「ねぇ、ケイリスくん。プラザトスには、めいぶつとかってないのかな?」
「名物ですか……ボクがいた頃は、グルーヴェという果物と、それを使ったジュースやお酒なんかが有名だったと思います。グルーヴェは糖度が高いので、甘くて美味しいんですよ。お酒は女性にも人気です」
おぉー。じゃあお土産に買って帰ったら喜ばれるかな? うちのお母さんにお酒を飲ませるのは絵的にマズいので、ジュースにしておきましょう。お兄ちゃんも一緒に飲めますしね。
あ、果実を持って帰っても良いかも!
「ほかには……やっぱり鉱山都市の工芸品でしょうか」
「たしか、せんもんのおみせがあるんだよね?」
「ええ。多少値は張りますが、どれも一級品ですよ。日常的に使う食器なんかも、安いものよりずっと長持ちしますから、結果的には得という声も良く聞きます」
なるほど、「安物買いの銭失い」という言葉もありますもんね。
包丁とか買って帰ったら、お母さん喜んでくれるかな? お兄ちゃんは騎士に憧れてるみたいだから、短剣でもプレゼント……いや、だめだな。危ないし。けん玉とか知恵の輪みたいなものにしとこっと。
私がそんなことを考えていると、
『セフィリア殿、首輪の件でお話が。入ってよろしいか』
私たちの部屋の扉をノックする音と共に、低くて渋い声が廊下から響きました。どうやらダンディ隊長みたいです。
私はベッドから起き上がると、ケイリスくんに向かって頷きました。
ケイリスくんが部屋の扉を開き、その向こうからダンディ隊長が顔を見せます。
「急で申し訳ない。首輪の件で報告したいことがあるのだ」
私は首輪に関する報告を聞こうとして……しかしちょうど良かったので話の前に、
「あ、そこのクローゼットにはいってるモノ、もういらないからひきとってくれない?」
「む?」
ダンディ隊長は私の言葉を受けて、部屋の奥にあるクローゼットを開きました。
「…………こ、これは、一体……?」
「わたしたちのことを、こそこそかぎまわってたおじさん。ミールラクスのかんけいしゃだったよ。もうじょうほうははかせたからいらないんだけど、しょぶんにこまってて」
私がそう言うと、ダンディ隊長は「……う、うむ。了解した」と言ってクローゼットを静かに閉めました。……あれ、どうしたの隊長さん? 顔色悪いけど、大丈夫?
「この男は、今日捕えたのか?」
「ううん、きのうだよ。ルグラスさんのいえにいったかえりに、レジィがつかまえてくれたの」
まぁ、尾けられてるのはもっと前から知ってましたけどね。
どれくらい泳がせておこうか迷ってたんですが、さすがにルグラスさんに接触したことをミールラクスにチクられたら面倒なので、レジィに指示を出して捕まえてもらいました。
それからは簡単で、ケイリスくんが宿の主人の気を引いている間に、ネルヴィアさんとレジィで男を部屋に運び込んだのです。
心を読めるルローラちゃんが私の仲間に加わっていたことは、この男にとっては最高の幸運だったと言えるでしょう。……私の尋問を受けずに済んだのですからね。
男の心を読んだ結果、どうやらミールラクスが私たちを監視していたのは、ゴルザスが騒ぎ立てていたからみたいです。彼はネルヴィアさんに恥をかかされてますからね。あの男の性格からして、このまま引き下がるとは思えません。
とはいえ、そのおかげでミールラクスの手の内が読めたというのは皮肉なものです。
「くびわのけんっていうのは、わたしを『りんじさいばん』にかけようってはなしでしょ?」
私の問いに、ダンディ隊長が申し訳なさそうに目を伏せながら頷きます。
「その首輪……『魔導桎梏』」は、本来であれば犯罪者にかけられるべきものだ。だからこそ、首輪をかけられたことが本当に手違いであるのかを、裁判にて厳密に精査する必要がある……と」
「そういうたてまえなんだ?」
「……うむ」
そう、そんなものは建前です。
むしろリルルという外部の敵性に、警察・司法の機関が備品をパクられるなんてことは、本来あってはならないことでしょう。それも、その備品が悪用されて帝国の勇者に使われるだなんて……国際問題も良いところです。
ですからイースベルク側としては、この落ち度をなんとしても認めるわけにはいきません。この事は、ルグラスさんが苦渋の表情で説明してくれたことです。……まぁ、ルグラスさんは私に平謝りしてくれましたけど。
だから私を裁判にかけて、適当な難癖を付けて拘留してしまおうというのがミールラクスの算段というわけです。
「……本当に、申し訳ない」
「あなたがあやまることじゃないよ」
「……ごめんね、勇者さま」
「い、いやルローラちゃんがあやまることでもなくって……」
ダンディ隊長が頭を下げるのに続いて、いつの間にか起きていたルローラちゃんまで私に頭を下げました。そりゃまぁ、元をただせば全部リルルが悪いんだけどさ……。
私は「こほん」と咳ばらいを一つして、
「いいよ。わたしとおはなしがしたいのなら、かなえてあげる。『りんじさいばん』にでるよ」
「セフィ様!」
その宣言に、私の隣に座っていたネルヴィアさんが真っ先に声を荒げます。
「敵の狙いはセフィ様の身柄を拘束することなんですよね!? でしたら、裁判なんて形だけで……」
「そうだね。それこそ『まじょさいばん』みたいなものだよ」
私の口にした『魔女裁判』という言葉に、他の全員が不思議そうに首を傾げます。
ありゃ、そういえばこれは前世用語でしたか。いけないいけない。
「たいちょうさん。まぞくのむれは、いまどのあたりまできてるかわかりますか?」
「む? 聞くところによると、すでにプラザトスより馬車で五日ほどのところまで来ているようだ」
「げいげきするたいせいは?」
「予定通り、騎士団はプラザトス周辺で迎え撃つことになっている。あまり前方に兵を配備したせいで、魔族が左右に散らばってしまってはマズイからな。言い方は悪いが、首都を餌にする。それにプラザトスの外周防壁を利用できるのは戦略的にかなり大きい」
「かてるの?」
「……事がうまく運べば、前線の『リバリー魔導隊』が魔族たちの背後から挟撃を加えてくれる算段となっているが……それが無かったと仮定すれば、騎士団の大損害を覚悟して八割……いや七割ほどだろうか。首都外周にも多少なりとも被害が出るかもしれん」
そうですか、そうですか、そいつは重畳。
私は意識的にニヤリと悪い笑みを浮かべながら、隊長さんの目をまっすぐに見据えます。
「イースベルクのめいうんをにぎるたたかいのしょうさんが『ななわり』ってのは、ふあんだよね?」
そこまで言うと、私が何を言いたいのか、ダンディ隊長は察したみたいでした。
「まさか……」
「ミールラクスがどうでるか、それにもよるけど……なにもかんがえずに『まじょさいばん』にのぞもうってわけじゃないよ」
不安げに私を見つめるネルヴィアさんに笑いかけながら、私は自分の白金色の三つ編みを軽く撫でます。
魔女裁判にかけられた魔女が生き残る方法は二つ。
一つは、誰も手出しができないほどに、圧倒的な魔女であること。
そしてもう一つは……より疑わしい魔女を民衆に提示することです。
***
翌日の正午。
プラザトス中央裁判所には、多くの傍聴人が集まっていました。
裁判所の内装は、私が前世でぼんやり知っているものと大差はないように思われます。ただ、多少宗教的な意匠が強いかな、といった感じです。
臨時裁判というだけあって、最初はもっと小さな裁判所で済ませる予定だったみたいですが……もしも話がこじれて私たちが実力行使に訴えることを考えれば、彼らとしては傍聴人をたくさん呼んで抑止力として配置するくらいしか身を守る術がないでしょう。
なんせ私が動かせる戦力は、最低でもドラゴンを打ち倒すレベルです。この裁判所の警備兵に止められる見込みはありません。
首輪の『逃走防止機構』とやらも、アテにはできませんからね。
つまりこちらの戦力を相手に伝えることにより、広い裁判所と多くの傍聴人を引き出したのです。
ダンディ隊長やルグラスさんと協議に協議を重ねた結果の策。上手くハマって何よりです。
ちなみに現在、私の仲間たちは合図があるまで裁判所の外で待機中です。
ネルヴィアさんは剣を没収されると面倒ですし、レジィとルローラちゃんは身体検査されたら一発アウト。ケイリスくんも念のためお留守番。
なので証言台には私と、それから弁護人のルグラスさんだけが立っています。
……立っているっていうか、私は背の高い椅子にちょこんと座っているだけですけど。
裁判長っぽい黒服のお爺ちゃんの傍らには、白髪と茶髪が半々くらいの、小太りのおじさんが座っていました。そのいやらしい笑みに不快感を覚えた私が、ルグラスさんに目を向けると、
「……あの男が、ミールラクスです」
ミールラクス……!!
自分が大統領になり変わるためだけに、自分が名声を得たいがためだけに、身勝手な謀略を実行した張本人!!
大臣を殺害して、ゴルザスにその証拠をトリルパット家に仕込ませて、屋敷に長年仕えていた家政婦長を拉致して痛めつけ、当時大統領だった実の弟であるグラトスさんを謀殺して……。
ケイリスくんの幸せを奪った、忌まわしい怨敵……!!
人は見かけによらないとは言いますが……しかしあれほど見かけが内面を雄弁に物語っている例はありませんね。見ているだけで胸がムカムカしてきました。
っていうか、前世で私のチームに無茶ぶりばっかりしてきた得意先の所長に顔が似ていて、倍率ドンで業腹です。
是非とも今すぐぶっ飛ばしてやりたいところですが、ここはまだ我慢の子。怒りに任せてすべてを台無しにしてしまうわけにはいきません。
今はまだ、私たちの望み通りにミールラクスが直接姿を現してくれたことを喜ぶに留めましょう。この状況を実現するために裏で手を回してくれたルグラスさんに感謝です。
ミールラクスが最も警戒している獅子身中の虫とも言えるルグラスさんが、現在プラザトスにおける最重要人物とも言える私の弁護人を買って出たのです。そんなの、裁判所の外で優雅にお茶してられるわけがありませんよね。
一歳児の姿で法廷に現れた私を見てざわめきたっていた裁判官や傍聴人たちも、そろそろ落ち着きを取り戻してきたみたいです。
やがてドラマのように「静粛に」と裁判長が言い放ち、法廷は静寂に包まれました。
……あのトンカチみたいなのをカンカン鳴らしたりはしないんですね。一度見てみたかったんだけどなぁ。
「これより、巡礼修道士セフィリアの審問を始める」
私が帝国軍人とか勇者っていうのは隠して進めていくことになっています。そこを認めちゃうと、共和国があとで大変なことになっちゃいますもんね。
まだ身元は調査段階で、確たる証拠がないためどこの国に所属しているかは不明な段階で臨時裁判を開廷した、ということにするみたいです。
「まず、被告が……魔術師であるという件は本当かね」
「はい」
裁判長の問いかけ、そして私の答えに、傍聴席がにわかにざわめき立ちます。
一歳児に魔法封じの首輪を嵌めておいて、その赤ん坊が魔術師であることを確認……普通なら頭か精神の健康を疑われかねない発言です。実際、裁判長も自分で言っておきながら、「なに言ってるんだ私」みたいな困惑顔を浮かべていますしね。
ちなみにミールラクスと民衆が同時に存在する公的な場というのは、魔族の軍勢が首都に押し寄せるまでのわずかな時間ではここだけでした。
この共和国の未来を決しかねない裁判に、ミールラクス本人が姿を見せないはずがないというのがルグラスさんの主張でしたからね。手柄は自分のものにするはずだ、と。
そしてその推測は実際、現実のものとなりました。
……聞くところによると現在、魔族の軍勢はプラザトスまで残り数時間で到達すると見込まれています。そんな時に、悠長に裁判なんてしてても良いのかと思うかもしれませんが、しかしミールラクスたちにとって、この裁判こそがプラザトスの命運を握る鍵なのです。むしろ時間がないからこそ、大急ぎで諸々の資料をかき集めて手続きを済ませ、この裁判を開廷させなければなりませんでした。
それらの準備がてんやわんやだったという裏話は、ルグラスさんからこっそりと聞いています。
しかも……ふふふ。魔族の襲撃ギリギリに裁判が開廷されるように、わざと私たちが済ませる手続きをちんたらやったり、いきなり行方を眩ませてやったり、ミールラクスが派遣してきた交渉人との『裏取り引き』に曖昧な態度を取り続けて焦らしてみたりしましたからね。いえ、実際各方面の人たちに会いに行ってたので、すごい忙しかったんですけど。
そのせいか、ダンディ隊長の息がかかっていない騎士や兵士、それからミールラクスにお尻を蹴っ飛ばされて急かされまくったであろう役人の皆さんは、全員気が気じゃないって感じの青い顔をしちゃってました。
裁判長は取りだしたハンカチで額を拭いながら、コホンと咳ばらいをしました。
「被告は魔導桎梏を不当に嵌められたとして、その解除を請求しているようだが、魔導桎梏はプラザトスにおいて厳重に管理されている。その首に嵌められているものは、何者かが作製した精巧な模造品で間違いない」
……ということにして欲しいわけですね。
「とはいえ性能が類似していることから、その模造された魔導桎梏の解除も可能であろうというのが技術局の見解である。そのため解除請求を認可することも吝かではない」
実際は本物の魔導桎梏なので、鍵を持ってきたら三秒で解除できるってことは、ミールラクスが何度も派遣してきた交渉人の心をルローラちゃんが読んだことで判明してますけどね~。
だけど万が一にも私が勝手に解除して、しかも首輪を帝国で調べられたりなんてしたら大変なことになっちゃうでしょう。だから彼らは自分たちの手で首輪を解除した上で、速攻で処分して証拠隠滅しちゃいたいのです。
私の胡散臭そうな目つきに射抜かれた裁判長は、目を逸らしつつも次の議題に移りました。
「しかしその前に、被告の罪状について話をしなければならない」
来た。
私がミールラクスに視線を向けると、ヤツは浮かべていた笑みをさらに露骨なものにします。
「被告はドラゴン討伐作戦に仲間を率いて協力し、その魔法によってドラゴン討伐に多大な貢献をしたと報告を受けている。間違いないか?」
「ええ」
一歳児がドラゴン討伐に貢献という冗談みたいな文句に、傍聴席からは驚きの声があがったり胡散臭そうな視線が向けられたりしています。
というか、ドラゴン討伐を無かったことにしようとしていたゴルザスの言葉はスルーしていく方針になったのですね。哀れゴルザス。
傍聴人たちの反応を強引に無視するような形で、裁判長は顔を顰めながらも続けました。
「攻性魔術取締法により、民間が他者を害する恐れのある魔術を用いることは固く禁じられている。民間に攻性魔術の使用を許可できるのは大統領及び師団長クラスの役職のみとされており、被告は許可なく攻性魔術を用いたこととなる。これについて異論は?」
「いいえ。たしかにわたしはイースベルクのきょかをえずに、まほうをしようしました」
私の返答に、裁判長は忙しなく頷いてから、一瞬だけミールラクスへ目配せをします。
そして大きく鼻から息を吸い込むと、お歳の割にはよく通る声を響かせました。
「それでは被告を、攻性魔術取締法違反により───」
裁判長が私の刑を言い渡そうとした、その時。
「まぁ、まぁ。裁判長、少しお待ちなさい」
空々しくも穏やかなミールラクスの声が、裁判長の審判を遮りました。
まぁ、裁判長の黙り方がちょっと不自然だったかな~、なんて思ってしまうのは、私が筋書を知っているためでしょうか?
ミールラクスはゆったりと鷹揚な所作で私に顔を向けると、わざとらしい笑みを貼りつけて口を開きました。
「聞けば、セフィリア殿とその仲間たちがいなければ、ドラゴン討伐の成否は違っていたかもしれないという話ではありませんか。それに彼女たちはイースベルクのためを思って行動してくれたのです。それらを勘案すれば、彼女の行動を一方的に罪に問うというのは、些か乱暴ではありませんか?」
原稿を朗々と読み上げるような口調で紡がれたミールラクスの意見に、裁判長は「う、うむ……」とぎこちなく頷きます。
ミールラクスは傍聴席の聴衆に語り掛けるような口調で、さらなる演説を続けました。
「しかしセフィリア殿の外見は、あまりに幼い。そんな彼女がドラゴン討伐に貢献したなどという話を、おいそれと信用できる人はおられないでしょうな。だというのに、それを私の独断で減刑するというのも如何なものでしょう」
私が傍聴席を盗み見ると、傍聴人たちは困惑したような表情でこの裁判を見守っています。しかし中にはミールラクスの言葉に強く頷いている人もいました。サクラかな?
「ならばそれが真実であることを、彼女に証明してもらえば良いのです。ちょうどもうすぐ、このプラザトスへと魔族の群れがやってきます。我が国の騎士団だけでも十分に対応は可能ですが、そこにセフィリア殿も戦いに加わってもらいましょう。そしてドラゴンを討伐せしめたというその実力を遺憾なく発揮してもらえば、我々の疑惑も晴れようというものではありませんか」
ミールラクスの提案を聞いた聴衆は、目に見えて表情を明るくさせます。
私の実力は知られていませんが、しかし少なくとも私とその仲間たち、そして共和国の騎士たちが協力してドラゴンを討伐したというのは事実なのです。
私たちが参戦することで少しでも騎士団の被害が減るならそれで良し。私たちが戦果を残せなかったり戦死したとしても、共和国としては痛くありません。思わぬ活躍をしてくれても大いに結構。
何より首都を魔族が襲撃するというかつてない事態において少しでも戦力が増強されることは、プラザトスの民衆にとって喜ばしいことです。本当に騎士団が魔族を退けてくれるのかと、今も不安で仕方がないでしょうからね。
「さぁ、セフィリア殿。我々を納得させるだけの活躍を見せてくれれば、首輪を外すことはもちろん、恩赦を与えて差し上げてもいい。このイースベルクのために、その力を振るってください」
「は? イヤですけど」
「………………え?」
ミールラクスは初めて笑顔を崩すと、その細い目を精一杯に見開きながら、間抜けな声を漏らしました。
「今、なんと……?」
「ですから、イヤといったんです」
事前に打ち合わせた通りのセリフを返さなかった私に、ミールラクスは大いに表情を引きつらせ、裁判官たちは顔色を青ざめさせています。
しかしそんなことは気にもしていない態度で、私は露骨に盛大な溜息を一つ吐きました。
「べつに、まぞくぐらいたおしてしてあげてもいいんですけどね? ただ、じゅんじょがぎゃくなんですよ」
「な、何を言って……」
「まず、あらかじめおつたえしているとおり、わたしは『じゅんれいしゅうどうし』ではありません」
そう言いながら私が手を差し出すと、私の傍らに佇んでいたルグラスさんは、懐から取り出した布を私に手渡してくれます。
そしてこの場における全員が目を丸くさせている中で、私はそれを───特別階級章が胸元に光る、帝国軍魔術師の軍用外套 をばさりと羽織りました。
「わたしはヴェリシオンていこくぐんちゅうおうしれいぶまじゅつばくりょうちょう、〝逆鱗〟のセフィリア! こうていへいかよりていとぼうえいのにんをおおせつかった、ていこくまじゅつしです!!」
私は高らかに名乗りを上げた瞬間、少しだけ魔力を解き放って周囲を威嚇しました。
呆気に取られて言葉を紡ぐことができずにいる彼らをよそに、私はさらに畳みかけます。
「わたしは、ヴェリシオンていこくはしゅと、ていとベオラントにおわす、ヴェルハザード・バルド・ベオラントこうていへいかより、まじゅつしようにおけるさいりょうけんをたまわっています! よって、たしかにわたしはさきほど『イースベルクのきょかをえずにまじゅつをしようした』とはいいましたが、こうていへいかのきょかのもとでまじゅつをこうししているぐんじんです。つまりこうせいまじゅつとりしまりほうとやらにはていしょくしません!!』
高らかに宣言された私の言い分に、それまで硬直していた裁判長が、やや腰の引けた声色で反論しました。
「だ、だが、我々の方では、被告の身分の確認はまだ取れては……」
「ではハトでもなんでも、いますぐにていこくにとばせばよろしいではありませんか? これからいっしゅうかんでもにしゅうかんでも、わたしはここでまってもかまいませんよ」
即座に返された反論に、裁判長は黙りこんでしまいます。
この裁判は本来、あらかじめミールラクスによって書かれたシナリオ通りにセリフを読むだけのものでした。だから見るからに明確な綻びがあろうとも、暗黙の了解でスルーされるはずだったのです。それが事前に『裏取り引き』で定められた条件なのですから。
しかしちょっと私がそのシナリオを外れて突ついてやれば、あっさりと瓦解してしまうような薄氷のごとく脆い筋書きでした。
裁判を開廷するのに手間取って時間がなかったとはいえ、ほかの裁判官の意見も聞いたりしていれば、こんなことにはならなかったでしょうに。
私の唐突な裏切りに、ミールラクスは先ほどまで貼りつけていた笑顔の仮面を取り繕うことさえせず、明確な怒りを露わに声を荒げました。
「そ、そんな理屈が通るものか! 帝国でどのような権限が与えられていようが、このイースベルクの地では、イースベルクの法こそが絶対! 私の許可なく魔術を使えば、それは罪なのだ!!」
「そうなんですか? ルグラスさん」
「いえ、国家の指令を受けて訪問している高官を縛る法はありませんね」
唾を飛ばしながら叫んでいたミールラクスも、その指摘には言葉を失わざるを得ませんでした。
続いて辛うじて絞り出すように口にしたのは、エルフの里でのことでした。
「そ、そうだ、知っているぞ! 貴様はエルフの森に立ち入った!! エルフの森に許可なく立ち入ることは……」
「エルフのもり? はて、たちいってませんよ?』
「そんなはずはない!! 貴様がエルフ族と交渉したという報告を受けているのだ!!」
「ああ、あのことですか。エルフのもりのそとでなら、エルフとはなしあいましたよ?」
「……外、だと……?」
「ええ。だれかさんがしっかりかんりしないせいで、トーレットとエルフがいっしょくそくはつだったものですから。でも『エルフのもりにきょかなくたちいること』がきんしされていたので、エルフのもりからじゅうぶんにはなれた、まぞくりょうでこうしょうしたんです。なにかもんだいでも?」
つらつらと息を吐くように私の口から漏れだす嘘に、ミールラクスは唇を震わせながら叫びました。
「そ、そんな嘘が、まかり通るとでもッ……」
「では、しょうめいしてくださいな。これがうそであると。エルフにきいてきてください」
できるはずありませんけどね。ルローラちゃんがいる限り、エルフ族は全面的に私の味方です。口裏を合わせるくらい、お茶の子さいさいなのですから。そもそも私たち以外の人間なんて、エルフたちは相手にもしないでしょうし。
それでもミールラクスはしつこく食い下がってきて、またつまらないことを言いだしました。
「ゴ、ゴルザスに、剣を向けたらしいな! ははっ、師団長に剣を向けるなど、大変なことだぞ!?」
「え? ちょっとなにをおっしゃっているのやら……」
「とぼけるな! 貴様の仲間の騎士が、衆人環視の中で剣を抜いたと、他でもないゴルザスが言っていたのだ!!」
「それ、ほんとうにじじつですか? わたしはまったくみにおぼえがありません。ああそうだ、しゅうじんかんしというなら、もくげきしゃにはなしをきいてみたらどうです? そうすればわたしたちのむじつがしょうめいされることでしょう」
「な、なんだと……」
「まぁ、こんなことはいいたくありませんが、はなしにおひれやせびれがついてしまっているのではないですか?」
すでに私は、ダンディ隊長や分隊長さんたちと口裏を合わせていました。それどころかゴルザスは「そこの女が剣を抜いたとでも報告してやろう」などと発言していたことになっています。
ミールラクスも、あのゴルザスなら話を盛るくらいやりかねないと考えているのか、すぐに話を他のことにシフトさせました。哀れゴルザス。
「そうだ、貴様らは身分を偽っていたな!? 巡礼者に扮して、各街を回っていたはずだ!!」
「じゅんれいしていたのはほんとうですよ。われわれは『きししゅうどうかい』にしょぞくしてますからね。ちゃんとルーンペディでいのりもささげましたし」
「ル、ルーンペディからの巡礼だと言って、街の関所を通過していたはずだ! そうだろう!!」
「ええ。『ルーンペディからじゅんれいをはじめるため』に、それぞれのまちをつうかしていましたからね。なにかまちがったことをいいましたか?」
ミールラクスの情報網はなかなか大したものですが、どの程度の情報網であるかを事前にルグラスさんから聞いていれば、いくらでも対処のしようがあるのです。
そしてことごとく私に攻撃をかわされ続けたミールラクスは滝のように汗を流しています。
「まだ、なにか?」
その言葉を受けた彼らは、皆一様に視線を下げて、私から目を逸らしてしまいます。
そもそも最初から大人しく私の首輪を外したうえで土下座でもなんでもすれば、魔族の軍勢をUターンさせるくらいはしてやっても良かったのです。
しかしミールラクスが派遣してきた交渉人の心を読んで、ヤツが私の首輪を外さずに、首輪の『逃走防止機能』とやらで脅しながら、共和国のためにずっと働かせるつもりだと知って、もう容赦はするまいと決意しました。
静まり返った法廷で、私は悔しそうに押し黙るミールラクスを満足げに見やります。
ふむ。やっと静かになってくれましたか。
それでは、ようやく本題に入ることができますね。
私は傍らのルグラスさんに合図を出して、次の裁判開廷を宣言してもらいました。
「では続いて……被告、ミールラクス・トリルパットの『大統領殺し』についての裁判を開廷します」
傍聴席が一気にざわめき、裁判官や検事たちが一斉に青い顔で同じ方向へ視線を向けて……そしてその視線の先で、ミールラクスが限界まで目を見開いて愕然としていました。
「被告は五年前、当時大統領であり、実の弟でもあったグラトス・トリルパットに無実の罪を被せた上で毒殺しました」
「ま、待て……何を言っている……!?」
「静粛に。発言は許可していません」
私はミールラクスを魔力で黙らせると、ルグラスさんに続きを促しました。
「それに際し、トリルパット家に仕えていた家政婦長を殺害。さらに当時防衛大臣であったシャルツェン氏をも殺害し、ゴルザス・トリルパットと共謀してその証拠をグラトス氏の書斎に仕込んだことが……当時の事件における被害者で、唯一の生き残りである少年の証言により明らかになりました」
ルグラスさんの言葉に、場内は今日一番のどよめきに満たされました。
ミールラクスは私が何を言っているのかわからないといった表情で呆然と固まっています。
安心してくださいな。嫌でもわからせてあげますから。
私はふつふつと湧き上がる怒りに乗せて、ミールラクスを高らかに糾弾します!!
「おまえにしあわせをうばわれた、そのしょうねんのなまえは……ケイリス・トリルパット!!」
私の声が響き渡ったのと同時、法廷の出入り扉が大きな音を立てながら勢いよく開かれました。
そこには両開きの大きな扉を左右から開け放ったネルヴィアさんとレジィ。二人の手には、縛られた数人の男が繋がれています。
そしてそんな二人に守られるようにして立つのは、まさに今 その名を呼ばれたケイリスくん。
「五年ぶりですね、伯父さん……いえ、ミールラクス・トリルパット」
開け放たれた扉から、悠然とした足取りでこちらに向かってくるケイリスくん。
五年ぶりの怨敵との対面で、彼が酷く取り乱したりはしないかと心配していたのですが……しかし私の懸念とは裏腹に、ケイリスくんは凛とした表情でミールラクスと向き合っていました。
法廷を囲う傍聴席は、裁判の様子が見やすいように小高い段上になっています。ケイリスくんはそんな傍聴席の通路をまっすぐに降りてきて、やがて私の隣に寄り添うようにして並びました。
途中、すれ違った傍聴人たちが口々に「まさか、本当に……!?」とか「あのケイリスちゃん……!?」などとざわめいているのが聞こえましたが、どうやらケイリスくんはなかなかの有名人だったようですね。これまで念のために顔を隠してきて正解だったでしょうか。
間近でケイリスくんと相対したミールラクスは、思わずといった感じに立ち上がると……明らかに顔を引きつらせながら一歩、後ずさりをしました。
「バ、バカな……!? そんな、そんなはずはないっ!!」
いっそ哀れなくらい青ざめるミールラクスですが、こちらの攻撃の手は緩めませんよ。
ケイリスくんが歩いてきた傍聴席の通路を、ネルヴィアさんとレジィも降りてきました。二人が引きずるようにして連行している縛られた男たちは、私たちが昨日と今日でかき集めた協力者たちです。
「五年前のグラトス大統領暗殺や、それから貴方が今の地位に居座り続けるために働いた数々の悪行を、彼らが白状してくれましたよ」
ルグラスさんと立ち位置をバトンタッチしたケイリスくんが、私の言葉を代弁してくれました。
ミールラクスに協力している裏社会の不届き者たちを見つけ出し、その罪を暴くという……本来であれば非常に困難を極めるであろう大仕事。それをたった半日で実現してのけたのは、たった今、ネルヴィアさんたちの後ろからちょこちょこ歩いてきたルローラちゃんのお手柄です。現在、彼女の外見年齢は一歳半くらい。
あのクローゼットに突っ込んでいた男から抜き出した情報を元に、私たちはそいつと繋がりのあるミールラクスの手下に接触して捕縛。さらにそいつから情報を抜き出して……と、ミールラクスが裏社会で築いていたコネクションを芋づる式に根こそぎ壊滅させたのです。
一切の嘘が通じないルローラちゃんの魔眼。そこへ、ケイリスくんの知識とレジィの超感覚で敵の拠点を見つけ出し、ネルヴィアさんがアジトごと粉砕。
敵が逃げようが隠れようが捻り潰し、情報を搾り取ってから次の標的へ……というようなことを一晩続けていたら、出るわ出るわ、ミールラクスの重ねてきた悪行を示す証拠の数々!
このボコボコにされた状態で縛られている四人の男たちは、特にミールラクスの手下の中でも中心的に悪事を働いていたリーダー格みたいです。簡単に言うと、悪の四天王的な?
この衆人環視の法廷で証言をしてほしくて、ダンディ隊長からこいつらに司法取引じみた交渉を持ち掛けたのですが、これがなかなか骨のある奴らみたいで、素直に首を縦に振ってはくれませんでした。
なので私とルグラスさん以外を部屋から追い出して、私がゆったりと平和的に『お願い』をしてみたところ、彼らは快く引き受けてくれたのです。ほら、北風と太陽的な? 鞭の後の飴的な?
私は、後ろ手に縛られて膝をついている悪者たち四人に、チラリと優しい視線を向けました。すると彼らは途端にガタガタと震えだし、落ち着きなく目を泳がせまくります。
ほら、何やってるんですか。
早くしろよ。
私が笑顔のまま椅子の背もたれを〝ガンッ!!〟と殴ると、彼らは白目を剥きながら「ひぃぃ!!」と叫び、ようやく自分の役割を果たしてくれました。
「す、す、すみません!! ミールラクス大統領に指示されて、シャルツェン大臣を暗殺しましたぁ!!」
高らかに響いたその『自白』に、ミールラクスは泡を食って叫びました。
「なっ……!! 違う、デタラメだ! こいつらが俺っ、私に罪を被せようとしているのだ!!」
「なにをいってるんですか、ひとぎきがわるいですね。そんなことしませんよ……おまえじゃないんだから」
「ぐっ……!? け、警備はッ!? 警備は何をやっている!? こいつらを摘み出せ!!」
そんなミールラクスの悲痛な叫びに、しかし法廷に待機していた警備兵たちは困惑したように顔を見合わせるばかりで動く気配はありません。
法廷の外にいたであろうミールラクスの手下たちも、邪魔になりそうだったら始末しておくようにネルヴィアさんとレジィにお願いしておきましたしね。
そのため法廷に姿を現したのは、ダンディ隊長を含めた三人の騎士でした。彼らはまっすぐに私たちの方へやってくると、そのままダンディ隊長以外の二人がミールラクスへと駆け寄り、両側から取り押さえます。
「何をしている貴様らぁ!! 俺を誰だと思っているッ!? この国の大統領だぞ!?」
そう喚き散らしながら暴れるミールラクスに返答したのは、もはや憐みの表情さえ浮かべているケイリスくんでした。
「お父様は常々、『大統領とは国民を家族のように愛し、誰よりも心配する仕事だ』と言っていました。……欲に溺れて何も見えていない貴方に、その肩書きは相応しくありません。このイースベルクの法に則り、犯した罪を償ってください」
自らの手によって開かれた裁判で、かつて自らが陥れた被害者の手によって判決を言い渡されたミールラクス。
しかし彼は目を血走らせ、涎を撒き散らしながら、往生際の悪いことにまだ叫び続けていました。
…………。
「その首輪はッ!! 『逃走防止機構』として遠隔操作で爆破することができるのだぞォ!! 死にたくなかったら俺を───……」
「やってみろよ」
特に魔力は込めていませんが、私の言葉にミールラクスはビクリと肩を震わせて黙りました。
……そんなハッタリは、とっくの昔にルローラちゃんが見破っているんですよ、間抜け。
もう、いいんです。判決は下ってるんですから。
お前はもう、しゃべらなくていい。
騎士たちに引きずられるようにしながら連行されるミールラクスを、ケイリスくんはもはや目で追うことさえしません。
それでも私は一応、「いいの? もしケイリスくんがのぞむなら、わたしが……」と言いかけますが、彼は背後のミールラクスを振り返らないまま、
「はい。これからはちゃんと、前を見るって決めたんです」
そう言って、まるで憑き物が落ちたような晴れ晴れとした笑顔を見せてくれました。
……うん、そっか。
ならば私もそれ以上は何も言わず、ダンディ隊長に目配せをします。
彼は私の意図を汲んで、ミールラクスが連れ出されたことで水を打ったような静けさの法廷に、その渋い声を響かせました。
「大統領であったミールラクスが政務を遂行できなくなったため、規則にのっとり、ルグラス・トリルパット殿が一時的に大統領代理となります。ルグラス閣下、ご指示を」
敬礼するダンディ隊長に、ルグラスさんは風格のある仕草で頷きます。
「直ちにセフィリア殿の魔導桎梏を解除する手続きを!!」
ルグラスさんの命令に、ダンディ隊長は「はっ!!」と厳かに応えて駆け出しました。あらかじめ各方面には密かに話を通してあるので、手続きも時間はかからないはずです。
そして未だに困惑している聴衆たちの前で、ルグラスさんは椅子の上に立つ私に向かって深々と頭を下げました。
えっ、何!? いきなり何ですか!?
「セフィリア殿……どうかこの国のために、その力を貸していただきたい」
予定にないアドリブを突然ぶっこんできたルグラスさんにちょっと面食らったものの、私はすぐに平静を取り戻して笑みを浮かべると、
「もちろん、よろこんで」
当たり前のように、頷きました。
ですがその前に、首輪を外さないことには始まりませんね。
うーん、そっかぁ……首輪、もうすぐ外れるんですね。思えばこの首輪を嵌められてから、もう一ヶ月は経っていることになります。
ここへたどり着くまでに、森を越え山を越え、エルフの里で暴れたり、森でドラゴンと戦ったり、首都の闇を叩き潰したりと、いろいろ盛りだくさんな日々でした。
その間、今まで以上に仲間たちと仲良くなったり、ネルヴィアさんの才能がさらに覚醒しちゃったり、レジィが精神的に成長したり、ケイリスくんが心を開いてくれたり、ルローラちゃんが仲間になったり……本当にたくさんのことがありました。
何より、ケイリスくんの過去に決着を付けることができました。
この旅のきっかけをくれたリルルに感謝……の気持ちなんて微塵も湧いてはきませんが、まぁ今度顔を合わせたときは、ほんの少しだけ優しく殴ってあげましょう。
私が「よいしょ」と椅子からジャンプすると、ケイリスくんが優しく受け止めてくれました。
そして先に外へ向かって行ったダンディ隊長を追いかけようと出口に視線を向けると、その途中にある傍聴席で困惑の表情を浮かべている人たちが目に入ります。
彼らにしてみれば、ミールラクスの悪行の証拠なんて実際に目にしたわけでもありませんし、まだどちらが悪者なのかなんてわかったものではないかもしれませんね。
今この場で説明しても伝わらないでしょうし、事の真相は後日、正式な裁判によって明かされることになるでしょう。
それまでは多少の混乱が起きるかもしれませんが、このままミールラクスなんかが大統領に収まっていた方が何百倍も悲惨でしょうから、そこは我慢してくださいな。
このまま代理のルグラスさんが新大統領として収まるのか、はたまた別の人が務めるのか……それはわかりませんが、ここはケイリスくんの大切な故郷ですし、少しでも良い結末になってもらいたいものです。それはこの国の政治家に頑張ってもらいましょう。
私にできることは、現在この共和国に向かっているという魔族の群れを追っ払うことくらいです。
それに成功すれば、私と手を組んでいたルグラスさんの信用にも繋がるでしょうし……逆に言えば、私がそれに失敗しちゃったら物理的にも政治的にも全部がパーになってしまいます。
……今更ながら責任重大だなぁ。安請け合いは死に直結するって、前世で散々思い知ってたはずなのに……。
私がにわかに胃の痛みを感じていると、そこへ何やら騒ぎの音が耳に飛び込んできました。
どうやら裁判所の前で、何かが起こっているようです。
「……いこう!」
嫌な予感を感じながら私が言うと、仲間たちが一斉に駆け出しました。
私はケイリスくんに抱かれていますが、私と同じく一歳児ほどの姿であるルローラちゃんは、ネルヴィアさんに抱きかかえられています。
私たちが連れてきた悪者四天王たちは法廷にいた警備兵とルグラスさんに任せて、私たちは傍聴席を駆け抜けて裁判所を飛び出しました。
するとそこでは、今にも雨が降り出しそうな黒く澱んだ曇天の下で……。
「うおおぉぉッ!! クソが!! テメェら近づくんじゃねぇ!!」
頭からつま先まで甲冑を着こみ、大剣を振り回しながら声を荒げていたのは、三白眼を血走らせたゴルザスでした。
彼は付近の警備兵らしき人達に取り囲まれていましたが、一心不乱に暴れるゴルザスに誰も手を出せずにいるみたいです。
よく見れば、さきほどミールラクスを取り押さえて連行していたはずの騎士の一人が、肩から血を流して倒れていました。その傍にはもう一人の騎士と、それからダンディ隊長が寄り添っています。
ミールラクスは……ざっと辺りに視線を走らせた限りでは見当たりません。
どうやらゴルザスが何かのきっかけで暴れ出して───まぁ十中八九、この裁判の結果を知って自身の立場が絶望的であることを察したのでしょうが───それで自棄になって、こんな状況になっていると。
そしてその混乱に乗じて、ミールラクスは逃げ出したようです。
アイツ……どこまで私を苛立たせれば気が済むんでしょうか。
「レジィ」
私がレジィに鋭い視線を向けると、彼は小さく頷いて、それから音もなく一瞬で姿を消しました。
「おねーちゃん」
続いて私がネルヴィアさんに視線を向けると、彼女はルローラちゃんをケイリスくんに預けてロングソードを抜刀し、ゴルザスに向かって歩き出します。
「竜騎士殿……!」
肩を負傷した騎士が、ゴルザスに歩み寄るネルヴィアさんに気が付いて声を上げました。
その声に、大剣を振り回して暴れ狂うゴルザスを遠巻きに包囲していた兵士たちは、彼女に道を譲るかのようにして左右に避けます。
しばらくぶりに再び顔を合わせたネルヴィアさんとゴルザスは、互いに剣呑な雰囲気で向かい合いました。
「テメェら……よくも、よくもよくもッ……!! テメェらさえいなければ、俺は次の大統領だったんだッ!!」
何を言っているのかと思いましたが、もしかしたらミールラクスがそんなようなことをゴルザスに約束していたのかもしれません。自分が引退したら、次はゴルザスに大統領の座を譲る、と。
現状政治家ですらなく、師団長としてさえ無能なゴルザスが、何をどうしたら大統領になれると思ったのでしょうか? あのミールラクスでさえ、無能なりに大統領として最低限の仕事はしていたっていうのに。
そういえばケイリスくんは武術や魔術への適性がなかったため、グラトスさんに憧れて政治に興味を持って、しかもその方面での才能を示していたらしいのですが……もしかして、いずれケイリスくんが大統領になって自分よりも偉くなってしまうかもしれないと思って、それでミールラクスの陰謀に手を貸したのでしょうか? あ、ありえる……。
ネルヴィアさんは、ゴルザスの大剣の間合いギリギリに立っているというのに構えも取らず、無造作に突っ立ったままでいました。
そんな彼女に、ゴルザスは情緒不安定で歪な笑みを浮かべながら叫びます。
「竜騎士だなんだって持て囃されて、イイ気になってんじゃねぇぞ!!」
「……」
「この俺が、ただのコネだけで師団長まで登り詰めたと思うか? いいや違う! 師団長に相応しい、邪魔な奴らを黙らせるだけの実力があるからこの地位にいるんだ!!」
「……」
「俺は、かのディノケリアスを輩出した名門道場で腕を磨き、三年前までは前線で数多くの魔族を屠ってきたんだ!! テメェのような小娘に後れを取る道理はねぇんだよ!!」
「……」
余裕がないためか、以前会った時よりも随分と粗暴な口調となったゴルザスが大声で吠え続けています。……小娘相手に完全装備でドヤってるのは、恥ずかしくないのかな?
一方で、対するネルヴィアさんは鎧もなく、魔剣も抜かず、棒立ちで突っ立ったまま無言を貫いています。
そんなネルヴィアさんの反応に業を煮やしたのか、ゴルザスが大剣を構えながら、さらなる大声で叫びました。
「どうした、ビビって声も出せないか!? 何とか言ったらどうだ!!」
得意顔でそんなことを叫ぶゴルザスに、ネルヴィアさんはゾッとするほど無感情で平坦な声でポツリと、
「剣士なら、剣で語れ」
その簡潔なたった一言に、ゴルザスの何かがブチリと切れる音が聞こえたような気がしました。
直後、ゴルザスは兜の面を下ろして表情を隠すと、振りかぶった大剣を勢いよく横薙ぎに振り回します。
ネルヴィアさんはそれを後ろに軽く跳んでかわすと、ゴルザスが返す刀で再び剣を振るうよりも速く、一瞬で間合いを詰めて剣を振るいました。
どうやらその狙いは膝の裏側、甲冑の関節部分。身体を動かす上でどうしても構造上脆くなる部分を、ネルヴィアさんは的確に斬りつけました。
「……!」
しかしゴルザスはまったく怯む気配はなく、それどころか待ってましたと言わんばかりに再び大剣を振り回します。
どうして今のネルヴィアさんの攻撃が通じなかったのかと、私が疑問に思っていると……私を抱きかかえているケイリスくんが、「……鎖帷子」と呟きました。
なるほど、甲冑の関節可動部位を帷子で保護するという構造になっているのですか。
ただでさえ重い鎧がさらに重くなりそうですが、中身はあの野蛮な猟師みたいな男ですからね。無駄に筋肉だけはありそうですし、短時間ならそこまで動きに支障はないのかもしれません。
周囲で戦いを見守っていた人々が、心配そうな顔をネルヴィアさんに向けていました。
きっと彼らから見れば、ネルヴィアさんが押されているように見えているのかもしれません。
しかし私は、ネルヴィアさんが負けるなんて可能性は微塵も考えてはいませんでした。
それはいざとなれば魔剣フランページュがあるということもそうですが、それ以前に……。
おそらくは実家で学んだのであろう、いつもの剣術の構えも取っていないネルヴィアさん。ゴルザスの攻撃を紙一重で回避し続ける、そんな彼女の目つきが……ドラゴンと対峙していたときと同じ鋭さとなりました。
彼女の中で、ゴルザスは『完全な悪』と認定されたのでしょう。
ドラゴンを一方的に追い詰めた、ネルヴィアさんのスイッチが入ったようです。
〝ギャギャリリッ!!〟という金属の悲鳴が響き渡り、黒雲のせいで薄暗い街中にオレンジ色の火花が瞬きました。
いったい今の一瞬で何回攻撃したのかもわからないほどの速度による連撃。
ネルヴィアさんの仕掛けた攻撃は的確にゴルザスの頭部───兜にすべて叩きこまれて、兜の前面を覆っていたパーツを吹き飛ばしてしまいました。
……もしかして今のって、パーツの接合部を狙って叩き壊したの? マジですか?
兜にぽっかりと空いた穴から、ゴルザスがポカンと口を開けている間抜け面が見えました。
狙って兜を壊すことができるのなら、兜に空いた穴に剣を突っ込むことだって朝飯前でしょう。もはや完全に勝負はつきました。
周囲の騎士や兵士たちが感嘆の声を漏らす中、ネルヴィアさんは喜ぶでもなく退屈そうにロングソードを納刀すると、ゴルザスに背を向けて歩き出します。
……あれ? なんかこの光景、見たことあるような……。
私が既視感の根源を記憶から引っ張り出すより早く、わなわなと身体を震わせたゴルザスが、狂ったような絶叫を上げながら横薙ぎに大剣を振るいます。
「ウォォオオオオオァァアアアアアアアアアッ!!」
そして直後───、ズガァァンッ!! という、まるで爆発みたいなとんでもない音が炸裂しました。
ゴルザスの持っていた大剣が宙を舞って、数メートル離れた地面に突き刺さります。
ネルヴィアさんの振り下ろした魔剣フランページュは、大剣を振るおうとしたゴルザスの両腕を防具ごと容赦なくへし折り……それだけに留まらず、魔剣は勢いそのままに地面に直撃すると、ちょうどそこにあったゴルザスの足の甲に深々とめり込んでいました。
うっわぁ……地面にクレーターができてますけど……!?
ゴルザスが悲鳴をあげるよりも速く、再び鐘を鳴らすような轟音が響き渡りました。
ネルヴィアさんが横薙ぎに振るった魔剣に腰を強打されて、サッカーボールのように吹っ飛ばされるゴルザス。彼は錐揉み回転しながら裁判所の壁に叩きつけられると、ぐしゃりと落下して動かなくなりました。
甲冑があれだけ変形しちゃったら、脱がせるのは苦労しそうですね。
魔剣を納刀して、なんだかスッキリしたような表情でこちらに戻ってきたネルヴィアさんは、チラリとケイリスくんの顔を見て、
「えっと、ささやかですけど……これで少しは溜飲が下がったでしょうか……?」
遠慮がちにそう訊ねたネルヴィアさんに、ケイリスくんは驚いたように目を丸くさせながらも、
「……はい。ありがとうございます、ネルヴィア様」
そう言って彼は、照れくさそうに微笑んでお礼を述べました。
それから私は真横に視線を移すと、そこにはミールラクスの白髪交じりの薄い髪を鷲掴みにして、ズルズルと引きずってくるレジィの姿が。
……レジィの嗅覚と速度から逃げられるとでも思ったのでしょうか、こいつは。
そのまま無造作に投げ捨てられたミールラクスは、身体を丸めながらみっともない声で喚き出します。
「ひぃぃ! か、勘弁してくれぇ……!! 助けてくれぇ!!」
「……おまえがいまもいきていられるのは、ケイリスくんのやさしさと、それからほうのさばきをうけさせるとルグラスさんにやくそくしたからだ。……それがなければ、とっくにいかしちゃおかないところだよ」
私がミールラクスを見下ろしながら、吐き捨てるようにそう言うと……視界の端でこちらへ駆け寄ってくる影に気が付きました。見ると、どうやらダンディ隊長率いる騎士隊の一員みたいです。
こちらに向かって馬を駆ってきた彼は、よく通る大きな声で叫びました。
「伝令!! 首都外周防壁より、遠方に魔族の群影を発見!」
えっ!? 魔族の軍勢って、まだ数時間は余裕があるんじゃなかったんですか!?
驚愕に目を瞠る私やダンディ隊長に、伝令役の騎士は説明を補足してくれました。
「軍勢の規模が、報告にあった数の半数以下であることから、おそらく途中で足の速い魔族のみが先行して進軍してきた模様です! そのため、予想到着時間に誤差が生じたと思われます!!」
えっと、それじゃあ今こっちに向かってる軍勢はそこまで多くないのでしょうか?
しかし戦っているうちに後ろから続々と魔族たちが駆けつけてくるのは厄介です。何より、まだ私の首輪が外れていませんから、こちらの体勢は万全ではありません。本当なら、こっちが先手を打つつもりだったのに……。
と、そこで裁判所から出てきたルグラスさんが、こちらに近づいてきました。彼はダンディ隊長に向き直ると、
「リルマンジー隊長。セフィリア殿の首輪の件は私に任せ、貴方は迎撃の準備を」
「はっ!!」
敬礼もそこそこにダンディ隊長は駆け出すと、裁判所の近くに繋いでいた黒馬に飛び乗りました。
よし、私たちも急いで首輪を外しに行こう……! と、私が意気込んでいると、ネルヴィアさんが真剣な面持ちでダンディ隊長に向き直って、
「私も、魔族の迎撃を手伝います」
……え?
何かの聞き間違いかと思ってネルヴィアさんの顔をまじまじと見つめる私でしたが、どうやら聞き間違いではなかったようです。
時間もないので私はちょっと焦りながらも、
「なにいってるのおねーちゃん? わたしがぜんぶかたづけるから、そんなあぶないことしなくていいんだよ?」
「しかし、もしもそれで騎士団に死者が出たら、きっとセフィ様は悔やまれますよね?」
「いや、まぁそれは……」
そ、それはそうかもしれないけど、でもだからってネルヴィアさんが魔族の軍勢に立ち向かうことないじゃない! 今回の敵は軍勢です。それにどんな種類の魔族かさえもわかっていません。何かの間違いで、致命的な大怪我だって負ってしまうかもしれないのです。
私はなんとしてでもネルヴィアさんを説得して引き止めなければ……と考えていたのですが、
「ご主人、オレもコイツについていく。ネルヴィア一人じゃ心配だけど、オレがいれば安心だろ?」
レ、レジィまで……。
なにやら酷い言われ様に、ネルヴィアさんは「余計なお世話です」とむくれていました。
たしかに二人は強いし、ドラゴンだって圧倒してましたけど……。
それでも私が心配そうに二人を見つめていると、おもむろに近づいてきたネルヴィアさんが私の小さな手を握って、
「大丈夫です。私を、私たちを信じてください」
……信じて、って。
そんなこと言われたら、これ以上ゴネられないじゃないですか……もう。
私は思わず頭を抱えながら、
「わかったよ! でも、ぜったいムチャはしないでね!? ケガもしないこと!! いいっ!?」
「はいっ!!」
「おう!!」
嬉しそうに頷いたネルヴィアさんとレジィの行動は迅速でした。
ネルヴィアさんは伝令役の騎士の後ろに素早く飛び乗り、レジィはそのまま走って行きます。
そして二人が駆け出していくのを見送った私は、すぐにルグラスさんを振り返ると、
「……いきましょう!」
「ああ! こっちだ!」
案内役として前を先行してくれるルグラスさんを追って、私とルローラちゃんを抱えたケイリスくんは走り出しました。
首輪の鍵が保管されているのだという刑務所に着くと、ルグラスさんは正門の警備に立っていたおじさんに事の経緯を簡潔に説明します。今回のことは事前に各方面へ話を通してありますから、ここでルグラスさんが多くを語る必要はありませんでした。
そもそもミールラクスの支持率というのは、暴力と陰謀によって手に入れた仮初めのものに過ぎません。ミールラクスの権威を失墜させる計画なんて、その暴力と陰謀を私たちが取り除くという前提さえ成立すれば、この国のほとんどの人間が喜んで加担してくれるものなのですから。
あ。裁判所での騒ぎを聞きつけたのか、野次馬っぽい人たちが増えてきちゃってますね。
野次馬は近づいてくる気配がないため気にしないように自分に言い聞かせた私は、暗い空を見上げてからケイリスくんを振り返りました。
「……くもがまっくろだね。まだおひるなのにくらいし、あめがふりだしそう」
「そうですね。プラザトスの雨は大降りになることが多いので、戦場が心配です」
「えー。アタシ雨ってきらいだなー。さっさと終わらせて宿に帰ろ?」
私たちがそんなことを言い合っていると、こちらに戻ってきたルグラスさんが、改めて私たちに頭を下げました。
「我々の不手際で魔導桎梏を奪われ、セフィリア殿に迷惑をかけてしまったこと、改めてお詫びします。そして父の暴走を止めてくれたことも、どれだけ感謝してもしきれない」
「いえ、わたしたちだってグラトスさんのおめいをへんじょうするっていうもくてきがありましたから、おたがいさまです。ありがとうございました」
そう、あのミールラクスやゴルザスに報いを与えるということも目的の一つではありましたが、あくまでそれは私にとってはついででしかありません。
真の目的は グラトスさんの汚名を返上して、その名誉を回復することだったのですから。
ケイリスくんは私の顔を見ながら「そうだったんですか!?」みたいな顔をして驚いています。
当たり前じゃないですか! ケイリスくんの尊敬するお父さんが、いつまでも犯罪者扱いなんて我慢なりません!
それにミールラクスやゴルザスへ報いを与えるだけなら、下らない裁判なんかに付き合わないで、もっと直接的なやり方をしてますし。
これでケイリスくんのお父さんやお母さん、そして命を賭してケイリスくんを逃がしてくれた家政婦長さんも、少しは報われたでしょうか……?
今回の一件は、ケイリスくんが過去ではなく未来に目を向けるきっかけになってくれたのではないかと思います。しかし、それでこれからの人生を幸せに生きられるかは別の話です。
正直、前世で幸せを感じた経験がとても少ない私なんかが誰かを幸せにできるのか、いつも不安に思っています。野球のコーチになるのなら、野球経験者が適任に決まっています。きっと人生も、それと同じでしょう。
大切な仲間たちと接していても、他の人の方がよっぽど幸せにしてあげられるんじゃないかという思いが、常に頭をよぎってしまうのです。
……それでも私は、いつかケイリスくんを幸せにしてくれる人が現れるまで、彼が幸せを感じてくれるように全力を尽くします。それが、グラトスさんの墓前で約束した、私の責任なのですから。
私が無意識に険しい顔をしていたのか、そんな私の顔を覗き込んだケイリスくんが不思議そうな表情で小首を傾げたところで……、
「あ、勇者さま。さっきのおじさんが戻ってきたよ」
ルローラちゃんの言葉通り、先ほど刑務所の中へ入って行った警備のおじさんが、手に小さな木箱を携えて戻ってきました。
おじさんは私たちの方へと歩み寄ってくると、「こちらが魔導桎梏の鍵です。首輪に触れさせれば開錠されます」と言いながらルグラスさんに木箱を渡します。
ルグラスさんはそれを受け取ると、木箱の蓋を外してケイリスくんへと差し出しました。
「ケイリスくん。キミが外してあげたらどうかな」
「えっ……」
木箱を差し出されたケイリスくんは一瞬戸惑いつつも、すぐに嬉しそうな表情になって頷きました。それから彼は木箱に収められていた鍵を手に取ると、私のそばに歩み寄ってから膝をついて屈み込みます。
見ると、魔導桎梏の鍵というのは装飾を施された綺麗な宝石みたいでした。首輪には鍵穴らしきものが見当たらなかったので、一体どうやって開錠するのかと思っていたのですが……首輪とこの宝石が接触することが開錠のキーに設定してあるのでしょう。
首輪の鍵を大切そうに右手で握りしめたケイリスくんは、反対側の手で私の首輪にそっと触れます。私は首輪を外しやすいようにそっと顔を上にあげると、私にゆっくりと顔を近づけたケイリスくんと間近でまっすぐに目が合います。
「エルフの里のことも、ドラゴンのことも、父のことも、プラザトスのことも……本当に、本当にありがとうございます。お嬢様」
ケイリスくんはちょっぴり涙で瞳を潤ませながら微笑んで、
「お嬢様にお仕えできて、ボクは幸せです」
優しい声でそう言いながら、そっと首輪に鍵を接触させました。
カチンッ、という呆気ない音と共に、外れた首輪がケイリスくんの手に受け止められます。
私は自分の手で首に触れて、ここ一ヶ月ほどずっと感じていた硬い感触が消えていることを確認しました。
そして私は大きく息を吸い込むと、さっきのお返しとばかりにとびっきりの笑顔を浮かべて、
「ありがとっ、ケイリスくん!」
この一言に私の気持ちを全部込めるつもりで、お礼を告げました。
さて、あとは魔族を追い返すだけです。
「ルグラスさん。ケイリスくんとルローラちゃんのこと、よろしくおねがいしますね」
「ああ、任せてくれ」
真剣な表情で頷いてくれたルグラスさんに軽く微笑みかけてから、私は脳内にプログラムを構築していきます。
そして私の大切な仲間たちに向けて、元気いっぱいの声を響かせました!
「いってきます!」
私の言葉に、ケイリスくんは深々とお辞儀をしながら「行ってらっしゃいませ」と、ルローラちゃんは軽く手を振りながら「いってらっしゃーい」と、それぞれ温かく送り出してくれました。
私はそんな二人に後押しされながら、構築した魔法を解き放ちます。
「『燃えない蝋翼』!」
直後、私は烈風を巻き起こしながら垂直に飛び上がり、すぐに首都プラザトスが一望できるほどの高度まで到達しました。周りに群がっていた野次馬たちが、歓声とも悲鳴ともつかない声を上げるのが遠く聞こえてきます。
さて、魔族の軍勢とやらは……あっ、あれかな? 薄暗くて良く見えないけど……。
うわっ、冷たっ!? 雨降ってきてるし!
ああもう、なんで今日に限ってこんな天気なの!?
暗いので上空からだと敵味方の区別がつかなくて危ないし、暗さと雨のせいで向こうからも私が見えないから味方も敵も逃げてくれません。
あの雲のせいで、これじゃあ殺さずに魔族を追い返すっていう私の目的が……。
私はプラザトスの上空を飛びながら、騎士団と魔族の軍勢が戦っているであろう場所へと近づきながら、ポツリとつぶやきました。
「……雲……じゃまだな」
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「『天海の奇跡』」
上空を飛行する私のさらに上、雨粒を零し始めた黒雲が、真っ二つに切り取られました。
プラザトスから六百メートルに渡りまっすぐ切り裂かれた雲は、まるで薄く開かれたカーテンのように青空を覗かせる天空の道のようにも見えます。