ポメ子はモゴモゴとなにかを叫ぼうとするんだけど、なにを言っているかわかるはずもない。

「後で好きなだけお菓子を買ってやるから静かにしててくれ!」

 ポメ子を黙らせる魔法の言葉は効果絶大。ポメ子は僕の腕の中でピタリと息をひそめた。

 ホッとするのも。背中に触れる岩の丁度反対側では、今まさに羽織さんが温泉に浸かろうとしているはず。静かになったせいか、妙に周りの音が耳に響いていた。

 すると、小さな音と共に湯面が波を打ち、僕のところまで波紋が広がってくる。

 やばい──どうする? このままじゃ見つかるのも時間の問題だ。

 高速で回転する頭は解決策よりも言い訳ばかりを運んできやがる。

『姉さんにだまされたんだ!』『混浴なんて知らなかったんだよ!』『ぶっちゃけおっぱいが見たくて忍び込んでいました。テヘッ♪』ダメだ。最後の台詞せりふは半分本心だけど死亡フラグすぎる。

 いや待て──冷静になるんだ。

 僕はそう自分に言い聞かせ、深呼吸をして思慮しりょを巡らせる。

 どうせ見つかってしまうのならば、いっそ堂々と見てしまった方がいいんじゃないか?

 たとえそれが故意であろうとなかろうと、女性のお風呂をのぞいた男の処遇がどれだけ凄惨せいさんなものかは、覗きにロマンを求めた多くの先人たちが身をもって証明している。

 つまりなにが言いたいかというと──どうせ怒られるなら見ないと損じゃない?

「ふぅ……」

 なんてバカなことを考えていると、リラックスした吐息の漏れる声が聞こえた。

「羽織、湯加減はどうだ?」

「とてもいいです。お姉様たちも早く」

「うむ」

 そんなやり取りの後、再度湯面に二つの波が広がってくる。

 間違いない。今、岩越しに三姉妹が並んで温泉に浸かっている。

 どうする!? 煩悩が理性の壁を全力で破壊にきているよ!

「織姉。ちょっと狭いからもう少しそっち行ける?」

「ええ」

 え──。

「「──!?」」

 息が止まった。たぶん、もうすぐ心臓も止まる。物理的に。

 七緒さんに言われて少し移動した羽織さんと、ばっちり目が合ってしまった。

 もう隠しようがないほどにお互いを認識し、一瞬なにが起きたかわからずに見つめ合う。

 状況を理解した僕が視線を下げると、そこには羽織さんの谷間。湯につかり重力からやや解放されたおっぱいは、水面からひょっこり顔を出そうとする。

 なるほど。目のやり場に困るっていう言葉はこういう時に使うのか──って、なにを冷静になっているんだ僕は! こんな時まで煩悩全開の自分殴ってやりたい。

 その時だった。

「……」

 羽織さんは何事もなかったかのように僕に背を向けた。

 どうして──?

 そう思って、僕はすぐに察した。

 羽織さんが岩に寄り添うように身体を近づけたことで、僕の方からは振袖さんや七緒さんが完全に見えない。つまり、羽織さんが僕をかくまってくれている?

 僕は更に身を潜め、羽織さんの陰に隠れるようにして時間をやり過ごす。

 しばらくそんな時間が続いた。

「さて、のぼせてしまうといけない。そろそろ出ようか」

「うん。あれ? 織姉は出ないの?」

「ええ。せっかくなのでもう少し入っています。二人は先にどうぞ」

「そうか。あまり長風呂をしないようにな」

 振袖さんはそう忠告し、七緒さんと共に温泉を後にした。

 それからしばらくして、二人が脱衣所を後にした頃、僕はそっと声をかける。

「羽織さん……」

 未だ僕に背を向け続ける羽織さん。だけど、羽織さんはなにも答えなかった。

 すると不意に、羽織さんが僕に寄り掛かるように背中を倒してきた。びっくりしてとっさにその肩を支えて羽織さんの顔を覗き込むと、羽織さんは顔を真っ赤にして気を失っていた。

「羽織さん!? 大丈夫!?

 肩を揺らすと大きなおっぱいもお湯に浮いてたぶたぶと揺れる。それでも気を取り戻さない羽織さんの肩を揺らし続けると、振動で巻いていたタオルがはだけた。

「やばい! もうなんだか色々ヤバすぎる!」

 理性が飛びかけて、僕は心の中で大きく一歩を踏み出してえる。

 今は羽織さんを介抱しなくてはいけない! こんな時くらい引っ込んでろよ僕の煩悩!

 自分に言い聞かせ、僕は羽織さんをお姫様抱っこでお風呂から連れ出した。

 後から知ったことだけど、どうやらポメ子ものぼせて温泉で浮かんでいたらしい。

 ごめん。気づく余裕なんてなかったよ。



 お風呂を上がった僕は、羽織さんの裸を(極力)見ないように身体をき、浴衣を着させてリビングへと運んだ。熱を冷まそうと、ソファーに寝かせて羽織さんを団扇うちわあおいでいる。

 今にしてみれば、姉さんや七緒さんにお願いする方法はいくらでもあった。

 後から僕が入ろうとしたら羽織さんがのぼせて倒れていたとか。でも、驚きすぎて頭が回らなかった。とにかくなんとかしなくちゃって必死すぎたんだろうね。

 ていうか姉さん! ぜったい羽織さんたちに僕が入っていること言ってなかっただろ! いや、そもそも三姉妹は僕の後に入るはずじゃなかったのか!?

 なんて怒ったところで、姉さんが無茶苦茶むちゃくちゃするのはいつもの話。

 気づかなかった僕にも非はあった。

 くそ……警戒心が足りなかったありがとうございます!

「んん……」

 姉さんへの八割の抗議と二割のお礼にもだえていると、羽織さんが吐息を漏らした。

「気が付いた?」

「……創真君?」

 ゆっくりと目を開けた羽織さんは、とろんとした顔で僕を見つめていた。

 しばらくして状況を察したのか、はっとした表情を浮かべた後、顔を赤くして手で押さえる。

「その……私、お風呂で気を失って……」

「うん。僕がここまで運んだんだ」

「でしたら……」

「でも安心して欲しい。極力見ないようにしたから」

 極力っていうのは最大限見ないように努力をしたって話で、たまたま視界に入ってしまったりするのはしかたないよね! 言い訳なんだけど、羽織さんはほっと胸をなでおろした。

 直後──ハッとした顔でウエストの辺りをさする。

「……ごめん。さすがにパンツまで履かせる勇気は僕になかった」

「いえ……その、お気遣いなく……」

 さすがに全力で恥ずかしい。誰か助けて。

「ありがとうございます。でも創真君にでしたら……」

 語尾がもにょもにょ。よく聞き取れない。

「ごめんね」

 僕が謝ると、羽織さんは小さく首を横に振った。

「謝らないでください。私の方こそご迷惑をおかけして……ありがとうございます」

 まだのぼせた様子の顔で、羽織さんは笑顔を見せてくれた。

 その全てを甘受かんじゅしてくれるような表情に、僕の胸が僅かに痛んだ。

 冷静に考えて、男の友達に裸を見られてお礼を言うこの状況はおかしい。いくら羽織さんが僕を信用してくれていたとしても、許容できる限界は超えていると思う。

 それなのに、羽織さんはこんなにもいつもと変わらない。

 ふと思い出される、あの日の羽織さんの真剣な瞳と言葉。

「……僕の方こそありがとう」

「創真君がお礼をいうことなんて……」

「振袖さんや七緒さんにばれないようにかばってくれたんだよね? 普通なら悲鳴を上げられてもおまわりさんを呼ばれても言い訳できない状況だった。そのくらいは自覚してるよ」

「創真君は決してそのようなことをする人ではないとわかっています」

 さっきと別の意味で胸が痛んだ……羽織さんの中で僕はどれだけ紳士なんだろう?

 口が裂けても普段から視姦プレイしてるとか言えない。

「もしも創真君が女性の裸を見たいと思っていらっしゃるのだとしても、創真君は覗きなんてしません。正面から、その想いを隠すことなく正々堂々と仰ると思うのです」

「……」

「そう──春休みに、私にそうしてくれたように」

 ああ……もうだめだ。これはやばい。茶化して誤魔化し続けられない。

 何度思ったことだろう。もう二度と、こんなに僕のことを理解し受け入れてくれる人は現れないんじゃないかという確信。七緒さんのそれとも違う、無条件で向けられる信頼。

「そうわかっているからこそ、お風呂場で創真君をお見かけした時、なにか事情があるのだと思いました。でしたら大事おおごとにしたくない……そう思ったのです」

 なんだろうこの胸を刺すような、締め付けるような想いは。

 共に夢を目指す七緒さんに感じた想いとはまた違う、衣装作成の際に僕を導いてくれた振袖さんの頼もしさとも違い、リサに向けられた明確な好意を受けた時ともまた違う感情──。

 言葉にしがたいあらゆるものが、僕の口を固く閉ざした。

 今までの僕だったら、きっとこんなお色気イベントがあれば罪悪感を感じつつも、心のどこかで喜んでいたはずだ。だけど、とてもじゃないけど今はそんな気分じゃない。

 じゃあなぜか?

 その答えはもしかしたら──。

「……ありがとう」

 今の僕には、こう答えるのが精一杯だった。


 その後、羽織さんのほてりが冷めるまで僕は黙って団扇で羽織さんを扇ぎ続けた。去り際ですら、笑顔で「おやすみなさい」と言ってくれた羽織さんに言葉を返すだけで精一杯。

 結局この日、僕は悶々もんもんとしたまま明け方まで寝付くことができなかった。

 きっと……いや、まさか。

 そんな肯定と否定を繰り返し続けた。