ心配だったね。最高だったよ」

 ありきたりな言葉しかかけられない。

 だけど、その一言にありったけの賛辞を込める。

「そっか。ありがと」

 七緒さんは満足そうにつぶやいた。

「後は、織姉ね」

「うん」

 僕らは祭壇に視線を向ける。

「じゃあ羽織さん。行ってみよっか」

「──はい」

 純白の和装ドレスを身にまとった羽織さんが祭壇に上がる──僕の作ったビスチェを付けて。

 中央に足を運び、うつむいていた顔を上げた瞬間──教会内の空気が変わった。

「── ──」

 誰もが息を呑んだ。

 背にするステンドグラスから降り注ぐの光が、幻想的に羽織さんを包む。

 モデルとしては比べるべくもなくリサや七緒さんには劣っている。それは当然だし、羽織さんはただ立っているだけ。それだけなのに、周りの空気が色づいたように目に映る。

 その理由は、羽織さんの浮かべる表情だった。

 これまで目にしてきた羽織さんの笑顔はどれも僕の脳内に鮮明に焼き付いている。だけど、そのどの笑顔とも違う、幸せそうな満たされた笑顔。

 気のせいじゃなく、その笑顔は終始僕に向けられている。

 目が離せなかった──見つめ合う僕と羽織さん以外、すべての色が消え去って、なにもかもが意識の外に置かれ、空間に僕と羽織さんだけが取り残されたような錯覚を覚える。

 僕の瞳には、もう羽織さん以外映っていなかった。

 次の瞬間、ふとシャッターが切られる音で現実に引き戻される。

 どうやら姉さんも見惚みとれていたようで、慌ててシャッターを切っているようだった。

 それからしばらく羽織さんの撮影は続き、姉さんはカメラを下ろす。

「羽織さんもお疲れさま。もういいわよ」

「はい」

「なんて言うのかな……すごく羽織さんらしくてよかったと思う。ね、彰ちゃん」

「え? 僕? えっと……うん。そうだね。凄く羽織さんらしかったと思う」