第2章 道を拓く謎
最初の謎はビッグバンによって生み出された「火の玉状宇宙」がどのような性質のものであったかということに関わってくる。これは観測技術が発達しきっていなかった頃から知られていた謎だった。それはビッグバンそのものに関わる謎であって、ビッグバン以前に何があったのかについてではないので、まずはこれについて話すことにしよう。
背景放射の発見以来、地上に設置された幾多の電波望遠鏡の観測結果は、黒体放射についての計算から割り出された結果を完璧に裏づけていた。これはいいニュースだ。しかし、背景放射の観測結果は、何というか、あまりにも均一すぎるようにも思える。宇宙の全方向から、まったく同じ温度を示す結果が出ているのだ。これは少々おかしくはないだろうか。なぜなら、ビッグバン理論によれば、物質と放射はデカップリングの瞬間まで活動がリンクしており、電荷的に中性な原子ができてからようやく放射は邪魔されずに直進できるようになったはずだ。もし放射の密度が物質とのデカップリングの瞬間まで宇宙中で均一なのだとしたら、タイム・ゼロから40万年近くもの間、物質の密度もまた宇宙上で均一なままだったということにならないだろうか。ならば物質はその後も均一に拡散し続けたことになる。「宇宙の晴れ上がり」以降に恒星や銀河が発生するためには、何らかの物質の偏りがなければならないはずだが、宇宙があまりにも均質ならば、それは不可能だったはずだ。
理論物理学者たちは重力が原子の塵を引き寄せて現在のサイズの銀河や銀河団を作り上げるまでに、「宇宙の晴れ上がり」以降にどの程度のゆらぎがあったのかを計算した。その結果を「火の玉状宇宙」の最終期の温度のゆらぎに換算してみると、次のようなことが判明した。現在私たちが見ている空の一部を切り取って、その背景放射を隣の一部との温度差を比べてみたとしたら、その差は3000万分の1K程度の差しかないはずなのだ。この温度差ではあまりに小さすぎて、とても地上からでは観測できない。地上には観測の邪魔になる要素がたくさんあり、また受信装置はほぼ絶対零度の低温に保っておかなければならないからだ。そんな微細な温度ゆらぎが存在するとすれば、それを観測できる場所は宇宙以外にない。これが1989年にNASAが宇宙背景放射探査機COBE(Cosmic Background Explorer、通称「COBE(コービー)」を打ち上げた動機であった。
打ち上げられてすぐに、COBEは宇宙背景放射のスペクトルがまさしく黒体放射のものであることをこの上なく正確に証明してみせた。なるほどこれはいいニュースだが、しかし、莫大な費用と手間をかけて衛星を打ち上げたことを正当化できるほどのすごいニュースでもなかった。天文学者たちは地上でやきもきしながら、COBEが何カ月もかけて彼らが本当に欲しい情報を収集するのを待ち続けた。彼らの望みはもちろん、背景放射の微細な温度差だ。これを待つのは天文学者たちにとっては耐えがたい時間だった。もし背景放射に温度ゆらぎが観測されなかったら、彼らはビッグバン理論を全てぶん投げてゼロからやり直さなければならなくなるかもしれないのだ。
しかし1992年4月、関係者は背景放射にごくわずかに非等方性があると発表することができたのだった。今日、背景放射のリップル(ripples、布目や縮緬のようなしわの意味)、として知られるもので、しかもそれは、今日の幾多の銀河のあり方を説明するのにちょうどいいサイズだったのだ。《訳注:2006年、ジョージ・スムートとジョン・マザーはCOBEによる観測での「宇宙マイクロ波背景放射の異方性の発見」によりノーベル物理学賞を獲得した。》
それは、タイム・ゼロから数10万年後、凝縮されたバリオン物質の雲が数億光年もの距離を膨張していったことを示していた。これはビッグバン理論にとっての一つの勝利だった。その後COBEや幾つかの後続衛星《訳注:WMAPやプランクなど》によってなされた観測で、リップルの詳細が明らかにされてゆき、そのゆらぎのさらに重要な特性が分かってきた。背景放射のリップルには、数学的に言う「スケール不変性」が認められたのである。つまり、リップルのパターンは、どのスケールで見ても同じパターンを描いている。まったく正確に「同じ形」ではないが、統計学的に言えば「同様の形状」と言えるということだ。リップルの小さな一部は、より大局的に見たリップルと同じパターンを持っているのである。この発見の重要性はのちに明らかになる。しかしながら、まだビッグバンに関しては2つの謎が残っている。それを解決できるのは、ビッグバン以前に何が起こっていたのかを解き明かす新たな理論だ。そう、インフレーション理論である。
宇宙理論になぜ新しい「何か」が必要かという理由は、COBEが打ち上げられる20年ほど前の1970年代に論議された2つの問題によって浮き彫りになった。「地平線問題」と「平坦性問題」だ。
1つ目の「地平線問題」は、天球の両サイドの地平線とも均質であるのはなぜか、ということである。《訳注:大まかに言うと、地球から見て宇宙の膨張が光速を超えているところは、光速をもってしても情報が届かないので、観測できない。そのような観測の限界を「地平線」と呼ぶ。ブラックホールから光が出てこられなくなる限界も「地平線」と呼ばれている。天体観測の時に地平線より下の星が観測できないイメージで考えると分かりやすい。》ビッグバン以来、光やその他の何物も、宇宙の端から端まで行ったり、戻ってきたりしたためしはない。それを考えると、宇宙がとても均質なものとして観測されるのは不思議なことではないだろうか。宇宙の2つの場所を均質にする(平衡にする)ためには、その両者がお互いの情報がやりとりできるくらい近くなければならない。情報が波動の形を取っていようと、粒子の形をとっていようと、それらは光速を超えることができない。ならば、地球から見た天球の両側の「地平線」は、一体どうやって均質さの足並みを揃えることができるのだろう?
どういうことなのか、ある単純な計算を持ってくることで分かりやすくしてみよう。ある「地平線」から来る背景放射も、その反対側の「地平線」から来る背景放射も同じ温度で、違いは0.01%ほどしかない。これは、「どの方向も均質」という意味で、「等方性の問題」と呼ばれる。もし宇宙ができてから約140億年経っているとすると、当たり前だが、背景放射の歴史もどうしたって140億年以下しかないわけだ。背景放射は光速で飛んでくるわけだから、私たちのところに届くのに140億光年の距離を越えてきたということになる。つまり、あなたの右側の「地平線」と左側の「地平線」は、280億光年離れているということになる。しかし話はこれで終わらない。なぜなら、140億年前の光が私たちのもとに届く間にも、宇宙は膨張しているのだ。背景放射が可視光の波長からマイクロ波の波長にまで引き伸ばされて赤方偏移が起こっているのはこのためだ。赤方偏移の程度を分析すれば、宇宙がどのくらい膨張したのかが分かる。タイム・ゼロから数10万年後に発せられた背景放射は、今は実際には私たちから460億光年のところにある。というわけで、観測可能な宇宙は直径900億光年少々とされている。つまり、あなたの右側の「地平線」と左側の「地平線」は、今現在900億光年は離れてしまっているのだ。
私たちは、どちらの側の「地平線」から来る光も見ることができる。しかし、私たちの右の「地平線」にいる観察者は、私たちの左の「地平線」を見ることはできない。右手の「地平線」の観察者は、私たちより460億光年以上遠いところの光は見られないのだ。私たちには届くその光は、彼らのところまでは届かない。なぜなら、ビッグバンから今までの時間は、彼らにその光が届くまでの時間より短いからだ。
例えば、背景放射の赤方偏移が1000を超えているとしたら、それは宇宙が物質と放射の分離から1000倍に膨張している、ということになる。今日、背景放射の源と今私たちがいるところは460億光年、ということは、これを1000で割ると、今私たちのいるところと、背景放射となった光子の生まれたところの距離は4600万光年になる(実はより詳細な数値を代入して計算するともっと近い)。「火の玉状宇宙」で私たちのもっと近くにあった光はとうの昔に飛び去ってしまっている。そして、「火の玉状宇宙」ではるか彼方にあった光が、今ごろ私たちのもとに届いているのだ。
宇宙誕生から数10万年、つまり物質と放射の分離(フォトン・デカップリング)が起こった頃までには、可視光を含んだ放射が進んだ距離は、地球から天球を見た場合の1度(地球から月を見た時の約2倍)に相当する程度だった。だとすれば、天球上の2度以上離れた場所は、まったく違う温度であるはずだ。情報を光より早く伝える方法はない。遠く離れた領域同士が、互いをどうやって「知る」というのだろう? どうやって双方の温度が混ざって平均化するというのだろう? 違う言い方をすれば、今日私たちが背景放射の一部分として観測している光が放たれた「宇宙の晴れ上がり」の時、あなたの右側の空と左側の空の「地平線」は、タイム・ゼロから今日までに光が進むことのできる距離の100倍も離れてしまっていたのだ。あなたの右の「地平線」からやってきた光は4600万光年の彼方にあり、左からの光も4600万光年彼方にあった時、宇宙はまだたったの40万歳だった。4000万光年分の距離を光が踏破するためには、あと100倍もの時間を必要とするのだ。
空の「地平線」のあちらとこちらは、その時から今に至るまでずっと「因果律を持たない」のだ。温度も情報も何も伝わりようがないのだから当然だろう。なのになぜ、背景放射は等方性を持っているのか。この「地平線問題」は、1960年代後半にアメリカの物理学者チャールズ・ミスナーが指摘したことだったが、1980年代初頭から天文学者たちの関心の的になったのだった。
2つ目の謎は、「平坦性問題」と呼ばれるものだ。これも1960年代後半にアメリカの物理学者ロバート・ディックが指摘した問題で、なぜこの宇宙は平坦(曲率が限りなくゼロ)なのかということだ。曲率がゼロということは、この宇宙は永遠に拡張し続ける宇宙モデルと、いつかは再収縮に転じる宇宙モデルとの、ちょうど真ん中にいるということだ。
アインシュタインは一般相対性理論の中で、物質と空間(時空)は相互に影響しあっていると論じている。物質(質量)は時空を歪曲させ、歪曲された時空の上にある物体は、その歪曲に沿って最も無駄のない経路を辿って動くのだ。アメリカの物理学者ジョン・ホイーラーが一般相対性理論概論の中でこんなことを言っている。「時空は物体にどう動くべきかを教え、物体は時空にどう歪曲すべきかを教える(Spacetime tells matter how to move; matter tells spacetime how to curve.)」宇宙の曲率は、単位体積あたりの物質の量、すなわち密度によって決まる。もし密度が充分大きければ、宇宙は正の曲率を持っていると言える。宇宙の膨張はいつかは重力に引き戻されて止まり、再収縮に転じることになる。このような宇宙を「閉じた宇宙」と呼ぶ。しかしもし密度がまるでそれに足りなければ、宇宙は負の曲率を持っており、永遠に膨張を続けて再収縮は起こらない。これを「開いた宇宙」と呼ぶ。
分かりやすくするために、地上からボールを投げ上げたところを想像してみよう。あなたがボールを投げる力が強ければ強いほど、ボールは高く上がってから落ちてくる。しかし、人間の力ではボールを地球の重力から脱出させるほど速く投げることは不可能だ。だが、岩の塊くらいのちっぽけな小惑星の上にいる宇宙飛行士が地球でやった時と同じ速さでボールを投げたら、ボールは永遠に飛んで行ってしまうだろう。小惑星の重力は、地球のそれよりもはるかに小さいからだ。
天文学者たちは、現在の宇宙の密度を測るためにこんな方法を考えついた。まず、一定範囲内にある銀河の数を数え、それらの質量を光度を解析することで得るのだ。しかしこの方法では、計算値がどうしても現実の宇宙の密度を下回ることになる。なぜなら、光を放つ恒星や銀河という形を取らない物質があるはずだからだ。しかし1960年代には、私たちの宇宙は、「開いた宇宙」と「閉じた宇宙」のちょうど中間、つまり、限りなく平坦だということがほぼ明らかになっていた。
では、何故宇宙が平坦(曲率がゼロ)であることがそんなに謎なのだろう? 「平坦性問題」は、宇宙の「物質密度定数(density parameter)」が平坦宇宙の固有値と違った場合を考えてみると理解できる。物質密度定数とは、宇宙全体にある重力が働き得る物質(アンイシュタインによる物質とエネルギーの等価性を表わす方程式E=mc2によれば、物質だけではなくエネルギーも含む)の総量の単位で、「平坦性パラメーター」とも呼ばれる。数式上ではギリシャ文字のΩ(オメガ)と表記される。《訳注:曲率が完全にゼロの宇宙のΩ値は1で、これを臨界密度と呼ぶ。宇宙密度定数Ωは、言わば、宇宙の密度とこの臨界密度が「どのくらい離れているか」を表している。》
時空が完全に平坦である場合、Ω値は1だ。インフレーション論が展開される以前、宇宙論における最大の謎は、現実の宇宙のΩ値が臨界密度である1に限りなく近いことだった。1970年代末、この宇宙密度定数は最も信頼できる値として0.27と算出されていた。最も慎重な天文学者たちでさえ、1から前後10倍までの幅を認めた。つまり、Ω値は0.1から10の間と考えられるということだ。実に奇妙なことだ。なぜなら、ビッグバン以来膨張し続けているなら、物質密度定数は臨界密度からどんどん遠ざかるはずだからだ。
宇宙が膨張するにしたがって全体の密度が下がるのは当然だが、必ずしもΩ値が下がるとは限らない。なぜなら、物質密度定数は、宇宙の密度と膨張速度の兼ね合いによって変化するからだ。もし宇宙のΩ値が1を下回った状態でスタートしたなら、Ω値は宇宙の年齢とともにどんどん小さくなり、宇宙は拡散し続けて物質は希薄になってゆく。しかしΩ値が1を上回った状態で宇宙が始まったなら、Ω値は宇宙の年齢とともにさらに大きくなってゆき、宇宙は再収縮に至る。その効果は実に劇的だ。もし宇宙誕生から1秒後のΩ値が10だったら、あるいはもし今のΩ値が10になったら、宇宙はほとんど瞬時に再収縮してつぶれてしまう。そのようにして始まった宇宙には、銀河も恒星も惑星も、そして私たち人類も生まれる余地がない。そしてもし宇宙誕生から1秒後のΩ値が0.1だったら、あるいはもし今のΩ値が0.1になったら、宇宙はあっという間に拡散して希薄になってしまい、重力は物質が銀河や恒星や惑星、そして私たち人類としてまとめておくことができなくなってしまう。
しかし、私たちは今ここにいる。つまりそれは、ビッグバンから1秒後のΩ値はほぼ正確に1だったということだ。そうなる確率は1060分の1だ。1,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000分の1という、とんでもなく小さな確率でしか起こらないことなのだ。
物質密度定数Ωは、全ての科学分野の中でも、最も正確に算出された数値の1つなのだ。その数値はもちろん、今も、そしてかつても、常に変わりなく1だったのだ。宇宙に遍在する膨大な量のダークマターのΩ値が、先ほど挙げた0.27という数値と1の間を埋めているのである。
1970年代にこの謎が姿を現して以来、幾多の観測結果が宇宙は本当に平坦なのだということを確証している。そのうちの1つは、やはり宇宙背景放射の研究によってもたらされたのだった。放射が宇宙を旅して私たちのもとに届くまでに、レンズを通った光のように、何らかの宇宙の歪曲によって歪められるはずだ。ならば、背景放射の温度にはむらができ、温度の高いところや低いところがあるはずである。しかし観測衛星からもたらされた結果にはそのような形跡はまったくみられなかった。つまり宇宙は、もし温度にむらがあったとしても、観測不可能な程度の差しかないということだ。現在のΩ値は1±0.01の範囲内にあり、ビッグバン時のΩ値は1±10−62だったのである。
これが、1970年代の宇宙論における最も大きな謎であった。が、1979年の春にある変化が起こる。コーネル大学では、アラン・グースという名のうら若き研究者が、ここに述べてきたような謎、ことに平坦性問題についてのロバート・ディックの講義を聞いていた。グースは素粒子物理学の素養があったが、彼にとって宇宙論はとても目新しいもので、彼はそれにすっかり魅了されたのだった。その年の終わりまでには、彼は素粒子物理学に基づいた膨大な量の「デッサン」を描き、ついには全ての謎を解き明かす理論を完成させたのだった。それがインフレーション理論なのである。《訳注:「インフレーション理論」の名付け親はグースだが、当時デンマークの北欧理論物理学研究所の客員教授であった佐藤勝彦がほぼ同内容の論文を先に発表している。佐藤の論文は1980年2月4日にMonthly Notices of the Royal Astronomical Society誌に受理されており、グースの論文は1980年8月11日にPhysical Review誌に受理されている。同じ研究が別々に出てきたということは、先取権争いという点では悩ましいところだが、理論の信憑性が増すという意味ではたいへん頼もしいことなのだ。》