クラーラさんが悲鳴のような声で名前を叫び、ちょうどこちらを振り返って周囲を確認していたアランが、目を見開いている。
けれどかまっていられない。
私は一端馬車の後ろ側に回った。そこで風狼達が騎士の頭上を飛び越えてやってくるのを目の端で確認すると同時に、反転してアランの脇を駆け抜けて木立の中へ。
「ウェントワースさん、もう少し前へ出て! ライルさんとアラン様はそこにいて挟撃を!」
走れ私!
死にもの狂いで足を動かし、私は木を避けてジグザグに走った。
案の定、私を追いかけてきた三匹の狼達が、木立を避けて私の後をついてくるせいで一列に並ぶ。
混みあって伸びる木立の中では、木にぶつかりそうになるので、風を使って飛び上がりにくい。だから風狼も走るしかないのだ。
とはいってもこのままでは追いつかれてしまう。
私は早々に木立を飛び出して、ウェントワースさんの元を目指した。途中でアランとライルさんの間を駆け抜け、ウェントワースさんの背後に駆け込む。すると、彼の真正面に風狼が迫っていた。
「なるほど」
何かを納得したようにつぶやいたウェントワースさんが、剣で鮮やかに風狼を串刺しにする。仲間の死骸で足を止められた風狼二匹を、アランとライルさんが横から仕留めた。
それを横目に私はまた走り出す。
別方向からまた二匹が迫ってきたのだ。
息が切れて立ち止まりそうになる。でもここでドジって転ぶわけにはいかない。
「お、願い!」
滑り込むように、三人の兵士が固まった場所へ私は突入する。
対峙していた狼の突然の方向転換と、私を追いかける有様に驚いていた彼らだったが、すぐにまっすぐに向かってくる狼達を打ち払う。
地面に倒れた狼を、追ってきたアランとライルさんが仕留めた。
──よかった。
私が狙いなら、私が動けば風狼はそれだけを目標に走ってくる。盲目的に私を狙っていたので、きっと木立でも私の後ろを忠実に追いかけると考えたのだ。
だから私は風狼の意識を私に向け、風狼が飛び上がらないように誘導した。
アラン達の腕ならば、自分に意識を向けていない相手を倒すのは容易い。その予想どおり、私を追いかけることに集中していた風狼を、倒してくれたのだ。
やりきった私は地面に座り込んで手をつく。
ようやく全部倒せた。だけど息が上がって、喜ぶどころではない。
なんとかドレスの裾だけは元に戻したが、それ以上は息を整えるだけで精いっぱいだった。
「この、バカ者!」
剣を持って走り回り、ぜいぜいと肩を上下させるアランに怒鳴られる。
声の大きさと威圧感に、私は思わず肩を縮めた。こ、怖いよアラン。
でも怯える私に、アランは容赦してくれなかった。
「弱すぎてすぐ死んでしまいそうな奴が、どうしてあんな真似をした! 無事でいられなかったらどうする気だった!」
「だってあのままじゃ」
みんなが怪我をしていたではないか。しかもベアトリス夫人が戦に参加できなかったということを考えれば、恐ろしい推論が成り立つ。
あの怪我なら、治って走り回れるようになるまで一か月くらいで済むだろう。けれどあの時は、もっと深い傷を負った可能性があるのだ。
例えば私が大人しく馬車に戻っていたら、風狼に馬車を壊され、怪我をしながらもベアトリス夫人が戦わなければならなかった、とか。なにせベアトリス夫人は、攻城戦後も戦場に出なかったのだから。きっと、もっと深い傷を負っていたのだろう。
他の騎士や兵士には死者が出ていたかもしれない。これから一国の軍と辺境伯領の軍だけで戦わなければならないかもしれないのに。
実はもっと怖い推測もある。
もしベアトリス夫人が参戦しない理由が私の予想どおり今回の傷にあるなら。ゲームどおりに事態が推移したら、ベアトリス夫人が負傷して戦えない頃にルアインが攻めてくるはずだ。
あと数か月の時間を待たずに……夏には攻めてくるかもしれない。
ゲームと違う方向に状況が変わったら、どうなるのか予想がつかない。
サレハルドも今のところ動きがないというのに、一体何の理由でレジーが辺境伯領へ来なければならなくなるのだろう。
けれど説明はできない。うつむいた私だったが、その肩に手を触れる人がいて顔を上げた。
「キアラさん、怪我は?」
ウェントワースさんだ。いつもどおりの冷静な眼差しに、私はうなずいた。すると彼は、アランを諌めてくれた。
「過ぎたことを責めても、仕方ありませんよアラン様」
「しかし……」
「彼女のおかげで、早々に決着がついたのは事実です。それに今は、この場を離れることを優先しましょう。血の匂いに引かれた他の獣がやってきたら厄介です。ベアトリス様も負傷していらっしゃいますし」
アランがはっとした表情になり、それから素直にうなずいた。
「わかった……言いすぎたな、キアラ。だが後で説明してもらうからな?」
私はアランにうなずいて立ち上がると、心配そうに私を見るクラーラさんの手を借りて、馬車の中に入る。
「キアラ、大丈夫だったの?」
中で気をもんでいたベアトリス夫人に、私は微笑みかけた。
「平気です。風狼も全滅しました。急いで帰りましょう、ベアトリス様」
手当をしていたマイヤさんを手伝いながら、私はどうやってこの危機感を説明したらいいのかと、頭を悩ませていた。
けれどよい案が浮かばないまま、夕暮れ時に私達は城へと到着した。そのとたん、城内は騒然となった。
辺境伯夫人が負傷したのだ。多少のかすり傷を負うことがあっても、この元王女が歩くのもやっとという有様になることなど、今までになかったからだろう。
ヴェイン辺境伯の狼狽ぶりもすごかった。
表面上こそ冷静に、妻の治療の手配と他の負傷者への対応、風狼の異常行動の情報収集、捕まえた男への尋問を命じた彼は、それをすべて妻から離れずに行った。
絶対離れるものかという意思を感じて、皆で生ぬるい笑みを浮かべてしまった。
治療が終わってもまだ側から離れないヴェイン辺境伯に、むしろベアトリス夫人のほうが困ったように笑う有様だった。
「あとは治るのを待つしかないのよ。ずっと側にいたって早まるわけではありませんよ、貴方」
「しかし……」
言葉を濁しながらも動かないヴェイン辺境伯を見て、皆とりあえず二人だけにしてあげようという流れになる。
おおまかな状況の説明は既に終わっているので、アランやウェントワースさん達も退室していく。私もマイヤさん達と一緒にその場から離れた。
とりあえず夜も更けてきたので、今のうちに夕食をもらおうか。
そんなことを考えて廊下を数歩進んだところで、手首を摑まれた。
振り返れば真剣な表情のアランがいた。
「待てキアラ。話がある」
真剣な表情を見て、私はうなずくしかなかった。
アランに連れていかれたのは、城を囲む壁の四隅に作られている城塞塔の上だ。
監視の歩哨はより高い主塔にいるから、ここには誰もいなかった。
確かに誰かに話を聞かれることもないだろうけれど、急速に夕闇に閉ざされていく空の下、空気が涼しすぎるような気がした。
先に塔の端まで歩いていったアランが、階段を上りきって数歩進んだ私を振り返って言う。
「まず最初に言っておく。スカートをたくし上げるな。他人に脚を見せるな。お前には恥ずかしいという概念が足りないのではないか!?」
「あ……まずそっちですか」
薄暗がりの中、渋面になっていたアランに、私も悪いことをしたと思い出す。
「ええと、変なもの見せて大変申し訳ありません。お目汚しをいたしました。できればベアトリス様には内緒にしておいて頂きたく……」
前世の記憶を思い出そうとするたび、今世の倫理観が抜けがちになるせいか、私はスカートが短くても恥ずかしいという気持ちがなくなりつつあったようだ。が、はしたないことだという認識はあった。
なので謝った上で、侍女をやめさせられては困るから、ベアトリス夫人に黙っていてくれと頼むと、アランは目を瞬いた。
「は? 変なもの!?」
「え、だって興味がない女の脚なんて、見たくないですよね?」
好みの女の子の秘密は見たくても、好みじゃない女の秘密は知らされたって困るはず。だからアランを困惑させたのではないかと思ったのだが。
「……お前は気を使う方向を間違っている」
「え? 男の人だって、見たい脚と見たくない脚があると思ったんですが」
「何だその区分は?」
「やっぱり、綺麗な女の子の脚のほうがいいでしょう? アラン様だって、こっそり女の子の脚の一つや二つ拝んだことのあるお年頃でしょうし、それを考えると、私の脚はむくみやすいから、いまいちおめがねに適わな……」
「別に変じゃな……! ていうか他の女の脚なんて見たくてもまだ見たことが……! いや違う! 僕は脚の優劣の問題を論じてないだろ!」
慌てたように否定してくるが、何かアラン、君ってば変なこと口走ってるのわかってるかな? いやオモシロイこと聞いたなって思ったけど。
私は彼がこれ以上失言をしないように、謝り直してみる。
「じゃあほんとに、マナー的な問題でのお叱りですよね? 大変申し訳ありません」
「……なんか、これについて詳細な認識をすり合わせるのは、危険な気がするからやめておく。あと、レジーには言うなよ?」
なんでそこでレジーが出てくるかなと首を傾げる。レジーに言えるようなことではないけど……緊急事態だから、許してくれるんじゃないかな?
だって外出するのでブーツ履いてるから、スカートの裾丈は足首より上とはいえ、長すぎて走りにくかったし、それですっころんで狼の餌食になったら、目も当てられないもんね?
でも私は素直にうなずいておいた。
なんでかアランが深いため息をつく。
「じゃあ本題だ」
その一言に、私は思わず背筋を伸ばす。
「あの風狼は、なぜお前だけを追いかけた?」
アランの質問に、私は用意していた答えを返す。
「私もよくわかりませんが、たぶん一番弱そうだったからじゃないかと」
あの場で武器を持ってないのは私だけ。しかも狼でも私がトロそうなのはすぐわかったはずだ。だからそれを言い訳にしようとした。
障害物を利用しつつ、長距離を走らず、武器を持つみんなを利用しての作戦が功を奏しただけで、襲われたらひとたまりもないのは本当だったから。
しかしアランはそれでは納得してくれなかった。
「違うな。弱いだけが理由なら、負傷した母上に一斉に襲いかかったはずだ。けれど風狼はそうしなかった。あの時も、奴らの目はお前に向いていた。お前だって必ず自分を狙いに来るとわかって行動しただろう。でなければあんな策を考えないはずだ」
はっきりと言われてしまい、私はうつむきながらも白状した。
「たぶん、あの狼達は……魔術師くずれの男と、同じものを飲まされたんだと思います」
「魔術師くずれと?」
私はうなずく。
「ほんの少し、わかるんです。魔術師くずれの人達と近づくと、熱がある時みたいに息苦しくなったり、変な感じがするんです。今までは、初めてそういう人を見たり、緊張したせいだと思ってました。けど、あの風狼達にも同じことを感じました。まっすぐに私を見てたので、たぶんそういうことなんだろうと」
「確定、というわけではないのか?」
「魔術に詳しい人も本もないですし、私は何も知らないんです。実はレジーにも調べてもらったんですけど、はっきりとしたことは何もわからなくて」
「あいつでもか……」
彼の名前を聞くと、さすがのアランも追及を諦めてくれた。
「しかしなぜこんなに魔術師くずれの事件が多発するんだか」
「ルアインと国境を接してる領地の一つだから……だと思います」
ゲームの設定では、主人公の出発点だ。物語上、ルアインに攻め落とされなければならない場所だが、その理由付けとしては、ルアイン軍が侵攻する途上にあることが挙げられていた。そして王子がやってくる場所だから。
「しかしルアインが侵略を考えているのなら、南のエレンドールでもかまわないだろう」
「レジーが来るからでは……いや、レジーが来るように仕向けてる?」
王子を引っ張り出すためには、国家間の交渉事がなければ難しいだろう。ゲームでもサレハルドとの間で緊張状態が発生し、そのためレジーがやってきたのだから。
レジーは何度もエヴラールに来てはいるが、その時に暗殺しようにも、時期を合わせて行動するのが難しいのだろう。彼は突発的にエヴラール行きを決めるらしいので、準備ができないのだ。だから自分達で、そのタイミングを操りたいのだろう。
とはいっても、現在のところサレハルドとファルジアは事をかまえていない。その気配もない。だから私はまだ時間があると考えていたし、レジーが王宮で何らかの手を打っていることを信じて、魔術に手を出さないように大人しくしていた。
──でも、少しずつ話が変化しているとしたら?
ゲームでは、風狼が暴れたなどという話はなかった。魔術師くずれなんて登場していなかった。けれど敵のほうに何らかの問題が起きて、そのために方針を変えたのだとしたら。
「もしかすると、サレハルドの近くでも魔術師くずれに事件を起こさせてるのかな……」
つい考えに沈みすぎていたのかもしれない。アランの前だというのに、私は思考が口からだだ漏れていたことに気づかなかったのだ。
「おい、キアラ。今のはどういうことだ? どうしてサレハルドの近くでも事件が起こると思うんだ!? お前は何を知ってるんだ? 話せ」
言われて我に返り、顔から血の気が引いた。
どどど、どうしよう。なんて説明すれば?
しかし慌てたのは数秒だ。もしかすると戦争が迫っているかもしれない。予想より早く。レジーに伝えた「二年後」よりも早く。
なら今のうちに、アランに話して辺境伯領の備えを早めてもらうしかない。
「あの、実はレジーにも話したんですけれど」
私はレジーにしたのと同じような話をアランに言った。
夢で見たのだと言い訳して。
けれど焦りが、もっと詳細なことを私に語らせる。
ファルジア王国が、サレハルドと交渉をしなければならない事態に陥ること。ルアイン側が越境して、盗賊行為や山を焼き払ったりしたせいなのだが、ルアインの工作のせいで、ファルジアの人間が犯人だということになっていたのだ。
そんなサレハルドとの交渉にレジーがやってきた時、エヴラール城が攻撃されること。その際、ベアトリス夫人が戦いに参加しない件と、負傷していたからではないかという私の推測。もしそのとおりなら、ベアトリス夫人の怪我が治らないうちに、ルアインが攻撃してくるかもしれないことを。
「夢かもしれないけど、不安でたまらないんです。だからレジーに話して、ヴェイン辺境伯様にもルアインに備えるようにしてもらったりしたんです。だけど夢と状況が違ってきているので……」
もしかすると、この一か月か二か月の間に事態が動くかもしれない。
急いで備えてもらわなければ、対処できなくなる、と私は焦っていた。だから促されるままに……ルアインに城が落とされたらどうなるのかまで、かなり詳細に話してしまったのだ。
私は、アランが困り顔ながらも話の内容を検討してくれる……と甘いことを考えていた。こうして話をしたのが二度目で、レジーが疑わずに聞いてくれたせいかもしれない。
だからアランの顔を見上げた時、睨みつけるような彼の視線に、私は困惑した。
「夢だなんて、噓なんだな?」
「え、どうして……」
予想外の状況に、私は戸惑ってそれしか言えない。
「夢なのに、お前は絶対に起こると確信しすぎている。他に根拠があるんだろう? あと、あまりに長期間の出来事について知り過ぎている。幾晩、夢の続きを見続けたらそれが可能なんだ?」
アランの言葉に、私は返事ができなかった。
レジーは何も聞かないでいてくれた。変だと思っても、レジーは言いたくないことだと察して聞かないでいてくれたのだろう。それよりもレジーは自分の目を信じているのだ。噓をついているのかいないのか。私が本当に自分のことを思って言っているのか、それは私の自己犠牲を必要とするのかしないのかを判断するために。
けれどアランは不確定要素を許してはくれない。全てをつまびらかにして、判断したい人なんだと思う。
でも言えないよ、と私は泣きそうな気持ちになった。前世の話だなんて夢より陳腐な話になってしまう。
「お前はそもそも、エレミア聖教をまじめに信仰しちゃいないだろう。今の話以外に、夢解きの話だってしたことがない。聖日の祈りだって、母上と一緒になって教会に行くのをすっぽかす。だというのに夢で見たことだけは信じるのか? お前と同じような程度しかエレミア聖教を信じてない僕なら、夢で何を見たところで現実とは違うと考えるだろう。本当になると信じて、危険を触れ回るようなことなんて思いつかない」
アランの言葉は正論すぎた。
普段の私は、とても信仰心が薄そうな態度だった。辺境伯家の人々もあまり熱心ではないので、ほっとしていたぐらいなのだ。
「むしろ僕は、お前がパトリシエール伯爵とまだ繋がりを持っていると言われたほうが納得がいく。我が辺境伯家の人間に情が湧いたから、夢ということにして伯爵の計画を話したというほうが、現実味があるからな」
疑うのはもっともだ。
でも違う。私は王妃の元へ行くことや、パトリシエール伯爵の命令から逃げてきたのだ。それだけは信じてほしい。だけど敵ではないと、どうやって証明したらいい?
「お願いだから信じて」
でも私は頭がよくないから、上手い言い方が思い浮かばない。
黙り込むしかない私に、アランがため息をつく。
「話にならないのは自分でもわかってるだろう、キアラ。まぁ、何が情報源であっても、不穏な状況には変わらない。一応父上にも、お前がそう言っていたと伝えて……」
私は息をのんだ。
そんなことを言われたら、私の今までの話まで、誰も信じてくれなくなる。レジーがルアインの動きについて話したことも、私と仲よくしていたせいで、変なことを吹き込まれたのだろうと、疑われてしまう。
それじゃレジーを守ってもらえない。
辺境伯も、何の警戒もしてくれなくなって、殺されてしまう。
もうどうしたらいいのかわからなくて、私は泣きたい気持ちで叫んだ。
「だって、信じないでしょう!? 前世の話なんて!」
「前世?」
アランが不審そうな表情になる。
でも、既にアランは私の言葉を疑っているのだ。これ以上頭がオカシイと思われたところで、気にならない。だからぶちまけた。
「そうよ前世よ! こうして生まれる前にも一回別な人生を送ってたのよ! その時遊んでたゲームと同じ名前と顔の人達がこの世界に生きてるって、思い出しちゃったのよ! このままじゃエヴラール城はルアインに占拠されて、王国が侵略されてしまう。私だって学校からすぐに逃げなかったら、魔術師にされて王妃の仲間として、戦場でアラン達に殺されるはずだった!」
叫ぶように吐き出すと、アランは呆然とした顔をしていた。
「どうよ、こっちのほうが荒唐無稽でしょ! 頭オカシイって思ったでしょう!? だから言いたくなかったのに!」
私はもういたたまれなくて、その場を逃げ出した。城塞塔から駆け下りて、とにかく一人になれる場所を探す。
でも城壁の上だって歩哨がいる。
塔の上にだって見張りの巡回は来るだろう。だから私は城壁のすぐ下、居館から少し離れた茂みに座り込んだ。
じっと立てた膝に自分の額を押しつけて、ぐすぐすと泣いた。
しばらく経つと、心が落ち着いてくる。すると今更ながらに後悔が押し寄せてきた。
あんなことを言ったら、アランは益々私を警戒するだろう。ここを出ていくしかなくなるだろうか? でもそれじゃレジーとの約束を破ることになる。
けど辺境伯だってアランの話を聞いたら、私をスパイだと疑うかもしれない。きっとレジーに事情を書いた手紙でも送って、私を拘束するか……温情があったら放逐するかもしれない。
あげく、ルアインの動向へ注意を払うことだって、私の流言飛語が元だと思われて、必要ないと放置されるんじゃないだろうか。
それじゃだめだ。
「……内側から、壊すしか」
もうパトリシエール伯爵の所に戻って、人生投げ捨てるつもりで子爵と結婚して、魔術師になるしかない。このまま待っていられないのだ。
ほんの一か月か二か月で、魔術師になれるかどうかは不安だが。
「レジー……」
何も聞かずに信じてくれた人を想う。パトリシエール伯爵の元へ戻るなら、死ぬとまで言って私を止めてくれた。助けたい相手に死なれては本末転倒だけれど、このままでは彼に怒られることすらできなくなる。
思わず首から提げていた石を服の上から握りしめた。
「どうして、茨姫は正解をくれないんだろう」
今すぐ魔術師になる方法が知りたいのに。そうしたら、もっと別な方法で説得できるし、信じてもらえなくても、守ることだってできるのに。
──そこで、ふと変なことに気付いた。
「え?」
私は手の中の石を見下ろす。
石は何の変化もない。けれど握りしめて目を閉じると、何かを感じる。
自分から広がっていく波。どこまでもどこまでもそれが広がって、それがふいに左斜め方向で何かにぶつかるような気がした。
「これは……何?」
視覚じゃないから上手く表現できないけど、なんとなくレーダー装置が頭の中にあるような感覚だ。そして自分から広がる波がどこかにひっかかると、心臓が強く動く気がした。
今までなんの変化もなかったし使い方も全くわからなかったけど、まさか、これは。
「魔術?」
使えはしなくても、今まで風狼や魔術師くずれの人々への異常を感じていた。小さくても、その感覚に似ているということは。
「この方向に行ったら、もしかして魔術師が見つかる?」
思いついた私は、すぐに部屋に戻った。
騎乗しやすい服に着替えて、短い書き置きを残す……もう、戻れないかもしれないから。
何の力もない身で魔術師に突撃するのだ。あまりに一か八かすぎる行動だと自分でもわかっている。目的を達成できずに死ぬかもしれない。だから死んだと思って探さないで下さいと書いたけれど、その字は震えていて今までで一番みっともなくなっていた。
それから、いつも使わせてもらっている馬を廐舎から引き出して、騎乗した。自分の足で探し回ったら、遅すぎて遠くまでいくのに時間がかかり過ぎるだろうから。
顔見知りになっていた門番は、緊急の用だと言ったら通してくれた。
そうして夜の闇に沈む道の中、馬を走らせた。
夜道は静かで、城下を抜けると夜行性の鳥の鳴き声しか聞こえない。
時々立ち止まって、方向を確認しながら馬を走らせた。
けれど何も見つからない。一度休もうと、川岸で馬に水を飲ませ、近くの木に繫いだ。
自分もその場に座ろうとしたのだが、不意に腕を摑まれて飛び上がりそうなほど驚く。
「ひゃっ!」
まさか物盗り!? 女一人でふらついてたから? と思った私だったが。
「私ですよ、キアラさん」
冷静な声に振り返れば、闇に慣れた目にウェントワースさんが見えた。
黒髪や暗い色の衣服が闇にとけこんでいるが、少し日に焼けた顔と淡い茶色の瞳が見える。
私はふと思い出して、緊張した。
雇われる時に、逃げたらスパイだと判断するかもしれないと言われていたのだ。まさかこのまま始末されるんじゃないだろうか?
するとウェントワースさんがため息をついた。
「多分、私は貴方が不安に思っていることがわかっています。脱走だなんて疑っていませんよ。むしろ、心配はしています。いたたまれなくて家出したのではないかと」
「いえ、で……」
杞憂だとわかったとたん、私はその場に座り込んでしまう。
腕を摑んでいたウェントワースさんが慌てた。
「怪我でも?」
「いえ、まだしてません」
「? とにかく戻りましょう。こんな時間に女性が一人で歩き回るのはよくありません」
そう言ってくれるウェントワースさんに、私は首を横に振った。
「……帰れません。たぶん、アランも辺境伯夫妻も今頃は、私が帰ってくることを喜んではくれなくなってるはずです」
荒唐無稽な虚言を吐く、スパイ疑惑のある娘だと思われているはずだ。だから私は、信じてもらうためには魔術師になるしかないと思って飛び出したのだ。
ウェントワースさんは「なぜ」と尋ねてくると思った。けれど、
「先ほどの、アラン様とのお話は、聞かせていただきました」
「え?」
予想外な言葉はまだ続く。
「その上で、アラン様には他の誰かに不用意に内容を告げないように申し上げてあります。そしてキアラさんが、敵ではないと説得しておきましたので、大丈夫です」
「……どうして、です?」
あの話を聞いたら、誰だって私を疑うはずなのに。
しかしウェントワースさんは、泣いている子供を見て苦笑いする親のような表情をした。彼のそんな表情の変化が珍しくて、私は驚いてしまう。
するとウェントワースさんが言った。
「乙女の恥を捨ててまで仲間を助けようとした人を、疑えるわけがありません。あのままでは重傷者が出たでしょう。ありがとうございます」
嬉しい言葉だった。ありがとうと言われて、目に涙がにじみそうになる。
だけどちょっと待って。
「あの、ウェントワースさん。お願いですから乙女の恥のことは忘れて下さい……」
目の端を拭いながら言えば、ウェントワースさんがくくっと低く笑う。どこか落ち着きを感じさせるレジーとも、まっすぐに感情を表に出すアランとも違う声音だ。
「もちろんわかってますよ。でも貴方は不思議な人ですね。わき目も振らずに戦場を走る英雄みたいなことをしたかと思えば、年頃の女の子みたいなことを言う」
そんな感想を言われたものの、どんな反応をしたらいいのやら。
「いやまぁ、年頃ですし……」
十六歳の結婚してもいい年齢なんだから、お年頃で間違いないもんね。
「そうでしたね。ああ、ウェントワースと家名を呼ばれるのもなんですから、カインと呼んで下さい」
あれ、そういえばウェントワースさんて、カインって名前なの? みんなそう呼んでるし他の人は名前呼びだから、姓のほうだとは思わなかった。
「私が仕える時に、同じカインという名前の人がいましてね。区別するためにそのまま家名で呼ばれ続けているわけで」
「はぁなるほど」
同名さんがいたのなら、なるほど納得。そういえば「アラン」という名前の人だって複数人いるんだし、そういうこともままあるだろう。
「ではキアラさん、城へ戻りましょう。領内を隈なく警備できるわけではありませんから、ここのように街道から外れた場所はより危険です」
「わかりました。だけどもう少しだけ、探させて下さい」
「探す?」
ウェントワース改めカインさんに、私はうなずいた。
「魔術師を、探します」
もうそれしか、迫る戦火の中でみんなを守る方法を思いつけない。今見つけられなくても、何日かかっても魔術師に接触するんだ。
まっすぐにカインさんを見上げて宣言した私は、心の中でレジーに謝った。
……約束、守れなくてごめんね。
その後、私の予想が正しかったというかのように、エヴラール城の周辺に魔獣が頻繁に出没しだした。
今日も、城から一時間ほど離れた林の近くで、討伐が行われていた。
「矢を射ろ!」
討伐に出たアランが命じると、彼の背後に並んだ弓兵が矢を放つ。
放物線を描いて飛ぶ火矢が、少し離れた草原の空に浮いている空クラゲの一団に向かっていった。
十匹はいるクラゲ達は、長い半透明の足で矢を叩き落としていたが、三分の一に火矢が当たって、蒸気を上げながら落下していく。
こうした討伐は、一週間に二度ほど行われるようになっていた。近隣の町や村から、魔獣が出たと報告がくるようになったからだ。
討伐が終わらないうちにと、私はその様子から視線を離し、林の中を馬で走りだした。
その後ろにいるのはカインさんだ。
一か月前のあの夜、魔術師を探すという私に「それが辺境伯家を守ることになりますか」と尋ねたカインさん。うなずくと、カインさんは協力すると言ってくれたのだ。
でも疑問だった。
カインさんはアランにした話を聞いて、私を敵ではないと判断してくれた。けれど、前世の話を荒唐無稽だとは思わなかったのだろうか、と。
疑問をぶつけてみると、彼は答えてくれた。
「私の両親は、先のルアインとの戦で亡くなりました。ルアインの巧妙な罠に気づかず、南のエレンドールに援軍を送っている間に不意打ちされたのです。あの時は大雨があり、ルアインへ通じる道が崖崩れで使えなくなっていました。しかしルアインは、復旧工事に駆りだされた工員のふりをさせ、兵を伏せていたのですよ」
カインさんは苦い笑みを浮かべる。
「油断していたため、国境付近を訪れていた民も、畑に出ていた者も巻き込まれました。だから私は、どんな些細な情報でも無視はしたくないと思っているのです。それに現在、これまでにない事態が発生しています。そこから考えても、貴方の警鐘を無視できないと判断したんですよ」
カインさんなりに、状況と過去の事例から考えての判断だという。
盲目的に信じられるより、確固とした理由を挙げてもらえて、私も安心した。だから喜んでカインさんの協力を受けることにしたのだ。
その時のことを思い出しつつ、私は林の中を馬で進む。首から下げた石に触れ、感覚を時々探りながらだ。
このやり方で、私達には魔術師らしき人物を探し出せるようになっていた。そして繰り返すほどに、移動しながら茨姫の石が伝えてくる感覚を受け取れるようになっていた。
けれど毎回、察知されたように、魔術師だと思われる相手に逃げられている。しかも魔術師の近くには、大抵魔獣がいた。戦闘能力ゼロの私とカインさんの二人組だけでは、とても近づけない。
カインさんには「魔術師は魔獣を操っているのではないでしょうか」と言われた。彼の予想は当たっていたようで、魔獣による町の襲撃と、魔術師の居場所と思しき地点は必ずぶつかったのだ。
そこでカインさんは、辺境伯夫妻に報告した。魔術師を倒せば魔獣の被害も収まるだろうから、私とカインさんに、討伐についていかせてほしいと。……討伐隊が魔獣と戦っている間に、私達は魔術師のほうを捕獲するのだ。おかげで魔術師を探すことを許可してもらえた。
とはいえ、私が魔術師の居場所がわかるなどと、皆に話せはしない。
わずかな力でも、それがあると聞いた人に魔術師くずれと誤解されて、私が迫害されるのを防ぐためだ。ベアトリス夫人にも、そのあたりをとても心配された。
アランも……今はまだ、黙ってくれている。
彼も色々と考えているのだろう。時折、物問いたげな視線を感じるものの、何かを言ってくることはない。彼の視線から敵意とかは感じないけれど、会話もほとんどなくなっていた。それが少し悲しい。
けれど私が身の証を立てるには、魔術師になるのが最短の道だった。それまでは、どんなに説明したってアランを納得させられる材料を提示できないので、何も言えない。
早く信じてもらえるようになりたい。私の知っている未来になってしまう以外の方法で。だから私は魔術師との接触を急いだ。
「……近いです!」
報告すると、カインさんが馬を下りて近づくよう指示してきた。
不意打ちをするため、馬に括り付けていた道具を持って、極力音を立てないように進む。カインさんは網を。私は水筒を二つだ。
三十歩ほど進んだところで、林の倒木に座る一人の老人の後ろ姿を見つけた。
どこかの世捨て人かと思うような砂色の足首まである貫頭衣を身に着け、闇に紛れることを考えてか、黒っぽいマントを羽織っている。杖は側に立てかけてある。まっすぐな枝を切り出した、T字の持ち手がある歩行用の杖だ。
老人の視線の向こうは木立が開けていて、暴れる空クラゲと宙を舞う火矢が確認できた。
私は心の中でガッツポーズをする。
この老人こそが、一か月探し続けた魔術師に間違いなかった。今まで魔獣に襲いかかられて逃げながらも、三度ほど見かけている。
老人の側に魔獣はいない。戦闘が行われている場所から遠く、隠れているので、安全だと思っているのだろう。
しかも魔獣を操っているせいなのか、こちらにまだ気付かないでいてくれている。
私はカインさんとうなずき合う。
そして数秒後、カインさんが投網を投げた。
「ぬお!?」
驚く魔術師だが、川魚用とはいえ身体を覆うほどの大きさの網にやすやすとかかる。しかしそれだけではだめだ。魔術を使って網を破ろうとする老人に、近づいた私は大きめの水筒の水をばらまいた。
「冷たっ」
老人が悲鳴をあげるが、かまいはしない。
仕上げに私は、もう一つの水筒のなかから摑み出したものを、老人に投げつけた。
木漏れ日を受けて、きらきらと輝く葉。その下にくっついている球根みたいな身体と顔。根っこを嬉しそうにばたばた動かすのは、雷草だ。
暗い場所に閉じ込められていた雷草は、陽の光に喜んでパチパチと放電しつつ落下する。
そして着弾。
「ぎゃあああっ!」
目には見えないものの、老人の身体に水を伝って電気が走ったようだ。
悲鳴をあげた後は、ぐったりと倒れた。
魔法を使えない私が、唯一思いつける攻撃法だ。しかも一匹分の電力ならば、老人も死ぬまい。むしろ、ほどよく身動きできなくしてくれるであろう、と思ったのだが。
「……死んだわけじゃ、ないよね?」
私が問いかけると、カインさんもちょっと不安そうだった。
老人と一緒に感電して動かなくなった雷草を、適当な枝を使って遠くへ放り出す。次に完全に気を失っていることを確認した上で、網を使って老人を拘束した。
身動きをとれなくしたところで、カインさんに剣を突きつけてもらい、老人をゆさぶって起こすことにする。
「起きてくださーい。おはようございまーす魔術師さん?」
どう呼びかけていいのかわからなかったので、そんな言葉になってしまったが、老人は無事に目を覚ました。
「何じゃ貴様ら!」
「貴方を捕獲した者です」
正直に答えると、カインさんが「そういう言い方は……どうなんですかね」とつぶやいていた。一方の老人は、私達の顔に見覚えがあったようだ。
「ふん、この間もわしの周囲をちょろちょろしておった奴らだな? 覚えておるぞ、あれは三日前のことじゃった。ヒヒッ」
枯れ枝みたいな魔術師は、奇妙な笑い声を漏らした。
「この老いぼれを捕まえて、魔獣を止めるつもりかいな? ヒヒヒ」
「それもありますけど。魔術師になる方法が知りたいんです。答えてくれませんか?」
私が言うと、予想外の言葉だったようで、老魔術師は一瞬だけ目をみはった。
「ほう、お前さんは若い身空で砂になって死にたいのかね? ヒヒッ」
え、魔術師になろうとしただけで、砂になって死ぬの!?
私の動揺を察したように、魔術師がにやりと小悪党みたいな顔で笑う。
「魔術師になれる者などそういないのだよ。全ては契約の石に己が耐えられるか耐えられないかでな……イッヒッヒ。たとえ師が導こうとも、ほとんどが砂になるのじゃ。まだ先の人生が長いだろう嬢ちゃんにはできまいよ。だから魔術師になろうなんて者は、もうそれ以外に生きていく道がない人間ばかりじゃ。ウヒヒ」
「石に耐えられない?」
この老人、気味の悪い笑い方をするしバカにした言い方もするけど、質問には意外と素直に答えてくれる。……捕まったから投げやりになってるのかな?
よくわからないけど、しゃべってくれるのはありがたい。
「契約の石には万物の創生に繫がる力が凝縮されておる。それを自分の身体に取り込むことで、魔術師は森羅万象の力を操れるようになるのだ、ヒヒッ」
「へー」
なるほど、この世界の魔術ってそういう原理になっているのか。ゲームでは普通に技として魔法の名前が書いてあって、それを押したら、はい魔法発動ーって感じだった。
ただ使える魔法は最初から決まっていて、使う回数で術の威力が上がるとか、キャラのレベルが上がって範囲が広がるという感じだったのだ。
「そのように巨大な力の固まり……言うなれば、太陽を飲み込むようなものだ。それに耐えられる者だけが魔術師になれる。それでも一人でそれを成せる者など皆無よ。フヒヒッ。だから魔術師は、師と一つの石を分け合うのじゃ、イヒッイヒッ……げほげほっ」
変な笑い方をしすぎたせいか、咳き込んだ魔術師を見下ろしながら、私は思考する。
「分け合うって、割るの?」
「さよう。片方の小さな石を師が、大きなカケラを弟子が取り込む。同じ石であるからして、弟子が飲み込まれないよう干渉することができるのだヒヒヒ。師のほうは既にそうやって大きなカケラを取り込んでおるからの。今更小さなカケラの力でどうこうされぬのさフッヒヒ」
ようするに、既に身体の中で炎を燃やせるようになってる師匠は、今更燃料を投下されたって平気。だけど初めて火を飲み込む弟子は、そのままだとヤケドしかねない。だから既に耐性がある師匠が片割れを飲み込むことによって、弟子側の炎をヤケドしないように抑えることができる、ということだろうか。
魔術師が師弟関係を作る真相を知って、私は納得した。
であれば、私のすべきことは一つしかない。
「では、貴方に師になってもらうよう頼むことはできますか?」
「フヒ?」
ストレートに頼まれたのが意外だったようだ。倒れていた老魔術師が目を瞬く。
「キアラさん! いくらなんでもこの男は危険です!」
カインさんにも止められた。でも時間がないのだ。できれば今すぐ魔術師になりたい。だったら、この老人に頼むしかないではないか。
しかし当の老魔術師も、ニヤニヤしながら私を止めた。
「そうだの。そこの騎士の言うとおりじゃな。無駄に死にたくないのならやめておくことじゃ。師弟関係となれば縛りが発生……いや、縛ることができるからの。イヒヒ」
「縛る?」
「弟子の魔術に干渉できるからこそ、弟子は生き残る確率を高められる。だがそれはひっくり返せば、弟子の中に取り込んだ石の力を暴走させることもできるということだ。生死を握られる覚悟があるのかね? イヒヒ」
魔術師になれたとしても、生殺与奪を握られてしまうとは。
予想外だったけれども、ある意味納得できることではあった。ゲームのキアラも、魔術師になったのなら師がいたはずだ。負け戦になっても後に引けず、逃げられなかったのは、師に強要されたのではないだろうか。
逃げても殺される。逃げなくても殺される。どちらかを選択することを苦悩した末に、最後の戦場で逃げないことを選んだのだとしたら。
「そうか、生死……」
「ま、他人に人生や生きる目的までねじ曲げられたくないのなら、魔術師になるのはやめるこったな……イッヒヒヒ」
「それは、使う魔術も」
「制限されるであろうなフヒヒ。過去には師を殺すため建物の破壊を目論んだ者が、あっさりと妨害されたこともあったらしいぞ。イッヒヒヒ。愚かなことよ」
「…………」
それじゃ、魔術師になっても意味がない。けれど私が知っている魔術師は、他には茨姫しかない。魔術師になる方法を尋ねて、曖昧な言葉で濁した彼女が、弟子にしてくれる可能性は低いだろう。
それよりも茨姫には気になることがある。話せないことがあるようだった、とレジーが言っていたのだ。もしかして彼女も師のせいで、何らかの制限がかかっているのではないだろうか?
だとしたら弟子など取ってくれない。もしくは弟子にできないだろう。
他に方法はないか。悩む私に、カインさんが恐ろしい提案をしてきた。
「魔術師になった後で、私がこの老人を殺すというのは?」
「いやカインさん。殺されるとわかってたら魔術師にさせてくれないでしょ」
効率だけ考えた血も涙もない発言に、私も思わずカインさんを止めた。
「魔術師をあなどるでない。そうなれば命をかけてお前達をみんな消滅させてくれるわ」
宣言した一瞬だけ、老魔術師の目が鋭くなる。多分本気だ。
とにかく、詰んだ。それだけはわかった。
扉が閉ざされたような気がして、気が抜けてしまったその時。
「危ない!」
カインさんが私を突き飛ばし、自分も転がるように老魔術師から逃げる。
目の前を半透明の触手がよぎった。──空クラゲだ!
刺されたら、海のクラゲ以上にまずいことになる。慌てて私も老魔術師から遠ざかった。
その間に、クラゲの他にも人が現れていた。
口元を布で覆った、旅人ふうの男が数人。彼らは老魔術師を担ぎ上げると、カインさんを牽制しながら逃げていく。魔術師は希少だから、助け出したのだろう。
担がれた老魔術師はじっと私を見つめていた。観察するような目で。
一方、カインさんはすぐさま方針を変更した。
追いかけるそぶりを見せ、旅人ふうの男の一人と切り結ぶ。そのまま魔術師のほうには目もくれず、目の前の男に猛攻をしかけて足止めし、そのまま切り伏せた。
右腕から血が舞い、男の持っていた剣が落ちる。
続けて剣の腹で頭を横殴りされた男は、その場に昏倒した。
怖いけれど、鮮やかな手並みだった。
「キアラさん、これで敵の動向がいくらかわかると思いますよ」
そのつもりで敵を捕獲したようだ。判断が素晴らしい。
「ありがとうございます。これで、また魔術師を捕獲するのも楽になります……よね」
けれど捕獲したところで、私を魔術師にしてくれるかわからない。その気持ちが、言葉の歯切れを悪くさせた。
唇を引き結ぶ私を、カインさんが慰めてくれた。
「もう少し脅しをかけたら、他の方法を聞き出せるかもしれません。気を落とさないで」
私はカインさんにうなずき、まずは捕まえた男を城へ連れ帰ることにしたのだった。
そうして城に到着すると、騒然とする城内の様子に驚いた。
皆が駆け回り、召使いのおばさん達が居館や兵舎へひっきりなしに出入りしている。
驚く私達に、通りすがりの衛兵が教えてくれた。
「あ、侍女さんに騎士様! 今日か明日には王子様が到着されるそうですよ!」
「え?」
「なんでもサレハルドと急遽交渉を行うことになったとか。それに関して話があるということで、辺境伯様が騎士様と侍女さんを探していらっしゃいましたよ」
彼の言葉に、私の頭から血の気が引いた。めまいがして、立っているのが辛くなる。やがて満面の笑みで教えてくれた衛兵が、ぎょっとした顔をした。
「侍女さん!?」
「キアラさん!」
カインさんが捕虜にした男を放り出して受け止めてくれなかったら、私はその場に倒れていたかもしれない。
レジーを救う手段を手に入れる前に、彼が来てしまうのだから。