新生児のいる生活は、覚悟していたけれどやっぱり大変だった。

 昼夜を問わず、数時間おきのおむつ替えと授乳。

 夜泣きがひどい時や、なかなか眠ってくれない日もあった。そのうえ、リュカは誰かが抱っこしていないと、いつまでもぐずってしまう赤ちゃんだった。

「ほら、リュカ~。べろべろ~、ばあ~!」

「あー、あー」

 必死にご機嫌を取って、やっと泣き止んで笑ってくれたリュカは、本当に天使みたいだ。母さん譲りの綺麗なビー玉のような青い瞳は、ずっと見ていられる。

 なるべくぼくもお世話をしていたいけれど、さすがにまだ十歳なので、夜はどうしても睡魔に勝てなかった。それに、夜泣きのたびに起きてしまうと、子どもの体に寝不足はきつい。

 幸い、リュカがすやすや眠るベビーベッドは植物の蔓で箱型に編まれていて、軽く持ち運びがしやすいものだ。

 なので、日中は二階の子ども部屋か一階のリビングにベビーベッドを運んでぼくが、夜はエミリーさんの部屋に運んでエミリーさんが、交代でリュカのお世話をしていた。まさに二人三脚だ。

 母さんは産後の回復を優先して、授乳時以外は休んでもらっている。まだ体がしんどそうで、寝ていることが多いけれど、授乳のときは少し微笑んで、リュカに話しかけることもあった。

「かわいい赤ちゃん……私がお母さんよ……」

「んっく、んっく、んっく」

 とにかくリュカ中心の生活で、家事はエミリーさんかぼく、どちらか手が空いている方が合間に行う。食事は食堂や、近所の主婦に有償で数食分作ってもらうなど、外注もフル活用だ。

 そうでもしないと、生活が回らなかった。

(育児グッズ、作っておいて本当に良かったー!)

 この時になって、粉ミルク・哺乳器・おむつ用スライムシートを開発したことを、ぼくは心の底から自画自賛した。

 育児グッズがあるいまですら大変なのに、なかったらどうなっていただろう。少なくとも、二人での育児は無理だった。

 ポリーヌさんに提案してから、開発に充てられる期間は実質一ヶ月もなかった。

 切羽詰まった日程だったけれど、哺乳器とおむつ用スライムシートの二つは、ほぼ仕様書通りに製作が進んだ。

 一番、時間がかかったのは、粉ミルクの成分調整だ。

 最初に出来上がったヤギ乳をフリーズドライしただけのものは、『乳幼児の成長に必要な栄養が欠けている』と鑑定に出た。その鑑定結果を薬師に伝え、地道に薬草の配合や量を再調整してもらう。

 そうして、やっとポリーヌさんから納得のいくサンプルを受け取ったのは、出産予定日の一週間前のことだった。

 ぼくが今度こそはと、祈る気持ちで鑑定すると……。


【名前】粉ミルク

【状態】良

【説明】食用可。ヤギ乳を主原料に、いくつかの薬草が配合されている。乳幼児の成長に必要な栄養が豊富。薬草の効果でミルクアレルギーは起こらない。直射日光・高温多湿を避ければ、約一ヶ月ほど保存可能。


「おおー! 思った以上の出来です!! すごい!」

「はあ~。それならよかったよ。薬師もずいぶんと調整に苦労したみたいだからねぇ。きっと喜ぶよ」

「本当にありがとうございます、と伝えてください」

「わかったよ。それより、早くこれを売りに出したいから、契約について話をしようじゃないか」

「もちろんです!」

 ダミアン商会とは商会ギルドに仲介に入ってもらい、製造・販売の専売契約を結ぶ。

 できるだけ安価に販売することを条件に、通常契約金は販売価格の三割が相場のところを一割で契約した。願わくば、多くの親の助けになってほしい。

 さっそくダミアン商会で、試しに一週間分を目安に量り売りが始まった。初回のみ、注意書きや保存期間、使用方法を書いた木簡もセットだ。

 まだ販売が始まって数日だけど、かなりの評判で売れ行きは好調らしい。

 そうして、なんとか販売までこぎつけた粉ミルクだけど、やっぱり母乳の栄養や免疫力アップなどの効果は無視できない。

 それに、母さんたっての希望もあり、無理をしない範囲で授乳をしてもらっていた。けれど、どうやら母乳の出にムラがある体質らしい。

 結果的に、粉ミルクは大活躍だった。なんせ、お手軽なのだ。

 洗浄クリーンで殺菌した哺乳器の半量に対して、粉ミルクはさじ一杯分。

 お湯は生活魔法の水生成ウォーター発熱ヒートのおかげで、ぼく一人でも簡単に準備ができる。

 ありがたいことに、リュカは哺乳器も粉ミルクもいやがらない子だ。

 意地でも離さないぞとばかりに自分でしっかりと哺乳器を持って、ごきゅごきゅと飲んでくれる。

(はぁ~。癒される……)

 そのあまりの飲みっぷりに、飲ませ過ぎかな? と不安になる。将来は大食いになりそうだ。

 飲み終わって満足そうに「げぷっ」と大人顔負けのゲップをする姿も、ふんわり漂うミルクの甘い匂いも。すべてが赤ちゃんらしくて、ぼくはもうかわいくてかわいくてしょうがなかった。

「いっぱいミルクを飲んだね~。えらいね~」

「あぅ」

 まだなんすら話せないリュカの、もちもちほっぺを優しくつつく。どんなに大変でも、それだけで報われるようだった。

 そうして、はじめての育児に奮闘しているうちに、季節は春から初夏へと移ろぎ、ぼくは気がつけばとうに十一歳になっていた。


 かわいい盛りを更新し続けている弟のリュカは、いまは生後五ヶ月ほどだ。大きな病気をすることもなく、毎日すくすくと成長している。

 リュカの面倒はポリーヌさんをはじめとした商会の人たちや、近所の主婦たちにも手伝ってもらっていた。

 そうやって、いろんな人に可愛がられているおかげか、リュカはあまり人見知りをしない、にこにこと愛想の良い赤ちゃんだ。

 いまは散歩がお気に入りで、天気の良い日に抱っこ紐で近所を歩くと大喜びだった。

 行き交う人たちも、きゃっきゃと笑うリュカに目尻を下げて、見守ってくれている。中には、こっそり手を振ってくれる人もいた。

「リュカはかわいいね~。天使だね~」

「あーうー。きゃっきゃっ」

 散歩から帰ると、ふれあいタイムだ。ぼくは二階の子ども部屋で、ベッドに寝転ぶリュカの頭からつま先まで、何度も手のひらで優しく撫でる。リュカは気持ちよさそうに、目を細めた。

 そのまま、ぷくぷくのお手々をよよいのよいすると、盛んになんを話してくれる。おしゃべり上手な様子に、ぼくは目がとろけそうだ。

 さらに、最近、自分の足の存在に気がついたリュカはよいしょと足を上げて、つま先を両手で掴んでお尻を浮かせる。

 その拍子におくるみがめくれて、いかにも柔らかそうな、むっちむちの太ももが現れた。

(わあ~。まるでハムみたいに美味しそうな太ももだ)

 あんまりにも魅惑的な誘惑に逆らえなかったぼくは、出来心でリュカの太ももにぱくっと唇でかぶりつく。

「はむはむはむ」

「きゃあ~~~」

 リュカの笑い声は、なぜこんなにもかわいいのだろう。ぼくまで笑いが止まらなくて、左右交互に何度も食べるふりをする。

 ひとしきりリュカと遊んでいると、扉をノックしてエミリーさんが部屋に入ってきた。恥ずかしいところを見られたかと思って、ぼくはぱっと居住まいを正す。

「エ、エミリーさん。どうしたの?」

「ルイさんに少し相談が……! ルイさん……! リュカちゃんが……!」

「えっ!」

 エミリーさんが押し殺したような声で言う。

 リュカに視線をやると、一瞬ぼくが目を離した隙に体が斜めっていた。

 腰をひねり、体の下に片手がすっかり入っている。どうやら、一生懸命に反動をつけて、体を起こそうと奮闘しているようだった。

「あ~~~ぅ~。ぁっぁ~」

(ね、寝返り……!? ついに!? がんばれ、リュカ!)

 固唾を飲んで、ぼくとエミリーさんが見守るなか、リュカの足は何度も勢いをつけて宙を蹴り……。

 ころん。

(寝返ったーーー!!

 リュカはきょとんとしている。視点が変わったことが不思議なのだろう。でも、ぼくに気がつくと、天使のような笑顔で笑ったのだ。

「あっきゃぁ!」

「わあああー! リュカ! 寝返りできたねえ! 良い子だねえ」

「もう少し時間がかかるかと思ったら、一瞬でしたね」

 ぼくはリュカをたくさん撫で撫でしたあと、エミリーさんと喜びをわかち合う。もう感動で胸がいっぱいだった。

「首も据わっていますし、寝返りができるようになったので、そろそろ離乳食をあげてみましょうか」

「もうそんな時期なんだ。早いなあ。問題ないけれど、離乳食ってどんなものをあげるの?」

「はじめての離乳食は、だいたいお野菜のペーストですね。季節にもよりますが、にんじん・じゃがいも・白インゲン・かぼちゃあたりが多いです」

 この世界の料理は、良く言えば素材を活かした素朴な味だ。

 調味料は塩・ワインから作られる酢・ハーブ類の三つでほとんど完結している。胡椒などの香辛料や、砂糖などの甘味料は輸入頼みの高級品で、庶民にはなかなか手が届かなかった。

 主食は小麦だけれど、普段は雑穀が混じった黒パン……いわゆる田舎パンを食べ、お祝いなどの特別な日に白パンを食べる。

 王都ミネライスは、これでもまだ恵まれている方だ。

 西側の郊外に大きな養鶏場があるので、鳥肉やたまに卵も食べられる。それと、血生臭くてぼくは口にしたことがないけれど、臓物の煮込みは屋台でそこそこ人気のある料理らしい。

(ああ。味が濃くてがつんとしたジャンクフード、食べたいなあ)

 子どものぼくが食べられるもので、調味料も食材も限られてくるとなれば、どうしても毎回の食事は鶏肉のソテー・季節の野菜スープ・黒パンに落ち着いてしまう。

 みんなが何の疑問もなく食べるなか、美食国家と言われていた元日本人のぼくには物足りなかった。「あれが食べたいこれが食べたい」というぼんのうが湧いてしまって大変なのだ。

「ぼくは離乳食についてはわからないから、エミリーさんに任せるよ」

「わかりました」

「ただ、赤ちゃんによっては、食べ物で体調を崩しちゃうこともあるんだって。だから、初めての食材は、治療院に連れて行ける時間にあげてほしいな。ぼくも、一緒にいるようにするよ」

「まあ。そんなこともあるのですね」

 ぼくは育児に関しては素人なので、エミリーさんの経験と知識に頼らざるを得ない。

 その反面、この世界はまだまだ医療や体系的な育児の知識が発展していないので、すべてを任せてしまうのも怖い。

 アレルギーという概念も薄いようなので、心配しすぎと思われても、できる限り目の届く範囲内で見守りたかった。

「じゃあ、エミリーさんが離乳食を用意してくれるなら、ぼくはみんなのお昼を作ろうかな」

「あら、それは助かります。お野菜をペーストにするのは、なかなか手間がかかりますから」

 まだ子どものぼくは、一人でキッチンの火を使うことを許されていない。石造りの薪ストーブキッチンなので、けっこう火の始末が怖いのだ。

 けれど、誰か大人が一緒であれば、料理をしても良いことになっている。

 食べたいものが食べられないなら、自分で作れば良いのだ。一人暮らし歴の長かった前世は、自炊をしていた。そのせいか、ぼくは今世でも自然と料理をするようになっていた。

(お昼は……簡単パンのブリトーを作ろうかな)

 元々は、前世の動画サイトで見かけたレシピだけど、今世風にアレンジしている。本当に簡単に手早く作れて、しかも美味しい。いまでもよく作るメニューだ。

 お湯に粉状の雑穀とほんの少しの小麦粉を入れて、なめらかになるまで混ぜる。少し寝かせたら八等分に分けて丸め、薄ーく棒で伸ばす。生地を伸ばせたら、一枚ずつフライパンに押しつけるように焼いていく。

 両面にほんのり焼き目がついたら、手作りのバジルソースと裂いておいた茹で鶏肉、それにチーズを贅沢に包む。あとは、さらにこんがりと良い焼き色になるまで焼くだけだ。

 焼き上がったブリトーに、温め直した朝食の残りのスープを添えれば、立派な昼食の出来上がり。

「よし、できた! じゃあ、ぼくは二階に行って母さんを呼んでくるね」

 母さんはやっと気力や体力が回復してきたのか、授乳以外でもリュカと関わる時間が増えた。

 たまにぼんやりしていることがあるけれど、父さんが生きていた頃のように、裁縫や刺繍をしていることも多い。

 家事も育児も、チームワークで良いのだ。

 前世に比べて、今世は何かと不便なうえ、うちには近くに頼れる親戚もいない。そんな状況で一人で家事や育児をこなすのは、大人であろうともしんどいものだ。

 だから、みんなで分担して、休むときは休む。それで良いとぼくは思っていた。

「母さん、昼食だよー」

「はーい」

 エミリーさんが、リュカに出来立ての離乳食を食べさせている。それを横目に、二階から下りてきた母さんとぼくは先に食事を始めた。

 ぼくが食べ終わったら、エミリーさんと交代するつもりだ。

「「いただきます」」

 温かいうちにブリトーを頬張る。噛みちぎると、とろ~っと長くチーズが伸びた。バジルソースに入れたガーリックが食欲をそそる。

「ん~。我ながら美味しい!」

「本当に、美味しい。お兄ちゃんは料理も上手なのね。このパン、売り物みたいだわ」

「えへへ。そうかなー」

 なんてことはない食事や会話だけれど。母さんの笑顔が少し戻ってきたことに、ぼくはほっと胸を撫で下ろしていた。


 寝返りが打てるようになったリュカが、ころんころんと転がることで、あちこちに移動できると気づいてしまってからはさあ大変。

「っきぁ~あ~!」

 午前中に少しお昼寝をしたあとは、部屋の中で遊ぶ。

 リビングの窓際。絨毯の上にリュカを解き放つと、「待ってました!」とばかりにころころと左に回転して、部屋の端から端へとご機嫌に移動する。

 壁に行き着くと、まだ右回転での寝返りができないリュカは怒ったような声をあげた。困った一方通行赤ちゃんだ。

「ぁっぁー! ー!」

「はいはい。いま動かしますよー」

 その声にぼくがリュカの頭の位置を上下入れ替えると、また逆方向へころころと転がった。

 リュカが飽きるか、空腹になってミルクを飲んだあと、こてんと寝るか。それまでは永遠にころころの繰り返しだ。

(赤ちゃんが動き始めたらこんなに大変だなんて、聞いていなかった……)

 正直、片時もリュカから目が離せない。白目を剥きそうだ。

 まず、ベッドやソファのうえになんて怖くて置けない。ころんと転がり落ちるのが目に見えている。

 それに、ぶつけたりえんが怖くて、リュカが寝転がるところには物が置けないし、掃除だって念入りにする必要があった。

 さらに、怖いのは窒息だ。寝返りでうつ伏せになれても、まだ仰向けに戻れないことがある。そのまま気がつかずにいると、最悪、鼻が塞がって呼吸ができなくなってしまうのだ。

 特に、夜寝る時は仰向きにしていても、自然と寝返りを打ってしまうことがあるらしい。エミリーさんが、定期的に起きて様子を見ていると眠そうに言っていた。

(リュカを死なせないこと。いま大切なのはそれだけだ)

 とにかく、自分のことは二の次三の次。リュカファーストといえば聞こえは良いけれど、この小さな命を生かすことに、ぼくもエミリーさんも毎日必死だった。

 それから、ちょうど生後半年を過ぎた頃にはお座りができるようになり、夏の終わりにはとんとん拍子で、いわゆるずり這いもできるようになったリュカ。

 もうそんなことできるようになったの!? というぼくの驚きをよそに、秋には少しずつハイハイもし始めるようになってしまった。

「リュカー。にいには、こっちだよ~」

「あ~う、あ~う」

 ぼくが少し離れたところに座って手を叩くと、満面の笑みを浮かべたリュカが、よだれを垂らしながらハイハイで迫ってくる。

 ゆっくり着実に近づいてきて、ついに「にぃに、つかまえた!」とでも言うかのように、ぼくの膝に小さなお手々が触れた。胸がきゅんきゅんする。

(ああ、もう……! かわい過ぎる……!)

 ハイハイ姿だけでなく、ぷっくりしたおむつのお尻も、ハイハイの途中で休憩とばかりにごめん寝するのも、何もかもが愛おしい。

 ますます強くなっていく脚力と機動力が恐ろしいけれど、大変な育児もこの瞬間があるから報われるし、頑張れるのだ。

 何度かハイハイのキャッチ&リリースを繰り返すと、そろそろリュカのお腹が空いてくる頃になる。ぼくは生活魔法を駆使してミルクを作りはじめた。

 哺乳器を収納ストレージから取り出したのを見て、ぼくがミルクを作ろうとしているのがわかったのだろう。一人座りおっちゃんこしていたリュカの目が、きらんと光ったような気がした。

(……ミルクで釣ったら、リュカはどれくらいの速さでハイハイするんだろう?)

 その時、ぼくの心にふと魔が差す。天使と悪魔が戦って、一度だけならと悪魔が勝ってしまった。

 ぼくは部屋の隅に移動して、リュカにミルクの入った哺乳器を見せながら、声をかける。

「リュカー。美味しいミルクだよ~」

「!」

 ちゃぷんと揺れるミルクを見たリュカは、ものすごい速さで突撃してくる。弾丸全力ハイハイダッシュだ!

「あっあっあっ……あっきゃぁ~!」

 あっという間にリュカはぼくの手から哺乳器を奪うと、ごろんと寝転がって一人で飲み始めた。

 たぶん、最速記録だったと思う。

「~~~!」

 正直、出来心からだったけど、後悔はしていない。

 リュカのあまりのかわいさに、しばらくの間ぼくは床でもんぜつしていた。