旅のはじまりとリモンのシトロノー村

 馬車を走らせてからしばらくして、大きな川沿いに出た。王都ミネライスを流れるロート川だ。豊かな水量を誇り、きらきらと穏やかにみなが揺らぐ。冬で水も冷たいだろうに、数隻の小舟が川を下っていた。川辺には、釣りをしている人影もある。

 窓から見える限りずっと先まで、道は続いていた。馬車はこの川沿いをひた走っていくようだ。

 出発からずっと泣き叫んでいたリュカは、まだ少しひっくひっくとしゃくりをあげているけれど、やっと落ち着いてきた。

 その涙と鼻水でドロドロの顔を、濡らした布で優しく拭いてあげる。真っ赤なほっぺとお目々が、かわいそうだ。

 そのまま、黙ってひっつき虫のリュカを抱っこしていると、だんだんと体温が上がってきたのを感じた。朝も早かったし、泣き疲れたせいで眠くなってきたのだろう。

(寝ちゃう前に、一度水分補給をさせないと……)

 これだけ泣いて、さぞや喉も渇いているはずだ。そう思って、ぼくはリュカに声を掛ける。

「リュカ、喉渇いたでしょ? お水飲もっか」

「……あい」

 水筒を渡すと、リュカはごくんごくんとすごい勢いで果実水を飲む。あっという間に半分近くを空にしたところで、「はふぅー」と満足そうにため息をついた。

 喉の渇きが癒されるといよいよ眠気に抗えなくなってきたみたいで、かわいいあくびを一つ二つ。ぼくが静かに背中をとんとんしてあげていると、リュカはぐっすりと眠ってしまった。

 馬車のなかは、思っていたよりもゆったり広々している。赤で統一されたソファ座席は素材が良いのかとても柔らかく、三歳児をのせたぼくのお尻や太ももを優しく受け止めてくれた。

 対面には大男のドニが座っているけれど、それほど圧迫感も感じない。

 中央に設置されたテーブル型たつは暖かく、さらにほかほかの幼児を抱えたぼくは、寒さ知らずだった。

 ぼくの口からも、ついあくびが漏れる。すぴーすぴーというリュカの寝息を聞いているうちに、いつしかぼくの意識も薄れていった。


「坊ちゃん方、王都を出ましたぜ。起きて、昼メシにしやしょう」

 ドニの声でぼくは目が覚めた。起こしてくれるのはありがたいけれど、寝起きにおっさんの顔がぬっと映るのは、精神衛生上あまりよろしくない。

「……もうそんな時間なんだね」

「よく眠っていやしたよ」

「ん~~~うにゅ~」

「リュカもおっきするよー。ほら、おはよう。お腹空いてるでしょ? ごはん食べよう」

「……んぅ……ごあん……」

 食いしん坊のリュカは、「ごはん」の言葉に反応してやっと起きてくれた。ちっちゃなお手々で、くしくしと目をこすっている。

 馬車の外に出ると、田園風景の林道が広がっていた。

(んんん~気持ちいい~)

 清々しい空気に思いっきり伸びをすると、肩周りや腰が音を立てる。三歳児を抱えて眠っていたから、知らず知らずのうちに体が縮こまっていたようだ。

 リュカもぼくの真似をしてか、万歳している。かわいい。

 ぼくたちが人目につかないところで小用を済ませると、先に干し草と水を馬にやっていたチボーとブノワもやってきた。

 この二人は自警団のメンバーだ。

 騎馬で馬車を先導していたチボーは、自警団最年少。童顔のそばかす面で、とても二十代には見えない。身軽でせっこうが得意ということで、今回のメンバーにばってきされたらしい。要はていの良い使いっ走りだ。

 馬車の御者を務めるブノワは、自警団№2。馬と馬車の扱いは、自警団でもピカイチなのだそうだ。もっさりした髭に顔が覆われていて、顔立ちはよくわからない。見た目は、まるっきり熊に見える。無口な人で、ちゃんと話しているところをぼくはまだ数回しか見たことがなかった。

「いやー、腹減ったっすねー」

「(こくこく)」

 ドニが、適当な布を敷いてくれたので座る。手渡された昼食は、しっかりと噛みごたえのある堅パンのサンドイッチだった。

 ありがたいけれど、子どものぼくとリュカにこれは食べにくい。仕方がないので、ストックしてある柔らかいパンと、シチューを食べることにした。

 こんなに早くに出番がやってくるとは思わなかったけれど、備えあれば憂いなし、だ。

 シチューは出来立てをすぐ収納ストレージにしまっておいたから、まだ熱々だった。お皿に盛ると、ミルクの良い香りが食欲をそそる。

(はあ~。我ながら、美味しそう……)

 その匂いに、大人たちも生唾を飲む。物欲しそうな視線に負けて、結局、ぼくはシチューを全員に振る舞った。

 寸胴鍋いっぱい作ったので、五人でも十分食べられる。ありがたく食べてほしい。

「おー! このシチュー、めちゃくちゃうまいっす! まろやかほくほくで、野菜がゴロゴロ! 食べ応え十分っす! ルイ坊ちゃん、料理上手っすね! 良い嫁さんになるっすよ!」

「……うまい」

「おい、チボー! うるせえぞ! 馬鹿なこと言ってねえで、黙って食え!」

 シチューは、寒い冬にみ渡る美味しさだった。隠し味に入れた、チーズの塩気とコクが効いている。

 大人たちも、がつがつと美味しそうに食べていた。

 ブノワは無口かつ無表情で静かだけど、その分チボーが喋る喋る。さらに、まるで漫才の掛け合いみたいにドニがいちいち突っ込むので、とても賑やかだ。

 家族とエミリーさん以外に手料理を振る舞ったことも、こんなに賑やかな食事も、今世では初めてのことだった。

(こういうの、なんか良いな)

 ほっこりしつつ、ぼくも食べながらリュカのお世話をする。

 野菜を小さくして、少し冷ましてからあげたので、リュカは必死にもりもりと食べていた。よっぽどお腹が空いていたのだろう。

(うーん、これだけだと、リュカはお腹いっぱいにならないかも)

 大人に近い量を盛ったのだけど、リュカはぺろりと食べてしまった。案の定「おかあり!」と催促してくる。困った。

「腹一杯まで食べさせてやりたいのは、山々なんですがね。夕方には宿を見つけたいんで、そんなにゆっくりとはしてられませんぜ?」

「そうだよね……」

 時間ばかりは仕方ない。食べ足りなくて不機嫌なリュカをなだめながら、さっさと後片付けを済ませ、馬車をまた走らせる。

 順調に滑り出したところで、ぼくは収納ストレージのストックから蒸しパンを取り出して、リュカに手渡した。

「むちぱん、おいちー!」

 昼食後にもかかわらず、あぐあぐと蒸しパンを二個も食べたリュカは、やっと満足して機嫌を直してくれた。

(本当に、ボロボロ落とさずに、手で持って食べられる系のストックを作っておいて良かった! けど、この調子だとすぐに無くなっちゃいそう……。こまめに仕入れたり作ったりして、在庫を切らさないようにしないとだめだな……)

 初っ端から、リュカの食欲が恐ろしい。そんな旅のはじまりだった。


 時折、小休憩を挟みながら、人っこひとりいない道を進むことさらに数時間。

 おそらく小麦や大麦などの穀物を収穫し終わったあとの、せきりょうとした畑ばかりが続く景色に見飽きた頃。ぽつんと見えてきた村……というより十戸ほどの小さな集落で、ぼくたちは宿を取ることにした。

「坊ちゃん方、今日はここに泊まりますぜ」

「……ドニ、ここに本当に宿があるの?」

「へい。まあ宿というより、小屋ですかね。この集落で管理している小屋を、一晩だけ借りるんでさあ。狭い上にベッドくらいしかありやせんが、悪くはありませんで。雨風しのげる屋根もありやすし、馬車の火の魔石を取り外して持ち込むんで、暖もとれますぜ」

(もしかして、この世界のちゃんとした宿の基準って、結構低い……?)

 今世に生を受けて十三年。慣れたつもりでも、まだまだ知らないことはたくさんある。ぼくは改めて、この世界の常識にカルチャーショックを受けて、気が遠くなりそうだった。

「な、なるほど……。でも、宿はいいとして食事は? 食堂なんてなさそうだけど……」

「そちらも村人に金を払って、作って持ってきてもらうんでさあ」

「ああ。なるほど。……そうしたら、できるだけリュカが食べやすいものを作ってもらえないかな? ポリッジとかミルク粥とかで良いんだけど……」

「へい。わかりやした。頼んでおきやす」

「お願い」

 ぼくは我慢できるけど、食べ盛りのリュカには毎食お腹いっぱい食べてほしい。ストックは、あくまでもストックでしかないのだ。

「ルイ坊ちゃん、今日はここで一泊して、明日も早朝から出発しやす。そうすると、夕方には少し大きめの村に着けるはずなんで、そこで二泊の予定ですぜ。ある程度大きな村では、まる一日は休養日を設けますんで、そのおつもりで」

「うん。そうだね。休みながらのんびりいこう。急ぐ旅でもないしね」

「へい」

 そうして、その日借りた宿……というより小屋は、普段は物置にでも使っているのだろう。隅の方には農具が立てかけられていた。左右に二つずつベッドが置かれていて、奥には小さな暖炉がある。

「こんなへんな村で万が一もないとは思いやすが、守られる坊ちゃん方も一応知っておいてくだせぇ。勝手な行動をされると、守るに守れやせんから」

 そう言うとドニは、旅をするうえで必要な防犯対策を一つずつ説明してくれた。

「まずは、こういった小屋の場合、俺らが内外の点検をするまでは、あまり動かずに待っててくだせぇ。たまーに、物盗りが潜んでる可能性があるんでさあ」

「えっ……」

「たまーにですぜ。たまーに」

 ドニはベッドの下や人が隠れられそうな物入れのなかを見たり、無造作に置かれた樽を軽く足で蹴って確認していく。それに、あえて板張りの床をかかとで叩くように歩いた。

「見落としがちなのが、床下や天井なんでさあ。床下の空洞や、天井の屋根裏・はり・ちょっとした隙間に身を隠して息を潜めている……なんてことも無きにしもあらずですぜ」

「へえ~」

(前世でも、海外旅行する時はホテルのベッドの下を確認して! みたいな注意喚起を見た覚えがあるけれど、今世でも同じ……どころか、やっぱり安心できる治安じゃないんだな)

 王都ミネライスを初めて出たぼくにとっては、自分がいかに平和ぼけをしていたのかが身にみる。

 農具の柄で天井の気になるところ突いているドニを見ながら、ちゃんとした護衛をおじいちゃんとおばあちゃんが送ってくれたありがたさを、実感したのだった。

「よし。問題ないですぜ。外は、今頃ブノワとチボーが見て回ってるはずでさあ。不審なやつはいないか、隠れられそうな茂みや影はないかってのが主ですがね。護衛が警戒してるぞと誇示する意味もありやす」

「ああ! 確かに、悪さを企んでるやつは護衛が警戒しているのを見たら、今日はやめておこうってなるかも」

「へえ。そうでさあ」

 点検が済んでこれで終わりかと思ったら、ドニに手で制される。どうやらまだ注意があるようだ。

「部屋のなかを外から確認されたくないんで、木の外窓は開けないでくだせぇ。それと、坊ちゃん方は出入口から一番遠いベッドが、毎回定位置になりやす」

「うん。わかったよ」

 護衛対象のぼくたちが、一番安全な場所で寝ることは理解できる。異論はない。

「最後に、寝る前にベッドを一つ動かして、出入口は塞いじまいやす。夜は俺たち三人が交代で見張りをしやすから、小用のときはその時起きている護衛に言ってくだせぇ」

「交代で見張りって……そんな、寝不足になったりしない? 大丈夫? こんなところで襲われることもないだろうから、みんな夜は寝た方が良いんじゃ……」

 正直、出入口を塞いでしまうのであれば見張りはいらないんじゃないかと思って、ぼくはそう言う。けれど、ドニはかぶりを振って断った。

「俺たちは訓練してやす。それに、それが護衛の役目ってもんでさあ。……もし気になるなら、坊ちゃん方には早く寝てもらえると助かりやす。夜が長ければ、その分俺たちも寝る時間が増えるってもんですぜ」

「それは任せて」

 なんて言ったって、幼児のリュカは寝るのが早い。そのうえ、一度寝たら朝までぐっすりだ。必然、リュカの生活リズムに合わせているぼくも、たっぷりと睡眠時間を取っていた。

「小屋を借りる時の注意点はこんなもんでさあ。もっとちゃんとした宿に泊まる時の注意は、またその時に」

「うん。ドニ、ありがとう」

 ぼくはそういうと、改めて部屋をぐるっと見回す。

 一応、掃除はされてはいるみたいだけど、ずいぶんとほこりっぽかった。かやきの屋根からは、劣化したかやなのか何なのかわからないものがぱらぱらと落ちてくる。このまま寝たら、肺がやられそうだ。

(防犯対策の次は、掃除が必要かあ……)

 仕方がないので、じょじん殺虫殺菌をイメージしながら、ぼくは洗浄クリーンを重ねがけする。効果はわからないけど、やらないよりかはマシだ。

 ベッドもすべてわら布団だったので、ぼくたち兄弟が使うベッドには持参した羊毛の寝具を敷いて、やっと納得した。

 外の見回りに行っているブノワとチボーの帰りを待って、早めの質素な夕飯を済ませる。自分たちに洗浄クリーンをかけて横になったところで、ぼくの記憶は途絶えた。

 無自覚に疲れていたのと、慣れない場所でもドニたちがしっかり守ってくれるという安心感があったからだと思う。

 小脇に抱えたリュカのほかほか体温のおかげで、ぼくは朝までぐっすりだった。


 次の日から数日は、牧歌的な田園風景をのんびりと進んだ。風は冷たいけれど、遮るもののない冬の日差しは、意外と温かい。

 すぐそばを流れていたはずのロート川は、少しずつ蛇行しながら道を外れていき、いつの間にか見えなくなってしまった。

 畑のうねうねの間を、ゆるやかに曲がりくねりながら道は延々と続いている。二頭立ての馬車が一台、やっと走れるくらいの道幅だ。

 向かいからもう一台馬車が来たら、すれ違うのは無理だろう。もし来てしまったらどうしようと内心思っていたけれど、いまのところは取り越し苦労だった。

 代わりに、ときどきロバの背に荷物をのせた農民を見かける。農作物などを市に売りに行くのか、それとも買った帰りなのだろう。

「おうましゃ~ん。ばいば~い!」

「リュカ坊っちゃん、ありゃあロバですぜ」

「う? りょば?」

 四つ足の動物は何でも馬だと思っているリュカが、すれ違い様に窓から手を振る。すると、端に寄ってぼくたちが通るのを待っていた農民が、手に持った棒を上げて挨拶してくれた。

 そんな出会いも時どきありながら、道なりに走る。だいたい二時間に一度は、馬を休ませる意味でも三十分ほどの休憩を取った。

 近くに小さな集落があれば立ち寄ることもあるけれど、たいていは道沿いの少し開けた場所で済ませてしまう。

 ドニと一緒にぼくとリュカが草陰で小用を済ませてから戻ると、ちょうどチボーとブノワが荷台の上に積んでいた干し草を下ろして、馬たちに与えていた。水生成ウォーターでバケツに水を入れ、塩を混ぜたものも置いている。

「おうましゃん、かっくいい~ね~」

「さすが、リュカ坊ちゃん。わかってやすねぇ。馬車を引くひんペアのデュースとエクラでさあ。なかなかべっぴんな馬たちだと思いやせんか?」

「オレの馬は、シャルルって言うんすよ! 賢くて速い、相棒っす!」

「(こくこく)」

 大人たちはみんな、馬好きのようだ。甲斐甲斐しく馬の世話をしながら、自分のことのように自慢している。

 確かに、芦毛のひん二頭は体がむっちりと大きく、長いタテガミと足元のふわふわした毛が優美だ。

 チボーの馬も、くろ鹿というらしい黒と茶色のグラデーションの毛並みに、らしく筋肉の引き締まった体つきをしている。

「くしゃ、もぐもぐ~。おいちいね~」

 どの子も喧嘩することなく、仲良く食事をしている様子を、リュカは飽きずにずっと見ていた。「こっからならいいですぜ」とドニに言われた位置から、微動だにせずに。

「リュカ坊ちゃんは、馬が好きなようで」

「どうだろう? 動物が珍しいだけかも?」

 ドニとおしゃべりしながら、馬たちの食事が終わるのを待つ。この時間は小用や柔軟体操が済んでしまうと、退屈だった。

「そうだ、坊ちゃん方。見てるばかりもつまらんでしょう。良い機会でさあ。暇つぶしに、馬ににんじんをやってみますかい?」

「馬ににんじん?」

「へえ。にんじんは、馬が大好きなおやつなんでさあ。穏やかで優しい馬ばかりなんで、きっとおやつをやれば仲良くなれますぜ」

 リュカをひょいっと抱き上げたドニは、チボーの腰にぶら下がった袋から勝手にぶつ切りにんじんを三つ取り出すと、ぼくに一つ手渡した。

 ドニはリュカを抱えたまま馬に近づいて、お手本を見せてくれる。

「コツは広げた手のひらの真ん中ににんじんを乗せて、口まで持っていくんでさあ。近づけ過ぎなくても、馬は自分から来て勝手に食いやす。ただ、間違ってもにんじんを指で持たねえでくだせぇ。がぶりと噛まれちまいやすから。……ほら、デュース。おやつだ」

 デュースと呼ばれたひんが顔を前に突き出し、唇で舐め取るようににんじんを食べた。ごりごりとしゃく音がする。

「おうましゃん、たべちゃー!」

 間近でその様子を見たリュカが、きゃっきゃとはしゃぐ。

 ぼくもお手本通り、くろ鹿……シャルルに、ゆっくりとにんじんを差し出す。湿った鼻息がふんふんと手のひらにあたってくすぐったい。けれど、我慢していると食べてくれた。

(おお~。こうしてみると、馬ってかわいい、かも?)

「さあ、リュカ坊ちゃんも、手をパーにしてくだせぇ」

「あい!」

「エクラ、やさ~しく頼むぜ」

 ドニがリュカの小さな手のひらににんじんを置く。そのにんじんを、もう一頭の芦毛のひんがおっとり丁寧に食べた。まるでドニの言葉を理解して、リュカを怖がらせないようにしてくれているみたいだ。

「ひゃ~~~。くしゅぐった~」

 最後のサービスとばかりに、エクラに手のひらをべろんと舐められたリュカが、きゃらきゃらと笑い声をあげる。

 さらに、被さってきたドニの大きな手と一緒に馬の鼻先を撫でさせてもらうと、リュカはもうにっこにこのご機嫌だった。

「にぃに! おうましゃん、か~いい~!」

 リュカはすっかり馬たちが好きになったみたいだ。

 それから、休憩のたびに馬たちと触れ合うのが、ぼくとリュカの楽しみとなった。


 さらに、旅を続けること数日。畑ばかりだった景色は終わりを告げ、いまはうっそうとした森のなかを進んでいる。生き物の気配が少ない森は、どことなく寒々しい雰囲気だ。

 森を通る道は、山と言うほどではないけれど、多少の起伏があるので話すこともままならない。最悪、舌を噛んでしまう。

 大人もぼくも、まだ我慢できる。でも、三歳児のリュカにとってお話しない・動かないというのは酷なことだ。おもちゃや手遊びで気を逸らすのも、そろそろ限界にきている。

「にぃに~。おしょと、いきちゃい~!」

 ぼくの膝に顔を突っ伏している、リュカの背中を撫でる。

(退屈でぐずりかけてるから、もう小休憩にしてもらって、外で遊ばせた方がいいかな……)

 そうぼくが考えているうちに視界が開けて、少し先に村が見えた。ナイスタイミングだ!

「坊ちゃん、今日は早いですが、あの村で宿を取りやす」

「うん。わかった」

 村に近づくと、風に乗って柑橘系の匂いがふっと漂ってくる。何かと思って外を眺めると、村まで真っ直ぐ続く道の左右に、見渡す限りのレモン畑があった。

 木々の緑のなかにたわわに実った黄色の果実が、鮮やかな水玉模様を描いている。畑のあちこちで、収穫作業をしている人たちが大勢いた。

「わーーー! すごいっ! レモンだ! ほら、リュカ、お外を見てごらん」

「う?」

「おお。ルイ坊ちゃんはリモンを知ってるんですかい」

 この世界、ものの名前は基本的には前世と同じなのだけど、時折、ちょっと違うものもあった。リモンも、その一つなのだろう。

「うん。ダミアン商会で聞いたことがあるよ。爽やかな甘酸っぱさと香りで、癖になる美味しさだって。冬でもこんなに実ってるんだね」

「ははは。むしろ、リモンは冬のいまが旬ですぜ? このシトロノー村はリモンが特産なんで、今晩の食事には新鮮なリモンがたくさん出てくると思いやす。楽しみにしててくだせぇ」

 ドニが、何やら人の悪い顔でニヤッとしている。

 きっと、リモンを初めて食べるぼくの反応を楽しんでやろう……とでも思ってるのだろうけど、残念。知ってるんだな。

(それにしても、良い香りだなあ。今世に農薬なんてないだろうし、皮まで美味しく食べられるんだろうな)

 レモン……いや、ややこしいからリモンで良いか。リモンがあるとは思わなかった。ぜひ、しばらくは困らない程度に買っていきたい。

 リモンはそのまま食べてもいいし、食材として料理に入れてもいい。それに、調味料にもできる。塩リモンは万能に使えるし、山椒や唐辛子っぽい風味のハーブと組み合わせても良い。

(ああ。リモンのことを考えると、よだれが出てきそう)

 砂糖やはちみつが簡単に手に入るのであれば、ジャムにしたりシロップにしたりと、もっとバリエーションが広がるのに……! でも、ないものねだりをしてもしようがない。

「ねえ、ドニ。ぼく、できればリモンを買っていきたいんだけど、時間ってあるかな?」

「へえ。それなら、この村に二~三日滞在しやしょうか。ここは商人もよく来る大きな村ですから、ついでに馬を休ませたり、馬車の点検もやっちまいやす。お目当てのリモンは、早朝から昼過ぎまでの間、村の広場に市が立ちやすから、そこで買えますぜ」

「いいね! そうしよう」

 思わぬ旅の出会いに、ぼくの心はるんるんと浮き立っていた。


 その日の夕食は、村に唯一の食堂でとる事になった。広く開放的な店内には、六人掛けのテーブルが通路を挟んで二列ずつ、奥までずらっと並んでいる。最奥には、小さな舞台もあった。きっと時間によっては、演奏などの見せ物があるのだろう。

 どのテーブルもほぼ満席で、がやがやと賑わっている。客は村人もいるようだけど、会話に耳をそばだてていると、出稼ぎの季節労働者や仕入れに立ち寄った商人も多いようだ。

 食堂のメニューはドニの言ったとおり、見事なリモン尽くし! 特産ということで、食べ方を広める意味もあるのだと思う。中には、味の想像がつかないものもあった。

 迷いながら注文し、待ちに待った一品目。『リモンと冬野菜のサラダ』が運ばれてくる。

 ちなみに、幼児のリュカには刺激が強すぎるので、リモンを抜いた同じメニューを出してもらった。

「「「「いただきます(いたっきまっちゅ)」」」」

 食事始めの挨拶をしても、誰も手を出そうとしない。なので、まずはぼくが先陣きってサラダを取りわけて食べ始める。

 大人たちはニヤニヤしていたけれど、ぼくが平然とリモンを食べたのを見て、面白くなさそうに自分たちもサラダに手をつけ始めた。

(ふん、だ。そう簡単におもちゃにはならないぞ)

 サラダは、焼き色のついたネギ・冬キャベツ・蒸した根菜・ディルなどのハーブ数種類に、リモンの果肉がどっさり。それに、リモン果汁・塩・オイルを混ぜたドレッシングがかかっている。

 しゃくすると、リモンの果肉がぷちぷちっと弾けて、溢れ出る果汁に耳の下がきゅっとした。爽やかな香りが鼻を抜けて、酸味の中に野菜の甘さが広がる。美味しい!

「オレ、野菜は苦手っすけど、これなら食えるっす!」

「チボー、だからおめえはいつまで経ってもヒョロいんだ。もっと野菜を食えっ。おらっ」

「わあ、団長~! さすがにそんなには食えないっす!」

「(もぐもぐ)」

 大人たちが騒がしいなか、ぼくはしっかりと自分の分を確保して、マイペースに食べ進める。

 栄養満点のサラダを食べ終わると、次に大皿でどーーーんとでてきたのは、リモンのクリームパスタだった。

 すりおろしたリモンの皮が、ミモザの花みたいに鮮やかでとても綺麗だ。

 手打ちなのだろう、きしめんに近い生パスタにクリームがよく絡んでいる。くるくると欲張って巻いたパスタを、ぼくは口一杯に頬張った。

(ん~~~。麺がもちもちで、さっぱりコクうま! クリームの滑らかさで、酸味が和らいでて食べやすい! それに、この隠し味はガーリックとチーズかな? 良い仕事してる~)

「いやー。これもうまいっすね! さっぱりしてるから、いくらでも食べられそうっす!」

「俺は酒といえばエールなんですがね、これは白ワインが飲みたくなる味ですぜ」

「……酒」

「おい、護衛仕事中だぞ。酒は飲むんじゃねえ」

「団長が酒なんて言うからっすよ! そんな堅いこと言わずに、一杯二杯くらい、飲んでも良いじゃないっすか!」

「(こくこく)」

 大人たちには酒欲が刺激される味だったのだろう。酒を頼む、頼まないで揉めている。

「はあ~。仕方ないなあ。ワインを水差し一つだけ注文して、三人で分けて飲んだら? それくらいなら酔わないでしょう?」

 見るに見かねてぼくが妥協案を言うと、大人たちはぱあっと顔を輝かせた。

「「「さすが、坊ちゃん!」」」

 なんだかんだ、全員飲みたかったのだ。現金すぎる。

 リュカはそんなダメな大人たちには目もくれず、口をクリームまみれにしながら、あむあむと食べていた。まんまるに膨らんだ、ほっぺがかわいい。今日もいっぱい食べて大きくおなり。

 パスタももちろん美味しかったけれど、残ったクリームソースをパンでぬぐうのも、また美味しかった。少し行儀は悪いけれど、お皿はぴかぴかだ。

 次に、白ワインと一緒に運ばれてきたのは、リモン果汁と肉の煮込みだった。

 肉は猪とか鹿だろうか。鶏肉ではなく何かのジビエだった。王都ミネライスは肉といえばほぼ鶏肉だったので、ジビエは初めて食べる。

 少し臭みを感じるけど、リモンの香りでそこまで気にならない。むしろ、ほんのり辛いハーブと、肉の上に添えられたリモンバターのコクもあって、ガツンと食べられた。

(ああ! リモンバター! その手があったか!)

 全然考えていなかった使い道に、ぼくはぜんリモンを買わなくては! という気持ちになった。まんまと食堂の目論見にはまっている。

 肉は適度な噛みごたえがあって、育ち盛りには十分な満足感だ。少し重いかな? とも思ったけれど、脂とバターのこってりさをリモンが上手に覆い隠して、最後までさっぱりと食べられた。

「はあ~。お腹いっぱい。ごちそうさまでした」

「ごっしょーしゃまでちたっ」

 ぼくもリュカも、もうお腹いっぱいだ。でも、大人たちはまだ食べ足りないようで、チーズや麦のリゾットを頼んでは、ばくばく食べている。

 それなのに、ワインはちょびちょび飲みなのがおかしくて、笑ってしまった。

 すべての料理を綺麗に食べ尽くし、ワインを最後の一滴まで飲み干して、やっと全員がお腹いっぱいになる。大満足の夕食だった。


 翌朝。宿で朝食を済ませ、ぼく・リュカ・ドニの三人で市にやってきた。チボーは馬の世話、ブノワは馬車の点検で別行動だ。

 市は村のちょうど中心地にある広場で開かれていた。規模は小さいけれど、リモンを仕入れに訪れた商人や村人で賑わっている。

(石畳、でこぼこして歩きにくいなあ。人も多いから、リュカは抱っこしておいた方が良いかも)

 リュカはぼくと手を繋ぎ、短い足でご機嫌に歩いている。……と思った瞬間、石につまずいて転びそうになったところを、ドニがひょいっと抱えて肩車した。

「きゃあああ! たかーい! しゅごーい!」

 目をぱちくりさせたあと、リュカは初めての肩車に大興奮だ。きゃあきゃあと喜び、はしゃいでいる。がっしり筋肉質な大男の肩車は、安定感があってさぞかし眺めが良いことだろう。

「これなら、リュカ坊ちゃんが迷子になる心配はないですぜ。ルイ坊ちゃんも、心置きなく市を楽しめやすでしょう?」

「……うん。そうだね。ありがとう」

 リュカは、父親の存在を知らない。それは仕方のないことで、今まではさして気にして来なかった。でも、この喜びようを見てしまうと、ぼくの胸はもやっとする。

 だって、まだ子どものぼくでは、父さんの代わりに肩車をしてあげることも、高い高いをして喜ばせることもできない。

(これからは、いっぱいミルクを飲もう……!)

 ぼくは密かにそう決意した。幸い、父さんは大柄な体格だったので、望みは十分にあるはずだ。

「ルイ坊ちゃん、何を突っ立ってるんですかい?」

「ううん、行こう」

 気を取り直して、市を見て回る。特産なだけあって、見渡す限り目にも鮮やかな真っ黄色だ。

 ほかにも、リモンの隙間を埋めるように、冬野菜・チーズ・焼きたてパン・干したハーブ類・ワインなどの酒・手仕事の工芸品などが売られている。

 気になるものが多くて、目移りする。物欲を刺激されるけど、まずはお目当てのリモンだ。ひときわ賑わっている店が気になって、ぼくたちは足を止める。

「自慢の朝採れだよ! 食べてみなっ」

 威勢の良いおじさんが、輪切リモンを一枚試食させてくれた。

 ぼくとドニは、遠慮なく皮ごといただく。朝採れリモンは爽やかな香りが強くて、噛むとじゅわっと果汁があふれてきた。

(酸っぱ~い! でも、甘みもあって、美味しい!)

 顔をきゅっとしかめたぼくたちを、リュカは不思議そうに見ている。

「にぃに~。しょれ、おいち?」

「美味しいよ。リュカも食べてみる?」

「たべりゅ!」

 昨夜、リュカは結局リモンを食べなかった。でも、せっかくの機会だ。一枚だけなら、ものは試しで食べさせてみても良いだろう。

 ……それに、初めてリモンを食べるリュカの反応を、見てみたいというのもある。

 さて、食いしん坊のリュカは、さすがにリモンは拒否するのか、それとも泣くのか。考えるだけで楽しくなってきた。

(ごめん、リュカ。楽しんでるにいにを許して……)

「あ~ん」と雛鳥のように待っているリュカの口に、輪切リモンを一枚放り込む。何の疑いもなく、リュカは二~三回もぐもぐすると、ピタッと動きを止めた。

 そして、目にうっすらと涙を浮かべ、顔をくしゃりとさせると……。

「ひやぁ~~~、ちゅっぱあ!」と叫んだのだ!

 これには我慢できず、ぼくは吹き出してしまった。すごく良い反応だ。

 ドニやリモン店のおじさん、それに周りのお客さんもくすくすと笑っている。いつの間にか視線を集めてしまっていたようだ。

「くくくっ……。リュカ、リモン美味しい? ごくん、できる?」

「ちゅっぱ! にぃに、ちゅっぱ!」

「っふふ、そうだね、ちゅっぱいねっ……」

 しきりに酸っぱいアピールをしたリュカだけど、吐きだすことはなく、ちゃんともぐもぐごっくんした。

 ぼくは、笑いすぎて出てきた涙をぬぐう。お詫びに、口直しの水をあげようと収納ストレージから水筒を取り出した瞬間、リュカがまた叫んだ。

「りもん、もっと~~~!」

 まさかのおかわり要求だった。これにはさすがに驚いてしまう。

「え、リュカ、もっと? リモンを?」

「あい!」

「えええ。嘘でしょう? リモン、酸っぱかったよね?」

「ちゅっぱあ、おいちい!」

「嘘~~~!」

 ぼくたちのやりとりを見ていたおじさんが、特別にもう一枚くれた。

 リュカはお利口に「ありあとー」とお礼を言って、ちゅうちょなく頬張る。酸っぱさに顔も肩もきゅっとなっているけれど、本当に食べられるようだ。

(リュカって、意外と渋い趣味をしてたんだな……)

 おじさんにお礼を言って、その店でリモンを一箱買う。あとで宿に届けてくれるとのことだったので、お願いして店を後にした。


 その後もお店を冷やかしつつ、気になったものを購入していく。チーズはいくらあっても困らないし、彩色豊かな絵付けがされた器は一点ものばかり。どれを買うか迷ってしまう。

 のんびりと一巡して、そろそろ宿に戻るかというところで、ぼくは思いもよらなかったものを見つけてしまった。

(あれは……リモンのはちみつだ!)

 その瓶詰めは、物陰にひっそりと置かれていた。もう少しで見逃すところだった。危ない危ない。

 確かにあれだけのリモン畑であれば、はちみつもとれるだろう。とろりとした純粋な黄金色は、とても綺麗だった。

(うわ~。美味しそう……)

 ごくん、と生唾を飲む。大瓶一つで銀貨二枚。だいたい庶民の平均日給くらいと思えば高いけれど、産地だから安い。きっと王都ならこの倍はする。それに、ここで買い損ねたら、次はいつ手に入るかもわからない。

 悩んだ末、買い占めたい気持ちをぐっとこらえたぼくは、大瓶を三つ購入した。

 ほかにも見落としはあるかもしれないけど、もう市が終わるお昼時だ。後ろ髪を引かれつつ、宿に帰る。すでに戻っていたチボーたちと合流して、ぼくたちは食堂に向かった。


 食堂は、外のテラス席までぎゅうぎゅう詰めの満員御礼だった。

 店内の一番奥の舞台からリュートの明るい音色が聞こえてくるので、ちょうど今が生演奏の時間なのだろう。真昼間から赤ら顔の客たちが大声で歌い、ジョッキを掲げた腕を互いにクロスして一気飲みしている。

 看板娘と言うには花盛りを過ぎた恰幅の良いおねえさま方が、両手に驚くほど大量のジョッキを抱えて、忙しくなく通路を行き交っていた。

 仕方なくしばらく待っていると生演奏が終わり、席を立った客と入れ替わりにやっとぼくたちがその空いた席に通される。

 空きっ腹を抱えながらメニューを選んでいると、ぼくはデザート用の剥き身リモンを見つけて、真っ先に注文してしまった。

 実は、はちみつが手に入ってからずっと、ホットリモンが飲みたくて仕方なかったのだ。

 すぐに出てきたリモン果肉を、スプーンで少し潰す。そこに、買ったばかりのはちみつをこそこそ取り出して垂らした。これだけでも十分美味しいけれど、水生成ウォーター発熱ヒートで熱々のお湯を注ぎ、よくかき混ぜたら完成だ。

 はちみつは量が限られているので、ぼくとリュカの二人分だけ作る。大人は知らん。

 ふうふうと息を吹きかけると、湯気が顔に当たった。鼻をくすぐる甘酸っぱい匂いを楽しみながら、ぼくはホットリモンをすする。

「あ~~~、美味しい~」

「にぃに、おいちい!」

 朝から市を歩き回って疲れていた体に、酸味と甘味がじんわりとみ渡った。

 リュカも、ぬるめに淹れたホットリモンを気に入って、ぐびぐびと一気飲みしている。食事前なのでおかわりはなしだ。

(純粋な甘味なんて、いつぶりだろう?)

 本当にひさしぶりの甘い余韻に、ぼくはうっとりしてしまった。そして、気が緩んだせいか、ふと思いついたことを何気なく言ってしまう。

「リモンってワインで割ったり、お酒に漬けたりしても美味しそう」

「「「!!!」」」

 独り言のようなその言葉に、大人たちがギランと目をぎらつかせて、ぼくを見てくる。ふつうに怖い。

「……坊ちゃん、それはどういうことで?」

「え、いや……。白ワインにリモンとはちみつを入れて飲むと、美味しそうだなーって。それか、酒精が強いお酒にリモンとはちみつを漬け込むのも、また一味違って良いと思うんだよね。水が出てきた頃にそのまま飲んだり、お湯で割って楽しんだり、なんて。あはは……」

「なんすか、それ。めちゃくちゃ美味そうじゃないっすか……!」

「(こくこく)」

 今すぐ飲みたい、と顔に書いてある大人たちにため息が漏れる。

「……ぼくのはちみつは分けてあげられないから、食堂に別料金で用意できないか交渉してみたら?」

 ぼくのその言葉に、大人たちは我先にと気弱そうな給仕に詰め寄り、無理を言ってはちみつ入り白ワインリモンを作ってもらっていた。

 さっそく一口飲んで、その美味しさに目を輝かせている。

 人が美味しそうに飲んでいるのを見て、試してみたくなるのは仕方のないことだろう。でんするかのように「あれ、ちょうだい」と、メニューに載っていない注文がほかの客からも次々と入り出してしまった。

(……なんというか、ご迷惑をおかけして申し訳ない)

 にわかに活気づいた店内に、給仕たちはてんてこ舞いだ。ぼくは肩身を狭くし、存在を消すことくらいしかできなかった。

 その後、はちみつ入り白ワインリモンやリモンのしゅがこの村で大流行し、新しい名物となるのはまた別のお話。


 リモンの村を発ってから、数日後。

 生憎の悪天候で、しとしとと雨が降り続いていた。吐く息が白い。ぬかるみに車輪を取られて立ち往生は避けたかったので、ぼくたちは通りかかった村にしばらくとうりゅうすることにした。

 ドニいわく、いまは全旅程のうち、五分の一を進んだところらしい。国境はまだまだ見えないけれど、焦らずゆっくりと進んでいけば良い。

 この雨では村を見て歩くこともできない。なので、リュカのお絵描きを見守りながら、ぼくはベッドでごろごろしていた。久しぶりに馬車の揺れから解放されて、のびのびと過ごしている。

 同室のドニは、上半身裸で筋トレをしていた。あんまりにもむさ苦しいので、視界に入れたくない。ちなみに、チボーとブノワとは部屋がわかれている。

(あ~~~、ごろごろ最高……)

 思えばここ数年、こんなにゆったりと過ごしたことはなかった。毎日、家事と育児に追われていた覚えしかしない。

 三歳になったリュカはまだ手助けは必要だけど、自分でできることが多くなった。もうぼくがあれこれとすべてをやる必要はない。

 そのうえ、いまは旅のなかで、基本上げ膳据え膳だ。ドニをはじめ、大人が三人もいる。ぼくは気が楽で、気持ちに余裕があった。

(……そう言えば、おじいちゃんとおばあちゃんのことは聞いたことがあったけど、ヴァレーについてはあんまり知らないなあ)

 ドタバタで、聞こうと思って忘れていたことをぼくは思い出した。聞くなら、ひまな今しかない。筋トレが一段落したのを見計らって、ドニに聞いてみた。

「ねえ、ドニ。聞いても良いかな。こういう時じゃないと、なかなか落ち着いて話せないし」

「へい。そうですね。何を話しやしょうか」

「ヴァレーって、ワインの名産地なんだよね? おじいちゃんたちは大地主で、代々続くワインの生産者だって聞いたけど、本当?」

「本当ですぜ。旦那様で八代目と聞きやした。元々は小麦などの穀物を育てていたそうですが、三代目から葡萄を育て始めたとか。それが今ではヴァレーのワインはそりゃあうまいと評判になって、商人たちがこぞって買い求めに来るんでさあ」

 汗のにじむ額や上半身を濡れタオルで拭きながら、ドニが答える。

「へえ~。そんな昔からっていうことは、おじいちゃんたちって、もしかして貴族なの?」

「いえ、貴族ではありませんで。じゃあ、何かと言うと難しいんですが。収穫時期には畑に出ることもありやすが、普段はワイン商たちの相手や、帳簿の管理をしていることが多いですぜ。ああ、あとは、たくさん抱えている小作人や醸造所の職人たちの世話もありやすね」

「ふーん。つまり、おじいちゃんたちは経営者オーナーってことでいいのかな?」

「ああ、そんなところですぜ」

(なるほど……。人をたくさん雇って、手広くワインを作ってる感じなのかな。お金に糸目をつけない感じがしてたけど、そりゃあ裕福なわけだ)

 どうりで父さんも、庶民にしては学があると思った。文字・計算・国の歴史や、生きていくうえで必要な常識は父さんから学んだものだ。

「……そんな家なのに、跡継ぎの父さんがいなくなって、揉めたんじゃない?」

「あ~~~。黙っててもどうせヴァレーにつけばわかることですから、正直に言いやすが……。揉めに揉めやしたね」

「そうだよねえ。……今さらだけど、ぼくたちがおじいちゃんたちのところに行って、大丈夫なのかな? もうさすがに、新しい後継者の人がいるよね?」

 ダミアンさんはぼくかリュカが跡継ぎになるかも、なんて言っていたけれど。父さんが家を出てもう十数年経つのだから、別の跡継ぎが決まっていない方がおかしい。

(いざヴァレーに行っても、跡継ぎさんに邪険にされて居心地悪いっていうのはやだなあ。ましてや冷遇されたりしたら……)

「それはご心配なさらず。実は、未だに決まってないんでさあ。直系の孫である坊ちゃんたちが来てくれれば、むしろ後継者問題にカタがつくんじゃないかと、みんな歓迎してるんですぜ」

「え!? 跡継ぎ、まだ決まってなかったの!?

「へい。そりゃあ旦那様たちも、探そうとはされてたんですぜ。けれど、積極的に継ぎたがるやつは、金に目の眩んだものばかり。親戚筋でこれはという方も、本人が望まなかったり、実はギャンブル癖があったりと、なかなか決まりませんで……」

「それはそれは……」

(確かに、歴史ある由緒正しいおいえなだけに、変なやつには継がせられないよな……)

 ドニはやっとシャツを着て、ベッドのうえで胡座あぐらをかいた。

「それに、最近は国の方針が変わってきてるのも、悩みどころでして」

「? どう変わってきてるの?」

「アグリ国は気候も穏やかで、農作物がよく採れるんですがね。今度は採れすぎることが問題になってるんですぜ」

「採れ過ぎて問題に……? ああ、もしかして、値崩れするとか?」

「へえ。さすがは坊ちゃんですぜ。そこにすぐに気づくとは。国も、採れ過ぎた分を近隣国に売ろうとしたんですが、量が多すぎて収納ストレージには仕舞いきれないんでさあ。そのまま運んでも、大半が途中でダメになっちまって、捨てざるを得ない状況でして……」

「それはすごくもったいないね」

(こういうの、前世のニュースでも見たような……。ああ、そうだ。「豊作貧乏」って言うんだ)

「にぃに~。かけた~!」

 そこで、リュカがふんすと前衛的な絵を見せてきたので、頭を撫でて褒める。えへへ~と照れくさそうな笑顔に、ぼくも笑みが浮かんだ。

 そのまま、リュカはぼくの隣に寝転んだので、とんとんする。どうやら眠くなってしまったようだ。

 リュカを起こさないように、ぼくとドニは声の音量を抑えて話を続ける。

「そんなこともあって、国を挙げて農作物の加工や改良に力を入れようってことになったんですが。いかんせん、小作人たちは体を動かすことは得意でも、頭の方はからっきしで……」

「それは確かに荷が重いね」

「へえ。ヴァレーは葡萄をワインに加工できてるんで、よそに比べればまだマシですがね。ただ、旦那様としては、万が一葡萄がダメになっちまった時のことを考えて、もう一つ何か特産がほしいそうなんでさあ」

「ふーん。共倒れを避けるため、かな」

 農業はどうしても天気に左右されるものだ。不作の年もあれば、病害虫などにやられてしまうこともある。第二、第三の柱を模索するのは、経営者としては正しい判断だろう。

「そこで、ルイ坊ちゃんですぜ。なにせダミアン商会と専売契約を結ぶほど、新しいことを発想できる才能があって、人柄も地頭も良い。そう噂で漏れ聞いてたんですぜ。もしそれが本当なら、そんな方が継いでくれればヴァレーは安泰だと、みんな坊ちゃんに期待してるんでさあ」

「そんなふうに噂されてたなんて……」

 思わぬ大きな期待に、ずっしりと肩が重い。噂が独り歩きしていそうで怖かった。

「正直、跡継ぎって言われても、まだ全然想像できなくて……。だから、ヴァレーに着いたら、おじいちゃんたちと話して決めるよ。ぼくはまだヴァレーのことも、葡萄やワインのことも、何も知らないからね。まずは知るところから始めないと」

「それもそうですな。まあ、頭の良い坊ちゃんなら、大丈夫でしょうて」

 ドニはニヤッと笑うと、横になってすっかりくつろいでいる。

 ぼくは大変な状況から逃げだすことに必死で、ヴァレーに着いてからの生活をまったく考えていなかった。

(でも、行くと決めたのは、ほかならぬぼくだ)

 おじいちゃんたちが、跡継ぎほしさだけで手を差し伸べてくれた訳ではないとわかっている。手紙からは、ぼくたちを純粋に心配する気持ちが伝わってきた。

 その優しさに甘え、庇護を受けるだけ受けて、厄介な後継者問題は我関せず、なんて真似はぼくにはできない。かといって、流されるのもだめだ。ましてや、リュカに背負わせるなんて、あり得ない。

 かたわらで、すやすやと眠るリュカの寝顔を眺める。大それたことは、望んじゃいない。兄弟二人、ただ穏やかに暮らせたら、ぼくはそれで良いんだ。

(……跡継ぎのこと、しっかり考えないと)

 響いてきたドニのいびきに顔をしかめながら、ぼくはリュカの顔にかかった前髪をそっと手で払い除けた。