学びの町セージビル

 ソンブル村に別れを告げてから、一週間。

 ビジュラック村では遥か遠くに見えた白の山脈に、だんだんと近づいて来ている。相変わらず、山頂は雪で覆われていて、寒空にたなびく雲が美しかった。

 白の山脈に近づくにつれて、少しずつ標高も高くなっているのだろう。馬車はゆるやかな上り坂を進んでいる。冷たい隙間風が、ぼくの顔を撫でた。

(リュカはもう少し厚着させた方がいいかな……)

 お昼寝から起きておやつを食べているリュカの顔や背中を、冬服の間から触ってみる。小さな子どもの体温調整は難しいのだ。

「う?」

「リュカ、寒くない? 大丈夫?」

「だいどーぶ!」

「それなら良かった。おやつ、美味しい?」

「おいちい! りゅー、こりぇしゅきっ!」

 ぱあーっと輝く笑顔で、美味しそうにあぐあぐ食べている。

 今日のリュカのおやつは、貴重なリモンのはちみつとイラクサの粉を使ったヨーグルト・パンケーキだ。リュカが手に持って食べられるように、小さめサイズで焼いている。

 ぼくも味見したけど、ほんのりとした甘さともっちり食感が楽しい、飽きのこないおやつだ。

「坊ちゃん方、そろそろ着きやすぜ」

「わかったー。次はどんなところ?」

「次はセージビルっていう町ですぜ。国境近くでは一番大きな町で、学びの町とも言われておりやす」

「! いよいよ国境が近くなって来たんだ……」

 思えばもう一月半近く、のんびりと馬車の旅をしてきたのだ。故郷であるソル王国の王都が、ずっと遠くに感じられる。

「ねえ、ドニ。なんでセージビルは学びの町って呼ばれてるの?」

「へい。セージビルには、ソル王国でも有数の教会図書館があるんでさあ。その図書館目当てに、各地から聖職者・学者・研究者が多く集まっていやしてね。そいつらが町の子どもに読み書き計算を教えたり、私塾を開いたりして教育が盛んなんで、学びの町と言われてるんですぜ」

「へえ~。そうなんだ……」

 教会図書館というからには、聖職者じゃないと利用できないのだろうか?

 今世、父さんが亡くなってからは独学だったので、きちんとした教育の場にぼくは興味があった。『知識は力なり』と言う。これからの生活のために、短い期間でも学べるものなら学びたかった。

「セージビルには、どのくらい滞在予定?」

「春の雪解けまでなんで、おそらくひと月からふた月ほどかと。というのも、セージビルからこの先は、雪で道が悪くなるんでさあ。そのうえ、道沿いは白の山脈のふもとでして、天候がころころ変わるわ、雨雪に降られると凍え死にそうになるわで、とてもではないですが冬は進めやせん」

「なるほど。それなら、滞在期間中に教会図書館に行ったり、私塾に通うことはできるかな?」

 ぼくがそう言うと、ドニは難しい顔をして考え込んだ。

「教会図書館は広く門戸を開けていたはずなんで、問題ないかと思いやすぜ。ただ、私塾の方はツテや紹介状もありやせんし、滞在期間も短いとなれば難しいかもしれやせん」

「そっか。そうだよね。教会図書館は行ってみるとして、あとはただひまを持て余してるのもなあ……。それなら、何かヴァレーのために学べればと思ったんだけど」

 ぼくが殊勝な様子でぼやくと、だまされやすい……もとい素直なドニは感心したようだった。

「坊ちゃん、さすがですぜ……! 私塾が無理なら、家庭教師という手もありやす。いくつか当たってみやしょう」

「ありがとう! お願いね」


 セージビルに滞在し始めてから早数日。

 ぼくは護衛のブノワを伴って、念願の教会図書館に向かっていた。リュカがお昼寝する隙を見計らって、宿を抜けてきたのだ。

 チボーが子守として残ってくれているけれど、不安が残る。ぼくはリュカが起きる頃には、宿に帰るつもりでいた。ちなみにドニは何やら忙しそうで、朝から別行動だ。

 本当はもっと早く行きたかったのだけど、お留守番を察知したリュカがぐずったり、護衛たちの手が空かなかったりで、遅くなってしまった。

 さすがにじっとしていられない三歳児を連れてはいけないし、ぼくも見知らぬ土地を一人で出歩くほど不用心ではないので、仕方がない。

 宿から教会図書館までは、ほぼ一本道。おそらく、いま歩いているこの通りは参道のようなものなのだろう。

(教会図書館はお城ではないけど、なんだか城下町みたいな雰囲気の町だな)

 古書店や怪しげな薬草を売る店、真昼間から酒をあおる男たちがたむろする食堂などなど。

 ほのかに謎めいた不思議な光景に目を奪われつつ、薄暗くて古びた印象の狭い通りをしばらく歩く。すると、正面に教会図書館が見えてきた。

 開いた門の内側には庭園が広がり、奥にある建物……おそらく図書館の屋根はドーム状になっていて、壁面には見事な彫刻が施されている。

 警備が門と建物の入口に二人ずつ立っており、庭を巡回している姿も見えた。

「わぁー……。す、すごいところだね……」

「(こくこく)」

(今世では本はとても高価で貴重だから、この物々しい警備も当たり前、か)

 ぼくが口をぽかんと開けて突っ立っているうちに、何人かが脇を通り抜けて行ったけれど、誰もとがめられていなかった。

 そのことに勇気をもらって、ぼくも恐る恐る門を潜り抜ける。子どもの来館が珍しいのか、の目で見られたけど、止められることはなかった。

(緊張で、手と足が一緒になりそう……)

 春や夏であればさぞや美しいだろうと思わせる庭園を抜け、建物入口の受付で名前や滞在先の宿などを記帳する。

 気持ちばかりの寄付を支払ってから武器を預け、注意事項などの説明を受けたあとに、誓約書まで書かされた。

 要約すると、もし本を破損したら罰金を支払うこと。ましてや勝手に持ち出したり、盗難をしたら、重大な犯罪として厳罰処分を受けること、という内容だ。

 収納ストレージのことなんて、とてもではないけど聞けるような雰囲気ではない。

(だ、大丈夫。ふつうに図書館を利用する分には何も問題ない、はず)

 ブノワに無言で書庫の扉を指差され、ぼくは半ばヤケクソな気持ちで短い回廊を歩く。

(……こんな思いまでして来たんだから、せめて本の一冊でも読んで帰らないと割に合わない!)

 そうして、鼻息荒く書庫に足を踏み入れたぼくだけど、思わず言葉を失ってしまった。

 長い通路の左右には、等間隔に扉がある。ルームプレートに名前が書かれているのを見るに、個人専用の閲覧室になっているのだろう。さらに、壁一面を埋めるかのように、手前から奥まで高価で貴重な本がびっしりと隙間なく並んでいた。

 天井にはけんらんごうな絵が描かれていて、高い天窓から明るい光が天使のはしごのように降り注ぐ。

(すごっ……)

 広い通路の真ん中に設置されたテーブルでは、学者か研究者らしき年配の男性が数人、黙々と本を読んでいる。

 しんとした静けさが息苦しくて、ぼくはかすかに香が混じった古い本の匂いを浅く吸った。震える足を一歩一歩ゆっくりと動かして、本棚を見て回る。

(これが、全部本……)

 床にじゅうたんが敷かれていて助かった。もし靴音が響いてしまったら、ぼくは回れ右をして、尻尾を巻いて帰ってしまっていたかもしれない。

 書架の一つ一つに掲げられた分類を見るに、教会図書館にはさまざまな分野の本が集められているようだ。

 聖書・聖典・神学など宗教関連の本が一番多いみたいだけれど、ほかにも言語・文学・美術・歴史・医学・自然科学・動植物学など、本当にたくさんの本が収められている。

 ぼくなんかでも入れる場所なので、希少な本やこう書は、別に保管されているのだろうけれど。

 それでもこの教会図書館はこの世の叡智が集まった、まさしく知識の宝庫だった。


 ぐるっと通路を往復してから、ぼくは植物学の棚に戻ってきた。

 ヴァレー地方の植生や、葡萄の栽培について書かれた本を探してみるけれど、めぼしい本が見つけられない。

(やっぱり特定の地域とか、葡萄の栽培について研究する学者って珍しいのかな……)

 がっかりしながら、ぼくはたまたま目に留まった『基礎薬草の栽培技術と効能』というタイトルの本を手に取った。著者は『植物学者 テオドア・フィールド』と書かれてある。

 すぐ近くの席に座り、ぼくはゆっくりとページをめくった。

 内容は『基礎薬草』という言葉の通り、古くから効能が信じられている薬草の研究がまとめられているようだ。

 ガーリック・ジンジャーといった料理に使われることが多いものや、エキナセア・カモミールといった薬草が、基礎薬草として紹介されている。

 ソンブル村で、魔女婆からもらったイラクサも載っていた。

(へえ~。イラクサも基礎薬草だったんだ。知らなかった。……それにしてもこの本、すごくわかりやすい! 専門用語は少ないし、あってもちゃんと解説がある。薬草ごとに対応した症状や効能も書いてあって、まさにこの世界における家庭の医学書っていう感じだ)

 著者の手書きなのか、ボタニカル・アートのようなみつなイラストが多く描かれている。

 久しぶりに本を読むぼくでも、一種の美術書を眺めるような感覚で読み進めることができた。

(えええ。末尾に、有効性を証明した臨床試験の結果や知見が簡潔にまとめられてる……! この世界の学問レベルで、ここまでの研究をした『テオドア・フィールド』ってどんな人なんだろう……)

 これでも、前世では理系の大学を卒業しているのだ。研究室にも入っていたし、必死こいて卒論をまとめた記憶もうっすらとある。だからこそ、この世界でこの本を書き上げることがいかに難しいのか、容易に想像がついた。

 ふうとため息を吐き、ぼくが本を閉じて顔を上げた瞬間、誰かに呼びかけられる。

「もし、そこの少年」

「え? はい。ぼくのことですか?」

 声の方に振り向くと、修道服を着たかなり年配の……それこそおじいさんと呼べる年代の男性が座っていた。

 つるつるのていはつ頭が光を反射して、少し眩しい。

「そうじゃ。きみのような年若い少年が、この図書館に来るのはめずらしくてのう。しかも、何やら熱心に本を読んでおるじゃろう? つい気になってしまっての」

「ああ。なるほど。確かに、ぼくみたいな子どもが、ここに来ることは少ないでしょうね」

「ほっほっほっ。悪く思わんでくれ。単なる好奇心じゃ。……ところで、その本を読んでいたようじゃが、感想はどうかの。ひまを持て余しているじいに、聞かせてくれんかのう」

 このおじいさん、こうこうぜんと笑っているけれど、なかなかに押しが強い。

 押し問答をして、悪目立ちをするのはいやだった。仕方なく、ぼくは口を開く。

「おもしろかったです。単なる民間薬ってだけじゃなく、薬効の客観的な立証にまで取り組んでいて、とても良くまとめられているなと思いました。ただ……」

「ただ?」

 ずずいと迫ってきたおじいさんの顔が近くて、ぼくはのけ反りながら答える。

「ええっと。基礎薬草って、ごくふつうの村人にこそ必要な知識だなって思ったんです。日々の生活に取り入れることで、ちょっとした病気なら防げたり、治すことができる。それなら、特に治療院がない村で重宝されるはず。……でも、この本だけだと、どう取り入れたらいいかわからないかもしれないな、と」

「ほっほっほう! なるほど! そういう観点もあるのう。して、それならどうするのが良いかのう。アイデアはあるのじゃろう?」

 所詮、門前の小僧でしかないぼくの生意気な感想にも、おじいさんは楽しそうだ。むしろ、長い眉毛と垂れたまぶたに隠されていた目をカッと見開いて、ぼくを見ている。

(えええ! なんでさらにきょうしんしんになっちゃってるの!? ぼく、もう帰りたいんだけど……)

 一人うきうきと興奮しているおじいさんについて行けなくて、内心引いてしまった。

「うーん、ぼくなら……。基礎薬草を使った、料理のレシピをつけます。喉が痛い時とか、お腹の調子が悪い時に何をどうやって食べると良い、とか。あとは、薬草茶のことを載せても良いかも。それで、完成図はこんな風に絵にして、文字を少なめにすれば村人でもわかる、はず」

「ほうほう。そうか。確かにそうすれば、『ちょっと試してみようか』という者も出てきそうじゃのう」

「はい。『美味しそう』は、十分きっかけになると思うんです」

 うんうんと、おじいさんは頷いている。

「坊ちゃん、そろそろ……」

 それまで、全く存在感を感じさせなかったブノワが、声をかけてきた。

(はっ。しまった……!)

 手短に済ませるはずだったのに、気がつけばぼくとおじいさんはずいぶんと話し込んでしまっていたみたいだ。

 もうとっくにリュカはお昼寝から起きて、「にぃに、いにゃい!」と泣き叫んでいることだろう。

 懐いているドニならまだしも、チボーはきっと上手にリュカをなだめられず、ぼくの帰りをまだかまだかと、やきもきしながら待っているはずだ。

「ブノワ、ありがとう。……すみません、もう帰らないと」

「もう帰ってしまうのか。それは残念じゃ。少年とはまだまだ意見交換したかったのじゃがのう」

「ぼく、ひと月はこの町に滞在する予定なので、また図書館で会ったときはぜひ」

「ほう。旅の方じゃったか。それはそれは。では、次に図書館に来たときは、受付にわしの名前を伝えて呼んでくれれば良い。それなら、確実に会えるはずじゃ」

「え。は、はあ。えっとぼくはルイ・ヴァレーです。その、お名前を聞いても……?」

「ほう、『ヴァレー』とは……。わしは図書館長のテオドア・フィールドじゃ。そして……その本を書いた著者でもある」

 そう言うとおじいさん……いや、テオドア・フィールドさまは茶目っ気たっぷりに笑って、ウィンクを飛ばしてきた。

(……え? え? ええええええ!! まさかの著者ご本人んんん!?

 あまりの驚きに、ぼくは大きな声を上げそうになる。けれど、寸でのところでここが書庫であることを思い出して、自分の口を両手で塞いだ。

 なんとか声をこらえたぼくを、誰か褒めてほしい。

 目を白黒させ、大混乱だ。ぼくの頭の中で、本人とは知らずに語った感想がこだまのように鳴り響いて、さあっと血の気が引く音がする。

 ──これが、のちに師弟とも呼べる関係を築くことになる、ぼくとテオドア・フィールドさまとの、初めての出会いだった。


 おじいさん=テオドアさまだった、という衝撃的な事実を知った後、ぼくは自分がどんな挨拶をしてその場を去ったのか覚えていない。

 はっと気がついた時には、宿の前だった。それも、外の通りにまで響く、怪獣のようなリュカの泣き声を聞いたからこそ、意識を取り戻したのだ。

 ぼくは慌てて宿の部屋に駆け込む。

「リュカ、ただいま! にいに、帰ってきたよ~。チボーも、ごめん! 遅くなっちゃった」

「びえええ~~~ん! にぃに~~~! だっこ~~~!!

「ルイ坊ちゃん、遅すぎっすよ……! 何してたんすかっ!」

 涙と鼻水で顔がぐちゃぐちゃのリュカを抱き上げると、「もう絶対離さないぞ」と言わんばかりに、ひっしとしがみついてきた。

 心底疲れきって、死んだ魚のような目をしたチボーが言うに、リュカはお昼寝から起きてしばらくして、ぼくの姿が見えないことに気づいたらしい。

 気を逸らそうと、チボーが肩車やお馬さんごっこをしたけれど、寝起きで不機嫌だったことも相まって、リュカはずっと泣き叫んでいたそうだ。

(チボー、よくがんばってくれた……)

 そんなことがあってからというもの、リュカはぼくがどこに行くにも、雛鳥のように後をついて回るようになってしまった。

「にぃに、だめえ! りゅー、おいてっちゃ!」

 ほんの少しでもぼくの姿が見えないと、リュカはどこで覚えたのか腰に手を当て、ぷりぷりと怒るのだ。かわいいけれど、小用にまでついてくるのは困る。