後悔の準備は中倒れ


「やりすぎだバカが。キモいわ」

「まあ……そうだよな……自覚はある」

 緩く息を吐いて見守るのは、他クラス同士の試合風景。

 球技大会が始まった体育館は相応の熱気を持って盛り上がっていて、俺たちのクラスもまず一勝をもぎ取ったところだ。

 館内は半分をネットで仕切ってコートが二面。

 反対側では女子が試合を行っていて、向こうは向こうでかしましかった。

 ギャラリーやネットぎわで男子のバスケを観戦している女子も数多く、リングにボールが触れる度に一喜一憂と騒がしい。

 そんな中、ぼんやり観戦をしている俺の隣には雑賀さいかが居て、面白半分に昨日今日の話を聞いてきていた。別にいまさら雑賀相手に隠す理由もないので、俺も弁当屋に寄ったことを口にした。

 雑賀が笑って言う悪口は、俺としてもごもっともだと思うばかり。

 今ちょうど試合真っ最中の五組女子を眺めていると、れいにスリーを決めたばかりの木下きのしたとばっちり目が合った。さっと目をらされて、自陣に走っていった。

「まあ、うん。そういうことには……なるよな」

 木下にもドン引かれて当然というか。雑賀の言う通りである。

「木下チャン、若干りょうのこと好きそうだったのにな」

「たとえどうであったにせよ……結局、いつも通りだ」

 好意は持ってくれていた。俺が木下を一般的な女子として見ていられなかった以上、あの子の好意が恋愛的なソレなのか、親愛の情なのかは判別しにくかったけれど。

 でも、誰しもそうであったように、俺がやりすぎるせいで俺への好意は一過性だ。

 分かっているさ、とけんを織り交ぜてぼんやりコートを眺めていると、ふいに隣の雑賀が呟いた。

「オレってほら、涼真のこと嫌いじゃん?」

「そうだな」

「だからまあ、普通に言うけど。流石さすがに女子の親のパート先特定して凸はヤべーよ」

「特定ってほどのことをしたわけでもないんだけどな」

 いつか木下は、本屋帰りに弁当屋に寄ると言っていた。

 別に弁当なんてどこで買おうと自由だが、帰りの電車に乗る前に弁当買うか? なんて軽い疑問があって、そのあとで彼女が普段から自炊しているという話を聞いたから、弁当屋という情報が浮いていたというだけの話だ。

「特定だろそんなもん。そうやってさらっと言えちゃうとこが余計にやべーわ。普通なら、その女子に下心持ったストーカーの所業だわ」

「なるほど……今後の参考にさせて貰う」

「……相変わらず、余計なお世話の度合いは変わってねえってわけだな?」

 小ばかにしたような雑賀の視線。

 ドリブルの音と歓声が、俺とこいつの会話を誰にも聞こえないよう隠してくれた。

「……なあ、雑賀」

「んー?」

 思っていたことを問う。

「お前、俺のことを余計なお世話だなんだって言うわりに、どうして今回のことも俺に押し付けようとしたんだ?」

「五代涼真が失敗するところが見たいから」

 返答は随分とさらっとしたものだった。

「そこまで俺のこと嫌い?」

「まー」

 雑賀はぼんやりと女子のバスケに視線をやった。釣られて見てみれば、木下と競い合うように得点を稼ぐ元気な如月きさらぎの姿もある。

 仲間だっつってんのにお互いにらみ合ってるのは本当にどうかと思うが。

「オレさー、ひとれして初日にフラれてんだよね」

「……知らなかったな」

「言ったことなかったしな?」

 いたずら成功、とばかりに口角を上げて、雑賀は続けた。

「こっぴどくフラれた翌日にさあ、お前となんかつるみ始めたじゃん? ……したら、最初からクソわいかった亜衣梨がさ、さらにどんどん可愛くなんのよ」

「……」

 シュートを決めた如月が、ドヤ顔をこっちに向けてきた。木下に鼻で笑われた。ぎゃーぎゃー言ってる。

「オレの知らない亜衣梨は、オレの知る亜衣梨よりずっと可愛くて、それって全部お前が居たからなんだよね。ぶっちゃけマジで嫉妬した」

「……へえ」

「ま、その程度の薄いリアクションだよな。そうやって〝幸せ〟になった亜衣梨を、お前はポイッと捨てたんだから」

「人聞きが悪いことを言うなよ。あいつは十分軌道に乗ったから──」

「そういうさ。下心ゼロで可愛い女の子を魅了して、欲の一つも出さずに去っていく完璧な男だから嫌いなの」

 雑賀はいっそ楽しそうに挑発的に「分かる?」と笑った。

「今回のこともそう。……いやー……オレ、ほんと知らなかったわ」

「なにが?」

「──木下チャンって、超可愛いのな」

 しみじみとした台詞せりふは本心なのだろう。ああ、俺もそう思う。

「それはそうだな」

「そのさらっとした肯定もムカつくわー」

 ははは、と笑う雑賀と一緒に見た試合。シュートが入る度に、小さく「よし」と頷いている木下は可愛かった。おさげをお団子にまとめているのも印象が違うし、やっぱり最近の木下は顔色がいからより健康的で可愛く見える。

 ていうか、髪型変えるなんてことも初めてなんじゃないか?

「こんなことなら、オレが木下チャン口説けば良かったなー」

「全然そんな気無さそうな言い方だな」

「そりゃ、オレにも出来たなんて思えねえよバーカ。どうせこれも、お前だからこうなったんだ。ほんと……ムカつくよな、五代涼真って」

 め言葉として受け取っておこうかな、なんて。雑賀の台詞をラジオ感覚で聞きながら、立てた膝にほおづえをついて、ぼんやりと試合を眺めていた。

「なあ、涼真」

「ん?」

「このあと、どうすんだ? 木下チャンも、またポイッて捨てるのか?」

「だから人聞きが悪いことを言うな」

 実際、この先どうなるかなんて俺にも分からない。当たり前だが如月と木下は違うし、きっとやりたいことや向かう先も違うだろう。

 昨日の親御さんの、俺という〝友だち〟に対する喜びようを見るに、家族関係はうまくいったと思いたいが……それがどうなったかも分からないし。

 ただ、もし全てがうまくいったとして、そのうえで雑賀の言うように〝キモい〟くらいやりすぎたというのなら、俺はまたやらかしたんだと反省して、次こそしくじらないようにしないとな……。

 俺に、実害はない。おやと違って、己の時間や身銭を切って人助けをしたわけでもない。だから、まだマシな方だ。そのはずだ。

「まあでも、そうだな。後悔する準備は出来てるよ」

「はー、キメ顔で言うことじゃねえよウザってえ」

 ひらひらと手を振る雑賀。とはいえ、そうだな。ウザいだの、キモいだの、好き勝手言ってくれはするが。思えば雑賀とは途切れることのない付き合いだ。

「なあ雑賀」

「んだよ」

 煩わし気な感情を隠そうともしない雑賀に、言う。

「俺は好きだよ。雑賀なおみちっていう、いつも俺に本音をぶつけてくれる男が」

 そう言うと、雑賀は笑顔で中指を立てた。

「うるせえよ……次の試合も勝つぞ。オレとお前が居れば、負けるわけがねえんだから」

 同時、笛が吹かれて俺たちの試合が始まった。

 立ち上がってコートへ。

 さあ、楽しい時間にしよう。

「五組対六組、開始!」

 コールとともに、試合開始。

 雑賀へのロングパスが通って、軽く得点。

 さくっとスティールして、速攻を仕掛けてまた得点。

 雑賀のリバウンドから俺に託されたボールを、適当に取り回してクラスメイトの得点。

 さらには雑賀がペイントエリアで目立ったあと、フリーの俺にパス通してきてスリー。

「おいおいオレ天才かよ」

「調子に乗るなよ雑賀。みんなのおかげだ」

「はっ、お前だって口だけだろ」

 軽口をたたきながらでも、点数を上回られることはない。

 チームを構成するクラスメイトたちも笑顔で、楽しくシュートを打っている。

 決めたり外したり外したり、程度のバランスだが、そこは相手も同じ。

 あとはもう、ディフェンスでボールを奪う、シュートを外してももう一度ボールを取る、なんてことを繰り返していればバスケは勝てる。

 練習のがあって、手首の感触も良い感じだ。

「涼真ー! ぶっ飛ばせー!!」

 ネット越しに聞こえてきた如月の声援には苦笑いで応えておく。

 ぶっ飛ばしたら俺が反則取られるんだよこのゲーム。

 仲が良いのか悪いのか、如月の隣に居た木下きのしたとも目が合った。

「あ……」

 少し驚いたように目を丸くしてから、逸らされた。

 ……ま、覚悟はしてた。

 今まで楽しかったよ、勉強も……バスケの練習も。

「──決めろ、雑賀さいか

「言われなくてもな!!」

 流石は188センチ。雑賀は俺が放り投げたボールを、つかんで直接リングに叩き込んだ。


    


「涼真と尚道は仲良いでしょ」

 何言ってんの? とばかりに如月は首をかしげた。

 まあ俺もそう思ってたんだが、雑賀は俺のことが嫌いだって言うからな。

「別に、友人関係には色んな形があるだろーし? あたしがとやかく言うことじゃないけど……りょうみたいな人間が〝普通〟の友だち作れるとも思えないしね」

 普通の友だち、か。確かにこれまでの人生で出来たためしがないというか、続いたためしがない。如月が俺に向いてないというのなら、そうなんだろう。

「ちなみにさ、如月」

「なに?」

 しゅる、と運動用に纏めていた髪を解きながら、如月は俺に目を向けた。

「お前、雑賀のことどう思う?」

「どう思うぅ?」

 視線を投げた先は、体育館のギャラリーから見下ろせる館内。楽し気に男女混合の仲良しグループでおんを取っている雑賀は、こちらに気付いた様子はない。

 ああいう、仲良い同士で集まってわいきゃいする〝普通〟の友だちは、僅かに羨ましくも思うが……向いてない、向いてないか、そうか。

「一年の頃は普通に興味なかったけど」

「けど?」

「あんたにみついてるあいつはちょっと可愛い、くらい?」

「なるほどな」

 嫌いというわけではなさそうでほっとした。

 雑賀だって、如月に嫌われていたくはないだろう。こういうのもひょっとしたら、余計なお世話なんだろうか。

「なによなるほどって。あんたにとっても尚道は、まともに話してくれる数少ないヤツなんだから大事にしなさいよ」

「そういうものか」

 俺の心配してくれていたのか。なんて言うと如月はまた怒るだろうが。

「俺はどっちかっていうと、如月と木下に仲良くなって欲しいもんだが。今日も隣で観戦してたし、ワンチャンない?」

「ない」

「ばっさりか」

 如月が木下を追い詰めるようなことはないと思っているのだけれど、でも知り合い同士が互いに嫌い合っているのはどうにかならないものかとも思うわけで。

「……ねえ、涼真」

 少しばかり思考を巡らせていると、思いつきのような呼びかけ。

 ちらっと見れば、如月きさらぎはギャラリーからコートに目を落としたままだった。

「どうした?」

「あたしとあの子、似てる?」

 あの子というのは、木下のことだろう。どうしてそんなことを聞くのかは分からないが。

「似ているところも、あるんじゃないか?」

「……そ。まあ、そうよね」

 欄干に頰杖をついて、退屈そうに毛先をいじって。何かを躊躇ためらうように、如月は言葉を探しているように見えた。

「俺に話せることなら、なんでも話すけど」

 そう言うと、俺をいちべつした如月が小ばかにしたように笑った。

「それって、あたしがちょっと迷ってるように見えるから?」

「ああ」

「……もう余計なお世話はしたくない、なんて口では言うくせに、いつまでっても他人のことばっか」

「……如月?」

 如月の視線はそのまま、俺をすり抜けて奥を見ているように細められて。

 それからニヤッと笑って、続けた。

「いつでも後悔してるんじゃないの? あたしに愚痴った時と、木下にからんでる今と、何か変わったの?」

「……変わったと言いたいんだけどな。多分、変わってないんだと思う」

 俺は努力の積み重ねで、多くの出来ないことを出来るようにしてきた。

 だからこそ、〝見ていられない〟などという理由にもならない理由で、目指すべき目標と反対の方へ逆戻りを繰り返すのは単なる甘えだと分かっているはずだ。

 もう寝ようと思っている時に、何かが気になってスマートフォンを開いてしまったりするのが愚かなように。

 成績を上げようという時に、遊びの誘いを断れずに乗ってしまうのが失敗であるように。

「愚かな自覚はある。今回はしかも分かっててやらかしたし、次はどうにかしたい」

「なるほど? じゃあ木下に手を伸ばしたのは、明確に〝失敗〟だったというわけね」

 そう言われた瞬間、脳裏にフラッシュバックするのは先ほどの試合中。

 声をかけてきた如月の隣、木下と目が合った瞬間らされたこと。

「そうだな。俺だって手を払われて傷つかないわけじゃない。ごうとくだったとしても」

「はー、あっきれた。再三言ってるけど、あんたが手ぇ伸ばした人間は一人残らず幸せになってるわよ。ムカつくことに、あんたにろくに感謝もせず」

「そう思うことだけが、唯一の救いかな」

「別に思い込みの話じゃないっつーの……でもまあ、良いわ。結局あんたは変わってないし、変える努力も実を結んでない。あんたと、あんたのお父さんと何が違うの?」

「……如月」

 確かに、如月には俺が父をうとんでいることも話していた。

 というかきっと、彼女に話していないことなど何もない。

 父親と同じだという言葉がどれほど俺に突き刺さるかは分かっているはずで、それでもなお口にしたということは、如月から見た俺は相当見ていられなかったということか。

「他人にかまけて足元をおろそかにして、挙句誰にも助けてもらえずに破滅するような愚かは、俺は犯すつもりはない。今だって別に、親父と違って身銭を切ったりしているわけでは」

「それはあんたに切るような身銭が無いからでしょ。賭けても良いわ、あたしと同じくらいお金があったら、あんたは他人のために全部使う」

「そんなことは……」

「あんたはあんたの持ってる全部を惜しまず使ってあたしと居てくれ……居た。大人になってやれることが増えても、どうせあんたは変わらないわ」

 鼻で笑って、如月は続けた。

「あんたなんか養われてるくらいがお似合いよ」

「如月」

 随分な言われようだ。だが、言い返すことも出来なかった。

 如月に養われるつもりはないとねのけるのが精いっぱいだ。

「それで、どうするの。涼真」

 す、と俺のジャージのポケットを指さして、如月は問うた。

「木下のアカウント、消すの? いつもと同じように」

「……」

 俺の友だちリストは、木下ほどではないが登録が少ない。

 それは交換した人数が少ないからではなく、絶縁を叩きつけられた相手のIDが減っていっているからだ。

 確かに言われてみれば今回も、と俺がスマートフォンを取り出したところで、

 ──声が響いた。

「わたしのアカウントを消すって、どういうことですか」

 振り返ると、そこに居た。

「木下……」

 と、今度は如月がギャラリーから俺に背を向ける。

「さて、じゃああたしは引き上げるわね」

 あまりにもさらっとしたリアクションへの違和感は、先ほどの俺の奥へ視線を投げた妙な感覚とつながって、気づく。

「……どこから聞いてた?」

 小さく問えば、一瞬口をつぐむ木下の代わりに如月が言った。

「だってあんた、その子に夢まで話したじゃない。ならもう隠すようなことないでしょ」

「お前……」

 鼻で笑う如月は、木下に目を向けて続ける。

「──昨日はちょっと言い過ぎたから、これで貸し借り無しね」

「一応……お礼は言っておきます」

 そう言って去っていく如月を、捕まえても良かったが。

 さっきは目を逸らされてしまった木下が、自分から俺のところに出向いてきている。

 そんな木下を置いていくこともできず、俺は彼女と向かい合った。

「……ごめんなさい。ほとんど聞いてました」

「如月が聞かせるつもりだったっぽいし、怒りはしないよ」

 ただ、聞かれたくなかったというだけで。

「そうですか……」

 体育館のけんそうが、嫌に響いた。

「……だいさん」

「ん?」

 優しい声色だった。

 まっすぐに、木下きのしたの瞳が俺を見つめていた。

「もし、ここで恩知らずにも、あなたに声をかけることなく今日を終えていたとしたら……二度とまともに話もできなかったのでしょうか」

「そんなことは、ないと思うけど」

 恩知らずとかも含めて、木下に非は無いのだけれど。

 人間の抱く感情に、良ししなんてないはずだ。

 しかし木下は緩く首を振って、俺の手元に視線をやった。ちゅうはんに取り出した状態のスマートフォン。アカウントを消すという話を、俺も思い出す。

「木下が、俺と話をしたいかどうかわからなかったからね」

 そっとスマートフォンを仕舞って改めて木下を見ると、彼女はうつむいていた。

「……そんなに、どうしようもない人間だと思われてたんですか」

「どうしようもないだなんて──」

「だとしたら!」

 ばっと顔を上げた彼女は、俺をにらんでいた。

「あなたは、わたしに何にも期待していないってことで合ってますか!?

「木下……?」

「勝手です! 五代さんは!」

 一歩、俺に詰め寄って。

「わたしの世界を勝手に変えて!」

 また一歩。

「わたしのことを、こんなに変えて!」

 また一歩。

「わたしは!」

 至近距離で俺を見上げて、初めて見るような怒り顔で。

「わたしは、あなたの〝いつも〟じゃない!」

 その言葉の意味が、一瞬分からなくて。俺は、少しだけ言葉に詰まった。

「わたしは、あなたがいつも助けているうちの一人でしかないなんて、嫌です!」

「……落ち着いてくれ、木下」

「これが落ち着いていられますか!」

 ぎりぎり絞り出した言葉も、上書きするような木下の一喝。

「五代さんの昔のことは、今初めて知りました。でもわたしは、わたしまで〝昔〟にされたくない。いつものこと、で終わりたくない。もう……もう」

 潤んだ瞳で見上げる木下。

 何が言いたいのか、俺には理解できないまま。

 彼女は、俺が思いもしなかったことを口にした。

「わたし、こんな状態であなたの居ないところに放り出されたら……死んじゃう……」

「木下、それは、どういう……」

「分からないんですか。分からないでしょうねっ」

 とん、と弱弱しく俺の胸をその小さな拳が殴りつけた。

 それが精いっぱいの抗議だと分かるよりも早く、彼女は言う。

「あなたのせいで、わたしの心はめちゃくちゃです。一度幸せを知ってしまったら、もうもとには戻らないんですよ」

 きゅっとその唇をんで、うつむいて。過去を思い出すように目を閉じて、それから強く首を振った。いやだ、と赤子が泣くかのように。

「あなたに声を掛けられる前のわたしは、たぶん強かったんです。あんな状態で、日々を過ごすことが出来てたんですから。でも、あなたの手を取ってしまって、わたしは……わたしは、もう、おかしくなっちゃったんです……!」

 五代さんのお礼は麻薬みたいなものなんです、と怒っていた木下の姿を思い出す。

「あなたから離れなきゃと思っただけで、足元がふらついた……何も色が見えなくなった、何もする気が起きなくなった……お母さんが、帰ってくるまで」

「……それは、昨日の」

「お母さんと、話せました。それも全部……あなたがしてくれたこと」

 ほんの僅かに、木下は下がって距離を空けた。

 熱を帯びた頰と、潤んだ瞳。感情のままに言葉をつむいだ彼女は、強く熱い吐息を一つ吐き出して、もう一度俺をきっと睨んだ。

「昨日は言えませんでした。でも、今なら言えます。聞いてください」

「あ、ああ……」

 もう何を言われるのか分からなくて、うなずくしかなかった。

 余計なことをしすぎて遠ざけられたと思ったら、彼女から出てくる言葉はどれも、俺を肯定してくれるものばかりで。

 それでいて、明らかに俺に怒っていて。やりすぎたらしいことは、分かる。でも、やりすぎたことそのものが、悪いわけではないとも言っているらしくて。

 だから、木下が一度自分の胸に手を当てて深呼吸して、何やら決意したような目をした時に、俺の方がなんの覚悟もできていなかった。

「──あなたが好きです」

 え、と俺の口だけが動いた。喉が渇き切っていたのか、声が出なかった。

「あなたに救われました。もしあなたのその優しさがやりすぎだというのなら、わたしにとっては違ったし……あなたが困っていることがあるのなら、その支えになりたいです」

 いつの間にか、睨むようだった木下の視線は、優しく目尻を下げていて。

「どうすればいいのかは、まだよく分からないけど……」

 つぶやきもまた、困りながらもなんというか、幸せそうで。

「あなたと離れたくない。それが、わたしの言えなかったことです」

「……木下の気持ちは、正直驚いたし、うれしいと思うけど」

「待ってください。その続きは、今言わないで」

 ばっと手で制されて、俺の言葉は遮られた。

「五代さんの、こんなに珍しい驚いた顔見たら、分かります。予想もしてなかったって」

 それは、確かにそうだが。小さくほほむ木下からは、余裕すら感じられた。

「だからお返事は、今はどうか待ってください。あなたに釣り合うわたしになれたと思った時、改めてお伺いに参ります」

「釣り合う……?」

「今のわたしじゃ、とてもあなたと一緒に居たいなんて言えない。だから、がましいことをするよりも離れなきゃって思った……でも、わたし、離れたくないっていうわがままを、抑えきれなかったんです」

「そんなことまで考えなくても……というか、普通はそんなこと考えないよ、木下」

 俺に告白してきた子の内、誰がそんな釣り合う釣り合わないなんて考えていただろう。

 ただワンチャン付き合えればいいと、そう博打ばくちにも似たチャレンジをしてきただけだ。

「ふふっ」

 木下は、口元に手を当てて上品に笑った。

「わたし、真面目なので」

 その一言に、肩の力が抜けてしまった。

「そう、か。そうだったな」

「はい」

 二人で、少しだけ笑い合って。木下は、熱の残る頰にそっと両手を当てて冷ますようにして、それから改めて俺を見上げた。

「五代さん。こっちにだけ、返事をください」

「なんだろう」

「あなたのこれまでのことを聞きました。色んな人を助けて、それがやりすぎだと言われて……ごうとくだとしても、傷ついたと」

「……まあそれは、単なる自省以外の意味を持たないんだけど」

「だったら、五代さん。もしこれまであなたの望む終わり方が、存在しなかったのだとしたら……」

 まっすぐに俺を見つめる木下は、今まで見た中で一番わいらしい、照れたような顔。

「わ、わたしでは対価になりませんかっ」

「えっ?」

「だ、からその。わたしを助けてくれたのは、たぶん全部うまくいったと思います!」

「……」

 ……失敗したと、思っていた。今回もまた、余計なことをしてしまったと。

 強い後悔があったわけじゃない。割と覚悟してやったことだ。雑賀さいかの言うところの、〝キモい〟くらいやりすぎた。とはいえそれで木下の中で丸く収まるならそれでいい。

 感謝なんて諦めて、いつも通りを振りぬいた。

 だから、言われて気付いた。

「……木下」

「はい」

 返事の前に、一つ聞きたかった。

「……今、困ってることはないか?」

 そう問うと、木下は緩く首を振ってから、花のような笑みを浮かべて。

「なにも。あなたのおかげで、幸せです」

「……そうか。……そっか」

 その言葉は、俺にとって何よりも報いで。だから、答えも簡単だった。

「ああ。十分すぎる対価だ。ありがとう、木下」

「はい。──わたしを幸せにしてくれたこと、後悔させませんから」

 ふへへ、と屈託なく微笑む木下は、くるっと回って、後ろ手を組んだ。

「待っててください。すぐにもう一度、頑張って目標に届いてみせます」

 その目標とはきっと、俺と釣り合うという──正直、困った目標。

「分かった、待ってる」

 気力十分の彼女には、そう答えるしかないけれど。

 困った目標には違いない。だって本音で言ってしまえば、むしろもうとっくに俺にはもったいないくらいの女だろ。