第3章 インフレーション理論
1979年12月6日、アラン・グースは突然、天啓に打たれたという。彼が一晩中書き続けた計算ノートには、こんなドラマチックな一文が記されている。「今日の宇宙の信じがたいほどの平坦性は、ある種の過冷却によってのみ説明し得る」、と。物理学に興味のある読者は、「対称性の破れ」という言葉をどこかで聞いた覚えがあるだろう。グースはこれが宇宙の始まりであることに気づいたのである。
対称性の破れとは、水蒸気が水に「相転移《訳注:水蒸気(気相)が水(液相)に「相(phase)」を変える。》」する際に潜熱を吐き出す過程に似ている。宇宙の始まりに起こったある種の相転移が、ごくわずかな時間に膨大なエネルギーを放出し、宇宙を急激な膨張の段階へと押しやり、最後にはビッグバンになるのだ。グースは、この急激な膨張の段階を「インフレーション」と呼んだのである。グースのたとえに従えば、こういうことだ。ある一定の条件を備えた水は、温度が0℃を下回ってもすぐには氷にならない。そのまま冷やし続けると、その水はある時突然に氷に変化し、水から氷への相転移分の潜熱を一気に放出する。それと同じことなのだが、もちろん宇宙の最初期にあった相転移は大規模で、宇宙の構造そのものに関わる劇的なものだったのである。《訳注:家庭用冷蔵庫でも、精製水を弱冷凍モードで4~5時間かけてゆっくり冷やすと過冷却水になる。器をたたくとその衝撃で瞬時に相転移して氷になる。このくらいの規模では体感できないが、その瞬間、潜熱が放出されている。》
インフレーションの際、宇宙は指数関数的に膨張し、大きさは10−36秒(0.000000000000000000000000000000000001秒)ごとに倍増した。ということは、今私たちが観測できる「地平線」の中の宇宙は、陽子の10億分の1にも満たないような大きさから10−30秒以内にバスケットボールの大きさにまで「インフレーションした」わけだ。想像しにくければ、こう考えてもいい。同じくらいの時間で、テニスボールが「地平線」内の宇宙くらいの大きさになるということだ。
ここでようやくビッグバンが始まる。これで宇宙がなぜこれほどまでに均質なのかが説明できる。つまり、宇宙は質量の偏りなどできる余地もないほど微細な存在としてスタートし、それが瞬時に拡張したのだ。これで平坦性問題の謎も解ける。インフレーションを起こした宇宙は、膨らんでゆく風船の表面みたいなもので、全てに対して均一な力が働いて均一に膨張するのだ。こう考えてみよう。テニスボールは球体なので、表面はもちろん湾曲している。だが、もしこのテニスボールが「地平線」サイズの宇宙くらいにインフレーションして、あなたがその表面を歩いたらどう感じるだろう? 何をどう計測してみても、湾曲などしていない、真っ平らだという結論が出るはずだ。宇宙の場合、こういうことが三次元レベルで起こっているのである。
さて、これなら地平線問題も解決できるだろう。宇宙のものすごく離れた領域同士も、かつては極めて微細なサイズに詰め込まれてくっついていたのだ。これが空間の強烈な速度での拡張で引き離されたのだ。奇妙な言い方かもしれないが、その拡張の速度は光速より速かった。光速よりも速いとはどういうことだろうか? 時空の中は光速より速く移動することはできないはずだと疑問に思われるだろう。これについてはもう少し先で説明しよう。
あなたは、「宇宙が均質であり過ぎれば星も人間もできるきっかけがない」というのを覚えておられるだろう。ではこんな均質すぎる宇宙に銀河や星々を作った「種」の起源は何だったのだろうか。それは、いわゆる量子的ゆらぎであったと考えられる。時空の素地にできたごくわずかなゆらぎが、消滅するよりも速くインフレーションによって膨れ上がったのである。
スウェーデン出身の宇宙物理学者マックス・テグマークは、星々は熱いビッグバンで作られたのではなくて、「冷たいちっちゃなナイキのロゴマークみたいなもの(Cold Little Swoosh)」からできたのだと冗談めかして言う。「地平線」の内側サイズの宇宙阿は陽子よりはるかに小さく、インフレーション時の熱量はその後に続くビッグバンの1000分の1ほどなのだ。
「インフレーション」という言葉は、今やどんな初期宇宙モデルにも欠かせないものとなっている。1980年代以降、異同のある宇宙モデルが複数存在するが、そのどれにも、ごく短期の指数関数的膨張の時期があるのがスタンタードになっている。インフレーション理論は宇宙の性質についての謎を説明可能にするばかりではなく、大統一理論(GUT, Grand Unified Theory)や、宇宙論とはまったく別系統の分野であった素粒子物理学の世界で発展してきた量子論の解明にとっても有用なのだ。グースはもともと素粒子物理学の世界で研鑽を積んできた研究者で、その洞察が生かされたのである。素粒子論はそもそも、宇宙論的な問題を解明するための研究ではなかった。だが素粒子論は結果として、解決しようと思ってもいなかった全ての問題を解決してしまったのだった。宇宙論の分野での素粒子論の成功は、いったい何を意味しているのだろうか。それは素粒子論が宇宙の根本的なところにある重要な何かを解き明かしてくれるということではないのだろうか。《訳注:原文ではGUTはGUTsと複数形になっているが、これは大統一理論がまだ完成された理論ではなく、複数の理論モデルが並び立っていることによるものだろう。しかし通常はGUTと単数形で表記する。》どうやら、極微を扱う素粒子論と極大を扱う宇宙論の「結婚」は、宇宙がどのようにして始まり、どのようにして今日の姿になったのかについての答えを産み落としたようだ。だからこそインフレーション理論は、宇宙の膨張が発見されて以来、ビッグバン理論よりも大きく宇宙感を変えた、最大級の躍進なのである。
宇宙は拡張しているという観測結果は、そのまま額面通りに受け取るなら、宇宙は約140億年前に大きさが無限小で質量が無限大という特異点から始まったはずだという結論になる。だが量子物理学的に考えるのなら、そのような無限大だの無限小だのという極論に走らなくてもいいのだ。量子物理的に言えば、宇宙の始まりの大きさは無限小ではなく「プランク長(10−35 m)」以下の大きさで、質量は無限大ではなく1 cm3あたり1094グラムという有限のものであっただろうと考えることができる。これが量子物理学的に言うところの最小の空間、最大の質量である。《訳注:プランク長とは、「メートルやフィートのような人間が便宜上決めた単位系ではない、普遍的な物理定数を基準とした単位系」を提唱したマックス・プランクによる長さの概念。原文では1プランク長=10−35 mとなっているが、本来は1.616229(38)×10−35 m。量子力学的な極微の世界の単位なので、量子論的な「不確かさ(uncertainty)」が含まれてしまう。》
さて、このモデルでは、まず、このものすごく濃厚な質量を何がどうやって膨張させたのかという疑問が浮かび上がってくる。こんな最初期宇宙はそれこそ強烈な重力場を持っていたはずで、生まれるや否やブラックホールになって自らを消滅させてしまう(特異点に戻ってしまう)のではないだろうか? しかしインフレーション理論ではこのような事態は避けられる。さらに量子物理学に従えば、宇宙は、その強烈に凝縮された状態で、まったくの「無」から現れたのだという。まるで「宇宙のタダ飯」だ。《訳注:「究極のタダ飯(the ultimate free lunch)」というのは、目を引くネーミングのセンスにも長けたアラン・グースによる言葉。》宇宙がまったくの無から、エネルギーもゼロの状態で発生したという考えは、実はインフレーション理論より前から存在していた。それはニューヨーク市立大学のエドワード・トライオンが1970年代に提唱して発展させたものだった。彼は、宇宙は量子論的に言うところの「量子的ゆらぎ」の形で無から発生したのだという。
量子的な不確定性は、無の中から一時的にエネルギーの泡のようなものか、もしくは素粒子の正負ペア(電子・陽電子のような)を産み出すことがあるが、それらはあっという間に消えてしまう。エネルギー量が少なければ少ないほど、その泡のようなものは安定して長く存在することができる。奇妙なことに、物質という形で存在する物体のエネルギーが正である間は、重力場のエネルギーは負なのだ。宇宙が完璧に平坦であるのなら、そしてトライオンが指摘したように双方の数値が打ち消しあうなら、宇宙のエネルギーはきっちりとゼロになっているはずだ。量子論的に言えば、それが永遠に続くことになっている。しかしこれでおしまいというわけにはいかない。
あいにくだが、プランク長程度の大きさに全宇宙の質量エネルギーを詰め込んだ量子的な泡がまったくの無から生まれたとしても、何らかの干渉がない限り、強烈な重力場がたちまちのうちにその存在自体を抹殺し、特異点へと押しつぶしてしまう。それでは宇宙のタダ飯はいきなり机上の空論になってしまうではないか。いやしかし、時空の曲率ゼロという平坦性や、背景放射に現れたような均質性、等方性の問題の時と同様に、これもインフレーション理論が解決してくれるのだ。インフレーション理論のシナリオは、この重力場や正負のエネルギーの相殺などの問題を払拭するにはどうしたらいいか、そして量子的なゆらぎに過ぎなかったものを重力に潰される前に巨視的なサイズにまで指数関数的膨張をさせるにはどうしたらいいのかを、ちゃんと説明してくれるのだ。
全ての問題は、宇宙がプランク長的なサイズの時点で、反重力的な「押し広げる力」があったとなれば解決できる。プランク長などというサイズの宇宙は、言うまでもないがとにかく小さすぎて、いかなる不均一さも持ち得ないので、均質で等方なものとしてスタートしただろう。小さすぎるが故に、その中では光速で全体に情報を行き渡らせるのにさほど時間もかからないので、地平線問題などというものは存在しない。宇宙の卵の中では、どちらの「側」も「お互いをよく知っている」というわけだ。時空も膨張によって平坦性を得る。それはしわしわになった干しスモモを水につけると、水を吸って表面がピンと張るようなものだ。スタンタードなビッグバン・モデルでは、私たちは宇宙を「膨らんでゆく風船の表面」に例えて理解した。が、今や私たちは、その風船は、ビッグバンで膨らます以前に、インフレーションによってとてつもなく大きく膨らまされていたと考えるべきなのだ。
大統一理論という物理学分野の研究が宇宙論に導入された時、なぜこれほどまでに大きな影響があったのだろうか。それは、インフレーションの仕組みを解くことのできるメカニズム、「インフラトン場」という切り札があるからだ。《訳注:原文では「インフラトン場」ではなく「スカラー場」と記されているが、ここで述べられているのはインフレーション期の斥力であったインフラトン場のことなので、物理学のスカラー場全般との混同を避けるため、以降、インフラトン場と言い換える。インフラトン場は2015年現在にはまだ実在が確認されていない理論上の場だが、大型粒子加速実験機で「インフラトン粒子」という形での観測が期待されている。》
インフラトン場は、私たちが今日「基本相互作用」として知っている複数の力が、宇宙の始まりの時点ではより大きなエネルギーを持った1つの力であった時期に関わりを持っている「場(field)」のことである。基本的に、エネルギーが極大の状態では、4つの「基本相互作用(重力、電磁気力、強い核力、弱い核力)」は統一された1つの「統一場」になると考えられているのだが、まさに宇宙の始まりはこの状態だったのである。しかし宇宙のインフレーションが始まるや否や、それにつれてエネルギー密度は下がってゆき、この「大統一場」は分離し始める。まず重力が宇宙誕生から10−43秒後の「プランク時代(Planck epoch)」と呼ばれる時期に分離し、強い核力が10−35秒後に分離し、それからほどなくしてあとの2つも分離する。《訳注:電磁気力と弱い核力が分離したのは10−11秒後と考えられている。》この後、初期のインフレーション理論モデルでは、宇宙誕生から10−32秒以内に、拡張させる力であるインフラトン場が働き始め、少なくとも10−34秒ごとに宇宙の大きさを倍増させた。そして前述の4つに分離した力によって、ビッグバンが引き起こされるほどに加熱されたと考えられていた。しかし後の新しいヴァージョンのインフレーション理論によれば、この章の最初のほうで言及したように、宇宙の膨張はこれよりももっと速かったようだ。
しかしその過程はよりパワフルだった。最も控えめに見積もっても、10−32秒以内に100回もの倍増があった、つまり2100倍の膨張があったと考えられるのだ。この急激な膨張は陽子の1020分の1ほどの量子的なゆらぎでしかなかったものを捉え、それを15×10−33秒で直径10 cmの球体へとインフレーションさせた。この時、例のインフラトン場が、宇宙を「キックスタート」させるという役割を果たし、やがてその役割は終了してエネルギーは失われ、急激に膨張し続ける「火の玉状宇宙」を残したのだった。このインフラトン場が残した膨張は今なお続いていて、重力が宇宙のビッグ・クランチ(再収縮による終焉)に向けて全てを引き戻すという役割を果たしていても、この膨張はこの先何千億年も止まることはないほどなのだ。
実を言うと、おもしろいことに、この時空そのものの指数関数的膨張は、1917年の時点ですでに考えられていたのだった。オランダの天文学者ウィレム・ド・ジッターが一般相対性理論に基づいて提唱した宇宙モデルのうちの一つがそれである。半世紀以上もの間、このド・ジッター・モデルは、純粋に数学的に追及された解に過ぎず、現実の宇宙にはあてはまらないものとみなされてきた。しかし今や、それはインフレーション宇宙論の礎の一つになっている。
一般相対性理論が発表された1916年、ド・ジッターはその理論を再考した上で自分自身の論を展開した。彼はそれを3本の論文にまとめて英国王立天文学会に送ったのだった。その3本の論文の最後のものに一般相対性理論から導き得る宇宙モデルについての論考が含まれていた。発表当時はさほど評価されなかった膨張宇宙モデルと、膨張と縮小を繰り返す振動宇宙モデルである。
アインシュタイン方程式に対する「ド・ジッター解」は、当初、真空で静的な(物質を含まない時空の)宇宙を描いているように思われた。が、1920年代初頭、もしこのモデルに、宇宙中に散在する粒子という形で物質の存在を付け加えると、その粒子同士は時空の膨張とともに指数関数的にお互いから離れて行ってしまうことが判明した。単位時間内に2つの粒子が離れる距離が倍増してゆくとすれば、こういうことになる。宇宙の時計の目盛りが1つ進めば両者の距離は倍、2つ進めば4倍、3つ進めば8倍、4つ進めば16倍だ。あなたが道に足を踏み出すごとに、道があなたをさっきの1歩の倍も遠くに連れて行ってくれるようなものだ。
何だか非現実的な話に思える。1920年代後半に宇宙の膨張が発見された時でさえ、膨張の程度はもっと控えめに見積もられた。確かに、宇宙は膨張していると観測されたが、でもやはり銀河団同士は一定の速度で離れてゆくはずだ、というのだ。時計の目盛り1つにつき1歩だ。2目盛りなら2歩、3目盛りなら3歩だ。しかし1980年代にインフレーション理論が、宇宙は始まりの時点に指数関数的な膨張の段階があったことを示唆すると、ド・ジッター解はアインシュタイン方程式に対する解の最初の成功例とみなされるようになった。《訳注:アインシュタイン方程式に対しては、その他に、違った宇宙モデルを提案するゲーデル解やシュヴァルツシルト解など、幾つかの解が提案されている。》
インフレーション理論の特性に関しては、どうしても強調しておかなければならないことが1つある。この理論の中では、光速を超える速度の話が出てくるが、これは一般相対性理論に違反しているわけではない、ということだ。光が1㎝進むのに要する時間は3×10−10(300億分の1)秒だが、インフレーションは15×10−33秒で陽子より小さかった宇宙を直径10cmにまで膨張させてしまう。これは光速より速い速度だ。しかし、膨張しているのは時空そのものなので問題はないのである。時空の中を光速より速く移動できないのは、インフレーション期も含めて、いつでも変わりはない。
しかしやはり、インフレーション理論のシナリオの呼び物は何といっても、質的に「ほとんど」均一なビッグバンを説明することができるという点ではないだろうか。インフレーションが進行する間でさえ、指数関数的に膨張する時空の泡のうちには、どうしても量子的なゆらぎが存在してしまう。それはインフレーションする泡にごくごくわずかな密度の偏りを生み、最初期宇宙の極端なまでの膨張によってその偏りも引き伸ばされる。
しかしそれは、あまりによくも出来過ぎた話ではないのだろうか。インフレーション理論が提案された1981年当時、皆が最初に感じた不安がこれだった。具体的に言うと、インフレーションの過程が宇宙を効果的に均質化してしまうというのなら、一体どうやって銀河や銀河団やその他諸々のような「不均質さ」が生じるというのか、ということだ。そこには、かつてあまりにも完璧すぎる背景放射を目の当たりにした時の宇宙論学者たちの疑心暗鬼の声がこだましている。しかし研究者たちは、関係する諸要素をさらに綿密に検討することによって、量子的ゆらぎは宇宙の構造に微細なリップル(しわ)を刻み込んだのだと確信するに至った。私たちの宇宙がまだ直径10−25 cmかそこら、プランク長の1億倍程度しかなかった頃でさえ、それは確かに起こったのだ。
量子的なゆらぎは拡大されて、今、物質やエネルギーの分布の不規則さという形で宇宙に残されているが、理論的には、その彼方にインフレーションの痕跡が残されているのだという。そうした密度の偏りは、ビッグバンの38万年後に起こった放射のデカップリング(宇宙の晴れ上がり)の際、背景放射に刻み込まれているはずだ。それはCOBEを始めとした幾つかの観測衛星のデータが示したような、背景放射の微細な不均一性を作り出している。背景放射のリップルのパターンは、量子的なゆらぎとスケール不変性を通して同じパターンを描いているのだ。「宇宙の晴れ上がり」以降、密度の分布に残されたゆらぎのパターンは、宇宙の大規模構造のスケールまで成長したが、それは今日、幾多の銀河の配置パターンという形で観測することができる。観測衛星によるデータは、(「宇宙の晴れ上がり」以降のことだけではなく)、宇宙誕生後10−20秒以下の時に何があったのかさえも、私たちに教えてくれたのだ。
宇宙は何故、均質でありながらも銀河の配分や背景放射の不均一さの中にリップルがあるのか、両方の問いに答えられるのはインフレーション理論以外にはない。それはインフレーション理論こそが絶対的に真実であるという意味ではない。しかし、このことだけはよく記憶にとどめておくべきだろう。COBEは、インフレーション理論を否定するに足るようなもの――背景放射に違うパターンのゆらぎや、あるいはゆらぎが全くないという結果――を発見しただろうか、ということを。科学的な伝統に則り、理論が重要かつ明白な予測をし、動かしがたい実証が、それが「本当だった」と確認したのだ。今やインフレーション理論は、宇宙がいかにして始まったのかを最もよく説明する説だと言うことができるのである。
インフレーション理論はまた、宇宙最初期の空間そのもののゆらぎが、ある特有のパターンの重力波という形で痕跡を残しているはずだと予見している。この重力波が発見されるはずだという思いが、筆者をこの論考に向かわせているのだ。そのことについては次章で語ろう。今はそれよりも、インフレーション理論のもう1つの勝利について書いておきたい。
インフレーション理論が宇宙のΩ値をほぼ1であろうと予測し、観測がそれを裏づけたことは何度も言及している。しかし、バリオン物質――これも前述しているが、天体や私たちを作っている普通の物質――の総質量だけでは、宇宙の曲率をゼロにすることはできないのだ。質量が足りないって? では一体、宇宙は何でできているというのだろうか?
1990年代半ば、宇宙論学者たちは、「バリオニック・カタストロフ」と呼ばれるこの謎について論議していた。宇宙の膨張率やビッグバン時の温度、量子物理学上の法則などから、ビッグバンでどれだけのバリオン物質(陽子、中性子、電子)が生み出されたのかを算出することができる。その結果、宇宙を平坦にしている要素のうち、バリオン物質の割合は5%程度であることが分かった。ということは、どうやらバリオン物質の形を取らない何らかの正体不明な「ダークマター」が、バリオン物質よりもはるかに多く、この宇宙に満ち溢れているらしいのだ。ダークマターは粒子の形を取り、地球上のいかなる実験でも検出されたことがなく、バリオン物質とは相互作用を持たない。より正確に言うと、バリオン物質とは電磁気や強い核力、弱い核力を通じて作用し合うことはなく、ただ重力場を通じてのみ作用し合うのだ。量子物理学者たちは嬉々として、「アクシオン」や「セレクトロン」などの名前をつけた幾つかの粒子モデルを考え出した。幾多の銀河が作り出す宇宙の大規模構造は、アクシオン粒子か何かの「海」に埋まっているというわけだ。宇宙のうち12分の1がバリオン物質の形を取り、それが集まって銀河を形成し、インフレーション期に起こった量子的ゆらぎの痕跡であるリップルに沿ってできたダークマターの濃い部分に寄り集まって、それで宇宙の大規模構造ができたというところだ。道路のわだちに水たまりができるような具合だ。《訳注:2015年現在、カリフォルニア大学バークレー校の村山斉とヨニット・ホフバーグによって、ダークマターは強い核力でもバリオン物質と作用し合う粒子である可能性が指摘された。また同年、正ダークマターと反ダークマターの対消滅から発生するであろう陽電子を観測できる装置が国際宇宙ステーションの日本の実験モジュールに設置された。ダークマターによるものかどうかはまだ不明だが、陽電子は観測されている。》
観測した限りでは、銀河や恒星はどうやら、輝く星という形になっていない何かの物質によって引っ張られているらしい――最初はただそれだけのことだった。天の川銀河には、見えない物質が少なくとも星と同じくらいは存在する。しかし、「見えない」物質と思うのは早とちりかもしれないのだ。それはきっとガスや塵の雲、岩石、非常に輝度の低い恒星のような、普通のバリオン物質に過ぎず、ただ観測しにくいだけに違いない。だがコンピュータによるシミュレーションは、宇宙の膨張の過程で銀河が銀河団を形作る過程では、未知の物質の関与が不可欠だと告げている。アスファルトの下にできた見えない穴が道路を陥没させるように、見えない原因が宇宙の形成に関わっているというのか。しかも、そうでなくては私たちはここにはいない、と。ならば、というわけで、この重力効果をもたらす何物かをつきとめるため、銀河団全体の総質量を計測する努力が続けられた。
銀河団の内部では、個々の銀河は銀河団全体の重力の影響下で移動する。ミツバチの群れが、空中に見える中心点でもあるかのようにぐるぐると飛び回るようなイメージだ。個々の銀河の移動速度は、銀河団全体の赤方偏移を差し引けばドップラー効果を算出して確定できる。ドップラー効果というのは、物体が出したり反射したりする光のスペクトルが、その物体の動きによって影響を受けて変わる効果のことで、赤方偏移の原因だ。そうした測定の結果、銀河団の中の個々の銀河は、銀河団全体のバリオン物質の総質量の影響よりも速く動いていることが分かった。かつて1930年代にフリッツ・ツヴィッキー(アメリカで活動したスイス人天文学者)が、銀河団の質量のうち目に見える銀河はほんの一部でしかないと言い出した時、それはあまりにも突飛過ぎて、何十年もの間無視されたものだった。当時は観測できない物質など考えることもできない時代だったのだ。もしそんなものが本当に存在したとしても、それを作っているのは普通の原子であるはずだと思われていたのだ。普通の原子以外の物質など考えられもしない。それはダークマターの性質が突き止められるよりも半世紀も前のことなのだから、仕方がなかったと言える。
決定的な証拠は、観測衛星による銀河団の高温ガスから放出されるX線の研究からもたらされた。ガス帯は数100万光年にわたって広がっているが、これは中心部から離れるにつれて密度が薄まってゆく。しかし、個々の銀河の質量にそのガスの質量を足しても、それでも銀河団全体の質量には足りないのだ。これこそまさに、バリオン物質ではない膨大な質量の「何か」がそこにあるということだ。その「何か」は冷たく暗い(いかなる放射も発していない)物質なので、「コールド・ダークマター(CDM)」と呼ばれるようになった。
しかし観測結果は、ダークマターの量についてはなかなか厳しい結果を突き付けてきたのだった。物質及びエネルギーの総量は、宇宙の曲率をゼロにするのに必要な量の30%弱しかなかったのだ。そのうちの6分の1(平坦性を保つための質量とエネルギーの総量の5%)はバリオン物質である。では残りはどうなるのだろう?
ここで、平坦な宇宙という概念を救う、たったひとつの冴えたやり方があるのだ。筆者は1996年の著書Companion to the Cosmosに、いち早くこう書いた。「もし宇宙論学者たちがインフレーション理論で予見された空間的に平坦な宇宙という理想を持ち続けたいのなら、彼らは『宇宙項』を再導入するべきだ」と。
アインシュタインが一般相対性理論に導入し、後に宇宙の膨張が発見されてから撤回した、あの「宇宙項」を思い出して欲しい。宇宙を満たし、宇宙に広がったり縮んだりする力を与えるこのエネルギーがあると考えれば、全ては整合するのである。宇宙項は、マイナスの値を取れば宇宙が膨張するのに抵抗して全てのものを引き戻し(アインシュタインが最初に考えたのはこのパターンだった)、プラスの値を取れば重力に対抗して宇宙を押し広げ、膨張の速度を速める。やはりアインシュタインが示したことだが、物質とエネルギーには互換性があるので、エネルギーも質量と同じように空間に作用する。宇宙が平坦であるなら、そして宇宙にはその平坦さを保つために必要な物質の30%しかないのなら、あとの70%を占めるのは、宇宙項の形を取っているはずなのだ。宇宙項、もしくは「ダークエネルギー」だ。宇宙項は数式上はギリシャ文字のΛで表わされるので、宇宙項のエネルギー場は「ラムダ場」と呼ばれることもあるが、宇宙項もダークエネルギーもラムダ場も同じものを表わしている。《訳注:1998年にこの宇宙の斥力に「ダークエネルギー」という名称を与えたのは、アメリカの宇宙論学者マイケル・ターナーとされている。》
アインシュタイン本人さえ見限ったラムダ項の存在は、1995年頃には宇宙論学者の間では「ネタ」程度に語られることはあったが、本気で議論されるようなことではなかった。もしこれをまじめに考えていれば、大変なチャンスをものにすることができたのだ。しかし何年もしないうち、2つの観測チームが、この半ばご神託のような謎の斥力のことなどまるで眼中にないままにそれを発見してしまったのだった。宇宙の70%は宇宙項と同義の「ダークエネルギー」でできているという観測結果が出たのだ。この成果はノーベル賞につながり、宇宙論の門外漢たちは唖然とした。これもまた無欲の勝利だったのである。《訳注:ソウル・パールマッターとブライアン・シュミット&アダム・リースの2つの超新星観測チームがそれぞれ期せずして宇宙の膨張の加速に気づき、2011年、この三者はノーベル物理学賞を受賞した。》
それぞれの観測チームは、超新星(質量の大きい恒星が最期を迎える時に起こす爆発)を使って遠宇宙のハッブル定数を確定する研究を行っていた。1A型の超新星はそれまでの研究で、出現時の絶対等級が同じであることが分かっている(天文学の世界ではこれを「標準光源」と呼んでいる)。1A型超新星の見た目の明るさを比較すれば、その明るさ(もしくは暗さ)で、それと私たちの間の距離が計算できるのだ。どの超新星も、つかの間の間、銀河全体よりも強く輝くので、かなり遠くの超新星でも観測できるのである。
驚いたことに、遠くの銀河にある超新星は、より近くの銀河から算出された赤方偏移値と比較すると、予測よりも輝度が低かった。これは、その超新星のある銀河が、本来その領域が持つべきハッブル定数が示すところよりももっと遠くにあることを意味する。この事態を説明する最もシンプルな答えは、ビッグバン後のどこかの時点以降、宇宙の膨張速度が速くなり続けているということだ。これこそが、ただ宇宙項を導入するだけで得られる効果なのだ。宇宙の歴史の最初期には、この宇宙の弾力性――ラムダ場――よりも重力のほうがはるかに勝っていたため、膨張の速度は抑えられていた。が、この弾力性の力は変わらない一方、宇宙が膨張するに従って重力は「薄まって」ゆく。その結果、ある瞬間以降は重力よりもラムダ場のほうが優位に立つのだ。
1A型超新星の観測から得られた結果と合う数値を求めると、とんでもなく素晴らしい結論が得られたのだった。ラムダ場は単位空間あたりのエネルギー密度にぴたりと当てはまった。エネルギーが質量と等価である以上、ラムダ場も質量として計算する。ラムダ場から導き出された質量は、宇宙が持つバリオン物質の総量と足し合わせると、宇宙の曲率をゼロに保つために必要な質量を満たしたのだった。全てが美しいほどに調和したのである。
時空の曲率はほぼゼロで、宇宙は5%がバリオン物質(光を発する天体だけではなく、塵やガスも含む)、27%前後が冷たいダークマター、そして68%が今や「ダークエネルギー」として知られるラムダ場でできている。これが現在、「標準宇宙モデル」あるいは「Λ-CDMモデル(Lambda cold dark matter model:冷たい暗黒物質とΛ項を有する宇宙モデル)」として知られるものだ。
ビッグバンの起源には、やはり何らかのインフレーション的膨張があったのだ。宇宙の平坦性が確認されたことが、その決定的な証拠だ。しかしことはそれだけでは終わらなかった。1990年代、インフレーション理論のシナリオはさらなる発展を見せたのだった。それには、アラン・グースが名を上げるより前に出されたあるアイディアが関わってくる。それは1970年代末にソヴィエト科学アカデミーのランダウ研究所の理論物理学者アレクセイ・スタロビンスキーが提案した、今では先駆的インフレーション・モデルとして知られる理論だ。もちろんそれは当時は「インフレーション理論」とは呼ばれてはいなった。彼の理論モデルは重力に関する量子論に基づいた非常に複雑なものであったにもかかわらず、ソ連の宇宙論学者たちの間では「スタロビンスキー・モデル」と呼ばれて1981年に大変なセンセーションを巻き起こしたのだった。だが不幸なことに、ソヴィエト政権当時、ソ連の科学者たちは自由に出国したり外国の同業者たちと議論することが困難だったために、この理論も世界に広く知られることはなかったのである。
1981年、マサチューセッツ工科大学に在籍していたグースは、スタロビンスキーの業績のことなどまったく知らないまま、違うヴァージョンのインフレーション理論を発表したのだった。それはスタロビンスキーの理論より2つの意味で「アクセスしやすい」ものだった。つまり、よりシンプルで理解しやすいという意味と、グースはアメリカの学者だったので、世界中の同僚たちとこのことについて議論することができたという意味だ。さらにグースは、「インフレーション」という目を引くネーミングをしたことで、より注目されやすかったのである。
しかしグースの初期モデルには、大筋では問題はないものの具体的な細部には明らかに欠陥があった(これはグース自身分かっていたことだった)。とりわけ、インフレーション終了後に宇宙が「泡」であふれかえり、それぞれの「泡」が膨張して衝突し合うという部分だ。《訳注:インフレーション終了時には、宇宙の全ての部分で同時にインフレーションが停止するわけではなく、インフレーションが終了した部分(真真空)とまだインフレーションが進行している部分(偽真空)ができる。偽真空は膨張を続けているので、真真空の側の視点からすれば、真真空の宇宙にインフレーションを続ける偽真空の「泡」があふれかえるように見えるはずだ、ということ。》しかし現実の宇宙には、そのような「泡」の証拠は何もない。この最もシンプルなインフレーション理論は、やはり間違っているのだろうか? しかし後に、一見欠点に見えるこの「偽真空の泡」の部分こそが、全ての宇宙論学者たちにインフレーション理論の力を思い知らせることになるのだ。
1981年10月、モスクワの国際学会で、インフレーション理論が議論の焦点となった。この時、インフレーション理論は成り立たないとする側からの報告を行ったのが、かのスティーヴン・ホーキングであった。が、ロシアの宇宙論学者アンドレイ・リンデはそれに対し、グース・モデルの問題点を避ける「新インフレーション理論」を報告した。皮肉なことに、リンデはホーキングの通訳も務めていたので、自分に対するホーキングの反論も聴衆に向かって通訳しなければならなかったのだった。しかし発表が一通り終了したところで、ホーキングはリンデが正しく、インフレーション理論は機能すると認めたのだった。数カ月後、ペンシルヴァニア州立大学のアンドレアス・アルブレヒトとポール・シュタインハートがさらに新しいインフレーション理論のシナリオを発表した。1982年の終わりまでには、インフレーション理論はすでに確立した理論と認識されるようになっている。リンデはそれ以来、インフレーション理論の最も重要な発展に関わっている。
次なるステップは、今やこのサイズにまで膨張した宇宙だが、それがプランク長サイズの時空として出現したことは「特別なことではない」という認識によってもたらされた。もしこの宇宙が、宇宙を膨張させるインフラトン場が働いているより大きな領域の一部なら、そのうちのインフレーションを引き起こした領域だけが私たちのような宇宙として発生することができる。初期宇宙では、インフラトン場は場所によって違った値を取り得るので、リンデはこれを「カオス的インフレーション(chaotic inflation)」と呼んだ。現在のところ、これがインフレーション理論のスタンダードとなっている。1つ注意が必要なのは、ここでいう「カオス」というのは、日常的に私たちが使う「めちゃくちゃ」の意味であって、数学の「カオス理論」とは関係がないということだ。《訳注:宇宙の一部でインフレーションが終了しても、別な領域ではインフラトンの量子的なゆらぎによってポテンシャルが高い状態に戻ることがあり、そうするとその領域ではまたインフレーションが起こって宇宙となり……ということが量子的なゆらぎがある限り繰り返されるので、永久インフレーション eternal inflation)とも呼ばれる。量子的なゆらぎが関わってくる以上、宇宙が発生するかどうかは法則化も予測もできないので「カオス」という。宇宙は無数に生み出され、私たちの宇宙はその1つに過ぎないという結論につながる。これについては後述。》
2014年、グース、リンデ、スタロビンスキーは「インフレーション理論のパイオニア」としてカヴリ賞(ノーベル賞のカウンターパートとして近年設立された賞で、宇宙物理学、ナノサイエンス、神経医学の3部門がある)を受賞した。
カオス的モデルは、今のところインフレーション理論の究極型であろうと思われる。スタンダードなビッグバン宇宙論は、「特異点以前に何があったのか?」という重大な問いに答えることができなかった。よく言われることだが、「以前」という言葉自体が無意味だ、なぜなら時間自体が特異点の後にできたものだから、ということもできるだろう。しかし、カオス的インフレーションは、宇宙は何らかの「時空の前存在」の量子的ゆらぎから発生し、それと同じ過程で私たちの宇宙からまた新たにインフレーションする空間が産み出されるということを教えてくれた。つまり、私たちの宇宙から新たな宇宙が芽吹き、私たちの宇宙もほかの宇宙から芽生えたということだ。その過程には始まりもなく、そして終わりもないのだ。
この領域の別な研究では、宇宙の「芽生え」はブラックホールという形で行われているとしている。ブラックホールの中心に特異点が生じると、それは別な時空として元の宇宙の外に「飛び出て」、また新たなインフレーション宇宙を作るというのだ。これは「ベビー・ユニヴァース・シナリオ」と呼ばれる。2014年、インフレーション期の重力波の間接的な証拠が発見されたと報じられた(この件については次章で詳述する)。これらの理論は正しかったのだ。私たちの宇宙は、他無数にある宇宙のうちの1つに過ぎないのである。