また会う日まで

 リュカの三歳の誕生月も終わる頃。以前にもうちに来たことがあるダミアン商会の見習いが、また「旦那様がお呼びですよ」という伝言を残して帰っていた。

 時期的に、ドニ氏が来たのかもしれない。いよいよかと思うと、なんだか胸が変な感じがした。

 ぼくはリュカをエミリーさんに任せ、商会を訪ねる。すると、ダミアンさんと見知らぬ大男が、すでに話し込んでいた。大男は革製の胸当てなどの装備を身につけ、まるで冒険者のような格好だ。

「おお、ルイ。よく来た。さあ、お待ちかねのドニ氏がいらしたぞ。……この子が、ヴァレー夫妻の孫のルイですよ」

「この坊ちゃんが……。俺はヴァレー家自警団長のドニと申しやす。やっと会えましたな!」

 ドニ氏は日に焼けた顔でニカッと笑い、丸太のような腕でぼくの背中をばんばんと叩いた。ふつうに痛い。それに何というか、だいぶざっくばらんで豪快な人のようだ。

「げほっ。ル、ルイです……。ドニ、さん?」

「俺は使用人ですんで、ドニで結構ですぜ。敬語もよしてくだせぇ」

「? はぁ……。わかった、よ」

 さっそく席について、ドニが持参した祖父母からの書状と、商人ギルド発行のギルドカードをぼくも確認させてもらう。

 さらに、全くの別人が遣いを偽るという可能性も考えてこっそりドニを鑑定した結果、間違いなく本人だった。ベルナールのことで、ぼくは少し疑心暗鬼になり過ぎているようだ。

「ダミアンさんに先に話を聞きやしたが、坊ちゃん方はアグリ国はヴァレーに行くおつもりで?」

「うん。ぼくと三歳になる弟のリュカの二人だね。子連れだし、冬場だから無理は承知なんだけど、なるべく早く出発できないかな?」

「うーむ。そうですなあ。俺らも着いたばかりなんで、根回しと準備の時間はくだせぇ。それに、国境沿いは雪が降り始めてやしたから、今頃はもう通行できませんぜ? 早く出発しても、国境手前の町で春を待つことになりやすが、それでも良いんですかい?」

「うん。ドニがよければ、それでお願い」

「へえ。承知しやした」

「あ、そうだ。一応、必要だと思うものは、ぼくも準備しておいたんだ」

 購入品リストなどをまとめた木板を、ドニに渡す。その木板に目を通したドニは、なぜか目を瞬かせたあと、ぼくを見て頷いた。

「坊ちゃんは、用意周到というよりも心配性の母ちゃ……いえ。何でもありやせん。それにしても、良くまとまってますな。これなら、想定よりも早く出発できそうですぜ」

 前半はボソボソっと小声で言われたので、聞き取れなかった。けど、リストは役に立ったようだ。

「多少の漏れは、俺らで準備すれば良いですし。移動は旦那様方が心配して、ヴァレー家でも一等頑丈で、揺れの少ない馬車で来ておりやす。護衛も、ほかに自警団のものが二人来てますんで、安心してくだせぇ」

「自前の馬車は助かる……! でも、護衛が三人って少なくない?」

「いえいえ、十分でさあ。季節柄、野盗やけものたぐいは滅多に出やせんし、街道は国の兵士たちが定期的に見回っていやす。それに、俺たちもちったあ腕に覚えがあるんですぜ?」

 ドニは冗談めかしてそう言うと、ぐっと盛り上がった自分の上腕二頭筋をぱんぱんと叩いてみせた。

「はは……。それなら安心、かな。で、ほかの二人は?」

「いまは宿の手配や、関係各所への挨拶回りなんかで出払ってますんで、後ほど紹介しやす」

「お願い。あとは、旅装ってどうしたら良い? 馬車の中で暖はどうとるの?」

「へい。旅装は、綿入りや毛皮を重ねて、暖かくしてくだせぇ。何より大事なのは、靴ですな。雨雪が染み込まない・底が硬い・脱ぎ履きがしやすいものが良いですぜ。暖については、馬車には火の魔石を使った小さなたつやあんかがあるんで、だいぶ暖かいと思いやす」

「火の魔石って、火山とか地熱地帯でたまに採れるっていう……? そんな貴重なものまで持たせてくれるなんて……」

 想像以上に至れり尽くせりで、ありがたいやら申し訳ないやらで僕はしばし絶句してしまう。

(……どうなるものかと思ってたけど、防寒具はありもので大丈夫そうだし、寒さもおじいちゃんたちのお陰で何とかなりそうだ。乾燥が心配だけど、濡れタオルを干すとか水生成ウォーターでミストを出して加湿すればいっか)

「そうだ。野営道具はどうすればいい?」

「それは一応、準備がありやす。ただ、ソル王国からアグリ国までは、街道沿いに点々と村や集落があるんで、そうそう野営をすることはないですぜ。小さな子どもにも、良くありやせんし」

「万が一の備えがあるなら良いんだ。ぼくとしても、リュカのために絶対にちゃんとした宿に泊まりたいし」

「へえ」

 ひとまず、ぼくが心配していたことは、だいたい潰せたはずだ。

「……あとは、母さんをどう説得するか、か」

「ああ、そうだ。ルイ。修道院の件だが、受け入れてもらえるそうだよ。その代わり、だいぶ契約を譲歩することになってしまったがね」

「! 良かった……! 譲歩は全然良いんです。ダミアンさん、ありがとうございます!」

「うむ。では私は、引き続き修道院と、サラの勤める工房に根回しを進めるとしよう」

 ダミアンさんは忙しいだろうに、なんてことないかのように引き受けてくれた。ぼくはもう、ダミアンさんに足を向けて寝られない。

「となると、問題はいつ切りだすか、ですぜ」

「うん。でも、話をしたところで、きっと母さんは素直に頷いてくれないと思うんだよね……」

 母さんにしてみたら、いきなり家族も仕事も家も、恋人さえも奪われるのだ。それに、修道院に入れば、戒律の厳しい生活が待っている。簡単に納得してくれるとは思えなかった。

「俺としちゃあ、話すだけ話して、あとはどうあれ修道院まで護送していくのが良いと思うんですがね。見張りを兼ねて、女性の護衛や下女も用意しやすから、そうそう逃げだすこともできませんで」

「……結局、それしかないのかなあ」

「むしろ問題のある家人を修道院に入れるのに、貴族でもこんなに手厚くはしませんぜ。ふつうは問答無用の力尽くでさあ」

「母さんに手荒なことはやめてね。穏便にね」

「へえ。それはもちろん」

 そうして、ダミアンさんとドニと段取りを詰めていく。母さんが姿を消せば、ベルナールには自ずとバレてしまうだろう。そうなる前に、ぼくたちも間髪をいれずに出発することが決まった。


 そうして、しばし待つこと数日。ドニから、母さんの修道院行きに伴う護衛たちが決まったと連絡があった。

 ドニたちの泊まる宿で、作戦会議を行う。

「女性の護衛は珍しいって聞いてたから、こんなに早く決まるなんて思ってなかったよ」

「へい。そこはまあ、昔のツテを頼ったり、いくばくかきんを積んだりしやした」

「わあ、やっぱりそうなんだ……。ぼく、払い切れるかな……」

 ここ数ヶ月で、かなり散財している。最近、商人ギルドで確認する時間がなかったけれど、残高はがっつり目減りしていることだろう。

 わずか十三歳でお金の心配をしている自分に、ぼくは思わず遠い目になった。

「旦那様から、孫のためなら金は惜しむなとことかってますんで、坊ちゃんは心配されんでも大丈夫ですぜ」

「えええ! ありがたいけど、大丈夫かな……」

「それだけ、孫がかわいくて仕方ないんでさあ。賭けても良いですが、ヴァレーに着いたらお祭り騒ぎの大歓迎ですぜ」

「はは。そうだと良いけど。それなら、がんばって祖父母孝行するよ」

「そうしてくだせぇ」

 ここ数日で、ドニとはだいぶ打ち解けてきた気がする。

 ドニはごうほうらいらくな性格でいかにも体育会系という見た目なのに、意外とまめな気遣いもできるので、親しみやすかった。

「母さんには、明日の朝話そう。それで、どうなるにせよ、そのまま修道院に向けて出発する。午前中に王都を発てれば、道中も楽だよね?」

「へい。野宿は避けられると思いやす」

「それで、明後日の朝にはぼくたちも出発か……」

 家族の思い出は、もちろんある。ぼくが子どもの頃、美人で優しい母さんは子ども心に自慢だった。でも、ここ数年の母さんは……。

 だから、寂しいというよりも「やっと離れられる」という安堵の気持ちの方が近いのだ。

 それに、薄情かもしれないけれど、この王都から出たことがないぼくは、初めての旅にだんだんとわくわくし始めていた。

(観光気分って訳には行かないだろうけど、ちょっとくらいは良いよね?)

 ドニたちに、無理なわがままを言うつもりはない。けれど、せっかくの機会なのだから、見聞を広めながら向かいたいと思っていた。要は、物は言いようなのだ。

「明日は俺も同席しやす。旦那様方のことは、俺から話した方がしんぴょうせいがありやしょう」

「うん。そうだね。一緒にいてくれると、ぼくも助かるよ。ありがとう」

(いよいよだ……)

 どう転んでも、母さんとの別れがすぐ近くに迫っている。そう思うと、その夜、ぼくは緊張でなかなか寝つけなかった。


 寝不足で迎えた翌朝。珍しく、冬晴れの澄んだ朝だった。

 朝食を食べ終わった頃合いに、ドニが母さんの護衛たちを引き連れて我が家を訪れる。

 人様の家を訪問するには非常識な時間にもかかわらず、ドニたちを歓迎して招き入れるぼくに、母さんは驚くやらいぶかしむやらで忙しそうだった。

「ルイ、こんな時間に一体なんなの? この人たちは誰?」

「……母さん。大事な話があるんだ」

 きっと、これがお別れになる。エミリーさんからリュカを受け取って、そのまま自室に下がってもらった。

 リュカはきょとんとした顔で、ぼくの膝に大人しく座っている。

 まだ幼いリュカは、きっと今日のことは忘れてしまうだろう。それでも。ぼくのエゴかもしれないけれど、最後くらいは母さんと一緒に過ごさせてあげたかった。

「……母さん。この人はドニ。父さんの実家からの遣いだよ」

「ドニと申しやす。マルク様のご実家である、ヴァレー家で自警団長を務めておりやす」

「ヴァレー家……? あの人の実家……? そんなこと、初めて聞いたわ……」

「ぼく、父さんからおじいちゃんたちのこと、聞いてたんだ。それで、時どき手紙のやりとりをしてた」

 そう言えば、手紙のことは母さんには言っていなかった。隠していたわけではないけれど、母さんはそうは思わなかったみたいだ。顔が少し怖くなっている。

「……ルイ。あなた、お母さんに隠れて、こそこそとそんなことをしてたのね……」

「別に、隠そうと思って隠してたわけじゃないよ。でも、母さんは自分のことばっかりで、そんな余裕なんてなかったよね? そのうち、仕事を始めたり、家にいないことが多くなったりして……。いつ話せば良かったって言うの?」

「それは……」

 いけない。ちょっと頭に血が上ってしまった。言い争いがしたいわけじゃないんだ。ぼくは何回か深呼吸をして、呼吸を整える。

「……そんな状況を、おじいちゃんたちはすごく心配してくれて、良かったら自分たちのところに来ないかって言ってくれたんだ。だから母さん……。ぼくとリュカは、おじいちゃんたちのところに行くよ」

「そんな……! なんで……」

 母さんは突然の話に、ふるふると身を震わせている。

 リュカはそんな母さんが怖いのか、きょときょとと落ち着かない様子だ。リュカのお腹に回したぼくの腕を、小さなお手々でぎゅっと握ってきた。

「ねえ! ルイ! そんな、見ず知らずの人のところに行かなくても、この国でずっとお母さんと一緒にいればいいじゃない! ベルナールさんも、四人で家族になろうって、せっかく言ってくれてるのに……! ルイはお母さんの幸せを願ってくれないの……!? ひどい、ひどいわ……!」

「だから、それは……」

 何をどう言っても母さんには言葉が届かないような気がして、ぼくは口ごもる。

「……はあ。大人しく聞いてやしたが、伝え聞く以上にひどい状態ですなあ。こりゃあ坊ちゃんが逃げたくなるのも、無理ないですぜ」

「うるさいわねっ! あんたは黙っててよ!!

 母さんは尋常じゃなく、ヒステリックにわめく。……本当に、こんな人だっただろうか?

「いんや、言わせてもらいやすがね。坊ちゃん方は、ヴァレー家に来れば、そりゃあ下にも置かないほど大事にされますぜ。衣食住や金の心配をすることなく、教育も十分に受けられやす。ここにいるより、よっぽど良いと思いますぜ」

 ドニはそう言って、肩をすくめる。ぼくたちを庇うように、母さんとの間に立ってくれているその背中は、頼り甲斐があった。

「それに、そのベルナールってやつは、ちょっと調べただけでも、きな臭えうわさばかりでいけねえ。あんた、十中八九、だまされてますぜ」

「ベルナールさんは素晴らしい人よ! あんたたちが間違ってるのよっ!」

「……はあ。男ってえのはですね、真剣に結婚したいっていう女には、ちょっとした花や装飾品アクセサリーを贈って気を引いたり、あれこれがんばるもんです。まかり間違っても、金をせしめようなんてこと、しないもんですぜ」

「そんなこと……」

 ドニの言葉に、母さんも心当たりがあったらしい。動揺したように肩を落とした。

(そう言えば、あやしい置物とかが部屋にあるのを見たけど、母さんが恋人らしいプレゼントを受け取ってるそぶりなんて、全然なかった)

「……それなら……お母さんも一緒に行くわ……。そうよ、家族ですもの。それがいいわ」

「はあ。それは無理な話ですぜ」

「っ……! なんで! あんたにそんなこと、言われなきゃいけないのよ! 私は母親よっ!」

 母さんがげっこうして、大きな声をあげてぼくたちに詰め寄ってきた。

 ドニが母さんを近づけないように、手で制止してくれている。それを尻目に、ぼくはとっさにリュカの耳を塞いだ。

「ふぇっ、にぃに~~~、ごあいぃ。びえ~~~ん」

 一歩遅く、リュカは泣き出してしまった。その両脇を持ち上げ、くるっと向かい合わせに変えてから抱きしめる。良かれと思ってリュカを同席させたけど、やっぱり間違いだったのかもしれない。

 ぼくの胸に顔を押しつけて、震えているリュカの背中をとんとんする。ぼくは後悔でいっぱいだった。

「リュカ、ごめん。ごめんね。にいにがいるからね。大丈夫、怖くないよ」

「ぐすん、ぐすん」

「……はあ。それが母親のすることですかい? 常識的に考えて、かわいい孫たちをほったらかして男に走った息子の嫁を、誰が歓迎するとでも? いくら人の良い旦那様方でも、我慢の限界ってのがあるんですぜ」

「……!」

 ドニの低い声にひるんだのか、母さんの声が詰まる。普段のおおらかなドニとは違った様子に、ぼくも内心びびってしまった。

(ひえええ。さすが、自警団長……!)

「ルイ坊ちゃんはお優しいんで、そんなあんたでも母親だと言ってるんでさあ。ここに残して行っても、ベルナールのじきになるだけだから、と。あんたを受け入れてくれるように、修道院に話をつけて……。大した息子じゃねえか」

「修道院……?」

「あんたには、お隣のローメン国にある聖リリー女子修道院に入ってもらいやす。いまのあんたはまともじゃねえ。ベルナールとも坊ちゃん方とも離れて、神さんの元で己をかえりみた方が良い。しばらく静かに暮らせば、落ち着いて周りを見られるようになるでしょうよ」

「なんで……。そんな、今さら……」

 母さんは呆然として、ついにはしくしくと泣き始めた。きっと色々な感情が振り切れて、許容量を超えてしまったのだろう。

 見計らったように護衛たちが部屋に入ってきて、母さんを外へと促す。もう抵抗する気力もないようで、母さんは大人しくされるがままだった。

 ぼくもリュカを抱っこしたまま、その後ろをついていく。家を出ると、通り沿いに二頭立ての馬車が停まっていた。すでに準備は万端なようだ。

(母さん、こんなに小さかったかな……。これでお別れなのに、なんて言葉をかけたら良いのか、わかんないや……)

 ぼくは母さんの姿を目に焼きつける。浅く息を吸って、声を絞り出した。

「母さん……。その、元気でね。もし、生活が落ち着いて気持ちの整理がついたら、手紙をちょうだい。ぼく、待ってるから……」

「……」

「さあ、リュカ。リュカも、母さんにバイバイしよう?」

「……やあ~~~」

 リュカは泣き止んだけれど、まだひっつき虫になっている。ご機嫌ななめちゃんだ。

 仕方なく、ぼくが立ち位置を変えて、リュカの顔を母さんの方に向ける。そして優しく、小さなお手々を振って見せた。

「ほら、リュカ。バイバイ~」

「……ばい、ばい」

「~~~」

 母さんはリュカの手を取ると、額にあてて、しばらくうつむいたまますすり泣く。

 そして、そっと護衛に促され、馬車に乗り込むと……静かに去っていった。

 ぼくはリュカを抱っこしたまま、馬車が見えなくなるまで、ずっとその後ろ姿を見送る。風が痛いほど冷たくて、抱えたリュカの温かい体温がひどくみるようだった。

(さよなら。母さん……)

 まだ耳に残っている、母さんの優しい子守唄。「宝物よ」と言ってくれた青い瞳の輝きに、温かく柔らかい腕。恥ずかしかったけれど、抱きしめられると安心できた。……ここ数年は、そんなこともなかったけれど。でも、ぼくは覚えている。

(どうか、これからは心穏やかに)

 ぼくが願うのは、ただそれだけだった。


 母さんとの別れの翌日。ついに、ぼくたちの出立日がやってきた。

 ひっそりと旅立つつもりだったけれど、朝早くにもかかわらず、ポリーヌさんやダミアンさん、エミリーさんが見送りに来てくれていた。

「はあ~~~、寂しくなるねえ。ねえ、あんた」

「ああ。そうだね……。でも、これが一生の別れという訳ではないだろう。契約のこともある。それに、ルイたちの生活が落ち着いた頃に、私も行商ついでに一度はヴァレーに行こうと思っているんだ。……良いかな?」

「ダミアンさん……ありがとうございます。ぜひ、来てください! 楽しみにしてます。本当に、今までお世話になりました!」

「では、また会う日まで。……ああ。契約金の支払いは、アグリ国の商人ギルドでも確認できるから、時どきは確かめるように」

「はい」

 ポリーヌさんとハグをしたあと、ダミアンさんと握手を交わす。この人たちがいなかったら、ぼくたち家族は一体どうなっていたかわからない。

 どれだけ感謝しても足りないくらいだ。アグリ国に行ったとしても、できる形で少しずつ恩を返して行きたい。

「ルイさん、リュカちゃん。アグリ国に行っても、どうかお元気で」

「エミリーさん、今まで本当にありがとう。リュカがこんなに素直で元気に育ったのは、エミリーさんのおかげだよ」

「いえ。そんなことはありませんわ。ルイさんが、しっかりされていたからこそです」

「えみー、だっこー」

 別れの挨拶をしていると、ぼくの足元にいたリュカが、いつものようにエミリーさんに抱っこをねだる。

 リュカにとっては、生まれてからずっと当たり前にそばにいた人だ。上品で落ち着いたエミリーさんに、本当によく懐いていた。

(あれ、もしかして……。リュカ、エミリーさんを母親だと思ってるとか、ないよね……?)

 ふと、ぼくはまさかの可能性に気づいてしまった。

(いやいやいや。そんなことは……ある……かも?)

 いやな予感を感じつつも、名残惜しげに最後の抱っこをしたエミリーさんから、リュカを受け取る。エミリーさんの目尻には、涙がきらりと光って見えた。

「さあ、リュカ。エミリーさんにバイバイするよ」

「? ばいばい? えみー、いっちょ」

「エミリーさんとは、ここでバイバイなんだ。にいにとリュカは、これからおじいちゃんとおばあちゃんのところに行くんだよ」

「ばいばい、ちあう! えみー、いっちょ!」

「リュカちゃん……」

 頑として「バイバイじゃない!」と言い張るリュカが、かわいそかわいくて困る。

「さあ、坊ちゃん方。そろそろ出発しますぜ!」

「ああ。うん。それじゃあ……みんなもどうか、元気で」

 ぼくはリュカを抱っこしたまま、二頭立ての馬車に乗り込む。

 すると、本当にお別れなことを察知したリュカは、海老反りになっていやがった。耳元で泣き叫ばれて、ぼくの鼓膜が破れそうだ。

「やああああああ、ばいばいちない~~~! えみー、いっちょお~~~! びええええええん」

「わあ、ちょっと、落ちるから! リュカ、落ち着いてっ」

「おっと。危ないですぜ」

 すかさずドニが支えてくれて、そのままビチビチと活きの良いリュカをがっちりと捕獲してくれている。

 そのあまりの暴れっぷりに、みんな泣き笑いで苦笑してしまった。なんとも締まらないけれど、リュカの叫び声を響かせたまま、馬車はゆっくりと走りだす。

「いってらっしゃーーーい」

 見送る声が何度も後ろから聞こえて、あふれてきた涙をぐっとぬぐう。

「いってきまーーーす!!

 馬車の窓から身を乗り出して、ぼくは力一杯手を振る。姿が見えなくなって、やがて声も聞こえなくなるまで、ずっと。

 涙を乾かす追い風が吹く。

 こうして、ぼくとリュカは優しい人たちを故郷に残し、アグリ国へと旅立ったのだ。