木下みなみの色彩世界


 ──最近、世界が色づいて見える。

 それは偽りのない、木下みなみという少女の本心だった。

 では過去は世界がモノクロに見えていたのかと言えば、そういうわけでもないけれど。

 ただ、空を見てれいだと思ったり、道行く楽しそうな人を見て自分も少し楽しくなったり、目を閉じた時に今日のことを思い出して笑えたり。そうした小さな幸せに気付けるというのはきっと、心身ともに健やかな人間にのみ許されたぜいたくなのだ。

 木下みなみは例えるなら、捨てられて雨露にさらされていたところに、初めての温かいスープを与えられた子猫のような、そんな心境にあったのだろう。

「……楽しかった、な」

 ふと口を突いて出た台詞せりふ

 シャワーを浴びて、思い返す今日のこと。

 からかわれたり、大変だったりもしたけれど、今日の記憶というフォルダには自分と目を合わせた相手が笑いかけてくれている光景ばかり。

 ほんのひと月ほど前には考えられなかった、色彩世界。

「……ご飯作ろ」

 時刻は21時を回り、家には一人。慣れた日々。

 妙に寂しさを感じてしまうのはむしろ、この玄関を飛び出した先にある世界が色づきすぎてしまった反動だ。だからこれ以上は望みすぎ。これくらいがちょうどいい釣り合い。

 心を強く押し殺して、冷蔵庫の中の余り物を探す。

 軽く作れるレシピをいくつか思いついて、自然な手つきで調理に移る。

 今日の夕飯と、明日あしたのお弁当。それから──食べてくれるかは分からない、パートから帰ってくる母親の分。

 朝起きて、残っていたら自分の朝食にすればいいだけだ。

 そう言い聞かせて鍋を振ると、気づけば料理ができているのがいつものこと。

 無心で作れば、意識の戻った時には出来ているはず。

 少し前まではそうだったのに、最近はこういう一人の時間がやけに長い。長く感じてしまう理由は、もちろん心あたりばっかりだ。

 かといって独りが長い少女には友達に連絡して時間を潰すなどという発想もなかった。LINEはあくまで、連絡のためのツール。

 母親とのトーク画面は、二か月くらい前から動かないまま。

「……ふぅ」

 ぴこん、と通知が鳴って顔を上げた。自分の食事を狭いテーブルに並べて、誰に聞こえるでもない「いただきます」をつぶやいたところ。行儀が悪いと自覚しつつも手を伸ばしたスマートフォンは、次から次へとぴこんぴこんと鳴動した。

「うわわわわわ」


 たちかわ :みなみー、スマホ見てなかったー?

ももせ :招待しても全然反応しないから勝手に入れたよー?

あきな :てか今日言い忘れたあたしが悪いんだけど

 立川 :それなー


 次から次へと飛んでくるのは、見知った少女たちとのグループ通知。

 何事かと慌ててスマートフォンを取り落としかけたみなみは、彼女らの会話に必死で記憶をさかのぼる。そういえば、グループの招待をかけるとかなんとか。


みなみ :すみません、全然見てなくて

あきな :今日帰ってからなにしてたん

みなみ :球技大会の練習をしてました

ももせ :え、ガチじゃん……

 立川 :やばーw

ももせ :一人で?


「食べる暇がない……!」

 気が向いた時に返せばいい、などという常識が欠けた少女の末路が、どんどん冷めていく料理を目の前にスマートフォンをフリックし続けるこの惨状。


みなみ :いえ

ももせ :でもみなみ他に友達いないよね

あきな :見え見えのを張るでない


「……どうしよう」

 自分なんかが五代りょうと放課後一緒に居たと言っていいものか、しゅんじゅんするみなみ。彼がどれだけ人気者で、自分がどれだけ日陰者かくらいは認識している。

 涼真と一緒に居られるのは自分に利用価値があるからで、それは例えば少しは頼られるくらいの学業と、こちらから押し付けがましく誘ったバスケ練習。

 それを、鬼の首を取ったように「五代涼真と二人で遊んだ」などと口に出来るようなつらの皮の厚さは木下みなみには存在しなかった。

「というか、冷静に考えたら五代さんと二人……わたしなんかが……」

 冷静にならないように必死だったとも言える。

 多大な恩があって、それを返すのに一生懸命だったとも言う。

 ただどちらにしたって、二人きりだったことは否定のしようがない。

 それをデートだなんだと舞い上がれるほど己に自信が無いことが、変にプラスに働いていたから今までなんとかなっていただけ。


みなみ :すみませんでした

ももせ:えぇ……?

 立川 :ほんとうに見栄だった……

あきな :いやでもえらいよ

あきな :わざわざ球技大会のために練習とかしないしない

みなみ :しませんか?

あきな :普通しないでしょ

 立川 :みなみが寂しいなら付き合うよー

ももせ :あ、あたしも行くー

みなみ :ありがとうございます


「……なんだろう、この罪悪感みたいな痛み」

 果たしてここでこう言っておくのが正解だったのか、自分でも分からなかった。

 め事になったかもしれないし、ならなかったかもしれない。

 特にこの〝あきな〟という少女は一年生の頃から涼真のことが好きだという。

『好きとは言っても観賞用だけど』

 と、よく分からないことも言っていたが、変に関係に亀裂を入れていたかもしれない。

 初めて手に入れた友人関係に崩壊のきざしなどごめんだった。


ももせ :っつってバスケなの、みなみとだけじゃね。あたしサッカー

あきな :そだね

ももせ :解散!!


 楽しい友人たちのやり取りに、思わず頰を緩ませて。それから小さく首を振った。

 やっぱり黙っていて正解だ。ここで正直に口にしたところで、なんというか意味がない。別に、亜希奈から涼真を奪いたいわけでもない。

 奪えるとも思っていないし、まず奪う奪わないという発想が木下きのしたみなみには存在しない。そもそも自分のような人間が涼真にこれ以上迷惑をかけるのががましい。

 自分とうわさになるなどと、想像するだけで恐ろしかった。

「……っ」

 きゅ、と唇をむ。「お前のせいで面倒なことになった」と涼真に言われると想像するだけで、実際に言われたわけでもないのに視界が潤んだ。

 気づかず力んでしまったスマートフォンで続く楽しそうなやり取りも、果たして誰が与えてくれたものだっただろうか。

『何か困ってることがあったら連絡くれる程度でもいいから』

 書店で会った時、そんな風に言ってくれた。

 埋め合わせと称して一緒に行ったフードコートは人生で一番楽しい勉強だったし、それこそ世界が明るくなったのはあの日からだ。

 でも、それなりに自分が勉強できたからこそ誘われたイベントであるし、バスケの練習だって、たまたま経験者だから涼真の役に立つことができて、それで生まれた時間。

 ここまで、偶然自分に利用価値があっただけ。

「だから二人でも平気だったし、だいさんもなんとも思ってない。そうでしょ、わたし」

 たとえ明日から二度と話ができなくなったとしても、このひと月の思い出だけを大事にして一生生きていけるくらいのものをもらったんだ──とそこまで己に言い聞かせようとして、からんとスプーンが皿に落ちた。

「あ、いけない……」

 ぼうっとしてしまっていた、と己を律して一呼吸。

「でも、なにも、二度と話ができないと決まったわけではないし……たとえ話だし……」

 そう口にすると、胸の内が軽くなった。一瞬でせた食欲も戻ってきた。


みなみ :そういえば

みなみ :運動できて、わいい服ってありますか


 隠しきれない欲がこぼれて、め息を一つ。

 誰にも聞こえないからと、あさましい己に毒を吐いた。

「……欲張り」

 今がきっと、十分以上に人生で一番幸せなのに。

 そう自分を客観視できるくらいには、木下みなみは自己肯定感の低い少女だった。


    


 学校へ向かうみなみの足取りも、いつかと比べて随分軽くなったものだ。

「おはようございます」

「はよーっす」

「はろはろー」

「今日もまじめだねー」

 義務だと思っていた挨拶に、好意的な返事がある。

 それだけで、知らない世界に来たようだと思う。

 お昼になれば一緒に食べようと誘いがあって。

 見ていて不愉快な光景も、随分と減った。

「ではここで一つばなしを」

 百均の扇子を片手に机にのぼろうとした雑賀さいかを、隣に居た少女が押しとめた。

「また木下チャンが怒るよー? ねえ?」

 そう言ってみなみに目を向ける彼女は、昨日こうの席の話で揉めた相手。

 しかし、そんな風に話題を振られれば、みなみだって毒気を抜かれるというものだ。

「え、あ……そう、ですね。出来れば避けて貰えれば」

「へいへい。椅子でも並べっか」

 自分のと、そのクラスメイトの女子のもの。二つを並べて、その上にあぐらをいて座る雑賀。それなら特に、みなみから言うことはない。

「風紀委員チェック通ったぞー!」

 おー、と周囲から拍手。まるで自分が審査員か何かのようだ。

「いや、あの……いいんですけど」

 とはいえ、確かに風紀委員のあるべきはこうした監査役である。

 本来はこうして処理するものであって、今までの自分がダメだった。

 そう自覚せざるを得ない時に、改めて思い返すのは涼真の言葉。料理人となった賢者の忠告を聞いた王様の話。

 人間は感情の生き物で、時折何が正しいかより誰の意見かを重視する。

 木下みなみという少女が、クラスの中で得た立ち位置が現状を作っているのだと、改めて実感するのだった。

「なんか最近木下、明るくなった?」

「えっ……どうでしょうか」

 担任の先生にそう言われた時は、思わず一言目で濁してしまったけれど。

 改めて自分の今を思い返せば、一目瞭然だ。

「……いえ、たぶん、そうなんだと思います。わたしの中の、何かを曲げたわけではないのに……景色がずいぶんと変わりましたから」

「そっか。……はあ、担任失格だな俺ぁ」

「先生?」

「ああいや、こっちの話。これからも頑張れよ、木下」

「は、はい……」

 担任の先生も、みなみへの対応が少し変わった。腫物を扱うようなソレから、まじめな少女に対する激励に。

「わたしが、間違ってたわけじゃないんだ。……でも」

 そっと胸に手を当てれば思い出す、今までと今。

 みなみの信じるものが変わったわけではない。かといって周りが変わったわけでもない。みなみの悩みを聞いて、簡単に原因を突き止めた人が掛けた、魔法。

「まだ何か、返せるものがあればいいな」

 ささやかな期待を胸に、歩く。

 楽しい時が過ぎるのは早いもので、あっという間に夕日が顔を出す放課後だ。

 今日のこれからの予定を決めているわけではなかったが、淡い期待は胸にあった。

 球技大会まではきっとりょうも、時間の許す限り練習はしたいだろうと。

 自分に利用価値がある今ならまだ、あの楽しいひと時を過ごす権利はあるのではないか。

 そんな風に思いスマートフォンを取り出そうとしてふと気づいた。

「あれ」

 かばんのどこにもない。夏服になった今、上着のポケットのようなちょうどいい入れ場所もないのだから、鞄にないのならどこかに忘れたのだ。

 とりあえず教室に戻ろうとして廊下を早足で歩む。

 と、タイミングのいいことに涼真の声が聞こえてきた。誰かと話しているのなら、そのあとでも良いから少し話が出来ればいい。

 そう、知らずのうちにさらに歩みの速度を早めて──。

「──で、涼真。木下チャンとは最近どうよ」

 ぴたっと、足を止めてしまった。自分の名前が出たこともそうだし、向き合っている雑賀のことも、みなみは少し苦手だった。

 注意をするのが義務であっても、怖い相手は怖い。彼女が雑賀のような不良じみた生徒にも向かっていくのは、勇気があるからでも恐怖心がないからでもない。

 恐怖と葛藤してでも、義務感と使命感を優先してしまう少女だからだ。

「あ、そーそー! 涼真くんってば最近、木下さんと仲良いってほんとー?」

 どうやら雑賀以外にも何人かいるらしい。だいたいが雑賀の周囲のメンバーだと察しがつくと、余計に入りづらかった。

 とはいえどうして隠れてしまったのかも、自分でよく分からない。ただ、立ち聞きなど良くないと分かっているのに、足が廊下のかべぎわに根を張ってしまった。

「向こうが仲良しと思っているかは分からないけど、会う頻度が高いのは事実だな」

 数人の追及に対して、涼真の答えはさらっとしたものだ。

 ずるいだのなんだのと言われていて、少しみなみはうつむいた。

 相手はみんなの五代涼真だ、確かにずるいと言われてしまっても仕方がない。

 特に、自分のような日陰者が二人で一緒に居るのだからと、ほんの僅かに唇を嚙んだ。

「思ったより入れ込んでんじゃねえの? 昨日の件と言い」

「え、昨日も一緒になんかしてたん? えー、ちょっと木下さん妬むわー」

 恐れては、いたのだ。そう言われるかもしれないと。

 なのに、未練がましく居心地のいいぬるま湯に居続けた。何を言われてもおかしくないと覚悟していたつもりで、その実こうして勝手に傷つく己が情けない。

「ああ、少し付き合って貰ってね。俺も助かったんだ」

「へー。なになにー?」

「別に伏せるほどのことでもないよ。ほら、球技大会があるだろ?」

「え、木下さんバスケ出来んの? 涼真くんバスケだよね?」

「ああ。木下がバスケできるの意外だよな。俺も少し驚いたよ」

 軽く笑った涼真に、驚く女子。

 涼真自身がみなみを迷惑がっていない台詞せりふに、ほんの少しだけあんする。でも。

「──でも、五代さんは人の悪口を言うような人じゃない」

 ぽつりとつぶやいて慌てて口を塞いだ。幸い、気づかれてはいないようだった。

「俺が意外なのは木下きのしたチャンじゃなくて涼真の方だけどな」

「ん?」

「お前、何か自分でやる時に誰か誘うような人間だっけ? なんかの練習とか、勉強にしたって全部一人でやるじゃん」

 え、と思わず声が漏れそうになった。

 だとしたら、今からもまた誘おうとしていた自分はとんだはためいわくな邪魔者ではないか。

「言われてみれば、確かに。俺、木下のことは勉強にも誘ってたな」

「ああ……木下のおかげで満点が取れたとかバケモンみてえなこと言ってたやつか」

 雑賀に半眼であきれられた涼真は、自分でも理解できないと言った風に少し思案した。

 それからしばらくして、「ああ」とつぶやく。

「なんで俺、木下のことは誘ってたんだろうって考えたんだけど」

「心配だったとかー? なんか木下さんのこと疲れてそうとか言ってたっけー」

 女子生徒の零した言葉が、みなみの知る涼真の動機だった。

 ほとほと迷惑をかけ倒して、どう恩を返せばいいのか分からない現状の元凶。元凶というには温かすぎる、どうにもならない強敵。

 ただ、その問いに緩く涼真は首を振った。

「木下ってさ。頑張ってる子なんだよ」

 その言葉に、みなみは思わず顔を上げた。

 幸い疑問を持ったのはみなみだけではなかったようで、口々に飛び出す質問。

「あ? どういう意味だ?」

「えー、じゃああたしも頑張るから一緒にやろー?」

「はは、気持ちは受け取っておく。でも、なんだろうな。俺が生きてきて、ひょっとしたら木下だけかもしんないと思ってるから、〝頑張る〟のハードル高いよ?」

 くすくすと、涼真は笑って言う。

「少し自問自答してみて気が付いた。木下ってさ。目先に迫ったことに対して当たり前のように努力をする子なんだよ。俺に付き合わせたり、木下に付き合ったりしたんじゃない。……たぶんそう思ってたからこそ、あの球拾いは良くなかったな、うん」

 そう、周りがきょとんとする中で一人涼真はうなずいて。

 壁の向こうでみなみがぼうぜんとするのを、何も知らずに彼は言う。

「だから要は……自分の目的に真摯な人が、たぶん……俺は好きなんじゃないかな」

「……ぁ」

 ──その肯定がどれだけ大きなものか、涼真は分かっているのだろうか。

 頑張ることしかできなかった、その頑張りも正しい努力なのか分からなくなっていた。そんな状況でポロッと、木下みなみだから一緒に居たと言ったのだ。

 彼女の知識に頼ろうとしたわけでも、経験者からの教えを目的にしたわけでもない。

 これまで、間違っているかもと思いながら、先の見えない霧の中で続けていた努力そのものを、好ましいと言ってくれた。

 これまでの、自分自身でさえ疑っていた自分の存在価値、自分の半生を認めてくれた。

 潤む視界を自覚した。足元がぐらつくのを自覚した。る顔の熱を自覚した。

「楽しいよ、あいつと話すの」

 そう笑う表情を見たいのに、前が見えなくて喉が引きつって動けない。

 ──声をかけてくれたのは、わたしが分かりやすく疲れていたから。そう思っていた。

 ──勉強に誘ってくれたのは、埋め合わせというあなたの善意。そう思っていた。

 ──練習に付き合ってくれたのは、わたしに利用価値があったから。そう思っていた。

 ──だからそれ以上を望むなんて、考えられないくらいの強欲だ。

 そう、思っていたのに。

 だい涼真は、木下みなみと一緒に居ることを、楽しいと思ってくれている。

 木下みなみを、好ましいと思ってくれている。そう知ってしまったら、ダメだった。

 あんなに必死で並べていた、己を律する言い訳が、全部そろってとろけて消えた。

 タガが外れたその瞬間、驚くほど簡単に、己も知らない本能が勝手に口を動かした。

「……好き」

 自覚してしまったその瞬間、今度は理性のはじけ飛んだ己の心が素直に言った。

「好きです」

 一生表に出すつもりもなかった、そもそも知りもしなかった偽らざる本心が叫ぶ。

「あなたが好きです」

 全ての感情に蓋をして一緒の時間を過ごしていた、ずるいみなみは消されてしまった。

「わたしは、あなたが大好きです」

 涙混じりの告白は、幸いと言うべきか。

 誰の耳にも、届かなかった。