帰宅して夕食を済ませた後は各々おのおの気ままな夜を過ごしていた。

 テレビを見たり、歓談したり、姉さんはひたすらビールを飲みながら振袖さんと小学校時代の思い出話をしていた。

 そんな時間も夜の十時を回った頃にお開き。みんな部屋へと戻って行き、僕も同じく部屋に戻ってベッドに横になっているんだけど……すぐに寝付くこともなく考え事をしていた。

「羽織さんにとってのチャレンジか……」

 思い出されるのは振袖さんの言葉。

 そして、教会での三姉妹のドレス姿。

 洋装ドレスに身を包んだ七緒さんの堂々とした姿は、まさにこれまで歩んできた成長の証。ほんのわずかでも協力してきた身としては、それを自分のことのように喜ばずにはいられない。

 振袖さんの色打掛いろうちかけは非の打ちどころのないほどに似合いすぎていて、感嘆の息が漏れたほどだ。さすがは呉服屋の娘にして経営者。その着こなしはお見事。

 そして──一際ひときわ目に焼き付いている羽織さんのドレス姿。

 珍しい和装ドレスに身を包んだその姿の美しさは疑うべくもない。ただ、あの表情だけが頭のど真ん中を独占して離れない。思い出すだけで微妙な気持ちになってしまう。

 あふれ出る不安と心配──その奥に僅かに見える覚悟と決意。

 でも、あのままではきっと、企画書の写真としては失敗に終わってしまうだろう。

「僕はなにをしてあげられるだろう……」

 僕にできることなんて、いくら考えたところでおっぱいや下着に関するあれやこれだけ。羽織さんを笑顔にしてあげる方法も、自信を持たせてあげられる方法も思いつかない。

 だけど、思いつかないからってなにもしないという選択肢だけは、ありえなかった。

 僕は今まで、何度も羽織さんの笑顔に救われてきたはずだ──入部直後、当時の部長から雑巾ぞうきん千枚の作成を頼まれた時も、初めて夢の全てを語った時も、リサの問題に悩んでいた時も。

 細かいところをげたら数えきれないほどに助けてもらい、羽織さんの笑顔と、木漏こもの暖かさを思わせるような穏やかな空気に癒やされてきたはずだ。

 そんな羽織さんの窮地に、なにもしないでいられるはずもない。

 それからどれくらいだろうか?

 答えの出ない思考の無限ループを繰り返しながら、気づかぬうちに浅い眠りについていた時だった──不意にガチャリという音と共に、落ちかけた意識が引っ張り上げられた。

「……誰だ? ポメ子か?」

 いつものごとく、ポメ子が寝ている僕のベッドに忍び込もうとしているのか?

 寝ぼけながら目をこすり、開けようとした時だった。

 不意に僕のおなかに誰かが飛び乗った。

「え──」

 明らかな重さの違いにポメ子じゃないと気づく。

 まさか振袖さん!?

 昼間のデートの続きとか言って、僕を夜這よばいにでもきたのか!

 身体を強張こわばらせて目を開けた時だった。

「え……?」

 視線の先──そこには馬乗りしながら僕を見下ろすリサの姿があった。

「彰ちゃん……」

 紫の地に黒のストラップとレースとをあしらった可愛らしくも妖艶ようえんなベビードール姿。

 首回りと肩があらわになっているだけではなく、胸から下が大きく空いていて白いお腹が露わになっている。僕にまたがっているため、同じ柄のショーツが僕のお腹に触れていた。

 そんな姿を見て、一気に眠気が吹き飛ぶ僕。

「リサ、こんな時間になにを──!?

 僕が答える間もなく、リサは僕の胸に両手を添えて、かぶさるように身を寄せてきた。

 その触り方がものすごく優しくて、思わず心臓が爆発しかける。

 あまりの驚きと展開に、僕の身体は硬直して全く動かない。

 少しの間、リサは黙って僕に抱き付き──。

「ねえ、彰ちゃん……」

 リサは僕の耳元で、小さく呟く。

「──好き」

 二度目の告白。

「彰ちゃんは私のこと、嫌い?」

「嫌いなわけないだろ……」

「じゃあ好き?」

 そしてそれが、おっぱいのことを聞いているのではないことも、わかっていることだ。

「私はね、小さい頃から彰ちゃんのことが好きだったの。彰ちゃんが私の胸を触りたいって言ってくれるずっと前から。小学校に上がって、すぐくらいから、ずっと、ずっと……」

 そんなに小さい頃から?

「ずっと彰ちゃんを見てきた。彰ちゃんしか見てこなかった。だからこれは自惚うぬぼれじゃなく、私以上に彰ちゃんを理解している女の子はいないと思う」

 その声音は、一切の噓や冗談も感じられなかった。

「私なら、彰ちゃんの望むこと全部にこたえてあげられる」

 リサはそう言って体を起こして僕の手を取り──自分の胸に押し当てた。

 小さくもしっかりとした柔らかな感触。ベビードール一枚のせいか、その体温がはっきりと手に伝わってくる。思わず手が震えそうになった。

「胸はみんなに比べたら小さいけれど、頑張るから」

 この行動がリサにとって大きな意味を持つことは言うまでもない。

 お尻に自身のあるリサが、お尻ではなくおっぱいを触らせる──それはつまり、あらゆる覚悟の表れのはずだ。

「彰ちゃん。私を選んで」

「……」

「私を選べば楽になるよ。今悩んでることも、もう考えなくていんだよ」

「悩んでること……?」

 ハッとする僕。思わず疑問で返してしまった。

 するとリサは僕の顔の両側に手を置いて僕を見下ろす。

 リサの長く美しい金髪が、窓から差し込む月明かりに照らされて輝きながら垂れ下がり、僕のほおをかすめた。

「さっきも言ったでしょ? 私以上に彰ちゃんを理解している子はいないって」

 無条件で向けられる理解に、はからずも胸が熱くなってしまった。

 羽織さんや七緒さんとも違う、長い付き合いだからこそのリサの台詞せりふは、なんの抵抗もなく僕の胸に響いてくる。

 リサが悲しい時ほど笑顔で無理をすることに僕が気づいていたように、僕が悩んでいることなんてリサにとっては容易にわかることなんだろう。

 ああ……ここにも一人、理解者がいたじゃないか。

 それを素直に嬉しいと思ってしまう。

 リサに告白をされて以来、その想いをどこか本気で捉えていなかった。

 いや違う──本気だとはわかっていたけれど、近すぎる距離感故に、僕はそう捉えることを無意識に拒んでいたのかもしれない。

 本気の想いを本気で受け止めてしまったら、今の関係には二度と戻れないと思ったから。

「大丈夫。私たちは大丈夫だよ。なにも変わらない」

 そんな僕の心境を見透かすように、リサはそう言った。

「だから彰ちゃん……安心して私を選んで。私も頑張るから……」

 リサは再び身を寄せる。

 だけど、それはさっきとは違う。見つめ合う瞳。近づく顔。リサは瞳を閉じる。

 迫る唇は、こんな暗闇ですらつやっぽく赤く染まり──触れそうになるその瞬間だった。

「なっ……」

「「──!?」」

 うめくような声に驚いて視線を向けると、そこには困惑した表情を浮かべる下着姿の振袖さん。

 今日僕が洋服を買ってあげたついでにプレゼントした純白の下着。ただ白いだけだと思ったら大間違い。その下着は色合いの美しさよりも、装飾の美しさにこだわったオールレースの勝負下着。

 下着の解説はともかく、次の瞬間──その長い髪が天を突いた。

「貴様……よくもぬけぬけと抜け駆けを……」

 震える声はもはや怒りを自制する気がゼロ。

「私より先に夜這いをするとはいい度胸だな桃尻娘があああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 やっぱりそうですよね!

「出てって」

 そんな振袖さんに、リサはきっぱりと言い切った。

「邪魔しないで」

 その声音は、どこか冷たくも切実に部屋に響いた。

「邪魔だと……?」

「そう。邪魔。あなたの相手をしてるひまなんてないの。のんびりしてると取られちゃう」

「ああ取るとも。お前のような尻だけの女に主様は渡さない!」

 すると、リサは一瞬だけ怖い顔を浮かべた後、呆れたように小さくめ息をついた。

「なにもわかってないのね。わたしばっかり気にして……本当のライバルは、わたしにとって生徒会長じゃなく、生徒会長にとってもわたしじゃないのに」

「どういう意味だ?」

 ぶつかり合う視線。

 鬼神モードの振袖さんに一歩も引こうとしないリサ。振袖さんが部屋に足を踏み出した瞬間、一瞬だけリサの身体が強張り僕を拘束する力が抜ける。

 今しかない!

「きゃっ──」

 とっさにリサを振りほどく。

「彰ちゃん待って──」

「お前様──」

 引き留める二人の声に、僕は振り返ることなく部屋を後にした。



 その後、逃げた僕が避難場所としてやってきたのはお風呂だった。

 この前の服部三姉妹とのバッティングのようなミスをしないため。そして振袖さんとリサの侵入を防ぐため、今度はちゃんと脱衣所のカギは閉めてある。

 とにかく一度、頭の中をリセットしたい……そう思うほど、今日は色々あった。

 振袖さんの想いを知り、リサの想いを改めて知り、その想いに対して、こんな僕にだって思うことは多々あった。ただ、その結論を一言で述べるのなら。

「……最低だな」

 その一言に尽きる。

 我ながら、自分のはっきりしなさに嫌気がさした。

「このままってわけにもいかないけれど……」

 大きくめ息をつき、僕は湯船に顔の半分をうずめた。

 一度わかっていることを整理しよう──僕は自分に言い聞かせる。

 振袖さんとリサは、明確すぎる愛を語ってくれた。

「こんな僕のことを……」そう思うと、にわかに信じがたいけれど、僕は二人の気持ちを嬉しいと思う気持ちは本心だし、光栄なことだとも思っている。

 二人の僕への想いは、僕に一つの理解を与えてくれた。

 それは、女の子から向けられる恋愛感情。

 となると、わからないのはあと一つだけ──それは、僕自身の想いだ。

 なんども口にしているけれど、僕は生まれてこの方、おっぱい以外を愛したことがない。

 女性に対する恋愛感情という意味での恋を経験していない僕にとって、向けられる想いが恋愛感情だと理解したところで、僕自身の本当の気持ちが、自分のことなのに見えてこない。

 仮にそれを理解できたとして、僕はその時──どんな答えをだすのだろうか?

 こうしてまとめてみれば、結局のところ僕自身のことだけなんだ。わからないのは。

「はぁ……」

 思わず顔の半分どころか頭まで湯船につかる。

 おっぱいだけを愛していたあの日──僕の青春の全てがそこにあったはずだ。

 だけど、もう二度と、今までのようにはいかないのかもしれない……まるで自分の心境が、自分のことじゃないみたいに混迷を極めるのだった。



 結局一時間近くもお風呂に入っていた僕。

 なにか飲もうとキッチンに足を運ぶと、すでに電気は消えていた。

 暗闇の中、冷蔵庫を開けて適当にジュースを手に取り一気に飲み干す。お風呂で温まった体が内側から冷え、ようやく一息つけた気がした。

 もう少し涼もうとリビングに足を運ぶと──。

「……羽織さん?」

 そこには、窓際のソファーで外を眺める寝間着姿の羽織さんがいた。

 木々の隙間から覗く月の明かりをその身に浴びる羽織さん。暗闇に浮かんで見えるほどの白いはだがどこか幻想的で美しい。はかなげに外を眺めるその表情に、思わず見惚みとれた。

「こんばんは」

「こんばんは……こんな時間にどうしたの?」

「寝付けなくて、少し涼みに降りてまいりました。創真君は?」

「色々あって、ちょっとお風呂にね。僕も少し涼もうかなって」

「でしたら、一緒にいかがですか?」

「うん」

 いつものように穏やかな表情を浮かべる羽織さんの誘いを受け、僕は隣に腰を下ろした。

 だけど、いざこうして二人きりになるとなにを話したらいいんだろう。

 話したいことは、たくさんある。

 ──神社でのあの言葉の意味は?

 ──どうしてウエディングドレスのモデルを引き受けたの?

 ──明後日の撮影、本当に大丈夫?

 細かなことまで挙げたらきりがないほどに。

 だけど、その全てを口にする勇気はなかった。

「気が付けばもう三日目……旅行の半分が終わるのですね」

 静かに流れる時間の中、空気が僅かに震える。

「うん……なんだかんだあっという間だよね」

「はい。この旅行が終われば、またいつもの毎日が始まります」

「うん……」

「楽しい時間は早く流れるという言葉の意味を、私は初めて知ったように思います。これまでは学校と家業の両立で忙しい日々を過ごしていましたから、こんなにもゆっくりすることは久しくありませんでした。創真君と仲良くさせて頂いていなければ、こうして過ごすこともなかったのだなと思うと嬉しく思うと同時……正直、凄く名残なごりしいです……」

 その表情は変わらず穏やかなのだけれど、僅かに悲しみの色を帯びていた。

「家業の合間をって、またこうしてこようよ」

「本当ですか?」

「うん。僕もまたこうしてきたいと思うし」

「社交辞令ではありませんか? 本気にしますよ?」

「もちろん。来年も再来年も」

「……ありがとうございます」

 羽織さんは小さく頭を下げた。

 それから僕らは他愛のない話に少しだけ花を咲かせた。

 内容の大半は思い出話だったりして、出会った頃のことや、部活のこと。春休みの僕の告白や振袖さんから受けた婿宣告。七緒さんのオーディションのことなどなど。

 こうして思い出話を懐かしんで話せるくらいには、僕と羽織さんの付き合いも長くなった。話をしていると、その都度つど感じた僕の想いも徐々に思い出されていく。

 初めて出会った理想のおっぱい──そのおっぱいと同じくらいかれた羽織さんの人柄。感じていたシンパシーはお互い共通で、それを嬉しく思って……あふれる感情の再現はとまらない。

 ああ……やっぱりいいな。この空気は……。

 さっきまであれほどざわついていた心が噓みたいに落ち着いていく。まるで新緑の森の中に差し込む木漏れ日を背に浴びているような暖かさと心地よさ。

 そう。いつだって、僕らを包む空気はこうだったはずだ。

「創真君」

「なんだい?」

 呼びかけられてふと見つめた顔に、僅かに息をのんだ。

「撮影の件ですが──」

 僕が触れようとして触れられなかったところに、羽織さんがみずから踏み込む。

「ご心配をおかけしているのも、ご迷惑をおかけしているのもわかっております。ですが──私は、生まれて初めてチャレンジをしようと思います」

「羽織さん……」

 その決意と覚悟に満ちた瞳に、いつかの七緒さんの瞳を思い出す。

 そうだ──この瞳は、七緒さんが初めて最終オーディションに参加した時と同じ目。

「ですからどうか、見ていてくださいね」

「羽織さん……」

 羽織さんがこの撮影に懸ける想いはわからない。

 それが羽織さんにとってどれだけ意味のあることかもわからない。

 わからないけれど──。

「うん。頑張って」

 僕は不安に思いながらも、そう返したのだった。



 羽織さんがリビングを出ていった後も、僕はしばらくその場に留まり考えていた。

 先ほどまで羽織さんがいた席を照らしていた月明りも、気が付けば僕に降り注いでいる。窓から空を見上げれば、まるで見つめ合っているかのように月が僕を見下ろしていた。

「よし……」

 僕は羽織さんになにがしてあげられるだろう?

 その答えが出ると同時、僕は椅子いすから立ち上がる。

 さんざん悩んだ僕だけど、もう迷いはなかった。


 この時に羽織さんが見せた、過剰すぎる想いの強さを表した瞳。

 後にして思えば、余裕のない表情と思わざるを得なかった悲痛な瞳。この時に気づいていれば──そんな後悔は、やっぱり先に立たなかった。