2章 魔術師になりたいのですが
このたび、エヴラール辺境伯夫人の侍女になりました。
それにあたって、キアラ・コルディエと改名しました。
思えば私の人生って、変転しすぎかもしれない。
準爵士の娘から、伯爵令嬢になった後、子爵夫人の予定を蹴って、現在辺境伯家で侍女になったのだから。
ちなみに侍女になるにあたり、そこそこの家の娘だという背景がないといけないということで、辺境伯の遠縁の娘ということになっている。当のコルディエさんの家は、領地の南の山間にあって、のんびり羊を飼ってる小さな分家だと聞いていた。
そんな私がエヴラール領にて侍女生活を始めて、一週間が経った。
私の一日は、ベアトリス夫人にお目覚めを知らせ、ご要望にお応えして目覚めの水を差し上げた後、朝の鍛錬に送り出……そうとして、剣を素振りするベアトリス夫人の近くで庭を十周させられるところから始まる。
朝食を見守った後は、ベアトリス夫人は周辺の見回りに行くので、送り出したところでようやく私も朝食をとることができるのだ。
一週間経ってようやく慣れたけど、二日目ぐらいまでは疲労で食が進まなかったわ……。
その後、ベアトリス夫人の寝室を整えたりするのは掃除の召使いさん達の仕事なので手は出さず。暇になるかと思いきや、レジナルド王子付きの侍従さん達の交代要員として手伝いに行きます。
というか、これは私がとある要望をしたことで、レジーがそう配慮してくれるようになったのだ。
レジーの部屋を訪問すると、彼は自分が王都から連れてきた護衛の騎士を連れて、辺境伯の館の西側へと向かう。
そこは書庫になっている。
伯爵家にも教会学校にも書庫はあったが、辺境伯家のものは瀟洒でも落ち着いた雰囲気だった。飴色の木の壁と柱で支えられた吹き抜けのホールに、壁全体が書架で埋め尽くされている。
湿気ないようにか、書架の合間に所々換気のための小さな窓もあるが、基本的には木の雨戸でしっかりと閉じられていた。
明かりは中央の広いテーブルに置かれた燭台のみだ。
──調べたいことがあるの。
エヴラール辺境伯の城へ入ったその日に、私はそんな切り出し方で、レジーに辺境伯の書庫に出入りできないか相談したのだ。
実は切り出す前まで、どう説明したもんかとすごく悩んだ。
素直に「魔法のこと調べたいんだけど!」とか言ったら、なんか企んでると思われたら怖いし。かといって「この地方の魔術師について知りたいんですよ、私のライフワークで、いつかまとめた本を書こうかと思ってましてね」なんて言っても、まず信用されまい。
と、そこで思い出したのが茨姫のくれたペンダントである。
あの磨り硝子ガラスを丸めたような赤い石。なくすなと言われたものの、魔術師である茨姫が寄越したのだ。何か魔術と関わりがあるかもしれない。
なのでこれを使うことにした。
呪われた品じゃないのか調べたい、とレジーに説明したら、彼は難しい顔をして協力すると言ってくれた。茨姫の評判が良くないので、石のことを警戒してくれたのかもしれない。
おかげで石のことを調べるなら、きっと魔術関連だよね? と、そちらの文献を堂々と探すことができた。
……レジーまで参加するとは思わなかったけど。
なので、毎日のように一緒にこの書庫へ通っている。
私としては、二日に一回ぐらいのペースで図書室に寄ってくれたら十分だったんだけど、レジーは「キアラは仕事があるから、じっくり読む時間がないだろう?」と気を使ってくれたのだ。
これは、茨姫に呪われたかもしれないとか、怯えた振りをしすぎて、心配させてしまったのかもしれない。騙してごめん。でも代わりに、レジーや辺境伯が死なないようにできるか、がんばるから許して。
改めて決意しつつ、明るいとはいえない書庫の中で燭台を引き寄せてじっと本を探す。
さすがに「初めての魔術講座」とか、教科書的なものはない。だから歴史上で魔術師が出てくる本を探してまず読んだ。
だけど「その時川の水が逆巻き」とか「森が一気に火を噴くように燃え」とか、前世の聖書っぽい抽象的な話ばかりだった。歴史書だから、もっと事実に即した記述があると期待したんだけどな……。
魔術師の手記みたいなのはないかと思ったが、そんなものは都合よく見つかるはずもなく。むしろ書庫の二階部分にあった、何代か前の辺境伯の記録のほうに興味深い記述があった。
○月○日 魔術師ローファンに金十六枚。緑閃鉱を十斤。
かねてから懸念されていた樹妖の処分を依頼する。
○月○日 魔術師ローファンに金三十二枚。藍瑛鉱を三十斤。
急遽必要になった、水害防止の対策を依頼する。
近来稀にみる豪雨だった。晴れたらすぐ農村の被害を確認したい。
この辺境伯は、どうも金銭出納帳代わりに日記を付けていたようだ。
彼が統治していた時代は、魔術師が近くにいたらしい。たびたび、国境争いや災害、魔獣等の対処に手を借りていたのがわかる。日記の記述から、どうも魔術師は鉱石を必要としていたらしい。ローファンさんは依頼料の一部を鉱石として要求していたと思われる。
多分、魔術に使うような気がする。でもここに書かれている短い補足説明では、推しはかるにも材料が足りなさすぎる。加えて、魔術師の記述はほんのわずかだ。それを見つけるのも結構骨が折れる。
そして読める時間は限られていた。
「殿下、昼餐のお時間です」
静かに扉を開いて書庫に入ってきたのは、レジーの侍女メイベルさんだ。
御年五十七歳のメイベルさんは、落ち着きと頼れる感じを醸し出していて、ふくよかな体型と相まって「おばあちゃん」ぽい人だ。
メイベルさんは優しく促す。
「本日はヴェイン辺境伯様の同席はございません。急ぎ捕らえた者の検分に行かねばならないということでした」
「辺境伯が自ら? そんな大物の犯罪者って……盗賊団の首魁とか?」
本を閉じたレジーの問いに、その本を書架に戻しながらメイベルさんが首を横に振る。
「なんでも、珍しいことに魔術師くずれのようで。捕らえた村の自警団ではどう始末したらいいのかわからないようですよ」
魔術師!?
メイベルさんの話を聞いた私は、思わず立ち上がりかけた。
ぜひ会いたい! 話を聞きたい! くずれでもなんでもいい。魔術を使ったから警戒されたのなら、魔術のことについて知っているってことだ。なら、魔術師になる方法も知ってるはず。
レジーは、私が行きたそうにしていることをわかってくれたのだろう。
「それ、私がついていくことはできないかな?」
さらっとメイベルさんに要望してくれる。
しかしすげなく却下されるだろうと私は思った。なにせ彼は王子様だ。危険だから捕らえたのだろう魔術師に近づけさせたくはないに違いない。
が、とても予想外なことに、メイベルさんは一呼吸分ほど考えた末に言った。
「一応ヴェイン辺境伯様にはお伝えしてみましょう。まずは昼餐のために食堂へお移りくださいませ」
「よろしく頼むよ」
メイベルさん止めないの!? と驚きながら、私も移動する。今の私は侍女役なので。
レジーを食堂に送り届けるお伴をした後、私は使用人用の食堂になっている厨房横の部屋へ向かった。メイベルさんに私もご飯を食べてくるように言われたからだ。
魔術師に会えるかもしれない好機チャンスを逃したくないので、スープとパンを大急ぎでたいらげた。
そして気付けば、通りがかった料理人見習いの少年と、食堂の隅っこに三人で固まっていた召使いのおばちゃん達がぎょっとした顔でこっちを向いていた。
しまった、辺境伯夫人の侍女が早食いするだなんて、はしたなかったかもしれない。
今更ごまかしても仕方ないので、私はその場から逃げることにした。
「ごちそうさまでした」
まだ鍋の横に立ったままだった料理人見習いの少年に言うと、急いで食堂を出ていく。
扉を開ける前に、少年が「おいハリス、遅せぇぞ! なにぼんやりしてる!」と誰かに怒鳴られてたのが聞こえたが、彼は大丈夫だろうか。
そんな心配をしていた私だったが、よもやベアトリス夫人の侍女はみんな早食いが得意で、今回のことを見た召使いのおばさん達が「だから侍女として雇われたんだね」と妙な納得をしていたことを、知らなかった。
さて私がレジーの元へ戻った頃、メイベルさんが急ぎ足でやってきた。
ややあって、中から出てきた給仕が食事が終わったことを教えてくれたので、メイベルさんと私は食堂に入る。
立ち上がったレジーに、メイベルさんが報告した。
「残念ながら、ご同行は危険すぎるとのことで、ご遠慮願いたいと仰っておられました。ただ辺境伯はその魔術師を城の牢に入れるおつもりのようで、その際にならば殿下がご覧になることも可能だろうと」
「ありがとうメイベル。なら、辺境伯が戻ったら教えてほしいな」
「かしこまりました」
メイベルさんがおじぎするその時に、レジーの視線が私に語りかけてくる。「これでいい?」と。もちろん、私が単身ついていくのはレジーよりも許可されにくいだろう。だから、会えるのならばどんな方法でもかまわない。
うなずくとレジーは小さく微笑む。
「その時にはキアラも連れていきたいんだ。調べ物に関係しそうだから、手伝ってくれてる彼女にも見ておいてもらいたいんだよ」
「キアラも……ですか」
私も一緒と言ったことに関しては、メイベルさんも驚いたようだ。
けれど彼女はレジーの要望に沿うようにすると言ってくれる。おかげで、その時にベアトリス夫人がいたとしても、私を連れ出してくれることになった。
とりあえず打ち合わせは終わったので、レジーは迎えに来た騎士と共に中庭へ向かった。小競り合いの多い時代の王子らしく、彼は剣や乗馬の訓練を欠かさないらしい。
私はベアトリス夫人が帰る前にと、部屋の様子を確認しに行こうとした。その時、不意にメイベルさんがつぶやいた。
「殿下はよほど、貴方を信頼されているのですね」
ため息交じりの声に、私は冷や汗をかく思いで姿勢を正した。
う、これってあれかな。王子が出会って間もない、どこの馬の骨か……な私と親しくしていることを、よく思ってないってことかな。
これ以上レジーに近づかないようにと言われたらどうしようか。魔術のことが調べられなくなって、レジーを救う手段を探しにくくなってしまう。いよいよとなったら、解雇されるのを覚悟した上で、何か手がかりがありそうな茨姫の所へ突撃するしかない。
もう一つだけ、確実に魔術を学べる環境を思い出すが、それはできればやりたくない。
悩んで頭がパンクしそうになっていた私だったが、
「信じられる者が増えたことは、本当に喜ばしいと思っていますよ」
「えっ?」
メイベルさんの言葉に、思わず疑問の声を上げてしまう。するとメイベルさんは、困ったような顔をして笑った。
「貴方を疑ってはおりませんよ。殿下もうかつに危険な者を側に置かないでしょうから。貴方も子供だからこそ何のしがらみも考えることなく、ただ殿下という同じ年頃の子と仲よくなったのでしょう。殿下は今までそういったことなど望みようもないお立場だったので、嬉しく思っておりますよ」
「あの、それは王子様だからですか?」
自分を支持する家の子とだけ仲よくしなくちゃいけないとか。そういう理由だろうか。
「それもありますが、複雑な生い立ちのせいでもあります。なにせ殿下は、今の陛下にとってはご養子になりますので。お立場が複雑すぎて」
「確かに……」
レジーは、現王の兄の子供として生まれた。けれど父親である現王の兄が王太子時代に早世したため、まだ幼かった彼は、世継ぎがいなかった現王の養子となったのだ。
そして現王にはまだ子供がいない。
唯一の跡取りとなるのだから、実の息子でなくてもレジーのことを無下にしないと思ったが……そこで、レジーの「優しくない家族」のことを思い出す。
「ご家族も……配慮はしてくれないのですね」
優しくない家族ならば、レジーのことを思って、安心して付き合える相手を選別することもないだろう。
私のその一言で、メイベルさんは私が何らかの事情を知っていることを悟ったようだ。
「殿下は本当に、貴方に色々とお話になっていらっしゃるのね」
ふっと息をついたメイベルさんの肩から、力が抜けたように見えた。
そして彼女が色々と語ったのは、もしかするとメイベルさんもずっと誰かにこういう話をしたかったからなのかもしれない。
「レジナルド殿下は陛下の兄君のご子息でした。当時王太子でいらしたので、兄君がそのまま即位をしていたら、レジナルド殿下は現在の陛下よりも継承権の序列が上になっていたでしょう。けれど父上を亡くし……お母上はその後、悲しみのあまり王城から離れた別の館で静養中に行方不明となられ、殿下一人が残されました」
実の父母を失った時、レジーはわずか五歳だった。
「レジナルド殿下が幼すぎたため、先代王は次の王太子を現在の陛下に定めました。けれどあまりに先代王の殿下への庇護が厚いこと、先代王がお年にしてはご健勝なままだったので……叔父である今の陛下の立太子が取り消され、いずれレジナルド殿下を王太子にするのでは、と噂が立ちました。現在の陛下は嫉妬深い方ですから、先代王はレジナルド殿下の安全をお考えになり、レジナルド殿下を現王陛下のご養子とされたのですが……。結局この経緯から、陛下はまだ幼いレジナルド殿下を敵視することもありました」
おいおい……と私は呆れそうになる。そこまでされてもまだ「怖いんだよー」と幼児をいじめっ子扱いしたのか……。
そうして幼少期のレジーは、先代が連れていなければ誰も関わってこない、強制ぼっちの状態になりかけたとのこと。
みんな先代とは仲よくしたいけど、次の王様を無視することもできないしで(だって先代が亡くなったらご利益がなくなっちゃって、不利な状況になりかねないから)困った末に、先代がいる場所でだけ交流してくるようになったらしい。
とんでもない幼少期を過ごしたんだなと、私はレジーに同情した。
「やがて陛下も妃を娶られましたが、ルアイン王国との消耗戦を回避するための政略結婚です。王妃はもちろんこちらに歩み寄りもしませんし、今後自分が子を成した時に阻害要因になる殿下に、母として慕わせる様子もなく……」
そうしてレジーは優しくない家族とばかり関わる生活を続けていたのか。針の筵だな……。似た者同士だって雰囲気は感じていたけど、本当に恵まれてなさすぎる。
ただ王妃との婚姻でよかったこともあったらしい。
現在の陛下も、ルアインに国が乗っ取られることだけはよしとはしていなかったのだ。
そこで継承者にルアインの血を入れたら問題になると考え、レジーを継承順位一位からは変えなかった。そして貴族たちの結束を強めようと、王子との交流を勧めるようにもなり、貴族達も王妃を警戒する者はレジーの側についたようだ。
ヴェイン辺境伯は、レジーが幼い頃から変わらずに彼に配慮する数少ない貴族の一人だった。
「こちらは王姉であらせられるベアトリス様がいらっしゃいましたので。ベアトリス様は以前よりレジナルド殿下を気に掛けて下さる方。幸いアラン様との仲もよく、そのためたびたびこちらへ滞在なさるのです」
とはいえ、王太子という身の上ではそう頻繁に訪ねられるわけでもない。かといって王宮では何も考えずに年の近い子供と遊べるわけでもない。むしろ王位継承者として、大人との交流が必要になってしまったほどだった。
「貴方は貴方の身の上の関係上、全てのしがらみが断ち切られた状態なのも望ましかったのかもしれませんね。……できる限り、殿下のお味方でいてほしいと思っていますよ」
メイベルさんはそう言って話を終えた。
彼女の声音から、結構切実な気持ちなんだろうなと私は感じた。今は味方になってくれる人がいる。政治情勢がそう動いたからね。けれどその人達はみんな、情勢が変われば好き嫌いにかかわらず離れてしまうかもしれない相手だ。
……信頼できるわけがないよね。
だから枠外の私の存在を、メイベルさんも快く思ってくれたのだろう。
レジーも私がイレギュラーだからこそ、哀れに思って助けてくれたのだろうか。だとしても、その分くらいは彼に返すことができたらと思う。
そう、例えば二年後。決定的瞬間が来るのを防げなかったとしても、私は手段を探すだろう。
そのために必要な情報源は、それから一時間ほど過ぎた頃に城へ到着した。
折よくベアトリス夫人が巡回から戻り、食事と着替えを済ませてくつろぎ始めた頃だった。
メイベルさんから話を聞いたベアトリス夫人は「私も見に行こうかしら」と言うので、私は一緒に城門へと移動することになった。
万が一のことがあってはいけないと、ベアトリス夫人は離れた場所で他の侍女たちと立ち止まり、レジーも同じようにすることを約束させられたので、自由な身の私だけが城門にさらに近寄った。
万が一の場合のために警戒しているのだろう衛兵の隣にそっと立つと、なぜかぎょっとされた。侍女なんて仕事をしている人間が、わざわざ危険な相手を近くで見るために来たことに、驚かれたのだろう。
レジーにも「あまり勧めたくない」という視線を向けられたが、もし何か知りたいことへの鍵を見逃してしまったら、それこそ後悔する。
どうしても見つけ出したいのだ。魔術師になる方法を。
今か今かと待っていると、門が開かれた。
まずはウェントワースさん達騎士が二人と、色あせたマントを着た泥酔したような男を両脇から支える兵士が二人入ってきた。最後にヴェイン辺境伯と残りの騎士が入城する。
たぶん、この酔っぱらって道端で寝転がっていそうな男が、魔術師くずれなのだと思う。
正直、魔術師らしさがあまり感じられない。
短く刈った後でそのまま伸ばしたような髪は、農村を歩けば同じような人を何人か見かけるだろう普遍的なものだ。衣服も、生成りのシャツの上にくたびれた焦げ茶のジャケットやズボンを身に着けていて、町に住んでいる人間とそう変わりはない。
でも何かひどく気になる。
ずっと見ていると、なんだか胸のあたりが苦しい。どくどくと脈が速くなっていく気がする。風邪を引いて具合が悪い時に少しだけ似ていた。寒気がする。けれど頭だけはすっと冴えていくようだった。
同じ魔術師のはずなのに、茨姫にはそんなことを感じなかった。どうしてだろう。私はわけがわからないまま、気持ち悪さに耐えていた。
「魔術師といっても、あまり普通の者と変わった様子はないけれど……」
ベアトリス夫人のそんな声に気付いたのだろう、ヴェイン辺境伯がそちらを見て目を瞬いた。
「君まで見に来ていたのか。あまり楽しいものではないんだよ。それに彼は正式な魔術師ではない。放置していると周囲に迷惑をかけかねないんで連れてきたんだよ」
「それならば、城に置くのも危険では?」
「私も魔術師とは接したことがないが、大人しい魔術師くずれならば、むしろ静かな場所でそっとしておくほうがいいと先代から聞いているんだ」
二人の会話を聞いている間にも、私の胸苦しさが強まっていく。
そこに、話を聞いてやってきたらしいアランが現れた。彼は近くで見るつもりで門のすぐそばに来て、私がいることに気付いた。
「キアラ、もっと遠ざかれ。何かあってからでは遅……どうした?」
答えられないほどの異常を抱えていることに、アランが気付いたようだ。
その時、支えられて立つのがやっとだった魔術師が、急に顔を上げた。彼の視線はなぜか私にまっすぐに向けられている。なんで!?
「た、助け……ごふっ」
魔術師くずれの男は咳き込んだ。土の上に、何か黒い染みがつく……血?
脇を支えている兵士達が、ぎょっとしたように身じろぎした。
「怪我をしているの?」
「いや……だめだ。皆離れるんだ!」
辺境伯の指示どおり、兵士達は離れようとした。
魔術師は弱々しい声で訴え始める──私に向かって。
「お願いだ、助けて。このまま死にたくな……っ、ああっ!」
悲鳴を上げた魔術師は、足の力を失ってその場に倒れそうになる。側にいた兵士がとっさに支えたので倒れはしなかったが、座り込む形になった。
そうして、腕を押さえられたまま魔術師は呻き続けた。
見ていられない。怖いと思うのに、私は魔術師から目を離せなかった。
そのうちに、ぎょっとしたように兵士達が魔術師の腕から手を離した。彼の手の甲が、がん、と人体にあり得ない固い音をたてて土の上に落ちた。続いて魔術師がうつぶせに倒れる。石を落としたような音がした。
「ひっ!」
誰かが息をのんだ。
私は胸の苦しさがひどくて、その場に座り込みそうになった。けれどアランに背中を支えられる。
「お前、本当にどうしたんだ? 具合が悪いのか?」
アランは問いかけに答えられない私を、どこかへ連れていこうとした。
その前に決定的瞬間が訪れる。
魔術師の外套を突き破るように、鋭い四角錐の石が生えた。突き立った剣のように鋭い石は、次々と増えていく。
ベアトリス夫人は口元に手をあてて絶句していた。レジーは渋い表情で魔術師を見つめ、アランは言葉をなくしていたけれど、私の背を支える手がわずかに震えている。
やがて魔術師は、呻き声すら漏らさずに──砂のようにその姿が崩れた。
はたり、と中身を失ってしぼむ衣服と、ざらりと襟ぐりや袖口から流れ出る灰のような色の砂。人だったことすらもわからない状態になってしまう。
一方、私は自分の息苦しさが消え失せたのを感じた。足にもしっかりと力が入る。
けれど頭は混乱しそうだった。
どうして私の身体にまで異常が現れたのか。魔術師はなぜ私を見たのか。なぜ魔術師は今のような死に方をしたのか。魔術師はみんな……死ぬと砂になってしまうのだろうか。
私は自分が砂になってしまう姿を想像してしまう。
……さすがにちょっと気持ちが悪い。背筋がぞわっとした。
そのせいだろうか、このまま魔術師になることを目指して大丈夫なのか、本当に自分はそれでいいのか不安になってくる。
ゲームのキアラ・クレディアスが剣に刺された後、砂になるかどうかは描写されていない。ゲームの進行上、どうでもいいことだからだ。ゲームが戦闘を楽しむために描写や背景が排除されている以上、それが映像にならないからといって、真実とは限らない。
ややあって、ヴェイン辺境伯が兵士に片付けを命じ、レジー達のところへ近づく。
「あまり快いものではなかったでしょう、殿下」
「ええ。それでも機会があってよかったと思います。魔術師を見かけたことはあっても、私はほとんど関わらなかったので」
「確かにそうそう会うものではありませんからな、魔術師は。けれどおわかりでしょう……希少な存在である理由は」
ヴェイン辺境伯の言葉に、私は息をのみこむ。まさか、魔術師がみんなああいう死に方をするということなのだろうか。
「特に魔術を手に入れようとして無理をした者は、わずかながら術を操ることができても、すぐに力が枯渇するからなのか、あのように消滅してしまうことが多いようなのです」
……どうやら、全ての魔術師があんな死に方をするわけではないようだ。ちょっとだけほっとした。無理をしなければ大丈夫、ということだろうか。
「完全に魔術を操れるようになれる者自体が少ないと聞いています。けれど誰に適性があるかなどまるでわからないようですよ。だから魔術師が十人、二十人と弟子を取っても、本当に魔術師になれる者は一人か二人。しかも適性がなければ、あのように死んでしまう恐怖を乗り越えなければなりません。魔術師になれたとしても、やはり自分の力を超えるほどに術を使えば、同じように死ぬと聞いています」
レジーもアランも黙り込む。
私も同様だ。
魔術師には、もっと簡単になれるものだと思っていた。誰かに弟子入りして、レベルを上げるがごとくに修業をしたらなれるものなのだと。
けれどそうではなかった。
「だから味方をしてくれる魔術師には、敬意を払わなければならない、と私は先代辺境伯の父から教わりました。敵ならば最大級の警戒を。その身を削ってでも相手を倒そうとする者は恐ろしいのだから、と。そして不完全にしか魔術師になれなかった者は、術を使わずとも死にゆくことしかできません。力をまき散らす者であれば、遠くから射殺すか、自滅するのを待つしかありません。静かに崩壊していくだけの者ならば、せめて心を落ち着けられる場所にいれば、崩壊を先延ばしにすることはできると聞いたのですが……上手くいきませんでしたね」
ヴェイン辺境伯がため息をつく。
私は、胃の底から湧き上がる恐怖にじっと耐えていた。ゲームで魔術を使えていた以上、私に素質があるのは確かだろう。だけど今更ながらに……魔術師になることが怖くなった。
ゲームのキアラは、状況からして自分の死すら怖くはなかったのかもしれない。けれど今の私は、そこまで追い詰められていない。
今の自分にあるのは、友達を救いたいという気持ち。
けれどレジーを救うことができたら、自分が魔術師になったことは皆に知られるだろう。その後、王国を取り戻すためにきっとみんながその身を戦に投じるに違いない。私も手伝ってほしいと望まれるだろう。
味方を救うために自分の命を削るかもしれないのに、一緒に戦い続けられるだろうか。
だけど戦争は嫌だと言ってこの城に引きこもったところで、レジーが死んでしまったら後悔するだろう。
そんな悩みを抱えてしまったせいだろうか。
私は時々、ぼんやりするようになった。
身体を動かしている間はそれほどでもない。
辺境伯夫妻の仲がよさそうなやりとりや、アランの呆れたような顔、それを笑って見ているレジーの表情などを眺めている間は、穏やかな日常に浸れるので「考えるべきこと」を忘れていられた。
けれど魔術のことを調べようとすると、本の内容が頭に入ってこない。
思い出してしまうのだ。砂になって崩れた、魔術師になりそこなった人のことを。
自分がそうなってしまうのではないかと思うと、調べるのが怖い。だから穏やかな生活を実感させてくれるものに意識を向けたくなる。
同時に、自分が来るべき運命から逃れられたのだから、もしかしたら、この城も襲われない運命に変わるかもしれない。レジーだって死なないかもしれないと。それどころか、やっぱりこれはゲームなんて関係ない世界かもしれないじゃない? なんて夢みたいなことまで想像して、自分で握りつぶして絶望する。
「わかってるのに……」
思わず言葉が口をついてこぼれる。
そんなふうになんでも上手くいくわけがない。私は「先に起こる出来事」を知っていたから、逃げることができた。けれど他の人々は、この先自分に何が起こるのかなど知りようもない。
世界は本来、何もわからない闇の中を手探りで進むようなもののはずだ。
だからこそ知っている自分がどうにかしなければ、と思う。けれどそこで心が立ち止まろうとするのだ。
死にたくない、怖い、と。
あれから数日経ったこの日も、書庫で本に視線を落としながら、私はぼんやりしていたようだ。
「キアラ、具合が悪い?」
レジーに尋ねられて、はっと我に返る。
「あ、ごめん。なんかぼーっとしてたの。レジーに無理を言って調べ物させてもらってるのに、本当にごめんなさ……」
そこで私は自分の口を手で塞いだ。しまった。ぼんやりしすぎてレジーに敬語を使い忘れてる。
なので再度謝り直した。
「申し訳ありません殿下。不敬な言葉遣いでした」
するとレジーは微笑んで、首を横に振る。
「謝らなくてもいいよ。むしろ私と話す時には、そうやって対等な言葉遣いにしてほしいな」
「え? でも王子様ですから」
私は固辞したが、レジーは押しきろうとしてきた。
「お願いを聞いてくれるなら、今のことは許してあげる。だから二人の時だけでもいいから。……友達だろう?」
そう言われては断りにくい。友達だと言ってくれたのも嬉しかったので、私はつい了承してしまった。
「ところで、最近ずっと物思いにふけってるように見えるよキアラ。魔術師が死んだのを見てから、だよね?」
ぎくりとする。
と同時に、あまりにわかりやすくふさぎ込みすぎたのだろう自分が、嫌になった。せめて本当の理由を知られないよう、言葉を探した。
「……やっぱり、人が砂になってしまうっていうのは、ちょっと刺激が強すぎて」
魔術師の最期の様子にショックを受けただけ、ということにした。
私ぐらいの年齢の女の子なら、まさに悪魔と契約したからとしか思えないあの様子に、怯えたっておかしくないはず。
「そう? それにしては考え込みすぎるというか……まさか」
え、まさかって、何に気付いたの?
レジーの言葉にびくびくしていると、彼は静かに告げた。
「誰か知り合いに似ている人だった? だから余計にショックが強かったとか」
内心で盛大に息を吐きたい気持ちになった。レジーが斜め上に暴投してくれて助かった。
でも、亡くなった魔術師に似てる知り合いがいたというのは、ある一面で間違いではない。それが二年後の私だというだけで。そう考えるとレジーは鋭い。
私はごまかすためだけに「そうなのかも……」と曖昧な答えを返してうつむく。顔を見せたら、噓だとバレてしまうのではないかと思ったのだ。
しかし、私の顎に指が添えられる。
え、ちょっ、レジーが触ってるの!? と驚いている隙に、顔を彼のほうに向けられた。
いつのまにかすぐ側に来ていたレジーは、机に片手を突いて、もう片方の手で私の顎を捕らえていた。
燭台の揺らぐ光を映す、レジーの青い瞳から目が離せない。
レジーの指の感触がくすぐったくて、顔が熱をもっていくのを感じた。
でもそのせいか、レジーは疑いを消してくれたようだ。
「もう、顔色は悪くないみたいだね?」
そう言って顎から手を離してくれる。
……たまにレジーって、本当に女性慣れしているような行動をとるよね。毎回どきどきしてしまうので、困る。そんな私に、レジーは誘いかけてきた。
「でも探し物に身が入らないみたいだし、気分転換しないか? たまには外に出よう。キアラは辺境伯夫人について歩くわけじゃないから、ほとんど城の外に出ていないだろう?」
言われてみればそのとおり。エヴラール辺境伯の城に来てからというもの、私は魔術について調べることで頭がいっぱいで、用事がある時でなければ庭にすら出なかった。
確かに、日の光に当たらない生活は身体にも精神的にもよくないように思える。
うなずいた私の手を引き、レジーが書庫を出た。
「殿下、どちらへ?」
「城の外を一周したいんだ」
書庫の外で待機してくれていた黒鳶色の髪の目つきが鋭い騎士がレジーの予定を聞き、近くにいた従者が走り去る。こちらの騎士はレジーが王宮から連れてきた彼の近衛騎士だろう。紺の騎士服を着ている。
レジーと共にゆっくりと城の中を進んで廐舎に到着すると、先に知らせに走った従者のおかげで、廐舎番がレジーと先ほどの騎士のものと思われる馬を引き出してくれていた。
「キアラ、馬には乗れる?」
尋ねられて私は首を横に振る。乗ってみたいとは思っていたが、伯爵家では馬に近づかせてもくれなかった。……今思えば、逃亡防止のためだったのだろう。
そんな乗馬初心者の私は、さっと鐙に足をかけて馬上に落ち着くレジーの所作の美しさに感嘆した後、手を握られて自分も馬上に引っ張り上げられた。
意外に力強いレジーに驚きながら、鞍の前に横座りをして落ち着く。
「わ、高い」
自分の背丈より高い場所から見下ろすことになって、私は好奇心半分、高所への恐怖が半分で、落ち着かなくなる。
するとレジーがするりと私の腰に手を回して手綱をつかんだ。
「あまり身を乗り出さないで、キアラ。落っこちても知らないよ」
くすくすと笑ったレジーは、私が背筋を伸ばし直したところで馬を歩かせ始めた。
褐色の馬はゆっくりと歩いてくれたが、それでも大きく揺れた。
慌てて鞍の前側を両手で摑んだ私だったが、それでも安定しない。うっかり鞍から滑り落ちそうで怖かった。できれば横座りなんかではなく、レジーみたいに座りたいと思ったところで、レジーが私の腰に回した手に力を込めた。そのとたん、とても安定してほっとする。
「ごめん、落とさないから大丈夫だよ。ちゃんと摑んでるから安心して」
またしても笑いながらレジーに言われて、私はうなずいた。
レジーとその護衛としてついてきた騎士は、ややあって城から外へ出た。跳ね橋も濠もない城だが、その先に広がっているのは丘を包み込むような草原だ。そこを伸びているゆるい坂道をレジー達は進む。
その頃には、私もようやく騎乗することになれてきていた。揺れの受け流し方がわかってきて、周囲を見渡す余裕ができる。
やがて道は、葉を茂らせた林の中へと入っていく。
「ここの林、結構木がまばらに生えてるんだね。来た時はもっとうっそうと茂ってるような気がしたんだけど、そうでもないんだ」
独り言交じりに感想を口に出すと、レジーが応じてくれる。
「行きは馬車の中だったからね。小さな窓だけでは、景色を堪能できなかっただろう?」
「うん、なんか錯覚してたみたい。あ、林が終わる」
その向こうは、さらに緩やかな丘が平らになった大地と、畑がある。
畝だけが見える場所は、種をまいたばかりの所だろうか。丸い野菜のようなものが生っているのは、あれはキャベツ? 緑がちょぼちょぼと生えてきているのは何の畑だろう。
左右の畑に気をとられていた私は、突然にレジーが息をのんだことで我に返った。
何があったのか尋ねる間もなく、レジーは馬を反転させて走らせた。
「しがみついて!」
跳ね飛ばされそうな速度で走る馬の上で、私は無我夢中でレジーにしがみついた。落ちたら大怪我をするので、必死で恥ずかしさなど全く感じなかった。
「な、何!?」
「君の追っ手だ」
「え?」
追っ手とはどういうことだろう。けれど落とされないようにするので精いっぱいで、周囲を見ることすらできない。
ようやく馬が並足ほどに速度を落としたと思った時には、私達は林の中に戻ってきていた。
「お、追っ手? どういうこと?」
「君がここへ来る途中で追ってきた、パトリシエール伯爵の配下の人間がいた。見間違いじゃないと思う」
どうして、と私は驚く。あの直後ならまだしも、もう雷草の生える草原で遭遇してから随分経つのに。
「まさか、やっぱりアランたちと一緒にいると思って、ずっとここに張り込みしてたのかな?」
けれど、私はそうまでして捕まえて連れ戻したいほどの人間じゃないはずだ。魔術師になっていない今なら、なおさらだろう。
道の先を振り返り、レジーは「わからない」と私に答えた後で騎士と話す。
「あの先にあった小屋から出てきた男。追ってきているようだったか?」
「いえ。馬に乗っている様子はありませんでしたので、追いかけることは難しかったでしょう」
「なら、大丈夫か……」
レジーがふっと息をつく。
「もしかすると、君が私達と一緒にいたことを、どこかで聞きつけてしまったのかもしれない。それで遅れながらも、追いかけてきたのかも……。でも一か月近くも経つのに」
レジーも意外だったのだろう。渋い表情になる。
「まだ君の姿は見られなかったとは思うけど、とにかく城に戻ろう……君を連れ出すには、まだ早かったのかな。今度は周囲を探らせてからにしないと」
「えと、そこまでしなくても、城に引きこもりますから……」
「ずっとそうしているわけにはいかないだろう?」
話しながらも馬は進む。
すると、城のほうから騎乗した男性が数人やってくるのが見えた。
私は、彼らがレジーの護衛騎士だと思った。王子である彼の護衛が、追いかけてきたのだろうと。
しかし彼らは私達に近づいたところで、剣を抜き放つ。
「え……敵!?」
「グロウル! キアラは馬にしがみついて!」
レジーが騎士に呼びかけるより前に、グロウルと呼ばれた護衛騎士がレジーの前に出る。
私はレジーに押しつけられるようにして、伏せの体勢で鞍の前にしがみついた。
その状態で、視線を前に向ける。
状況を見た私は、思わずゲーム形式で理解をしようとしてしまった。
一ターンに攻撃は一回のみ。それで相手を倒せても、他三回の攻撃をグロウルさんは避けるか防御をすることしかできない。HPヒットポイントを削られないかどうか冷や冷やする。
しかも敵が一騎レジーに迫ってきた。
「ひっ!」
接近してきた一騎が、レジーに向かって剣を振りおろす。
レジーが受け止めるのと同時に、金属音が頭上で鳴った。馬にまでその震動が伝わって、恐怖で肩を縮める。
同時に馬が動いた。反転するような動きに振り落とされまいと必死になる間に、敵が落馬する。
どうやったのか知らないが、レジー、すごい!
驚いているうちに、馬が落ちた敵を踏みつけるようにして走り始める。
私はもう、そのあたりでかなり怯えきっていた。
殺されるかもしれないことも、剣を振り回されるのも、逃げるためには必要だけど相手を傷つけるのもみんな怖い。しかもそこから自力で逃れる手段を、私は持っていないのだ。できるのは、ただレジーの邪魔にならないようにすることだけ。
本当はそれも辛い。レジーに重荷を負わせてるのだから。
けれど走り出した馬は、すぐに足を止められる。
再びレジーが剣を打ち合う。しかもすぐ劣勢に追い込まれた。もう一人がレジーの左手に回り込んだからだ。
目の前の男が、結びあった剣を離し、一歩馬を引いてレジーに要求してきた。
「その娘を渡してもらおう」
やはり標的は私だったようだ。レジーはすかさず彼らに返答する。
「断る」
レジーの言葉を聞いた敵二人が、すぐに剣を構えた。
このままじゃレジーが殺されてしまう。私は慌てて彼を止めようとした。
「だ、だめだよレジー! 死んじゃったらどうするの? 私なんかを助けて……」
レジーは王子だ。世継ぎが死んだら重大な問題になる。
それにこの戦闘は、イレギュラーな代物だ。本来ならば発生するはずのない、私が学校から逃げなかったら起こらなかったはずのもの。だからレジーが死なずにいられるかわからないのに。
「私なんか、と言わないでくれキアラ」
レジーは敵を見すえながらも、私を支えるために腰に回していた手に力を込めた。
「友達だろう。死んでほしくないなら、助けるのが当たり前のことだよ」
レジーの言葉を聞いた私は、息が止まりそうな感覚に陥った。
助けるのが当たり前。
死んでほしくない。
私が呆然としている間に、敵が斬りかかってくる。再び馬にしがみつく私の頭上で、金属音が続いた。
レジーの苦しげな声に心臓が鷲摑みにされたような感覚に陥る。
けれど見上げようとしたところで、レジーに援護が入った。
グロウルさんだ。
護衛のグロウルさんが敵の前に立ちはだかり、その間にレジーは再び馬を駆けさせる。今度は前途を邪魔する者はいなかった。
助けに来られたということは、グロウルさんは先ほど戦っていた敵を倒したのだろうか。まさか振り切っただけとか? それでもまた二人の敵と戦わなければならないなんて、大丈夫なのだろうか。
別な不安に囚われ始めた頃、今度こそ助け手が現れた。
「レジー様!」
そう叫びながら馬を走らせてくるのは、城内で見たことがある騎士達三名だ。
「後ろをグロウルに任せてきた!」
レジーが叫んだその言葉だけで、彼らはすべきことを了解したようだ。一騎がレジーの側につき、他二騎が走り去る。これでグロウルさんも助かるかもしれない。レジーも無事に城まで逃げ帰れる。
ほっとした私は、気が抜けた瞬間に手から力が抜けそうになる。
でもここで落ちるわけにはいかないと、城の中までは耐えた。
けれど我慢しすぎたのか、城に着くと、今度は鞍から手が離せなくなっていた。
「キアラ、手伝ってあげるよ」
気づいたレジーが、手を添えて一本一本指を開いてくれる。
ようやく離せたものの、力を込めすぎた手が震える。レジーはそんな私を馬から抱えるように下ろしてくれた。
迷惑ばかりかけてしまっているけれど、初めて巻き込まれた剣での戦闘で、怯えきっていた私には、その手のぬくもりがありがたかった。
「殿下、お嬢さんをお運びしますか?」
一緒についてきた騎士がそう尋ねてくれたが、レジーはそれを断った。
「いや、それより辺境伯を呼んでほしい。そして周囲を捜索する必要がある。人を集めてくれるよう言ってもらえるかな」
そう伝えたレジーは、私を近い場所にあった花壇の側まで連れていってくれる。
抱えられるようにして座ってしまうと、廐舎からは、間仕切りのように植えられている低木のおかげで姿が見えなくなる。
馬からも下り、喧噪からも隔絶された場所に来て、少しずつ手の震えは止まっていった。
「どう、落ち着いた?」
「うん……ありがとう。でも、だめだよレジー」
安心してもまだ震えてしまう声で、私はレジーに言った。
「私を庇っちゃだめだよ。置いていって、レジーだけでも逃げないと。レジーは王子なんだから、私なんかより自分のことを……」
自分よりも王子であるレジーの命を優先すべきだ。そう改めて言ったら、彼に却下された。
「それは無理だよキアラ。言っただろう、友達は助けるのが当たり前だろう」
「どうして、そこまで?」
「……君以上に、私を理解してくれる人がいないと思うから」
レジーの言葉に、私は彼の言いたいことを理解する。
お互いに、理解されにくい思いを持っていたからこそ、通じ合えたと感じたあの瞬間を思い出す。
それを肯定するように、レジーは言った。
「醜い感情が付随するようなことを、聞いても受け入れてくれる人なんてそういない。嫌われたくないなら、曖昧にして誤魔化すしかないだろう? 普通はそうやって口をつぐむんだ。けど君はそれすら見通して『レジーにも優しくない家族がいるんだね』と私に言っただろう? 私はそれを聞いて、やっと息ができたような気がしたんだ」
理解してくれる相手がいる。ずっと心の奥に押し込めなくてもいい。それがとても嬉しいのだということは、私にもわかるのでうなずいた。
だから、とレジーが続ける。
「そんな君を、失いたくないと思ってはだめなのかい?」
だめだとは言えなかった。
でも自ら戦ってくれたということは、レジーに私を助けるために命をかけさせてしまった、ということだ。そうまでしてくれた人のために、どうしたら恩を返せるのか。私には、命をかけ返すぐらいのことしか思いつけない。
けれど……怖い。
「でも、私のほうは、レジーのために命をかけることができるかどうか、まだ迷ってるのに……」
申し訳なさに、思わず気持ちを吐露してしまう。
「命をかける?」
そのせいで、レジーは何かに気付いたようだ。
「どういうことだい、キアラ。君、今の言い方だと命をかけなきゃいけない事態が起こると思っているように聞こえたよ? どうしてそんなことを言うんだい?」
レジーが私の顔を覗き込むように尋ねてくる。その表情は優しげでも、目が噓をつくことを許さないという意思を感じさせた。
言い逃れができない、と感じた。隠そうとしても、レジーは納得できるまで追及してくるだろう。
その時私はふと思った。命をかけることよりも、頭がオカシイと思われるほうがマシなのではないだろうか、と。それに、一人で悩むのも苦しくてたまらなくなっていた。
「聞いて、レジー。私のこと、教会の熱心な信者とか思ってくれていい。理由は詳しく言えないけど、私が夢のような世界で知ったことを、聞いてほしいの」
「夢?」
「二年後、レジーは多分サレハルドとの交渉で国王の代理人に決まるの。その時にこの城へ来ることになる。交渉をする場所への通過点として。その時に、ルアインの軍が攻め込んでくるの」
「二年後に……ルアインが?」
レジーは理解しきれないというような、驚いた表情をしている。
彼の反応を見て怖気づきそうになったが、私はぐっとお腹に力を入れて、続きを語った。
「その時、レジーが殺されてしまうかもしれない。だけど、代理人を断ったからって無事かどうかわからないの。だからルアインと王妃の動向に気を付けて。一年後ぐらいまでには……私も覚悟が決まると思うの。レジーを守れるように。でもできないかもしれない。怖くて、だから……」
「待ってキアラ。落ち着いて。君は夢を見たの? それが二年後に、私が殺されるかもしれない夢だったんだね?」
私はうなずいた。
それと同時に、私は胃がきゅっと締まるような重苦しさを感じた。これでレジーは、私が熱心なエレミア聖教信者なんだと思ったに違いない。
エレミア聖教は熱心な信者ともなれば、司祭の夢占いが神の声のごとく語られるなど、やや非現実的な側面がある。そういった行きすぎた人間だと思われたのは確実だ。
けれどレジーの反応を知ることはできなかった。
知らせを受けたヴェイン辺境伯とウェントワースさん達がやってきたのだ。
レジーは私の代わりに事情を話し、ヴェイン辺境伯達は直ちにパトリシエール伯爵の配下を探し出すため、その場を立ち去った。入れ替わるようにレジーの護衛、グロウルさんが戻ってきて、レジーは彼とともにパトリシエール伯爵の配下について話すため、辺境伯達を追っていく。
そして私は、全てを言わなくて済んだことにほっとしていた。
しばらくして、自分で歩けるようになった私がベアトリス夫人の元へ行くと、私が襲撃された話を聞いていたらしい夫人が力強く言った。
「大丈夫、私の側にいる限りは必ず守ってあげるわ!」
どん、と胸を叩く姿が、美麗な上に迫力満点だ。
「母上がいるなら安全だろうし、城の中から出なければ問題はないと思うぞ」
これまた知らせを聞いてやってきたアランが、ベアトリス夫人に同調する。
でもちょっと待って。アランの言い方だと、辺境伯夫人が護衛の女騎士みたいな扱いなんだけども。そもそもベアトリス夫人は元は王女なのに、どうしてこんな武官みたいなことをし始めたのやら。
「私もベアトリス様のように強ければよかったのですけれど……。いつから剣を習われたのですか?」
他のことから意識を逸らすために、エヴラール辺境伯家の不思議の一つに切り込んでみる。すると、母親の部屋までやってきて戸口に立ったままのアランが答えた。
「それはな、母上は父上に……」
「ちょっとアラン、それ以上は内緒よ!」
ベアトリス夫人がソファから立ち上がってアランを止めに走る。摑みかかられてぎょっとするアランに低い声で訴えていた。
「言っちゃだめって教えたでしょう!」
「でも城の人間は皆知っておりますよ」
「どうして!?」
「いえ、むしろ隠す気あったんですか?」
二人のやりとりを見て、いいなぁ、と私は思う。
想い合っている夫婦。そして愛情で結ばれた親子の姿に、羨望の眼差しを向けてしまう。
今生ではほんと家族に恵まれてないからなぁ。でもでも、前世は普通だったんだから。
いじけた気分になっていると、アランとじゃれあいを終えたベアトリス夫人が、真面目な表情に変わって私に向き合う。
「それにしても、問答無用で襲いかかるような真似をするなんて。家出した娘を取り戻すにしても、方法というものがあると思うのだけど。これでは辺境伯家に喧嘩をしかけているようなものだわ」
「抗議はしないのですか?」
アランの問いに、ベアトリス夫人は首を横に振る。
「しても、たいした謝罪は引き出せないでしょう。むしろつけ込む隙を与えるだけよ。ここでのキアラは伯爵の養女ではなく、親族から侍女に取り立てた人間なんだもの。分家の者に危害を加えただけでは、実行した騎士達の過失で収められても文句を言えないし、逆にキアラが探している養女だと認めるようなことになってしまえば、連れていかれてしまうわ。養子とはいえ、娘にした子に睡眠薬まで使って結婚させようとした下衆ですもの。そうなったら何をするかわかったものではないでしょう」
ベアトリス夫人の言うとおりだ。
正直、パトリシエール伯爵は私に娘として接したことはほとんどない。対外的に必要だと判断された時だけだ。通常は、豪華な服を着せて同じような食事を食べさせている特別扱いの使用人、という扱いでしかなかった。
パトリシエール伯爵にとっては、飼っていた犬が意に反して逃げ出したようなものだ。見つかったら折檻は免れない。
つくづく、こうして庇ってくれるエヴラール辺境伯家に来てよかったと思う。けれど……。
レジーを守れる力を手に入れるには、わざと見つかって、戻ったほうがいいのだろうか。そんなことを考え、胸に痛みを感じて、うつむきそうになってしまう。
「でも今回のやり方では、こちらの警戒感を強めるだけになると思わなかったのでしょうか」
アランの推測にベアトリス夫人が首を傾げる。
「そうよね……」
二人の疑問に対する答えを持っている者が捕まったのは、夜も更けた頃だった。
就寝の準備をしようとしていた私の元に、ウェントワースさんが訪ねてきた。彼は辺境伯が呼んでいると言って、私を連れ出した。
最初、何も説明されなかったため、私は今日のことについて何か聞きたいことがあるのだと考えていた。なので上にショールだけを羽織って部屋を出たのだが、連れていかれたのは、館の外だ。
春とはいえまだ夜風は冷たくて、ショールを羽織っただけだった私は思わず肩をすくめた。
一体どうして外へ連れてきたのだろう。
私の不安を察したように、ウェントワースさんがぽつりと言った。
「教会学校からここへ来る道すがら、貴方を追ってきた者を探し当てました」
「え……見つけたんですか!」
今回の襲撃に確実に関わっているだろう、パトリシエール伯爵の配下を、捕まえたというのだ。それを知らせに来てくれたのかとほっとした私は、なぜ私を連れ出したのかをよく考えもしなかった。
だから安心してウェントワースさんについていった。
城塞塔に入って地下への通路へ降りる。言われたとおりに進みながら、私はどこへ行かされようとしているのかと首を傾げた。
「ウェントワースさん、ここは?」
尋ねると答えが返ってきた。
「ここは囚人を閉じ込める地下牢です。中にヴェイン様とレジナルド殿下がいらっしゃいます」
そこにはヴェイン辺境伯がいるらしい。そしてレジーもいると聞いて私は少し落ち着いた。何かあったとしても、レジーならば私に悪いようにはしないと信じられるからだ。
けれど、なぜ牢の中なのだろうか。
他に漏らしたくない話をするためか。それとも、捕まえたパトリシエール伯爵の配下の様子を私に見せたいのか。
首を傾げながら進むと、不意に自分の心臓の拍動が気になりだす。ウェントワースさんが持つ燭台のほか、壁に灯された燭台の明かりだけを頼りに、夜、地下に入るというのが、私は怖いのだろうか?
けれどようやく二人の元にたどり着いても、胸の動悸が治まらない。
「ここまで来てもらってすまないね、キアラ君」
ヴェイン辺境伯は、先ほど外から帰ってきたばかりなのか、マントを羽織り、胸甲まで身に着けた姿だった。腰には剣も佩いている。
「ごめんね、こんな夜中に」
そう言ったレジーも、きっちりと服を着てマントを羽織った姿だ。
「えと、私に何か?」
とりあえず呼ばれた案件について尋ねると、ヴェイン辺境伯が頼んできた。
「この牢の中にいるのは、昼間君も見かけた男だ。捕まえた直後から様子がおかしくなってね。先ほど落ち着いたようなので君を呼びに行かせたんだ」
辺境伯が指さすのは牢の中だ。そちらを見ようとする前に、レジーが私に忠告した。
「一度見ていると思うけど、少し……ショックを受ける姿になっていると思うから、心構えはしておいてキアラ。彼は多分、魔術師になりそこなったんだ」
なりそこなった。
そしてショックを受ける姿と聞いて、私は牢の中にいるパトリシエール伯爵の配下がどんな姿になっているのか、覚悟をしながら振り向くことができた。
その男の姿を見た瞬間、胃まで揺らすかと思うほどに、私の心臓が強く跳ねた気がした。
理由はわからない。だって男の姿は、目をそらすほどのものではなかったからだ。
あの魔術師よりも若干、穏やかなものだった。
背中が盛り上がっているけれど、突き立つような石の柱が生えているわけではない。今日の昼に見かけたときよりも、顔も体もむくんで膨れているぐらいだ。何か悪い病魔に冒されたのではないかと思うほどではあったが。
彼はぶつぶつとつぶやいていた。
あれを飲まされなければ。あれを飲んでから苦しくてたまらない。変だと思ったのだ。赤黒い飲み物など、今まで見たことがない。きっと毒だったんだ。私の口を封じるためだったのだ、そうに違いない。
延々と、どこともしれない虚空を見上げて彼は言葉を紡いでいる。
それだけで、彼の心がもう壊れているのだろうと察せられる。
自分を捕まえて過酷な環境へ連れ戻そうとした人間だ。だから同情はしないけれど……目にするのは辛い光景だ。
「彼の言うものに、何か心当たりはないかい?」
「毒とか、パトリシエール伯爵から聞いたことがあれば、教えてほしい」
ヴェイン辺境伯に続けて、レジーがそう私に問いかけてくる。
首を傾げていた私だったが、やがて牢の中の男の言葉を聞いているうちに思い出した。
──血のように赤い飲み物を口に入れられた。
私はその言葉にはっとする。
体調を崩した時に飲まされたことのある、赤い液体を思い出した。果実の汁で割ったからだと思っていた、少し暗い赤の飲み物。
最初はいつだったか。伯爵の家に連れてこられた日に、特別な日だから出したのだといわれて飲まされたのが初めてだったかもしれない。
後で私は三日ほど寝込んだ。
けれど回復したその時だけは、細かなことで私を怒るパトリシエール伯爵が、やたらと優しかったと思う。
似た色のものを飲んだ男は、魔術師くずれと同じ状態になっているらしい。ならば「それ」は、魔術師にさせるために投与していた薬だとしたら? もしパトリシエール伯爵が砂にならなかった私を見て、喜んでいたのだとしたら……私をこうまでしつこく探し、連れ帰ろうとする彼らの行動と、つじつまが合う。
でもそれだと、私はもう既に魔術師くずれと同じような状態になっているということだろうか。でも魔術なんて使えた試しもないのに?
けれど心当たりはそれしかない。ないけど……。
私はぐっと下唇を嚙みしめる。
どうしよう、言いたくない。言えば私までその液体を飲んでしまったことがバレてしまう。もし魔術師くずれと同様の状態だと思われたら、私まで牢に繫がれてしまうかもしれない。
力を暴走させて誰かを傷つけないために、我慢して、と。
それを想像してしまった私は、もう赤い液体の話など喉の奥に引っ込んでしまった。代わりに口から飛び出したのは、
「わ……わかりません。見たこと、ないです」
否定の言葉だった。それをヴェイン辺境伯は疑わなかった。
「そうか。もし心当たりがあれば、魔術師になるために必要なものに、特殊な毒でも関係しているのかと思ったのだが。実はね、この男や連れていた騎士達が入り込んだのを、我々が察知できなかった理由がわかったんだ」
ヴェイン辺境伯とて、紛争に関わりやすい土地を治めている以上、周辺の状況や不審者の出入りを警戒するために諜報員を使っているようだ。いち早くどこの国が領内の状況を探りに来たのかを察知し、情勢と合わせて、侵攻してくるのか、取引を持ち掛けてくるのかを判断するためだ。
「城下の諜報員が何人か、殺されていることがわかった。急いで別の人間を手配して監視を強化させたが、二人ほどは、この男と、男が連れていた騎士が殺したようだ。それ以外の者のうち二人が、焼け死んでいたのが見つかっている。他に燃えた物もないのに本人だけが燃えたとなれば……ということで、私はパトリシエール伯爵が魔術師を作り出す方法を編み出して、そうして魔術師になった者が我が領に入り込んでいるのではと考えていたんだ」
だからパトリシエール伯爵の側にいた私に尋ねたらしい。赤い飲み物は、もしかして魔術師を作り出す特殊な薬か毒薬ではないのか、と。
聞いていた私の舌に、ざらりとした粉の感触がよみがえっていた。
甘酸っぱいあの飲み物は、砂みたいな粉が混ざっていたのだ。混ぜた粉が溶け残ったものだとは思うが、不快だったのでよく覚えている。けれど飲み物の正体を私も知っているわけではない。だからもう一度、ヴェイン辺境伯に対して首を横に振った。
「そうか……」
「でも、パトリシエール伯爵が何らかの方法で魔術師、もしくはなりそこねを作る方法を編み出したことは確実でしょうね。でなければこの男といい、他の諜報員を殺した者といい、抱えている魔術師くずれが多すぎます」
今まで黙っていたレジーが、静かに問題を指摘した。
私も内心でレジーの言葉にうなずいていた。おそらくゲームのキアラ・クレディアスが魔術師になれた理由もそこにあるのだ。パトリシエール伯爵は、魔術師になる方法を知っているのだろう。
そしてもう一つ気付いたことがある。二年後のエヴラール攻城戦だ。
国境の向こうとはいえ、気付かないうちに至近まで進軍されていたということがあり得るだろうか。見張りや、国境の向こうに入り込んでいるだろう諜報員などが、何らかの方法で殺されていたと考えれば、つじつまが合う。
あれこれと考えていた私に、ヴェイン辺境伯は「もう戻ってもいいよ」と言ってくれる。
「夜中にすまなかったね。また何か尋ねることがあると思うので、その時は協力してもらいたい。レジナルド殿下も、今日はもうお休み下さい」
促され、私とレジーは地下牢から外へ出た。
そこにはレジーの護衛であるグロウルさんがいた。特に怪我もない様子でしゃんと立っているグロウルさんの姿に、私はほっとする。
「ご無事でなによりでした」
そう言うと、グロウルさんはちょっと驚いたように目を瞬き、小さくうなずいて「ありがとうございます」と礼を言ってくれた。
そうして私は部屋に帰ろうとした。
昼間に言いそびれてしまったので、レジーに二年後についての注意点をもっと話そうかと思っていたが、だめだ。さっきの男の話を聞いた後では……私が危険人物だと思われかねない。せめて落ち着いてから、必要なことだけを話せるようにしたい。
「じゃあレジー。私はこれで……」
「グロウル。部屋に戻る前にキアラを送るよ」
「承知いたしました」
また明日ねと言う前に、レジーがついてくることになってしまった。
初めてレジーと一緒にいて居心地の悪さを感じる。思えば、レジーといて落ち着かないってことがなかったなと、私は思う。なんでだろう?
けれどこの居心地の悪さをバカな話をして紛らわせようにも、グロウルさんが聞いてると思うと口が重くなる。
結果、何も気の利いたことが言えずに部屋の前に到着したが、レジーも何も言わなかったのでほっとする。
さて今度こそと私はレジーに言いかけた。
「じゃあレジーおやす……」
「話があるんだ。グロウルは悪いけど外で待ってて」
笑顔でそう言ったレジーが、私が半開きにしていた扉から、部屋に入ってしまう。
おおおーいレジー! 勝手に入っちゃだめ! いや、今日は襲撃されたことでベアトリス夫人からお休み命令出てたから、部屋の片付けとかはしてたけど、深夜に女の子の部屋に入っちゃうのってどうなの?
「ちょっ、レジー!」
声をかけながら私も部屋に飛び込んだものの、戸口で立ち止まる笑顔のレジーに何を言ったらいいのかと戸惑う。
「えと、もう夜も遅いし疲れたでしょう? 明日。話は明日にしましょう?」
やんわりと断りを入れたのに、レジーが無情にも私が開けたままだった扉を片手でバタンと閉めてしまう。
「え……」
レジー君や。一応私と君は成人前とはいえ思春期の男女だからして。護衛さんが見ている前で、密室に二人きりという状況だけは避けようとしたのに、これは何の真似?
わけのわからない行動をとったレジーは、私をじっと見つめてくる。