放っておけない感じの子?


 今日の昼の弁当はキャラ弁だった。子供の頃好きだった電気ねずみの。海苔のりで「がんばれ」と書いてあったので、とてもではないが人に見せられないと改めて意志を固くした。

 なにが頑張れだよ、全く……。

 昨日と違って余裕のある時間に教室に戻ってくると、何やら後方でめ事の気配。

 今度は何があったのかと様子をうかがうと、騒ぎを遠目に眺めている雑賀さいかと目があった。

 やれやれ、とばかりに首を振っているところを見ると自分で干渉するつもりはないらしいが……あの目は完全に、りょうはどうするんだ、とでも言いたげだ。

 うわあ……見たくない……何が起きてるんだ……?

「──もう少し周りのことを考えてくださいと言っているんです」

 声を荒げるようなことはないものの、有無を言わせぬとばかりの風紀委員さんの一喝。

 向き合っているのは、いつも声の大きい女子数人のグループだ。おい雑賀の仲良しメンバーじゃないか、お前がどうにかしろよ……。

「そこまで言うことなくない? ちょっと借りただけじゃんね?」

「ねー」

 顔を見合わせて同意を募る女子三人。木下がかばうように立っているのは、俺の漫画仲間のこうだった。そして借りただけ……ああ、状況が分かった。

「でも、無許可で人の机を占有すれば、河野さんが困ることくらい分かるでしょう」

 要は女子グループが昼休みに河野の机と椅子を勝手に使っていたということだった。

 確かに彼女らのうち二人の席が河野の席に近く、河野の椅子さえ借りれば手軽に三人で仲良くお話ができる。彼女らの理屈としてはそんなところだろう。

「えー、ほんと? 困ってた????

「え、いや……おれは……別に……」

 ヘビににらまれたカエルのようだった。問いかけというには随分と圧の強いパワハラじみた言い回し。当然、それを木下が見過ごすわけもない。

「ほら、別に構わないって」

「構う構わないの問題ではないですよね。勝手に使っていた事実は変わりません!」

「え、でも木下さんさー、困るからやめてって言ったんだよね? 困ってなくね?」

「それはっ……!

 揚げ足取りで言葉に詰まったところで、後ろから河野がぼそっと言う。

「もういいって、木下」

「えっ……」

 理解できない、とばかりの木下の瞳から、河野はさっと目をらした。

 味方をしたつもりが背中から刺されたような状態になってしまった木下がぼうぜんとしていると、女子グループは話を終えようと畳みかける。

「ほら、河野くん? だっけ。も、そう言ってるしさ、木下さんのやってることって単なる余計なお世話っつーか──」

 ……だーもう、くそったれ。俺の居ないとこでやってくれこういうの。

「……どうしたんだ? 戻ってきたら随分けんのんな雰囲気だけど」

「──え、あ、涼真くんっ」

 ころっと表情を笑顔に変えた女子に、俺も笑いかけておく。

「五代、さん……」

 きゅっと唇をんでいる木下と、俺からも目を逸らす河野。

 河野はたぶん、バツが悪いというか、情けないんだろう。握った拳がそう言っている。

「や、ちょっと木下さんにさー、河野くんの机借りただけで怒られちゃってー」

「なるほど」

 自分たちは被害者です、というわけか。

「木下」

 声をかけると、明らかな不満を抱えた様子で俺を見上げる木下。

「少し気分悪そうだし、授業の前に少し保健室で見てもらった方が良さそうだけど」

「えっ……。……そう、ですか。分かりました」

 半信半疑、といった様子で木下はうなずいた。実際気分は悪いだろう。

 彼女は他人の悪意に全く傷つかないような無敵のメンタルを持つ女ではない。そんなことは既に分かり切っている。こんな状況になると分かっていて踏み込むなんて、何が木下をそうさせるのかを知る必要はあるけれど。

 おぼつかない足取りで出ていくのを見届けて、俺は一つ息を吐いた。

「じゃあ次からは如月きさらぎの机を使えば解決しそうじゃないか」

「えっ……あ、の?」

「ああ。普通に学校に居る河野より、休みがちな如月の方がいんじゃないか」

「いや、それは流石さすがに亜衣梨にちょっと……」

 亜衣梨に、というより周りから亜衣梨のことを雑に扱っているように見えるのがい、か。河野はよくて如月はダメ、分かりやすいな。

「俺からあいつに言っておくよ」

「や、ほんとそこまでしなくていいから! ありがと涼真くん!」

 そう言って女子たちは慌てて話を切り上げた。それはそうだ。如月にこの話が伝われば、都合が悪いだろうしな。

 俺が軽くしゃく程度に応じると、ニヤニヤした雑賀が歩み寄ってきた。

「もうなずけたのか? 木下チャンがあんな簡単に引き下がるなんて初めてじゃねえの」

「人聞きが悪すぎるな。何もしてない」

「ほーん……そのうちうっかりれられたりしてな?」

 木下の出て行った方の扉を眺めてまいごとをほざく雑賀に、俺は一つめ息を吐いた。

 確かに、誰かの問題に付き合うと、たまにそういう感情を抱いたり抱かれたりということは、なくはない。でも……しょせんそれは一過性のものだ。

「そうなって欲しくはないし、そうするつもりも無い。少なくとも、木下から俺に対してそういう感情が生まれたとしても、長続きするはずもないしな」

 俺は俺の外面の良さは自覚しているから、話したこともない相手から愛の告白を受けることもある。でも、そんなの一瞬のことだ。恋の熱なんてものを、俺は信用してない。

 俺と居続けるのは疲れるし、しんどい。……なんて、アホほど聞き飽きた台詞せりふだ。

「ひゅー、相変わらずだな涼真は。その言い方だと、お前が木下チャンに惚れるケースも無くはない、みたいに聞こえるが?」

「はは、確かに。未来のことは分からないし、もしかしたらあり得るかも」

 なんて雑賀の言葉に適当に合わせながら、ふと思う。もし本当に俺が木下きのしたに入れ込むようなことが起きたとしたら……まー、俺は初めて失恋を経験するのかもしれないな。


五代涼真:あとで埋め合わせをするから


 雑談の片手間に、木下に一言メッセージを入れておく。

 すぐに既読になったが、返事は無かった。俺は顔を上げてニヤニヤ雑賀に向き直る。

「それより、雑賀」

「なんだよ」

「お前の周りの女、もう少しどうにかしたら?」

 そう言うと、雑賀は少し目を丸くして、それから嫌そうに表情をゆがめた。

「フッた女どもの面倒なんか見たくねえんだけどな」

 へえ。ならむしろおあつらえ向きじゃないか。全員雑賀にフラれてんのか、あのメンバー。

「俺にばっかり押し付けるな。クラスの雰囲気を保ちたいなら、お前が働け」

「ちっ。言うこと聞くだけのつまんねえ女どもなんざ、願い下げなんだがなあ。木下チャン相手にするよりはマシっぽいけど」

「さて、どうだろうな」

 肩をすくめて、放課後どうするか思案を始めた。

 木下はそのあとすぐ、けなにも戻ってきて五時間目に参加していた。


    


「埋め合わせってなんですか?」

 その日の放課後、昨日会った本屋で木下と合流した。

 首をかしげている彼女の様子は、変わらず疲労がにじんでいる。

「その前に一応確認したいんだけど、もう帰って寝たかったり?」

「えっ? 流石にこんな時間から寝たりしませんけど……」

 時刻は午後3時過ぎ。試験期間が今日から始まって、部活も禁止になった。

 今の学生に求められていることは、速やかに帰宅してテスト対策を重ねること。

 木下の疲れ次第ではこれからやろうとしていることを断念するのも視野に入れていたが……そもそもこの生真面目な子に、試験期間の一日目を寝て過ごすなんて選択肢は無かったようだ。

「じゃあ良かったら、少し付き合ってくれないか?」

「付き合う……?」

 げんそうな顔をする木下。

 しかし何かに気付いたように、悔しささえ滲ませて彼女はつぶやく。

「すみません。わたしなんかがあなたのお誘いを断るのもどうかと思われそうですけど。五代さんと違って、試験期間中に遊んでいるような余裕はわたしには」

 んんん、俺の言い方が悪かったな!

「ごめんごめん、俺だって遊ぶつもりはないんだ」

「え……でも今」

「付き合うってのは、テスト勉強のこと」

 一瞬、ぽかんとした顔をする木下。

「……? 勉強って一人でするものじゃ」

 あー、うん。この、誰かと勉強なんてしたこともなさそうな顔!

「と、とりあえず行こう行こう。家の最寄り駅どっち方面?」

「最寄りですか? 降りる駅はしばさきですけど」

 方面だけでいいのに不用心な子だなあ!

「あまり自分の最寄りの駅まで言うものじゃない。女子が一人で帰るんだ、そのあたりは気を付けた方がいいよ」

「えっ……あ、ご、ごめんなさい」

「謝られるようなことでもないが……んじゃこくりょう辺りが良いか」

 最寄り、柴崎か。俺の家からもランニングで行けるくらい近いところに住んでるな。

 今は関係ないけど。

 そんなわけで俺たちは高校近くの駅から電車に乗って、あまりうちの生徒が居ない駅に向かうことにした。駅近くにフードコートあるし、定期圏内だし。

「勉強のためでしたら、近くの図書館とかでもいいのでは?」

「小声でしゃべることすらできない場所はちょっとな」

 それから、うちの生徒にできるだけ見つかりたくないってのもある。

「そういうものなんですか……」

「悪いな、付き合わせて」

「いえ……ただ」

 電車に乗り、ドアに寄りかかる木下とその前でつり革をつかむ俺。

 顔を上げた彼女と目が合うと、困った様子で言った。

「どうしてわたしなんかを」

「誘ったのかって?」

 そう問えば、自信無さげに、こくんと小さく頷いた。

 なるほど。最大の目的は木下と話すことではあるが、言われてみれば埋め合わせに勉強に誘った理由は特にないというか、不思議と自然にそうしようと思ったな、俺。

 ファーストフードでも、それこそ遊びに誘うでも良かった。勉強に誘おうとしたのは、確かに試験期間中に遊びについてきてくれそうな子ではなかったというのもあるが。

 俺だってテストには備えたい。常に個として完璧であるために、無駄な時間は作りたくない。そういう意味で言うと、俺は無意識に、木下と一緒にテスト対策をすることを、無駄な時間だと思わなかったようだ。

 思えばいつも俺にテストの順位で勝負を仕掛けてくるおうが、木下もライバルとして挙げていたし、木下の成績が良いことは脳裏に刻み込まれていたのかもしれない。

 そんなことを考えながら木下を見下ろすと、何やら俺の返事を恐る恐る待っていて、不安そうだった。

 わたしなんか、っていうくらいだし、やっぱり随分自己評価が低いらしい。

「あまり考えてなかったんだけど、たぶん木下なら頼れるかもと思ったんだ」

「……へ?」

「俺もテストで下手は打ちたくないし、間違いそうなとことか相談できたらって。クラスでそういうこと出来そうな人が他にいなかったし……それに木下にとってもマイナスにはならないと──」

 俺、今のとこ学年一位だし、と木下のメリットを伝えようとして、ふと言葉を止めた。

「そう……ですか。わたしが……」

 そっと自分の胸に手を当てて、呟かれる万感籠った言葉。どんな気持ちで言ったのかを正確に推し量ることはできないが、いくつもの感情が乗っているように聞こえた。

 もう一度俺を見上げる彼女の瞳には、少しだけ光が戻っていて。

「期待に添えるかは、わかりませんが」

 そう困ったように笑う彼女は、もうこの〝一緒に勉強〟イベントに、特に疑問は持っていないように見えた。

「……がんばらなきゃ」

 ぽつりとそう言って、なんだか拳を握っていた。


    


 一緒に勉強イベントの開催会場は、複合商業施設の中にあるフードコート。

 各駅停車しか止まらない駅で降りて、さらに幹線道路を5分ほど歩くともあって、知り合いの遭遇率も低いので俺個人としてはお気に入りの場所だ。

「そういえば、それも意外でした」

「それっていうと?」

 目を向ければ、わずかに距離を取って隣を歩く木下の上目遣い。

「五代さんって、それこそ繁華街でいつもご友人とパーティしているものと」

 純朴な瞳から発せられるトンデモイメージ。毎日パーティ?

「そんなことしてたら俺の小遣い三日で消えるな……」

「え、お小遣いなんですか? その、本当は新宿のホストでナンバーワンしてるとかではなく? 宣伝トラックの横に写真が大きく載ってたりは?」

 なんて???

 いや落ち着けりょだいごうま。違う五代りょう。お前は完璧な男だ、こんなトンチキなイメージのままで居ることなど我慢ならないだろう。

「そんなことしたら親に泣かれるじゃ済まないよ。……というか木下の中の俺のイメージどうなってるんだ? ホスト? ナンバーワン? 宣伝トラック?」

「す、すみません。確かに、居ないなあとは思ってたんです……」

「居ないなあってなに、トラックとかビルの上に並んでるホストの看板から俺を探してたってこと???」

 どういう面白街巡り??

「いや、あの、ちがくてですね! 知り合いの居ない場所を探して小さな駅で降りたりする人なんだな、っていうのが意外だったんです!」

 窮したのか、必死の弁明だった。いや怒ってないけども。

 それにしても……意外か。

 無干渉を貫くいっぴきおおかみはそれはそれで〝欠点〟として見えるから、当たりさわりのないように周囲とコミュニケーションは取っている。自然に人の輪の中にいるようにもしているけれど……反対に、一人で居る時間も意識して取っているつもりだったから、完全なパリピとして見られているのは少し失態だな。今後の身の振り方を調整しよう。

 一人で居るのが珍しいと思われると、それはそれで余計な心配を買ったりするし。

「じゃあ、ここを俺がよく使うことは黙っておいてくれよ?」

 そう笑いかける。

「はい。言う相手がいませんから大丈夫です」

 俺の笑みが凍り付いた。今すごいさらっと寂しいこと言ったなこの子。なんでそんな、自信満々の顔してるの? 信じてくれていいですよ、みたいな顔してるの?

「……だいさん?」

 こてんと首を傾げる木下きのした

「いや、なんでもない。適当に何か飲み物買って、始めようか」

「はい」

 自分が何言ったかも気付いていないようだし。

「……フードコートに来るのなんて、何年ぶりだろ」

 そんな風に呟いて、あれこれと店を眺めている木下を見て思う。

 最近の木下が以前にも増して張り詰めてしまっている原因は分からない。

 純粋にうまくいかないことにいらっているのかもしれないし、別のあせる理由があるのかもしれないし、そのあたりは憶測で語るわけにはいかない話だ。

 ただ、雑賀さいかの言うことが分からない俺ではない。このまま放っておけば、きっとよくないことになる。というより、なんというか。

 いつも一人で居るくせに自分の最寄り駅を普通に口にしたり、さらっと孤独であることをなんでもないように口にしたり、フードコートに感動している顔を見ていると。

「うーん、無理」

 これを放っておくのは無理。誰も手を差し伸べないならなおさらだ。

 干渉することを決めてしまったきっかけの涙声が脳内にリフレインしてめ息。

 俺はつくづく、自分の決めたルールを守る意志が弱いみたいだ。

「……」

「……」

 飲み物を買って、追加でファーストフード店でポテトを頼んだ。

 筆箱とノートを取り出して、向かい合った席で勉強を始めた。

 それからというもの、30分くらいは普通に集中していたように思う。図書館よりもうるさく、繁華街の雑踏よりも静かなこのぐらいのバランスが、俺の好み。

 きりのいいところで一息つくと、視線に気づいた。顔を上げれば、ペンを握る俺の手を見つめていた、木下の大きな瞳。

 険のない素朴な表情だと、やっぱりわいいなこの子。普段、苛立ちやつらさで細めたり伏せたりしがちな彼女の目は、彼女の印象を大きく変えてしまっているんだろう。

「……どうした?」

「あ、いえ。ごめんなさい。失礼なんですけど……ほんとに勉強するんだなって」

「そりゃ、やらなきゃ成績落ちるからな」

「そうですよね。……そう、ですよね」

 自分に言い聞かせるような、木下のつぶやき。

 改めて勉強中の彼女を見ると、まだ中間試験だと言うのに数Ⅱのノートはページが半分を超えていて、ほぼシャーペンでびっしりと数式が刻まれている。

 教科書もとても新品とは思えないくらいに開かれた痕があって、白いペンケースもなんだか、黒鉛で薄汚れておしゃれとは程遠い。

 如月きさらぎの私物なんかと比べたら一目瞭然だろう。まあ彼女も去年は結構ボロいものを工夫しておしゃれに使っていたが、木下はそっちに気を配るような発想もなさそうだった。

「木下もそう思ってるんじゃないのか? ちゃんとやらなきゃって」

「それは、はい。頑張らなきゃ、置いていかれると思っています。わたしは人より要領が悪いから、なおさら頑張らなきゃって。……でも、五代さんは違うと思ってましたから」

 あー、なるほど。

「勉強しなくても良い成績が取れているものだと思ってた?」

「……ごめんなさい」

 その謝罪もまた本音っぽくて、俺に対する誤解がすごい子だとも分かった。ただ、さっきの謝罪とは違って、少しだけ口元が綻んでいる。

「あなたも頑張っているんだと思ったら、失礼ですけど少しだけほっとしました」

「……ほっとした?」

「あ、いえ、なんでもないです!」

 ぶんぶんと首を振る彼女の頰は少し赤い。何が恥ずかしかったのかは、いまいち判断がつかない。

 くるくるとペンを回しながら、俺は言った。

「自分が目的のためにする努力くらい……当たり前のことだからな」

 ぽつりとこぼした言葉は、割と本音だった。

 人が求めているものを手伝って、逆についていけないと言われ続けて。

 誰にも理解されないと思っていても、結局信条は変わらない。俺にとっての当然。

 だから、木下からさらっと答えが返ってきた時、思わず顔を上げた。

「わたしもそう思います」

 話を俺に合わせている感じもしない。俺と同じ認識のやつが居るとは、と。

 ただ、その言葉は徐々に弱弱しくなっていく。

「たとえ今がどれだけいたらなくても、目指すものに向かってできることから練習して繰り返して、そうしたらいずれ……」

 きゅっと自分のシャーペンを握りしめる、彼女の小さな手。

「木下?」

「……いえ、なんでもないです。いずれ届くと思って頑張ってたんですけど」

 木下は、諦めたように笑って言った。

「なんだか最近、そもそも頑張ってるものが違うんじゃないかって気がしてるんです。今までの全部、無駄だったんじゃないかなあって」

「成績、ついてこないのか?」

「成績は……どうでしょう。手応えはあったりなかったり。でもそもそも、勉強を頑張ることが合ってるのかどうかも分からなくて……」

「……」

 うつむいて、零れ落ちた木下の疲れた言葉。

 俺が何を返すべきかと考えていると、それより早く木下は首を振った。

「ごめんなさい! そんなこと言ってたらダメですね。五代さんは、そんなわたしに勉強で頼れることがあるかもって言ってくれたんですから」

 無理やりに作った笑顔であることは分かっていても、ここで踏み込むのは空気の読めないバカだ。彼女と俺の関係で俺が何を言ったって、今の彼女には響かない。

 だったらむしろ、彼女の空元気に付き合ってでも、やる気になっていることを一緒にやる方がずっといい。

「そっか。そうだな。じゃあ、さっそくちょっと聞きたいんだけど──」

 そう言って、ノートの記述を彼女に見せる。

 俺だって最初から全てができるわけではない。課せられたものを、完璧に成し遂げるからこそ完璧な男。本番までに出来るよう、それまでは努力を積み重ねるのみ。

「えっとですね、ここは……あれ、ちょっと待ってください。たぶんさっきやったところで……あ、これですこれ、教科書借りますね? これを引用して──」

 俺に問題の解き方を話す彼女は、少なくとも俺が今まで見た中では一番生き生きしていて、友達がいないというのも不自然に映った。

 人と話すことが嫌いというわけでは、なさそうだから。

 だから、もう18時になると気づいた木下は随分と驚いていたのだろう。

 俺にとってもそうだが、楽しいと時間はあっという間だ。


    


 フードコートに差し込む日差しが赤く染まり、ノートと視界の間をちらちらと邪魔してくるようになった頃。そろそろ引き上げ時かと、健全な時間に帰路を歩み始めた。

 並んで歩く幹線道路沿いの広い歩道に、俺と木下の影が伸びる。

「今日は、ありがとうございました。楽しかったです、ほんとうに」

 お世辞が言えるような子じゃないし、本心なのだろうと思って、俺もうなずいた。

「埋め合わせになったなら、何よりだ」

 そう言うと、一瞬木下は固まった。俺もつられて足が止まる。

「木下?」

「あ、いえ。そうですよね、埋め合わせ……」

 小さく呟いてから、俺を見て木下は頭を下げた。

「付き合ってもらえて、うれしかったです」

 あー……。この、俺が10─0で施してるみたいな言い方……。

「埋め合わせって言い方が悪かったか。別に、嫌々木下に付き合ったわけじゃないんだから、俺が恩に着せたみたいな言い方しないでくれ」

「え、でも……」

「埋め合わせは口実ってことで」

「口実?」

「そ。木下に色々教えて貰うための、みたいな?」

 冗談交じりにそう言うと、木下は一瞬あっけに取られたような顔をしてから、俺から目をらした。

「本当に……五代さんは、優しい人ですね。なんでもできて、努力も惜しまず……それでいて、わたしなんかでも楽しく話せる……本当に、羨ましい」

「羨ましい?」

「あっ、えっとその」

 独り言だったのかもしれないが、耳が拾ったんだから仕方ない。

「やっぱり口実っていうのやめようか。埋め合わせは埋め合わせだ」

「え?」

「木下はちゃんと風紀委員としてやらなきゃいけないことやってたのに、俺が余計な茶々入れしたからな……なのにテスト対策は俺の方が世話になったから、まともに埋め合わせできてないよな?」

「い、いえ、そんな。だってわたし、こんなに勉強で楽しかったの初めて──」

「まあまあ。そんなわけで今なら何か、俺が木下きのしたに協力できることならしようかなって」

「えぇ……?

 流石さすがに少し無茶苦茶だったか? と内心で思いながらちらりと見れば、脱力した木下が俺を微妙な顔で見つめている。

「協力……と、言われても」

「なんか今まで誰にも話してない悩みとかでも良い。意外と俺は、人の悩み相談に乗ったりもするんだ」

 ……まあ、完璧にうまくいったかは別として。

「そういえば昨日も、だいさんはそんなことを言っていましたね。何か悩みがあれば、と。……わたし、やっぱり分かりやすいんでしょうか」

 俯く木下。分かりやすいかどうかで言えば……どうなんだろうな。

「誰にも言ってない話なら、一つくらい吐き出し先があっても良いと思うよ」

 そろそろ木下の中での俺の認識も、急に出てきた変なヤツから、それなりに話をしても良い相手になっていることを願いつつ、軽く言ってみる。

 ここで断られてしまうと、あまりのガードの固さに俺がくじけそうになるんだが……存外、今日のことは彼女にとっても俺に少しは心を許してくれる機会になったようだ。

「……五代さんの、ご迷惑でなければ」

「ああもう、全然」

 そう言って笑うと、彼女は何やら、はっとしたような顔をして言った。

「面倒臭くなったら、その場でそう言って貰えれば大丈夫ですので!」

 んな畜生居てたまるか。

「大丈夫。木下が思っているより、俺に手間はかからないから」

「……そう、言って貰えるのなら……」

 少し間が空く。悩むように目を泳がせているのは、言葉の切り出し方を考えているのだろうか。駅への道を殊更ゆっくりと踏み進めながら、木下を待つ。狙っていたわけではないが、のんびり歩けるという意味でも、人の少ない駅を選んで正解だったな。

「──小学校の頃から、まじめだね、って言われてたんです」

 ぽつりと呟かれた独白に、視線を向ける。俯いたままの木下の感情は、自罰的……いや、自嘲と言った方がいいか。

「最初はそれをめ言葉だと思ってました。成績は……それなりでしたし。たぶん、人と比べても悪くはなかった。だから、このまま頑張ろうって、生きてきました」

 瞳が揺れていた。潤んでいるのとも違う、道に迷った孤独を思わせるような目。

「自分のやってることが正しいんだと思ってたんです。ちゃんと授業を聞いて、成績を伸ばして、先生に褒められて……みんなわたしみたいだったら良いのにって言ってくれて、それが誇らしくもありました。……でも、ある時、同級生に笑われて」

 小学校の記憶が、随分と根強い。単に記憶力が良いだけではなく、きっと衝撃と一緒に刻まれているからだ。

 となれば、これは木下のトラウマにも近い話か。

「──先生の言う、みんな木下みたいなら良いのにというのは、先生にとって都合が良い楽な子どもってだけで、お前が優れているわけではない……って」

「なるほど。随分口の達者な子どもが居たんだな」

「その達者な子と違って愚かなわたしは、最初は意味が分からなかったんです。でも、中学生になって、だんだん……」

 きゅっと唇をかみしめて、木下は続けた。

「勉強しなくてもわたしより成績のいい子も増えてきて……先生やクラスに迷惑かけているのに慕われている子が増えてきて……誰かがされて困ることをしているのに、それが当たり前のように許されているのを見ていると、何が正しいのか分からなくなって」

 それで、と彼女はきゅっとスカートの裾を握りしめて、自嘲の笑みを浮かべてつぶやいた。

「気づいたら高校生……クラスの邪魔者になってました……」

「そう、か」

 ……いや重いわ!!

 びっくりするくらい重いうえにお前何にも悪くないじゃん!

 その口の達者なクソガキを殺そう。そうしよう──と待て待て。

 五代りょうは完璧な男。五代涼真は完璧な男。俺の怒りより優先するものがあるだろう。

「で……木下はさ。それでも風紀委員会に入ったんだろ? それはどうして?」

「向いてるからと言われたんです。他になる人が居なかった、とも言いますけど」

「じゃあ、誘われなければ入ってなかった?」

「……どう、なんでしょう」

 ぼんやりと空を見上げて、思案する彼女。

「曲がったことは、嫌いでした。誰かに迷惑をかけるようなことが、特に。小学校の時から、それは変わっていません。だから昔なら自分から入っていたかも……?」

「今は何が違うんだ?」

 そう問うと、彼女は小さく頷いた。

「わたしが気に入らないと思っていることは、単にわたしが嫌いなだけで、周りから見たらわたしの方がおかしいのかなって、最近思ってて……だから、自分が取り締まる側になっていいのか自信がなくて、自分から入ったかどうかは分かりません」

 だってのに、やるとなったらあんなふうに苛烈にやってしまう、と。

「……迷ってても頑張って活動してんのは、やっぱり風紀委員であるからには風紀委員の仕事をしないと風紀委員会に迷惑がかかるから……とか?」

「そういう気持ちの、はずです。でも……」

 ふ、と小さく笑う木下。その笑い方は決して、いいものとは思えない悲しい笑み。

「……わたしが目の前の違反行為を、ただ気に入らないから文句を言っているだけなんじゃないか、って聞かれたら否定できる自信もない……。わたしが間違ってるのかも、って思いながら、わたしが間違っていることを認めたくもないんです」

 吐き捨てるように、木下は呟く。

「身勝手な……話です……」

 責任感が強くて、真面目で、だから自分にも厳しくて、そのせいでがんじがらめになっている……そんな気がした。

 自分が見ていて嫌なものが、目の前にあったとして。それを、自分が嫌なだけで周りは気にしていないから放置した方がいい……なんて普通の人間は考えない。自分の生きてきた中でつちかった価値観で、正しいと思っているものを間違っているかもだなんて疑えない。

 思い返すのは彼女が勉強の時に言っていた言葉。頑張ることは当然だと思っていても、努力の方向そのものが間違っていたのではないか、という重い疑問。

 長い時間を費やしてきたものを無駄だったと認めるのは、大変なことだ。

 五年頑張ってきた競技を、才能がないと割り切って辞めることが難しいように。

「……そのせいで、最近親ともうまくいっていなくて」

「親御さん?」

「できることは、全部やっているつもりでも……学校はどうだとか、色々聞かれて、うまく答えられなくて……自分が嫌になること、ばっかりです」

 出てきたな、最近の話。直近の木下の様子がおかしい理由。

「適当に話を合わせる、なんて手段もあるとは思うが」

 そう聞くと、木下は緩く首を振った。

「あまり、うそきたくないんです。お母さんは、一人でずっとわたしを育ててくれて……。って、冷静に考えたらひどいですね、結局お母さんとけんしてるんだから。だったら確かに、噓でもわたしを気にしないで良いようにしておく方が正しかったのかもしれません……そんなことも、思いつかなくて……」

「木下は真面目だなあ」

「……そう、ですね。それだけです」

「もっとラフに考えてもいい、と言っても、真面目な木下には難しいと思うけど」

 そう言うと、木下の表情がこわった。自分の悩みを気楽に構えろと言われたところで、簡単にできるなら苦労しない。その通りだ。でも。

「気に入らないものに気に入らないと言うのは、人間普通のことだよ。それを排除しようとし始めたら、確かにちょっと行き過ぎだけど……でも木下のこれは、ルールの話だ」

「そうでしょうか。わたしは今のわたしが普通だと言われても、素直に喜べません……」

 消え入るような言葉。実際そうだ、現状が普通なのでそのまま人生頑張って、だなんて今の木下に告げるようなバカは居ない。

 俺は首を振って、努めて明るく振る舞って言った。

「大丈夫だよ、木下。木下が思う正しいことを押し殺す必要はない」

 木下が置かれている状況を、俺はどうにかしたいと思った。それがまた、〝やりすぎ〟で、木下から「もういい」と言われる可能性は、もちろんあるけど。

「……五代さん、それは、どういう」

「まあ、聞いてくれよ」

 ほうけた表情の木下に笑いかける。

「木下は俺のこと、羨ましいって言ったろ?」

 瞬間湯沸かし木下。

「えっ、あっ……そ、それは忘れてください!」

「やだ忘れない」

 一人で居ることが当たり前になっていても、俺との時間を楽しんでくれたこと。俺に勉強を教えようとする時、本当に楽しそうに見えたこと。この子は寂しがりを通り越して、状況が孤独にさせているだけの普通の子であること。親と喧嘩しただけで、独り傷つくような子であること。

 全部忘れない。

「友達作ろう、木下」

「……えっ?」

 努力の方向が間違っている。それは残酷だが確かなことだ。

 ていうか話聞いてたらもうこれしかないだろ。

 あっけに取られた様子の木下きのしたに続ける。

「俺が保証する。友達増えれば全部解決するから」

「……とも、だち」

 おそるおそる木下はスマホを取り出した。LINEの友だちリスト……おい噓だろお母さんとだいさんしかいねえぞこの女。

「このリストのことですか?」

 なんだその純朴なきょとん顔。

「う──んまあそうだな! たぶん辞書引いたらLINEの友だちリストのことである、とは書いてないと思うが! 似たようなものではあるはずだ!」

「そう……ですか。でもわたし、五年で一人ペースなんです……」

「んなもん今から変えてやる」

 そう言うと、はじかれたように顔を上げる木下。

 俺は努めて軽く、笑いながら今後の目標を定めた。

「友達と一緒にテスト勉強なんて、珍しくもなんともないことにしよう」

 その時のぼうぜんとした木下の顔が、なんとも忘れがたいくらいには面白かった。