今世の家族

 ぼく、ルイはいわゆる『転生者』というやつだと思う。

 前世は日本の超高層ビルにある企業でバリバリ働く、サラリーマンだった、はず。

 なぜか顔や名前といった個人情報は思い出せないし、覚えている記憶もまだらだけど、どうやら交通事故で亡くなってしまったらしいことは確かだ。

 そうして、気がつくとぼくは『ルイ』として生まれ変わっていた。

「かわいいルイ。私たちの大切な宝物」

「かぁしゃ……」

(ん? 母さん?)

 ふと、自分のもみじのような手を握ってみる。こんなに小さな手だっただろうか? と思ったところで、思考が止まった。

 視線を上げると、ぼくを横に抱いた女性は若く、二十代前半のように見える。

(んんん? こんな西洋人顔した美人が、母さん?)

 ぼくを見つめるその青い瞳は愛おしげで、ごく自然に長い焦茶の髪に顔をうずめると、ほんのり花のような良い香りがした。

(あったかい……)

 この体に染みついた体温だからなのか、それとも精神が幼い肉体に引っ張られているからなのか、柔らかい腕の中はとても安心する。

 気がつくと、ぼくは自分の親指をちゅぱちゅぱと吸っていた。吸っているという自覚はあるのに、なぜかやめられない。

(指しゃぶりなんて、良い年した大人なのに……。でも、ぼく、まだあかちゃんだもん……。あれ……?)

 思考がまとまらず、考える端からさんしていく。ゆらゆらと心地よいリズムで体を揺らされるせいで、ぼくは夢見心地だった。

「ルイは、サラにそっくりだな」

「色は確かに私に似たけれど、顔はマルクにそっくりよ」

「じゃあ、俺たちの良いとこ取りをしたんだ」

 薄茶色の髪と瞳をした育ちの良さそうな青年が、快活に笑う。女性の肩を抱いて、二人はずいぶんと仲が良さそうだ。

(けっ、リア充め。爆発しろっ。……ん? りあじゅう? ばくはつ? なぁに、それ?)

 青年はぼくの頭を大きな手で撫でたあと、頬をすりすりと触る。

 女性もぼくのおでこにちゅっとキスを落としたので、むず痒さを感じたぼくの口から、甲高い舌足らずな声が漏れた。

「うぅん~、やぁ~」

「ごめん、ごめん。あんまりにもかわいくて、ついな~」

「ふふふ。さあ、ルイ。母さんも父さんも、そばにいるわ。安心してお昼寝しましょうね」

 小さく口ずさんだ子守唄に合わせて、背中をとんとんされたら、もう抗えない。

(……母さん、父さんって。もしかして……ぼく……うまれか、わ……すやぁ……)

 最後にわずかに残った理性でそう思ったのを最後に、ぼくは意識を手放した。


「ルイ、準成人おめでとう」

「おめでとう、ルイ。いや~、あの小さかった息子がもう十歳なんて……。時が経つのはあっという間だな~」

「ありがとう、母さん、父さん」

 ぼくが恐らく二~三歳ではじめて前世のことを思い出してから、早八年。

 この春に十歳の準成人を迎えたぼくを、今世の両親は満面の笑みでお祝いしてくれた。

 父さんは赤ワインをじゃくで注いで、くぅーっと飲んでいる。

 テーブルの上には、料理上手の母さんが腕によりをかけて作ってくれた料理が並んでいた。

 骨付きもも肉のローストチキン・チーズパイ・具沢山のシチュー。デザートには、赤ベリーソースを添えたプディング。どれもぼくが好きなものばかりだ。

「わあ……。すごいご馳走だ。母さん、ありがとう!」

「お祝いだもの。いっぱい食べるのよ」

「うん! いただきます!」

 さっそく、ぼくはジューシーな脂を滴らせたローストチキンにかぶりつく。

 皮目はパリッ! として、ほろほろと柔らかい肉の旨みが口いっぱいに広がった。あとから、ローズマリーの良い香りが鼻を抜ける。

(美味しい~!)

 嬉々として料理を頬張るぼくを、母さんと父さんが優しい目で見ていることに気づく。少し照れくさいけれど、両親に愛され温かい家庭で育った幸運を、ぼくはしみじみと噛み締めた。

(ほんと、もったいないくらい良い両親の元に生まれ変わったよなあ)

 ぼくははたから見れば早熟で、あまり手のかからない子どもだったと思う。

 それも、前世の記憶と今世の知識や人格が混ざり合ったことで、思考が大人寄りになってしまった結果だった。

 そんなぼくに母さんは寂しそうだったけれど、「これも成長なのかしら?」と優しく見守ってくれた。

 単純な父さんは「さすが俺たちの子!」と手放しに喜んで、忙しい仕事の合間に読み書きなどの勉強を教えてくれたものだ。

(……前世の両親とは大違いだ)

 ぼくの前世の両親は、冷え切った仲だった。

 父は仕事人間で家に寄りつかず、母はそんな父にとっくに愛想を尽かしていたけれど、世間体があるから離婚しないだけだと言っていた。

 ぼくはそんな両親を見ているのが嫌で、大学入学を機に一人暮らしを始めて……それ以降、実家に帰ることはなかったと記憶している。

「それで、ルイは何のスキルを授かったんだ?」

「えっと、計算・鑑定・生活魔法だったよ」

「おお! すごいじゃないか! どれも使えるスキルばかりだ」

 上機嫌な父さんは、どれだけ飲んでも顔色が変わらないのをいいことに、かぱかぱとジョッキを空けている。デキャンタの赤ワインは、半分以下に目減りしていた。

「もう、父さん。飲み過ぎて酔っ払わないでよ?」

「ははっ。大丈夫、大丈夫。赤ワインなんて、父さんにとっては水みたいなものさ」

(本当かな……?)

 当たり前だけど、今世は常識も暮らしぶりも何もかもが前世とは違って、混乱することも多かった。何より一番驚いたのは、魔法やスキルがあることだ。

 この世界は神や妖精といった超自然的な存在が、ごく当たり前にいる世界らしい。スキルも、準成人になると国教であるリュミネ教の教会で洗礼を受けて授かるのだ。

(って言っても、授かったスキルが頭の中にふわっと浮かび上がってきただけで、いまだに半信半疑というか……)

 洗礼は薄暗い聖堂で行われる。数十人の子どもたちと一緒に、ろうそく片手に長いこと祈るのだ。

 その後に眠気をこらえながら司祭様のありがた~い説法を聞き、最後にやっと火を吹き消したらスキルを授かっていた……という感じで、ぼくは狐につままれたような気分だった。

「ルイは賢いし、算盤を使わなくても乗算と除算ができるからな。『計算』は納得だ」

「でも、ぼくは火魔法とか水魔法とか、魔法系のスキルが良かったなあ。それか、剣術」

「男なら、一度は憧れるよな~。父さんも、子どもの頃は同じことを願ったものだ」

 ぼくは前世で理系の大学を卒業しているので、スキルがなくても四則演算くらいお安い御用である。なので、勇者みたいなチートを……なんて高望みは言わないけど、せめてもっと別のスキルがほしかった。

「生活魔法はあると便利だし、目利きの名商人ならほぼ必ず持っている『鑑定』を授かれたのは、有利だぞ~。これはもう、商人になれと言われているようなものだな」

「えええー。そうかなあ?」

『生活魔法』は、母さんも父さんも持っている。というか、この世界の八割の人が持っていると言っても過言じゃないスキルだ。

 発火ファイア水生成ウォーター照明ライト送風ウィンド洗浄クリーン乾燥ドライ穴掘りホール収納ストレージ発熱ヒートといった、生活をちょっと便利にする魔法が使えるので重宝する。

 ただし、威力や範囲などはその人の魔力量によるらしい。現に、母さんは水生成ウォーターで一度にグラス一杯分しか出せないけれど、父さんはバケツ一杯分までは出せるそうだ。

(魔力なんて、あるんだ……)

 後日、ぼくも試しに水生成ウォーターを使ってみたら、バケツ数杯分は余裕だった。それをまるっと収納ストレージに入れることもできたので、魔力量は結構多いとみて良さそうだ。

「そうだな。ルイ、このワインを鑑定してみてくれ。父さん秘蔵のとっておきだぞ。手をかざして『鑑定』と言えば、良いはずだ」

「? 鑑定……」

 父さんに言われた通り、ぼくはワインを鑑定してみる。


【名前】赤ワイン(フリュイ・エカルラット)

【状態】優

【説明】飲用可。アグリ国ヴァレー産。黒葡萄品種ベル・ニュイから作られたお酒。体に良い成分が豊富。


 ふわんと、前世のVRゲームみたいな説明ウィンドウが宙に表示された。すごくファンタジーだけど、でも……。

「これだけ?」

「いやいや、十分すごいことだぞ。特にワインは産地を偽ったり、混ぜ物も多いからな。どうだ。ルイさえ良ければ、父さんの勤めている商会で、見習いをやってみないか?」

「ダミアン商会で?」

「ああ。ダミアンさんも、ルイなら大歓迎だって言ってくれてるしな」

 十歳の準成人を迎えたら、成人の十六歳まではいわゆるでっほうこうをして、社会経験を積む。

 ダミアン商会なら父さんもいるし、やといにんたちの人柄もわかっているから安心だ。

「母さんはどう思う?」

「えっ……。ごめんなさい、ぼうっとしてて。何の話?」

 一応、父さんだけではなく母さんの意見も聞こうと水を向けると、母さんははっとした様子だった。よく見ると食があまり進んでないし、顔色も悪い気がする。

「母さん、大丈夫? 具合でも悪いの?」

「サラ、大丈夫か?」

「ええ、体調は大丈夫よ。ただ……」

「「ただ?」」

 母さんは嬉しそうに顔を赤らめながら、もじもじと指をいじる。ずいぶんと、言葉を溜めてから話し始めた。

「まだ、確かなわけじゃないのよ。でも、たぶん、私……お腹に赤ちゃんがいるみたいなの」

「「……」」

 何を言われたのか理解できなくて、ぼくと父さんは顔を見合わせてしまった。けれど、じわじわと父さんの目と口が、大きくかっぴらかれていく。

「……!! サラ……! ありがとう、ありがとう……!」

「赤ちゃん……。ってことは、ぼく、お兄ちゃん?」

 ぼくは呆然とつぶやいた。子どもは授かりものだ。今世は弟妹がほしいなと思いつつ、両親の負担になってはいけないと、これまで口に出したことはなかった。それに、もう十年も一人っ子だったので、諦めていたところもある。

「ぼくが、お兄ちゃん……」

 ゆるゆると、どうしようもなく口が緩む。最高の誕生月プレゼントだ! 父さんなんて、おいおいと男泣きしていた。

 そんなぼくたちに苦笑しつつ、母さんは立ち上がると、そっとぼくを抱きしめる。昔と変わらず、柔らかくて温かくて、良い匂いがした。

「十月十日だから、赤ちゃんが生まれるのはきっと年明けかしら。生まれたら、いっぱい可愛がってあげてね。……お兄ちゃん」

「うん、うん……! もちろん……!」

 父さんが、その大きな体で母さんとぼくをすっぽりと抱きしめる。

 嬉しくて嬉しくて仕方なくて、泣き笑いながら、ぼくたちは家族が増える喜びをわかち合っていた。


 ところが、当たり前に続くと思われた幸せがあっさりと崩れ去ったのは、翌月のことだった。父さんが病に倒れたのだ。

 はじめは、頭痛・めまい・発熱といった軽い症状だったから、働きすぎか季節の変わり目で体調を崩したのか、くらいにしか思っていなかった。

 でも、違ったのだ。二~三週間もすると症状が急激に悪くなり、父さんはベッドから起き上がれなくなってしまった。

「はあ、はあ……。このくらい、少し休めばすぐ良くなるさ……」

「父さん、いまはゆっくり休んで」

「あなた……」

「サラも……はあ……無理はしないでくれ。腹の子に、響く……」

 大柄でがっしりとした体格の父さんは健康そのもので、これまで病気一つしたところを見たことがない。

 だから、苦しそうに横たわる父さんの顔色がびっくりするほど青白くて、ぼくも母さんも得体の知れない不安を感じた。

(父さんに、もしものことがあったらどうしよう……)

 もちろん、治療師を呼んで何度も父さんを診察してもらった。

 でも、いくら検査スキャンしてもどこが病気なのかわからないうえ、治癒ヒールも効かない。唯一、感染する病気ではないということがわかっただけだった。

 ぼくだって、何か治療方法が見つかるんじゃないかと何度も父さんを鑑定したのだ。けれど、鑑定では「状態:病」としかわからなかった。

「ご家族にとっては大変お辛いでしょうが……。打つ手が、ないのです……」

「そんな……では、マルクは……夫は……どうなるんですかっ!」

「母さん、落ち着いて。お腹の赤ちゃんがびっくりしちゃうよ。ね?」

「残念ですが……年を越すことはできないかと」

 父さんの診療を終えた治療師が別室に母さんとぼくを集めると、沈痛な面持ちで告げた。取り乱して治療師にすがりつく母さんを、ぼくはなんとかなだめようとする。

「なにか……なにか、ないんですか……! 夫の病が悪くなっていくのを、ただ見ているしかないって言うんですかっ……!?

「……上級ヒールポーションなら、あるいは。ですが、上級ヒールポーションは素材も製法も、何もかもとくされています。それに、非常に高価なことに加えて、王族・貴族が独占しているのです。庶民の手に入れることがほぼ無理とあらば、悪戯に期待を持たせるようなことは……できません」

「ああ……そんなことって……」

「母さん……」

 どうこくのあまり崩れ落ちた母さんを支えながら、ぼくも痛いほど唇を噛み締めた。

(なんで……。なんで、父さんが……。ちくしょう!)

 万が一。わずかな希望のぞみにかけて、父さんの勤め先であるダミアン商会に、上級ヒールポーションを手に入れられないかと依頼する。ほかの商会では、鼻であしらわれてしまった。

 ダミアン商会も必死に伝手をあたってくれているようだけど、なにも状況は変わらないまま時間だけが過ぎていく。

 父さんはみるみるうちに痩せてしまい、鼻や歯茎から出血するようになってしまった。母さんもひどいつわりと精神的ショックで、ずっと寝込んでいる。

 もう頼りになるのは、自分しかいなかった。

「ルイ、すまない……まだ子どものお前に……」

「父さん、謝らないで」

 身重の母さんには安静にしてもらって、ぼくが父さんの看病をする。

 とはいえ、子どものぼくだけで四六時中看病することは不可能だ。なので、治療院の紹介で通いの看護師を雇ったり、ご近所さんやダミアン商会の手も借りた。

 父さんから管理を引き継いだ地下貯蔵室の金庫には、贅沢をしなければ数年は生活出来るくらいの蓄えがある。当面はお金の心配をする必要がないのだけが、救いだった。

(魔法がある世界なんだ……。絶対、奇跡が起きて、父さんは治る。だから、諦めちゃだめだ)

 治療院から処方された薬を父さんに飲ませ、脂汗のにじむ額を濡らした布で拭く。

 定期的に洗浄クリーンもかけ、清潔を保つことが大切だった。生活魔法を授かって良かったと、どれだけ思ったことだろうか。

 涙をぐっと堪えて、必死に看病を続けること数ヶ月。

 秋の初めのある日、我が家に商会長のダミアンさんが、息せき切ってやってきた。相当慌てて来たのか、見事な中年太りのビール腹を揺らし、額には大粒の汗を浮かべている。

「ぜい……ぜい……。ル、ルイ! やったぞ! 上級ヒールポーションが、手に入ったのだ!」

!!

 ぼくは逸る気持ちを抑えきれず、お茶の準備もすっかり忘れて、リビングで上級ヒールポーションを見せてもらう。

 ダミアンさんが収納ストレージから取り出したのは、木箱に納められた栄養ドリンクサイズの小瓶だった。切り子のような細工が施された本物のガラスに、透明感のある赤い液体が詰められている。口はしっかりと蝋づけで封がされていて、密閉状態だ。

「か、鑑定」


【名前】上級ヒールポーション

【状態】極優

【説明】飲用可。高い治癒効果を持つポーション。あまたの外傷や病を癒すと言われている。開封後は数時間で効能を失う。


「本物……!? こ、これ。一体、どうやって手に入れたんですか!? あ、そうだ、お金! いくらですか!?

「これは、さるお方からマルクにと預かったものだ。代金も、すべてその方からいただいているよ」

「えええ!? でも、こんな高価なもの……」

「金のことは気にせず、ありがたく感謝していただいておきなさい。さあ、早くマルクに飲ませてやってくれ」

 ダミアンさんは、善意の主の正体を明かすつもりはないらしい。口止めでもされているのか、がんとして教えてくれなかった。

(なにがなんだかわからないけれど……。でも、これがあれば父さんの病気はきっと治る……!)

 心のどこかで、なかば諦めていた上級ヒールポーションが入手できたのだ! ぼくはいまにも叫び出しそうな気持ちだった。

 その日のうちに、慌ただしく治療院から治療師を呼び、立ち合いのもと父さんに上級ヒールポーションを飲んでもらう。

「はあ……はあ……。上級、ヒールポーション……? そうか……。はは、俺のことなんててっきり……」

 声にも手にも力のない父さんを手伝って、治療師が服用を介助する。小瓶をゆっくり傾けて、父さんの乾いた唇に少しずつ上級ヒールポーションを含ませた。

 どうか効いてくれますように。父さんが元気になりますように。白くなるほど指を組んで、ぼくはその様子を見守る。

 こく……こく……こく……。

 それほど量はない上級ヒールポーションを、父さんはすべて飲み切った。固唾を飲んで変化を見守っていた、その時。

「ぐっ……。ごほっ、ごほっ……ぐうっ」

 父さんは咳き込んで、体をくの字に折り曲げる。口にあてた手指の間から、赤い液体がこぼれ落ちた。吐血だ!

「父さん!」

「だめだ! 子どもは触っちゃいけない!」

 治療師が父さんの呼吸や脈を確認して処置を施すのを、ぼくはただ黙って見守ることしかできない。幸い、吐血はすぐ止まった。父さんは青白い顔で目を閉じて横になっているけれど、なんとか容体は持ち直してくれたらしい。

 ……上級ヒールポーションが効いたかどうかなんて、火を見るより明らかだった。

(魔法も万能じゃないなんて……)

 期待した分、叶わなかったときの落差は激しい。こんな時、どんな言葉を父さんにかけたらいいのだろうか。それとも、そっとしておくべきなのだろうか。ほのかに鉄臭い室内でぼくは立ち尽くす。

「頼む……。少し、一人にしてくれ」

 懇願するかのような父さんのその言葉に、ぼくたちがぎくしゃくと重い足取りで部屋を出た途端、扉ごしにむせび泣く声がした。ぎりぎりと、かすかに歯を食いしばる音も聞こえる。

 確証はないけれど……。前世の知識と照らし合わせると、たぶん、父さんは血液が癌化してしまうような病気なのではないかと思う。それなら、いくら検査スキャンしても病巣がわからないことに説明がつく。

 それに、治癒ヒールやポーションは、治すどころか悪い血を活性化させてしまっているのではないか。ぼくはそう疑っていたけれど、前世ほど医療が発達していないこの世界では、確かめようがない。

 とうとう万策が尽きてしまったことで、この日以降、治療内容は痛みを和らげることに重きが置かれるようになった。……なるべく、父さんが、最期を心安らかに過ごせるように。

(つい半年前までは父さんも元気で、赤ちゃんが生まれるのを家族みんなで楽しみにしていたのに……。こんなのって、あんまりだよ……)

 見る影もなく痩せ細った父さんに、ぼくはなんて声をかけたらいいのかわからなかった。父さんも、自分の死期を悟っていたのだと思う。

 落ち葉が散り始めた、ある秋の日。いつ手配をしていたのか、父さんは商人ギルドの担当者を家に招いて、ぼくに告げた。

「俺の財産は……すべて、ルイに譲る。長男として……どうか、母さんとこれから生まれてくる弟妹を、守ってやってくれ……。頼む……」

「うん……」

 ぎゅっとこぶしを握りしめたぼくの腕に、父さんのか細い指が触れる。まだ早い、そう思うけれど。父さんの静かな瞳に、何も言えなかった。

 そうして、ぼくは十歳にして、正式に家や土地の権利書と財産を父さんから引き継いだのだ。


 冬が近づくにつれて、少しずつ寒くなってくると、父さんはいよいよ一日の大半を寝つくようになった。

「父さんはな、もともと……となりの国、アグリ国の、生まれなんだ……」

「へえ~。そうなんだ。でも、どうしてこの国に来たの?」

 その日は珍しく調子が良かったのか、意識のあった父さんがぽつりぽつりとかすれた声で話してくれた。ゆっくりと一口ずつ吸い飲みで水を飲ませながら、ぼくはなるべく明るく返す。

「は、は……。いま思うと、若気の至りだな……。父さんは一人息子で……本当なら、家を継ぐはず、だった……。でも、親父との折り合いが悪くてな……家を、飛び出したんだ……」

「えええ! 父さん、跡取りだったってこと!? そんな家柄だったの!?

 まさかの話に、ぼくはつい驚いて声をあげてしまう。どうりで、庶民にしては学があると思ったのだ。

「そんな、ご大層な家じゃない……。そうだな、農業というか……」

「? 農家なの?」

「まあ、そんなところだ……」

 あいまいな父さんの言葉に、ぼくは首を傾げる。力なく持ち上がった父さんの手が、ぼくの頭を撫でた。

「父さんの両親……おばあちゃんは、物静かで優しい人だ……。おじいちゃんは、父さんには厳しかったが……。二人とも、善良な人たちだ。……食うに困らないくらいの、余裕もある、はずだ。……だから、ルイ。もしもこの先、何か困ったことがあったら、おじいちゃんと、おばあちゃんを、頼るんだぞ……」

 ぼくは「これを」と、父さんが差し出した祖父母あての手紙を受け取る。

「……っ。いつか帰りたいと、思って、たんだ……」

 父さんは後悔のにじむ声でそうこぼすと、肩を震わせて泣いていた。

 妻と子を残してく無念と、恐怖はどれだけのものだろうか。「いつか」と思っていた願いを、もう叶えることはできないのだとわかった悔しさは。

 ぼくも父さんの体に突っ伏しながら、枯れるまで泣く。悲しみに、胸が押し潰されそうだった。

 か細い命の炎を燃やしながら、最後まで父さんは生きようと足掻いていた。せめて、生まれてくる子どもの顔を見たい、と言って。

 ……けれど、その甲斐もなく。新年を待たずして、ぼくと母さんが見守るなか、父さんは静かに息を引き取った。