3章 早すぎる事件の発生
その日、私達が北にある辺境伯の分家を訪ねたのは、怪しい者を捕えたという報告があったからだった。
引き取りに向かったのは、ベアトリス夫人と領内の仕事を手伝い始めたアラン。付き添いとして私や侍女さんとウェントワースさんに騎士二名、護衛のための兵士が五人という構成だった。
到着して早々に、私達は分家で捕えた者を確認した。
ぱっと見は、間違って越境してしまった狩人という感じの男だった。
頭はぼさぼさで、人らしい匂いをごまかすために獣臭のする毛皮を被っているところも、発見時に矢筒と弓を持っていたことも、別に不自然ではなかった。
しかし捕縛時には、警備の兵が近づいただけで、男は獲物を捌くナイフで攻撃してきたのだ。
捕縛してから気付いたらしいのだが、異常なことに男の周囲では何匹かの狼が死んでいた。血よりも薄い液体を吐いていた痕跡があったそうだ。
当の男は、赤い液体がうっすらと底に付着していた瓶を、いくつか持っていた。
分家は「毒物を持ち込んだ不審者を見つけた」と考え、そう連絡してきた。その時に瓶と、入っていた毒だと思われる物の色を伝えてきたので、ヴェイン辺境伯は思い出したのだ。
魔術師くずれのことを。
ただ折悪く、ヴェイン辺境伯は他の貴族の家を訪問する予定になっていた。そのためベアトリス夫人と、名代となるアランが出かけたわけだ。
到着前には、他にも魔術師くずれが出るか、その男が暴れるのではないかと警戒していたが、特に問題が起こったりはしなかった。
捕まっていた男は放心しているような有様で、何も聞き出せない代わりに暴れもしなかった。話に聞いていた瓶も受け取り、後は帰ってから詳しく調べることになっている。
仕事はほぼ終わったようなものだ。交流のために二日滞在した私達は、今日帰ることになっている。
夕方までに着くためには、早々に辞去する必要があったので、私達は朝早くから出発準備に追われた。
ベアトリス夫人が朝食を終えるまでに荷物を積み込み、その後私はベアトリス夫人の髪を結った。
侍女としての私の仕事の一つだ。
私は銀糸のような髪を、編み込みを交ぜて結い上げた上で、簪できっちりと止めた。輪ゴムがない世界なので、編み込みを作ってから結い上げて……がとても難しい。けれど努力の甲斐があって喜んでもらえた。
ベアトリス夫人は、鏡で後ろ髪の様子を見るため顔を右に向けて微笑んだ。
「でも貴方みたいな髪型のほうが、楽そうでいいわ」
「辺境伯夫人としてのお立場を考えますと、これは向かない髪型でしょうから……」
私はいつもどおり、上半分だけをまとめて、背に流していた。
エヴラール城では乗馬のために簡素なお団子の髪型か、適当に結ぶだけのベアトリス夫人としては、複雑に結われた髪は綺麗でも、面倒だと感じるらしい。
「城へ戻りましたら、この髪型をなさっても大丈夫かと思いますが」
「そうね。キアラも十六歳になったのだし、そろそろ髪を結い上げたほうがいいかもしれないわ。今度はこういう場でも、お揃いの髪型に結ったりしましょうね」
エヴラール城へ初めて来たのは十四歳だったが、それからすぐの冬には十五歳になっていた。さらに一年経ったので、私も十六歳だ。誕生日には、ありがたいことに皆に祝ってもらった。
ちなみに私よりずっと前に済ませたアランの十六歳のお祝いは、かなり盛大なものだった。跡取り息子だもんね。城下に暮らす市井の人々も招いて、酒や料理を出してお祭り騒ぎになった。
私は料理の手伝いが足りないと聞いて、隅っこで芋の皮むきを請け負っていたのだが、探しにきたアランにびっくりされた。
その後、芋の皮むきができることを過剰に気の毒がられた……。
前世でもお母さんの料理のお手伝いしてたから、包丁で芋の皮むけるんだけどな。
さて、準備ができたベアトリス夫人に付き従い、私達は館を出発した。
馬車に乗ったのは私とマイヤさん達とベアトリス夫人だ。
騎士達とアランは騎乗し、兵士達は犯罪者を入れた幌馬車と私達が乗る馬車の御者台へ。残り三人もそれぞれ馬に騎乗する。
私は馬車に揺られつつ、城に戻ったらしようと思っている仕事の優先順位について思いをめぐらせていたのだが。
「わっ!」
「……っ、何事!?」
馬車が急停車して、私は馬車の壁に頭をぶつけてしまった。痛い。
「あ、ベアトリス様!」
私が頭を押さえて呻いている間に、ベアトリス夫人が馬車から出てしまう。
「マイヤ、キアラを守ってやって! クラーラ、風狼だわ。五匹なら私達も加わればすぐに終わるでしょう!」
「承知いたしました奥様」
「ええっ!?」
驚いている間にクラーラさんまで馬車を降りてしまう。
ていうか、辺境伯夫人を戦闘に出していいの? 私なんかより守るべきだと思うんだけど。以前から騎士みたいに巡回や魔物討伐に参加してしまっているので、本人も周囲も戦闘に参加するのが当然になってしまっているのだろうか。
「でも、なんでこんなところに風狼が?」
街道周辺って人間が頻繁に通る場所だから、その匂いを嫌ってあまり風狼は出てこないはずだ。彼らが攻撃を加えてくるのは、そのテリトリーを侵した時ぐらいである。
ゲームで障害物的に遭遇することがあったので、特徴は知っている。
走る時に風をまとわせる狼達。風狼との戦いは、舞い上がる土埃のせいで視界を遮られるので厄介だ。
風狼を抑えるには、とにかく足を斬りつけて走れないようにするしかないのだが。
「って、なんか風強すぎないですか!?」
馬車は、強い風が吹き付けたようにがたがたと揺れる。
「確かにこれは……」
マイヤさんが剣の柄に手をかけた体勢のまま、眉をひそめた。
確か風狼の風って目くらまし程度だったはずだ。それが効いてしまうと、そのキャラは三ターンほど砂埃のせいで目が効かなくなる。なので一撃離脱戦法で攻撃して、見えなくなった味方はさっさと後方に下げなくてはならない。というのがゲームのセオリーだったのだが。
馬車は次第に、海の上の小船みたいにゆっさゆっさと揺らされた。
「ひえええええ!」
外がどうなっているのか知りたいが、とても窓から覗いてる余裕がない。座席にしがみつくだけで精いっぱいだ。
しかも、あきらかに生き物がぶつかったような衝撃とともに、
「いやああああ!」
「キアラさん!」
馬車が横倒しになりかけた。
私は必死の思いで、傾いたのとは反対方向の扉にぶつかっていく。間一髪。馬車の位置を戻すことができて、横倒しの危機を免れた。
けれども私は、勢いがつきすぎてそのまま外に転がり落ちてしまった。
「痛っ!」
外開きの扉だったことが災いした。またしても人がいる場で転がり落ちるという失態を犯したものの、今は恥ずかしがっている場合ではない。スカートがめくれていないのを確認したら、大人しく引っ込こもうと立ち上がった。
そこで私は──その瞬間を見てしまった。
「ベアトリス様!」
少し馬車から離れた場所で、ベアトリス夫人が風狼に足を嚙みつかれて倒れたのだ。
「母上!」
すぐにアランが駆け付けて、剣の一閃で狼を退ける。
ぎゃんと鳴いた風狼が飛びのいたものの、胴から血を流しながらも再びこちらの様子をうかがっていた。
ベアトリス夫人は痛みに顔をしかめながら立ち上がる。狼の歯でドレスも一部引き裂かれ、血にまみれていた。
「どうして……ベアトリス夫人が負傷?」
そんな筋書きはゲームにはなかった。ルアインを倒すため、アランが一時身を寄せた他領の砦から出陣する時に、領主夫人である母親と、短い会話のシーンがあった。だからベアトリス夫人は大丈夫だと思っていたのだ。
むしろ、それしかベアトリス夫人が出てこないので、こんな武闘派だとは思わなかったというか……。
でもベアトリス夫人は自ら戦うような人なのに、なぜアランの軍についていかなかったのか。国家の存亡の危機となれば、反抗後に負けたら親族の命などないも同然。後を任せて安全な場所にいても、あまり意味がないだろう。だったらベアトリス夫人は自ら従軍するはず。
「まさか、できなかった?」
負傷して、一緒に行くことができなかったから、待つ側になったのだとしたら?
ベアトリス夫人は、これ以上戦うのは不可能だという判断に至ったようで、足を引きずるようにして馬車に向かって移動し始め、アランが庇うように前に立った。
その途中で、馬車の前で呆然としていた私を見つけて、ベアトリス夫人が叫んだ。
「キアラ!? 早く馬車に!」
私は首を横に振って、近づいたベアトリス夫人に駆け寄った。
「ベアトリス様が先です!」
風狼の突風が吹きつける中、足を負傷して歩くのがやっとの夫人が倒れないよう支える。クラーラさんが私達を庇う位置についた。
他の騎士や兵士達も、馬から下りて対峙している。時折吹く突風に、騎乗したままでは対応できなかったのだろう。
彼らも、軽い負傷だけで済んでいるようだ。
馬達は荷馬車の後方にまとめられていたが、不思議と風狼達はそちらへ見向きもしなかった。
……普通は食料になる馬を狙うのに?
その動きを疑問に思ったが、ベアトリス夫人を馬車に押し込むだけで頭がいっぱいで、上手く考えがまとまらない。
「マイヤさんお願いします!」
呼びかければ、馬車に上がれない夫人を、マイヤさんが力強く引き上げてくれる。そうして私も、と手を伸ばしてくれたその時、心臓がやけに強く拍動した。
一瞬だけ息がつまるほどの変な動悸に、思わず私は振り返る。
「キアラさん!」
クラーラさんが叫びながら、私に飛びかかってきた風狼に剣を突き刺す。どっと地面に横倒しになった風狼は、痙攣しながらも私に視線を向けていた。
まさかこの風狼、私を標的にしてたの?
「キアラさん、早く馬車に!」
「はい……わっ!」
返事をして馬車に乗ろうとしたら、だん、と音を立てて馬車の屋根に風狼が一匹降り立つ。
風を巻き起こして飛び乗ったのか、吹き付ける突風で私は転び、クラーラさんも体勢をくずした。
そして風狼はまっすぐ、私めがけて飛び降りてくる。
「ちょっ……!」
どうして!? と驚くことしかできない。ほんとに私を狙ってるんだもの。
私は風狼の牙が並ぶ口を見つめながら、その場から動くことができなかった。
間一髪のところで、黒のマントと濃緑の上着の背中が私の前に立ちはだかり、飛び降りた一匹を一刀両断する。
飛び散るのは赤い血。
それをいくらか被ったウェントワースさんが、振り返って眉間に皺をよせた。
駆け付けようとしてくれたのか、アランが先ほどよりも私に近い場所にいる。荷馬車の側にいた兵士も、私をめがけて襲いかかろうとする風狼を相手に、戦ってくれている。
間違いない。風狼は私を狙っている。
でもこれじゃだめだ。風狼は身軽だ。風を巻き起こして、四方八方から飛びかかってこられる。
なのにこっちは馬車や私を守るために動けない……ん?
四方八方から狙われなければいい?
私は立ち上がった。足は震えていない。ちゃんと力が入る。
そしてクラーラさんがぎょっとする中、ドレスの裾を広がらないよう、少しでも短くなるよう結んで──走りだした。
「キアラさん!?」
「おい!」