木下みなみの色彩未来


 鉄の扉が重い音を立てて開いた。

 狭い玄関に靴を脱ぎ捨てて、よろよろとテーブルの脇を抜け、自分の部屋へと歩みを進める。もう外は暗くなり始めているのに、明かりをつけることすらおっくうだった。

 ぼす、と制服のままベッドにうつ伏せに倒れ込む。

「……なに、やってるんだろ」

 えつ交じりの呟きに反応する者などおらず、ただただ無機質な壁に反響するだけ。

 逃げるように帰ってきた。あんなによくしてくれた人を、振り払うように。

「こんなやつ、嫌われちゃえばいい。恩知らずの愚か者。身の程知らずの夢なんか見て……勝手に勘違いして、浮かれて。助けられただけの、分際で」

 たまに鳴るLINEはきっと、初めてできた友達グループのもの。

 返事をしなきゃと思っているのに、身体がうまく動かなかった。

「なにを、舞い上がってたの……ばかみたい……」

 開けっ放しの部屋のドアの先には、自分が帰ってきた玄関のてっが見える。

 たとえ家の中が冷え切っていても、扉の先が色づいていた。──でもそれも全部、もらいものでしかない。全部全部もらっておいて、施してくれた相手が少し自分のことを気に入ってくれたからと調子に乗った。

 隣に居られると勘違いした。

「気づけて良かったんだ。きっと」

 枕に顔をうずめて、呟いた。相変わらず何の音もしない部屋に、その言葉も響いた。

 気づけて良かった。勘違いしていたことに。

 気づけて良かった。直接別れを告げられる前に。

 気づけて良かった。鬱陶しいなと、思われる前に。

 それとも、もう思われてしまっていたのだろうか。そうだとしてもきっとあの人は、少しも表に出さずに笑ってくれるだろうから。

『木下』

「ぅう……ぁ」

 少し考えるだけで、声が聞こえる。耳に直接響く幸せな音。

 ただ呼ばれるだけでこんなにも心が満たされていたなんて。

 それを失おうとしている今だから、余計に胸がかき乱される。

「嫌われてしまえばいい。わたしなんか。わたし、なんか……」

 スマートフォンに手を伸ばした。LINEは相変わらずにぎやかだ。

 友だちリストは多くない。すぐにその人の名前は見つけられる。

 名前をタップすれば、幾つかの選択肢が現れた。

 未練がましくトーク画面を開こうとして、凍り付く。

 メッセージを送るか、電話をするか……ブロック、するか。

 ブロックなんて機能を考えたことも使ったこともなかった。もしそんなことをしたら──否、されたとしたら。自分は、どうなってしまうんだろう。

 そんなことを思った時だった。

──ぇ?

 ぴこん、と一通のメッセージ。差出人は、想定とは全く違う人。

 トーク画面を開くと、実に二か月ぶり。


お母さん:今から帰ります。おうちにいる?


「なんで……」

 わざわざ帰ることを連絡するなんて、しばらく無かった。

 冷え切った家の中を思わず見渡す。

 母親と口をいたことすら、いつ以来だろう。

「な、なんて返そう」

 しばらく悩んで、たった一言だけ返しておいた。


みなみ :いる


 これだけのことに、どれだけ精神を疲弊させたのか。

「は─────

 大きく息を吐いて、スマートフォンを投げ出した。

「……」

 寝返りを打って、思い返すのはしばらく前のやり取り。

 高校生になってからはけんばかりだった。

 涼真の家と同じく片親。しかしみなみの家の場合は、両親の不仲が原因での離婚だった。

 別に、父親について行きたかっただとか、離婚そのものに対する不満は無い。

 ほとんど物心つく前の話だ。

 ただ、手に職つけていたわけでもない母が一人で自分を育てていることは知っていた。

 人一人を養うことがどれだけ大変なのか、体感したわけではないけれど。それでもみなみは、母親に感謝していたし、ちゃんと育てて良かった娘になりたいと思っていた。

 まじめに頑張る性格はきっとそこからだ。

 成績も努力の積み重ね。良い公立高校に入れたのだって頑張ったから。

 ただ、母から出る言葉はいつも努力の報酬にはならなかった。

『友達できた?』『学校楽しい?』『遊んでもいいのよ?』

 いつも頑張っている母親に、心配をかけないように生きてきたつもりだった。疲れた顔で私立高校でも良いと言ってくれた母親に、できることで返したつもりだった。

 なのに、頑張って出した成績に対して、返ってくる言葉は『そんなことより』で。続く言葉はさっきの、努力に関係のないものだ。

 喧嘩になった。

 したくもないのに、しつこく学校生活の〝楽しさ〟ばかりを聞かれてうるさいと振り払った。

 きっと──涼真が言うところの、みなみのあせりが見え始めたのはその頃からだ。

 休みの日はバイトをした。友達と遊びに行くといって初めてうそを吐いて。

 受け取ってもらえないと分かっているから、そのお金はめてある。いつか、自分の学費と言って突き出してやるつもりで。

 そんな攻撃的な発想で噓を吐いて頑張って、自分が間違っているのではないかと思いながら突き進んでいたあの頃のみなみは──五代涼真おせっかい男からすれば不安定に見えたのだ。

「……あ」

 鍵の開く音がした。

「ただいま!!」

 本当に久々に聞く、帰りの挨拶だった。

 仲直りをしようということなのか、どうなのか。

 反応が怖くて、みなみはおそるおそる部屋から黙って顔を出した。

「居たのね、みなみ。まだお夕飯の準備もしてないでしょう? お弁当貰ってきたから」

「あ……うん……」

 気もそぞろに頷くみなみを置いて、鼻歌まじりで手を洗い、電子レンジに弁当屋の弁当を突っ込んでいく母は随分とご機嫌だ。

 黙っているのも怖くなって、みなみは口を開いた。

「あの、お母さん」

「んー? ってちょっとあんたまだ制服じゃない! ベッドに居たの? しわになっちゃって、もーあとが大変よー?」

「いいよべつに……自分でやれるし……」

「そういう問題じゃないでしょ、まあでもそこに置いておきなさい。わたしがやっておいてあげるから!」

「……できるの?」

「失礼ね、みなみに教えたのはわたしでしょうが」

「そっか……そうだね」

 そんなことも、忘れていた。

 服の皺の伸ばし方も、取れたボタンの付け方も。得意だと言った料理も、最初は母に教えてもらったもの。忘れるくらい、ずっと一人でやっていた。

 きっと、脱ぎっぱなしで放っておけば、母はみなみの分まで洗濯も料理もやってくれただろう。喧嘩しているのに頼るのが嫌で、何から何まで意地で自分でしていただけ。

 色んなことを思い出して、久しぶりの会話に困惑して。

 怒りの熱は長続きしない。意地の張り合いが続いていただけだということもあって、みなみの内心にあるのは「もう喧嘩にならなければいいな」という淡い希望。

 ただ思うこととは裏腹に、口を突いて出るのは一番の疑念。

「……機嫌、いいね。どうしたの」

「ふふふふふふ」

「……お母さん?」

 お弁当を取り出す母は、みなみの顔を見て意味ありげに笑うだけ。

 そんなリアクションをされても困るだけだ。棒立ちのままのみなみをよそに、温め終わった弁当をテーブルに並べる母は笑った。

「パートの最中に来たみなみの友達に、色々聞いたの!」

「えっ……誰……」

「制服だからすぐに気づいたのよ。からあげ弁当二つ買ってったわよ」

「それだけじゃ分かるわけないでしょ!」

「あらほんと? ほんとに分からないの? それならそれで、やるわねみなみ」

「だからどういうこと!?

 からかう声が随分と明るいのはきっと、学校の様子を色々聞きだそうとしていた頃からしたかった会話の類だから。

 楽しそうな笑みと一緒に、母は言った。

「男子の友達がたくさんいるってことでしょ? 心当たり多すぎ? 罪な女してるのね」

「……男、子?」

「そ。同じ高校の」

………………ぁ

 そんな人に心当たりなんて、一つしかなかった。

「ちょうどお客さん他に誰も居なかったから、パート中だったけどつい色々聞いちゃったのよ。けい調ちょう高校の二年生でしょ? って。随分かっこいい子だったし」

「……うん」

「そしたらみなみのこと知ってるんだもの。みなみ、学校でもすごく楽しそうだって言うんだもん、みなみの口からも聞きたかったのにー!!」

「……うん、そうだね」

 からかいついでにつつかれて、みなみはされるがままにうなずいた。

 こぼれそうになる涙をこらえながら、胸の内にじんわりとしみこんでいく熱を耐えて。

「みなみに謝らなきゃって、ずっと思ってたんだけど」

「え……?」

 何をされるのか、一瞬分からなかった。ただ、包み込むようなぬくもりに、自分が抱きしめられていることに気付いた。

「お、母さん?」

「ごめんね。わたしはただ、みなみに普通の女の子で居てほしかっただけ。苦労している家だから自分の時間とかお金とかを我慢しても仕方ないなんて、そんなことを当たり前にしてほしくなかったの。わたしは、高校生活がとっても楽しかったから」

「……おかあさん」

 ぎゅっと、思わず抱きしめ返してしまった。

 久しぶりに感じる温かさ。家の中で、一番親しいはずの人とろくに話せなかった過去。

「怒られちゃったの、わたし」

「へ……?」

 ぽつりとつぶやいて、母は目を閉じてみなみの頭をぎゅっと自分に押し付けた。

 思い起こすのは、その青年との会話。

『みなみの友達になってくれて、ありがとね! お弁当サービスしちゃおうかしら』

『ああいえ、お構いなく。……でも、そうですね。一つだけ、良いでしょうか』

『あら、なあに?』

『みなみさんには助けられたので……お母さんにも、みなみさんが頑張っていることは、認めてあげてほしいんです。少しだけ……寂しそうだったので』

 その時の優しい青年のほほみを静かに想起して顔をあげれば、そこには困惑した顔のまなむすめが居る。しばらくまともに見ていなかった分、随分成長したようにも感じられて。

「……みなみが頑張ってるのは、認めてあげてほしいって。あなたに勉強でお世話になったからって、そう言ってたから」

「……ぁ」

「本当にごめんね。頑張ってるのは知ってたの。知ってたけど、それは学校で大事なことじゃないって思っちゃってたから。それより十代を楽しんでほしいってばっかりで。わたしがみなみに、押し付けてばっかりだったね。ごめんね」

「……ぅ、ぁぁ……

 欲しかった言葉は、全部そこにあった。

 頑張っていたことを認めてくれた。どうしてすれ違ってしまったのかを知れた。どうして母がみなみの持っていないものを求めていたのかも分かった。

 苦いもの、つらいもの、苦しいもの。全部が全部、溶けて消えた。

「もう、いつまでっても泣き虫なんだから」

「ごめん……ごめんね、お母さん……」

「あなたが謝ることなんて、何もないわ」

 強く、強く抱きしめられて。母の肩越しに見える部屋に、みなみは潤んだ目を見開く。

「──っ」

 玄関を出れば色鮮やかな世界だった。そう思っていた。でも、気づけばこの家の中もまた、きちんと一つ一つが色づいて見えて。

「……お母さん、あのね」

「ん?」

 すん、と鼻を鳴らしたみなみの小さな一言。先ほどまではどんな言葉もただ響くだけだった部屋に、こんな小声でも反応がある──ただそれだけでもうれしくて。

 その一つ一つの胸の温まる幸せの欠片かけらが、どうして手に入ったのかを考えるだけで……言わずにいられなかった。

 どうしていいか、一人では分からなかった。友達の誰にも相談できなかった。

「友だちが、できたの。……初めて」

「……そう」

「学校で、お話ができたの」

「そう」

「誘われて、初めて誰かと一緒に勉強した」

「そう」

 母のあいづちは優しかった。

 言葉をつむぐたび苦しくなる胸を、その声が和らげてくれた。

「楽しかった……」

「そうね。うん、楽しいと思うわ」

「でも」

 えつ交じりに顔を上げた。

 口の端が引きつって、うまく口角を上げることもできない。無理やりに動かそうとするたびに表情のこわりが邪魔をする。泣きっぱなしの真っ赤な目元は、ようやく潤んだ視界に母を捉えて訴えた。

「でも……わたし、その人に返せるものがなにもない……!!

「みなみ……」

 悔しさを言葉に乗せて吐き出した。こもった感情と力は強く、母はそっとみなみの頭をでつけて微笑む。

「友だちに、返すも返さないもないと思うけど……」

 そのつぶやきには、ただ首を振ることでみなみは応えた。

 きっとそれだけで、みなみの気持ちが母には分かった。なんだったら、今日弁当屋で出会った彼を思い出せばそれだけで事足りた。

 勉強を教えてもらったと、彼は言っていた。

 初めて誰かと一緒に勉強したと、みなみは幸せそうに口にした。

 ならもう、それが答えではないか。

「違うのね。友だちじゃあ、ないのね」

 しばらくの沈黙。その終わりに、れた声でみなみは呟く。

「友だちが、良かった」

 友だちなら、良かった。

 大事な思い出のページをめくるうち、だんだんと見えてくる己の感情。

 大好きな人と一緒に居られるだけで幸せだった。それが友だちというくくりで満足できていれば、きっとそれが一番〝正しかった〟。

 友だちなら、何人いたっていい。どんなつながりでもいい。

 だけど。

「ずっと一緒に居たいのに……わたしなんかじゃ、釣り合わないの……!」

「そう、言われた?」

 その母の問いにもまた、ふるふると首を振って否定した。

 そんなこと、あの人が言うはずない。でもだからこそ、胸の内で思われることすら怖い。もしもあの人に好きな人ができたときほんの少しでも、邪魔だなと思われたりしたら。

「わたしもう……生きていけない……」

「ばかね」

 ぽん、と。半ば小突くくらいの強さで頭に手を置いて、みなみをぎゅっと自分の胸に引き寄せて、母は薄く笑みを浮かべた。青春を楽しんでほしいとは思っていたし、恋の経験もしてほしかったけれど……自分よりもずっと重く苦しく、情熱的な学校生活らしいと。

「ねえ、みなみ」

 恋した人と、釣り合わない自分。なのに求めてしまう己の慕情を止められない。

 嫌われたくない。鬱陶しいとも思われたくない。離れるのが一番なのに、それだってただの恩知らず。

 ならきっと、本当にほしいものは。

「その人を好きになる資格が欲しいのね」

 そんなものは、無いけれど。存在しないものを欲しがるのもまた、思春期の熱だと思い返して母は笑った。

 好きになる資格。好きでいていい権利。その人と釣り合う証明書。

 重ねて、そんなものは存在しない。でも。

「みなみは昔から、目標を全部かなえてきたと思わない?」

ぇ……?

「わたしが気付けなかっただけで、公立の学校に入るって目標も成績を良くするっていう目標も、わたしの知らないところで、自分で何かを目指して頑張ってきたんじゃない?」

「……それは」

 問われて思い出すのは、母の言うところの努力の軌跡と、それから。

『自分の目的に真摯な人が、たぶん……俺は好きなんじゃないかな』

 そんな──初めて幸せをかみしめた日のこと。あの日、あの人の近くに居ても良いんだと、自分で自分を認められた気がした。

 たぶん、それはある種の、〝近くに居て良い資格〟なのだ。

「みなみは頑張り屋さんだから。きっと、こうするって目標さえあれば、頑張れる」

「お母さん……わたし、どうすれば」

「簡単よ」

 微笑んで、涙の痕が残るみなみの頰をそっと撫でて。

「どうすれば良いかは、いっそ教えてもらいなさい。馬鹿正直に、正面から」

 そして、と母は続けた。

「そして──それができたら貰えるんじゃない? ほしいもの」

 みなみの目が、見開かれる。

「……え?」

「今のあなたの目標はなに? 正直に言いなさい。友だちになること? なにかを返すこと? それとも今すっきりする方法?」

「違う……」

 うそ偽りのない、目標。

 好きになる資格。好きでいていい権利。その人と釣り合う証明書。

 それらが欲しい理由はきっと──。

だいさんと一緒に居ても……大丈夫なわたしになりたい……」

 呟かれたのは、磨き上げられた本心。

 隣合って笑える自分。大事にされる理由のある中身。恩を授かるだけじゃない、あの人にとって必要な存在。釣り合う、相手。

 それこそが、〝一緒に居ても大丈夫なわたし〟だから。

「そう。……みなみなら出来るわ。あなたは、まじめで、頑張り屋さんなんだから」

「お、母さん……」

 うん、と小さく、それでいて力強くうなずいた。

 母は笑って、みなみをそっと撫でて言った。

「五代くんって言うのね。覚えとこ」

「お母さん!!!」

 嗄れかけた声で怒鳴った。喉の奥が痛かった。

 でも──久しぶりに笑い合った。

 かみしめた幸せから、逃げる自分はもう終わり。

 もう、泣き言も迷いもなかった。